2022年8月27日土曜日

白井佳夫(映画評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

 白井佳夫(映画評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

昭和7年神奈川県生まれ。  大学卒業後、キネマ旬報社に入社、36歳で編集長に抜擢されました。  視点や企画で高い評価を得ました。  その後もフリーの映画評論家としてテレビの映画解説や地域の映画祭への尽力など映画への深さを発信し続けていて、90歳の現在も週刊誌や月刊誌に映画評論を書き続けています。   終戦後白井さんの映画評論家としての人生はどのようにスタートしたのでしょうか、敬愛する小津安二郎監督のおよそ2時間の映画に込められた日本人の感性や死生観など日本映画の神髄について、また確かな映画評で知られる白井さんの映画は評論はどのようにして生まれるのか、などお話を伺いました。

昨年から今年5月ぐらいまで、誤嚥性肺炎をおこしてしまって一週間入院して、大腸検査をしたら大きなポリープが写っていて、取る事になって病院に行ってPCR検査をしたら陽性で、病院の入退院を繰り返しました。  その後いくつかは仕事をしています。

映画は産業革命以後に興った新しい芸術なんです。  監督を中心に多い時は100人以上集まって人間が集団でカメラ、録音機材、照明機材とか機械を使って作る文化で、産業革命以後の文化なんです。  黒沢さんはどうやってあんな面白いものが出来るんだろうと思って、よく観察したら判りました。   「7人の侍」はアメリカの西部劇と同じような迫力を持った日本の時代劇を作りたいと、黒沢さんの考えから出来たもので、「7人の侍」のあらゆるシーンは3台のカメラで撮っているんです。  最初はやぐらの上からアップなどのシーンを撮り、午後になると穴を掘って穴の下から見上げたシーンを撮って、黒沢映画は同じシーンを6本のフィルムがあり、編集室で選択している。    どこから撮られてもリアルな演技をしなければいけない。 

母親が娘時代に映画をよく見ていて、土曜日になるとよそ行きの服を着せられて新宿に行って買い物して、食事して映画を見るという事を月に1回ぐらいやっていました。   大学に入って映画を観ていてもこのシーンは幼いころ観ているという事が頻繁にありました。  どれも大人の映画でした。   戦争時代には、家は茅葺の屋根で火が点いたりすると小作人の人が来て火を消してくれました。   終戦の日はラジオを聞いても良く判らなかった。  おじさんが「日本は戦争に負けた。」ということを一言いって、その晩から電気の灯がともり、ラジオから歌が聞こえてきたりして、世の中大きく変わたっと思いました。 軍国少年でした。  厚木に住んでいて、マッカーサーが厚木に降りてきて、東京に進駐して小田急線で一緒に乗ったりして、兵隊さんからコーラを飲ましてもらいました。     学校で全校生徒が映画館に行ってアメリカのカラー映画を観に行きました。  綺麗さにびっくりしました。   高校に行くときに結核にかかって2年半休学しました。     病院には朝早くいってその後アメリカ映画を観ていました。 これで映画に目覚めました。   アメリカの楽しい生き方を知って、映画を観て映画評論家に成ろうと思いました。    その後イギリスとか外国映画が入ってきて観まくりました。  

映画の雑誌を読んでも物足りなかったが、『キネマ旬報』を読んだら面白かった。   日本映画と外国映画の両方扱っていました。   小津安二郎の「晩春」という映画を観に行きました。   日本的映画の作り方があることを知ってびっくりしました。   お茶会、京都のお寺巡りとか純日本的なことが出てくる。   ヒロインが付き合っている人と自転車で疾走するというような場面もあり、小津さんてしゃれたことをするなあと思いました。  外国の映画がそうであるように、日本には日本人独特の映画の作り方があることを、小津さんの映画によって教えられました。   

1958年にキネマ旬報社に入りました。  昭和48年編集長になりました。  読んで面白い雑誌にしなければいけないと思っていろいろなことをやりました。   出版社みたいに高い原稿料は払えないが、池波正太郎さんに原稿依頼したら、昔から映画が好きで映画は趣味だから、映画のことを書くなんて夢のようだからただで書く、と言っていました。   五木寛之さん、野坂昭如さんの対談についてもカメラマンと共に同行させてもらいました。生き生きとしたジャーナルを作りたかった。   

編集長を8年半つとめ解任となる。   突然首になってびっくりしました。  自分が作ってきた人脈があり、それが断ち切られてしまうのが何とも残念でした。   ロッキード事件での記録をもっと日本政府に公開すべきだと、ニューヨークタイムスに意見広告を文化人と共にやったのが首になるきっかけですね。   でもあのままやっていたら50歳ぐらいで過労死で死んでいたかもしれないです。   テレビ東京が日本映画専門の評論をやる事になり、条件を3つ出して、①今までの人はニコニコ笑いながら傑作ですと言うようにやっていたが、私は笑いません、②放映時間に合わせて短縮してますと言わせてほしい、③本当は大きいがブラウン管に合わせてトリミングしてあります、という事でした。  曲折がありましたが、全部やらせてもらいました。  どんどん視聴率が上がってきました。  テレビ東京視聴率ベスト3に入りました。   

評論は、ストーリーはほんの一部で、映画全体の感覚の流れを自分の感性を通じて、論理化して自分だけが書けることをやってきました。  批評を書くことを第一に考えて感性を磨き、それ以外は出来るだけ少なくした生活パターンでやって来ました。   小津安二郎の「東京物語」、ベストテンを選ぶと必ず上位に入って来る、小津さんの映画は芭蕉の俳句のような気がする、5 7 5という小津さんが持っている格調みたいなものの中に、あらゆることを日常的に閉じ込めてゆく、天地悠久なるものを閉じ込めることができる。   日本文化全体のシンボルのような作品になっているなあと思います。    日本人の死がどのようにして永遠化されるのか、見事に映画の中に捉えていると思います。   

90年のうち、60年を映画専門にやってきて自分としては精一杯やったと思います。  原動力となるものは好きな気持ちですね。