2016年6月7日火曜日

2016年6月6日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・もはや戦後ではない

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・もはや戦後ではない(第30回)

経済白書は昭和22年7月に第1回目がでた。
平和時の国家予算、日本の経済はどういう方向に進むのか等、総合的な日本の経済状況を総括的に記録するのが白書という形で出てくる。
第1回は財政基盤ができてなくて、国家予算の体を成さない状況だったので、それを正直に示していた。
昭和31年の経済白書 副題「日本経済の成長と近代化」
10年経って、戦後復興も終わって新しい時代の経済に入ってゆくという事を国民に訴えている。
「もはや戦後ではない」という文が終章に書かれている。
国際収支が5億3500万ドルの黒字になっている。
GNP10%の伸びを含めて日本経済が昭和6年の状態に戻った状況になった事を示す。
軍事化した政治にたいする反省、問題点を指摘している。
経済企画庁の調査課長の後藤譽之助さんを軸とするスタッフ。
昭和10年代は軍事を中心に痛めつけられた、経済の大蔵官僚だった。

大蔵省を中心とする有能な経済官僚は軍事に痛めつけられていて、自分達の政策を何ひとつ打ちだすことができなくて、平時になってやっと打ち出すことができて段々実ってきて、もはや戦後ではないと、そこに経済官僚たちの誇りを感じます。
福田赳夫さんが大蔵省の主計官僚だった時に、軍人に予算をどう使うか、という事を聞く事自体が、統帥権侵害だとか、サーベルで脅かされたりした、ということを書いたりしています。
消費者の購買力が上がってメーカーの商品が多様化してゆく。
生活の近代化の方向に進まないといけないと言っている。
電化製品、TV、洗濯機、冷蔵庫、(3種の神器)、扇風機などが出回るようになってくる。
特に弱電部門等は著しい技術革新をしてゆく。
大形の土木機械の開発、繊維部門でも新しい素材が開発される。
経済の仕組みがぐんぐん良くなってゆく。(神武景気昭和30~32年)
皇太子御成婚の時、(昭和34年4月10日) 白黒TVが普及する。
経済白書は日本人の勤勉性も評価している。
世界情勢が平和的共存の方向にいって、それがあいまって日本経済もよくなる。

「もはや戦後ではない」 昭和31年2月号文芸春秋、中野好夫さんの論文がでる。
当時、半藤さんが中野好夫さんに依頼したと言っている。
55年体制、自由民主党、日本社会党が支えてゆく事になる。
昭和30年11月 自由党、日本民主党、改進党などが合同する、自由民主党結党。
対立が鮮明になる、基地問題、教科書、などいろいろな問題が対立点として出てくる。
鳩山一郎内閣、日ソ国交回復、ソ連との関係を良好にしてゆく外交方針の一番の柱となる。 
昭和31年10月に日ソ国交回復の共同宣言についての演説。(鳩山首相)
平和条約締結後に歯舞、色丹両島を返還するという事を述べている。
平和条約の締結、60年経った今も結ばれていないが異様な感じがする。
ソ連が拒否権を使わないという事で、国際連合に加盟する事が出来、日本が新しい国家像をもっているという事が理解されていった年だと思います。

昭和31年3月に芥川賞受賞した「太陽の季節」(石原慎太郎23歳)
吃驚する様な新しいモラル、選考に賛否両論があり対立が際立っていた。
「私の秘密」(高橋圭三アナウンサー)、「チロリン村とクルミの木」、「お笑い三人組」等の番組が放送される。
歌謡曲「ケセラセラ」「有楽町で逢いましょう」「ダイアナ」




2016年6月5日日曜日

小原乃梨子(声優)       ・時代を創った声(5)

