2016年3月8日火曜日

平間 至(写真家)        ・故郷、塩竈への思いをカメラで

平間 至(写真家)           ・故郷、塩竈への思いをカメラで
宮城県塩竈市出身 1963年生まれ 52歳  音楽雑誌やCDジャケット等、広告写真分野で活躍、
いま最も撮られたい写真家として俳優やミュージシャン達の支持を集めています。
平間さんは今月塩竈市で「塩釜フォトフェスティバル2016」を開いていて復興支援に力を尽しています。
塩竈市の写真館の3代目として生まれた平野さんは地元の高校から一浪して日本大学芸術学部写真学科に入学、学生時代は実家の写真館を継ぐつもりで、土日を利用して塩竈に戻り父の写真館の手伝いをしてきました。
大学卒業以後、アメリカでの修行や、写真家伊島薫氏に師事して力を付けてきました。
独立、写真家として活躍しています。
東京世田谷区で「平間写真館TOKYO」を去年1月にオープンしました。

音楽が大好きなのでそこが中心になります。
写真を撮ると言うことは、被写体、撮る対象と先ず向き合うことが出来るか、対象と向き合うこと=自分自身と向き合う事。
写真表現は被写体をモチーフにして自分の内面を表現すること、被写体を撮ることが写真ではなくて被写体をモチーフに何らかの自分の内面を現わしてゆく。
写真館で写真を撮ると言うことは長期的に残すことをかなり意識的に考えて撮影されていると感じます。
スマホの写真は短期的、その場で見せて共有するには凄くいいと思うが、プリントアウトしない限り、データが無くなって行ったりする。
プリントに残すことが大事だと思います。

2011年3月11日 東京で車の中にいました。
TVを見続けたが、自分自身が壊れるような気持になり、自分で何か行動を取らなければと思ったが、どうしたらいいか判らないという状況だった。
親との連絡は一瞬ついたがその後1週間は取れなくなった。
吃驚したのは日常と非日常がグラデーションではないと言うこと、急に日常から地獄の様な風景に変わる。
メディアで感じたことと現実がまるで違うと言うことが判った。
自分の受容量を完全に超えた出来事だったので、写真は撮れなかったです。
悲惨さをつたえるために写真を撮っている訳ではないので写真は撮れなかった。
「塩竈フォトフェスティバル」は2008年からやっていました。
市役所の人達との関係があったので、恵まれた環境で、震災後も支援活動が出来ました。
今回「塩竈フォトフェスティバル」は若い作家を世に出そうと言うことが一つ、オランダからエリック・ケッセルスを招へいしていて自分では写真は撮らないが、ネットに上がっている写真とか、誰かが撮った写真を利用して写真表現をする人です。

塩竈市の「平間写真館」の3代目として一人っ子として生まれるが、子供時代はやんちゃだった。
祖父の代から写真と音楽が大好きだった、祖父はバイオリンを教えていました。
父はチェロをやり、私はバイオリンを習いました。
家業は継ぐとの思いは有りました。
野球は好きだったが剣道部に入りましたが、或る写真家の対談で3人共剣道部だったという事がありました。
間合いとかは剣道と写真は似ている様なところもあると思います。
先ずは一般大学に入ろうと思っていたが、合格しなくて予備校にもいかずにマージャンに明けくれました。
日本大学芸術学部写真学科に入学、田舎の出ではあるが、ファッション、音楽にも興味があり周りの東京の人は凄いと思ったがそうではなかった。
サークルで気にいった仲間と活動をしていた。
大学時代、酒は随分飲みました。
雑誌、広告の世界を知ろうと思って、大手のプロダクションに入ったが、自分のやりたい世界と違うところがあり、3カ月で辞めることになる。
実家に帰り写真館を手伝いながらお金をためて、友人がニューヨークに居たので、ニューヨークに行って何か新しいことが出来るのではないかと思っていったが、友人がボストンに1週間でいってしまって一人になってしまった。
写真を取ることが自分が自分でいられる唯一の手立てだと思った。
段々友達が増え始めていった。

何もない状態から自分と写真との関係が生まれた。
日本に帰ってきて、伊島薫さんが斬新な写真を撮っていて、そこに応募して、20~30倍の倍率だったが、採っていただいた。
伊島薫さんのアシスタントをしたことは非常な貴重な経験だったと思います。
2年間一緒にやらせてもらいました。
撮影以外のものも、いろいろ教えてもらいました。
20代後半夢中で、そのころから実家に戻る事は忘れてしまいました。
震災で塩竈に帰るのですが、写真は凄く大切なものだと判り、自覚しました。
昔の写真と言うものは、記憶を取り戻す大事なきっかけになると思います。
太陽、水、土等、風土自体が植物を形成してゆくが、人間は移動するから判りにくいが、人間も一緒だと思って風土とDNAが一人の人間を形成するのではないかと思う、故郷は自分自身と思っていいのではないかと思っている。

2014年3月10日、地元で震災の話をラジオで聞いて突然パニックになり、パニックの症状が起きて、揺れた瞬間は東京にいたんですが、PTSD、震災の心的ダメージを受けている事をその時に自覚しました。
抱えながら生きてゆくということだと思います。
どれだけ写真館としての継続をして行けるかどうかということです。
自宅が伊達藩の下屋敷だ、塩竈から命を受けて東京で活動している意識があり、役割が終わったら塩釜に帰るのだろうと思っています。
2000年に塩釜の写真館を父が閉めて、今休館中で、そのうち塩竈の写真館も復活させたいと思っています。