2021年10月22日金曜日

安井浩美(通信社通信員)        ・愛するアフガニスタンで20年

 安井浩美(通信社通信員)        ・愛するアフガニスタンで20年

タリバンによりアフガニスタンの首都カブールが制圧され、アメリカ軍の撤退期限が8月31日と迫る中、急遽派遣された自衛隊機で退避した唯一の日本人が安井浩美さんです。  安井さんは中学生の時に見たNHKのシルクロード番組に夢中になり、初めて憧れのシルクロードを旅したのが26歳の時でした。  それから4年後美しい民族衣装の遊牧民がいるというアフガニスタンに入国が叶いました。  戦禍のアフガニスタンを訪れ困難にあっても素朴でおおらかな人々と交流する中で、2001年タリバン政権が崩壊した後、アフガニスタン移住を決意します。   2001年から安井さんは現地で貧しい子供たちへの寺子屋を開設したり、手芸工房を開いたり女性たちの収入の場を作ったりしてきました。  今はアフガニスタン人の夫と離れ、一人で退避することになってしまい、タリバン政権が女性の就労をどう認めるのか、いつ帰国できるのか、見通しのたたない日々が続いています。  安井さんが暮らしてきたアフガニスタンの社会とそこで暮らす素朴で温かいアフガニスタンの人たちについて、イスラム社会での女性の立場、役割とはどんなものなのか、そして今国際社会はアフガニスタンとどう向き合って行けばよいのか、安井さんに伺いました。

8月27日自衛隊機によって退避した唯一日本人。  現在はパキスタンのイスラマバードで退避しています。  400km離れていて気候風土が全然違います。  カブールは高地で過ごしやすいんですが、イスラマバードは低地で湿気が多くて雨が多くて緑が一杯です。日本政府から退避するようにとの連絡があり、24日には飛行機が来ていました。  退避する人たちが集合場所に待っていた時に、爆発が起こってしまいました。  大使館チームはバスが15台ぐらいで、全体では200人ぐらいいたと思います。   自爆テロという事でその日は退避できなくなりました。  翌日空港に向かってタリバン兵の居る検問所で許可の手続きをしました。   

8月15日カブールが陥落した時には何の前触れもなかったです。  こんな早い段階でカブールが陥落するとはだれも思っていませんでした。   その日も普通に仕事をしていました。   事務所は町の真ん中にあり、普通タリバンが居ませんが、白い旗が立っていてタリバンが入って来たのを自分自身の目で見ました。   

何もかもわらないというのが事実で、タリバンが勝利宣言をしてからいろんな人から聞きますが、タリバンは根本的には以前と変わっていないのではないかという意見が多々聞かれます。   25年前のタリバンの考え、やり方とは現在は違うように見えますが、いずれそのようになるのではないかと思ったりしています。  女性たちのデモがカブール以外でも起こっていましたが、デモをする場合はタリバンに許可を取るようにという事で、最近はデモの話は聞かなくなりました。   この国では元々女性が一人で外を出歩くという事はありませんでした。  女性の衣装も自由度がありましたが、今後はどうなってゆくのかわかりません。  爆発などがなくなったのは良いですが、権利、自由が奪われつつあるのは現実なので、タリバンと国民の間でどううまく解決できるのかという事は今後のことです。  

中学生の時に見たNHKのシルクロードの番組に憧れてどうしても自分の目で見たいと思って、25歳の時に友人と1年間のシルククロードの旅に出ました。  アフガニスタンとイラクが戦争中でアフガニスタンには入れませんでした。   どうしたら入れるのかを考えて、ジャーナリストビザを取って入国しました。  2001年の9・11の同時多発テロ以降、通信員として働くようになって、アフガニスタンに腰を落ち着けて住んでみたいと思い移住を決意しました。  気に入っていましたが、もっとアフガニスタンを知りたいという思いはありました。   日本とは違う親切さが身に染みました。  すごくおおらかです。  食事、泊めてもらう事とかに一切気を使わないです。  大家族で子供は5~7人ぐらいで、中にはひ孫まで一緒に住んで200人ぐらいになる家族もいます。  家父長制です。  女性のほうが強い家族が多いですが、貧困家族では男性が強い場合が多いです。  民族、地方、個人によって差はありますが。   

避難民の家族の人から子供の教育をして貰いたいという話があり、避難民のキャンプの一角を利用して寺子屋みたいな学校を作りました。   最初70人ぐらいいましたが、別に建物に移らなければいけない事情が出来て、国連、国の難民省が政府の建物で廃墟で空いているところがあり、そこに移動しました。  そこでは200人以上が通っていました。 5歳から15,6歳ぐらいまでです。  子供にとっての普段できない想い出作りをしたかった。  5年間やりました。  2007年には子供たちも学校に行けるようになって、キャンプも閉鎖する時期になって、私も引退しました。   

寺子屋の流れで、働けない母親に対して刺繡をしてもらう仕事が見つかって、出来る人を集めて仕事をしてもらいました。  続けたくて2010年会社を立ち上げて本格的に始め11年目になりました。   女性が働くという事は男性に甲斐性がないからという風な見方をされてしまう、女性が働いているという事を小耳にはさむと怒るわけです。  この20年の間どんどん変わってきて、女性が働くことによって家計が2倍になるわけで、豊かになるわけです。  それで男性も協力的になってきましたが、かたくなな人も一方でいます。  

この先どうなるかわからず、工房は今閉まっている状態です。   1000年以上も壊されなかった仏像が、たった20年間支配してきたタリバンに壊されてしまって、或る芸術家は私たちを認めるとは思えないと言っていて、その時にはこの国を出るしかないと言っていました。 アフガニスタンの人たちへは状況を見つめて神にゆだねるしかないと思っています。 国際社会の的確な判断がアフガニスタンの国がどう行くのかというのを大きく左右すると思うので、そこのところを国際社会にどういうサポートが出来るのか、立て直し出来るように知恵を絞っていただきたいと思います。