小原乃梨子(声優)       ・時代を創った声(5)
ドラえもんののび太君、マージョ様ドロンジョ様ほか様々なアニメのほか、映画の吹き替えなどを担当。
26年間 のび太君を担当。
映像を見ていると役に入って行ってしまう。
お色気のあるキャラクターの元になったのは、吹き替えでブリジッドバルドーとかジェーンフォンダ等を担当するようになって、そうなってきた様に思う。
ヤッターマンシリーズは悪の3人組は変わらずにやっています。
色っぽいとどうしても下品になってしまうのでやだなあと思って、品が悪くならないようにやっています。
たくさんのキャラクターがかさなってくると、例えばブリジッドバルドーを演じるんじゃなくて、ブリジッドバルドーのやってる役を演じるんだと判るまで時間がかかりましたが、それからは楽になりました。

小学校4年生の時に終戦で、童謡がはやっていて、いいなあと思って劇団に入団していろいろ教わって公演したりNHKのラジオに出たりしました。
劇団には3つ下に池田昌子さんがいました。
父は弁護士だったので、私のすることは好きではなかったようですが、母からは洋服をつくってもらったりいろいろ随分サポートしてもらいました。
中学では演劇部で演劇の勉強などをしていました。
若草物語の映画が来て、この役をやりたいなあと思っていました。
女優を意識したのが若草物語を見たのが初めてです。
それから何十年経ってから吹き替えを担当するようになったが吃驚しました。
その後高校卒業後TVに飛び込んで、やたらでていました。
洋画の吹き替えのジャンルがでてくるが、生放送だったので画像と合わなかったことがしばしばだった。

録音になるが30分ロールを回すが、とちったら最初からやりなおすので、皆さん円形脱毛症になりました。
男性陣は大変でした。
朝までかかったのが良くありましたが、みんなで協力していい輪が出来ました。
今はいい翻訳家が沢山育っているので楽ですが。
TVの草創期を支えたメンバーといった感じです、だってそれができなくては帰れないんです。
アニメも増えてきて、吹き替えはイアホーンから聞こえてくるが、本当にしっかり見てしっかりやらないとどこのタイミングでやるのかが難しい。
紙で動くところに感情を入れるのは吹き替えとは違います。
人形劇 ブンブンたいむ ぬいぐるみの中に入っている俳優さんが上手だとやり易いです。
声がでなくなった時は大変つらいです。(風邪、体調など)
自分でここのトーンでこう行きたいのに、でてくる音がそうでないときは本当にきついです。
2カ月ぐらい声がでなくなった時もありました。

私の失敗談からとか、基礎が大事ですよと、若い人たちにアドバイスしています。
健康も芸のうちです、周りに迷惑をしてしまうので。
皆年齢が上がってゆくので、ドラえもんも次の世代に渡してゆくのも、素晴らしい事じゃないという事で変わったわけです。
いい作品は色々な世代をつないでいかなければ。
子育ての時期は大変でした、なりふり構わずという様な状況でした。
子供を親戚に預かってもらって、見てもらったりしました。
明け方の時もあるので、迎えに行って回りに気兼ねして車をそーっと出すことがありました。
主人の母が認知症になった時は相当きつかったです。
どうしていいか判らない状況で、頑張りすぎました。
乗り越えるのにはこの仕事をやらなければという思いがあり、必死な時間が何年間かありました。
祖母がそうならなかったら、私は回りのありがたみが判らずに来てしまったのかもしれません。

今の若い人は本を見ない、文字は素晴らしいツールなので、感じられる心が持てるように詩がいいと思う。
いい経験よりも悪いとか嫌な経験の方が力になると思います。

















2016年6月4日土曜日

吉岡幸雄(染織史家)      ・祈りの色を染める

吉岡幸雄(染織史家)      ・祈りの色を染める
70歳、京都で江戸時代から続く染色工房の5代目当主です。
長年自然素材の染料で糸や布を染める技を究めることに力を注いできました。
正倉院宝物など古い布の復元や東大寺、薬師寺などの法要で飾られる造花の和紙なども染めています。
吉岡さんが常に感じているのは古の人々の色を染めるということへの熱い情熱と、手間の掛け方です。
古代の人々の心と技に迫る染めの道について伺います。

