2023年4月21日金曜日

大石みちこ(脚本家・東京芸術大学大学院教授)・マダム・バタフライの「声」に耳をすませて

大石みちこ(脚本家・東京芸術大学大学院教授)・マダム・バタフライの「声」に耳をすませて 

1965年、東京都生まれ。  東京芸術大学美術学部を卒業したのち、企業に就職。    広報を担当していましたが、2004年父親の病気をきっかけに仕事を辞めることになりました。  丁度その時に東京芸術大学大学院に映像研究科が設立されることになり、映画が好きなこともあって39歳で受験、合格して映像研究科脚本構成一期生となりました。   その後2010年の映画「ゲゲゲの女房」の脚本を手掛けるなど、理論と実践を同時に学びながら後進に育成にもあたり、この春からは東京芸術大学大学院映像研究科の教授になりました。  又、執筆活動も続けていて、「奇跡のプリマ・ドンナ 三浦環の「声」を求めて」を去年上梓しました。

 三浦環は今ではあまり知らない人が多いのではないかと思います。  グラバー園に三浦環の銅像がありますが、グラバー亭がマダム・バタフライとオペラの舞台になった場所に近いという事で建てられました。   実家のお墓が上野寛永寺の霊園にありますが、そこに一風変わった蝶々の形をしたお墓があり、バタフライと英文字で刻まれています。     オペラ歌手の三浦環のお墓だという事が後に判りました。  上野のお墓はお弟子さんが建てたという事も後から判りました。

コロナの関係で家にいることが多いので、三浦環のことを書いてみようと思いました。   資料などを集めたり図書館で調べたりしました。   三浦環は大正3年(1914年)に三浦政太郎さんと一緒にドイツ、ベルリンへ渡っています。   第一次世界大戦の勃発でイギリスのロンドンに逃げていきますが、交流のあった留学生の保住重任?さんという法学士が日記に残していました。  晩年山梨県山中湖村に疎開していましたが、そこにはアルバム、手紙、着物、アップライトピアノが残されていました。   他にも手紙を発見することが出来ました。   「エール」でも柴咲コウさんが三浦環を演じています。  山中湖村では去年はピアノが修復されてお披露目の会が催されました。  今年の2月22日(誕生日)には山中湖畔に銅像が完成、お披露目の会が催されました。 

三浦環は東京都出身で、東京・虎ノ門の東京女学館の出身で、お嬢さん学校で天真爛漫な性格を培ったのはこの女学校時代ではないかと思います。  海外に羽ばたいて、現地の一流の音楽家たちと一緒に舞台を踏んで、活躍していたという事は素晴らしい魅力の一つだと思います。   海外に渡る後輩たちにも力を注いだようです。  蝶々夫人を作曲したプッチーニにも会っています。   1946年に三浦環は亡くなっていますが、翌年に遺稿集『お蝶夫人』があります。   海外から来る演奏家などにも親切に対応したり、子供にも優しかったようです。(自身には子供はいない。)  猫、犬などの動物も好きだったようです。  海外に行った後はほとんど日本には帰ってこなかったようで、海外のオペラカンパニーと契約してしまうと、中々帰国でき鳴ったようで、政太郎さんが亡くなった時に、その死をハワイで知ったという事です。  ヨーロッパ、アメリカ、アジアのいろいろな国に行っていました。  

昭和10年に日本に戻って来て、日本での演奏活動を始めます。  海外の歌曲を日本語に訳して歌う事も多かったようです。   「冬の旅」を1946年にNHKで録音したものがあり、亡くなる直前だったので本人が納得できないという事で放送はされませんでした。   

「冬の旅」 一部放送 歌:三浦環

母親の影響で義太夫、歌舞伎が好きでした。  三浦環は東京女学館を卒業後、帝国劇場で1年ほど歌っていますが、西洋の発生方法で歌うということが、ななかなか受け入れられなかったようです。  

私は子供のころピアノを習っていましたが、挫折しました。  絵を描くのが好きだったので、東京芸術大学美術学部に入りました。   のびのびした学校でした。  芸祭では演劇をしました。  卒業後広告の会社に入って、広報などやっていました。   父親の病気をきっかけに退職しましたが、なんかものを書きたいという思いがありました。   父が亡くなり、大学に新しい映像研究科が設立されるという事を知って、入ることを決意しました。  監督コース、脚本コース、プロデュースコース、技術パートがあり、撮影、照明、サウンドデザイン、美術、編集など7つのコース、7つの領域があって、監督コースは北野武監督、黒沢清監督が教授を務めていました。  脚本コースは田中陽造先生でした。  

私の脚本コースの人は6名でした。  映画は最初にどんなワンシーンを描きたいかという事を監督、脚本などがイメージすることが重要なのではないかと思います。  ワンシーンを作る為に話を編んでゆく。  2010年に公開された「ゲゲゲの女房」。  水木しげるさんという漫画家の奥さんの人生を描いた映画でした。  水木しげるさんは不思議な幻想的な世界を描く漫画家です。  戦争で片腕を無くしてしまい、残された手で漫画を描き続けた漫画家です。   昭和の暮らしを調べて見るととても興味深くて、いろいろシーンを付け加えました。   人の気持ちを映像でどういう風に表現するかという事は本当に難しいです。   

