2026年11月5日木曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

「94歳になった今考えること」

新聞の朝刊で、後期高齢者の方が激増しているんです。そのうち80%以上が女性と言う記事になっています。 これからは80代以降をどう生きるかみたいなそういう人生論が出てくるんじゃないかと思います。  60歳以降は第二の人生なので、第の人生 後期の人生を真剣に考えて、60代の生き方、70代の生き方、80代それ以降と言うふうにそれぞれに生き方が違うと思うんです。 高齢者の人生観と若い世代の人生観とは違って当たり前だと思います。 80歳以上の方が激増してる時代にどういう風にして生きていけばいいかと言うところ、迷っているがもういっぱいいると思います。

生き方として「養生」という言葉を使っています。  それなに努力して毎日を過ごしています。 心と体の相関関係といいますか、それをちゃんと見て両方深い関係があるわけですから、その両方から後期の生き方をうまく考えるというのが僕の今の姿勢です。 自分はこうやっているかと言うことを人に押し付ける気持ちは全然ありません。

「大河の一滴」の最終章  癌と放射線治療のことが書いてあります。 がんと言うのは大変な病気である事は間違いないんですが、やはり病気の1つなんですね。がんと言ういますが、成人病の1つですからお亡くなりになった高齢者を解剖すると、ほとんどの人が癌の兆候というか、そういうのがない人がないと言われています。 高齢者の運命と言わざるを得ないです。  そのことで絶望したり、自分がこの世から縁を切られたような、そういう考えに陥る必要は全然ないんじゃないかと思います。 厄介ながんを抱えて何年も何年も戦い続けている人がいっぱいいると思います。 それをあっという間に快癒したと言うような話を聞かせるのは、調子がよすぎるんじゃないかと言うふうにには思います。 たまたまうまくいったことを強調して語るのは良くはないと思います。

僕は数年前に咽頭癌を宣告され2から3への段階でしたが、これは自分の病気であって、他の人たちに心理的な負担をかけるのは絶対しないようにしようと思って、僕は誰にも言いませんでした。 みんなの協力の中で治療していくと言う方がほとんどですが。 思いがけず治癒して、今のところ再発の気配は無いと言ううれしい状況ですけれども。 他の人たちに心配をかけないかけたくないと言う自分の鉄則として、自分1人でこの病気を抱え込んでいこうと言うふうに思って、それはしかし世間のの常識とは正反対です。

最近の本には、「人は何のために生きるのか」と言うテーマの話をしていますが、若いこれはイデオロギーというか、社会、人生のためとか、人間の未来のためとか、新しい思想のためとかいろんなことを考えますが、最後に人間と言うのは1番身近にいる人、自分にとって大切な人、その人のために、シンプルかもしれませんが、何のために生きるかではなくて誰のために生きるかと言うふうに本にが書いたのですが。

亡くなった母とか父親とか、その他大勢の友達とかそういう人たちの果たせなかった夢と言うものを、自分が代わりに果たすために生きてるんだと言うことを思っていました。 何のためにと言うのではなくて。 長く生きてその夢を達成しようと気持ちを持ちながら、その夢を実現することが出来ずに命を絶たれた人が無数にいるわけです。 そういうためにこそ今生きている。 自分が生きると言う事は、自分1人で生きてるわけじゃない。生きようと志ながら生きることがあたわざりし人々のためにも、自分は生きる義務があると言うふうに感じるようになりました。

長生きする面白さは近未来への好奇心

AIというものが大きく語られていますが、AIの未来が人間社会を壊すのではないかと言うようなことが広がっていますが、果たしてどうなのか、きっと人間はAIの奴隷になる事はなく、AIを使いこなしでやっていくのではないかと思います。    どう人間がAIに対してAIの奴隷にならないように、新しい知恵でそれに立ち向かうかと言うことがどうしても見てみたいと言う好奇心があります。 1日でも長生きして人間の未来と言うものを、世界の動きと言うものを、見てみたいと言う思いはあります。

孤立と孤独

孤立と孤独は違います。 孤独と言うのはたくさんの人の中にいても感じるものを孤独といいます。 孤立と言うのは他の人と同じ次元でもって対立することは孤立と言うんであって、政治的な思想が違うとか、階級が違うとか国が違うあるいは言葉が違うとか、いろんなことで人との間に壁ができることが孤立と言うふうに僕は思ってます。 孤立は社会の問題です。 孤独と言うのは自分1人の心の問題です。 群衆の中の孤独と言うことに、心惹かれるものがあります。 2人でいても1人と言うような。

人間と言うのは最後が1人であると言う風にちょっとおもって生きて、たまたまいろんな道連れができているという事はすごく幸せなことだと思ってます。 それに感謝して生きていくと言う、だから違う人間が一緒に暮らすということ自体はそれはすごく無理なことなんだと思いますが、夫婦仲良く何十年も生きていけると言う事は奇跡に近いことだと思います。 その事は感謝すべきであって、少々の不満なんか言ってる場合じゃないと思います。 別の人間が運命共同体として一緒に暮らすと言うのは奇跡です。 その奇跡と思わずに仲良くやっていくのが当たり前だと言うふうに考えるから不満が出るわけです。

運と努力について

人生に運はあると思います。 これは不条理なもので、運の良い人がいれば、運の悪い人もいる。 それを嘆いても悔やんでも仕方のないことだと思います。    運が悪いと言う事は努力をしても報われないと言う事ですね。 どの国に生まれるか、どの民族に生まれるかと言うのは、自分の努力ではなく、そもそも人間と言うものは不自由にできてるものです。 その中で最善の努力をするしかない。    覚悟と言うふうに思ったほうがいいと思います。 人間は自由で平等と言う事はありえないことだと思います。 ある宗教家が「置かれた場所で咲きなさい。」と言いますけども、ある意味では本当だと思います。

自力と他力について

石原慎太郎さんは日蓮を尊敬してます。ですから自力派です。 僕は親鸞と言う人に共感する人間なので他力派です。 会うとよく議論しました。 日蓮に出会うことも親鸞に出会うことも、僕に言わせるとこれは他力なんだと思います。 自分で選択するわけではないのですから。  出会いと言うもの他力のはうですね。 どんなに努力をしても、どんなに誠実に生きたとしても、それは報われないという事はあります。 

大きな川の流れに流されていくんだけれども、流されていくからといって全部任せきりではなくて、それについての考え方を自分で持って流れていくんだと言う決意することが、その人間の生き方だと思います。 生きていく事は難しいという人がたくさんいます。その中で生かされている自分と言うのは幸せだと思うしかないです。












2026年11月2日月曜日

柴田昌平(映画監督)            ・「農」と市民をつなぎたい

柴田昌平(映画監督)            ・「農」と市民をつなぎたい

 柴田さんは1963年東京都の生まれ30年以上にわたって、自然と人間との関わりや市井の人々の営みを深く見つめるドキュメンタリーを制作してきました。 劇場映画では「ひめゆり」「千年の一滴 だし しょうゆ」テレビ番組では、NHKスペシャル新シルクロード・第5集・天山南路・ラピスラズリの輝き」「和食 千年の味のミステリー」など多くの作品があり、国内外の主要な賞を受賞しています。 最新作「百姓、わらう」が全国公開中の柴田さんに伺いました。

日本の農家の平均年齢は68歳。そのうち未来を担う世代、私たち49歳以下はわずか1割、日本の人口の0.1%。

映画は9月26日から東京中野の映画館で上映が始まっています。 初回は満席でした。 農業に対してみんなが関心があるんだなぁと言うことを感じました。    この映画を作ろうと思った理由は、僕は農村に興味がありました。 学生時代に山梨県の標高900m位の村に調査に連れて行ってもらいました。 そこで農村の重層的な暮らしに触れて心を惹きつけられました。 大学を卒業してNHKに就職しました。 そういった記録やりたいと思いましたが、早く退職して地道に記録を続けてきました。

日本の農業と言うのはどうなっているんだろうと言う広がりの中で農業を見たいと言う思いになりました。 そう風に思うようになったのが8年前です。 現在63歳。いろんなタイプの農家を歩いて回りました。 今回の「百姓、わらう」は8年間撮ってきた集大成と言ったところです。 2022年には「百姓の百の声」と言う映画を作りました。 百姓の知恵の豊かさと言うものをしっかりと描いた映画でした。    この映画は、農業界のレジェンド級の名人たちの技というか生きざまを含めて撮っていきましたが、今回の「百姓、わらう」49は歳以下のこれからの未来を作っていくと言う世代にスポットを当てて撮ってたものです。 

撮影していく中で出会う49歳以下の人は口ぐちに100年先のこの土を豊かにしていきたい。あるいは100年先のこの村を笑顔にできるようにしたいと言うようなことを日常会話に出てきていました。 私はそれに驚きました。 1番驚いたのは、広島県の耕作放棄地になってしまって森の成ってしまっていたものを、もう一回田んぼに戻しながら、それこそ100年前の知恵をもう一度蘇らせながら、自分の体に受け継ぎながらやりたいと言う若者がいました。  暮らしが充実している姿を見て、心を打たれるとともに、力強さと自信を持っている姿に打ちのめされる位の魅力を感じました。  

また別に広島県の方で土の中と言うのは実は微生物がいながら錯誤を作っている。最近では土の持っている豊かさよりも外からいろんなものを投入することによって、次から次へと工業的に生産すると言う農業が始まっていきました。 もっと最先端ではもう一度土の豊かさを再評価しよう、それも科学の力を使ってどんな微生物がいてどんな種類がいて、どう影響し合いながら、命を育んでいるか、結果としてどういう風に作物になっていくかと言うことをしっかりと研究しながら、先人たちの知恵と最新の科学使いながら、栄養分豊かで、異常気象の中では安定して取れるような作物の作り方を開発しようと言うそん若者もいます。 世界中で土が注目されてきています。

大規模化して行ったところから、もう一度小さな農様に立ち戻っていくと言う酪農家もいます。 何故かと言うと大規模化して効率的に作れて安く生産できると言う事は日本では一貫してお勧めできましたが、実は全く豊かになってはいません。

大規模化することによって借金ができ、日本の大規模化は借金とともに進んできている側面があります。 大規模化していくと、肥料も外部から購入しなければいけなくて、農薬もたくさん使わなくてはいけないと言う外部からのものに頼っていく弱い農業になってきていると言えると思います。 外に依存しないで足元にある豊かさを大事にしていこうと言う考えが募ってきています。 今から5年経つと70代80代の人がごそっといなくなります。 自分の米を作りたいと言う若者たちが全国にたくさんいます。  そういった人たちが入ってくるのではないかとその人は信じています。 そういったことになっていくためには、もうちょっと社会全体が変わってからなければいかないかなと思います。 農業に対するリスペクトがよみがえって来るという事が大前提かなと思います。 今の社会は農業に対して冷たいなぁと思っと思います。

本質的な人間を描くと言う気持ちを込めて、「百姓、わらう」と言うタイトルにしました。 農業に対する1番の問題は、農政に携わっている人たちが現場を知らないということだと思います。  農村と言う現場をしっかりと時間をかけて歩き、農家の声を聞いていると言う役人の方は極めて少ないと思います。 農家と役所が離れているなぁと言うことが問題かなと思います。 私はこの映画で伝えたかった事はみんな100年先笑顔でいるためにはどうしたらいいか一緒に考えようと言うことかなと思います。  何が豊かあるんだろう、何が幸せなんだろうと言うことをこの映画を通してそれぞれが自分に問いかけ周りと会話し、そういう連鎖の中で農家を巡る空気感というか、ポジティブなものに変わっていったらばいいなぁと思ってます。 

農家の人に本気で相手にしてもらえるまでにはすごい時間がかかります。    稲を育てていく工夫ポイントは全員違うので、そこに興味を持って、その技術を含めた人生と言うものに対して質問できないと相手にしてもらえだと言うことがわかりました。 2年間ぐらいは空振りでした。 

姫田忠義さんと言う民族的な記録映画をとってきた人がいます。「イヨマンテ」と言うアイヌの熊送りの映画を見たときに、熊の命をいただいて食べると言うことに衝撃を受けました。  NHKに就職したときに沖縄に行きました。 当時、沖縄問題が中心でした。 基地問題、正義感みたいなもので伝える事でしたが、沖縄の人には違和感がありました。 沖縄は沖縄の豊かさがあるし、沖縄の人たちの暮らしの充実したものがたくさんあるわけですが、そこには全然カメラの向きませんでした。  本質的な沖縄に向き合っていないと言うことがありました。 そこで「ひめゆり」と言うドキュメンタリー映画を作りました。 

沖縄と農村は似ているように思います。  農業についても農業問題をやるんです。 本来農業が持っている豊かさ、可能性と言うものはなかなかドキュメンタリーと言う形では伝えられていなかった。 正義感ぶったドキュメンタリーを作ろうと言う事はやめました。 農家として本当に共感できる、しかも消費者も理解できると言うそういうドキュメンタリーを作りたいと思いました。






2026年10月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「谷崎潤一郎」

 頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「谷崎潤一郎」

谷崎潤一郎は1886年明治19年生まれ。 1965年昭和40年79歳で亡くなりました。文化勲章受賞者でノーベル文学賞の候補にもなりました。 今年は生誕140年にあたります。 耽美派日本の古典回帰で知られています。今日は谷崎の物事に対する恐れの気持ち、恐怖心についてお話を進めます。

「私の神経衰弱と言うのは、脅迫観念が頭に強くて、時々発作起こすのであったが、恐怖の対象はいろいろに変わった。 顔色が真っ青に変わり、あるいはカーっとのぼせてきて体中が震えだし、足がすくみ心臓がドキンドキン音をを立てて鳴り出して、今にも破裂そうになる。 その恐ろしさを紛らわすために片手でしっかり心臓を抑え、髪の毛を掻きむしったり、そこら中を駆けずり回ったり、水道の水を浴びたり、それが時のところを選ばずに突発するんだから始末が悪い。 発作が起こらない時でもいつ起こるかと言う心配のためにビクビクしている。」谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は明治から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作には「刺青」 「痴人の愛」 「蓼食う虫」 「春琴抄」 「陰翳礼讃」 「細雪」などがあります。 昭和39年日本人で初めて全米芸術院米国文学芸術アカデミー名誉会員に選定され、ノーベル文学賞の候補者にもなりました。 今年は生誕140年に当たります。