今、ネズミ色を染めているが、矢車(やしゃ)という染料で染めています。
次に定着させる液ですが、無色透明ですが鉄分がたくさん入っている。
手で布を動かしながら交互に15分間づつ浸けることによってグレーになる。
水は100mの地下水を使います。
我々が勝てない色ができていて古典に対する尊厳が僕の中にあります。
作業はとても手間暇がかかり、そうでないと出来ないです。
芯まで色が入っていないと人間の目というのは鋭いので、満足しません、浸透したものが美しい。
濃いものを使うといろいろむらができてしまう。
料理でも急いで作ると中に味が沁み込まないが同様です。
高貴な紫、紫草の草の根を使います、隠れた処から色素を引っ張り出してくる。
桃色、ベニバナから作ります、花そのものはオレンジですが赤と黄色の色素を花弁に持っていますのでオレンジに見えます。
水で洗うと黄色が抜けて赤だけ残して、赤はわら灰のあくでもんでやると赤が出てくるので、赤だけを取って染めていきます。(わら灰も作っています。)

私たちは江戸以前のやり方を踏襲する事をモットーにしています。
自然と共存共栄している様な物がいい技術だったり、いい理論だったりだと思います。
染料の元となるのは全て自然の生みだしたものです。
天然の染料だと、派手、きらびやかは問題ではなく、色の見えている裏にまだ色が見えているというか、眼球の中の裏にまで入ってくるように見えるんです。
美しく染めないといけない、材料を無駄にしてはいけない、持っているものを十分に引き出す、材料を上手に使ってあげる。
染色は現在よりも奈良時代、平安時代の方がピークだと思っています。
染色の為のレシピ帳みたいなものがあり、それが記載されている。

羅列してあるだけで、細かいことは書いてなくて、何故この紫を求めるとかは書いてはいない。
色にたいする思いを知りたくて、源氏物語を読んで、研究しました。
1/3~2/3は海外から材料を輸入していて、日本の色と言えるかは別にして、その色を使って季節感をあわすために使っているが、飛鳥時代から始まっています。
微妙に移り替ってゆく色に、季節に対しての思い入れは日本人は強いです。
日本人は色を組み合わせるには、その時に咲いている自分の好きな花をお手本にするとか、その基本になっているのが季節です。
5月は紫の季節だと思います、(藤、カキツバタ、アヤメ、桐等)
繊細さ、そういうものは日本人の得意のものではないでしょうか、それは自然がこしらえたと思います、自然をよく理解、感謝している人は色にたいする感性はおのずから付いてくるんじゃないかなあと思います。

昭和21年京都で江戸時代から続く長男として生まれる。
若いころ家の仕事を継ぐのは嫌だった。(文学に傾倒していた)
現代文学を学ぶため東京の大学に進み、出版会社に就職、2年余り務めた後、1973年美術工芸を専門とする出版社を設立して独立、日本の美術や工芸に深くかかわる様になる。
その5年後、世界の染色と織物を探究する30卷に渡る全集の仕事が舞い込む。
正確に伝えなくてはいけないので、海外の美術、博物館などを必死になって見て、美しいなあと思うものは1700年以前のものだった。
化学染料が発明されていない時代でした。
色にたいしての興味が強く出てきた。
父 常雄さんのライフワーク 帝王紫(古代の紫)の復元に精力を傾けていました。
特定の貝の中にある極僅かな量の色素を集めて作られてました。
この貝を調査するため吉岡さんは南米ペルーに向かう父に同行しました。(1983年、36歳の時)

海岸で貝を採取して、1週間以上いました。
幸運に色んな貝が取れて良かったです。
家業を継ぐ大きな転機になりました。
1988年 家業を継ぎ、5代目当主となりました。(41歳)
着物、帯とかの産業は駄目になってゆく時代だった。
物を売るシステムも変えてしまったので苦労しました。
材料の購入に関する事でも苦労しました。
父の代から東大寺、薬師寺、法隆寺などのお寺神社の仕事があった。
薬師寺では、国の繁栄と人々の幸せを願う春先の法要が1300年余り続いている。
花会式と呼ばれる今の形になったのは900年余り前、花会式では本尊の薬師如来が桜、カキツバタなど10種類の和紙に染められた造花で飾られますが、その内4種類を納めています。
堀川天皇が皇后の病気平癒を祈願したところ病気が治り、皇后は翌年の法要で薬師如来に10種類の造花を捧げました。

