梅津貴昶(日本舞踊家・振付師・梅津流家元) ・私の芸に完成はない
1948年昭和23年生まれの梅津さんは小児麻痺の身体で生まれ、本人いわく脳以外はほぼ全身患ったと言います。
母親の影響もあり、習いごとにいい日とされる、6歳の6月6日に花柳流に入門して日本舞踊を始め、20歳で尾上流を学びました。
振付家としては26歳の時に78歳の武原はんさんの振付をしたのを始め、5代目坂東玉三郎さん、18世中村勘三郎さん、10世坂東三津五郎さん等、当代一流の歌舞伎俳優の振付や指導をしたことでも活躍されています。
衣装やかつらを付けずに踊る素踊りを追求し続ける梅津さんに聞きました。
しょっちゅう踊りのことを考えていますが、しょっちゅう病気もしていますし、舞台と日々の暮らしはあんまり切り替えません。
勘三郎さんはすごく上がり症なんです、私もそうですが、舞台の職業に関わらず緊張しますし、幕の開く瞬間は一つの自分の中で違う世界が始まってゆくんだという覚悟みたいなのがあるが、私に対してよく上がらないねと言われますが、自分の中では心臓が口から出るんじゃないかというくらいですが表に出ないです。
昭和26年6世中村歌右衛門の舞台、この時2歳半だったが、感動して鮮明に覚えています。
戦争で歌舞伎座が焼けて、再建して4代目の節目の年だった。(1月がこけら落ちし)
近代日本画が好きだったので歌舞伎座のロビーに素晴らしい絵画ばっかりだった。
その時が100%感だったので、自分の基準になってしまって、それからが大変だった、80%感だと嫌なんですよ。
6世中村歌右衛門の道成寺を6日間見ました。(舞台に対していろんな場所で見ました。)
立体的な、宇宙の丸い中にいて万華鏡みたいな感覚でした。
舞台を観に行き学校にはあまりいかなくて、出席日数が少なくて、母が学校によく謝りに行っていましたが、私が芸の道に行く人間だと言う事、足が悪かった割に出席返事には行ったりした為、当時の時代だったのかもしれないが、校長先生も理解してくれて、卒業する事ができた。
人の悪いところを見ない、その人を良くしようと思ったら、人のいいところを見なさいと、母はよく言っていた。
ある易者に見てもらった時に、大変ですねといって、病弱だったので大変だったろうなあと自分でも思ってました。
文楽、東踊り、新派、新国劇に発展していろんなものに発展してしまったので大変な子だとは自分自身思っていたが、10人育てるほどのエネルギーが必要だと、占い師に母が言われた。
後日母は占い師はあたらなかった、10人育てるほどのエネルギーが必要だと言われていたが、私は7,8人分ぐらいと思っていたら、母は冗談ではない、20人分ぐらいだと言われてしまった。
病との闘い、股関節脱臼で生まれて、赤ん坊の時に手術が失敗、小学校で脊髄カリエス、踊れないのなら動かす方にかけてみたらというアドバイスもあり、そこから又踊りを再開してそれが良かった。
中学で蓄膿の中に悪性の腫瘍で2度手術、ストレスで胃にポリープができて手術、椎間板ヘルニアでぶどうの蔓みたいに骨がまつわりついてしまい身体が動かなくなり、それをきらないといけなくなってそこからが大変だった。
昭和63年に入院、踊れたのが平成4年で6年弱でした。
病気が何か私を押しとどめて、何かを考えたり、何かを蓄積させたりする時間なのかもしれないと思った。
その間に良い先生との巡り合いがあった。
病院は9時になると消灯になるので、スーッと抜け出してすり足の練習をしました。
新しい発見は、鍛錬の呼吸、おなかに力を入れて肩の力を抜くと言う事でしょうか、それに気が付きました。
病院の中でも綺麗に歩いている方は肩に力が入らずお腹に力が入っている。
長い間の闘病生活の工夫もきっと何かの芸には生きていると思います。
身体ではなく心が動く間は踊りに関して一つでも新しい発見、プラスの発見、踊りに対してプラスになる事はいいことだと思ってます、踊りに懸ける愛情だと思います。
その後も病気しました、本当に生まれてから,5年健康で病気のことを考えなかったことはないですね。
病気でも、経験が最大の教師だと思います。
武原はんさんとの出会い。
昭和30年、私が7歳の時に歌舞伎座で武原はんの会があり、「月」題名 高浜虚子の作詩
それを観た時には、鮮烈だった。
麻布会があって月に一回会って芸の話をしようという事で、色々な方がおりまして、(中村雀右衛門、先代の都一中(一中節の三味線方の名跡)、17代目中村勘三郎、演劇評論家如月青子、郡司正勝、6代目菊五郎の未亡人の寺島千代、表千家の桜内きく、武原はん等の先生方 そして私)色々の事を話していた。
武原先生の事は鮮烈過ぎて不思議、かげってこなくてお婆さんにならない部分がある、すごいエネルギーの人です。
武原先生との出会いは宇宙の神秘、立体感の中で会った御縁です。(平面的ではない触れあった縁)
白洲次郎さんとの出会い。
21歳の時に、或るレストランで注文していたら、シェフが白洲さんがお呼びですとの声が掛かり、「死ぬその時まで踊りの事を考えてられそうだ」とおっしゃってくださった。
白洲さんから言われて、それから5日間続けて一緒に食べることになる。
神様の引き合わせだと思います。
「どんなにいいことをしたって約束を破ってはいけない、どんなにその日に一生懸命やっても遅刻をしては駄目」、と言われた。
白洲さんがリサイタルを見に来て「高尾」は役者になるのか、舞踊家になるのか、男なのか、女の子みたいで釈然としないと言われた。
自分の心が全部見えてしまったんだと思った。
きりっとしたたたずまい、そういった方に行った方がいいよと言われた様な気がして、素踊りで行こうと思った。
昭和60年 子娘道成寺を素踊りでやったが、新しい門出なのでかならず見に行くよと言ってくれたが、2日前に倒れて見て頂けなかったのが残念です。
歌舞伎座 劇場の空気は他の劇場にない、何かがある、格式のある柔らかさ、媚びていない。
舞いと踊りで舞踊 舞踊家は舞えて踊れないといけないとだめなんじゃないですか、それを目指しています。
舞い踊りそれが私にとっての舞踊です。
自分の踊ってきた踊り方、自分が選んだ曲、自分が作ってきた振りが、私だという事が判らなくていいから、何かの形で日本の芸に残るような修行をして行きたいと思っています。