2013年1月21日月曜日

加藤武(俳優83歳)       ・芝居をせんとや生れけん



加藤武(俳優83歳)  芝居をせんとや生れけん
昭和4年生れ東京築地 仲卸業の家庭に生まれる近くに歌舞伎座、新橋演舞場、築地小劇場という地の利の良さ 
中学区の同級生には小沢昭一フランキー堺内藤法美さんがいて演劇の世界に導いています 
昭和27年念願の文学座に入り、以来60年間硬軟自在の幅広い演技力で舞台のみならず
映画、TVでも活躍してきました  
83歳の今も現役で舞台を踏む加藤さんにこれまでの様々な出会いと芝居どっぷりの人生を語って貰います

進藤兼人 再現ドキュメンタリードラマ 進藤兼人役をやるが、凄く似ていた 
音羽信子 癌でいつ亡くなるか分からない状況  
ドラマを取ったときが進藤さんが83歳の時の事 原爆の子で 一回だけ一緒に進藤監督とは仕事をしたことが有る
仲卸業 寿司屋、料理屋に降ろすための卸業だった 
甥が継いでいる 3時、4時には起きて出掛ける  セリは見たことは無い
泰明小学校に行く 島崎藤村も居た 全国でも有名な小学校 先輩は河原崎国太郎 殿山 泰司矢代 静一 森田誠吾 後輩が沢村田之助(歌舞伎座)  双葉山が69連勝で敗れた時に6代目菊五郎と一緒に見ている 
   
沢村田之助は幕内力士から部屋出身地、しこ名を全部覚えていたと言う
小学校にいくのにバスで通っていたが、そのうちに戦争で歩いて来いと歩いて行ったが皆がバスに乗ってしまった  
一人で歩いていると田之助がたまに一緒に歩いてくれた 
その時に芝居の話をしてくれて面白かった 家では晴れ着をきて芝居を見に行くのが皆好きだった  
開始が午後3時半から4時ごろ はねるのが午後10時頃 一家で出かけた 
学校を早退してゆく為の口実に苦労したが、先生も粋な計らい(嘘を言っても判らぬふりしてくれて)をしてくれた

姉たちは踊りのお師匠さんがいてそこに習いに行っていた 母は三味線を弾いていた 
清元 等を弾いていて、それが耳に入って来ていた
日ごろ聞きおぼえていたので芝居でもいっていることが解って面白かった 
歌舞伎座も戦争で焼けてしまう (5月25日) 焼夷弾が落ちて 姉と2人で大八車にお婆さんを乗せて逃げた 
魚河岸の方に逃げたがそちらにも、焼夷弾が落ちて引き返したりして、ちりぢりに成った 
歌舞伎座の燃えているのを目撃する  
アスファルトが火事のためにお汁粉のように溶けてしまった
建物が崩れ落ちるところを見て、家に戻ったら家は燃えてはいなかった
 しかしお婆さんが其の時には亡くなって仕舞った
歌舞伎座の建物を ここで新しくなり出来上がれば3代の建物をみることになる 
4代ぐらいの歌舞伎役者を見てきた
軍需工場に行かされた 兄は学徒出陣 幸いに命は取り留めて復員した 
今ペットブームでいろんな犬を飼って大事にしているが 家に犬がいて、可愛がっていた 
淡路島に似た模様が背中に有り「マップ 」という名にした  
少ない食料の中で分けて育ててきた その犬を役所から通達が来て いつまでに連れて来いと言われた  
何のためにするのかと言ったら毛皮にするとの事 寒さ対策とのことだが ぜんぶ殺してしまっただろう

当時人間でも食い物の無い時代なのだろうからしょうがないと思うが、誰が連れていくかという事に成り 誰も連れて行くことが出来ない
母親が一番可愛がっていたが、遂に母親が連れて行った 
戦後落ちついてから、遂に母親は犬を飼わなかった
中学は麻布中学 受験校 当時からそうだった  府立3中(両国高校)久保田万太郎 芥川龍之介が出たところ  受けたらおっこってしまった

内藤法美 (越路吹雪の夫ピアノ アコーデオン 成績も抜群だった) 代々木練兵場に先生が教連と称して連れて行きそこで内藤にアコーデオンを弾かせたり小沢昭一にハーモニカをやらせたり、フランキー堺に落語をやらせたり、粋な先生だった  
小沢昭一は海軍兵学校に行った(当時の最高学府 海軍の幹部養成校)  フランキー堺はネタを取りに寄席に言っていた(戦争中なので年寄の落語家ばっかり)
いずれはお国の為に死ぬと言う事を叩き込まれた  早稲田に行く  
今村昌平北村和夫 大西信行(劇作家) 小沢昭一等が集まった

小沢は俳優座養成所 北村は文学座養成所に同時に行っていた  私は堅くて兼ねてはいけないと言う様な事で 素人で芸を楽しむことは良いけど
それに成ると言うことは特に母はうるさかった 大変さを知っていたので   
早稲田を出て1年間は先生(英語)をやった
志とは違って 決心を固めて、両親は許してくれて昭和27年文学座に入る

2013年1月20日日曜日

山田昭男(未来工業社長82歳)  ・社員全員の総幸福をめざす



山田昭男(未来工業社長82歳)    社員全員の総幸福をめざす
2005年にブータン政府が行った国勢調査で国民の45%が回答したと言われてますが 実はブータン国民に勝るとも劣らないほど幸せや生き甲斐をもって 働いている会社が岐阜県に有ります  
住宅 オフィス 工場などで使われているコンセント、電気ソケット、配線器具などの電設資材等を製造、販売    している会社です   
従業員の満足度を高めることが、企業業績の向上につながるとの方針の元、給料や、福利厚生面で他社とは一味違う  
さまざまな工夫を凝らして社員の生き甲斐作りに繋げているのです  
2011年出版「日本一社員が幸せな会社の変な決まり」 韓国企業から
ら関心を持って読まれている   
従業員満足度が高い企業とは他とどこがどのように違うのか 伺いました

1965年創業以来 1年も赤字が出ていない  48年ぐらい  
商売というのは金もうけなんだから 金を儲けるにはどうするか
儲からない会社の反対をやればいい 報告、連絡、相談  どこが儲かってるのか やっている ホウレンソウ(報告、連絡、相談)を止める 差別化
社員の方々の福利構成が凄い 定年が70歳 65歳の平社員で700万円 60歳過ぎても給料は下げない 
サラリーマンは給料が高い、休みが多いほどいい 餌をやれば頑張ってくれるのだからと思う