衣装も古代のやり方でやってみたいと思いました。
現代はできないので挑戦してみようと思いました。
布の手帳(サンプル)があったので、これを見ていて簡単にできると思うが出来ないんです。
400年前のものですが、色が褪せていなくて、本当に綺麗です。
色も出せないがこのような糸もないし絞りも出来ないです。
桃山時代にはもっと凄い物もあるし平安時代にもあるし、飛鳥までさかのぼります。
これを見て感心ばっかりしています。
自然のたまものがもたらす奥深い美しさを知ってほしいと思い、各地で展覧会を開いています。
講演もやっています。
継続している事によって仕事の継続が出来、技術も忘れない。
植物からもらう色の奥底には又色があると思います。





2016年6月3日金曜日

ハービー山口(写真家)     ・”日常にある奇跡”を撮る

ハービー山口(写真家)     ・”日常にある奇跡”を撮る
昭和25年東京生まれ 66歳 中学生のころから写真をはじめたハービーさんは大学生の時、人の心が優しくなり、希望をつたえる写真をモノクロで撮るというスタイルを決めます。
しかし就職活動に失敗し、違う人生を考えようと、ロンドンに渡り、劇団の役者になりました。
それでもハービーさんは街の人々、ミュージシャンの自然の表情を写真に撮り、その作品が徐々に評価され、写真家としてのキャリア築きます。
昭和58年に帰国した後も一貫して自分のスタイルで活動を続けているハービーさんは日常にこそ輝く奇跡の様な瞬間があると言います。

*ロンドンで女性の先生が子供達の手をひいて歩いてる写真
1974年 24歳の時に撮った写真。(ロンドンに行って1年目)
近くの学校に行って、交渉して写真を撮らしてもらった。
金髪の先生に子供達がまとわりついて、歩きだして、光が一瞬射して金髪がキラッと光ったのをシャッターを押しました。
*お婆さんと娘さんと孫が並んでいる写真 バックは東日本大震災の仮設住宅。
南相馬市の仮設住宅に住んでいるお婆さんを娘さんとお孫さんが訪ねて、手を握り合っている写真で翌年お婆さんは亡くなられた。(ストレスから) 一瞬のドラマが目の前で起こった。
*パレスチナでの若い男性女性7人が野外で明るく談笑している写真。バックは壁がある。
2013年に国境なき子供達という組織の要請によってパレスチナに行ったが、全長800km 高さ9mのコンクリートの分離壁があった。(ベルリンの壁の倍以上の高さ)
閉じ込められた様なところで希望を求めて努力している人たちがいて、精一杯生きる希望を絶やさず夢を求めて努力している人達、こういった光景を撮らせてもらった。

モノクロというのは色のない分、光と影、構図、被写体の表情が強調される。
色が無くても水墨画が描くものには情感が伝わってくるので、あえてモノクロを使っています。
広角、望遠は使わず、テーマが常にポジティブな心を歓喜する様な写真を撮りたいと願っているので、同意が得られたら、その人の幸せをそっと祈って、何気無く撮ります。
その一瞬こそ大切なんだと肝に銘じて相手を尊敬して撮ります。
スナップ的なところが凄くあるので、彼らの一瞬の表情を見逃さない様に、心をリラックスさせて、素の彼等がでる様に展開してゆくかが決め手になってゆきます。
構図、横位置で撮ると周りの環境が写る、縦位置で撮るとその人の本質が写ると思っています。
頭上を広く開けると、希望が写ると思っています。
靴まで写すとリアリティーが写ると思っています。
逆光、斜光とかを入れると、光の存在をより感じて、一つの希望の光を意味しています。