谷崎潤一郎は文豪の中でも際立って朗読で聞きやすい人です。  文章自体に惚れ惚れしてしまいます。 スラスラ書くようなタイプの人ですがそうではなくて、あんなに流れるような文章を書くのは不思議と思います。  

語りつくせない人ですが、今回は谷崎の恐怖症に的を絞ってご紹介したいと思います。

「名古屋から東京に来るまでの間に彼は、何度途中の停車場で降りたり、止まったりしたかしれない。 ものの1時間乗っていると、たちまち汽車が恐ろしくなる。 あぁもうたまらん死ぬ死ぬこう叫びながら、野を越え山を越えて走っていく車窓の窓枠にしがみつくことがあった。 いくら心を落ち着かせようと焦ってはみても、脅迫観念が、津波のように心の中を暴れ回り、ただわけもなく個体が旋律し、が高まって、今にも悶絶するかと危ぶまれた。 そして次の下車駅くれば真っ青な顔して、命からがら汽車を飛び降り、プラットフォームから一目散に表へ駆け出して、初めてほっと我に返った。」 谷崎潤一郎(悪魔と言う短編小説の1節)

この恐怖は、谷崎自身が、感じてた恐怖です。 パニック障害ではないかと思う人が多いと思います。 そういった症状があった事は確かです。

谷崎は京都旅行に行く時は大丈夫だったが、帰るときに汽車に乗る恐怖に襲われてなかなか乗ることができず、兵庫で徴兵検査を受けられるようにしてもらう。 いろんな人の助けを借りて徴兵検査をのための列車にようやく乗ることができた。 徴兵検査では脂肪型で不合格になった。(25歳)

「友人ことに目上の人を訪問すること、宴会にすること、芝居や活動小屋に入ることなど全て禁物であった。 活動写真などはそれでも恐々見に行ったものだが、3等席の出口に近いところに行って、発作を感じると急いで飛び出した。 その他床屋へ行くことがいけなかった。 じっと腰掛けて、首の周りを絞められて、髪を刈られていると決まって不安になってくる。 それを職人に悟られまいとして、一生懸命堪え、そのためになお怖くなる。 鏡に映る自分の顔が、土気色をして死相をたたえている。 みるみるうちに赤くなったり、青くなったり、とてもじっとしていられないので、えへんと咳をしてみたり、体をごそごそ動かしてみたり、しまいには、首を彼方へ向け此方へ向けする。 そして気分が悪いからとかなんとか言って刈り掛けの頭で外へ出てしまう。」 谷崎潤一郎(青春物語の一節)

これは今だと広場恐怖症と言われるかもしれない。 広場恐怖症と言うのは広場が怖いということで逃げられない助けを求められないと言うふうに感じてしまう状況に不恐怖を感じる。  いろんなところへ行けないと言う事は日々の生活が大変です。 当時はこういったことに理解されていない状況でした。

「強い光線強い色彩に見られてもめまいを感じた。何事によらず、強烈な官能的刺激には恐怖が伴った。 小説「悪魔」の主人公の佐伯と言う男は、真夏の路面から反射する陽の光に耐えかねて思わず、両手で顔を覆うのであるが、あれは私自身の体験で、佐伯の神経衰弱はすなわち私のものです。」谷崎潤一郎(青春物語の一節)

停車場前の熱した広い地面から、まともにキラキラと反射する光線の刺激に耐えかね。まぶしそうに両目を抑え、剣のような鉄路を走る電車の響き、見渡す限り熱気の充満した空の輝き、銀色に燃えてもくもくと山並み?の後ろからせりあがる雲の塊、赤く乾いた地面の上を強烈な日光を浴びて、火の粉?の落ちるように歩いている街の群衆、上を向いても、下を向いても激しい色と光とが弱い心を圧迫して、彼は一刻も両手を眼から離せなかった。 自分の神経が、もう白日の威力にさえも耐えがたくなってきたかと思うと、彼は生きがいのない心地がした。」

これは今と言う感覚過敏に近いという感じですね。 光或いは、音などに感覚的な刺激を過敏に感じてしまって、苦しい症状。これも日常生活には大変です。

「谷崎自身は、常時大型の薬瓶を鹿皮の袋に入れて携えていたが、それは外出して電車のつり革に捕まったり、階段の手すりに触れたり、風邪をひいている人とすれ違ったりするとたちまち血相を変えて携えたオキシフルで消毒をすると言う臆病なほど神経質。」 谷崎潤一郎の思い出を綴った今東光の本より。

これは、潔癖症というか、不潔恐怖ですね。 谷崎が書いていないのは、自分では自覚がなかったのかもしれない。

谷崎の母親も、不潔恐怖だったようです。

「私の母は病的に神経質だった。 母はきれい好きで便所から出ると、塩と軽石で手を30分ぐらい手をゴシゴシ洗わなければ気が済まなかった。 冬になると指先がすっかり割れてささくれだったが、それでもやめなかった。」

「彼は地震が大嫌いだった。彼の頭はいつか全く地震に対する危惧と不安とに満たされていた。 自分は必ず逃げ損なって梁の下に押しつぶされるに違いない。 人間が計り知られぬ?過去の時代から生存の土台と頼み、光栄ある歴史をその上に築き、多忙なる未来をその上につないで安心して活動していた大地と言うものがかくまでも不安定に、あくまでも脆弱であろうとは。」  谷崎潤一郎(病蓐の幻想と言う短編小説の一節)

谷崎は地震恐怖症でもありました。 幼い頃に大きな地震を体験している(明治27年6月20日の明治東京地震 谷崎が7歳の時) その後恐れていた大地震がついにやってくる。 関東大震災、その時谷崎は箱根のホテルに泊まっていた。 建物は壊れたけど幸いバスの中にいた。 バスの揺れで気づかず。 この地震をきっかけに関西に移り住むようになる。 谷﨑の代表作のほとんどは、関西に移住してからの作品。

「俺はいつ死ぬかわからない。 いつ何時頓死するかわからない。 そう考えると、正三郎は立ってもいても、たまらないほど、恐ろしい折があった。 死に対する恐怖から、彼はあらゆる急激な病気に対して過敏になった。 それらの災いが今にも自分の身に降りかかって一瞬簡易に五体がしびれてしまいそうな心地がすることが日に5、6度起こった。 往来を歩いていると、急に胸が痛くなって夢中で5,6町かけ出したり、電車の中でかっと頭が上気して、あたふたと表へ飛び降りていく。  夜中に布団を跳ね返して梯子段を転がるように駆け降りて、水道の水を顔にぶっかけたり、彼は真っ青になって、頭と胸とを抱えながら、一晩中ブルブル震えていることがあった。」 谷崎潤一郎(異端者の悲しみと言う小説の一節)

死に対する恐怖症。

鉄道病 広場恐怖症 感覚過敏 不潔恐怖 地震恐怖症 死の恐怖症とたくさんあります。 主には若いときで、段々には良くなっていった。

当時は、今ほど精神医学が進歩していないので、死にはしないから大丈夫だよと言われるのをとても恐れていた。 わかってもらえないと言う事は非常に辛いことです。 谷崎は病院に行くこと自体も苦手だった。

「とうとうある日脳病専門のドクトルの所へ出かけて行った。 患者は20人近くも待っていて、えらく流行っている医者であった。 川から晴れた夏の光が差してきて、入れ込んだ医療機械や真白な看護婦の仕事服や床のリノリウムがピカピカと目を射る。すぐに見てもらえれば一思いにすむのだけれども、待たされていると様々な恐怖の幻を描いて、だんだん怖気づいてくる。 私の順番はなかなか回ってこないので、私はまず代診の前に病気の性質と経過と尋ねられる。 あ、それからどうも時々理由のない事に恐怖を覚えたりしましてね。 私は軽く付け加えるような口調で言ったのだが、はあはあと代診は職業的に受け流しながら、機械的にペンを走らせて、時々恐怖感がありなどと備考欄に書き入れたが、いよいよ順番が近づいたと思うと、動悸が激しく打ち始めた。 私の前にまだ2、3人残っていた患者が、1人減り、2人減りして、最後の1人になった時、私はますます強く打ち出した心臓の鼓動を抑えて、そうこうとして階段をかけおり、夢中で戸外へ逃げてしまった。」  谷崎潤一郎(青春物語の一節)











2026年10月6日火曜日

柴田康弘(NPO法人代表理事)       ・「広げたい!インクルーシブサーフィンの輪」

 柴田康弘(NPO法人代表理事)・「広げたい!インクルーシブサーフィンの輪」

柴田さんは今年56歳、神奈川県鎌倉市などで介護福祉施設を運営する一方、サーフセラピーに取り組んでいます。 サーフィンと海の力を借りて、心身の健康や生活の質(Q O L:Quality of life)を高めようと言うもので、海外では退役軍人のトラウマの回復等に効果があることが報告されています。 柴田さんはまた障害の有無を超えて一緒にサーフィンを楽しもうと言う体験会をすると言う、地元由比ヶ浜で定期的に開いています。 こうした一連の活動により、今年の夏海洋スポーツを通じた社会貢献活動を表彰する国際的な賞アロハアワードを受賞(日本人で初めて)しました。

最初は仲間うちで始めた活動です。 少しずつ輪が広がってきて現在のようなスタイルになっています。  世界で認められたということで正直嬉しく思ってます。 大学2年生の時に友達がサーフィンをやると言うことで一緒にやることになりました。 サーフィンにハマってしまいました。 介護の仕事を葉山,湘南でしています。 介護、医療に関わるいろんな職種の人たちとサーフィンを通じて知るようになりました。 最初に始めたのがなみニュケーションと言う形で初めて11年になります。

「ラン友」と言う組織がありまして、北海道から沖縄までオレンジのTシャツを着て認知症の方を支えるイベントを毎年ありました。 その「ラン友」のイベントで若年性認知症の方と出会いました。 若年性認知症になった52歳の時に先生の方からサーフィンはやめたほうがいいんじゃないかと言うことでやめていたようですが、一緒にサーフィンをやりませんかと声をかけました。  一緒にサーフィンをやることによって笑顔で楽しんでいました。 それを機に毎月集まるようになりました。 

その後車椅子の方とか視覚障害の方、知的障害の方、ダウン症の方とかだんだん広がっていきました。 パラサーフをやるようになりました。アダプティブサーフィンもやってます。 適合すると言う意味ですが、障害を持っているんですが、波に適合させてサーフィンをやるわけです。 車椅子の方は腹ばいになって波に乗ります。障害によってボードにも工夫をします。 視覚障害の方はどちらから波が来るかとかタイミングとかについては合図とか手拍子をして理解してもらいます。 

自閉症とかダウン症の人は1人では難しいときには2人乗りで対応したりします。 押したり、受け取る人もいて、ピッチャー、キャッチャーと言うふうに役割を対応します。 落ちてしまった時もすぐに駆けつけるようにします。 6人ぐらいでチームを組んでサポートします。 本人が喜んで、私たちもそれを見て喜んでいます。

もともと看護師をしたメンバーで、最初はサポーター側で関わっていた人ですが、目の病で視力が低下してしまい活動中止していましたが、障害者の試合に出るように勧め、パラサーフィンの選手として参加して、昨年は全日本のチャンピオンになりました。 そして視覚障害者のサーフィンの方をフォローする活動をしています。

ダウン症の方がいまして、彼がパラサーフィンと出会ったのは、高校生の頃です。サーフィンをやることによって褒められたりして、自己肯定感が高まってきて、全国から彼を目指すような希望を与える存在になっています。  サーフセラピーというのを去年から始めました。ウミガメクラブという名前ですが、彼はインストラクターと言う形で活躍してます。

サーフセラピーに関する本をいろいろ読んで勉強しました。 戦争で心の傷を負った軍人の方向けのサーフセラピーとか、自閉症の子供向けのサーフセラピーとかあります。 それに対する研究も進んでいます。 名古屋の中部大学と言う所の准教授の先生と一緒に研究するようになりました。 去年の5月からスタートしました。 身体的幸福度とか、心理的幸福度、親子関係、学校関係などが少しずつ良くなっていきました。 親御さんにとっても良いセラピー効果が出てきていると言うことをわかりました。 効果の側面は3つあると思います。1つは海とか自然の持つ癒す力、2つ目は波に乗ることによって、現在に集中する。過去とか、未来に対する不安をなくせる安心できる。 三つめは独りでやるのではなくメンバーと一緒に味わう事で、互いに歓びを感じる。 場所、安心できる仲間がいる。

私は大学を卒業しようとするときにある企業は内定していましたが、卒業旅行でバリ島に行って、ビーチで貧しい人たちを含めてみんなが満たされる気持ちになっている姿を見て、幸せってなんだろうとその時に感じました。 サラリーマンになることへの疑問を感じて、内定辞退しました。 老人ホームを見る機会があり、その施設に配属になることになりました。 

ある認知症のおばあさんと出会って、その人はつばをはいだり、暴言を吐いたりしていました。 通常は午前中にお風呂に入れることになっていましたが、たまたま午後に入れることになり、その時は鼻歌で笑顔でそのおばあさんはお風呂に入ってました。 お風呂に入れる時間を変えたり、こちらの接し方を変えることによって本人も心の状態が変わってくると言うことをその時初めて気づきました。認知介護の奥深さを感じました。

その後介護の仕事にどっぷりつかるようになりました。 介護の会社を自分で作るようになり、現在に至るようになりました。 サーフィンをしている人たちが楽しんでいるのを見ることによって、ボランティアをしている私たちも幸せになって、私たちボランティアが1番セラピーの恩恵を受けてるのかなと言う思いもあります。 セラピー効果をいろんな人たちに味わっていただきたいと思っています。 インクルーシブサーフィン、いろいろな障害のある人、あるいは障害のない人を含めて一緒になって楽しむ、みんなで一緒になると言う事がビーチから広がっていければいいと思います。


