2015年9月2日水曜日

谷 久光(ジャーナリスト)     ・戦争当時の思いを子どもたちに届けたい

谷 久光(ジャーナリスト)       ・戦争当時の思いを子どもたちに届けたい
昭和20年、小学校6年生の時に兵庫県西宮市で空襲に遭いました。
谷さんとそのご家族は無事生き伸びましたが、その時の恐い体験をはっきり覚えていると言います。
その後谷さんは新聞記者になりましたが、戦争の記事を書いた事が無く、自分の戦争体験を詳しく話す機会もありませんでした。
新聞社を退職した後もジャーナリストとして活動している谷さんは、今年の2月戦争について話す機会があり、熱心に聞く子供達を見て戦争を知らない世代に文章を残しつたえていかなければならないと、考えました。
戦争当時小学生だった人たちに当時の記憶や思いを作文に書いて送ってもらう様 6月からインターネットや新聞で呼びかけました。
130点が寄せられ7月からホームページで13点の作品を公開しています。
小学生とその親に戦争について伝えたいと取り組む谷さんに伺いました。

子育て支援の活動をしている、NOP法人の代表の吉原佐紀子さんが、戦争について小学生と親たちに話すイベントを企画した。
西村宗さん(古い友人の漫画家)と二人で、戦争前後の体験を話してみようと言う事で、2時間ぐらい体験を話しました。
飢え死寸前まで追い込まれたので、さつまいもの蔓、つくし、魚も海に行って獲るとか、食べものについての話、衛生状態が悪くなってのみ、しらみが日常的に一杯いる、電気のかさに黒い布をかぶせて光が漏れないようにしたとか、そういった話をしました。 
記録して伝えるようにしないと残らないと思いました。
応募作品を公開する、企画として考えた。
70年前の子供たちの体験を今の子供たちに伝えるのがいいのではないかと、吉原佐紀子さんから言われて、目から鱗だった。

子供の頃は野次馬精神が旺盛でやんちゃな子供だった。
当時は皆軍国少年だった。 
加藤隼戦闘隊長(軍神)が憧れで、昭和17年ベンガル湾の上で被弾して自爆して、亡くなったことが凄いショックだった。
小学校2年生の時に「我が町」という作文を書くように言われて、西宮を俯瞰的にみる作文だったので、先生から褒められて文章を書くことに自信を持った。
緒戦の報道にみんな子供達は喜んでいた。
昭和20年6月5日、西宮から疎開する事になり、比叡山の方の農家に行く事になっていて、B29の大編隊がきて、爆撃して東に向かうのに出くわして、防空壕に入れてもらおうとした時に、爆弾が束になって落ちてくるのを見かけてあわてて入った。
真っ赤に燃えあがっている光景をみて、防空壕から飛び出して、避難した。
爆弾のタイミングがちょっとずれていたら、亡くなっていたと思う。
翌日京都に疎開した。

終戦の日は疎開先の農家の二階で母と子供達3人の家族でラジオを聞きました。
これで空襲は無いんだとホッとしました。
先生は鬼畜米英などと言って真剣に日本は必ず勝つと言っていて、敗戦になったとたん、先生はアメリカさんとか民主主義とか言葉を使って、ころりと変わった。
子供心に人の言う事は信用できないと思った。
大学ではマスコミ論、社会心理学とか社会学を学び、ジャーナリストになろうと思った。
楼蘭の美女」  
中国の新疆 ウイグル自治区に楼蘭と言う場所がある。
4世紀ごろに忽然と消える。(2万人位の都市)
楼蘭の美女といわれる30代の女性のミイラが見つかった。
(復元するとソフィヒアローレンみたいな美女)
日本で上野博物館、京都博物館で70万人位が見るが、その交渉過程でウイグル地区の政治協商会議議長「ヒョウ」さんが、或るとき突然、[実は私は両親が日本に殺された]と言った。
こういった人たちがいっぱいいるなと強く思いました。

応募作品の原文の趣旨は生かす様にして、この人の言いたいところはこれだなと言うところは盛り上げる様にして残すが、添削すると相当直すところはある。
かなりの手順を踏んで最終原稿にする。
松尾省子さんの作品
「顔も知らない父の遺骨を抱く私に電車の客が敬礼」
・・・生きるために必死でした。 5年生の時に父の遺骨を取りにお寺に行きました。父の顔を知りません。昭和20年7月28日ルソン島で戦死 36歳 父の遺骨を抱いて電車に乗った時に気付いた方は敬礼をしてくれました。 私は父を誇りに思い嬉しかった。今は日本は平和ですが戦争を忘れたことはありません。

中尾康之介さんの作品
「母が着物を染めて服を仕立ててくれた」
・・・母が自分の着物を染めて仕立ててくれるものもありました。 ・・・友達から冷やかされるのがとても嫌で悲しかった思い出です。・・・両親は必死になって子供達のために苦労していたのだと思います。親たちは厳しい状況の中で、知恵を絞り工夫をして育ててくれたのだと感謝しています。
平山善孝さんの作品
「一夜で佐世歩は燃え尽きる、校庭には長崎の被爆者が」
・・・家は燃えて無くなってしまいました。・・・ 学校の校庭に5,6人の人が横たわっており、全身やけどで水膨れ、苦しそうでした。長崎原爆の被災者でした。 「水、水、水をくれ・・・」と叫んでいました。
水を取りに行こうとしたら大人から、「水をやったらすぐに死んでしまう」と言われました。 私は右往左往するだけで、大人の言う事に従うだけでした。・・・
その後皆さん亡くなって、運動具入れの小さな倉庫が遺体置き場になったのです。・・・
戦争を知らない皆さんに伝えたい、願いたい、もう二度と日本は戦争をしない戦争に巻き込まれない、戦争の火種と思われるものは事前に消す。・・・


それぞれ厳しい体験です。
集めた意義があったなあと思います。
作品を読んでもらって、平和の大切さを、大事なことを実感してもらって、未来に向けて行動する事に役立ててもらいたいと言う気持ちです。
もっと集めて残していきたいと思います。