父は結核にかかっていて私が小さい頃私に感染して、結核性の病原菌をもらってしまってカリエス(骨が腐る)にかかって、腰椎が患って、子供のころは立ち上がれなくて、コルセットをして学校に通ってランドセルが背負えなかった。
体育ができなくて、仲間外れにされて、孤独と絶望感しかなった少年時代、なるべく人の目につかないように人の影に隠れて生きていこうと思っていました。
小学校6年 修学旅行で班に分かれるが僕をどこにもいれてくれなかった。
仲のいい友達が一人、二人いたが、頼って行くとお前なんか嫌だから来るなと大声で言われてしまいせつなかった。
先生も冷たかった。
十何年孤独と絶望で、自分はいない方がいいんじゃないかと思った。
写真家となって考えたのが、僕に向けられた優しい笑顔が一日一回、1秒でも見られたらどんなに良かったのかなと思います。
中学で写真部に入って、写真という表現方法が手に入って、生きる希望を写真から感じられたらというおぼろげなテーマが授かった様な気がしました。

写真を撮ると、仲間にちょっと入れるような気持がして、大学に入って人にカメラを向ける勇気、覚悟が段々出来たかなと思います。
人が人を好きになるような写真、そういう写真を撮れれば人がもっと優しくなって、弱者に優しい社会ができるかもしれない、という希望を持って人の心を優しくする写真を撮りたいと願ってきました。
写真関係に就職できればいいなあと思って、4~5社受けたが、駄目でした。
半年のつもりでイギリスに友達と2人で行きました。
魅力は自由です、私の過去を誰も知らない。
日本人の劇団がありオーディションが受かって、役者になったが、すごいスパルタでした。
劇団を辞めて1か月後にギャラリーに行って、ある写真家と出会い、暗室を貸してもらって100枚ぐらいプリントしたら、みんながいい写真だとほめてくれて仲間に入らないか、一緒に住んでもいいと言われ3年間暮らして、大きな写真展をやらせて頂いた。
1973年に撮ったクエートでの写真、ストリートスナップの写真とか展示しました。
彼らの一員となって、初めて孤独感から救われた3年間で、素晴らしい出会いがありました。

その後ただで部屋を貸してくれる人がいて、隣にジョージという18歳ぐらいの青年が来て、半年ぐらいいたが彼が或る日バンドをやるので出ていったが、それが後のボーイ・ジョージです。
或る日地下鉄に乗っていたら、向かいの席に人気バンドのザ・クラッシュのボーカルギターリストのジュー・ストラマーさんが乗っていて、千載一遇のチャンスなので、写真を撮っていいかどうか聞いたらいいという事でした、降りようとした瞬間振りかえって、「君撮りたいもの皆撮れよ、それがパンクだぞ」、と言って降りて行ったが、その瞬間に僕の人生は変わった。
写真家になるんだったらもっともっと積極的に撮れという事だった。
ある日本人の写真家が日本に帰るので、空きが出来て僕が入り込んで、いい写真家だという事が日本でひろまって仕事が入る様になった、
ゲイリー・ムーアさんのオフィシャルカメラマンを2年やっていました。
天才ギターリストのゲイリー・ムーアさんがオリジナリティーをつくるのに20年掛かったという。
凡才の自分の写真のオリジナリティーをつくるのには、どの位掛かるんだろうと思いました。
イギリスでの10年間は私を作り換えてくれました。

1983年日本に帰国、いろんな人の写真を撮る様になる。
2011年日本写真家協会から作家賞を受賞。
これまで表彰されることが無かったので、公的に認められたことが嬉しかった。
3年前写真展をやって250~260点展示して、感想文ノートに10代の女の子からのものがあって、私は何度も自殺未遂をして、今回も退院の後写真展のポジティブな写真を見て、自殺はもうしない、これからは強く生きていきたい、と書いてあり写真をやっていてよかったと思います。
人の命を救えたのかなと思い、写真をやっていて良かったなあと思いました。
劣等感は自分の味方であるかもしれない、劣等感を長所に転じさせるかもしれない。
自分をいつも新鮮にしておかなければいけない、新鮮にして行くには今の空気、知らないものを知ることの刺激とか、別の世界からの影響を受けないと自分が錆びてしまうので人の作品を見る、他の分野との交流、いろんな世代との交流、とか色んな交流をする。