休みは140日 社員は喜ぶだろうと休暇を利用してアルバイトでお金を貰える  
社員は喜ぶし、意識が高まるし、そうすれば頑張ろうと言う気が起きる よそで働いてもいい  
有給休暇 権利だからとりますよと  取っては良いですかと言ってはいけない  
感動につながる    ノルマもない 貰ったら貰うだけの働きはするだろうと思う    
育児休暇3年  5年に一回海外旅行  800人の中で650人は行く  
これは大失敗 2年目 150万円/月  月が1億円になったら海外旅行に連れて行ってやると言ったら 6年目に達成してしまった
台湾が最初  中国、パリ、ハワイ、オーストラリア、ラスベガス等 5年に一回行っている  
東南アジアへ行くのに10か所 飛行機に乗ってその後はどこに行くか判らない(ミステリー旅行  旅行会社が真似をする)

小さな倹約 大きな浪費  日中電気を点けない  乗用車が無い ライトバン トラック ワゴン 一杯あるが商売に使う 社長も個人の車
ノブを回すと減るから回さない 押したり引いたり」するだけ  コピーする紙は裏側だけ  
小さな倹約もちりも積もれば溜まる
コピー機も一台で大丈夫  やってみたら殆どコピー機が遊んでいる 
 
壁のスイッチ の箱  ビル関係 天井裏 床の下 パイプに入れて電線を通すが そのパイプを作っている ビニールパイプでパイプを作る
大企業の寡占化 鼠色 戦後は色は関係ない 綺麗な色で良いだろうと色を変えた  
シェアートップに成りました
先手必勝 先にやれば勝てますよ  差別化が会社のテーマですから    
箱 大きさ 厚みが決まっている 穴をあける 木ネジを入れるため
2か所のねじ穴があいている(今までのすべての会社)  内は4か所に穴をあける 
これがヒットした   柱に無いところにも取り付けられる
日ごろからアイデアを生み出す力  営業がまず要望を受け入れる  会議を行う  
開発部が有り ここで工夫する  そして出発する

考えることを土台にする  改善、提案制度をする  いいものはお金を貰える 
これはどこでもやっている 1件出したら500円
作業環境でも良い(自分の仕事の環境がよくなればいい)  現金で払う  
給料は全部振り込み かみさんが握ってしまう これは現金なので喜ぶ
年間14000件が出る  最多勝で20万円  最高で30万円 年間貰える  金3万円 銀2万円 銅1万円  5万円貰った物が有る
電話のベルが鳴るのが女性のみとする  男は電話にはでない  女性が電話当番制にして 
1時間ごとにする 電話機にランプがつく

3名程度が交代ででる(全女性で15名)  一覧表を作って展開する
組織の管理では問題が有るのでは? 常にマイナスを考えると駄目 週休2日制の導入に関しては役員から全員反対された(お客が休んでないときに休んでしまうとお客から逃げられてしまうからという事で)  やってみないと解らないのでやってマイナスならば辞めればいい  
報告を聞いていないとかは無い  下からのお伺い話無し  必ず説得して納得させるこれは上の人の役割 納得すると自分でやる気になる 命令ではいやいややる   
よそよりいい物を安く売る  これは絶対間違っている
 
いい物を安く売ったら儲かるわけがない(過当競争 儲かるわけない)
経常利益率 10%  お客は喜べばいい 「三方よし」 大事なことはお客さんを感動させればいい 品物で感動する 値段では感動しない
安かろう悪かろうでは無く 高かろう良かろう  同じものならば安い方がいいかもしれないが
従業員の満足度 はじめからそう 従業員を満足させたならば、お客さんが満足してくれる
年末年始20日間休む 赤字経営で悩んでる会社へのアドバイス 馬鹿な金は使わない 
何故か郵便で書類が届くとぜんぶファイルに入っている
メール便 折って持ってこない なかの紙は絶対に真っ直ぐぴんぴんとしている
(皺皺に成らない) 今のファイルはぜんぶファイルに入っている

ファイルを貯めて売りに行きます   書類が来ると必ず1枚の紙が来る 紙一枚無駄になる 
その紙を使ってコピーの裏利用にする
見えない赤字が多すぎる 無駄が多すぎる そういう無駄を辞めれば十分プラスが出る 
社員を感動させる だらだら働くよりもバーっと働いた方が
効率が良いと思う  短い時間に集約させてそこにエネルギーを傾注した方が商売に成ると思う

2013年1月19日土曜日

加藤隆久(78歳)        ・蘇えりの力

加藤隆久(78歳)             蘇えりの力  
生田神社(兵庫県神戸市)の宮司を務めています  
生田神社は長い歴史の中で、災害や戦争で幾度も被害に遭いましたが、その度ごとに復興し、いつの間にか 蘇りの社と言われるようになりました 
阪神淡路大震災の時には拝殿が倒壊するなど大きな被害に遭いましたが,神戸の復興のシンボルになろうと加藤さんが陣頭に立って再興をなし遂げました 
その体験を踏まえ、東日本大震災の被災地の支援にも,取り組んできましたご自身の体験と 復興の想いを伺いました  

東日本大震災の支援、少しでも義援金を送ってあげようと思った  
阪神淡路大震災の時は水も無かったので,タンクに一杯水を持ってきくれた経験から,水を贈るような対応を取った  
地震に遭って苦労した水に有り難さを感じた       お宮さんの支援も考えた  
宮城県女川町 白山神社が被災されていることを聞いて若いメンバーを行かせた  
多くの死者と壊滅的な建築物の被害  津波に流されてしまったり、原発の問題 これが非常にお気の毒だったと思った
孤独死 絆を深める 年寄ばっかりではなく若者を隣に住まわせることが必要だったと思う
父親は滋賀県多賀大社の大造営を担当して、造営ノウハウを体得する  
之から神社のお勤めを遣って行こうとした時に 岡山の吉備津彦神社が焼失する  
そこへ復興に行く事を人選した処,父親に白羽の矢が立ったが、最初は断ったが、神社局から是非行ってほしいと言われた 
復興を成し遂げたら,大きな神社を紹介すると言う事になった 
焼失した宮司が借金をしていたことが判明 自分の財産を持って借金をしていた人に返したらしい  
そうしたら翌日正装した総代がそれを持って、なにがしかを加えて持ってきた 
その話が氏子にも伝わったのか、瓦礫の後始末をするは、エプロン姿の婦人会の人が来て、炊き出ししたりして、起爆剤に成って 瞬く間に 復興に弾みがついて、尊敬される宮司に成った(その時に私は生れた)  
氏子の人から信用されたことが良かった

