2026年1月28日水曜日

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

 金澤さんはシクラメンの花を八重咲にしたとして知られていますが、拝見すると八重どころか、ぼんぼりのように咲くものが有ったり、しだれて咲くものが有ったり、花形、花色も様々で、シクラメンだけではなくほかの花や果物も品種改良して、多彩な品種を作っているようです。

50年、自分が興味を持ったものについて、 育種したりコレクターして沢山あります。  昔はシクラメンも色も赤くてそんなにはなかったですが、大内さんが海外のパステル系の品種を昭和50年代に導入して、そこから分けてもらって淡い色を選抜育種しました。 シクラメンは自分の花粉で自分の実をつけて花が終わってしまうことがおおくて、花持ち期間を長く持つようにしました。 シクラメンでは八重がないのでトライしてみようと思いました。  花びらがなりつつあることを見逃してしまう。  固執して観察すると、ちょっと違うなと言うのが出てきたりします。  その種を取り、種を蒔き、時間をかけて花びら化して行きました。 

私の先生の岩手の橋本先生が、私と同じことをしていて、完全体がありました。 私の方はまだ未完全体でした。  先生が病気になってそれを譲り受けて、先生のものと私のものを交配して原型が出来ました。 そしてシモニシオカ?と言う名前で世の中に出せるようになりました。(20年掛かる。)  2年に一回しか交配が出来なくて結果が出ない。  八重になるための遺伝子の部分の重複遺伝子があって、ホモ、ヘペロとかありヘペロではいろんなものが出てくるし、ホモならば固まる。 千葉大、メーカーの研究開発に携わっている方との交流からいろいろ勉強しました。  しだれ形のシクラメンも開発しました。  

ラズベリーも商品化できないという事がありました。 いまだに日本の風土に合わないと叫ばれています。  土壌環境ですね。  日本には沢山の土壌微生物がいて、線虫もいてそれがラズベリーへわるさをするようです。  国内に2トン輸入されて、うちでは1トンはんぐらい取っています。  品種改良しないと、と言う大手の輸入メーカーさんがなんとか国産ラズベリーの品種を作ってくれないかと言われて、花以外も面白そうだと思っていました。 試行錯誤をしてやっと増殖率が良くて、成長も良くて、二期なり(6月、10月に成る)を選抜して作り上げて、登録にこぎつけました。  今の土壌環境で生き残ったものだけを交配しました。  

子供のころから花を見る機会があって花が好きでした。 農業高校に行った時に、花を徹底的に作ろうという出会いがありました。  花農家さんの所に実習に行きました。 花をオークションにかけてその日のうちに換金してくるわけです。 そこで花を作っても生活が成り立つかなと思いました。  温室部を作って、 アルバイトをして園芸書を買って読みました。  種も購入して花を咲かせて、オートバイで花を売っていました。  ひょんなことから自分でも種を取って撒く様になりました。  高く売れるような選抜をして、専門にやっている人に聞きに行ったりしました。  オリジナルのものが昭和50年ごろに出来ました。 50年代の後半には市場でも有名になって来ました。  

昭和56年に結婚して、妻に手伝ってもらっているうちに、彼女の知り合いからも手伝ってもらうようになっていきました。  今の主流のメンバーが彼女たちです。  ピンク系を作って今はそれが主流になっています。 1963年に薦められて全国の品評会に出して、大臣賞を初めてもらいました。 その後もいろいろな賞を貰いました。  品評会のポイントがあって、葉が小さく沢山あって、花が丸弁でぴしっと上を向いて咲いている、という一つのベースがあります。  しだれ咲は全く正反対のものなので、支持されません。  賞を取ることが目的ではなくなりました。 いかにして消費者さんの思いに沿えるのか、という事を大事にしています。  時代の流れは大事だと思います。一番大事なのは消費者にがっかりされない事だと思います。  

次の世代に渡していかなければならないという、義務的な部分も持っています。 私の弟子たちが弟子を作るようになってきて非常に嬉しいです。  ここまでくるうちにはいろんな人に助けてもらってきました。  消費者が居ないかぎりは支持されないので、理解者を増やす事ですね。  自分に中の経験を伝えていきながら、花の業界の礎にしてもらえればと思います。地域の為、若い人のための活動をしています。  自分のまわりの環境を良くしていかない限り、自分が住んでいる環境、生活は良くならない。(人間環境を含め)  育種の部分を掘り進めていくのと、「金澤的なビオラ」を見たいと言われていますが、どう言うビオラか私にもわかりません。 











2026年1月27日火曜日

諌山こころ、福井春香            ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

諌山こころ、福井春香           ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く         姉と私~心にしまっていたこと 諌山こころ (14)伝えられなかった言葉と、伝わった思い

