2022年8月23日火曜日

出羽仁(書籍編集者)           ・家族で残した父の抑留日記

 出羽仁(書籍編集者)           ・家族で残した父の抑留日記

出羽さんは昭和27年神奈川県生まれ。  太平洋戦争開戦と同時に、父親は特別高等警察、いわゆる特高に拘束され戦争終結まで4年近く抑留生活を送ることになります。  戦後父親は医師となり70歳で亡くなりますが、抑留生活の日記を残していたことが判ります。  父の戦争体験を後世に残そうと、出羽さんは叔父や妹と共におよそ20年かけて「英国人青年の抑留日記」としてまとめたものです。  

父親の名前はシディングハム・イーンデュ・デュアです。    イーンデュという人が私の曽祖父にあたりまして、幕末の時代にイギリスから日本に渡ってきています。(10代)   長崎のグラバー亭のグラバーさんに可愛がってもらったそうです。   上海で日本人女性(常川ヤス?)と結婚します。  結婚して長崎に又来ました。  私の祖父はウイリアム・デュアと言いまして父と一緒に抑留されますが、祖父の生まれは東京です。  祖父は日本語はしゃべれましたが読み書きは出来なかった。  私が中学生の時に祖父は亡くなっています。   祖父も日本人の女性と結婚していて、父も同様です。  日本が好きで日本にずーっと住んでいるわけです。   

1941年12月8日真珠湾攻撃と共に抑留されました。  4年間近く自由を奪われる。  父、祖父は民間人で、捕虜ではなく抑留されるわけです。    特高に身柄を拘束されて尋問されて家宅捜索を受けて怪しいものとかカメラ、双眼鏡などが没収されてしまう。  抑留所に収容されてしまう。    全国に21か所の抑留所があって876人が収容されていた。   南足柄市内の山あいにあった神奈川第一抑留所に父は抑留されました。  連合国側の人、日本で仕事をしていた人たち、宣教師、たまたま日本に来ていた船員の人たちも抑留されました。   

まとめた本は500ページ近い本になっています。  父が実際に書いていた日記は戦争が終わる1年ぐらいです。   交換船で一番仲の良かったロバート・クラウダーさんが帰ってしまって、父のストレスのはけ口が日記だったと思います。  書き出しが1944年10月22日です。  外国人に配給されるものは日本人への配給よりは良くて肉などもあり、それ以外にも定期的に赤十字から支援物資が届くんです。   しかし、日本人が食料を横領してしまって、抑留所の管理監督をしていた警察の人、雇われているコックなどの胃袋に入ってしまった。 父は医学の研究をしようと思って、医科大学に入ります。   教養課程にいる時に身柄拘束されてしまいます。   抑留中も日本語を忘れないようにしようという事で日本語と英語で日記を書いていました。   それぞれ対訳したので厚くなってしまいました。

1944年10月22日の文章 「・・・今までやった中で最悪の仕事だ。・・・得たものは一日中働いて一日握り飯2つ・・・こんな腐ったゴミ溜めのようなところはもうごめんだ。 だけど僕がすべてに無罪だとは言い切れるだろうか。」 

11月7日  「・・・この戦争はいつ終わるのだろうか。  もし来春までに終わらなかったら、僕の医学の道は断たれると思う。・・・どうしても学校に戻らなければならない。  そして科学者たちの間で生きるんだ。・・・」

5月29日  「・・・続々とB29が通った。  400機ほど京浜地区に来たらしい。 ・・・攻撃目標は横浜、川崎だったらしい。  横浜方面に物凄い煙がもうもうと昇っているのが見えた。  母とエディーはあの下にいるのか。 無事でいてくれればいいがなあ。」  (エディーの日記にも爆撃の様子が書かれている。  老婆を背負って防空壕へと助けた様子も描かれている。 この日一日で3789人が死亡。  1万2391人が負傷。2万9350棟が灰となる。)   エディー(父の弟)は当時中学生だったので、年齢の関係で抑留されなかった。  

8月15日   「6時ごろから空襲、8時半ごろに解除。・・・聞こえるのは蝉の音のみ。・・・代表がラジオを聞きに行った。・・・上がってきて内容を話した、「終わりだ」 ・・・みんなは狂喜しているが僕は不安を感じだした。  母とエディーに会えなくて心配でたまらなくなった。・・・いつ一家だんらんの楽しさを味わえるであろうか。」 

(エディーの日記  母から戦争が終わったことを告げられる。  僕の人生の一番ハッピーな瞬間となった。)   

母(日本人ではあるが)、エディーはイギリス人の家族ではあるが近所の人からは親切にしてもらいました。  人間の本質みたいなものがそこにはあるんだなと思いました。

1980年代、父と一緒に南足柄市内の山あいにあった抑留所跡にいきましたが、父は自分の厳しい苦しい抑留生活を癒してくれた自然を懐かしんでいたのかなと思います。  父は絵が好きで、鳥、昆虫などの絵を描いていました。  医学の研究者になりたかったが、抑留され、お金も必要で、諦めて外科医として病院に勤務する事になります。  病院の意向で整形外科への方向になり、パーキンソン病になりリタイアすることになります。

父の抑留に対しては誤解をしていました。  改めて日記を見てみるとこんなにひどかったんだという事が判りました。   一番大変だったのは紙がボロボロの日記を、英語、日本語共にきわめて難しい表現があちこちにあり、パソコンにいれてデータ化しなければならなないが、アメリカにいる妹がやりました。  とんでもなく大変な作業でした。  父の残した日記は稀な歴史の事実なので、世の中に知っていただきたいと思って、いろいろ考えながら進めていったら、20年ぐらい経ってしまいました。   父を尊敬はしていましたが、父がこれほどの人だとは思いませんでした。