保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第20回 マッカーサーと昭和天皇
昭和20年9月~昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約が発行して日本が独立するまで昭和中期 日本が占領されていた時代。
マッカーサー最高司令官のもとで、日本の社会や政治が動いた時期。
憲法を始め私たちの国民の意識も変わってゆく。
臣民だったが、戦後の憲法のもと、市民としての権利が保証されてゆく、民主主義の社会になってゆく。
昭和20年8月30日厚木基地にマッカーサーが降り立つ。
海軍のニミッツ、陸軍のマッカーサーは戦争遂行時は恨みの対象だった。
テロ、日本人の抵抗があるのではないかという不安感があったが、抵抗に遭ったら徹底的に壊滅すると言う方針を持っていた。
マッカーサーは或る程度理想主義的なところがあって格調高い演説であった。
征服者として日本に来たのではなく、日本に民主主義を教育したいと言う立場の人として来たんだと言うふうに、歴史上受けとめられたいといっていた。
昭和20年9月27日昭和天皇とマッカーサーが初めて会談して、昭和26年4月まで11回会談を行う。
最も大事だったのが1回目だった。
天皇がアメリカ大使館を訪れることになる。(当時の吉田外務大臣が内々にマッカーサーの意図を探って作られた模様)
11回全部アメリカ大使館で行われる。
奥村勝蔵外務省外交官、侍従長藤田尚徳、宮内省職員筧素彦等いろんな人がそばについてゆく。
有名な二人の写真がある。(3枚) 一番うまく撮れている、一般的には3枚目が公開されている。
外国の新聞に載ったが、日本の新聞が外国から入ってきたという事で載せる事になるが、内務省などは発行禁止、天皇の写真を載せるのは不敬罪だと言う事で発行禁止を出すが、GHQが報道、表現の自由などを保証するという指令も出している。
一回目の会談の内容
マッカーサーの回想記では、昭和天皇がマッカーサーの前に出て「私が戦争のあらゆる責任をとるので、貴方の国からどういう処罰を受けようともその覚悟を持ってきてます」と言って流石は君主であると、言うのでマッカーサーはそれまでの感情が和らいで親しみを持てたと書いているが、本当はどうだったんだろうとなかなかわからなかったが、2002年に当時の通訳の奥村勝蔵さんが書いた報告書が外務省と宮内省に有り、公開された。
37分間会っているが、マッカーサーの回顧録に書いてあることは書いてなかった。
近年の研究、いろんな文書を分析すると天皇は其れに類する事を言ったのであろうと、但しこの事をそのまま記録に残すことは日本国民には刺激が強すぎたということで、それを伏せたと言う事が
一般的な解釈になっている。
昭和天皇は飾り気もなく正直にマッカーサーと向き合ったので、素朴な信頼を持ったと思われ,段々敬称、尊敬の言葉を使う様になっていった。
マッカーサー自身明治38年に日本に来ている。(当時少年で父はフィリピの司令官だった)
父とともに明治天皇に会っているので、好意的な目で見るようになったのではないか。
マッカーサーでなく違う軍人だったら、アメリカが穏健な統治をしたかは分からない。
2回目は昭和21年5月31日に行う、その後はその時々の社会の出来事と密接に絡んでいる。
食糧危機が高まっていて、烈しい運動があり危機的な状況になっていて、天皇は其れを憂いて昭和21年5月24日に玉音放送をする。
(祖国再建の第一歩は食生活の安定、お互いに助け合って窮境を切り開いていかなければいけない、国民が家族国家の麗しい伝統に生きて、祖国再建の道を踏み出すことが大事という内容の放送)
食糧危機に対する食糧援助の要請をしたと言われている。
3回目 昭和21年10月16日
4回目は昭和22年5月6日 憲法が施行されて3日目
社会党片山哲連立内閣ができる。 日本の国策も大きく変わる事が予想される。
社会主義的な政権ができて、天皇としては具体的にどういう指令を出すのかを聞きたかったと思われる。
日本が共産主義勢力に軍事的に攻められるようになったらどうなるのだろうかと言ったら、マッカーサーはわれわれの軍隊はカリフォルニアを守るがごとく、日本を守ると言ったと言われる。
この件を奥村勝蔵がもらしたと言われ、通訳を首になるが、そうではなくて吉田茂の政治顧問の白洲次郎が漏らしたと言われる。(今の定説)
5回目昭和22年11月14日
沖縄のことが話題になった。
沖縄に対してアメリカが一定の権限を持って駐留する事に対して、天皇はかなり積極的に認めたと言われている。
そのこと自身があって晩年まで沖縄に行きたいと言っていた、複雑な感情があったと思われる。
今上天皇が沖縄に何度も行って、沖縄の人たちと新しい関係を作っているのは其れが伏線になっているのではないかと思う。
11回目 最後のお別れの挨拶。
象徴天皇であるので、未公開になっているのは、天皇はマッカーサーとの会談は二人だけの秘密にしておく約束なので私は話さないと言った。
新しい憲法のもとで昭和天皇は象徴天皇なのだが、マッカーサーとの対談の中では必然的に政治的な発言をしなければいけないし、政治的な発言をしていると思うので、そのまま議事録として公開したらいろんな差しさわりがあるのだろうと言う事で、公開されないのだろうと思います。
昭和21年1月19日にのど自慢素人演芸会が始まり、今でも続いている。
街頭録音、音楽等ラジオ番組が放送される。