生田神社 日本書紀にも出て来る 稚日女尊(わかひるめのみこと) 言われて神功皇后によってまつられたと言う古い社
806年に生田の神を守る44軒が出来る  かんべ村 神戸の街が出来る元  
生田川が流れている 六甲山系は水に弱いところが有る
松の木が倒れてきて 祠が壊された 神主が御神体を背負ってここだら水害が起こらないだろうと移ってきた
松がタブーに成っている  
正月には角松の替わりに杉盛と言って 杉の葉っぱで山を作って,そこにすずき(稲穂を象徴する)とさかき  平年は12本閏年は13本を張り巡らす  水害に懲りてきた
   
昭和20年6月5日 B29から焼夷弾を落とされて石の鳥居を残して 一木一草焼失する  
父は御神体を移す 防空壕も駄目  さまよっていけに有る弁天様に移して 本人は池に入って助かった
母親と姉は防火用水(何故か父親がその防火用水に6/4日に水を張っておいた)に入って助かった 
境内に野菜やサツマイモ、ジャガイモを作りながら、復興という事で お粗末な社を立てながら、過してきた  戦後で困っている時期
神社の寄付を募った 
神社の復興のために何度も何度も足をはこんだが断られたが、ある時にそこの主人が許してくれ 私の考えが間違っていた
私は自分の利益の事ばかり考えていた 

それに対して貴方は自分ことでは無しに、神様の事を考えていると言って 希望して多額の10倍の小切手を渡ししてくれた 
それを元手に昭和24年に立派な朱塗りの社殿を作り上げた  
神社の復興も一遍や二遍で諦めるのではない事が必要と思った
阪神淡路大震災の状況 揺れの恐ろしさは言葉では言い尽くせない  
拝殿は崩れて落ちてしまっていた 楼門も傾いていた
本殿は崩れていなかった  石の鳥居が根元から崩れていた(戦争では大丈夫だったが)  
神戸の街全体が崩壊してしまった

その時に 父親の声が聞こえてきた 貴方は何しゃべってるのだ 
私の神社の造営ボーイと言われた 神社を復興するのはお前の使命だと 言う声
柱は鋼管 強度のコンクリートを入れて そこに木造の社殿をつくろうと思った  
平素からまさかの時にと言う事を考えていて 営膳費蓄財していた
又氏子の有力な方が 神戸の氏神をそのままにしておくわけにはいかないと言う事で 立ち上がってくれて、又全国の神社の支援も有った
鳥居は伊勢神宮からの寄付が有りそれを石の鳥居が有った所に設置することが出来た 
(木の鳥居)
地震の時に困ったのは水 川は埋めたてられてしまって無くなっている  
川を作ろうと 森の中に80mの井戸を掘ったら、水が出てきた

池のところにもポンプを作ってまさかの時の為に消火栓を作った 常に備えようと思った
神戸の街の中心であるので 復興のため 芸能関係の人達 が来てくれて 舞台を作ってくれてそこで公演してくれて 皆が喜んでくれた
お祭りはそれぞれの役割が有り、役割を旨くやって行くのがお祭り  一つの纏まりとなる  
祭の心が大きな力に成っているんじゃないかと思います
祭はお互いが助け合い、絆を深め、そこで一つの心になる 
 
お祭りは大切なものだと思う       心の復興に成る
挫折は誰にでもあり その時に自分は駄目だと思ってしまうのかそれとも それを苦しい時、ピンチ挫折をしたときに如何に良い方に乗り越えて行こうと言う風に,心の持ち方を転換してゆくか 口で言うことは簡単だが中々出来ないことだが 清く明るく正しく直く神道の心でもあるわけですが 落ち込んだ時に前向きのやろうと言う活力 それを転換することを常々皆さん考えていただきたい

2013年1月18日金曜日

秋山弘子(69歳)        ・働くセカンドライフを創り出す


秋山弘子(特任教授69歳)    働くセカンドライフを創り出す  
東京大学 教育学部卒業後 ミシガン大学で老年学の研究を続け、2006年から東京大学高齢社会総合研究機構で特任教授を務めている 
超高齢化社会を迎えつつある日本で、高齢者のセカンドライフを考えるにあたっては働く事にもっと価値を見出すべきだと考えています
この考えを社会で実現させようと 千葉県柏市の団地で生き甲斐就労の取り組みを始めました この事業は東京大学や柏市が共同で取り組んでいて会社などを退職した住民が無理をせず働く事が出来、しかも生き甲斐も感じられるようにしようと言うものです  
新しい取り組の元、柏市の住民はどのように働いているのか 、老年学(ジェロントロジー)の研究者としてどのような 人生を歩んでこられたたのかを伺いました
 
定年退職した後も働く事は個人にとっても、社会にとっても良いと思います 
健康にも良いと思います 
60代で殆どの人が元気で知識、技術 を持ち 仕事関係のネットワーク持っている 
何かしたい、とは思うが何をしていいかわからない
社会にとっては60歳までの方が社会を支えて、65歳以上はささえられる人  
今後騎馬戦から肩車に成る(ささえる人が少なくなる)
何らかの形でリタイアした後でも働き続けられるような、社会の仕組みを作っていくかということは社会にとっても重要だと思います
25年ぐらい 高齢者の6000人の追跡調査をしています 75歳ぐらいまでは約8割は一人暮らしが出来るレベルで元気です

その辺りからすこしずつ身体の機能体力が低下して、支援が必要になる  
之から75歳の方が全人口の2割を占める時代が来る
75歳を80歳ぐらいまでは元気でいられるようにすることが大切だと思っています
厚生労働省での高齢者の就業率と医療費の研究が有るが、高齢者の就業率が高い県は医療費も低いというデータが有る
働くと言う事が高齢者の健康寿命を延ばすと言う事を確信して プロジェクトを始めました
研究者は伝統的に大学の中で研究していたので、実際の社会に出てコミュニティーで底の課題を解決すると言うことは無かった
行政、自治体、商店街の方とチームを組んでやらなくてははいけないと言うのは初めてなので、小さいハードルから大きなハードルまでいろいろありました 
 
一番大きいものは全ての組織が縦割りだと言う事、大学も、地域も縦割り  学部が10個有るが学部間の壁が大きい 又市役所に行っても部局の壁が厚くて、健康保健課と農政課、商工課は全く連携が無い これが一番のハードルでした   
近未来 20年先の未来を皆で語ってどういう社会が良いかと、理想の社会の絵を描いて 皆でそれをめざして皆で協力しようと同じゴールをめざして
自分の処から何が出来るか、という事に発想が変わりました 
市役所も同様に それから非常に効率が良くなりました
これから人口が高齢化するのは都市近郊のベットタウンである 柏市を選びました  
40万人の都市  大きな団地が有る
高度成長期で多くの地方の人が入居 現在の高齢化率(住民の65歳以上の率)が35%を越えている 