技術以前に、習得する部分が有り、自分の心の中から湧いて来る物をそれぞれの分野で形にしているが、心が大切で、自分を知ること、世の中で生きていくので礼儀、が必要。
全ての出来事は再現できないので、一瞬一瞬を無駄にしないで大切にして真心こめて生きていかなければいけない、と思います。
自分に与えられたペースを素直に取り入れて継続することで、思いもよらぬ場所に自分がいける。
60歳過ぎて写真家でこうしてラジオに呼ばれて、人さまにお話しすることが、孤独と絶望感しかなかった少年時代に、想像できたでしょうか。
写真を続けて一枚一枚積み重ねる事で、考えられ無かった所にいける、誰でもがその可能性を持っているという事を強調したい。
写真家になる人はカメラを買った日では無くて、本当に撮りたいものに出会った日であるという持論があります。
やりたいことを思いたったが吉日、遅すぎることはない、命ある限り遅くはないと思います、自分しかできないこと、今しかできないこと、これをやりたいという事が有れば、そこから汗をかいて、そうすると思わぬ人生が待っています。







2016年6月2日木曜日

船本芳雲(書家)        ・故郷への思いを書にしたためる

船本芳雲(書家)        ・故郷への思いを書にしたためる
横浜市に住む73歳。おととし2014年の毎日芸術賞を書道の部で受賞しました。
受賞の対象は横浜の美術館で行われた、「沁み入る故郷」船本芳雲書展です。
作品は10mの大作を含む45点で全て自分で作った詩です。
芸術性に富み、評価の高い書道展となりました。
船本さんは樺太生まれ、5歳の時終戦間近に、銃声の響く中、一家5人で子船で樺太を脱出しました。
幸運にも北海道宗弥谷の網元に救出されました。
船本さんにはその記憶はありませんが、父が囲炉裏の前で子供たちに話したことが記憶に刻まれてゆきます。
やがて、奥能登に落ち着き石川県の珠洲市に居を構えました。
石川県の高校を卒業して、旧国鉄に就職、23歳で書道部に入り、書家の青木香流に師事して本格的に書を学びました。
自分で文章を作り、筆で表現する漢字かな混じり書の魅力に取りつかれ40歳で国鉄を辞め書道の道一本に絞りました。
船本さんの詩の原点は樺太からの脱出と、故郷能登の自然にあります。
子供のころから書を学び大学で書道を専攻している書家が多い中で、船本さんは社会に出てから書を始めた変わり種の書家と言われています。

一日中書いている時もあります、作品の制作が迫ってくると、相当の時間数を掛けます。
思った通りの線が紙の上に乗っかってこない、難しい時もあります。
横浜の美術館で行われた、「沁み入る故郷」船本芳雲書展で第56回毎日芸術賞の書道の部で受賞。
自分の文章で書作をしたい、これが私の大きなテーマでもありますので、どう表現するのか、相当時間もかけてきました。
最大の大きさが約10mの作品、9m、8m、7m 10数点の大きな作品を並べさせてもらいました。
タイトルが「父のさっそう? 囲炉裏の向こう側」240×540
「炉端がたり」 180×1440 「父母の温もり」990の長さ
詩の中味がすべて自作。
父と母の子供を守ってゆく壮絶な船旅の模様が、小さいころ囲炉裏で父の語りを聞いていて、文章で残すという事がそれが書に結びついてゆく。
漢詩文だけの世界だけではないという事がこの作品を生み落としてゆく事になってゆくんだろうと思っています。

昭和17年生まれ 樺太に生まれる。
父は味噌、醤油、酒の小売業 丸源?という小さな店をやっていました。
終戦直前昭和20年3月頃に能登に向かう。(珠洲市の戸籍からおおよそ判断)
樺太での記憶はほとんどありません。
父母と兄、私、弟の5人で脱出、祖父祖母は現地に残ります。
銃声の聞こえる中、出来るだけの荷物を持ってゆくので、おんぶも抱っこも出来ないので、氷の坂道など転んだら起きてこい、待ってやるからと何回も子供にいい聞かせたそうです。(弟は2~3歳)
宗谷村の網元が船を出してくれて岸に着けたと炉端語りで語っているので、漂着の様な形だったと思います。
追っ手があったり、凍傷で下の子が危ないとか、荷物を放り投げて船の安全を計ったとか、厳しい選択があったようです。
祖父母の実家が能登の珠洲市にありましたのでそちらに向かいました。
高校卒業後、国鉄の職員になり、書道部があり、入りました。

