浅見洋子(詩人) ・詩で伝える空襲孤児の思い
昭和24年東京生まれ 詩人としての創作活動のほか、東京大空襲、水俣病、学校死亡事故裁判の支援にかかわってきました。
又市民参加の平和行動、女の平和行動にも取り組んでいます。
1945年3月10日の東京大空襲では浅見さんの両親と5人の兄弟が被災しました。
炎の中を逃げて命だけは助かりましたが、その時の体験がトラウマになった長男は戦後人生を大きく狂わせました。
浅見さんの生活はアルコール依存症に依る入退院、家庭内暴力をくりかえす兄との二人三脚だったと言います。
浅見さんは2011年に詩集「独りぼっちの人生(「せいかつ)、東京大空襲で心を壊された子達」を出版しました。
東京大空襲訴訟の裁判で陳述書作成に際し、同席を求められたことがきっかけになったそうです。
空襲孤児が背負った人生の厳しい実態を伝えなければという、気持から原告5人の孤児の体験談を詩にして、大空襲に遭遇した亡き兄についてもしるしています。
女の平和、学校安全全国ネットワークの事務局長をしています。
水俣病の支援、東京大空襲訴訟は終わりましたが、まだ援護法などを求めているのでその支援をしています。
主人が弁護士でその事務所に長く勤めていて、カウンセラーなどもやっています。
次女は福島に疎開していましたので、思いは違っていたようです。
長男は戦後、東京大空襲の傷を負って、色々なことがありました。
兄がポツリポツリ漏らした言葉や、母から聞いた話からこういった詩が生まれたかと思います。
兄は戦後はヒロポン中毒やアルコール依存症になりました。
私は18歳の時に青酸カリを飲んで自殺を図りましたが、動機は兄弟があまりにも批判的に見ている。
今までの日記を全部焼却して、私の死を考えてよと言う抗議ですが、死にそこなってしまいました。
いちばんかばってくれたのは兄でした。
父の財産の相続争いをしていて、兄は私の命を落とそうとした行為に対して、無言で全部兄弟のいいなりになって、相続和解という形にまでふんぎってくれました。(内容が理解できず?)
家庭内暴力、何度も窓ガラスを割ったり、お金がないと米にガソリンを撒いてしまったりして、それを家族は食べていました。
46歳で兄が亡くなるが、私に対しては心を開いてくれました。
第一詩集「歩道橋」 1984年
「朝」
「11月の朝 青い冷気が肌を刺す。 東王子2丁目の歩道橋 おおい洋子死んじゃ駄目だ 死んじゃ駄目だよ。 大きい兄さんがいきなり私を抱きかかえた。
酒の臭い ぷーんと死臭が鼻をつく。 何言ってるのよ、どうしてまたやったの。
キッと睨む私の目、俺は馬鹿になっちゃったのかなあ。
俺頭に毒が来たのかなあ。 のたりくたりやっとの思いで歩く大きい兄さん。
王子警察から大きい兄さんを貰い受け、二人で歩いた東王子2丁目の歩道橋。
上着の襟を立てて のたりくたりやっとの思いで歩く大きい兄さんの後ろ姿。
息を引き取る2週間前の朝 東王子2丁目の歩道橋」
兄が亡くなって、ホッとした気持ちと同時に、物ごころついてきてから兄と二人三脚の人生だったように思うので、次に自分がどうしていいのか判らなかった。
日記は付けていました、感情的なものを書き留める、それが大学生になった時に、学校の雑誌に提供したりしました。
4人で「あゆみ」?という同人雑誌を作りました。
白鳥省吾さんの授業で影響を受けました。
先生から添削を受けることが出来ました。
「山の泉は落葉に埋もれることはない」と先生から詩集を貰ったものに書いていただきました。
早船ちよ先生 「詩を書くから詩人ではない。 詩人とは生き方よ」 その言葉が私の生き方を凄く方向付けていると思います。
詩集「交差点」
2011年に詩集「独りぼっちの人生(せいかつ)、東京大空襲で心を壊された子達」を出版。
主人が東京大空襲訴訟の弁護団の一人になり、石川智恵子さんの陳述書を書くのに、きついので一緒に立ち会ってほしいと言う事で、智恵子さんの言えなかった言葉を私が感じとってしまった。
心を揺さぶられました。
「子守」
「やせ細りお腹が膨らんだ小学校3年生の智恵子 見かねた近所の人が子守の世話をしてくれた。
智恵子の背に伝わる命のぬくもり、命の鼓動。 彼女の中に宿った情。 乳飲み子への慈しみ。
目刺しとみそ汁 子守先で家で初めて家族と同じ食事をした彼女は、喜びと安どの中生きねばならないことを受け入れた」
智恵子さんは戦争孤児
3月10日の空襲で彼女は救われたが父親母親と兄を亡くす。
「結婚」
「34歳になった智恵子に縁談話が来た。 2歳になった男の子を残し、妻に先立たれた人との縁談話だった。 黄色くくすんだ顔 手足の垢はかさぶたになっていた。
彼女はこの児に幼い日の自分を重ね見た。 私の命をこの児にあげよう。
と、この子を慈しみ育てようと、母の道を迷うことなく選んだ石川智恵子。
34歳の人生の決断」
いろんな孤児の方に会いました。
本当に今、引きずっている、日本国民として私は人生を終えたいと言う100歳の杉山千佐子さんの言葉も心に響きますが、ほんとうに戦後は来ていません。
東京大空襲に関しては実態が知られていないことに気づきました。
「子犬のシロ」
「幸一が3年生になった学校帰りの或る雨の日。 傘を持たない彼は強い雨に打たれ
びしょぬれになりうなだれ歩いていた。 きゅんきゅんと鳴く子犬のか細い声。