2026年9月28日月曜日

2026年9月17日木曜日

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」 

味噌や醤油、日本酒、納豆と日本の発酵文化の魅力を伝え続け、発酵という言葉を広く世の中に浸透させました。 小泉さんは東京農業大学名誉教授農学博士です。発酵学、醸造学、食文化論の第一人者として長年研究に携わりました。 世界50以上の国と地域を歩き、発酵食品や珍味を尋ね歩いたことから、発酵仮面、鋼鉄の胃袋などの異名でも知られています。 昨年は、長年にわたる発酵研究と、日本の食文化への貢献が評価され、文化庁長官表彰を受賞しました。 現在83歳小泉さんの発酵とともに生きる思いを伺いました。

福島県で生まれて、小さい時から、酒の匂いを嗅いで育ってみたいなものです。   6人兄弟の末っ子です。生まれた時から、発酵食品に囲まれて育ちました。囲炉裏の火傷を防ぐために右手に身欠きニシン、左手に味噌を持たせると泣き止み、それらをしゃぶっている間は大人しかったといいます。 山にはいろんな食べ物がありました。  小さい頃から何ごとにも好奇心持ってました。 動物性たんぱく質は、赤ガエルをよく食べました。 青大将、やまかがし、シマヘビなども食べたことがあります。 

私の父は酒屋の長男で戦争で兵隊に徴収されました。 部下と共に中国からベトナムに行きました。 母親に稲の種と大豆の種をベトナムに送るように手紙が来て送ったそうです。 それを現地の人とともに米作りを始め味噌汁も作ったそうです。 昆布の味噌漬けは本当においしかったです。 母は醤油屋の娘で、そこから酒屋に嫁いできました。 文学少女でした。小学校4

年生の時に母を亡くしてしまいました。 寂しいだろうと言うことで、父が私専用の台所を作って、そこで自分で料理して作って食べました。 

父から教わった事は、日本人になりきれということでした。  毎日ご飯と味噌汁と漬物を食べてきました。 味噌汁と漬物と言う2つの発酵食品がありました。  クジラの肉は安くて本当によく食べました。 日本食を食べてきたので、83歳まで元気でこられたと思います。 東北大学の学部に行きたいと思っていました。   発生生物学と言う学問があって、それをやりたかったです。 しかし、酒屋の統合という国からの命令があり、発酵技師が必要になって東京に行くことになりました。 

東京農業大学に入学しました。 大学の1年から酒造りの授業をやることができました。 個人に顕微鏡が与えられ、酵母が発生するのは、全部目で見えるわけです。それから発酵学、醸造学が好きになりました。 その後世界を旅することになりました。 訪れた国は、世界50、 60箇所以上で600種類以上の発酵食品を食べてきました。 その中で1番珍しい食べ物は実は日本なんです。 それはふぐの卵巣のぬか漬けです。 (石川県)ふぐにはテトロドトキシンという青酸カリの約700倍の毒が入ってます。 ふぐをぬかみその中に付けて、長年おいておとくと毒がなくなってしまうわけです。 世界のどこでもこんな猛毒を食べてしまう、発酵してすごいものだと思いました。 日本人と言うのはものすごい好奇心がありました。 江戸時代からこんなことをやっていたと言うのはすごいなぁと思いました。

ボリビアと言う国がありますが、そこの民族は今でも口に穀物を入れて噛んで吐き出して、それで酒を作ってるんです。  口噛みの酒といいますが、日本では既に奈良時代に作ってるんです。  巫女たちが蒸した米を口にいれ踊りながら噛んで容器に吐き貯めて酒を造ってその酒を神にささげたと古事記にちゃんと載ってます。 唾液の中に米のデンプンを分解するアミラーゼと言うデンプン分解酵素があるから、噛んでるうちにデンプンがブドウ糖になってしまいます。 それを吐き出して、口の中に酵母があって、それが酒になっていくわけです。 日本でもペルーでも口噛み酒を作るのは女性です。それは現在調査中です。神様との関係があるのかもしれません。

播磨の国風土記に、神棚にコワメシを供えたら、そのうちカビができて、それをカビ立ちと言ってましたが、語源が変化して麹になりました。 実は麹菌は日本にしかいません。 醸造に使われる麹菌は日本にいません。 701年に大宝律令ができましたが、その中に4種類の醤油を作っていたと言う風に書かれています。  1つは穀物で醤油を作る穀醤、お魚で醤油を作る、それを魚醤、お肉で醤油を作る肉醤、野菜で醤油を作る、それを草醤、 4つに作り分けていました。 日本人の発酵と言うものに関しての考え方。応用は本当にすごいです。 発酵食品が日本の民族を育ててきたといえます。 麹菌がユネスコの無形文化遺産にまでくっついちゃったものですから素晴らしいことです。 

漬物だけで日本には1500種類以上あると思います。 タクワン漬けだけで日本には70種類あります。 新潟新潟市西蒲区角田浜地区に行くと、「なまぐさごうこ」というのがあって、江戸時代から作られていて、そこの村から出ませんでした。 イワシを3年ぐらい塩浸けしておくとイワシの醤油ができるわけです。 それをこして、大根をイワシの魚の醤油につけてそれから2年おきます。 浸けた大根を焼いて食べます。 大根だけれどもイワシの味です。 

70代で大病を経験しました。 心臓を患って手術をしましたが、その後はピタッと良くなりました。  発酵食品のおかげだと思います。 東京農業大学のほかに全国各地の大学の客員教授をして、発酵食品の素晴らしさ、発酵は人を作るんだと言う事、街づくりもできるんだと言うことを話しております。 発酵食品は自分で作れると言う事、それが自信になって食生活が豊かになります。 発酵の輪ができていきます。





2026年9月16日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」(後編)

馬場あき子(歌人)      ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ.。 日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)に在学中に短歌結社「まひる野」に入会しました。 昭和の歌人の代表の1人である窪田空穂の長男一郎とその元に集まった若い歌人たちによって創刊された「まひる野」では、短歌の創作だけではなく、後に夫となる岩田正と知り合うなど充実した日々を過ごしました。 大学卒業後は教員となり、組合活動にも従事し、多忙な日々を送る中 1955年に第一歌集「早笛」、1959年に第二歌集「地下にともる灯」を発表し、女流歌人として注目を集めました。  その後戯曲、評論など執筆の場を広げ、1977年に 29年に及んだ教員生活をにピリオドを打ち、夫の岩田正と「かりんの会」立ち上げ、新たな歩みを始めます。 2021年にはそれまでに発表した27の歌集およそ1万首を網羅した「馬場あき子全歌集」を完成、今年新しい歌集「アスパラの芽立するころ」を発表しました。 馬場さんの短歌創作の歩みや今思うことなどをお聞きします。

伝わらなくてもいいと思っていて、自分が言いたいことを言ってそれ人が享受してくれれば幸いです。 享受されなくてもいいです。 最初は自己満足そこから始まります。 大学ノートは37冊目になります。 小学校の4年生の時に日中戦争が始まりました。  女学校の夏休みの宿題に短歌を作り始めました。  テーマもだんだん広がっていきました。 だんだん人の歌を読むようになります。  古典和歌、古典俳句などを読んで感動する事は多いです。  

友達が薄い歌集を二冊買ってきました。  「あららぎ」と「まひる野」でした。 「まひる野」に入会することになりました。 (昭和21年) 近代短歌で歌っていくのは私の出発でした。 私は中学校の先生になりました。 お能にも心酔して稽古を始めました。 私は中学生を中心にした彼らの生き生きした世界を歌いました。(第一歌集)  組合ができて、左翼の勉強もさせられました。 いろんなデモに加わっていくうちに一端の左翼になっていきました。 それが第二歌集。 

寺山修二と塚本邦雄が出てきて、鮮やかな歌を読んでそういった言葉が欲しいと言うふうに思い出しました。 私自身短歌をまとめることができなくて10年かかってしまいました。  第三歌集「無限花序」は10年の後に出しました。 60年安保とかデモに毎回出かけるようになり、教育界からにまれるようになりました。    ある時、落ち武者ばっかりが集まるようなグループに加わることになりました。 寺山、塚本を対象にした勉強を始めるようになりました。 寺山、塚本と知り合うようになり、だんだん歌壇の中央部に入っていきました。 

最新の歌集「アスパラの芽立するころ」は、コロナ禍で友達との交流が絶えてしまいました。 友達を作ろうと思って、それがかたつむりだったりカメムシだったり虫でした。  ゴキブリの歌も30首作りました。  自分だけ生きてればいいと思っている非情な人間というのを歌っています。  6人家族でしたが次々に死んでいて私1人が残りました。  ある年1人の正月を迎えます。  お正月に1人でたった1個の餅を食べるわけです。それはまさに仮想空間ではないかと言う風に思いました。

万葉集の防人の歌がありますけれども、何故か東国から九州まで防人を連れて行くわけです。 九州までの行きも帰りも費用は自分持ちです。 大和王権がいかに強かったかと言うことです。  地域の中でもお金持ちの村長、副村長クラスの人たちを徴発していきます。  帰りは現地解散ですが、お金がないから帰れないので現地の妻と結婚して土着して九州人になったりするわけです。 出発の日が行き別れの日になるわけです。 

私って一体なんだろうと考えますけれども、どんなふうに生きてきて今に至ったのか考えますが、自分と言うのはなんていい加減な生きた生き方をしてきたんだろうかと思うばかりです。 自分で1人で生きなければならなかった。 親子とか人間と人間の情と言うのは大切にしてきたつもりです。 けれども、そんなものは役に立たない。 だから、1人で生きるほかない。  蝉のように死にたいといつも思っています。  セミは力がある限りは鳴いて鳴いて鳴き叫んで最後に飛べなくなってぽろっと落っこちるあれがいいと思います。  だから私は死ぬまで元気にしていたいと思います。死ぬ時が来たら蝉たいに落ちてぽろっと死ねばいいと思います。 虫は友であり先生です。




2026年9月11日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」

阿刀田高(作家)          ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」 

ご両親を早くなされて、20代は1人で生きざるを得なかった時期があり、その中で文学への道切り開かれていった話から始まります。 そして30歳で結婚、妻の慶子さんと人生を共に歩まれてきますが、2020年、慶子さんはレビー小体型の認知症を発症します。 阿刀田さんは介護を続けながら寄り添い、去年2025年慶子さんを見送られました。

もともと独りだと思っていました。 妻もいたし子供もいたし、もともと独りではないんでしょうけれども、どっか人間は皆独りですよ。 独りであることを享受しなければ人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 一時的に私は独りでした。 早く両親に死なれてしまったものですから。 15歳になるまでは豊かな家庭で大事に育てられまいた。 私は子供の頃はのんきに自由に身勝手に繋がれたものです。 20歳を過ぎて10年間ぐらいはそれなりの苦労はしました。      父が亡くなったのは高校2年の時でした。 大学は奨学金等アルバイトで生活しました。 大学のときには肺結核を患って1年半療養生活をしました。

新聞記者になろうと思ってましたが、国会図書館に勤務しました。『ブラックユーモア入門』と言う本を出版したら、それがベストセラーになってしまいました。   決心して退職してミステリーなら書けると思っていました。  ロアルド・ダールの作品を見て、こんな世界がある、これだったら書けるかもしれないと言うのがデビューにつながっていきました。 「冷蔵庫より愛をこめて」の中に収められている短編「幸福」が1つの転機になりました。 ユニークな作品です。 編集長のところに原稿を持っていったら、こういったものを待っていたということで、まだ雑誌に乗らないうちに原稿料を支払ってもらいました。  いきなり直木賞候補になりました。 2冊目『ナポレオン狂』で直木賞をいただきデビューしました。

1年半の闘病生活があったので、ほんのちょっといいことがあればいいなぁと言う悟りみたいなものはありました。 今もそうです。 ほんの少し良いことがあればいいなぁ位の気持ちで過ごしています。 妻が2024年に亡くなりました。  その3年位前から妻の介護をしていました。  70、 80パーセントケアしないと生活ができない状況になっていきました。  危機的な状況になっていると言われて、このまま行くと、あと3ヶ月であなたはダメになると言われました。 子供たちとも相談して施設に入れることになりました。 10日位前に手を握り合って、「おじいちゃん大好き。」と言いました。 それがちゃんとした言葉を吐いた最後でした。 「ありがとう」と言う意味合いがあったと思って勝手に解釈しました。

エッセイの中で「死は無である。」と言うことを書いています。 神様とか宗教と言うものは人類が考え出した偉大なるフィクションだと思います。  このフィクションは人類にいっぱい良いことをもたらしていると私は思います。 偉大なるフィクションに対して否定するわけでは無いですが、私自身は死は無に帰ってくることだと思ってます。 死んだ妻に対しても、あの世で何を考えているかなんて言う事は全く考える必要ないんです。 いいことだけ思い出してよかったよかったと思います。 子供の頃そういった考えを持ってましたが、もし死後の世界があるとするならば、それは他の動物にもあるはずだと思います。  動物にない世界が人間でもある筈がないと思います。 どうせ無なんですから、死の世界を考えなくてもいいんです。 かなり本気でそう思ってます。

人生の道標として思ってきたのは、自分の与えられた条件の中で、ほんの少しでも良いものを求めて行こうと思い、ほんの少し努力することとです。 自分の幸福は自分で作るより他にないと思ってます。  ほんの少しでもいいですから、それを重ねていくと、少しは良い人生があるんではないかと思います。 「掌より愛をこめて」は多様な作品がぎゅぎゅっと詰まってます。 友人、知人、同じ世代の人がどんどんなくなっていくので、そういう年齢になったんだと言う事はつくづく感じますが、どうせまた無に帰ってゆくわけですから。