若い世代に対しては、映画は最初にどんなワンシーンを描きたいかという事が大事だと思うので、まずは大切にしてほしいと思います。  幕末から明治にかけて、人間はどう追う風に生きてきたのか、興味を持っていて、特に女性の生き方を小説として書いてみたいと思います。  






































   

2023年4月20日木曜日

小西博之(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 人生は幸も不幸もフィフティ・フィフティ

 小西博之(俳優)    ・〔わたし終いの極意〕 人生は幸も不幸もフィフティ・フィフティ

小西さんは63歳、大学卒業後NHKドラマ「中学生日記」でデビューします。   その後萩本欣一さんのバラエティー番組に出演して「コニタン」の愛称で一躍人気者になりました。 しかし司会や俳優業など活躍を広げていた2005年末期の腎臓がんと診断されます。   厳しい手術と治療に耐えて仕事に復帰しました。   現在は俳優業の一方で日本航空高等学校通信制過程の東京キャンパス長を務めています。   小西さんは人生の山坂をどう越えてきたのでしょうか。 

僕は30年来「ラジオ深夜便」が大好きでずーっと聞いています。  去年、日本航空高等学校の90周年を迎えました。  7割は普通科で、3割がパイロット、地上係員、CAさんのことを学びます。  小学校のころパイロットになりたかったんですが、昭和47年中学の中里先生との出会いがあり、僕の人生を変えていただきました。  初めての土曜日のホームルームの4時間目の時に、「男ども1週間いろんなことがあったろう。 前に出て綺麗さっぱり洗い流して新しい月曜日を迎えたい奴は出てこい。」といったんです。   

「学級委員長の小西、お前からや。」  出ていたら、「あとの19人はどうしたんや」という事でみんながずらっと並ぶわけです。   先頭にいた枝光?君は真面目な子で怒られた事のない子が「枝光」と言われた瞬間に泣き崩れていました。  どうなるんだろうと思った瞬間に先生はハグをしてくれたんです。  「勉強を一生懸命頑張ったな。 偉い。」と抱きしめました。 その後ほかの人たち全部にハグをして、最後が僕で「来い」と言われました。  同様にハグしてくれて、「頑張ったな、この1週間」と言っていただきました。  

「お前たち、朝このきれいな机で勉強できるのは、小西がな、野球部でいち早く来て練習終わってから誰よりも先に教室に来て、雑巾でお前らの机を拭いてくれんやぞ。 小西に感謝しろ。」といったんです。  「小西 本当に有難う。」と抱きしめてくれて、今でも涙が出てきます。  「お前のやっていることは俺が絶対フォローしてやる。」と言われて、世の中がそこで変わりました。   次の週も「男ども・・・」と言って、みんな出て行って一人一人ハグして1週間分を褒めてくれる。  それがずーっと続いて、夏休みに考えて職員室に行って、将来を決めたんですが、「先生聞いてくれますか。」と言いました。 

「なんでや。」と言われたので「先生がかっこいいです。」と言ったら立ち上がってハグしてくれました。  野球をやって教師への道と、勉強して教師への道があるがどちらがいいかと言われて、「野球がいいです。」と言って野球を一生懸命やることにしました。    高校、大学共に野球で引っ張って貰いました。   大学での野球が厳しくて辞めて、生徒の前ではパフォーマンスしなくてはいけないと思って演劇部に入りました。  合気道をやっていたので怪獣をやれという事で関西弁でやっていたら、劇団のマネージャーからテレビに出たいかと言われて、連れて行って貰ったのがNHKの「中学生日記」でした。    生徒の役でした。  

銀河テレビ小説とか、島の若者Aでエキストラで出て藤岡弘さんと戦ったこともありました。 20年後に藤岡さんと出会って、覚えてくださっていました。  「中学生日記」のレギュラーになって、欽ちゃんを紹介してもらって、芸能界の道へと進みました。   大きな病気をしてから、全国の高校500校ぐらいで命の授業をしています。   山梨で授業をしていたときに、日本航空高等学校の院長先生が全国の通信教育の校長になって学んでいる子を助けてほしいと言われて、61歳で引き受けることになりました。 13歳の時の夢が50年経って叶いました。  

最初は何もわからなくて落ち込みました。  そこでコロナで学校に行かなくて家でやっていて、ちょっと楽になって、3月には卒業式を迎えることになりました。  送辞で、2年生の子が泣きながら「先輩のお陰で学校に行くことが出来ました。」といって、答辞でも「お前たち、俺はな・・・」と言って泣くんです。   保護者のお礼の言葉も「こうまでして、うちの娘を通信で高校卒業有難う。」と言って」みんなが泣くんです。  通信ってこうなんだと思います。  7割は不登校でやって来ます。  同じような境遇なので先輩たちが優しくハグしてくれるんです。    先輩たちが遠足に行った時に自分たちの話をしてくれます。  それでみんなが心を広げてくれて、学校へ来てもいいんだという思いを抱きます。  全部家でやって年間1週間授業をやるコース、1回/週のコース、毎日コースの3つのコースがあります。  