級があり、上がってゆくのが楽しみでした。
展覧会に挑戦してゆく形になります、又師匠(青木香流)がおもしろかった。
絵、陶芸、文章など、そういうものが身近にありましたので、書は書くだけではないという面白さにひきつけられたと思います。
絵、陶芸をやったり、簡単な俳句、文章など、文学的なものを先生は書いていました。
国鉄を40歳の時に辞めました。
その3年前、毎日書道展で最高賞を受賞して、そのことを含めて決断ができたと思います。
先生が給料と同じ額を出そうという事で活断を促してくれました。
殆どの方が大学で書道の勉強をしている人が多かった。
基礎的なことが養われていないところがあるので、前向きにいろいろ考えていくわけですが、大学で書道を専攻した人から見ると、船本芳雲は変わり種という事になるのかなあと思いますが。
壁一面書道の本があります。
73歳になってみても新しい情報、アンテナを高くしておかないといけないと思っています。

漢字かな混じり文 その世界に入る前に、唐以前のものを勉強すべきという先生の教えがあって、発表するものはどういう形にするかということは、漢字かな混じり書という事になります。
書道の人達は一般の人たちと大分離れている様な気がします。
読めない様な漢字を書いている、展覧会に行っても読めないので詰まらないというような構図が描かれている様な気がする。
手紙を書くのも漢字かな混じり書のひとつ。
漢字かな混じり書という分野が無かったら、書は続けて居ないと思います。
発表したい文章を自分でみつけてくるか、俳句とか短歌とか詩など、一旦自分の体に取り入れて書作するか、私の場合はそれを丸ごと自分の文章で書作するという大きな違いがある。
文学的な味わいの深いもの、という様な指導者の一文があったりして、抵抗感があった。
自分の訴えたいことを見失ってしまう様な気がして、作品に制限が出来てしまうものと思って、表現するのに、自分の思う言葉があると思う。
門下に必ずテーマを与えて(「星」「空」「海」とか)、ものの見方を強くして行って、良い文章が生まれると思う。

踏み込んだものの見方ができてくる。
作品が多様化してゆくというのは、文章によって書表現が広がってゆく。
何をどう表現するのか、最も大切なところが漢字かな混じり書には有る。
見付拓=詩人としての名前
集団とは離れたかもめを見て自分ではないかと思って作った詩
「かもめは私です」
「かもめ一人 訛を置き忘れ 雑踏の中 方向のとれぬ かもめ一人 足踏みをする私がいました かもめは私です」 9mの作品
雑踏の中に自分が身を置いた時に、私が過ごした能登の訛をしゃべる人がいて、この歌を作りました。
「そこが故郷です」
「訛を追えば そこが故郷  人ごみの中に 故郷がいた」
書道で一番大事なこと、最終的には線だと思います。
線を作るのにどうするのかという勉強の過程が、古典、きちっと仕上がっている楷書、早書が訓練の対象になる。
腕に貯金をするという、時間をかけていかなければならないもの、それが古典の勉強。
鍛えあげられたものが線、線の深さが書家の生命になってゆくだろうと思います。


















2016年6月1日水曜日

内藤大助(元プロボクサー・タレント) ・出会いが人生を変える

内藤大助(元プロボクサー・タレント)  ・出会いが人生を変える
昭和49年 北海道生まれ  20歳の時にボクシングを始め、22歳でプロデビュー、2007年にWBC世界フライ級チャンピオンに輝きました。
2011年に現役を引退し、タレント、ボクシング解説者として活躍しています。