2026年9月9日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

 馬場あき子(歌人)   ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ。  日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)卒業後、中学や高校の教師を務めながら短歌歌誌「かりん」を創設、以来多数の歌集を発表しています。 歌壇を代表する馬場あき子さんの原点は太平洋戦争の戦争体験です。 戦争当時馬場さんは女学校に通っていて、学徒動員で東京武蔵野市にあった中島飛行機の軍需工場で働き、空襲では東京高田馬場の自宅を失いました。 終戦を迎えた1945年8月15日、馬場さんは17歳、女学生の時から短歌を作っていたと言う馬場さんは、戦争中何を体験し、どう感じどう考えたのか伺いました。

焼け跡を耕して畑にしていました。 サツマイモの蔓先を摘んでおひたしにして食べるんです。 集まってラジオを聴きました。 玉音放送です。 父がどうやら戦争が終わったらしいですよと言いました。  私はどうなるんだろうと思ってました。  焼け残った家の2階からギターを弾いた男がいました。 私は戦争が終わったんだと思いました。 どっかから「馬鹿野郎」と言う声がして、「日本は負けたんだぞ。  なんで音楽などやるんだ。」と言う声が聞こえて、その人は音楽を止めました。  周りを見ると、明かりがつけるようになりました。 家でも60ワットの電灯をつけて黒い遮蔽幕を取ったらすごく明るく感じました。 何の感想、何の考えも浮かばなかったです。 呆然としていました。

太平洋戦争が始まったときには、世界地図を見て、こんな小さい日本がとてもアメリカに勝てると思いませんでした。 1人1畳半位の女子寮の部屋に入れられて、そこから工場に通いました。  6尺旋盤で飛行機のエンジンの台座を作ってました。 何も考えず、ただただ一生懸命作っていました。  1日4回ぐらい空襲警報がありました。 夜も3回位ありました。 

私は1番悲しかったのは、山梨のほうに疎開していた女子高の生徒が入ってた棟に爆弾が落ちて、女子生徒がいっぱい死んで、大八車にいっぱい積んで、埋めに行くと言う話を聞きました。 男子の中学生の級長が伝令に行くために防空壕を出た途端に爆弾が落ちて、顔の皮がベロンと剥けて、一瞬自分では剥けたことがわからなくて、「行ってくる。」と言って、後ろを向いたら顔の皮がぶら下がっていたと言う。そういう話も聞きました。 その男を診療所に連れて行ったら、そこは修羅の巷だったと話を聞きました。 

右胸に白い木綿の布に墨汁で、名前と住所と血液型を書いてみんな貼ってました。  怪我をしたら、血液型わかるようにとか、死んだときにはどこの班かって言うことがわかるように書いてたんだろう思い出しました。 我々に教えてくれた工員さん(大学の学生が来ていた。)はだんだんいなくなっていきます。 戦地への招集令状が来ます。 工員さんと恋をしてはいけません。  戦死するかもしれない方なので、生きて帰るかわからないので未亡人になりますよと言われました。 恋はご法度だった。

学校の宿題で短歌を作るとか、日記を出すか、作文を出すかということで、私は短歌を選びました。 ノートなどはなくて、白い紙の裏に書いてました。  戦争が終わって大学ノートが買えるようになってからそれを写して持っています。 人に披露できるようなものではないでした。 自分の存在を言葉に残したいと言う思いはありました。  夜中の1時2時に旋盤を回している時など、一体人生って何だと思い出します。  絶望的になって永久にこのまま機械みたいに虚無的になります。 

軍歌ばっかり歌って、女の歌のない時代でした。  露営の歌 酷い歌だと思います。 (勝ってくるぞと勇ましく  誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波)

死骸を見ても感情は動かない。  戦争って生きているとか、死んじゃうとか、死んでるとか、そういう感覚が麻痺してしまいます。 ウクライナの瓦礫の映像を見た時には同じだと思いました。 戦争と言うのは人間の神経を麻痺させてしまう。死んでいる人の死骸と言うのは終わったものとしか見ていなかったです。 戦争の意味なんてなにも考えませんでした。 早く終わったらいいという思いでした。





2026年8月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「マーク・トウェイン」

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マーク・トウェイン」

マーク・トウェインは、「トムソーヤーの冒険」、「ハックルベリー・フィンの冒険」などの物語でよく知られていますが、今年は「トム・ソーヤーの冒険」の出版150年に当たります。

「じゃあよろしい。僕は地獄に行こう。」 マーク・トウェイン

「トム・ソーヤーの冒険」が発行されたのは、1876年なので、今年は出版150周年に当たります。 生まれは1835年で江戸時代天保6年です。 74歳で亡くなっています。 7歳までは病気がちで、かなりいたずらっ子だったようです。 マーク・トウェインは、大人になってもユーモアたっぷりな人ですが、面白いだけではなくて、いつもかなり鋭い皮肉が効いている。

「じゃあよろしい。僕は地獄に行こう。」 これは「ハックルベリー・フィンの冒険」の中の言葉です。 物語の中では、ハックの父親が現れて、ハックを虐待してるわけです。 殴ったりムチで叩いたり、差別的な暴言を吐き散らして、ハックのことをジャックナイフで刺そうとするわけです。 児童文学でここまで書くのかなあと思いました。 ハックはそのままでは危ないので、父親から逃れるために父親の留守を見計らって、自分が誰かに殺されたと見せかけて逃げ出すわけです。  逃げだしたハックと黒人の奴隷のジムも逃げ出してきて、2人が一緒に筏に乗って雄大なミシシッピー川を下っていきます。 

2人の間にはいろいろ違いがあるが、一緒に川を下っていく中で、違いを乗り越えて友情が育まれていきます。  当時は逃亡した奴隷をそのまま見過ごすと言う事は法律的にも良くなく、良識にも反する、宗教的にも許されないことでした。  ジムを見逃せば神様に地獄に落とされてしまう。 それでハックは悩みます。   ついにハックはあるときに密告の手紙を書きます。そうすると気持ちはすっと軽くなる。 ジムを思い出すと手も震えてきて、この言葉が言うわけです。

「じゃあよろしい。僕は地獄に行こう。」と言って、密告の手紙を破り捨てるわけです。 大江健三郎さんも、この1節に感動して、僕の人生観のすべての根本がそこにあるとまで語っています。 ヘミングウェイが、今日のアメリカ文学はすべて「ハックルベリー・フィンの冒険」と言う1冊の本から生まれていると、そこまで言ってます。

「私自身、人殺しにならないとは限らないのだ。」  マーク・トウェイン

ハックとジムが川を下っているときに難破船を見つけます。 難破船に上がってみると、強盗らしい3人組がいて仲間割れして殺し合いになっていました。  ハックとジムは慌てて逃げようとするが筏が流されてしまっている。 強盗3人組のボートを見つけて、それに乗って逃げ出す。 ほっとしたときに、ハックはこういう風に思うわけです。 強盗の3人組は、ボートがなくなってしまったから、難破船から逃げられない。 強盗の3人組のことを心配になりだす

「たとえ、人殺しどうもでも、こんな羽目に追い込まれたら、どんなに恐ろしいことだろうと考え始めた。 私自身、いつか人殺しにならないとは限らないのだ。  こんなときに、こんな羽目に合わされたらどうだろう。」

こういう風に思ってる人の方が、かえって人殺しにはならないんじゃないかと思います。 逆に自分は決して人殺しはしないと思っている人はかえって危ないかもしれない。

「私の少年時代、私と父は常に最も遠い関係にあった。 いわば武装中立のような状態だった。 時折その中立が破られ苦しみが生じた。 正確に言うと破ることと苦しむ事は厳密にちゃんと分けられていた。 破ったのは父で苦しんだのは私だった。 マーク・トウェイン

父とはあまり良い関係ではなかった。 父は弁護士の資格を持っていて、判事の人で雑貨商も営んでいた。 家には数人の黒人奴隷がいた。 その子供たちとマーク・トウェインは遊んでいた。 父親は破産してしまうが、ある時20キロの道を帰るときに、みぞれ混じりのひどい嵐に会いながら、ようやく家に立つりついたが、すっかり冷えて肺炎になって死んでしまう。(父は48歳、マーク・トウェインが11歳の時)

一家はまた貧困に陥って、マーク・トウェインは学校辞めて働き始める。 印刷所の見習い工になり、その後ミシシッピー川の定期船の水先案内人にもなる。   それで川を下っていく話もかけたわけです。 弟のヘンリーにも船の仕事を世話をしたが、船のボイラーの爆発が起きて、弟は亡くなってしまう。(19歳)

「人の一生はある1つの主な目的のために悪意を持って仕組まれている。その目的とはあなたがやりたくないと思うことを全てやらせると言うことだ。」マーク・トウェイン(友人への手紙の1節)

「私は40回以上の船旅と数え切れないほどの陸路の旅をし、世界一周をしたことも1度ある。 これは過酷な運命と言うふうに思われる、思われるだけではなく、実際に過酷な運命だった。これらの旅はすべて行くしかなかった。心の中では行きたくないと思っていたし、苦々しい気持ちだった。」

マーク・トウェインは決して旅行嫌いではなかった。 むしろ好きで旅行記もたくさん書いています。 それが著作の1つの柱にもなっている。 なんで嫌がったかと言うと、借金の返済するための講演旅行をたくさんしなければいけなかった。  世界一周もそのためです。

「彼はグラハム・ベルと提携し電話と称する新発明への投資の勧誘をして歩いているのだった。 この電話と言うものには素晴らしい未来が約束されていると信じている青年は、私に何がしかの株を買って欲しいと言うのだったが、私は乗らなかった。    これ以上無謀な投機には手を出したくないのだと言った。 マーク・トウェイ(自伝の中の言葉)

マーク・トウェイは投資がことごとく失敗する。

自伝で、彼はこんなふうに書いている。

「自分の生涯を振り返ってみると、私ほど怪しいげな山師の良いカモにされた人間は少ない。 そういう連中がやってきて嘘をつき、私からふんだくってはどっかに行ってしまう。 するとまた次のやつがやってきて残ったものを書き集めにかかる。」

もう懲りたと思った頃に、ベルが電話を発明するわけです。 電話への投資の勧誘が来るわけです。 これに乗ってたら儲けですが、これを断ってしまう。

マーク・トウェイは出版社をやるが、しかし事業には失敗する。 それで破産して膨大な借金ができてしまう。 講演旅行したり、本を出版することで全額返済をしたと言うことです。

「私のために家族のためにいつも心遣いをしてくれたあの素晴らしい心が、この家から静かに去っていった。 私はまるで道を見失ってさまよっているようだ。   彼女は私たち家族の宝だった、全てだった。 でも彼女はもういない。 彼女がいたから、私たちは息ができた、彼女がいたから、私たちは生きてこられた。 今や私たちは抜け殻だ。」 マーク・トウェイン(友人への手紙の1節)

マーク・トウェインが妻のオリビアを58歳で病気で亡くしたときの手紙です。  先立たれて深く嘆いた。 2人には4人の子供がいて、1人の息子と3人の娘です。  ところが4人のうちの3人までが父親のマーク・トウェインが亡くなる前に亡くなってしまう。 いずれも病死で残ったのは次女のクララだけです。

長女のスージーが亡くなったときに次のように語っています。

「何の準備もできていないのに、雷で打たれたような衝撃を受け、それでもなお生きていられると言うのは、人間の本質的な謎の1つだ。 こう説明するしかないだろう。  衝撃で人生が麻痺し何を言われたかよくわからないのだ。  その本当の重みを理解する力が、慈悲深いことに奪われ、心にあるのはぼんやりとした大きな喪失感、ただそれだけだ。」

「もし80歳で生まれて、だんだん18歳に近づいていけるのだとしたら、人生は限りなく幸せなものになるだろう。」 マーク・トウェイン

高齢で生まれてだんだん若返って元気になっていく。 その方がずっといいんじゃないかなぁと思います。

マーク・トウェインが全人類全体について絶望している言葉を最後にお聞きください。

「私は毎朝新聞を読んでいる。 読めば、必ずいつもの堕落、下劣、欺瞞、残酷さを目にすることになる。  その日の残りの時間は人類の絶望を祈って過ごすことになる。 祈りはまだ叶っていないが、それでも私は絶望しない。」  マーク・トウェイン


2026年8月16日日曜日

西田公昭(立正大学心理学部教授)      ・「特殊詐欺の被害 過去最悪」

西田公昭(立正大学心理学部教授)      ・「特殊詐欺の被害 過去最悪」 

オレオレ詐欺などの特殊詐欺は、インターネットやスマートフォンが普及した今、その形を変えて手口が功妙化しています。 詐欺グループは東南アジアを中心に大規模な拠点を設けていると見られ、警察当局は日本に実行役を送り込んでいると見られる、匿名流動型犯罪グループ「匿流」の取り締まりを強化していますが、被害は急増、拡大しています。 立正大学心理学部教授、西田公昭さんです。 西田さんはカルト宗教のマインドコントロール研究や詐欺、悪徳商法の心理学研究の第一人者です。 西田さんには最近の特殊詐欺の手口、騙されてしまう心のメカニズム、被害を防ぐための心得などを伺います。

今増えているのは、偽警察官詐欺、ロマンス詐欺、SNSを使った投資の詐欺が増えています。  オレオレ詐欺還付金詐欺が減ってるわけではありません。 今の詐欺は全部非対面、インターネット、電話、その他メディアを通じて騙されます。  もう特殊と言うようには呼べなくなってしまっています。 最近は若い20代も騙されています。 

偽警察官詐欺と言うのは、スマホを使ってビデオで操作をすると言うやり方を進めてきます。 初めはびっくりします。 「あなたは逮捕されますよ。」と言うようなことを言われると、もしかしたら自分が知らないうちに犯罪に巻き込まれてるかもしれないと言う想像力は意外と多くの人ができると思います。 そうすると、警察の話をしっかり聞こうと言う姿勢ができてしまう。 ビデオ通話で警察官の制服を着て警察手帳を出してくるし、捜査令状、逮捕状まで用意されています。 数名で芝居をするように用意している。 詐欺なんか私ならば気づけるだろうと根拠のない自信を持っている。 