突発性難聴にもなり病院にいっても手遅れと言われました。  耳鳴りがしていて、或る近所の老医師から「良かったねえ、誰も持っていない可愛い鈴虫が二匹いるよ。」と言われました。   その時僕は泣き崩れて、「おんなじや。」といったんです。  師匠の萩本欣一さんと同じことを言うと思いました。  「悪いことも受け入れる。」という事で、その晩から寝られるようになりました。  身体にいいことをしようと思って煙草も辞めましたら、15kg太りましたが、1年かけて15kg落としました。   

2004年8月にアフリカに行く番組があり帰ってきたら、体調が悪くなりました。     食欲がなくなり、3大欲求(食欲、性欲、睡眠欲)がなくなり、12月23日にホテルのトイレで血尿で血の海になってしまいました。  病院へいってクリスマスの日にエコーを撮りました。  緊急検査をして、がんで普段なら死んでいるぐらいの大きいと言われました。 縦が20cm、横が13cmあると言われました。   ゴールデンウイークまでは持たないので、好きだと言っていたハワイに行きましょうという事を行っていました。   

今年92歳の父親には、心の整理をしておいてほしいと言いました。  手術の後、7月には徹子さんと一緒の番組に出て「末期がん」でしたという事、7月にでようとそれだけを楽しみにしていました。   5月をクリアして7月に番組に出ることが出来ました。   それまでに、お風呂で毎晩1時間ぐらい「死にたくない。」などと言って泣きました。  そうして泣き疲れるまで泣くとぐっすり眠れるんです。  僕は辛かったら泣いてくださいと言います、しっかり泣けばスッキリします。  闘病と言いますが、病気とは戦えません。  

先日もウルトラマンの大先輩(団時朗さん)が亡くなりお別れ会に行ってきました。  寂しくなるから行きたくないですが。   2009年4月、小西と同じ「欽ちゃんファミリー」の一員だった清水由貴子さんが49歳で自殺したことを知りました。  泣き崩れて「なんでしんだんじゃー。」と言って怒りました。   毎年4月20日にはお墓参りに行きます。 今日も生きる、明日も来る、と思って生きる思いを持つということは大切だと思います。  

「わたし終い」というのは、がんをしてから考えないようにしています。  人生を仕舞うという事はマイナスの様に思えて、夢を持つことによって人生楽しくなるという風に考えてずっと来ました。   今は考えを変えました。  嫌いな言葉の終活の番組に出ました。 雑誌の終活に関するの対談にも参加しました。  或るおじいさんが亡くなって、葬儀の時に自分が元気な時に撮ったものを自分が出て、お話をした動画があって観ますかと言われました。  

「・・・中卒だったが、夜間に引っ張ってくれた松本・・・」というんです。 「お前のお陰で大企業に就職出来て本当にありがとう、・・・有難う。」と言って頭を下げました。   その後に息子の名前を二人呼んで、「まだ若造でございますが、今後ともこの二人どうぞ宜しくお願い致します。」と言って、次に奥さんの名前を呼んで、「〇〇すまなんだなあ。  こんな我儘なわしで、本当にお前に迷惑をかけた、本当にすまん。 ええかこれからはお前ひとりだから楽しめよ。 ・・・どうか嫁とこの二人の息子をどうかよろしくお願いします。 楽しかった。 さようなら。」と言っていたのを見て号泣して、これはやった方がいいと思いました。  

終活で未来に流すビデオを撮っておいて、もし10年後に生活が変わっていれば、その部分だけ取り直せる。  そこに向かって10年間楽しめると思いました。   それが終活なんだけれども生きる目標になります。  後3年経ったら、いろいろ変わった部分を撮り直そうと思っています。  最後の部分に「先生になる夢は叶わなかった。」と言っていましたが、この部分は撮りなおせます。     いろいろな人との出会いがありましたが、やっぱり萩本欣一さんには人生のすべてを教わりました。   人生は波で100落ちたら100あがるから、20落ちて我慢したら20しかあがれない、100落ちたら100あがればいいんだ、落ちかけた時にもがいてはいけない、笑いながら落ちて行け、神様はもがけばもがくほど落ち以上にされてしまう。  100落ちたら周りが、あんなに大変なのに笑っているぞと、凄いなまだ何かあるのかなと勝手に思ってくれて、また仕事が来るよ。」と萩本さんは言ってくれました。  

わたし終いの極意とは、「明日があるから大丈夫」です。  全国の少し弱っている生徒さんを救ってあげたいです。   

















































 











  












2023年4月19日水曜日

大八木弘明(駒澤大学陸上競技部総監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 箱根から世界を目指せ!

 大八木弘明(駒澤大学陸上競技部総監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕  箱根から世界を目指せ!

