高舘千枝子(唐丹希望基金代表) ・世界へ広がれ 鎮魂の歌
1950年昭和25年生まれ、 高校教師を退職した5年後、2011年3月11日東日本大震災発生。
教え子の出身地岩手県釜石市唐丹町の漁村地帯の壊滅的な被害を知り、居てもたってもいられず、大震災発生の翌月4月に子供達の教育支援募金、唐丹希望基金を立ち上げました。
しかし時がたつにつれて募金も少なくなり、希望基金が危機を迎えました。
大きな不安を抱え、体調不良だった 高舘さんを立ち直らせた一つが大震災の霊を慰めようと出来た鎮魂の歌でした。
歌が大好きで合唱団員でもあった高舘さんは鎮魂の歌一万人普及活動に力を入れます。
この歌は海外にも伝わり歌の広がりと共に、支援者も増え募金も寄せられ、共に希望基金も持ちこたえて5年になりました。
多くの人に歌ってもらいたいと言う鎮魂の歌への想い、悪戦苦闘の5年間の唐丹希望基金の運営などについて伺います。
当日は日光に旅行に行っていたので経験をしていなかったが、次の日に家についた。
大槌町の親戚の安否を確認できたのが1週間後だった。
海の方に向かってゆく下り坂には瓦礫が流れていて、川が盛り上がるほどの瓦礫に吃驚しました。
どうしたらいいか迷いが出来、何かしたいと言う気持ちがわいてきて、教師なので学校も流されていて、義務教育も出来なくなってしまうのではないかと、支援する方法は何かないかと考えて、高校の3年を担当した時の生徒の事を思い起こして、唐丹町の子供達の応援をしようと思いました。
企画書を作って 地元の新聞社、TV局にも応援してもらおうと思って、記事をかいてもらうことになりました。
鎮魂の歌 わたし自身を救ってくれた歌でした。
2012年9月に岩手日報に写真付きで載っていて、読んだら津波で犠牲になって亡くなった人達にささげる歌と書いてあったので直ぐ電話して聞きました。
歌詞が、歌えなくて涙流しながら聞かずにはいられかった。
唐丹希望基金も2年目で募金がグーッと少なくなってきて、支援がなにも出来ない、誤った行動を取ったのではないかとも思いました。
募金でお金を届けるけるできない分、この歌をみんなに歌ってもらって元気を届けようと思いまいた。
部外者がそのような活動をしていいのか判らなかったので、聞いてみたら、商売以外でしたら使ってくださいといわれて、全ての国々から支援金、多くの人なども来て助けてもっらっていたので、動きました。
作詩 千葉隆男 作曲 太田代政男
「東日本大震災犠牲者にささげる」
「あーあー 山揺れて、海騒ぐ時 別れの言葉も交わさずに
いそぎゆきたる親よ友よ 手繰る思いにかなしみよせる
心鎮めて 手を合わせみひかりの国やすらぎたまえ」
千葉隆男さんは先生になり初任地唐丹町で6年間教職を務める。
京都の大正琴アンサンブルコスモスという団体があり、堀 泰雄 さんは唐丹希望基金に関する新聞を見て募金してくださっていた方で、エスペラントで世界に大震災の情報を世界に広めていると言いう事で、宮澤賢治の「イハトーブ」(宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉)はエスペラントという事だけは判っていて、堀さんは宮澤賢治と同じ活動をしている方だと判りました。
堀さんに楽譜をわたすことになりました。
日本エスペラントの大会があり、そこに牧野三男さんがおり、堀さんがその方に楽譜を渡しました、素晴らしい曲だと言う事で、この曲を世界に広げようとしている者がいるので協力してくださいと言う事で京都の大正琴アンサンブルコスモスという団体があり活動されたりして、いろんな形で世界にひろがりました。
ブログ「日カタイムス」を見る機会があり、東日本大震災チャリティーコンサートをするというものがあり、それに応募しました。
牧野さんから通知を貰った方が京都の大正琴アンサンブルコスモスという団体の代表の方と親しくて、団体の代表の方が楽譜を大正琴用の音符に直して仲間と一緒に歌い出しました。
カナダ、フランス、デンマークなど鎮魂の歌を歌って下さいました。
募金活動は2年目は1/4に減ってしまっていて、下手に喜ばせる様な軽い行動だったと反省の日々でした。
小さな輪から始まり段々広まって、カナダのクライストチャーチ大聖堂でプロの音楽家たちのチャリティーコンサートとして演奏もされています。
或る方から葉書がきて2020年まで募金して行きますとの嬉しい内容もいただきました。
子供は自分の子供であると同時に、社会を作ってゆく大人を作ってゆく私たち全体の宝物だと思います。
その力になりたい、社会の為に働ける人間になってはじめて人間と言えると言う事を学びまして、それを終わっても社会につながっていく一人、自分の想いを行動する、それこそが本当の善であり、人間として守らなければならないと、漠然と思ってきたので、今こそそれを行動すべきだと思いました。
募金活動は最初1年の予定だったが、1年経っても被災した方の生活は何も変わらない、復興も遅々として進まない状況で、募金も続けようと言う事になり、堀さんからの協力も得て、2020年まで募金をしようと募金用の想いをつたえる冊子を作ったりして徐々に広がりました。
思いの深さによって出会う人が決まり、出会った人とまた自然につながって自分の人生が豊かになってゆくと言う事があまり意識したことは無くて、自分の心が望んだ方と話をしてきました。
被災地では最初はこの歌を歌えないと言う思いはありました。
この歌詞は子供達には避難した時の自分たちの様子を思い出させる歌詞なので歌わせることは酷だと言う事で、学校としてはしたくないとはっきり言われました。
歌が学校にも届く様に運動はぜひ進めてくださいとは校長先生から言われました。