「溺れるものは、藁をも掴む」と言う諺がありますが、溺れさせてやれば藁をつかんでくれると言うことを知ってるわけです。 心理的な動揺によって溺れさせます。藁と言う偽物の救済策を出すわけです。 ロマンス詐欺も、もっと広い意味の孤独を癒すための人間の心理を利用されている詐欺です。 幸せになれるとか期待を与えるわけです。 高齢者になればなるほど、孤独と言うのは辛い悩みだったりするわけです。 SNSなどで簡単に関係が構築できる。  孤独を癒せると思って、登録したと言うと、紹介されてくる人も自分と同じような考えを持っている人だと錯覚してしまう。  

長い間に関係が続いて、癒したり、癒されることによっていい人だなと思ってきて、悩み事の相談をしたり、不安なことを聞いてみたりする。  すると、気持ちを受け止めてくれて、役に立ちそうなメッセージをくれるわけです。 いい人だと思って、相手が詐欺師だと言うと言うことに対しての感覚は、薄らいでいる。 親切で良い人であるにもかかわらず、疑うと言う事は自分を責めるわけです。 それを利用されるわけです。 複数の人が組織的に1人の人物を演じているわけです。 特定の人物になりすましてるわけです。 完全に信じ込ませてしまうと、今度は会いたい会わないと言う話になってきて、会いたいと言う気持ちがあっても会えないと言う現実を作っていく。  相手を失いたくないと言う心理が働いて、相手のためにできることというのはなんですかと言う気持ちになってくると相手はお金が必要なんだと言うような話になってくる。 投資に向かわせたり、ローンのために必要な費用が必要なのであなたも借りて欲しいと言うようなことになる。 

投資に関しても数字上は増えているように見せかける。 もっと行こうと言うことでお金を注ぎ込ませる。 しかし実際は儲かっているわけでもなく、偽物のアプリなのでお金を取られるだけです。 投資の会社とか証券会社になりすましたメールやホームページを用意してそこから入ってくるわけです。  

店の投資グループが用意されている。 そのグループの投資が成功しているかのように演出するわけです。 グループが儲かっているのに、自分が貢献しなければひんしゅくを買うのではないかと言うのは思いで、自分も投資するような形になっていく。 数字は儲かってるような形になっているが、実際に現金化しようとするまでわからない。 多額のお金が引き出されることによって、銀行員の方が不審に思うようになります。   銀行員は騙されていないか連絡するが、目が覚める人は少ない。 儲かっていると言う意識がある。  銀行側は強くは言えない。 現金化しようと思った時に、初めて気がつくわけです。 

匿名性の高い非対面の詐欺の時代は、なかなか逮捕できない。  自分で身を守るためには疑わざるを得なくなる。 大事な事はお金が絡んできたり、個人情報が絡んできた時だけはちょっと待てよと言うことです。 最近はネットで使用される時代になってきたので、どこからでもたくさんの仕掛けができるようになりました。AIの時代になって顔も作れるし、声もそっくりです。 企業レベルで騙されるっていることもあります。  AIの技術が悪用されると、そういったことができてしまう。  

自分も騙されるかもしれないと言う前提をまず持つこと、自分の考えが正しいかどうかと言うことを、柔軟に確認したり変化させたりすると言うことだと思います。お金がいるとか個人情報くださいと言う、この2点が1番わかりやすい手掛かりになると思います。 「さしすせそ」 「さ」はさっと警戒すると言う事 「し」はしっかりと調べる。 「す」は素早くスパっと相手の考えを見抜こう。 「せ」、精一杯、心の動揺抑えてください。 「そ」は即座に誰かに相談する。 自分のだけの考えで判断して危ないと言うことです。


2026年8月14日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 前編」

 阿刀田(作家)           ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 前編」

91歳になった阿刀田さん、今年の5月小説集「掌より愛をこめて」を刊行しました。  昭和53年に「冷蔵庫より愛をこめて」でデビュー以来、900点を超える作品を世に送り出した阿刀田さんが、これが最後の小説集とおっしゃる創作人生の節目となる1冊です。 手放なす事、終わりを寂しさではなく、晴れやかさでと受け止める阿刀田さんに、一人暮らしをされている毎日のことや作品、執筆の舞台裏や10歳で迎えた昭和20年8月敗戦の記憶について伺いました。

鉛筆の方が消せるし、軽くて書きやすいので、今でも鉛筆で書いています。   昔はHBですが、最近は2 Bを使ってます。(筆圧の衰え) 頭の中にあるものを書き写してると言う感じです。 10枚から15枚の原稿だと頭にできているものを書き写すような感じです。 一人暮らしの日々を綴ったエッセイ「90歳男の一人暮らし」は、去年の9月に出版。 

1日10枚位のペースで書いています。 締め切りはよく守っています。 子供の頃から夏休みの宿題は7月には終えてました。 作品は自分で満足ができるのは1割位ではないですかね。 午前中は1、2時間ぐらい仕事をして、NHKのテレビなどを見ています。 報道する方は、割と冷静に静かにやって、喜びや悲しみや感動は見る方がどうだどうしたらいいかと言う性格のものであると思いますが、「あさイチ」などはちょっと笑いすぎではないかなと言う気がしないではないですが。リュックサックを背負って、買い物などにも出かけます。 眠れない時でもまぁいいやと思ってます。 

テレビは野球を見たり、サッカーを見たり、相撲などを見たりしています。 囲碁将棋なども見てます。 生活の中で常にどっかで作品の材料になるようなものがないかと思っているので、いろいろ考えていましたが、最近はアイディアがあまり出てこなくなりました。 ごっちゃになったものを見ているうちに、ふとアイディアが現れることもあります。 酒を飲んでる時などもどっかでアイディアを求めているんですね。 今受ける話はそれで小説は書けない。 妙なことを言うなと言う人の方が、かえって役に立ちます。 列車に乗って、ぼんやり外を見ている時などがアイディアがふっと浮かぶことがあります。

今回「掌より愛をこめて」と言う小説集を出しました。 短い小説を30数編まとめたわけです。 最近書いたのは、冒頭の10作品だけで、後は1番古いので30年前書いたものを引きずり出してまとめたものです。 小説集と言う形では、これが最後になると思います。 アイデアを思いつくことができなくなってきました。 子供が主人公のものはあれば、年老いて記憶が薄れていくような年代の主人公もあれば、くすっと笑うものはあれば、ぞっとするものもあって、多様な短編小説集36編です。その中の「本屋の魔法使い」 本がページを開きながら飛んでくるというもので、受けています。 その他いろいろ。

短い作品、ショートショートと言うジャンルは、少なくとも日本では星新一さんとともに誕生して、星新一さんの死とともにほとんど消えそうになってるジャンルのような気がします。 割と今の時代にちょっと合ってるところがあるんじゃないかと思いますが。 星さんは、独特の世界を築いて、今でも人気があるんじゃないかと思います。 

どっか人間はみんな1人ですよ。 1人であることを享受しなければ、人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 幸福になるのもみんな自分1人で考えていかならないんで、実質的に私は1人でした。 早く両親に亡くなられてしまって。 兄が1人、姉が3人末っ子として双子として生まれて、弟は1歳になる前に亡くなりました。 幼い頃から神妙な好奇心を持っている孤独だったと言うふうに思います。 戦争時代には、疎開先の長岡で大きな空襲を体験しました。(10歳の時の体験) 戦争体験は、終戦と同時にがらりと世の中が変わったと言う、そのことの印象の方が多かったですね。 急に民主主義と言うことになってしまって。     先生がこれから日本は戦争をしない国になるんだという、そう聞かされた時に痛切に良かったと思いました。  日本はどうなるんだろと姉に聞いたら、「みんな奴隷になる。」と姉が言うものだから、この川に飛び込んで死ななければ駄目だと思いながら、考えたりしたことがあります。







2026年8月7日金曜日

鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」

鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」

鳥谷さんは大正15年1926年佐賀県佐賀市生まれ、昭和18年16歳で陸軍少年飛行兵を志願して厳しい訓練を経て戦闘機のパイロットになりました。 昭和20年終戦の年、18歳の鳥谷さんが満州の部隊で特攻隊となりますが、出撃命令が出ぬまま、ソ連軍の捕虜となって、およそ2年間の抑留生活を送りました。 100歳を目前にした今もなお講演やメディアなどで戦争の悲惨さを積極的に伝えています。 死を前提とした特攻、生きることを諦めかけたシベリア抑留、その両方を経験した鳥谷さんに伺いました。

1945年4月、18歳の時に特攻隊への編入が命じられました。 第一命令は、特攻隊の編成、第二命令は、この部隊から朝鮮経由で知覧まで行く。第3命令は出撃と言う順番になります。  第二命令を受けた時は、とうとう俺のところまで来たかと言う気持ちでした。 諦めるよりしょうがありませんでした。 命令に背く事はできません。 上官の命令は、天皇陛下の命令と同じだと言うふうに言われてきていました。 特攻の戦法は下の下と言われてました。 初めから特別攻撃隊があるんだったら志願はしなかったです。 みんなが言ってます。 最後は使命感だけで突っ込むと思います。  遺書も書くように言われましたが、私は書きませんでした。   爪と髪の毛と白紙でした。 白紙ならば自分で想像してみることがでいる。 白紙が精一杯の抵抗です。 同期生が先に出撃したときに、「お前たちは来るなよ。」って言う言葉が印象的でした

満州南部の飛行場で終戦を迎えます。  これで内地に帰れると言う思いはありました。  ソ連軍の侵攻があって、シベリアに抑留されると言うことになりました。 バイカル湖を通ったときには、日本に帰れないと言う思いがありました。    夏服のままだったので、冬は非常に寒かったです。(マイナス63℃まで下がる時がある。) 雪をかき分けて遺体処理もしました。 情報も入らないので、明日がどうなるか分かりませんでした。 腹が減る、寒い、衣服はない、労働は朝昼晩三交代で仕事をする、残酷な生き方に対して特攻で死ねばよかったって言う思いも頭に浮かびました。 

1947年6月に舞鶴に戻ってきました。 帰ってくる1週間ぐらい前に事故で亡くなった人もいました。 戦争はするもんじゃないです。 本当に馬鹿らしい。 残るのは悲しみだけです。 特攻隊には表と裏があります。 特攻の出撃した知覧とかで堂々と遺書などで発表してます。  裏の事はなか書かれません。 書いたら没収されるし、場合によっては卑怯と言われるかもしれない。 特攻の命令を受けたけれども、まずは死にたくない。 死にたくないと言うのが本音です。 それは書けない。

特攻に向かう班長から1人ずつ呼ばれて、「お前は技術はいいけれども優しすぎるから、いつかお前はやられるぞ。」と言われました。 とどめを刺す人間になれという事でしょうね。 成れないですね。  戦争に正義はないです。 殺し合いですから。 争いの解決方法はやっぱり話し合いでしょうね。 それしかないです。    戦争は百害あって一利なしです。  自分の命は大事にしなければいけないです。  亡くなったら、二度とこの世には出て来ません。 愛する人に会うこともできません。





 

2026年8月3日月曜日

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

 清田さんは高知医科大学(現在の高知大学医学部)を卒業後、2010年からUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の保険局長として怪我や病気の治療、衛生環境を整えることに力を尽くしてきました。 2023年からパレスチナのガザ地区で続いてきたイスラエルとイスラム組織、ハマスの衝突。 去年10月停戦合意が発行したものの、ガザ地区では、イスラエル軍の散発的な攻撃が続いています。   現在、清田さんはイスラエルの制限下でガザに立ち入れない中、隣国ヨルダンを拠点に支援を行っています。 ガザで目の当たりにした戦闘の現実、そしてそこで暮らす人々の今と未来についてお話を伺いました。

ヨルダンと日本との時差は6時間です。 気温は35度から40度近くになりますが、湿気が少なくて乾いているので何とかなると言う感じです。  2025年1月以降ガザに入ることができていません。 ヨルダンから指示を出しながら支援活動を続けています。  一般の人もそうですが、我々の職員も戦争が始まってから何度も何度も避難してみんな疲れ切ってます。  ある人が言いました「世界は一体いつになったら我々を普通の人間として見てくれるのか。」と言われました。 言葉がありませんでした。

うちもガザに12,000人の職員がいますが、既に400人近くの人が戦争で亡くなってます。  我々の想像を超えた事は何度も何度も何度も起こって厳しい状態に置かれていますが、それに対する世界の反応は非常に遅いか、ないと言うのはガザの一般的な反応です。  「世界中から見捨てられて見放されて誰も助けに来てくれない。」そういう風に言われてはっとします。 私にできるのは少しでも心の支えになればと言う思いはあります。 それが1番大事な仕事の1つではあります。 

停戦合意後も状況はどんどん悪くなっていっています。  衛生状況が悪いので、ネズミの種類が増えて、それに伴ってネズミを媒介とする感染症が増えてきてます。薬も不足意味できちんとした治療ができない状況です。 上下水道は機能していなくて、ゴミも山積しています。 壊れた家に住んでたり、テントに住んでいて、住居環境が悪く、医療サービス、医療システムがきちんと機能していません。 

基本的にはイスラエルが食料の搬入制限しています。 絶対数が足りません。   入ってきたものも略奪行為などが発生してます。 小さな赤ちゃんの写真。  腕が7.5cmしかない。 栄養失調も単純な食料不足だけではありません。 住居環境、上下水道、医療システム、家族全体の安全が損われるなど、総合的に進んで危機になったと思います。  小さい時に栄養失調になると、脳神経も犯されることもあります。 後でいろんな影響が出ます。 戦争で両親を亡くした子供さん、空爆で怪我をした人々が沢山います。 かつてガザは貧しくてもホームレスがいなくて、何とか助け合って生活を支えて生きてきました。 今はそれが崩壊していて、それが1番問題だと私は思っています。  ガザに行って、1番衝撃を受けたのは土地勘があるはずなのに、周りを見ても全く自分がどこにいるかわからない状況でした

2024年の夏に4台の車で予防接種のために出かけましたが、イスラエル軍によってブルドーザーが出てきたり、戦車が出てきて車の隊列が挟まれてしまったりして、検問所に7、8時間止められていましたが、南部に帰ってきました。