今年正月箱根駅伝で駒澤大学が往路復路とも制する完全優勝で2年振り、8回目の総合優勝を果たしました。   これによって駒澤大学は出雲、全日本と併せて史上5校目の同一年度学生駅伝3冠を達成したことになります。  その駒澤大学を28年間にわたって指導してきた大八木弘明監督が今年の箱根をもって駅伝の指導からは離れ、今後は総監督という立場で卒業した田沢簾選手ら世界選手権やパリオリンピックなど世界でも活躍を目指す選手の指導に専念することになりました。  

まだまだいろいろやることがあり、旅行へ行くとかという気はないです。                  1958年(昭和33年)福島県会津若松市河東町生まれ。  中学のころから足が速く3000mは全国大会5位、福島県立会津工業高等学校時代は疲労骨折などがあって苦しむ。    高校卒業後、小森印刷(現:小森コーポレーション)に就職、競技を続ける。   箱根駅伝を走りたいという思いを断ち切れずに24歳で駒澤大学経済学部夜間部に進学して仕事、勉学、練習を成立させるために、会社を辞めて川崎市役所に就職。  大学時代は箱根駅伝を3回走って2回の区間賞を獲得。  卒業後、ヤクルトに就職してマラソンランナーを目指しますが、当時低迷していた母校駒澤大学の陸上競技部コーチに1995年に就任。 2004年からは監督に、今年までの通算28年間に箱根の総合優勝に8回、学生駅伝27回優勝の強豪チームを作り上げました。   

36歳で駒澤大学に来てあっという間に過ぎてきたという感じがあります。  福島は円谷選手のイメージがものすごくあって、福島の選手は我慢強い、忍耐力があってコツコツやってゆくという事を学んできたという思いがあります。   中学時代から大学に行って箱根駅伝を走りたいという思いがありました。   会津工業高等学校時代は疲労骨折してしまって、トレーニングを再開しても元のような走りができなくなってしまいました。     3年間悩みました。   実業団でもやりたかったので、相談したら顧問の先生から小森印刷を紹介されて就職しました。   2年目からはエースの存在になりました。  箱根駅伝を走りたいという思いがあり、二部の大学に進み市役所に転職しました。    厳しい4年間で、分刻みの行動で、短い時間で効率のいい動きが出来ました。  朝は練習しません。  お昼に8km走りました。   4時半ぐらいからトレーニングして6時ごろ大学に行きました。 (練習がしたくて1時間目には遅刻していました。)    1984年第60回箱根駅伝に5区(山登り)を走ることが出来ました。   記念大会で20校が出場。  1区が20位ぐらいでもう区間賞を狙うしかないと思って突っ込んでいきました。  区間賞をとることが出来ました。  忙しくて大学2年では夕食を雑に取っていて、栄養面が行き届かずに貧血になってしまいました。  大会参加が出来ず悔しい思いをしました。  以後食事には気を遣うようになりました。   大学3年生の時には2区を走り、区間賞をとることが出来ました。  車を追いかけ監督車に乗って後続の選手の応援をしました。

現在は、応援のための声をかける場所が何か所か決められていて、そこで約1分の応援のための声掛けができます。  藤井選手が6区を走った時に、ラスト3kmの時にフラフラの状態で、その時に「男だろう! 男だったら最後までタスキを渡さないといかん。」といった覚えがあります。  疲労骨折などしてきた体験を生かせるように、指導にも生かしてきました。 

母校駒澤大学の陸上競技部コーチに1995年に就任。  藤田敦史選手が当時貧血であまり走れなかったが、妻に鉄分の多い食事を考えて食べさせたりしました。  夏には強くなりました。   妻は食事の管理をして、学校に通って栄養士の資格まで取りました。   最初は20人ぐらいが寮で食事をしていましたが、今では50人程度になって来ました。      

初めての総合優勝が2000年。  13年間優勝から遠ざかった時もありました。  多少自分の中におごりというか、このぐらいやっていれば優勝出来るのではないかという思いがありました。   箱根と世界とを、両方ともやりたくてしょうがなかった。  いい選手がいましたが勝てなくて申し訳なかったと思います。   昔のやり方では通用しなくなってきたという思いがあり、自分が変わらなければ絶対選手も変わって行かないと思ったので、以前の様にメニューをこちらが示して、やらせるようにしていましたが、コミュニケーションをとって、優しい言葉をかけながら接していこうとしました。  

マラソンの指導をしたいという思いはありました。 私のやり方が藤田敦史選手と合っていたようで、藤田選手との出会いは恵まれました。  箱根から世界へという思いはずーっと持っています。   大学3年生から私が練習のスケジュールを立ててきて、今年の2月まで立ててきました。   田沢簾はじめ鈴木芽吹、篠原倖太朗、佐藤圭汰とか世界を目指す選手が出て来て、そういった選手を見ながらやっていきたいと思います。  現場で、成長してゆく選手を見守るのが楽しみです。































 

 







 
















 

2023年4月18日火曜日

髙橋秀実(ノンフィクション作家)     ・父は哲学者になった!?

 髙橋秀実(ノンフィクション作家)     ・父は哲学者になった!?

