2016年3月15日火曜日

チョ ホンリ(ネットワーク代表)   ・「人が暮らせる」復興を 

チョ ホンリ(NPO住環境改善ネットワーク代表)   ・「人が暮らせる」復興を 
62歳 阪神淡路大震災から21年がたちました。
21年前地震に依る火災で建築設計事務所を失った1級建築士のチョホンリさんは神戸市長田区の空き店舗でその後起きた中越地震の被災地山古志村(長岡市)、東日本大震災の被災地気仙沼市、南相馬市等のアンテナショップをオープンしました。
そこでは被災地の特産品を売るだけでなくて、そこに被災者がつどい、意見の交換を行いそれぞれの復旧や復興の段階でなにをしたらいいのか、何が出来るのかを互いにアドバイスし合っています。

阪神淡路大震災の風化の危機感があり、東日本大震災でも風化が早いと言う気持ちがあり、継続して被災地間の交流、情報交換をするという事でアンテナショップをやって新たな時代に継承する様なことをやっています。
ここは発信拠点の役割をしていた市場で、被災地間を結び付けるものはないかと思って、山古志村とか、南相馬、気仙沼との付き合いがある中で、合同で支援の形で表明しようと言う事でアンテナショップを作ろうと言うことが始まりです。
山古志村は棚田の米、とか山古志村しかできない農産物を加工食に変えたり山古志村の発信をやっています。
長田は物産としてはなにもないので、震災ブランドと言う中で、それを暗く語るのではなく発信できればと思っています。
市場は空き家が多くなっていますが、震災後15年の時には歴史を取られた様な気がして、市場と関わった次第です。
そのころに東日本大震災があり、市場の復興する事にかかわった人との出会いがあって、進みました。
ここは倒壊しなかった部分でもあり、この状態を継承してやっていきたいと言う事で、やっています。
身の丈に合わない再開発をやると街の再生が難しい部分もあるので、身の丈に合った中で整備してゆくと言うのも一つの復興の有り方ではないかと思います。

昨年、NPO住環境改善ネットワークをたちあげました。
空家、空き店舗は取り残されてきたが、関わる仕事が出来ればと思っていました。
古くから長田地区を知る人間、建築業者、不動産業者などが空き家店舗を調査したが、データだけでそれが何になるのかと言う事で、拠点を持ってくる、商売ができないか、と言う事で、自分からまず飛びこんでみようと思ったのがきっかけです。
まだ始まったばっかりですが、復興の取り組みに繋がればと思っています。
若い人がどういうものを魅力と感じるか調査もする必要があります。
行政は限界があると思うので、我々が提案して、行政がサポートすると言うことをやりたい。
震災の復興は先ず仕事だと思うので、共通する仕事で触れあうという事が一番被災地間で話が進んでゆくし、継承出来ると言う、その拠点とするのが空き店舗の中でアンテナショップなり、皆が集まれて発信できると言う場所が必要と言う事で、広めていけるきっかけになればいいなあと思いました。
物を売るだけではなくて、人との交流を行う。
無くした自信、失望感とかをここから新たに組み直すことが出来れば、と言うのが狙いです。

21年前被災時に事務所が全焼して、立ち直るきっかけになったのが、消防団の服で水がほしいと仮の小さな店舗に来て、その人の話では火事で家族を救おうと飛びこむ人をはがいじめにしたが、
奥さんと子供が目の前で焼け死んでしまって、止めなかったら助かったはずだと言われてノイローゼになってしまったということで、物を無くした位良いじゃないか、命が有ったんだからと言われて立ち直るきっかけになりました。
人が基本だと思いました。
時が経つと被災格差が出来て段々連帯感が薄れてゆく。
同じ場所だけでの発想では良くないと思います。
最初片ずけから始まって、それから建築士として、後のち感じる訳です。
東日本大震災の時は2週間後に瓦礫撤去をやりに行きました。
旋盤工になりたかったが、在日韓国人と言う事で差別の様なことがあり、受け入れられず、大工になろうと思っていた、定時制高校に行っていたが限界を感じて学校も辞めてしまって、日雇いをやっているときに、或るとき若い現場監督から酷いことを言われ酷く悔しがったが、若い1級建築士が監督をたしなめた。
その1級建築士は凄いと思いました。

一緒に仕事をしていたおじさんから教育をしっかり受けないと馬鹿にされると諭されて、複学して10年掛かって1級建築士になりました。
京都大学の西山教授の本を購入して読んでいるうちに手紙を書いたら、会ってくれる様に言われ、会う事が出来ました。
建築家と言うのは、あなたの様に大工の身をして6畳一間、小さな仕事でも仕事をやる、それが建築家だと言われて、それに凄く励まされました。
人との出会いは凄く大事だと思います。
一時事務所が破産したこともあります。
被災して、又ゼロからの出発となりましたが、以前のそういった経験もあり、又なんとかなるとも思いがありました。
辛い思いは暗く語るなと言っています。
復旧は急ぐべきだが、復興は急ぐべきではないと思う。
長田は産業地帯が無くなって行って、今は住宅地になっているが、目玉が無くなってきている。
生活の拠点がいったん離れるとなかなか戻れない傾向はある。
山古志村は帰村を果たしましたが、福島は原発の問題があり、色々と難しい問題を抱えている。
共に同じ目線でこれからも、交流を深めてゆき、共有してゆく様な形の取り組みをやってゆきたい。
震災を風化させない。