山本容子(銅版画家) ・〔私の人生手帖〕
山本容子さんと言うとカラフルな色使いと軽やかな作品を思い出しますが、世界の文学作品などをモチーフにして数多くのアートを生み出す傍ら、エッセイや舞台衣装など美術以外の分野でも多彩なかと同を続けてきました。 1952年埼玉県のうまれ。 75年京都市立芸術大学4回生の時の個展以来、今年は銅版画をはじめて50年の節目の年をむかえています。 膨大な作品群には山本さんの内面のどのような思いが潜んでいるのか、パワーに源にあるのは何なのか、近年精力的に取り組んでいるホスピタルアートについても伺います。
23歳でデビューして73歳になるので、、よくも描き続けてきたというのが感慨です。 早稲田大学が図書館を作って、村上春樹ライブラリーと言う名で、 その場所で展覧会をさせてもらっています。 8か月もやらせてもらっています。 沢山の国籍の違う人のサインがノートにされています。 カポーティをテーマに27歳の時に作品を30点ぐらい描きました。(1979年) カポーティは中編『ティファニーで朝食を』などを書いてています。 カポーティの作品展をした後7年後に村上春樹さんがカポーティに関する本を書いて、私の絵が取り入れられました。 去年また村上春樹さんとの新しい本が生まれました
銅画は線が命で、線に惚れて銅画をやっています。 細いのに強靭で、薄いのに強いという。
昔から絵と共にやっているのは、本を読む事、音楽を聴くこと、旅に出る事です。 自分が豊かになることが栄養になっ行くはずなので、それは努力しています。 シェイクスピアのことを描くにしても、古い音楽を聴いたりするとその時代のことが頭に浮かんできて絵を描くための元になります。 国柄が表現できないといけないと思っているので、旅に出て体感します。 シェイクスピアのことを描くにしても、穴からのぞくような多様な視点を使って、154編やっと描けました。
55歳ぐらいの時に大腸がんになって、仕掛り中の仕事があってそちらへの集中をしました。 がんのことは先生に任せて、その相乗効果で早く治ったと思います。 高校2年生で演劇部で、本を作る方が好きでした。 演劇をしたくてたまたま京都市立芸術大学へ一浪した入ることになりました。 銅画を知らなかったために、返って興味を持ちました。
父は平成3年に亡くなりました。 集中治療室でずっと天井しか見れなくて、その天井が汚い天井でした。 父の視線、父の気持ちなどに寄り添ったりしていれば、天井をもっときれいにしたいとか、思ったはずですが。 一体だれのために発表しているのか、そこからちょっと変りました。 病院の先生に天井に絵を描かせて下さいと言っていました。 或る病院に描かせてもらいました。 その後ホスピタルアートの絵の勉強にスウェーデンに行きました。 絵は薬にならなければいけない。 子供の部屋には人気のあるキャラクターは置かない。 もし子供が亡くなったら、そのキャラクターを見るたびに、親は子供のことを思い出して悲しくなる。
2013年に高松の病院の廊下を温かい雰囲気の廊下にしたいという事で、オレンジ色の温かい空気が流れるような、そんな感じにしました。 絵、文学、音楽から得たもの、その通底したものが一つの世界を作っていて、それを一枚の絵を通して見せられたり、重なり合った世界を見せて行けるようになればいいと思います。 祖母がずっと言い続けてきた「どっかで誰かが見ているよ。」と言う言葉が好きで、困ったりした時には思い出します。
埼玉県立近代美術館に収蔵されている私の作品70点ぐらいを、50周年を記念して展示されます。(6/7~8/31迄)