2016年3月10日木曜日

阿部憲子(ホテル女将)      ・「語り継ぎ」で風化を食い止める

阿部憲子(ホテル女将)        ・「語り継ぎ」で風化を食い止める
東日本大震災から明日で5年。
阿部さんは53歳、震災の直後宿泊客を高台に誘導し、難を逃れました。
電気や水道が止まった中で、宿泊客や地域から逃れてきた住民の為に献立を考え食事を提供してきました。
阿部さんは避難所としての役割を終えた後も復興のため様々な取り組みを続けてきました。
中でも力を入れたのは語り部バスの運行です。
観光客が被災した町内を従業員やボランティアの語り部と共に廻るものでこれまでに30万人がこのバスを利用しました。
阿部さんはホテルの女将として震災の危機をどう乗り越えたのか、そこから得られた教訓をどう語り継いでいこうとしているのかうかがいました。

2時46分大きな地震が発生しました。
ロビーにいましたが、引き波の時には目の前に大きな島がありますが、歩いて行けるほど波が引きました。
昭和35年のチリ地震を思い起こしました。(話を何度も聞かされていました。)
水平線がどんどん盛り上がると言う様な変化でした。
100名お客さんがいました。
駐車場に避難誘導しました。(20m以上あります)
その後託児所のあるより高いところにみなさんをお連れしました。(さらに50m以上高い場所)
地震発生30分後に津波の第一波が来ました。
橋が流され、道路は瓦礫で覆われ孤立状態になりました。
公の避難所ではなかったのですが、住民の方がここをめざしてきました。
スタッフも若い女性がいて泣き出しましたが、みんなを集めて心を強く持つ様に話しました。
おにぎりもなければ半分づつに譲り合いの精神で頑張りましょうと声をかけました。

翌日には500~600名になりました。(人数を的確につかむのは難しかった)
厨房のものには1週間分の献立を立てる様に指示を出しました。
我々を頼ってきている人達がいるので、今日だけの問題ではないと言うことを私どもの関係者にも理解してもらう事が必要だと思いました。
最初食べものをたくさん食べてしまうと底をつくのが早いと、長期的な事を見てほしいと言うことを含めた指示でした。
冷蔵庫も駄目になっていたので、駄目になるものから食べなくてはいけないので、献立は難しかったです。
電気、ガス、水道が止まっていて、やりくりは大変でしたが、食の専門家がいて、それぞれの役割を意識しながら準備が進められて、お客さん、住民の方と関係性が築けてスムースな方ではなかったかと思います。
暖房、薬の問題とか直ぐに問題が一気にでてきました。

1週間目で或る程度の区切りが付きました。
警察の方が無線電話を持っていて、隣町と連絡を取り、3日目に可能な道ギリギリまで送って、別な避難所に行く事が出来ました。
最後のお客さんが帰られたのが1週間後でした。
水産業もやっていたので、被害は厳しくて9か所工場がありましたが、残ったのは1か所だけでした。
次に別なことを考えないといけない事がいろいろありました。
一部を残して住民の方も対応できるところに移動していきましたが、家を失った関係者が住むようになりました。
スタッフの雇用は非常に大事なことで、仕事は気持ちの切り替えになるし、失ったものも頑張ればひとつひとつ整えることにもなりますので、気持ちの切り替えを毎日心掛け、仲間同士の励まし合いもあり、共に支えあいました。
ライフラインが止まっていて、固定電話2カ月、水は4カ月、という環境の中で会社経営は大変な努力をすることになると思いまして、やり抜かなくてはいけないと意識して進んでいきました。

5月からは2次避難所として国からの補助がありました。
被災した工場が一つ一つ再開する事が出来、出来ることからやりました。
一つのホテルに過ぎないが動く事によって、酒屋さんが、八百屋さんが、店が無くても届けますとか、市場から仕入れたらそのままとどけますと、言ってくれるようになって、それぞれの道の開けるきっかけになったと思います。
交流人口の必要性を感じてここが頑張らねばと思いました。
少し時間がたってきたら、物が届くよりも買い求めてもらうのも、有難い応援だなと思いました。
まだ軌道に乗ったというような状態ではないです。
もっともっと被災地にお出かけ頂けるといいと思っています。
震災がきっかけですが良いところだと言う言葉も聞かれるようになって、地元の為にもなるので、そういう気持ちを抱いていただけるようにお迎えしたいと思います。

避難所になって新しいコミュニティーの始まりを意識しました。
イベントを開く事によって元気付けられると思って、いろいろ始めました。
仲間が増えてきて、笑顔が増えてきたが、又ばらばらに仮設住宅に別れてしまうと言う事で巡回バスを出すことにしました。
風呂を無料でということは今でもやっていて、交流の場になればいいと思います。
語り部バスの運行。
誰か道案内をしてほしいと言うのが始まりでした。
被災の厳しい状況の地区にいった時に、ずーっと野原だったのか言われたが、沢山の住宅があったんだと言うことを知らせるために、震災を風化させないために語り部バスの活動を重ねてきました。
朝8時45分から1時間やっています。
それぞれ物語の有る3か所を廻っています。

5年経っても復旧がままならない場所が少なくないです。
沢山犠牲になったが沢山の人が助かったという例もあり、語り部が話しています。
3月9日も地震があったが津波は来なかったが或る先生が、避難場所は屋上だが今度地震があったら不十分ではないかと、別の高台に場所を変えた方がいいと提案して、校長先生が聞き入れて保育所も合わせて10日に避難訓練を行い、11日はきちんと避難ができて助かりました。
場所を変えていなかったら大川小学校の悲劇以上の大変な出来事が発生してしまったと思い、奇蹟的な話だと思います。
南三陸町の防災庁舎は県が保有すると言う考えが進められています。
非常に犠牲になった方が多い場所で、御霊に祈りをささげる場所となっているので、手を合わせる人達をみると無念に感じます。
語り部バスの運行で30万人が利用してきました。
チリ地震の事をきちっと子供孫に語り継いだ家は違いがあったなと思います。
「津波てんでんこ」 津波が来たらてんでんばらばらでもいいから高台に逃げる。
「命てんでんこ」とも言われ 自分の命は自分で守る。
災害に遭遇して故郷の最大の危機だと思いました。
簡単には復興は出来ないとの思いはありますが、皆さんと力を合わせながら復興のモデル地区になれる様に頑張り続けなくてはいけないと思います。