引退から5年になる。
北海道豊浦町生まれ 41歳 22歳でプロデビュー、2007年にWBC世界フライ級チャンピオン。
豊浦町の道の駅には沢山のトロフィーが展示されている。
3度目の世界挑戦でチャンピオンになったが、初めて世界挑戦した時にはタイで行った。
1ラウンド34秒で負けてしまって、ファンが離れていってしまったが、自分の街の人達は応援してくれて感謝しています。
母、兄との3人暮らしで、近くにお婆ちゃんが住んでいます。
生まれてすぐに離婚し、3人で暮らしています。
お婆ちゃんは可愛がってくれますが、母は生まれてこの方一度も誉められたことが無い。
全日本新人王を取った時でも褒めてくれなかった。
「自分の子供を褒める親がどこにいる」と言われてしまった。
いつか褒められてやろうと頑張ってきた。

中学2年の時からいじめが始まったが、これはしょうがない、運命だと思う様になって気持ちは安らいだ。(ネガティブな考え方)
グループのいじめと身体が大きい不良の、二つのいじめがありました。
一方は使いっぱしり、昼食のおかずが取られる、暴力などがありました。 
他方は精神的ないじめでした。(辛かった)
お腹が痛く、毎日5~6回下痢をしていました。
病院で診察を受けて、胃カメラ検査で胃潰瘍だと言われました。
回りは気付いていたが、関わりたくないという様な感じで、途中から笑われたり、友達が寝返ったりして、心の傷がきつかった。
余り勉強ができなくて、中学の先生から怒られて、「お前又こんな点数をとりゃがって、体育は出来る、運動神経はいい、でも運動神経が良くて、食っていけるのか、世の中やっていけるのか、勉強できなかったら何の意味も無い」と言われた。(この先生に会いたいです)
得意なことに対して、否定する様なことは言ってほしくないと思う。
高校進学の時にグループがばらばらになり、高校は一緒にならなくなり、いじめは無くなった。
私は運動神経が良いため、高校では溶け込んでいくようになりました。
ボクシングを始めて色んな人との出会いがあり、「内藤君はいつもマイナス思考だよ」と言われた。

他の分野にも後押ししてくれるような言い方をしてほしかった。
ほめて伸ばすことをやってほしい、プラス思考、楽しくやることが大事だと思います。
高校3年の時にホテルでアルバイトをしていた時に、ここで働けばといわれて、内定して、入社する予定だったが、ミスをしてしまい内定取り消しになってしまった。
数日後、母親から「内地に行け」と厳しく言われてしまった。
或る日、格闘技の本を見たら、近所にボクシングジムがあることに気付いた。
これだと思って入りました。
強くなってゆくのを感じて、誉められて自信が持ててきて、いじめを抜けたくて始めたボクシングが純粋に面白いと思う様になった。
はっきり物が言える様になり、心のゆとりができる様になり、プロボクサーになってデビューしたいと思う様になった。
一生懸命にやっていると応援してくれる人が増えてくれて、強くなっていったと思います。
何もしていない人に対して人は寄ってこないです。
一生懸命やっているうちに自分の事ではなくて、応援してくれる人の為に頑張ろうと思う様になりました。

トレーニングの辛さといじめに会う辛さを考えたら、いじめに比べればましだと思って頑張りました。
悪いことをしてやれとか、ひねくれた考えがあった時期もあったが、ボクシングに出会って、人生の恩人だと思って感謝しています。
虐められている時に、身体が大きくて暴力的な奴が強く、自分は弱いんだと思っていたが、ボクシングをやって、本当の強さはハートの強い人が強いと思う様になりました。
練習は人以上にやって、自信も付きました。
何にもしない人に強さはできないと思う、何でもいいから一生懸命やったら強いと思う。
辛いことは人に言う事、回りも声掛けをしてほしい、コミュニケーションは大事です。
誉めて伸ばす事をして欲しい、やる気が出るので。
人のお陰で今の自分があるので、引退してからは人の役に立つ事、人が喜ぶ様なことをして行きたい。
いじめに対する講演をしているが、いじめをなくすような活動もして行きたいし、自分が役に立つ事が有ればどんどんやって行きたい。