幸一は立ち止りあたりを見まわした、 すすけ壊れたレンガ塀の隅にうずくまり雨にうちふるえる白い子犬がそこにいた。 彼は濡れた子犬をそっと抱上げ懐に入れた。
幸一は家族に内緒で子犬を飼うことにした。 焼けたトタンと段ボールで作った犬小屋。
彼は脱脂粉乳を空き缶に入れ子犬に飲ませた。 学校給食のパンを少し残して持ち帰っていた。
幸一は子犬をシロと名付けた。 彼はシロと無二の親友になった。
学校帰り毎日シロと戯れた。
彼はシロと笑った。 シロと話をしていた。 彼はシロから生きる喜びを貰っていた。」
その後、「壊れた心」があって3人のねじり鉢巻きの大人が来て、生活保護を受けている者が犬を飼うなんぞと言って、犬を連れて行ってしまう。
「なす術もなくこぶしを握り涙をこらえ 男たちの後ろ姿を見続けたこういち
あの日彼の中に怒りが涌いた。 あのとき彼の中の心が壊れた。」
奪われた魂 3歳の由美子より
「声」
「北陸本線に最後の汽車が通る時 線路わきに呆然と立つ彼女を月明かりが包み込んでいた。
次の瞬間 彼女の体が駄目生きて生きるのよ 耳元で叫ばれた烈しい声。
我に帰った由美子に寒さと震えが襲った。 彼女はもつれる足で走った。
わななく口、あふれる涙で家を目指し夢中で走った。
だが不思議に心は冷めていた。 あの声は母さんの声? 由美子の心に母の存在が意識された。
母への愛慕を心深くに宿しながら、その後の長い年月を耐え忍んだ。
結婚し二児の母となった彼女が、母を探そうと思いたった時、54歳の由美子の髪にはすでに白いものが混じっていた。」
吉田由美子さんはなかなか自殺をしようとした話はでてきませんでした。
叔母の家で夜中神経使って下痢をしては怒られるという、自分の感情を抑えられてきて、大人になっても続きました。
この話をするのにも60歳を過ぎて、自分の人生を少し振り返られるようになってから思い出すことだったんだなあと思いました。
表現する事に怯えがあったと思います。
吉田さんは語り部として大きな存在になっています。
戦争体験を持たない私に出来ること、それは戦後を持たない智恵子?さんの人生をつたえることなのだと思いたった。
原爆、空襲のひどさ、みじめさ、戦争反対という声も観念的に思えないとのもどかしさもあります。
学校安全全国ネートワーク
裁判するまでの心のケアが出来れば幸いですが、裁判の傍聴をとおして心の交流を心掛けています。
「もぎ取られた青春」に結実している。
20年前、仙台高裁で和解が成立。
仙台、会津高校の柔道部の夏季合宿で熱中症で亡くなった青年。
勝つ事に力点が置かれていて「根性主義」で頑張れ、しごきのようにスポーツが行われていた。
何故学校に行って子供が命を奪われて、その原因を知ることが出来ないのかと言う事で主人の元を訪ねてきて以来裁判の傍聴をしながら心の交流をさせてもらっています。
成田直行君 柔道部の部長だった。
烈しい運動をしても水を飲んではいけないと言う事で熱中症になってしまった。
プールで排水溝に飲み込まれて命を失った林田君。
もがく姿をお母さんは見ていたそうです。
私が行く事で一緒に栽判にきたという心の傷の深さは例えようがありません。
中学校1年生 子供達の悪ふざけが原因で一人の少年の命が奪われている。
倒れて失神して小水がでているのに、先生も生徒も危機意識が持てなかったのは怖いことだと思いました。
人権問題につながると思います。
事故を通して判ることはそういう意識を持っている先生が少ないのかなあという疑問です。
事故はまれで、先生方は他はみんなちゃんとしている、この先生は特別だから逆に押し隠そうとしているのかなあと学校管理者の意識をそんなふうに感じるようになっています。
成田直行君の裁判に行った時に、いろんな方が関心を持ってきてくれますが、金額のことしか言いませんでした。
やむなく、怒りがこの詩になりました。
熱中症が本当に防げないものなのかどうか、報道関係者の方に関心を持ってほしいという気持ちが詩になってそれが雑誌になって、すこしずつ報道関係者の意識が変わってきたのかなあと感じました。
学校安全全国ネットワーク、水俣病、東京大空襲、子供の人権、しっかりと守らなくてはいけない。
女性の働き方も大事だと思うと、やっぱり女の平和もここに通じているのかなと思います。
ドイツは戦争に行って負傷してきた人たちが子供たちが悲惨な生活に驚いて、先ず子供達を守ろうと言う事で、一つの行動を立ち上げた。
戦争を風化させないと言う事で、白薔薇のチェーンの様なことをしていて、日本でももっと日常生活の中で戦争を忘れない意識が出来たらいいなと思っていました。
ドイツの戦争孤児に対する対応は、悲しさに負けていない、大事に育てられてきた、人間として誇りを奪われなかったということだと思います。
「復興と平和を」
「66年前の恐怖におびえながらも、一歩を踏み出した戦争孤児たち、 いま理想が現実となる奇蹟を 平和実現への祈りを持って、東日本の震災と自分の被災体験を重ね 66年の人生と向き合い、被災者の方々を案じている。 人が人として誇りを持って生きていけるよう 人が人への思いやりを失わぬよう 人が生きるのに本当に必要なもの、大切な事を見極め真にあるべき復興を
平和な生活の存続を願い祈っている」