日本の2030年の人口構成と非常に似ている長寿社会の街作りのフィールドとしては非常に適している   プロジェクトを進めることになる
リタイアした人にいろいろ話を聞きました 従来の様な仕事のスタイルはしたくない 
自転車、或は歩いていける場所で働く フルタイムで働きたくない
自分で時間を決めて働きたい    
柏市の資源 肥沃な農地がある 農家の方が高齢化して休耕地に成っている 
長期に借入てそこで働く
ホワイトカラーだった人には農業が合う (全く違って)現在50~60人が働いている

人生90年時代 2つの仕事が出来る   二毛作人生   やってみると意外と面白い 
農家の経理を見てみるとみていられない(経理経験者の目)農家の経理を見てあげる 時間がいろいろで労務管理が難しい(労務経験者が対処)
専門性を生かしながら農業をする  休耕地を開墾して農作業、新しい仕事を作ってゆく  
健康的な生活に成った 繋がりが出来た 笑顔が見られる 
学童保育 海外駐在者であった人が英会話を教える  
助成金が有る時だけでその後は止めてしまうのではなく継続性を、重視している(採算性重視)   新しいビジネスモデルに関しても出来るだけ支援をしたいと思っている  
当時大学紛争終了後、余り変わらなかったので失望してアメリカに渡った、老年学が芽生えた時だった 
高齢社会の個人問題、社会の問題の解決型 やりたいのはこれだと思いました  
私はお爺さんお婆さん子だった  高齢者に親しい感情を持っていた(関心を持っていた)  
日本が高齢化社会を迎える 勉強もきちんとしたカリキュラムは無かった 
ほかの分野の教育をした方が高齢者の学問をして進めた
アメリカの高齢者 生き方が日本とは違うと感じた 当時日本は3世代  アメリカでは一人暮らし 自立が非常に重要
高齢期における自立を掘り下げてみたいと思った(博士論文)  
大学院で教べんを取ったが、社会人の人が多かったので、この理論がこの問題解決に如何役立つかという視点からいろいろ質問された  
 
東京大学で非常勤講師の話が有り、アメリカでは良い研究環境であったので帰って来ることは考えていなかった
院生の半分は女性、老年学という学問が日本の大学には無いと気がついて、日本も高齢化社会を迎え今貢献できるのはと思って単身で帰ってきました 
大学は完全な縦割り社会 文部科学省の予算、人材が学部に来る  
予算も付かない、人も付かない 組織を作ることが非常に難しかった  
大学が法人に成った 小見山総長 真理の探究においては貢献してきたけれども、社会の課題を解決することに貢献していかないといけないとの話が有り高齢社会総合研究機構の前身となる組織が企業の寄付を募って出来た
 
フィールドでの研究  社会の中に介入して解決して行こうという研究  研究者にとって非常に学ぶことが多い(住民、よその方から)啓発される
研究が喜びであるとか、これを解決するためにはもっともっと考えなくてはいけないとか、議論も活発に行われたし、自分のバックグラウンドには無い視点が飛び交うわけです 
異なるもののぶつかりあいから新しいアイデア新しい解決法を見つけて行くということは研究者にとってこの上ない喜びです  
75歳以上の方と聞きとりしたが、そうなんだと思ったことは 今住んでいる処で自分らしく歳を取っていきたい 
その様な生活環境を作って行く事が老年学の大きな課題の一つだと思います
 
①人生一毛作 のプラン  今柏等でやっていることを自分の街でやろうと言う事  
②土いじりが好きだが 空き地が無いので今はどういう形で農業が、始められるか情報収集して
 いて プランターとか小型の野菜工場とか マンションの庭でも出来る様な農業を考えている 
③外国で行った先で住んでみたいと思った国が有るのでそこで生活してみたいと思っている 他にも有るがここ2~3年で絞ってセカンドライフをしてゆきたいと思います

2013年1月17日木曜日

三潴正道(みつま64歳)     ・中国文化の掛橋となって

三潴正道(みつま64歳)   中国文化の掛橋となって
1948年生れ 東京外国語大学大学院修了 麗澤大学で中国語、中国文化を教えている  
時事中国語、日中異文化コミュニケーションの専門家
日本企業の中国研修講師としても幅広く活躍しています 
中国の人民日報に掲載された記事から60点を選び、翻訳した 「今中国が面白い」は
2007年に第1冊を発行して以来 6冊目に成りました 
尖閣諸島の領土問題が発生して以来厳しい緊張関係に陥っています 
日中の異なる文化を理解する視点に立ち、お互いのコミュニケーションを成立させるために何が必要か伺います

吉川英治 三国志 水滸伝を読んだのがきっかけ 何十回と読んだ 本が好きだった 
父親の本を引っ張り出して読んでいた(父は憲法学者だった)
小清水先生(現代中国語) 金丸先生(中国歴史) に教えて貰う事が出来た 
その道の権威の人だった
戦前は、書き言葉は文語文みたいな話し言葉は全く違うものだった  
1920年代ぐらいから中国は白話運動が有り 書き言葉を出来るだけ話し言葉に近づけることに
して言ったが、やっぱり違う事が有り、一つのジャンルを形成
しかし 其れがおろそかにされて、つけが回ってきた 教育システム カリキュラムがすっぽりぬけてきた 
論説体が読めないと新聞雑誌、学術、論文インターネットで情報が収集出来ない 
「今中国が面白い」を刊行してきた  人民日報の記事を訳した
1か月に100本の記事をピクアップして、それを8本まで精選し、年間で約100本になり これをさらに
60本に精選 分野別区分して提示した

胡錦濤温家宝政権が成立したころからです  それまでも人民日報を読んでいたが、
その頃からアレと思った それまでと違うぞ と
2003年ごろからこんな記事でも出していいのかと思うような記事が出るようになった
党や政府の腐敗を暴く記事、環境破壊に対する警鐘 地方政府の暴走についての紹介記事 
そういったものは今までだったらあり得ない
言論弾圧を深めていると言う論調が日本ではあった  
環境破壊、地方政府の暴走 とか腐敗とかはもう自助努力では制御できなくなった
メディアの力を借りてやろうと しかし反共、反中的なメディア等では困るので、そういったメディアからの記事は徹底的に取り締まる 
自分達の持っている道具である、人民日報とか中国青年報とかそういったものについては今まで,では考えられないような幅広い権限を与えて其れをやらせる
限度を超えるとびしっとやられるが 私が吃驚するような物が出てきた  

