2021年10月7日木曜日

加藤秀俊(社会学者)          ・先立った妻との心の旅路

加藤秀俊(社会学者)          ・先立った妻との心の旅路 

メディア論など多くの分野で活躍されてきた社会学者の加藤さん(91歳)は、一昨年9月、65年連れ添った最愛の妻たかえさんを突然虚血性心不全で失いました。  あまりの突然の別れに加藤さんの喪失感は計り知れないほど大きかったと言います。  ようやく落ち着きを取り戻したころ、加藤さんは二人が歩んできた人生を共通体験を振り返って綴った「90歳のラブレター」という本にまとめました。   小学校時代の出会いから戦中戦後、核家族化の時代を経て老後の生活にたどり着いたお二人の人生の心の旅路は読む人の胸を打ちます。   老いとともにいつかは必ずやって来る愛する伴侶との別れ、その悲しみをどう乗り越えてゆくのか、話を伺いました。

妻がなくなってちょど2年になります。   まさか今日という日が来るとは思わなかった。

1年後の知り合いへの挨拶文(「90歳のラブレター」という本の中)

「65年にわたって苦楽を共にしてきた妻の加藤たかえを失いました。  昨年9月16日のことでした。  ・・・翌朝様子を見に行くとすでにこと切れていました。 享年89歳 虚血性心不全による突然死でした。 ・・・ようやく心身ともに一段落しましたのでここにお知らせ申し上げます。」  

半年ぐらいは私自身も本当に落ち込んでしまって、身体の調子も悪くなって、一週間ほど入院したり、体重も落ちたりしました。  記録しておくことは夫の務めかと思いました。 世の中に半分いる極々当たり前の女の人たちの生涯というものを書いた書物は私は読んだことがない。   普通の女が昭和と言いう時代をどう生きたか、それを書いておくのが私の義務だと思いました。  

小学校からの出会いでしたが、顔見知りだったという程度の認識しかないです。  20歳近くになって駅でばったり会って、声を掛けたらそうでした。  青山にある清南小学校でした。   家内は青山学院専門部学に進みましたが学徒動員で工作機械の会社に勤めて旋盤工をやっていたらしい。(13,4歳)    私は陸軍幼年学校に入って仙台で暮らしていました。  作曲家のいずみたく、作家のなだいなだは幼年学校の同期でした。   機銃、爆撃にも会いました。  家内は空襲で焼け野原となりむしろを敷いて暮らしていました。  つらい時代でした。

18歳の時に東京商科大学(現一橋大学)に通っていた時に、駅で見覚えのある女の子がいたので、声を掛けたらそうでした。  それを機会に付き合い始めました。 昭和27年の血のメーデー、彼女のほうは日教組のメンバーで、私は全学連のメンバーで1万人参加者がいたのに、ふと隣を見たら彼女がいました。  奇跡の様でそれが結婚への決定打になりました。   1953年京都大学に仕事が得られて、1954年(昭和29年)、ハーバード大学に留学することになり、8週間の予定が1年になり、彼女を呼び寄せて結婚しようと決心しました。  ハーバード大学助手か助教授だったヘンリー・キッシンジヤー(後の国務長官)に結婚のことを話して手配してくれました。  当時は色々制約があり、手続きもありおいそれとは渡航は出来ませんでした。   貨物船できて、飛行機でボストン空港にきました。  ようやく再会しました、その時の光景は鮮明に覚えています。 

経済的にはロックフェラー財団から奨学金が毎月300ドルが出て、二人でかろうじて暮らしてゆける額でした。  屋根裏部屋でした。  その後日本に帰ってきて、日本とアメリカとイギリスと6つぐらい大学を転々としました。  京都大学の助教授になったが、大学紛争でくたびれて辞めて完全無職状態になりました。  笑って済ませてくれたことは嬉しかった。  ハワイの東西文化センターに就職しました.。  永住しようと思うくらいでしたが、東京の学習院に戻りました。  放送大学教授、中部大学教授・理事・学監・中部高等学術研究所所長・顧問、国際交流基金日本語国際センター所長などをやって、気が付いたら60歳になっていました。   

引っ越しは数えきれないほどで、今住んでいるところは70歳の時に作ったものです。  それからの20年間が二人で一番落ち着いた時期で幸せでした。   植物の手入れが大変で植木屋さんにも手伝ってもらっています。   

60歳ぐらいから心臓の兆候があったんですが、80歳以降がひどかったですね。  毎年のように入院していました。   私がニトロゲンという薬を持っていて、発作が起きた時に飲ませていました。   私も65歳の時に胃がんになりました。  初期だったのでこうして生きています。  胃は2/3無くなっています。   

「・・・もう90歳になろうとしている。  握りあっている手や指もお互い随分やせ細ってしまったが、二人の間を静かに流れている微弱電流のようなものは、少しも変わっていないと僕は思った。  そしてあなたも同じ感覚を分かち合っていることが指先から確実に伝わってきていた。」  

一日の会話の半分は健康のことで、半分か1/4ぐらいが思い出話、1/4ぐらいがこれから何ができるだろう、という事でした。   家内は島が好きで沖縄、石垣、小笠原などにはいきました。  海外もシチリア、タスマニアなどに行きました。  最後の旅は奄美、沖縄で1週間ぐらいのクルーズでした。  亡くなる半年前でした。