2019年3月26日火曜日

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(1)

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(1)
1935年東京生まれ、東京大学物性研究所や大手電機メーカーの研究所を経て、玉川大学、県立宮城大学教授、鈴鹿短期大学の学長を務めました。
1970年代にナサ、アメリカ航空宇宙局が打ち上げた宇宙探査機ボイジャーにバッハの音楽を乗せることを提案したことでも知られています。
今佐治さんは美瑛町の天文台長を務めながら、講演活動や小中学校でリベラル・アーツの教育に取り組んでいます。
80歳の時に前立腺がんを患い病気を抱えながら、人生を生き生きと精力的に活動する佐治さんに伺いました。

現在84歳、あっという間の84年でしたが、太平洋戦争を初め、今話しておかなければ永遠にうずもれてしまう話もありますので、貴重な体験事実などを含めて書き遺したいと思って忙しくしています。
美瑛町美宙天文台は2016年にオープンしました。
40cmの反射望遠鏡と太陽表面観測専用の望遠鏡を備えています。
天文台の設置の提案をしました。
現代は〇○ファーストの時代で戦争にも繋がる危険な考え方で、私たちは相互依存の関係の存在だという意識の欠如から来ていると言うふうに感じる訳です。
我々の宇宙は138億年の昔にたった一つの光からできたと言う科学的事実から明白なことで、根源が同じならばお互いに相互依存していると言うことです。
宇宙と人間とのかかわりを科学的な立場から伝えるには、宇宙を見上げることが一番で、そこで天文台ということになったわけです。
講演会、学術講義などもあり、海外の方からも含めて来訪者が多く来ます。
60%位が町外から来ます。

世の中は見えないものが多い。
昼間も星は見えないが、万一星が見えれば見えなくてもあると言う事が感じていただければいいと言う事で、昼間の星を見せることにしました。
「星とたんぽぽ」 金子みすゞ
「青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。」

世界は見えないものだらけなんですね。
現在の宇宙論から言うと、見えるものは5%位だと言うことです。
後の95%は暗黒物質とか暗黒エネルギーというようなものになっています。
見えなくてもあると言う事で、昼間の星を見せることにしました。
昼間の星を観るとまるでダイアモンドの炎がはじけているように見えるんです、物凄く美しいです。
それは一等星から二等星位です。
まど・みちおさんに真昼の星を見せたことがありますが、観測室の中に数時間いらっしゃったと思います。
最期に一言「あー、これが光そのものですね」とおっしゃいました。

景色を見る時には景色の中の一点は見ない、望遠鏡で星を見る時には、星と一対一で向き合っていると言うことになるわけです。
星を見ているのは私ですが、星から逆に見られている、という感覚です。
正岡子規が詠っています。
「真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり」
今見ている光は過去の光です。
オリオン座は数百年前のもので、過去から現在までの時間の厚みを一瞬に凝縮して見ているということです。
時間空間が自分と一体になる。
戦後間もなく、中学生の頃の事ですが、戦前戦後にアマチュアの彗星探索家として世界中に知られていた本田実という方がいました。(生涯に彗星12個、新星11個を発見した)
本田実さんに憧れて岡山県の倉敷の天文台まで尋ねて行ったことがあります。
「どうして本田先生は星を観るのが好きなんですか」ときいたら、「お金のある人にもない人にもどんな人にも訳隔てなく、星は姿を見せるからね」とおっしゃいました。
本田さんはその後岡山県の長島に、愛生園というハンセン病を隔離してしまうところですが、このハンセン病棟に天文台を作っています。
もう二度と家にも帰れない、肉親にも逢えないと言う、ハンセン病の方々に星を見せたいと言う事だった。

10年前ぐらいに、金子みすゞに関する講演会が旭川でありました。
主催者の方に美瑛町に連れて行ってもらいましたが、その方から電話があり、土地を紹介して貰い、見に行きました。
そこで吹く風の音に魅入られて来てしまいました。
私が6歳で太平洋戦争でした。
兄とは年齢差があり一人っ子のような感じでした。
国語の教科書を読んで、月光の曲に関する作り話に共感して、音楽に憧れました。
昭和16年には太平洋戦争がはじまり、ピアノを弾くような状況ではありませんでした。
昭和17年4月18日に前触れもなくアメリカの爆撃機が飛んできましたが、初空襲でした。
学級担任の先生が宮沢賢治の童話を読んでくれる仙台出身の先生で、日本には2台しかないプラネタリウムを見ておいた方がいいと言う事で、有楽町に連れて行ってもらいました。
プラネタリウムを見て虜になりました。
父からはパイプオルガンを聞くように言われて、一緒に行きました。
軍服姿でゲートルを巻き、「軍艦マーチ」、「海ゆかば」、「空の新兵」などでした。
軍歌に混じって天の奥から舞い降りて来るような不思議な音楽が聞こえて、兄が「これがバッハだよ。」と言ってくれました。
パイプオルガンとバッハに目覚めた一瞬でした。

東京の初めての空襲を伝えておきたいと思いました。
空襲警報もならず、戦争の悲惨さ、非合法化、子供達の体験、非戦闘員がどのようにして戦争に巻き込まれていくのかという実体験です。
機銃掃射も受けました。
庭先に防空壕を作って段々食料も少なくなり、東村山、所沢などに買い出しに行って、金では売ってくれないので、着物帯締めなどを持って行って物々交換でした。
兵器を作るためにお寺の鐘も無くなりましたし、金属はすべて国が召し上げました。
空襲が激しくなって疎開をすることになります。
「夕焼け小焼け」の替え歌をうたっていました。
「夕焼け小焼けで日が暮れない。 山のお寺の鐘鳴らない。お手手つないで帰れない。」
なんて歌っていました。
街は焼けているのでしょっちゅう夕焼けなんです。 
山のお寺の鐘は兵器をつくるために召し上げられて鳴らない。
だからお手手つないで帰れない。

灯火管制、電燈に黒い布を掛けたんですが、爆撃機からはレーダーで見て居た訳ですが。
私はヴェートーベンの月光のレコードを布団をかぶって聞いていました。
鉄の針が無くなって、竹の針を使って聞くようにしました。
竹槍にするため竹の針も作れなくなりました。
最期ははがきの角を利用して聞いたこともありました。
特定の視点からだけから眺めるのではなくて、他との関連において総括的に理解してゆく能力が問われると思うので、専門馬鹿にならない。
リベラルアーツ教育がとても大事なことだと、心の中に再び燃えて来ました。
昭和、平成と科学が物凄く発展して、人間がやるべきことと人工知能がやるべき事の振り分け、役割分担が非常に曖昧になってきて、非常に危ないと言うような陰りが出てきたように感じます。
宮沢賢治の最期の仕事、自分の信念を打ち出した「農民芸術概論綱要」の中で「銀河文明の一員として生きましょう」と言っています。
宇宙とのかかわりの中で、我々のありよう、生き方とか、そういうものを頭に置きながら第一歩を踏み出せる時代になって欲しいと思っています。