知り合いの歯医者の家族の事ですが、銀行からお金を借りて開業すると言うことでしたが、予定が10月7日で、その当日に戦争が開始され、すべてをなくしてしまいました。 戦争が始まって半年位の間は13回避難したと言っています。 2、3回は野宿したそうです。 そういった話はいっぱいあります。  戦争は残酷で良い事は1つもありません。 早く終わってほしいと今でも思います。

ガザの子供たちは学校に行けず、教育は受けられない。  学校はほぼ全て避難所になっています。 学校に行けなくなると、社会に接することができなくなり、きちんとしたしつけもできなくなる。 メンタルヘルスについてもカウンセラーが聞いているうちに一緒に泣き出してしまうと言うようなことがあります。(同じような環境下) メンタルヘルスのケアにはまだ程遠いと思ってます。

大学を出ても就職がなかなかできない状態です。 「なんで仕事が欲しいのか。」と聞いたら、「人間としての尊厳が欲しい。」と言ったんです。 「職がないと人間としての尊厳が保たれれない。」と言われた。 はっとしました。

治療方法を標準化していきたいと思ってます。(効率の向上) それはそれは大事なことだと思ってます。 国際的な医学誌日発表して、ガザではこういった栄養失調が起こっているという事を残すことが大事だと思っています。(世の中に伝えてゆく。) 有ってはいけないと思うことが、次から次へと起こって、それに対して黙ってていいのかと言う思いはあります。  世の中の不条理に対して黙っていると言うことをせずに声を上げるということだけでもいいし、私のような形でそこで仕事をすることもできます。 

パレスチナ問題、中東問題の安定化に貢献すると言うのはあると思います。   世界中がつながっていると言うことを、今回の戦争で多分日本の方が感じられたのではないかと思います。 日本の人道支援と言うのはものすごく評価が高いです。日本に対する期待は強いです。  海外への援助、困っている人を助けると言う事はどんどん続けることが必要だと思っています。 栄養失調の腕が7.5センチの女の子の写真を見て心が動いて欲しいです。  それがすべての始まりだと思います。  これはひどい、これはかわいそうと思うことが大事で、それが第一歩だと思います。  まずは戦争がなくなって、平和になって、人がゆっくり寝て、そしてガザの将来を考えると言うことに早くなってほしいと思ってます。




2026年7月31日金曜日

清水葵(日本駆け込み寺代表理事)      ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

 清水葵(日本駆け込み寺代表理事)  ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

新宿歌舞伎町では、数年前から家庭や学校に居場所がない若者たちが集まるようになりました。 そんな若者たちを支えてきた支援団体の代表に27歳の女性が就任しました。 声にならないSOSに向き合う清水葵さんの奮闘の日々を追いました。

歓楽街の新宿の一角に6年前から10代から20代の若者たちが集まるようになりました。 一時的な快楽を求めて、市販薬を大量に摂取するオーバードーズ(過剰摂取(かじょうせっしゅ、overdose、略称:OD))を繰り返したり、ホストクラブにはまって借金に追い詰められたり、深刻な問題が後を絶ちまません。 この場所で若者の悩みに寄り添い、支援活動を続けている女性がいます。  清水葵さん27歳です。    去年4月歌舞伎町で20年以上悩みを抱える人たちの相談活動を続けてきた公益社団法人日本駆け駆け込み寺の代表理事に就任しました。

清水さん以外に80人のボランティアが登録されています。 毎日昼の12時から夜の9時まで事務所を訪ねてくる若者の相談に乗ったり、毎週土曜日には子供食堂を開いたりしてするなど居場所を提供しています。 この日には明日が14歳から20代まで15人ほどが過ごしていました。 声かけを続けることで、若者がいつでも頼ってきてくれるきっかけになればと考えています。 駆け込み寺には毎日20人から多いときには50人ぐらい若者が立ち寄るようになりました。 清水さんが大事にしている事は、毎日明かりを絶やさないことです。(安心できる空間)

愚痴や不満をぶちあけることで、ちょっとでも自分を傷つける選択をしないでいてくれたらいいなと思ってます。 清水さんは今危機に立たされています。 代表に就任した直後、去年5月当時事務局長をしていた40代の男性がコカイン所持の疑いで逮捕、また相談に来ていた20代の女性との不適切な関係も明らかになり、駆け込み寺は社会から信用を失いました。 自分のやるべきことと覚悟は決まったなと思いました。 組織の再生を進めていきました。 

トラブルにならないためのチェック機構をいろいろ設けました。 運営資金のほとんどを占めていた行政からの助成金は打ち止めになり、寄付をしていてくれた支援者も離れてしまいました。 今は街頭募金のみです。 歌舞伎町に居場所を求める若者たちの実態は、より深刻さを増していると清水さんは感じています。

2人の男性が深刻そうに相談に来て、内容は歌舞伎町のホテルで20代の女性がリストカットで亡くなり、交際していたこの男性たちの仲間の1人(21歳)が同じ部屋で大量の市販薬を飲み、意識不明で病院に搬送されたということでした。

もう一つ深刻なのは、女性がホストクラブにはまり身を滅ぼしていくケースが後を絶たないと言うことです。 歌舞伎町には300店舗を超えるホストクラブが営業しています。 SNSやマッチングアプリを使った営業が行われ、若い女性も気軽に入店するようになりました。 借金の返済に売春等を強要されるケースがあいついでいます。  24歳のある女性は、ホストクラブに通うきっかけになったのは、親からのDVで家庭内に居場所がなくなったことでした。 18歳で家出してマッチングアプリで交際しました。 その男性がホストだったため、ホストクラブに通うようになりました。 高額な借金を背負うようになりました。 借金の返済に風俗店で働くように勧められました。今年2月に清水さんのところに相談に来ました。誰の父親かもわからない子供を身ごもってしまいました。悩み、最終的にはおろすことになりました。 病院や経済的なサポート、精神的なサポートを続けてきています。 清水さんは、歌舞伎町の若者支援は命と向き合う現場だといいます。

自分自身は特別養子縁組で育ちまして、中学1年生の時に血つながってないことを聞かされて、自己肯定感が一時期下がりました。でも感謝です。愛情込めて育ててくれたという事は自分にとってもありがたい縁を感じます。感謝しています。   グランドピアノはありますが、清水さんが中学1年生の時にの誕生日に送られたものです。 

清水さんは大学時代まで京都の実家で暮らせました。 ボランティア活動等をして、卒業後は東京で保育関連の企業に総合職として就職しましたが、現場に出て直接子供たちと関わりたいと思い、就職後2年目に会社を辞めました。 駆け込み寺で働くことに決めました。 父親は反対しましたけれども徐々に報告を聞くことによって応援していこうと気持ちになったといいます。 

駆け込み寺で今清水さんが新たに取り組んでいることがあります。 グローバル食堂です。 その日を生きることで精一杯の若者たちの関心を広げ、将来を切り開くきっかけになればと言う清水さんの思いです。 去年10月からスタートさせました。 今後は、茶道教室や着物の着付け教室など様々な体験の場をしていきたいと考えています。子を中絶した24歳の女性が駆け込み寺の活動を手伝ってくれるようになりました。 「少しでも誰かを明るくする手助けをしたい」のだといいます。 相談に来ていた女性の中で、春から美容師の専門学校に通うと言う事でした。(駆け込み寺で、なって欲しい像がまさにそういったことだと思っています。)





2026年7月25日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)      ・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

 山崎エマ(ドキュメンタリー監督)・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

絵本「おさるのジョージ」の原作者を取材したドキュメンタリー作品 「モンキービジネスおさるのジョージの著者の大冒険」と言うドキュメンタリー映画です。 ジョージはアメリカで大人気です。  私を卒業した後は、編集者として助手として仕事をしていますが、でも監督をやりたいと言う思いが出てきました。    原作者のレイ夫妻原作者既に亡くなっていますけれども、いろいろ調べて3年位かかって制作しました。2000万円かかりましたが、クラウドファンディングで一般の方からもお金を集めて製作、公開できました。 それが1個目の作品です。(2017年)  今年はおさるのジョージの85周年です。 レイ夫妻は戦争を逃れた大変な経験をされていますが、冒険のように語るというか、その精神が「おさるのジョージ」のいろいろな冒険のつながっている。

自分の場合はドキュメンタリーの道を行くと言うのは明確になりました。    編集助手としていろんな作品関りました。 自分では普通の振舞いをしていたと思いますが、周りのアメリカ人から凄く褒められました。  日本人であれば当然のことと思いました。 それが小学校の映画を作る事に繋がる流れになります。   自分が受けた小学校教育の6年間の価値観、頑張ったことなどは小学校にあったのではないかと思いました。 また親から受けた分も大きかったと思います。 

子供の頃から何か貢献したいと言うか、よりよい社会に貢献することこそが、自分自身の人生が幸せになるみたいな考え方が起きました。 少しでも共感とか、感情が動くもの、人間が人間らしく捉えるものみたいなことを今でも自信としています。

海外に住むと比べることが気付ける、何とも思っていなかった日本の良さが増えてきて、特別なんだと思ったりしました。 日本のことを中からと外から見れるようになった自分が何かできることがあるのではないかと思いました。 ずれている日本のことが気になったりもして、自分から日本に戻って世界に伝えたいことがあると思って東京に拠点を持ちました。

夏の甲子園を元にしたドキュメンタリー映画 『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』 その年は、夏の甲子園は99回大会でした。 日本の野球を100回大会と言う機会を使って撮影することにしました。 2018年の100回大会記念大会を撮影しました。 海外に向けても長編作品はなかなかありません。 海外ではまだあまり知られていない日本独特の高校野球の文化を世界に伝えたいという思いから始まった。 最初4校から2校にしぼってって、球児や、指導者の皆さんを追って、甲子園の大会自体を含めて、高校野球も春からの1年を捉えました。アメリカの人に見てもらいたいとする強い思いがありました。 メジャーリーガーとの絡み、師弟関係、親子関係、監督の世代間の違いでの時代の変換期についても意識して撮りました。 アメリカから帰ってきた私にとっては、高校野球はとても日本的に見えました。

佐々木監督はいろんな植物を育ててきて、人の成長と盆栽と成長をかけて考えている方です。 映画の中では、盆栽をきれいな形にするには、針金をまかないとなかなか美しくならないけれども、どっかのタイミングで針金を外さないと盆栽が苦しくなって美しい姿に行くことができない。 これを育ててきた子供たちにかけて針金をかけると言う事は、昭和の時代から含めてやってきますが、外すタイミングとか、外し方この両方が大事だと言うふうに言ってます。 どっかで外してあげないと苦しむ。  当時子供たちの自主性、実践に任せるとか、ちょっと流行っていた時代がある中で、針金をかけることが大事だと言う。 そういうバランスに共感しました。

ある程度導いたりとか、強制することで築いたことが自主性になっていく。   その段階が大事だと言っています。 映画の中では、盆栽に例えて映像的にも美しいシーンが撮れたのは自分の中でも特別なシーンだと思っています。 甲子園だけ見ているだけではわからない、高校野球の心みたいなものを人のつながりとか、教育の一環としていろいろな関係性がある。 極端な話、野球に興味をなくても面白いと思っている映画を目指して作りました。 

日本のことに関して、海外に住んだことによって生まれた視点を生かし、皆さんに気づきの提供をしたいと思って、そのきっかけを自分の作ったドキュメンタリーで提供したいと思ってます。 人間同士として一緒の社会で生きていく中で、少しでもプラスの貢献をするドキュメンタリーを作ると言う、それがやりたいことやってきたことだと思ってます。 ドキュメンタリーは人が人を撮るので、1番AIができないんではないかと思っています。 結果として自分が経験したことを良かったので終わらせるのではなく伝えるプロとして、なるべく多くの人に伝える。 それをミッションとして作品となる。これが今自分がたどり着いた、ドキュメンタリーとの向き合い方です。

ドキュメンタリーの醍醐味は自分の人生ではない人生、人であったり、文化であったりいろいろあると思いますが、それを追体験できると言うことだと思います。 映像と音で捉えられるストーリーみたいなものを体験してほしいと思います。  そもそも、小学校を撮ったのは、私自身の小学校経験が自分を作ってくれたと思っているからこそ、撮りたいと言う趣旨があって、人間形成の部分、そこに焦点を当てて取り続ける。 ドキュメンタリーは客観的な記録ではないというか、たくさんの量を撮ってからストーリーを構成しているし、削ぎ落としてストーリーを構築しています。私の視点というものが入っているのは、ドキュメンタリーだと思っています。山崎エマと言う人が見た日本社会はこうだったねと言うみたいなところまで行けば、自分が目指しているところだと思います。

「小学校それは小さ社会」と言う作品が評価されるまですごく時間がかかりましたが、そもそも撮れるまで5年かかって、沢山の方々に協力していただいて、10年かかって公開まで行くことができました。 大変な苦労して作ったドキュメンタリーがなかなか評価されずにいたことに対しては色々と落ち込みました。 ドキュメンタリーはもう作るのはやめようかと思った事もありました。 世界の最高峰の所まで行ったと言う事は、自分を信じろと言うことを今回経験しました。 次回はより自分を信じる力と言うのも、そして評価と言うものがないとやっていけない世界でもあるので、違う物差しとして5年後10年後50年後100年後に評価されてもいいやと言うことを含めて思えるようになったと思います。

世に出て教育に対する議論が活発になったりとか、肩身の狭い先生が少しでも自信になったり勇気づけられたり、今後の教育の制度にも多少影響が与えられたような印象もありますが、そういうことを経験すると自分がやってきた事はとても意味があるものだと思います。 またより良いものを作ろうと言う気にはなります。

今興味のあるのは大人たちです。 新入社員と組織を仕切っている60代の人たちとは価値観が違うと思います。 わかりあえないところが出てきているかとは思いつつ、でも日本はまだまだ組織力とか力を合わせて何かを成し遂げると言うどこから向き合わないと、日本は世界では勝てないところもあると思います。 組織の中で何かに挑戦しながら時代の先を行こうとしている皆さんを撮りたいと思います。 今リサーチ中です。