之は紹介しない手は無いなと思った
2007年が一冊目  2005年ごろから環境破壊が極点まで行ってしまって 2006年にはどうしようと言う様な時期だった
2006年の記事を集めて 2007年に出版した  昨年 2013年版が出る  日本に関する論文 
第1章は日本を対象
温家宝首相の福島訪問 等のほほえましい風景が有った
①中国を一つの面から見るのは危険だと思う 民間レベルは理解し合って 強化しようとの話も有る
②中国は面白いと書いているが、面白くなくなってきている  「南方週末」の問題も有ったりして、言論統制がなされてきている
政権交代の時期で 取り締まりが厳しくなってきている 10月後半から楽しい記事も出てきている 
「南方週末」の問題  先頭の事を言う様な言論をしているので目の敵にされている  
中国の中で民間の人達が自分達の意見、声を反映させようと言う声が強くなってきている
2008年に08憲章と言って知識人たちが中心に成って そういう共産党の一党独裁に対する転換を求める様な声明を出して、物議をかもしたのですが、これにも似たような声明が出されて、どういう風に扱うかは大きな問題ですが、抑えれば抑えるほど 内圧は高まる
どこでどう「ソフトランディングさせるか、出来るか というのは大変大きな問題ですね
日中異文化交流  与えられた自然風土は違う なりわいをどうするか 漁業か、農業か違ってくるので どうしてもそれに合わせた生産体制,社会制度が出来て来る、それぞれがそれぞれの与えられた中で、独自の生活をする

それを代代受け継がれた中で磨かれて行くと、そこにそれぞれ違ったダイアモンド、フルーツが
なってくるわけで、それを異文化というわけですが、 我々を豊かにしてくれる、多様性を与えてくれるのだが この触れ合いは本来は楽しいものであるはずだが其れが解っていないと、異文化に接すると、まるでインベーダーのように眉をしかめたり、むかついたりしてしまうと言う事が現実の世界では双方に起こる
凄く残念なこと 日中で誤解が7,8割有る  歴史が長い交流が有っても違ってくる
「協議」するは  中国では「合意」・「協定」(相談する事ではない)「就職」は中国では「就任
(部長に成ったの、となる)誤解はいろんな面からある
「夫婦」は中国では夫妻(丁寧な言葉に相当)  親捜しを 探親これは中国では里帰りとなる
 (戦災孤児の事でひんしゅくにあう)

思考、行動を理解するために3つの要素が有る
①歴史的な側面から来る特徴が有る中国の長い封建時代の歴史が有って どうのし上がっていくか
 社会で浮かびあがって行くかは大きな問題で 、権力者に対してどう立ち向かっていくか、
 自分達をどう防御するかという問題
 中国の家族その他の命がけの助け合いグループ の様な 「じこじん」 絆を重んじてゆくと言う 
 そこにすべての価値観を集約させると言う側面が有る
②商業民族という側面がある  彼らの考え方 行動の殆ど 商業民族というコンセプトから理解できる  
③日本人と中国人の礼儀の違い 日本人は基本的に迷惑をかけない負担を掛けない 
 中国人は私は貴方に対してどれだけ誠意を尽くしているか 
 を貴方に知って貰おうと言うところに礼儀の基本が有る  全くお互いに理解しにくいところです
 初対面でも中国人は相手のあらゆることを知りたいと思う   
 それが誠意を示すこと  その様にされると日本人は引けてしまう

中国の北京オリンピックの時に「初対面の人に 根ほり、葉ほり聞かないように」との新聞掲載が有った
中国人が横に居て黙って煙草を吸う事、あめを食べる 
本人はその気持ちが無くても 大変な侮辱  お前は眼中にないと言う事
私は貴方に人間関係を求めない だからお前なんかにたばこを勧めない 
お前なんかに価値は無いと言う事 だから必ずタバコは勧める
人に物をあげた場合に、日本人は物を贈られた場合直ぐにお返しをする傾向が有る 
中国人は 日本の団地に引っ越してきて中国のゲッペイを廻りに配ったが、泣いてしまった  
良く聞くと 贈って直ぐにバナナとかお返しが来た
それで付き合う事を拒否されたと思ってしまったとの事 自分がゲッペイという形で誠意を上げたのに バナナという形で誠意を丁重に送り返された

あんたとは付き合いたくないという意思表示だと思った  
大学でも同様なことが起きている 身近な行き違いについて治すことが必要
中国人はミスをしても謝らない みられていても私ではないと言い張る 
モラルが無いとの感想が企業で良く聞かれる
日本人と中国人の「謝り構造の違い」 があると論文にもなっている
日本人はそれは私がやりましたと 謝り終了の合図と捉える  
それを中国人は謝り返しの合図と捉える
日本人の場合は謝れば チャラにしえてくれるか 悪くても半減位にペナルティーが減るわけです 
処が中国人は誤りを認めたと言うことは,それに相当するペナルティーを文句を言わず受け入れると言う事です 
 
それをやらなかったら償いに成らない
尖閣諸島で船長が体当たりした あの問題の時にもろに出てきた   
後で日本が日中友好の事を想って、船長を釈放した
日本はなにも日本の処置が間違ったとして釈放したのではなく、あくまで日中友好のためですね中国政府はそれを国民にはそうは説明しません
日本の側が逮捕の手続きは間違ったと、いうことを認めて釈放をしたという事になります  
日本はそれで終わったと思っても中国側は賠償を求めなかったら、誤りが完了しないんですね
翌日中国は日本に対して賠償請求した  日本は殆ど怒った
日本が譲ってやったのに、何で調子に乗って倍賞まで要求するとは いい加減にしろと 
それをしないと中国政府は国民に説明がつかない 

翌日に日本向けに 我々は賠償する権利が有ると言った これは日本に対するシグナル 
(棚上げにしていいよという)問題が如実に反映されている
日本を代表する様な大企業であっても必要な部署に読める人が配置されているというかというと、非常にお寒い限り 多くの場合は中国人に頼る
中国人に頼ると言うことは、自分達で自分達に必要な情報を、差別化してとると言う事が出来ない
中国人の人が上げてくる情報というのは、中国人が見て必要か、必要でないか 
面白いか、面白くないか という風に判断してしまう
それだと差別化出来ない 日本人の目から見て中国人が気がつかないけども、こんなところに
ニーズがあるという風に出て初めて勝負が出来る
其れをぼろぼろ逃してしまっていると言う側面が有ります
ビジネス中国語のシステムを作っていかなくてはいけない 
随分多くの企業が中国語研修をやっていて基本的なベースを培うが問題はそこから先新聞、インターネットを読めるようにするには語彙、文法が随分違うので、キチンと比較して講じて,それを理解したうえで、いろいろな経済用語とか,法律文書とかに、行かなくてはいけないのに、そこの間のベーシックな部分での論説体と会話体の違いの教育がすぽっと抜けてしまっているので,そこで崖を飛び越えられずにダウンしてしまう橋渡しが必要 ビジネス中国語の教材、
カリキュラムを作って、ピラミッドを構築して本当に役に立つ人材を企業の中に育てて行こうと
している訳です 

