天童荒太(作家) ・「フクシマの海」 鎮魂と再生の物語
「ムーンナイト・ダイバー」は震災から5年が経とうとする福島の海が舞台です。
表現者として震災とどう向き合うか、ずーっと考えてきた天童さんが生み出した、亡くなった方達への鎮魂と残された人達の生きる意味を問う、希望の物語として話題になっています。
天童さんは1960年愛媛県生まれ、55歳。
明治大学文学部演劇学科を卒業後26歳の時に、「白の家族」が野性時代新人賞を受賞作家デビュー 、2000年には児童虐待をテーマとし、虐待を受けた子供たちのその後のドラマを書いた「永遠の仔」がベストセラーに、2008年の「悼む人」では直木賞を受賞、不慮の死を遂げた人々に祈りをささげる主人公を描き、映画化もされました。
天童さんは傷つけられ虐げられた人に寄り添った作品を生み出していて、一つの作品に何年もかけて取り組む作家として知られています。
そんな天童さんが震災5年を前に、福島の海を舞台にかいた小説に込めたものは、人は苦しみを抱えながらも、明日を生きるための希望を見出せると言うあらゆる人に向けた普遍的なメッセージでした。
震災に対して小説を書くことは全くなくて、大きな災害であり、ドキュメンタリー、ノンフィクションがその任であろうと思っていましたし、小説は嘘を使って真実を語ると言うのが基本なので嘘は必要ないと思っていました。
被災現場に伺う機会があり、「悼む人」という作品はあらゆる人の死を平等に悼むと言う話で、あらゆるの死をどうとらえるのか、1万人を超す方が亡くなったり行方不明の方がでる状況の中で、悼むと言うことが可能なのかと言うことを作者としてどうとらえるかと言うことを頂いて、被災地に行きました。
被害のあまりの大きさが肉体で実感できる。
映像はある種の見せ場になる様な表現で、ピックアップして編集するので実測が判りにくい。
どれだけ大きい被害があったのかを実感した。
TVで判った様に気になってはいけない、その時起きたことを肌で感じる事はできないと思い知りました。
人の死を数字にしない。
数字の大きさで被害の大きさが計られていき、数字の大きさで悲劇、悲しみの深さ、大きさを計ろうとしてしまっている。
数の大きさでは決してない、家族にとっては1/15000人ではなくて、それがすべて100%なので、そのわきまえみたいなものを決して失ってはいけない。
悲しみに対して、我々の生き方暮らし方をもう一度見直す、警鐘として受け止める流れがあって、人と人との繋がり合おうと、人と共に生きてゆく感覚をもっと大切にしようということで絆というシンボル的な言葉も生まれたが、半年、1年とたたないうちにどんどん忘れられてゆき、競争社会、格差を是認する社会になっていったし、目先の利益を追いかける社会にどんどんなりつつある。
それに対してなんでこんなことになってしまったんだろうと、社会全体がモラルを失って、大切な中心部門で粉飾、偽装、嘘をついて、嘘をついた事をだれも責任を取らないとかそんな社会になってしまった、この国は本当に美しいのか、豊かと言えるのだろうかと思った時に、何が一番の原因だろうと思う時、震災とか、震災によって起きた人々、悲しみをどんどん見ない様にしてきたことが根底にあるのではないかと思った。
放射能汚染の問題で多くの人が避難しているが、段々麻痺したり忘れて行ったりしている。
辛いこと、悲しいこと等に見ない様にすると言う社会の在り方が日本全体の人々に対して、もし自分たちがつらい立場になった時には忘れられてゆくのではないか、この社会は見ないことになってしまうのではないかと言う様な強迫観念が深層心理の中に植えつけられてしまったのではないか。
自分を判定する方々から置いていかれる、忘れられてゆくという無意識の強迫観念があるのではないか。
モラルを崩しても成績、成果を上げようとして、長期的には物凄い損失になると言うのに。
しっかり向き合うことによって目先ではなく、長きにわたって本当の幸せとは何か、豊かさをかんがえられるようになる社会になるではないかと思って、嘘を持って真実を語る世界になると思った時に、これを書こうと思ったのがその経緯で、2年前でした。
小説なら何が出来るだろうと考えて、被災地、放射能汚染区域に行って、海にさらわれた街、海に失われてしまった人々の笑顔、愛を救いあげてくることは小説しか出来ないと思い、海に潜ろうと、海に潜る話にしようとして、その時に出来ました。
「ムーンナイトダイバー」
月夜に人目を避けて汚染された海に潜って、津波にさらわれ、海に沈む街から大切な人につながる遺品を捜す男性、ダイビングインストラクター船作が主人公。
小説は人の心は目にはみえないが人の心を見せることが出来る、見えないものをいかに見せるか、底に隠れている真実、愛の真実、悲しみの底にあるきらめきみたいなものをどう見せられるかを凄く考えています。
原子力発電所の近くの街にうかがって、主人公たちがどういう場所を見て、どういう港から船を出していけるのかと言う事を見つける様な短い旅を昨年してきました。
被災直後から変わってない場所が残っている。
その前には海がひろがっていて、海はこの街を人をさらっていったが、海は穏やかで何の悪意が無い。