2026年7月18日土曜日

五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

 五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

吉野山から大峰山にかけての一帯は金峯山と呼ばれ、古く飛鳥時代から聖なる地として崇められてきました。  世界遺産の本堂蔵王堂を中心に伽藍が広がる金峯山寺は、山岳修行を実践することで悟りを得る修験道の総本山です。 7世紀後半、遠役行者と呼ばれる役小角(えんのおづぬ)と言う人物が、金峯山で修業に励み、修験道を開きました。 自らも厳しい修行の数々を乗り越えてきた五條さんは、今世界中の人が今同じ時刻に心を1つにして共に祈ることができれば、みんなの幸せへの大きな力になると考えています。五條さんに祈ることの意味を伺いました。

京都の綾部市で生まれました。昔は沢山の山伏がいました。 父親は若い頃から国鉄に職員として勤めていました。 近所に山伏の道場があり、お手伝いをしていたそうです。 その住職が亡くなって父親が後を継ぐことになりました。 私はそこで生まれ育ちました。 私は体の大変弱い子でした。 人生のことを考えるようになったのは、高校3年生の時に身近な人が亡くなったことでした。 電話が来たので、急いでその家に行きましたが、苦しいと言って私の腕の手の中で力が抜けてそこで亡くなってしまいました。父親と兄と3人でお葬式を営みました。 

兄の方から東京の仏教の大学へ行くように勧められました。 2年、生3年生のときにはお寺に入れていただいて、そこで勤めて大学に行っていました。  仏教に関する学問は教えてもらいましたが、私たちが手を合わせる仏さんと言うのは教えていただけないんです。 現場の人としての宗教、信仰とかそういうものはないなぁと強く感じました。 それがお坊さんになる原点となりました。 修験道と言うのは、私たちは世の中で修行することによって、自分の罪、汚れ、煩悩など払い落としていく、大いなる山、大自然を神様、仏様が住まうところ、聖地です。 自然の中で、神仏に包まれて、修行して山から出てくる、これが修験道の修行の仕方です。 仏教で言う悟りです。

役小角は1300年前に金剛蔵王大権現様を命がけで修業して祈りました。 三上ケ岳で一千日の修行したと言われています。 悪い悪い世の中で生きる人々までも救って欲しいということで祈られたそうです。 1000日目にお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が約行者に現れます。 そのような優しい姿では、私のような悪い奴は言うことを聞かないので、もっと怖い方が欲しいと思われたようで、三上ケ岳の1番高い所に岩倉があり、お釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が姿を変えて蔵王権現が現れた。蔵王権現とはお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様の3体の仏が、悪を懲らしめる、怒りの表情で現れた姿と言われています。

私の蔵王堂には3体祀ってあって、中央にお釈迦様の仮の姿、右に千手千眼観世菩薩様の仮の姿になっていて、左が弥勒菩薩様の仮の姿になっている。 真ん中のお釈迦様が過去、右側の千手千眼観世菩薩様が現在、左側の弥勒様が未来。 過去、現在、未来を救ってやろうと言う請願のもとにお姿を示していただいています。 守ってあげる救ってあげると言うのも、現実に動いていくと言うのは私たちです。今をしっかり生きて、過去のこと、今のこと、未来のことを蔵王権現に預けつつ、自分のことをやらなければいけないことを頑張っていく。 

修験道の大事な修行の1つが大峰奥駈修行です。 山から山へおよそ170キロの道のりを 7日間かけて祈り歩く行で、毎年全国から修験者が集まります。 五條さんはこれまでに33回行いました。 当時60人ぐらいの人と一緒に歩くわけですけれども、自分のペースで歩けないし、人間関係などいろいろあり最初は嫌でした。 そのうち助けたり助けられたりして、皆さん揃ってお経もあげるし、厳しい中にも神仏に守られていると言う実感ができます。 

自分の命を生かされていると言うことも実感できるようになります。 達成感もありました。 一歩踏み外すと命を落とすようなところはいくつもありました。   ですので、自分と人のことを意識しないといけません。 自分だけの行であるけれども、自分だけの行ではない。 皆がいるから私も生かされている。そういったことが判ってきます。 山に入って肉離れをしたことがありました。 あるところで無理だと思って任せると言いましたら、大丈夫と言われました。 テーピングして歩いているうちに両方の足が紫色になってむくんだようになりました。 那智勝浦まで行って、お風呂に入って、吉野に帰るときにはその足は引いてきました。

自分だけの願いとか、願望とか、そういったものではなくて、自分が歩くことによって自分が良くなっていければ周りの方も良くなっていく位の大きな思いがあるんだろうと思います。 自分の生活とかをお山に入ることによって、生まれ変わるというか生きてることを気づかせていただいてくる、リセットしてくる。 それで1年頑張れる、自分の全てをさらけ出してねこそ、初めてできる修行が大峯奥駈修行かもわかりません。 

大峯百日回峰行、金峯山寺蔵王堂から大峯山寺に至る険しい山道を1人で100日間往復する過酷な行です。 片道24キロあります。 これを100日間歩き続けると言う修行です。 奥駈修行は我を捨て一緒に修行しますが、回峰行の場合は1人ですから不思議と我も出てきます、雑念が出てきます。 昔のことを思い出しては笑ったり、嘆いたり、怒ったりします。 それにさいなまれます。 そのうち60日、70日すると気がつくと、知らぬ間に何も考えなくなります。 大自然、水の音、風の音聞いていたりするとすべてのことを受け入れ自分自身のことを受け入れて歩いてくやっぱり自分だけでは生きてないなぁと言うことがわかります。 下を見ると、昨日新しい木の芽、命があちこち目が行くようになります。 命を感じます。 命が生かされていると言う事は自分だけではない。だから、人のことをもっと祈っていきたいし、国のこと、外地のこと、自然のこと、人々のこと祈っていきたい。 

山で祈ると言う事は、神仏に包まれながら、自分は修行させてもらうとするならば、そこで1番神仏とつながるんです。ですからそれを大事に大事にしていかなくてはいけない。 参加してくれる人には山の行よりも里の行といいます。 普段のことが里の行です。 祈ることを忘れてしまった人は多いと思います。 日常の中でちょっと時間を作って祈る、お天道様に今日も1日よろしくお願いします、夕日を見ては先人たちは「南無阿弥陀仏」と祈ってきたと思います。 そういったことに感謝をしながら生きていける、それは祈りの根本だと思います。 山で神仏にまみえたその事は里で生活することで、自分だけではなしに、周りの人にも知らない人にまで、仏様に守られた功徳が届くほどに修行しなさいのというのが、山の修行の何よりも究極の姿だと思います。 里が日常とするならば、山が非日常となります。

様々な修行の先にたどり着いたのが、共に祈ると言う思いでした。 私が始めましたのは平成28年から3年間8000枚護摩焚きさせていただきました。24時間で8000枚の護摩木を炊き上げる行です。 その時には口に水も何も入れなく24時間行います。 フッとみんなで祈ろうと言うことを思いつきました。 場所はどこでもいいんですが、一緒に祈る時間を一緒にしてほしいというのが始まりです。 それをFacebookで中継しました。 すごい反響がありました。 宗教宗派を超えてそれぞれの方法で祈りましょうと言うことです。 祈りのつながりができていきます。 

自分だけの祈りと言うのは独善的です。 祈りは願望であって欲望でしかない。  もっと自分をさらけ出す中でみんな良くなれと言う風な心を持っていただきたい。人のことを祈る自分はずいぶん強くなれると思います。 そこにはよくもなければ何もない、仏様の慈悲の心が自分の心中にあるほど、こんな強い事はないです。  

1日のうちに1分でも2分でも人のことを良くなってほしいと祈れる自分がいたら、その時は良い自分になると思います。 そんなことが続けば自分の納得の祈りがあるので、祈りを思い出してほしいし続けられたらありがたいなと思います。   祈りを普通に持てる人の方がおおらかで幸せじゃないかと違いますか。 自分で幸せだと思う人が増えるほど良いように思います。  祈りを忘れたときには、自分勝手な方向にしか行かないと言うふうに私は思います。  命と言うものは自分だけのものではないので大事にしていく。 その真ん中には祈りがあってこそ、それに気づくし、祈りがあってこそその命が生きていくと言うふうに思います。


2026年7月17日金曜日

春日武彦(精神科医)            ・「自分と折り合いをつけて生きる」

 春日武彦(精神科医)        ・「自分と折り合いをつけて生きる」

春日さんは現在74歳、東京都立松沢病院、精神科部長を経て、東京足立区にある精神科の専門病院、成仁病院の名誉院長として、およそ40年にわたって人間の精神におき合ってます。 その一方で、精神医学や恐怖に関する心理など、人の心の根源的な謎に迫る著書を数多く執筆してます。 春日さんに伺いました。

今の時代の空気は、白黒、せっかちをつきすぎる時代、そのような気がします。 精神が健全である条件は3つあって、①自分を客観的に眺めることができるかどうか ②適切にSOSを発することができるかどうか。 ③一体どうなのか、不明瞭な事案と言うものに対して、じっくりと待つことができるかどうか。(白黒がつかない曖昧な状態。こういう風なものに耐えられるかどうか。)

自己肯定感があるかどうかですごく違ってきます。 あるいは成功体験の問題、まじないみたいなことで自分の子持ちを珠洲目る、宗教なども耐える装置として意味は結構大きいのではないかと思います。

「きれいごと抜きの対人援助術」と言う本を出版。 世の中どうにも解決のつけようのない困難なケースっていうのがあります。 そういうのをどういう風にすればいいかと言う風なテーマについて述べています。 白黒つけずに、じっくり立ち向かう、そういう風な方法論というのを書いたつもりです。 みんなで共有する、みんなで話し合って、責任を分散させると言うこともあるわけです。 周りの人間がある程度気持ちに余裕ができると、うまい具合にも物事は流れていきます。 

何かあると怒鳴ってしまうとか、やたらと無理な理屈を重ねていってねちねち進めるとか、SNSで悪口を広めるとかそういうやり方と言うのは繰り返すとどんどん自分で馴染んでいっちゃいますね。 慣れ親しんだパターンにはまりやすいです。  人間て、妙なところに自分らしさを見出しちゃうところがあります。  損ばっかりをする私とか、超不器用とか、誤解されがちとか、そのようなことも自分らしさとしてどうしても認識してしまう。

人間って変わりたいと思いつつも、実はあんまり変わりたくない、変わると言うのは相当に気合が入ります。  「見知らぬ仏よりも見知った鬼」と言う言葉があります。 鬼と言うのは悪いものだけれども、慣れ親しんだ鬼だとそっちの方が気が楽でいいやと言うことです。 精神科医と言うのは、病気を治すと言うよりは、むしろその人にとっての幸せは何かと言うことを考えることですね。 その人なりの幸せとはどういうものか、その辺のことに合わせて考えてった方が現実的ですと思います。

うつ病なども病院でいる間は周りも気を使いますが、うつ病が治ったらまた会社で頑張らないといけない。 良くなった後にすぐ第一線に戻れるかと言うと、微妙だったりすることがあります。  こっちとしてはまだ本気でちょっと戻りたくないんだなと言うふうに思ったりもします。 そういった微妙なところのやりとりが重要です。

最初産婦人科に行きましたが、外科系の方が派手だったので行きました。 私は患者さんの愚痴を聞く方でした。 ほとんど聞いてるような形でしたけれども、本当に感謝されまた。 6年間勤めた後、精神科のほうに移りました。 私の母親は美人で華のある人でした。 私は一人息子ですが、私もルックスとか雰囲気において母親にふさわしい存在感というのを持ちたいと思いましたが、それは努力では無理です。母親には認めて貰えていないのではないかと言う思い。(コンプレックス) 

 占い師のところに行ってぐちぐち言いましたが、意外とそれがすっきりすると言うふうになりました。 ある中年の女性の占い師のところで、ぐじゅぐじゅ言って、私は慢性の不安感っていうのが強くて、自分は物心ついてから、現在まで 1日たりとも不安でなかった日はないんですと言うふうに言ったら、その途端涙が出てきて嗚咽したと言うことがありました。 自分でもびっくりしました。 私は30年間泣いた事はありませんでした。 無防備で泣くと言うのは、結構気持ち良いものだと思いました。 

母親とのわだかまりについては、本2冊書いてみたけれども、わだかまりは溶けてはいませんが、自分で半分持て遊べると言う形にはなりました。(客観視できる。)精神科医が自分のことすら直せないのに、なんて、患者さんに手助けできるかと言うと、あえて言えば、他人事だからです。 患者さんの話で、俺の事はあんたなんかにわかってたまるかと言うことがありますが、その通りですと、でも2人一緒に揃って水に溺れたってだめでしょう、私は余裕のある立場にいられるからこそあなたに手助けできると言うことなんだと思いますといいます。 相手を理解すると言う事と一緒に遭難すると言うことを別です。 

折り合いをつけると言う事はどういうかことかと言うと、自分がある程度冷静に自分自身をモニターして、ただすべき事は正して、ときには苦笑を浮かべたり、泣き事を言いつ思考や感情の暴走は、不幸招き勝ちだとそういう風に心がける。  苦笑いとは苦々しくしく思いつつも、客観的に広い視野で今の状況を眺め渡して、さしあたっては笑を浮かべてやり過ごすということじゃないと思います。 苦笑いを浮かべると言う事は結構重要なことだと思います。

人の心と言うのは、アキレス腱というか弱点と言うのが3つに集約される。①プライド②こだわり、③被害者意識

プライドでは、恥をかかされた、舐められた、軽く見られた。過敏になった劣等感がプライドの問題として吐出してくる。 こだわりは周り見えないとか切り替えができないとか、柔軟性に欠けてしまう。 被害者意識、 自分が悪いとは思いたくないが、人のせいにして、自分を守ると経験を人生に生かせないまま憎しみだけが蓄積していくと言うことになります。 自分の気持ちが穏やかでないと言うときにはこの3つのいずれかに引っかかっています。 それがわかれば客観性を担保することになります。秘訣は苦笑い。黒白つけずグラデーションあたりをさまよう。