髙橋秀実さんは1961年横浜市生まれ。   これまでダイエットやパワースポットのような身近な問題から外国人問題、道徳教育など幅広く取材をしています。   最近では認知症の父親と過ごした日々を「親父はニーチェ」という一冊にまとめました。   

父親が亡くなったのは2020年2月。   ああすればよかった、こうすればよかったというようなことが続いています。  後になって判ることがいろいろあります。  私は20歳で大学に通うために家を出ました。   弟もその後家を出て両親二人暮らしになりました。  母が突然急性大動脈解離で亡くなりまして、父が一人になってしまいました。   我々夫婦、弟が来て一緒に暮らすようになりました。   87歳でご飯も自分では作らない、作れない。  母が全部身の回りのことをやっていましたから、自分で身の回りのことができないことが判りました。   父は母が亡くなったことも理解していませんでした。(認知症)  

父の話すことを逐一メモするようになりました。    これはこういう事なのかなと考えるようになりました。   目と目で向かい合って話すと喧嘩にありますが、メモすると下を向いているので父も話しやすかったようです。   父の言葉を吟味できるようになりました。   同じような繰り返しばっかりに聞こえたんですが、メモしていると毎回ちょっと違うんです。  後で読み返した時に、そうするとこれはこういうことかもしれないと結構気が付くことがあります。   この本のきっかけはそういうことからです。 

本の中から、介護認定するときの、介護認定調査員とのやり取り。           「今日は朝ごはん食べましたか」  「ハイ美味しく頂きました」   「何を食べましたか」 「ふっくら炊き上がった白いご飯、温かい豆腐のお味噌汁、それと焼いた鮭、ほうれん草のお浸しもいただきました。」   でもその日は豆腐と目玉焼きだったんです。  調査員の人はこの時点で認知症と判ったらしいんです。   これは「取り繕い反応」と呼ばれる症状です。  判らない時に適当に取り繕う。   本には書いていないんですが、「お風呂は入りましたか」と聞かれた時に、「風呂はうちは薪ですから、息を吹きかけてやるので、火加減が大変です。」と答えたんです。  これは完全に認知症という事です。  

介護認定3という事になりました。  認知症のことについて深く知りたいと思うようになりました。  認知症には原因別として、レビー小体型認知症(脳の神経細胞にはαシヌクレインというたんぱく質が存在します。これを核とするレビー小体という物質が大脳皮質にたまると、脳の神経細胞が徐々に減ってゆく。)とアルツハイマー型認知症(アミロイドβ(ベータ)と呼ばれる異常なたんぱく質の蓄積と神経原線維変化(過剰にリン酸化されたタウ蛋白の蓄積)という脳の中での2つの変化を特徴とします。)があります。  脳にタンパク質が蓄積すること、脳の縮小が原因で起きる。  父は家父長制型認知症で、脳の大脳生理学的な原因ではなくて、生活習慣が原因で起こる認知症。    自分では何にもしないで妻が身の回りのことを全部やるという、この生活をずーっとしていると妻が居なくなると何にもできなくなる。  私が考えた病名です。  食事は作る事ですが、父にとっては座る事なんです、座ると食事がでてくる。  ですからずーっと座っていたりする。    生活習慣によって引き起こされた症状だと思います。           相手に違和感なく話すことはできる。   

正常な認知とはどういうことなのか、という事を考えさせられるきっかけになりました。 「今いるところはどこなのか」と尋ねると「ここがどこかって、そうここがどこ、どこが、ここが、どこって」  自分を確実に捉えているかどうかのテストだが、家とか病院とか言ってくればいいんですが、父が「ここってどこ」と聞き返してきたんです。  「ここはどこ」は住所、場所,位置とかですが、「ここってどこ」というのは概念、ここって言うのはどこなんだろう、と考えさせられてしまった。   これは哲学的な問題なんではないだろうかと、思いました。  

ここはどこなのか、と言うのは西洋哲学ではずーっと考えてきている。  我々はどこからきてどこへ行くのかというのは大きなテーマで、前提としても「どこ」というのは何なのか、「ここ」はどこをさしているのか、父と話をしていると、哲学の問題提起とか、そういう事に重なっているというような気がしました。   約束事が守れるかどうかテストするのが認知症の診断です。   語彙が少なくなってゆく症状が一つありますが、コップをもって「これな何」といったんです。  そうしたら「ヘー」とか言ったんです。 「これは何ですか」と聞いたら「そうなんだ」というんです。  これも取り繕いだと思いました。

妻が脱ぎっぱなしにしてあった靴下をもって、「これは何」とよく聞いていたしていました。  この時、聞いているのは靴下ではなくて、正しい答えは「どうもすみません」ですね。  「靴下」と答えてしまうと喧嘩になってしまう。  そこから「へー」とかの答えが出てくる。  取り繕い反応のひとつの解釈だと思います。  日常会話では「これは何」と言って「コップです」というような会話はあり得ない。

父は私のことを「社長」、「お兄ちゃん」と呼んだりしていましたが、自営業なので社長と言えば社長で、昔から気分がいい時には「さあ行こう 社長」とニックネームみたいに使っていたし、私は長男なので「お兄ちゃん」でもあるわけです。  

母が亡くなった後に、或る人に会った時に、「奥さん お元気ですか」と問われ「元気です。 二階で寝ています。」とか言うんです。  その人が話している奥さんというイメージのものに話を合わしているんですね。    社会生活とか、社会性、約束事、(今日は〇月〇日とか、どこへ行くとか)がかなり失われて行くと、その人の持っている認知が割とむき出しになる。  それをきちんと理解することが大事なんだと思います。  語彙は少なくなってゆくが、「それ、それ、あれ、どれ」とかでも会話は出来る。  会話にはそれぞれ距離感がある。  距離感をきちんと捉えていれば、話の内容はさほど重要ではない。認知症の反対は正常な認知ですが、多かれ少なかれ人は認知症みたいなところはあると思います。 人は一人では生きていけない、誰かに助けてもらったりしてやっと生きているわけですから。  支え合って生きている社会ですから。  超高齢者社会になり認知症は社会問題だと捉えて、支え合って生きた行く社会だと思います。  

















