2022年8月30日火曜日

田辺美奈(田辺聖子の姪)        ・【わが心の人】 田辺聖子

 田辺美奈(田辺聖子の姪)        ・【わが心の人】  田辺聖子

田辺聖子さんは1928年(昭和3年)大阪の生まれ。   1964年(昭和39年)芥川賞を受賞。  91歳で亡くなった後、青春時代の日記が見つかりました。   日記を紹介しながら田辺聖子さんの戦中戦後の日々を辿ります。   

田辺聖子は3人兄弟の長女で2歳下に私の父(聡 あきら)、3歳下に妹(俶子 としこ)です。     BSプレミアムで再放送されている朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」田辺聖子の半生を描いたもの。

91歳で亡くなった後、青春時代の日記が見つかりました。    期間限定で叔母の家を記念館として皆さんに公開しようという事でプロジェクトを組んで下さり、私たちもそれに向けて家の片付けを始めました。  押し入れの中から一冊のノートが出て来ました。    17歳から19歳までの青春時代の日記(終戦を挟む)という事になります。    家が大阪の大空襲に遭って失って、着の身着のままで生活しなくてはいけなくなった。   雑誌への掲載と本にしていただくことになりました。   

田辺聖子さんは1928年(昭和3年)大阪の写真館の長女として生まれました。  本が大好きでした。  昭和19年4月に現在の大阪樟蔭女子大学に入学、戦時下の体験をして、昭和22年卒業、会社員の仕事をしつつ、執筆活動も行う。   36歳の時に芥川賞を受賞。  平成20年に文化勲章をを受章、2019年6月6日亡くなる。(91歳)  

大学に入っても勉強はままならず、寮に入って勤労動員されて旋盤を回していたという事でした。   航空機製作所で飛行機の部品を制作していた。   週末には帰宅していました。   友達とは楽しく会話をしていたようです。   空襲で家が焼けてしまったのは昭和20年6月1日の大阪大空襲の時でした。    6月2日の日記には大変なことがあったらしいという事で電車も動かないような状況の中、友達と共に帰宅する。          「まだ延々と燃え盛っている。 真っ赤な火だ。  喉が痛く目が沁みる。  第百生命は全滅だ。 ・・・」   叔母はちょっと足が悪く7,8kmを家を心配しながら歩いた様子が描かれている。    「・・・お母さんが見るも痛ましい姿でやって来た。  眉は黒く眼には涙の痕がある。  ・・・お母さんは私を見つけてみるみる眼を潤ませた。  聖ちゃん、家が焼けてしもうた。  ・・・私は不覚にも涙がこぼれた。 あんたの本なあ沢山あったのが出すことが出来なかった。 ・・・涙がポトポト水槽の上に零れ落ちた。 ・・・あの美しい古い家、それが2,3時間のうちに夢のように灰になって消えてしまうという事があり得るであろうか。 ・・・(すべてのものを)嘗め尽くして、それは余りにもあっけない。」

父は家には早く帰ったので、戸棚の中に入っていた貴重品だった食料油、洋酒、食料品などは持ち出さずに、日本刀を一つ持って出てきたという事で、戦後ですが、食料やらあったら本当によかったのにという事だったが、やっぱり日本男児だとからかわれたりしたと叔母から聞かされました。  

昭和21年12月31日の日記の内容。   「気立ての優しい女の子に成ろうと思ったのに、それもなれず弟や妹に当たり散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでいるばかり。   いったいこれで、無教養さで小説家なんて難しいものに成れるかしら、と心配でならない。  ・・・ 今、少し小説を書きかけているけれど、どうも思う様に筆が進まない。  ・・・私はもうこの道しか進むべき道はない。  来年も又幸福な精神生活が送れますように。  私は20歳になる。・・・さらば19の幸多かり日年よ。」

日記にはいっぱい赤線が引いてあったりして、「私の大阪八景」「欲しがりません、勝つまでは」自伝的小説の「しんこ細工の猿や雉」のなかで全く同じ文章が出てきたり、日記の出来事がそのまま描かれていたりしています。   

8月15日の日記にはどのように書かれているのか気になって最初に見ましたが、ここだけ黒々とした墨のような文字で他とは全然違う記述の仕方をしていて非常に驚きました。  文語調で、叔母にとっては特別な一日だったという事が伝わって来ました。  叔母からは戦争の話を聞く機会は残念ですがありませんでした。  

私が大学院時代に週に一回叔母の秘書役的なことをやっていました。   感情をあらわにするようなタイプではないんですが、一度だけ怒ったことがあります。   法事の時に、お酒の入った遠い親戚のおじさんが「聖ちゃんこれからはもっと立派なものを書かんとあかん」と説教をしたことがあって、その時叔母が珍しく怒って「私は大説家ではなくて小説家ですから」ときっぱり言い返したんです。   叔母は軍国少女だったんですが、敗戦でひっくり返ってしまう体験をして、大きなこと、立派な事のもろさ、それに比べて人の心の移ろい、愛が生まれたりとか、色褪せていったりすることの方が本当はずっと確かで切実なものなんじゃないかと叔母は感じていたんじゃないかと思います。

読者の反応がいろいろありました。