2024年4月27日土曜日

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕 

小林稔侍さんは1941年和歌山県生まれ。 東映の第10期ニューフェースを経て、アクション映画や任侠映画に数多く出演し、その後深作欣二監督らに見いだされて頭角を現しました。 1986年にはNHKの連続テレビ小説「はね駒」で主人公の父親役を好演、2000年には「ぽっぽや」で日本アカデミー賞最優秀助演賞を受賞しました。 近年は山田洋二監督作品の常連として知られています。 小林稔侍さんの自在で味わい深い役柄はどのようにして生まれるのでしょうか、大切にしてきたのは何なんでしょうか。  放送ではほとんど語ってこなかったとおっしゃる素顔についてお話を伺いました。 

僕たちはラジオで育っているので切り離せません。 僕は夜型です。 小学校から寝不足しています。 コロナで感染しないように引きこもっていました。 3,4回しか京都、大阪などには出ませんでした。 諸先輩などいろいろ見てきて、人には感謝、そのことはつくづく思いました。 昭和36年に東京に出てきて東映に俳優の卵として入りました。 保証人が必要で、父親の親友で東大を金時計で卒業した人が居るという事で、上京した挨拶もそこそこに出た言葉が「出世しようと思ったら可愛がれらなければ駄目だぞ。」と言われました。 胡麻すらなければいけないのかと思いました。 芸能界にいて判って来たことは、コツコツうつむいてやっていると、必ず監督さん、プロデューサーの方、諸先輩でも声を掛けてくれるんです。 その人に対して狭い料簡の解釈をしてしまって、申し訳ないと思いました。 

切られ役かと一般の人は思うかもしれないが、切られ役が良くないと、主役が良く見えないんですよね。  撃たれて車から落ちる場面があるんですが、下がコンクリートで時速10kmで落ちてくわけですが、迫力がないので時速20kmでやって欲しいと言ったんです。 プロデューサーの方が来て 「君にそういうことをさせて済まなかった。」というんです。(一応ニューフェースで入ったので)  それからその方がずっと面倒を見てくれるようになりました。 可愛がられる事とはそういう事だと気が付きました。 

雪駄を履いて、田んぼとか砂利道を走るシーンがあるんですが、普通なら田んぼで雪駄が外れてしまうんですが、針金で足に縛り付けて走ったんです。 一緒に逃げるメンバーとは離れてしまって、その場面をみんなと一緒には撮れないんです。 チーフが怒って来るんですが僕はそういった事には平易なんです。 深作欣二監督が気に入ってくれました。 そういったことでコツコツやって来ました。 目の前のことを気持ちよく一生懸命にやるしかないんです。 

10歳違いの兄がいて、勉強も出来るし孝行息子でした。 僕は川に行って釣りをしたり一人で行動するタイプでした。 父も母も愛情いっぱいに育ててくれました。 小児喘息も酷かったです。 終戦直後で1本が2万4000円ぐらいの薬です。 苦労して購入して、そのお陰で助かったようなものです。 身体が弱かったので小学校で1年、高校で1年休学して、2年遅れて卒業しているんです。 

「しだし」役(歩く役)が180人ぐらいいるわけで、俳優になりたくて「しだし」役をやらされているわけです。 映るか映らないか判らないけれども化粧をするわけです。   小学校低学年から映画は観ていました。  友達が国立の和歌山大学教育学部附属中学校に入るという事で、そこには綺麗な女の子もはいってくるというんで、自分もそこに行こうと思って一生懸命勉強してはいることが出来ました。 高校卒業後、何かして親孝行したいと思いました。 新聞に東映のニューフェース募集の広告が出ていて、東京に行きたいと思いました。  書類選考に受かりました。 入社式に行くために早朝3時ごろに駅に行ったんですが、父親が見送りに来てくれていました。 ホームシックには1週間程度と言われていましたが、僕は1か月駄目でした。  毎日枕が涙で濡れていました。 

最初の芝居が一人づつ前に行って泣くんです。 僕だけ最高に泣いたんです。 大川社長から「君は今年高校卒業だがどうして大学はいけないのかね。」と言われて、「大学は来年でも受けられます。 最終審査に残れて夢のようです。」と言ったら、「ウン」と言ってそれっきりで出されてしまって、駄目なんだなあと思いました。 そうしたら合格しているわけです。 純粋にそう思っていたから、それが受け入れられたのかなあと思いました。   その後のことでも、欲張らず純粋に自然にやることがいい事なのかなあと思っています。  それは両親、兄、周りの方からの愛情だと思います。 僕は愛情いっぱいに育てられたんです。  兄は、大卒が1万6000円ぐらいのころ、1万8000円のテープレコーダーを買ってくれたり、カメラも買ってくれて、仕送りも1万円づつ仕送りをしてくれました。 

僕は俳優の仕事は嫌いだと思ったことはないですね。 例え厭な監督の前でも、衣装を着ている時には厭にはならないね。  僕にはターニングポイントは無くて、ずっと同じで一点張りです。 いい人たちばっかりに出会ってこられたなあと、感謝これしかないですね。  高倉さんもそうでしたが、楽しくて、お人が良くて、実にきっちりしていて。  今後についてという事ですが、今まで通りでいいです。 なすがまま、人様が拾ってくれるままだと思います。 本当に感謝しかないですね。