                            








2023年4月17日月曜日

山部泰嗣(太鼓奏者)          ・〔にっぽんの音〕

 山部泰嗣(太鼓奏者)          ・〔にっぽんの音〕

日本太鼓ジュニアコンクール 25回目になります。  今年は審査員をやりました。     全国から高校生以下の太鼓のチームが参加して、その演奏技術を競います。    大会は1999年から始まり、今回で25回目、各地区の予選を勝ち抜いた国内37の都道府県から43チーム、海外からは台湾の1チームが参加します。  君が代から始まり、プラカードを持って選手宣誓あり、去年はコロナで無観客で行いました。  今回は石川県で行われました。 太鼓はトラックで運ばれてきて何十台も集まって壮観です。  上は18歳までで下は決まりがないです。   今回は5歳が最年少でした。   課題曲と自由曲を演奏します。  課題曲では楽譜が配られますが、どう解釈して演奏するかは自由です。  今回の課題曲はテーマが「旅立ち」作曲は日本太鼓財団会長長谷川義さん。

全国で約4万チームあり、子供たちのチームは2000~3000チームあります。  

課題曲 「旅立ち」  1分 

*大分県代表 三代目源流の演奏   3位になった。

*新潟県代表 新潟万代太鼓 鼓助の演奏

自由曲は4分 5分以内に演奏を終わらせる。

自由曲

*福岡県代表 糸島二丈絆太鼓. 総務大臣賞 準優勝  曲「ガラシャ」                 小学校1年生から高校3年生までの子ども達 

特別演奏 ブラジル代表 2019年のブラジルでの大会で優勝

台湾チームは2021年動画参加以来の参加。

台湾 葫蘆墩(フルトン)Smile太鼓團  特別賞受賞

ブラジル クリチーバ若葉太鼓  特別出演  「餅つき」

海外勢の楽しさが伝わってくるのがあり、レベルも上がってきた。

*宮崎県代表  橘太鼓「響座」ジュニア 内閣総理大臣賞 優勝 「アッセンブル」

テンポが速く、正確に、一音ずつの粒立ちがいいです。  13人編成。 

熊本のチームで〆太鼓を打っていた子が明らかに上手いが、その子は自分が上手いですよという事をあまり出さなかった。  周りを引っ張りながら、上の子について行きながら、下の子にはこっちだよと、音でそれをやってゆく。  それは僕だよという事を見せないというのは素晴らしい技術だと思いました。  ただ音が揃っているからチームワークがいいというのではなく、隣のことを見るのではなく、感じながら打っているなという事は音に出るから。  チームの空気感が見える。


















2023年4月16日日曜日

芦原伸(紀行作家)           ・〔美味しい仕事人〕 食で知る世界の文化

芦原伸(紀行作家)           ・〔美味しい仕事人〕 食で知る世界の文化 

芦原伸さん(76歳)はこれまで世界70か国以上、5大陸と7つのうみを取材で旅をしてきました。   旅をして料理を知ることはその土地の生活を知る事であり、調理法は民族固有の技術であって知恵であると言います。  

ここ10年で、グローバルスタンダードと言いますが、スタンダード化してきています。  ホテルのレストラン、街のちょっとしたレストランに行くとあまり変わらないです。    その国の田舎とか、小さな街のちょっとくたびれた食堂とか砂漠の市場とか、そういったところに行くと民族料理みたいな、その国でしかない料理が根付いています。   そういうのに出会うと楽しくてしょうがないです。   色々聞きまくって記録します。    日本では肉というと牛肉ですが、世界では上位ランキングではないです。   ニュージーランドで牛肉が一番安い、つぎが豚肉、一番高いのが鳥です。   牛は放っておけばよくて草を食べている。  豚は豚舎が必要で餌もあげないといけない。  鶏は大きな鶏舎が必要で穀物の餌をあげないといけない。  育てるのに一番お金がかかる。  宗教上、牛、豚は食べられないところもあり、一番食べられているのが羊だと思います。  

明治以降に肉食文化が作られ行って、牛、豚でも薄切りがメインです。  ヨーロッパなどでは肉は固まりなんです。  薄くすると美味しくない。   イギリスでは一番のおもてなしは台所で客に一緒に食べさせることなんです。(一番フレンドリー 家族同然なもてなし)   その友達の家でスキヤキパーティーをすることになって肉を買いに行ったが、肉のブロックしか売っていない。   ハムスライサーでやってもらいました。  醤油とかいろいろ取り揃えましたが、最初の生卵から駄目でした。  その後パスタを入れて食べましたがそれでも彼らにとっては前菜なんです。  メインは何と言われてしまいました。  

南アフリカで食べましたが、ワニの肉は美味しいです。 食べるために養殖しています。  中国の広東州では「野味」といって、アルマジロ、犬、狸などがはいった鉄の檻があります。  僕はフクロウを食べました。  鍋料理で味付けは赤味噌でした。   ワイルドのものも料理法によって美味しいです。   