 
論説体 書き言葉の一種 新聞、論文、インターネット等々 感も働かないといけない
生徒が「美女配隊」を「美女整列」と訳した  全然違う
 美=アメリカ 女配=女子バレー 隊=チーム  美女が整列ではない
意義素=意味の最小単位 でも単語ではない 「発展」 発だけでも意味が有る 
動詞か名詞か解らない(自分で判断要)口語体の方が解り易い
尖閣諸島の領有権問題  国益がらみの問題が有るので冷静に見てゆく必要が有る  
中国の外務省の外郭団体 大陸棚に関しては、日本とベトナムに対して逆のことを言っている
そのことに対して交渉に当たっては中国では、その様にするのは当たり前との事だと言っている
国益がらみ、海底の地下資源が中心  イラクに匹敵するような資源が有ると言われている
  
中国の漁民の問題が非常に大きい 中国の場合は沿海漁業は壊滅に瀕している
一切がっさいを全部取ってしまう様な強力な網で、根こそぎやってしまった  
渤海当りは1歳位の魚しか取れない それでは漁業が成り立たない
結局北朝鮮、韓国の領海まで入ってって取る 殺傷問題まで起きる 
さらに大変な量の基準を越えた汚染の排水が何百万トンと流れ込んでいる
さらに沿海が殆ど全部第15次5カ年計画の終了時には工事が行われていて、中国の沿海が
工業団地、港に成ってしまう 
 
沿海の魚は産卵に来る時には浅瀬に来て産卵する  これを全部潰すと産卵場所がなくなる
水運が今、発達して 中国は水運を世界一の中心にしようとしている  
その航路に 海面を囲まれてしまうと 漁業が出来ない
中国の600万人弱の漁民が生きて行くためには、尖閣諸島沖合、だとか南シナ海だとかに行って
やらない限り生活が成り立たない
沿岸の地方政府がコントロールすると大変な事になる (暴発するので) 
やらせるしかないと言う事が一つの大きな要素です
シビリアンコントロールについて  これは推測でしか言えない部分が有るが 状況証拠から見ていろいろな問題が有る

日本が明治維新後に維新の西郷隆盛、勝海舟等が武士でありながら、政治もやって、
シビリアンコントロールが一緒くたになっていた
途中から完全なプロパーの軍人と完全なプロパー政治家に分かれて それが主導権を競って 
日本は最後には太平洋戦争まで来たが 
中国は似たような軌跡を歩んでいる 最初は毛沢東 鄧小平 とかは軍の総参謀長もしている 
文官 武官両方の要素を自分の内に持っているが
処が江沢民以降 胡錦濤等は特に胡錦濤は完全に中国共産主義青年団に育てられたプロパーの
党の人 軍と完全に別れて来る
胡錦濤時代から軍のさまざまな突出が見えてきている  
今度の近習平政権がそこのところをどういう風な関係を築いてゆくか大変大きな問題です
やっぱりコントロールがきちんとできていないのではないかと思います
領土問題は最終的にはうやむやにして、凍結して、棚上げにするしかない 
中国側は領土問題が有ると言う事を少なくとも認めさせたうえでの凍結でないと、矢張り説明がつかない 
それまでごり押しをするでしょう  ただそれ以上は今解決することは アメリカその他の関係も
有るので得策でないとは解っていると思います
軍がどこまでそれを言う事を聞くかという 大きな問題が有ります
中国、日本の民間の人達がやっぱり我々が主役にならないと駄目だと 政治だけに任せておくと、
積み上げたものが全部壊されてしまう
これは日本側にも中国側にも 政治に携わる人達の中にそういうものを一挙に葬ってしまう様な 
そういう方向性が有る
其れをやらせると民間の本当に日中の友好を考える人が疲弊してしまう  
矢張り補完関係が大分有るので これをしっかり考えないといけない
民衆レベルで理解し合ってみると本当に良い人が多い 
学生連れて中国の路地裏歩くと本当に良いおじさん 良いおばさんがいる
惑わされずに、兎に角、民衆レベルでお互いにしっかり理解を深めようと それからですね

2013年1月16日水曜日

河野耕三           ・照葉樹林が育てたエコパークの街



河野耕三       ・  照葉樹林が育てたエコパークの街  
宮崎県 県立高校で生物を教えるかたわら、全国各地の森林を調査し、自然保護の活動に長年携わってきました 
そして綾町に広がる照葉樹林に魅せられ、30年あまりに成ります  
綾町は宮崎県のほぼ中央にあり、東京ドームの535個分の照葉樹林が広がり
その広さは日本で最大級です そして昨年7月 ユネスコエコパークに登録され、国内では1980年以来という事で注目を集めています
ユネスコエコパークは人間と自然との共生に向けてユネスコが1971年に発足させた中心的事業で
生態系の保全と持続的活用を目的とする地域の事で
日本ではエコパークの愛称で呼ばれています  エコパークの登録までの道のりをお聞きします

森林が8割 その中の半分近くが綾町外の限定した場合 全体としては1/4位が照葉樹林です 照葉樹林 しい かし たぼ の木が代表的な木  原生的な森としては日本で最大級 1700ヘクタール(繋がっている領域で) 離れているところも   
合わせると2500ヘクタール 古い二次林まで入れると 3000ヘクタール  
他にも森としては御蔵島、沖縄本島 西表島等が有るが島であるのでまとまった自然林は意外と少ない  
農耕文化が日本に入って来てから、一番最初に破壊されてきたのが照葉樹林です。  
水田 畑で 建築用 杉檜の植林(明治、大正、昭和) でことごとく破壊されてしまった  
自然林の見られない山に成ってしまった

針葉樹の方が古い 針葉樹はある程度温度が低くて水分状況が比較的いいところで発達した  温暖化で それに対応することで広葉樹が発展してきた
条件が良ければ広葉樹が競争に勝つ  針葉樹は比較的厳しいところでも育つ 
針葉樹は急斜面、高いところ、寒いところに降りて行ってしがみつくようにして逃げて行った  
針葉樹は都合の良い材質を持っていた 広葉樹を切って針葉樹を植えた
針葉樹は根が浅く広くはるので 地滑りに弱かったり葉が脂分が多くて微生物の分解が遅くて永く残る そこにカビが生えて、カビが水をはじいて、地下に水がしみ込んでいかない  
土地がやせる 雨が降ると土砂崩れしやすい いろんなところで土砂崩れがしやすくなった 