海に潜ることを仕事とする主人公、一人ひとりの抱えている悲しみ、重さをしっかり自分自身の魂から出る声として、骨の髄からでてくる溜息、涙になるまで深く潜っていかないと、現実に辛さを抱えている方がいるので、僕は表現が終えると海面に浮き上がることが出来るが、その方々はずーっと海面に浮きあがってこれないものを抱えている方々がいるので、表現者としてしっかり向き合わないといけないとの思いはずーっと有ります。
普遍的なことであろうと思ったが、震災で多くの人が亡くなるのは今回の災害だけではなく、交通事故でも、様々な事件でも亡くなる、それを通して自分が本当に表現したい一つがサバイバーズギルト、生き残った人の罪の意識、非常に大切な問題だと思った。
自分はなぜ生き残ったのか、愛する人はなぜ失われてしまったのか、苦しまれている方が多くいる。
一声かけていれば、交通事故に遭わなかったかもしれないとか、癌で亡くなった方に何故もっと優しい言葉をかけてあげられなかったのかとか、ずーっと苦しまれる方がいて人間にとって普遍的な誰にでもある問題ですが、語られて来なかった問題だと思います。
生きのこったことに喜べない、だれにでも起きる問題だと思います。
実はこれが愛情が豊からだからこそ、抱える問題なのではないか、人間の美質であって、そういう事を考えることが悪いことではないのではないか。
辛さを抱えていても人は生きていけるはずだし、愛が豊かであるからこそ、人間としての美質を持っているからこそ、自分を責めてしまうのであるから、愛を、美質を捨てろと言うことは間違っているのではないか、罪悪感を認めてあげる事は実は正しい在り方なんだと思う。
それを抱えながらでも精一杯幸せに向かって生きていけるはずだということを、今回の物語を描いているうちに自分自身も感じたので伝えたいと思った。
震災で起きたことは一つのシンボルとしてとらえて、サバイバーズギルトを得ながらでも人はまた明日に向けて生きていく事はきっと出来るし希望はあるし、幸せはあるし、幸せの光を見出す事はきっと出来ると言うことを伝えればと思っています。
今回は言葉がどんどん出てきて、短編ではなくて長編にさせてほしいと相談しました。
思いもかけない速さで書き上げる事が出来たし、新しい局面を得ました。
人間にとって、この世界に最も大切なものは何か、本物の愛とは何か、とことん突き詰めて考えられたことも自分にとって新しい局面でした。
読み通した時に小説と言うのはこういうものではないか言うことが、心の中にすとんと落ちる物があって、それも初めての感覚でした。
しょせん自分なんてという気持ちがあって、自分が意識しているもの、自分が普段考えているものは詰まらないと言う気持ちがあり、自分が考えもしなかったことが面白いのであって、自分が気がついていない部分にまで潜って行く事が出来た時、自分の無意識は人間共通の無意識になるはずだと、人類共通の悲しみ、怒り、希望ときっと触れあうはずだと思って、そこに突き当たると多くの方々の心の底にある、悲しみ、希望、喜び、悲しみ、秘めてきた辛さ等、行きあたる。
みんなと共通のものがきっと眠っている。
真実として皆さんに送り届ける価値がある。
違うと思ったときには、あと少しで出来上がると言う時でも全部捨ててしまうことがあり、ごめんなさいと言わざるを得ない。
世界を見るとシリア難民がいて、または仮設住宅にいて、自分が何が出来るのか、何もできない辛さに背を向けざるを得ないと言う気になってしまうと言うことがあるかもしれないが、大切なことはいま目の前にいる人に手を差し伸べることであって、手の届かない人に手を伸ばそうとして自分の心を傷つけたり、孤立するのではなく、今目の前にいる人にその人が沈んだ顔をしていたら、どうしたのと声を掛けられるかどうかが、一番大事であって、人の善意は凄く連鎖してゆく。
声を掛けられた人は、必ず誰かに手を差しのべてゆく。
広がりの先に、今遠くにいる誰かが救われてゆく、それはある種の信頼だし、人間への信頼なくして、我々は生きてゆく事はできないし、それが世界の根底いあることが世界をまだ持たせている。
核兵器、テロ、環境破壊、憎しみ、憎悪のなかでどうして人間が滅ばずにいて、幸せを時として感じることが出来るのか、それは根底に他者にたいする信頼があるからです。
他者への信頼を確かなものに、豊かなものにするために出来ることは、今目の前にいる辛い思いをしている人に声をかけたり、ちょっと歩けなくなっている人に戻って、一緒に歩くと言うことをする、自分の周りでするということこそが、人の信頼を育み、自分と言う人間の尊さを、それぞれの人が持っている命の尊厳を高めてゆく、そう信じています。
目の前の人にした事、隣の人にしたことが世界の果てまで届くんです、時間はかかるかもしれないが間違いないです。
本当に大切なことは時間がかかるんです。
小さな善意が世界に大きな波を作っていくんです。
信頼なくして次、次の世代へ続けてゆく、未来を豊かにする力は生まれません。
ちょっと具合が悪そうな人にちょっとした声をかける出来る人が本物のヒーローだと思っています。