生まれは三重県です。  父親が医師で名古屋で開業していましたが、戦争で三重県に疎開して戦後に生まれました。  幼稚園から高校まで名古屋で過ごしました。  北海道大学に行きました。   大学3年の時に父親が亡くなり、叔父の家に養子に行きました。   中学ぐらいから鉄道に乗るのが好きでローカル線が好きでした。  大学紛争の時代で、与論島に行き、サトウキビ狩りなどもやりました。   編集者の募集があり、4年ぐらい編集者をやっていました。   1976年、フリーランスライターとして独立しました。   固定した出版社が3社あり仕事は絶えなかったです。   編集プロダクションは30年以上やりました。  バブルで海外旅行大ブームが起きました。   海外ガイドブックがなくて出しました。   草鞋を3つ履きました。  作家記者、編集者、経営者。  最後は出版社も作りました。  自分で書いた本だけで50冊ぐらいあります。  編集した雑誌を入れると数えきれないですね。   

ポルトガル料理で面白い料理があります。 「バカリャウ」と言います。  「バカヤロウ」と言っても通じちゃうんです。   塩漬けにしたタラを乾燥させます。  それを戻して、玉ねぎとインゲンなどいれて卵とじにします。  タラを取るためにイギリスとアイスランドが戦争状態になるタラ戦争があったんです。  大航海時代を支えたのがタラだと言われています。  保存が出来て力が付くから。

スコットランドの伝統料理をニュージーランドで食べたものに「ハギス」という料理があります。  羊の料理です。  茹でた内臓心臓肝臓)のミンチオート麦たまねぎハーブを刻み、牛脂とともに羊の胃袋に詰めて茹るか蒸したプディング(詰め物料理)の一種。  ニュージーランドのレストランの特別料理でやっていました。  バーンズの作詩した『ハギスに捧げる詩』 を歌い上げる儀式を執り行い、伝統的なメインディッシュとして供される。  美味しいとは言えない味でした。  

チンギス・ハーンが世界制覇できたのは羊のお陰だと言われるぐらい、羊は連れて行って食べられる、防寒具にもなる。  肉は焼かないで煮て食べるが、油がもったいなくて御馳走になる。  6月にバルカン半島に行きます。  マケドニアにはアレキサンダー大王が好んで飲んだというワインのブドウの原種が残っていて、それからワインを作っていて、それが飲めるわけです。  最後の晩餐としてのイメージは赤ワインにパン、魚はタラ、肉は羊ですかね。






























 








2023年4月15日土曜日

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)      ・正しい知識が命を救う ~後編・火山のメカニズム~

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)    ・正しい知識が命を救う ~後編・火山のメカニズム~ 

鎌田さん(67歳)の専門は火山学、地球科学、科学コミュニケーションで、地球科学入門の講義は毎年数百人の学生を集め、京大で人気NO1の教授と言われました。  一昨年定年退官し、現在は京都大学名誉教授、京都大学レジリエンス実践ユニット特任教授として研究を続けて、著書やホームページ、講演などを通じて地震と火山の正しい知識を広く伝えています。   科学をわかりやすく伝える科学の伝道師を自認する鎌田さんに地震と火山の正しい知識を地球科学という大きな視点からわかりやすく教えていただきます。   

2011年の東日本大震災で日本列島は1000年振りの地殻の変動期に入りました。     1000年振りに地面が不安定となりました。 いま引っ張られるストレスが溜まってマグマにも影響します。   2011年3月11日の直後に火山の地下で地震が起き始めました。   日本には111個の活火山があります。   火山のマグマだまりの側で地震が起き始めました。   具体的には20個です。   火山の20個が噴火のスタンバイ状態になったと我々は捉えています。   20個の中には富士山も入っています。   箱根山、浅間山、草津白根山、九州の九重山、阿蘇山とか入っています。  箱根山、草津白根山は噴火しました。   富士山は噴火はしていませんが、マグマだまりが不安定になったという事はあります。  

富士山の地下には熱いマグマが溜まったところが地下20kmのところにあります。   花崗岩、玄武岩などを1000~1100℃で溶かすとドロドロに溶けます。   それが地下20kmのところにぎゅぎゅうに詰め込まれています。   111個の活火山の地下にはそれがあります。   地震によって揺れるとマグマが噴火することがあります。   マグマには5%ぐらい水分が入っています。  水が水蒸気(体積が増える)になると噴火します。     水が水蒸気になると体積が500~1000倍になります。     地震でマグマだまりを揺らすと、噴火を起こす可能性がある。  東日本大震災はマグマだまりを揺らしたんです。  

2011年3月11日の4日後に富士山の地下でマグマだまりの上が割れるという事がありました。   富士宮辺りでは震度6強という大きな地震がありました。  富士山の地下14kmのところで岩石が割れたんです。  ぎゅうぎゅうに詰め込まれたマグマだまりの上にひびが入ると、圧力が抜けます。  そうするとまた水が水蒸気になります。 そうすると1000倍ぐらいになり噴火をします。  幸い噴火はしていません。  ひび割れのまま12年経っています。  噴火スタンバイ状態という現象なんです。  