今残酷さについて執筆しています。 自分は残酷ではないという風に振舞おうとしても、結果的には残酷さと言うものを呼び起こしてしまう。 そんなことはいくらでもあります。 残酷さと言うものもある程度いろいろ理解できなければ、世の中と折り合いがつかないわけです。


2026年7月5日日曜日

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」 

本間家は代々医師の家系で、先祖は水戸藩の藩医をしていました。 本間さんは医師を目指して学業に励んでいた二十歳の時に不慮の事故により失明しました。  将来への不安で自暴自棄になっていた本間さんを救ったのは、祖父の遺言書に残されていた本間さんへの言葉だと言います。 1955年、26歳で聖明福祉協会を設立して以来、日本初の軽費盲老人ホームの設立、日本初の盲大学生奨学金制度の創設等、視覚障害者の福祉活動の向上に力を尽くしました。 70年余りの社会福祉の道のりと今思うことなどを伺いました。

山を切り開いて施設を順番に建てました。 1つは盲老人ホーム、養護老人ホーム、自分の事は自分でできる人たちが利用される施設で定員100名、目が見えなくて寝たきり状態になった介護の必要な方の施設が100名、目は見えるけれども、色々と障害ある方たちが利用される施設が 96名、この3つの施設を経営しています。  70年間この道一筋に歩んでくることができて、こんな幸せな人生はない。  私は失明したからこそ、この事業があるわけで、私自身があるわけだとそう思って感謝しています。

昭和4年生まれ、年齢は97歳4ヶ月です。 スポーツの好きな活発な少年でした。  本間家は代々医者の家系で先祖は茨城県の水戸です。 徳川家の藩医をしていました。  400年ぐらい続いている医者の家系です。 医学部を受けて浪人中に風邪をひいて注射を右腕に打たれて、右腕橈骨神経麻痺を起こして、今でも右手は不自由です。 3ヶ月経っても動かないので、大きな整形外科で診てもらったら、すぐ手術をすると言うことになりました。 3回手術を行いました。 その結果両眼底に出血をして失明をすると言うことになりました。 20歳の春でどう生きたらいいか大変悩みました。心も沈んで、夢も希望も何も持てない自暴自棄になりました。 

祖父が私が2歳の時に遺言書を残してました。 書き出だしに「汝を最も生愛す。」と書いてありました。  医者として市民のために尽くしたこと、徳川家の多くの人命救ったということで「救」という名前が送られたこと、「汝の成るを待つ」と書いてありました。 最後には「人の一生は不平不満を去り、忍の一字を守るべし、孝は国の大事となり。」と書いてありました。  同じ失明の先輩に導かれて教会へも参りました。 GHQから日本には社会事業家の専門家を要請する学校を創設するようにと言うことで、できたのが社会事業学校(今の日本社会事業大学)です。(清瀬にある。)  

盲人として、初めて入学を認められました。 社会福祉の道に入っていきました。昭和30年に独立して在宅の資格障害者の家庭訪問とか、病院で失明を宣告された方々と一緒に点字を勉強したり、あんまマッサージなどを教える更生施設へ紹介したり、眼科検診を医師とともに回ったりしました。 福祉と言う言葉がなかった時代です。 聖明福祉協会と言う組織を作って、今日で言う在宅サービス、その先掛けを70年前に始めました。 良い家庭であるほど、座敷牢で外へ出したくない、そういった家族は私が行くことを最初を歓迎しなかった。 その後だんだんとわかってくれるようになりました。 

特に盲女子の場合には悲惨でした。 社会復帰して成功した女性もいます。 今の聖明園の歌の作詞をした内藤ふきえ?さん、満州から子供2人を連れて帰国、住むところもなく、福祉事務所から私のところに連絡がありました人です。 弱視でした。 その人に点字を教えて、あんまマッサージの資格を取得してもらって、台東区の病院で乳房マッサージということで成功しました。 家も1軒建て、子供2人を立派に育てあげました。 祖父が国会議員と言う家の女性が家に閉じ込められていて、学校にも通っていませんでした。 盲学校に入学させて飛び級で中学を終えて、鍼灸あんまマッサージの資格をとって、社会復帰をして立派に自立した人もいました。(4年生へ二十歳の時に入学)

いろいろな福祉の活動を始めて、聖明福祉協会を立ち上げたのは昭和30年です。(26歳)10年間は国の補助金もなく、学校などに鉛筆を売ったりして資金集めをしました。 封かん紙を作って買ってもらったりしました。 いろいろな人々に支えられて資金を作ることができました。 物事に当たるときに、いつも誠実に誠意を持って努力をすれば、必ず道は開けると思って、誠実に人に訴え、話をし続けてきました。 輪がどんどん広がっていきました。 人が支えてくださったから、今日があるわけです。 

青梅に土地を購入することになりましたが、道路を作るにあたって、地主の方が何人もいて説得することが大変でした。 ある大地主の方へ事情を説明したら寄付すると言っていただきました。 その方とはずっと今までものすごくご支援をいただくことになりました。 政界、財界でもすごい有力者だと言うことが後でわかりました。 誠実に誠意を持って努力すれば必ず道を開けると言う自信をこの時に持ちました。 社会事業家などと言うのは、物乞いと思われてたそんな時代でした。  それを切り開いて今日まで来ました。

17歳の時に親孝行できずに父親を亡くしてしまいました。 同じ老人ホームをやるのならば、自分と同じ失明の方々のために、父親に対する親不孝の穴埋めのためにもと思って、高齢者に対する施設を作ることを考えました。 お風呂に一緒に入って、その人たちの背中を流したりしていきました。 今ある施設は全室個室で、全室トイレ付き、全室に電話を入るようにしました。 自分が入りたいと思う施設でなければ、お客様にうちの施設へどうぞおはいり下さいと言う事は言える資格はないです。 昭和39年にできた我が国に最初に出来た施設です。

あっという間の70年間でした。 全部山だったのを1万坪をブルドーザーで整地して、3つの施設に300人のお年寄りが生活ができるような施設に成長して、よくこんな事業ができたなと思います 盲大学生のための奨学金制度は日本にありませんでしたが、盲大学生奨学金制度を創設して 200人以上の方がこの奨学金を活用して、大学教育を受けて、才能を持った方がたくさん排出されました。 「よくやりましたね」、と自分で自分に言い聞かせています。 

IT機器の科学技術の進歩によって目の見えない人にどれほど恩恵を受けているかわかりません。 まだまだ社会では失明者に対するあるいは障害者に対する理解はまだまだ充分ではないんじゃないかと思います。 60年間書いてきた日記を整理して伝記を作って生涯を終えたいと思います。(娘が書いてくれる。) 自分のためのPRではなくて、福祉を社会に知って欲しい、そういう悲愴な叫びとして伝記を期待して書いてもらおうと思っています。 いくつになっても夢と希望は失いたくない。そして目標を持つと言う事は大変大事ではないかと思います。

「志立てて歩みし七十年支えてくれし人ぞ尊し」  本間昭雄

2026年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」 

マリリン・モンローは1926年6月1日に生まれ、1962年8月5日に36歳で亡くなりました。 今年は生誕100年にあたります。

「一人ぼっち。 私は一人ぼっち。いつだって一人ぼっち。どうしようもなく。」  マリリン・モンロー (25歳頃の言葉、黒板手帳の1番最初のページに書いてあった。)

マリリン・モンローはアメリカの俳優で、映画の代表的な出演作には「ナイアガラ」「紳士は金髪が好き」「7年目の浮気」「お熱いのが好き」などがあります。

「私は今でも、自分が望まれて生まれた子ならいいのにと思うの。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローの母親は結婚していなかった。 モンローが生まれた後母親は働いていたので、知り合いの夫婦に赤ん坊を預ける。 祖母が赤ん坊のモンローの顔に枕をつけて殺そうとしてしまう。 結婚して生まれた子ではないと言うことが、宗教的に許せなかったらしい。 モンローは、自分の人生の中で、1番最初の記憶は「死にそうになって、昼寝から目を覚ましたことがあった。何かが顔に落ち付けられていたの。 枕かもしれない。必死でもがいわ。」

「誰も私のことを娘とは呼ばなかった。 誰も私を抱いてくれなかった。 キスをしてくれなかった。 誰1人クリスマスになると大きなツリーが飾られて、家中の子供がプレゼントをもらうのに、私にはなかった。 1人の子は私にオレンジをくれたわ。 あのクリスマスを覚えてる、1人きりでオレンジを食べたっけ。 元気を出すためによく空想空想したわ。でも他の子供が愛されてるように、愛される夢は見たことがなかった。 それは私にとってあまりにも大それた創造だったが。

その後、モンローは、児童養護施設に入れられる。その時のことを次のように語っている。 「どの子の親も死んでいった。 私には、少なくとも1人の親がいたわ。 でも私を欲していなかった。 他の子にそれを説明するのは、あまりにも恥ずかしかった。」

「楽しかったのは、映画に連れて行ってもらう時だけ映画が好きだった。 それだけが楽しみだったわ。 映画スターが私の友達だった。 その時だけ自由になれたの。」  それで、映画スターを目指した。

「私の肉体のあらゆる部分に押し寄せてくる恐怖、自分の体に触れる恐怖。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは小さい時に40代位の男に性的虐待を受けた。(8 、9歳の頃)マリリンはこのことを母親に告げたが、母親は間借り人のその男の人柄を信じてたので、嘘だと思って、逆に娘を平手打ちしてしまう。 マリリンは被害者なのに、自分がいけないような罪悪感を抱いてしまう。 母親が体調不良で早引きして帰宅したときに、その男の部屋で裸の娘を見つけるわけです。 母親は激怒してナイフで襲いかかる。 その男は、救急車の中で母親は正気ではないと訴える。 母親も精神病院に入れられてしまう。

マリリン・モンローは、この性的虐待について、マイストーリーと言う自伝の中で公にしています。 大スターであるのに、大変な勇気。

ジョン・F・ケネディーの誕生祝賀会でマリリン・モンローが歌っている「ハッピーバースデーミスタープレジデント」と、いう曲

歌った2月半後にマリリン・モンローは36歳の若さで亡くなる。 自宅の寝室のベッドの上で、睡眠薬鎮痛剤の過剰摂取が原因と自殺の可能性が高いと言うのが、公式発表です。自殺説、他殺説あり。 ジョン・F・ケネディーも翌年、1963年11月22日に暗殺される。

「私は今でも人に気に入られようとしたり、相手が聞きたいことを言おうとしたりしてしまう。それもまた恐怖心からなので。」 マリリン・モンロー

「人は、グループ内で、他と違うものを差別したがる。 私はグループの中でうまくやれた事は1度もない。 グループとは2人以上のこと。」

子供の頃の言葉として次のように書いてます。 「自分自身が冷たくされることに耐えながら、かつて私が持っていた感情は怒りではなく、拒否や気づけられることに無感覚になることで、そこで本当の愛の理想的なイメージを失ったの。 (無感覚になることで自分を守っていたんでしょうね。)

「私たちのほんの1部分が他の人たちの1部分に触れられるだけ、ある人の真実は、所詮はその人だけのもの。 私たちが分かち合えるのは他の人たちに受け入れてもらえるとわかっている部分だけ、だから多くの人は孤独。」

「どうして私はこんなに苦痛を感じるの。 それからどうして私は他の人たちよりも、つまらない人間だと感じるの。 いつだって、そう感じてきた人間未満のように。」 マリリン・モンロー

「人は私に会いたがるわ。 そんな今でも誰も見向きもしなかった頃を覚えている。 小さな下働き。ノーマ・ジーン 誰も母親でさえも見向きもしなかった。 あの日々を。」  ノーマ・ジーンと言うのは、マリリン・モンローの本名

「有名人であると言う事は幸せな気分になれるけども、それはほんの一時的なものね。 キャビアのようなもの。 キャビアはおいしいけど、毎日毎食となると。」

マリリンは人に優しく行いが立派だった。  エラ・フィッツジェラルドと言う黒人の歌手に出演できるように交渉し道が開けて行った。 人種隔離政策の時代に、白人のハリウッドスターが人種差別にはっきり反対を表明すると言う事、これはとっても珍しかったと言うことです。 彼女は自分のキャリアを危険にさらしてまで支援したと評価されている。

「私は時折、人間が本当にやり切れなくなる。 人は、私と同じように、誰しも皆問題を抱えることがわかっていても。」 マリリン・モンロー

「有名になると、人間の本性の生々しい部分にぶつかるの。 名声がある相手にはどんなことでも言っていいと、そんな特権が与えられた気になるみたい。」

「誰かと不幸せでいるより、1人で不幸せのほうがいいわ。 今までの経験から言えばね。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは3回結婚して全て離婚しています。 最初は16歳の時、相手は21歳の青年。 2回目は27歳の時、相手は大リーグのスター選手ジョー・ディマジオ(モンローに仕事を辞めて家に入って欲しかったが、9ヶ月で離婚) 3回も30歳の時、相手は作家のアーサー・ミラーで5年後に離婚。 マリリン・モンローがなくなった時にも葬儀を取り切ったのはジョー・ディマジオでした。 その後彼はずっと独身を通をして、モンローの墓に週3回赤い薔薇を供え続けた。 84歳で亡くなったときには、やっとマリリンに会えると言った、とも伝えられてます。

「私も安定した関係を築けたらいいのに。 いつも帰る場所があって、いつも私がすることに関心を持ってくれて、辛い時も一緒に乗り越えてくれる。 お互いを支えるような関係、私は「死を2人をわかつまで。」という言葉が大好きだったの。 いつも最初はうまくいくように思えるけれど、その後で何かが起こる。 もしかしたらそれは私のせいなのかもしれない。」

マリリン・モンローの人生について調べていくと、当たり前とされていることがこの人の人生にはなかったんだなぁとすごく感じました。 (両親が揃ってる、子供の時に親から可愛がられるとか。)

多くの人が当たり前と思っていることほど、それが欠けている人にとっては辛いです。 当たり前が自分の手に入らない。

「私は幸せだったことがないから、幸せなのが当たり前だと思った事は1度もなかった。」  マリリン・モンロー