昔は不安定だが土地がいいところは広葉樹、安定しているが土壌が無くて厳しいところが針葉樹 と棲み分けして自然を押さえていたが それが解き離れたために自然のバランスが壊れてしまった  
生物の先生を36年やった 植物社会学を大学で勉強した」
有る種類グループ 仲の良いグループと 仲の悪いグループが出来る 
時間を掛けて有る共存する社会を形成する 
その共存する社会を調査して分類する其れが植物社会学 分析して考察する 
(どうしてコロニーが出来たか)  

郷田さんが町長に成られて 1966年に森林伐採の問題が出てきて、一人町長のみが反対して、翌年67年から森を切らないでも住むような地域作りを始めて私と出会ったのが1983年なんです 約半世紀に成る  綾町の照葉樹林を守ろうとした  
自然が持っている価値を町内外の人に証明してほしいとのことで声を掛けられた 
表側は切れない状態だったので 綾町の裏側から切り始めた どうにかしなければと言う事で反対の取り組みを始めた  
森林伐採の会社に雇われていた 伐採された木 加工会社が加工して 外部に出荷していた  労働者としてのメリットはあったが資源としては無かった

パルプ、次が建築材としていた  安かった  原生林として構成してた当時は殆どパルプ 
安いため 杉、ひのきに転換しようと国策が拡大造林、樹木の 
(昭和20年代後半から)転換 として進められ、 その結果 原生林を切って、安くパルプ材、として出して植林をして行った
何故森が切られるかというと 木を切る為の労働力が雇用に繋がっており、これを転換するために町長は森に頼らなくてもいいようなそういった街作りを一生懸命に取り組んだ  
自然が無くなると日本の独特な文化が無くなってしまう  
そういった視点から森を見ようと言う事に成り総合的に、詩、短歌、文学、絵画、音楽、歴史、
考古学とかありとあらゆる分野の人を呼んで、森をいろんな角度から見直そうというシポジュームを 展開したのが2年目に始めた  

単なる資源の森ではなくて日本人の無くてはならない日本人を育ててくれた、文化をはぐくんでくれた非常に重要な生態系であると言うのを多くの人が知り始めた  
そこで初めて綾町の森が注目され始めた  
発酵文化 東アジアだけ 高温多湿独特の文化 カビを使った文化 他には無い 
お茶、 アジア 漆 乾燥地域では旨く乾かない 湿度の高いところでないと旨く乾燥しない 
 藍染め 繭 藍 等等 いろんなものが繋がって来る
針葉樹林では発酵しない  染色では木の灰を燃やして定着にしたり、全部照葉樹林 に繋がっている

いろいろな生活の処に繋がっている  それが判って貰えるまでには10数年かかっている
短歌和歌 日本的な表現の手法も非常に繊細  繊細な日本人独特な感性は ブナ林とか 
四季が有る メリハリがはっきりしている
針葉樹林は変化の無い 季節の移ろいが無い  観察力を磨ぎ澄まされた古代、中世の人達 日本独特の表現の手法技術を打ちたてた
実際の生活が安定しないと駄目 有機農業で町民が体験した 
それが売れると言う事を体験した  そしてそれがお金に成る 生活の安定に成る
綾から宮崎に 宮崎から日本全体に広がってきていろんなところから注文が来るようになる 
あやのブランドが確立するようになる

森を切らなくても、綾の生活するエリアの中で自然の恵みを利用して経済的な自立が出来る  農業で先行的にやって山からの地下水を利用して酒を作る (カビ文化)  経済的に潤ってくる100万人が来るようになった(7000人の街に)  自然保護が地元に人に支持された  
ある時期は人が逃げてゆく時期が有った 昭和28年 ダムを作って発電するという事で 
35年ごろ人口が増えた パチンコ、映画館 、飲み屋  工事が終了するとこの人達が夜逃げするようになる その様な時に1966年に郷田さんが町長に成る

現在は自然と共生して持続可能な循環型社会をめざしている 
考え方は必要だがそのまま綾をまねようと思っても旨く行かないかもしれない
いい自然が有っても旨く行かないかもしれない 全住民が参加出来るシステムが出来上がった (木工、地下水 釣り橋を作ったり) 
22公民館を作って、そこに交付金を与えて、館長を設けて、運営する役員会を設けて
 毎月役員会を行って いろんな分野の事を年間予算を立てて
やってゆく   行政の末端としての働きは役場の職員が行う 
 一区一品運動 有機農業 (小さな面積のところに) 健康になる
作ったものが余って段々青空市場で売るようになり どんどんそれが口コミで広がって 
発展して行って本物のセンターを作る そこで3億数千万円   年間で持続的に売る様になった  零細の一坪菜園運動から始まってこの様になった 中規模農家はJAを通して全国に販売する  
綾町がユネスコのエコパークに登録された 屋久島 白山 志賀高原 そことは違う 
国が勝手に申請 登録した 
地方自治体が提案したのは日本ではここだけ基本的には手を付けない
植林は出来る 人は住むことが出来る  
原生林と共存出来るシステムが整った状態で申請できる(綾は人が住んでいない) 
高齢化 過疎化  がいわれるが 新しく移住してくる人がいる  自然減ではある  
Iターン 最近では若い子供連れが来ている
孤独死は都会では言われているが、ここではない 地域の繋がり(公民館制度等で話し合う場が密にある)が有るので之から如何に維持するか 入込客 最近は若干減っているので100万人を維持したい  どうしたら綾の街並み空間が出来るか 観光、歴史等町民の手でやっていきたい   
エコパークにふさわしい街作りをしようと(とりあえず100年かけて)提案して体制作り、 組織作りをやっている  
それぐらいかけないと人間と自然との本当の営みは戻ってこないし、確立しない  
正直言ったら200年か300年ですかね それだけの時間はかかる
世の中は破戒の方向に動いてる中で 綾は地道にゆっくりとやってゆこうとしているので 
持続と我慢が必要だと思っている

2013年1月15日火曜日

工藤夕貴(女優42歳)      ・女優も農業も楽しむ



工藤夕貴(女優42歳)   女優も農業も楽しむ
工藤 夕貴(くどう ゆうき、1971年1月17日 - )は、日本の歌手、女優
父は井沢八郎 12歳の時にアイドルとしてデビュー  歌手として女優として活躍 
英語を勉強して18歳の時にハリウッド映画ミステリートレインに出演
その後「ヒマラヤスギに降る雪」等に出演 話題となる  
今月19日に上演される「カラカラ」が第36回モントリオール世界映画賞で世界に開かれた視点賞 
観客賞を受賞  ハリウッド映画に出演した経験等もエッセーも 発表される予定です 
現在静岡県富士宮市に住んでいて 農業をしながらカフェを出店している 