1707年江戸時代中期、新井白石が記述していますが、1707年に南海トラフ大地震が起きました。(宝永地震)    49日後に富士山が噴火しました。  火山灰が江戸の街に降って来て日記に最初白いものが降って来て、その後黒いものが降ってきたと書いている。  マグマだまりの上の方はシリカを中心に、下の方には鉄、マグネシュウムなどがある。  地震がマグマだまりを揺らしたという例です。   これからも起きる可能性があるといことで心配しています。  

太平洋プレートが日本にぶつかって沈み込みますが、跳ね返ると地震が起き、跳ね返らないでどんどん潜ってゆき、マントルに突っ込むとプレートから水が絞り出される。  太平洋プレートには水が沁み込んでいる。   沈み込んできた太平洋プレートから水が絞り出されて上の方に行き、岩石を溶かしマグマが出来てしまう。    プレートの沈み込みは地震も起こすが噴火も起こすという二つの現象の原因なんです。  火山帯はプレートが沈み込んである深さで水を絞り出して地下では火山が噴き出してくる。  日本列島には4つのプレートがあり、2つは海のプレート、2つは陸のプレートで、海の太平洋プレートは陸の北米プレートに沈み込み(東日本大震災を引き起こした。)、もう一つは海のフィリピン海プレートは陸のユーラシアプレートに沈み込みます。(南海トラフ地震を起こす。)    二つのペアの丁度いい深さのところに火山の列が出来るわけです。  それが火山帯です。  北海道から東北、富士山にかけてと、伊豆七島から西ノ島新島にかけて、これは太平洋プレートが沈み込むことによってできる火山列です。  中国地方から九州までのものは、海のフィリピン海プレートが陸のユーラシアプレートに沈み込む事で出来た火山列です。  

噴火は分かるものもあるし、らないものもあります。  2000年の有珠山の噴火は割と分かり易くて、噴火の前に山が膨れるとか、地震が起きるとかで、事前に判りました。  御岳山では急に水蒸気が上がって岩石が降ってきた。  マグマが出る前に水蒸気爆発が起きて沢山の方がなくなりました。  千差万別で火山によって違います。  富士山は前回噴火したのは約300年前で、噴火前の詳細な記録がない。  噴火を予知するためには地震の観測(マグマが上がってくるときには地震が起きる)、地殻変動(マグマが上がってくるときに起きる。)の測定、そういったことで予測する。  

これから起きてくることを注意深く見て行かなくてはいけない。  富士山は日本一観測網が完備された山ではあります。     低周波地震(液体、マグマだまりが揺れる。)が最初に起きます。(噴火の約1ケ月前)  次に高周波地震が起きて(有感地震 1週間前ぐらい)火山性微動が起きて、30分から1日ぐらいで噴火が起きる。    低周波地震は数年に一回程度起きます。  富士山は記録がないので似たような山を参考にはします。  富士山は山頂の噴火はほとんどなく横から出てきます。  1707年の噴火は南東のすそ野から噴火しました。  平安時代は北西の山腹から噴火し溶岩を流しました。    地震の起きる場所によって或る程度噴火の場所は予測できます。  富士山は1ケ月前には予兆が把握できると思っています。 

宝永の噴火では横浜に10cm、江戸に5cmの火山灰が降って、1ケ月舞っていました。  平安時代の865年には溶岩流の被害で、青木ヶ原樹海の下は溶岩です。  富士4湖だったが溶岩が流れ湖が二つになり富士5湖になった。   江戸時代の火山灰が降った後、雨が降ると泥流となり、下流まで行き、小田原まで行って毎年のように被害をもたらした。  火山灰は小さなガラスのかけらで、目に入ると炎症を起こす。   コンピューターのなかに入って誤作動を起こす。   現代社会ではライフラインは全てコンピューターで動いているのですごい被害をもたらす。   ジェット機にも被害をもたらす。  交通関係の車、電車、船なども被害をこうむる。  水も汚染される。  都市機能がマヒする。  偏西風により首都圏3500万人が火山被害になってしまう。    富士山ハザードマップが出来ています。   溶岩流が南側で起きた場合は東西の大動脈が寸断されます。  溶岩流は熱いので数か月に渡って不通になる。  神奈川県も溶岩流が流れてくる対象県になりました。   

水蒸気も一気に上がると火口の岩石を吹き飛ばします。(水蒸気爆発、水蒸気噴火)    1991年、雲仙普賢岳の大火砕流  600℃ぐらいのもので、マグマが砕けて岩石も一緒になって流れる。  600℃で時速100kmの紛体流が襲ってくる。  火山の噴火現象では一番危険です。  2000年、3000年前でも富士山に火砕流の証拠があります。  

今日、話した内容は全部地球科学の研究のベースに成り立っています。  過去に起きたことを学ぶ。   イギリスの哲学者のフランシス・ベーコンという人が「知識は力なり」といったんです。  知識は自分を守る力になります。  富士山は300年噴火していなくて恵みを与えています。  300年の長い恵みと短い災害があるが、短い災害をどうやってかわすか、火山学、地震学を知ることで災害を減らすことができる。  長い尺度で見ると日本の美しい自然を楽しむことができるし、長い恵みと短い災害、短い災害は科学を利用して被害を最小限にかわしてゆく。