2021年10月11日月曜日

髙柗邦孔(髙柗義伸選手の父)      ・【アスリート誕生物語】車いすバスケットボール 

 髙柗邦孔(髙柗義伸選手の父)    ・【アスリート誕生物語】車いすバスケットボール 

東京オリンピックの車椅子バスケット銀メダル。  アメリカには歯が立たないかと思っていたら、見ごたえのある試合でした。  最初の試合でベンチスタートでしたが、最後の30秒ぐらいを出させてもらって、私の眼からは頑張っていると思いました。   左足の膝が人工関節になったのが中学3年生の時、骨肉腫が再発して左足の切断を受けたのが5年前16歳の時でした。   あくまで障害前の義伸のまんまの対応でずーっとしてきているつもりです。   吃驚するぐらい精神的に落ち込むとかはなかったです。  後ろ向き的なことは一度もなかったです。  

小さいころは喘息気味でしたので水泳を始めて、幼稚園に行ってから体操、サッカー、ラグビーとやって、小学校に入って4年生の時から野球をやるようになりました。  非常に活発です。  走るのが早かったのですが、優しさからか遠慮があってサッカーのボールさばきは得意ではなかった。   私は土日は一緒に野球漬けでした。   プレーの反省の会話をしたりして密になりました。   なんにしてもまじめに取り組む子でした。  みんなで練習した後も家に帰ってきてから素振りしたりいろいろ練習していて、バスケットをやるようになってもその姿勢は同じでした。  勉強はあまりやらない子でした。  食事は何でも食べていました。   母親にはきつい言葉を投げかけることはあったりしましたが、私に対しては反抗期はなかったです。   

足が痛いと言っていたが、整骨院では成長痛だという事だったが、中学3年生の夏の大会の時に、足を引きずるほどで、成長痛でそこまでの痛さはないと思いました。  整形外科に行ったっら、ちょっと骨がおかしいという事でガンセンターか大学病院に行くように指示されて、そこから闘病生活がスタートでした。   大学病院に行きましたが、骨肉腫ということがなかなか判明しませんでした。  1か月検査入院していたが、がんセンターのほうに行ってくださいと言われて、がんセンターへ行ったら即骨肉腫だとわかりました。  抗がん剤と人工関節の手術をしましょうという事になりました。   頭髪が抜けてしまっても学校へは行きたいという子でした。    回りも応援してくれました。   抗がん剤を受けると体がだるくなって寝たきりに一時そういう状況になるんですが、卒業式と公立の高校試験のどっちを受けたいか、選択を迫られたが、卒業式を友達と一緒に迎えたいという事で、私立は受かっていたので、卒業式に出ることに本人が決めました。

再発して左足を切断して、医者からは抗癌剤の治療を勧められたが、もう抗癌剤の治療はしたくないという事で、抗癌剤をせずに今に至ります。   新聞を見ていたら、いろんなスポーツを体験できるフェスティバルがあり、車椅子バスケットを体験できるという事で、誘ってみました。   後日練習場に行ってみて、入ってくださいという事で、佐々木さんが競技用の車椅子を用意してくれて借りて行いました。   左足の膝から下を切断したのが高校2年生の時でしたが、何とかなるかというような、本人もあっけらかんでした。   こちらもできないことはサポートしてけばいいと、そう思っていました。   切断前にたまたまマジックを持っていて、親指の爪に顔を描いてお別れを言いましょうという事で「今までありがとう」と私がいったら、本人も喜んで「俺もやりたい」と言って顔を描いて写真を撮って「今までありがとう 俺の左足」と言って盛り上がっていました。  手術の時には「最後は俺の足で歩かしてくれ」と言って、自分の足で歩いて手術室に向かって行きました。  

手術の翌年2017年高校3年生で23歳以下の日本代表に選ばれました。   2018年には代表の合宿に召集され、2019年強化指定選手に選出され、今年日本代表選手としてパラリンピックに出場して銀メダルを獲得。  こんなビックな選手になるとは思わなかったです。 私はボクシングの部活で高校2年生で関東チャンピオン、高校3年生で全国3位でしたが、義伸が小学校6年生のころに「関東チャンピオンぐらいにはなってよ」、と言っていましたが、もう「代表」には勝てません。  

環境が良かったと思います。 栃木レイカーズにはロンドンパラリンピックに出た増渕選手が居て、車椅子の操作を教えていただき、大塚先生という監督は車椅子バスケットの元日本代表だった方で、バスケットの基礎を教えていただきました。   現状に甘んずることなく向上心を持ってやっているので、そこのところは尊敬できると思います。  家族のチームワークもいい方向に向かう一つの要因かと思います。