2010年再婚する 夫は元刑事だった人 柔道をやっていて学生の時に空手をやり始めた
ダイエット 食べ合わせで 夫が13kg痩せる  
「カラカラ」は舞台が沖縄 沖縄ムード全開 人間がシンプルに生きる美しさ 
世界に開かれた視点賞は カラカラの為に出来た特別賞
外国の方だからこそ描けた日本の中の文化、景色、人間とかを上手に描けた  
監督は現在も沖縄に住んでいる
フランスの詩的なコメディーだと思っている  主人公が一生懸命に生きれば生きるほど ちょっと笑えて来ると言うか、不器用さが面白かったと言うか  
そこはかとない笑いを誘う ちょっとしたおしゃれなコメディーだと思う  
余分なものが一切ない DVの問題を抱える人 自分を殺して行ってしまう

自分として生きる楽しさ 人間としてお互いの違いをそのまま素直に受け入れることで凄く良い関係性が生れて来ると言うことは凄く極上の友情に値すると言うか そんな感覚を持っていて 二人ともお互いに、ピエールさんも永いこと結婚してたんだけれど 自分でないものを奥さんの 為に演じて ずっときたけれども 結局そういう自分も滑稽だと思い、子供にも見放され、
仕事もリタイア 奥さんにも居なくなられて仕舞い、 親友も無くして   生きるのも怖い、
死ぬのも怖い そういう状態で沖縄に旅をしてきて、そういう出会いみたいなものから人ってそれがきっかけに成ってあらゆる方向が変わってゆくと言うか 私の再婚そうだと思うし、
再婚する気持ちなど無かったのに、ある出会いから 自分の人生が違う色をもつというか  
そういう事って誰にでも起こりうることで カラカラと言うのはウエット、ユーモアを持ち合わせて大人の人が見て面白い映画だと思います 

人生が疲れたなと思ってきた時に あーなにか別に捨てたものではないかもしれないなあ 
自分にもそういう一つのきっかけが有れば 何かの形で自分の人生が又輝きを取り戻す事だって実際有るんだと言う気持ちにさせてくれることが大好き  
ハリウッド映画にも出る 外国で自分のやりたい役を自分で攻撃してとって来ることに凄く憧れたと言うか 恋愛とかもそうだと思うが その人と心が通い合うまでが一番ドキドキして来る時だと
思うし 仕事とかもそうだと思うんですが、攻撃している時が人間一番楽しい時だと思うんですが、 日本で仕事をしている中で守りに入っちゃうと言うか そんなことを子供時代に感じたことが
有って どんなにやりたい役が有っても取ることが出来ない

待つことしかできない といういらだたしい気持ちが ある監督から言われた 
外国というのは主演女優賞を貰った人でもオーディション行かないと  役がとれない 
外国をめざした方が良いと その言葉が凄く頭に有って それから外国で仕事をしてみたいと思うようになった  
外国にでなかったらどんな人生だろうと思う時が有るが、外国にでなかったら今の自分は
無いし、多分こういう風に自分が満たされると言うか
ある意味自分自身に満足が出来る生き方が出来た自分に出会えなかっただろうと思います
外国に出た時に多少の苦労をしたけれども、アルバイトしたり、友達の中でも芸能人だとは知らない人もいたし、そういう中で生まれた時から芸能界の父に育てられて 12歳で芸能界に
スカウトされてデビューして 子供時代から芸能界と言う感じだった  

無名なアジア人として普通の人生を経験できたのが有る意味豊かにしてくれたことはあると思う日本だといろんな人が自分を支えてくれたり、普通に生きていても 日本は親切な人が多い 
外国だと普通に生きてても親切な人は少ない  
アジア人という偏見で見られて 年齢も若く見られて扱いも良くなかったり、そういう辛い思い
をしたり差別を受けて 完全に一人暮らしで、本当にマネージャーも無く一人で動いていましたので自分自身が見えなかったもの 如何に自分の少女時代が恵まれてきたかが判ったので良かった  
考えないから良いのかもしれない 失敗したらどうしようとは考えなかった 
絶対うまくいくと言う風に思っていた
食べられなくなったらその時は、其の時は又考えようと思った  
お金が稼げないときに、日本語教師をやってみて芸能界以外でも生きていけると言う  
自信がついて、新たな心の支えになった   
英語はかなり悔しい思いはしているが、子供でもしゃべれるので、如何に自分の生活に密着するかでその言葉のなじみ方は違う  どこの国に行っても2週間位で解る様に成って来る  
1カ国語をマスターすると次の外国語が楽になる
 
本当に必要になれば臨機応変に対応する生き物だと思う 切羽詰まった状態にする 
絶対そう思う  矢張り苦労するが その国の言葉に浸かる
使わないと英語は駄目になってゆくので使うようにしている  
褒められた事が凄くうれしかった もっと褒められたいと思うようになった
スカウトされたときに両親は大反対だった 土下座して仕事を始めた 
子供時代は家庭内のトラブルも有って自分自身を自分で自立できるように なりたいと思った   子供のころは必要以上に大人に見られたいと思っていた

富士宮市に住んでいる  芸能人は借金が怖い 仕事が無くなったら、本当に無くなるので 
借金が無い状態で家を作った
26歳からアメリカに住む  体調も芳しくなかった 異形細胞が有り癌に成る可能性が有るとのことで 現代医療薬に頼るようなタイプだった 
しかし 身体を直すのは自分だと 病気を予防してくれるのも自分の身体だと言う事に気がついて 食べ物の大事さに気がついて農業にも興味を持って自分で育てたものを食べるようになった昔は家から出ない様な若者であった 
 
今は山へ行ったり 空手をしたり 農業したり 走ったりしている  
矢張り食べ物の力だと思う 体質改善をした  10代のころは好きなものをお腹がいっぱいに成ればいいと思っていた
自分の身体が何で出来ているのか判らなかった 
食べ物でも粗悪なエネルギーに成ってしまうものが有る 
生のものに含まれている酵素、身体の中で綺麗に燃えるもの、身体を汚さないもの  
良い減量ダイエット(食習慣) 継続できる食べ方  実際の食生活にもとづくものでないといけない    
自分の好きな大好きだった伯父と父親ががんで亡くしてしまっているので、病気に成らない様にしていきたい
周りの人達も健康で長生きして貰いたい  それを形にしてゆきたい 
第二の使命として考えてゆきたい
食、農業の有り方 想い を人に伝えられるようなシステムを作って行きたい
安全な食材、安全な食事 を日本中に食べてみたいと言う人がいるのでそういう事をしてみたいと思う
女優をしながら半エックス(農業他)をしてみたいと思う