今回は全国から463点の応募がありました。 第60回を記念して4つの特別賞が設けられましたが、今日はそのうち文部科学大臣賞を受賞した諌山こころさん、ハートネット賞を受賞した福井春香さんへのインタビューです。 諌山こころさんは中学2年生、障害のある姉との日々を姉と私~心にしまっていたこと」と題して綴りました。  又大学4年生の福井春香さんは吃音がある中で挑んだ就職活動について「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」と題してまとめました。 

諌山こころさん

今中学2年生です。 理科が好きで、国語は苦手です。 NHK障害者福祉賞では障害者本人か、障害者が身近にいる人、という事でこれは私だと思いました。 姉(19歳)が知的障害とテンカンがあります。  身近な人(両親、クラスの友達)には見せたくはなかった。  祖父母には見てもらいました。 

「私には小さい頃の記憶があんまりありません。 もしかしたら私は小さいころからいろいろなことを無意識に我慢して、心の中に仕舞って来たのかもしれません。」          特別な旅行とかは覚えているんですが、日常のことは覚えていないです。   

「姉には日常の中で手のかかることが多く、自然とみんなの意識が姉に向くようになっていました。 私は姉の着替えを手伝ったり、食べるのを見張って居たり、面倒を見るのが当たり前になって行きました。 いつの間にか私のことはちゃんとしているから大丈夫と思われている気がして、親があまり構ってくれなくなりました。」

こころってしっかりしているよねと言われたのが、小学校の中学年から言われ、しっかりしているんだという事に嬉しいという思いはあるが、かまってくれないから寂しくなりました。  期待に答えなければいけないなあとの思いはありました。  姉への思いが揺れ動く中で、心の内を吐き出すことは余りありませんでした。 (親、友人)  祖父母とは年に数回しか会わないので、今回の作品は読みたいという事で、本を渡して家に帰りました。 祖父からラインで、両親は姉の面倒を見ないといけない責任を持った行動だから、そこまで悲しまないでいいと言ったことを長文で伝えてきました。  「責任」と言う言葉に対して新しい発見でした。「義務」」と言う風に思っていました。  寂しいという感情はなくなりました。  

「私はお姉ちゃんと一緒にいることで、他の人とは違う経験を沢山してきました。  これからも姉のことで悩んだり迷ったり泣いたりすると思います。  でもそれと同じぐらい姉からもらう温かさや、笑顔や、気付きもあるんだと思います。」

姉がいて悪いイメージだったけど、最近学校でも医療系の方に行っていて、姉がいたからこそ医療メディカルコースを選んだと思います。 

「完璧じゃなくていい、わからないままでもいい、でも知ろうとする気持ち、寄り添おうとする気持ちをこれからも大切にしていきたい。」

書いただけだと自分は変わらないと思って、最後に自分はこうしていきたいという事を書こうと思った時に最後の言葉を見つけました。 皆にも知ってもらいたいみたいな感じも入っています。

「友達に姉のことを話すのもまだ勇気が要ります。  でもいつか話せる日が来るかもしれない。」

まだ話せない。  親には社会人として家を出てゆくときに渡したいと思っています。    医者を目指していますが、 心のなかも診ていきたいと思います。          

ハートネット賞を受賞した福井春香さん

ハートネット賞は誰もが自分らしく生きられる社会の実現を願い、取材を続けている製作現場から共生社会の実現のヒントがあり、未来を感じさせる作品に贈られるものです。

誰にも伝えずに応募したのですが、家族、それ以外の方々にも読まれてしまうという事に少し不安がありました。  しんどい就職活動でしたが、面接官の人々に救われて、最終的には楽しく就職活動を終えることができ、気持ちの変化などを記録として残しておこうと思った時に、障害福祉賞と言うものを見つけて応募しました。 母親だけには見せています。

吃音を誰かに打ち明けたことはほとんどありません。  難発といって、喉が詰まってしまったような感じで言葉がでなくなってしまう症状が一番多いです。  3歳ごろに母おやがそうおもったようです。  しゃべれない障害だけれども、しゃべれる時もある。 「おはようございます。」と言う一言も言えない場合が沢山ありました。  電話も苦手で、普通に出来ないという事がしんどいと思います。  なかなか分かってもらいにくい。 

就職活動の面接でどうしても言葉がでなくて、面接官に自分の思いを伝えられないことが沢山ありました。  結果として不合格が沢山ありました。 インターネットで吃音があることを面接官に伝えてみたら、面接官の方が寄り添ってくれたと言う記事を見て、自分も伝えたらしゃべり易くなると思いました。  就職活動は大学3年生の12月ぐらいから去年の5月ぐらいです。  伝えることで自分の気持の持ちようが変り楽になりました。  

「多くの企業の方が、想像していた以上に吃音を前向きに受け止めて耳を傾けてくれました。 就職活動で一番印象に残っている言葉があります。」

或る最終面接の採用担当の方の「勉強しました。」と言う言葉でした。 事前に吃音のことを勉強したという事でした。 凄く嬉しかったです。  そこに入社出来ました。 建設業界の事務所です。 

タイトルは「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」です。 今回作文を書いて、吃音があったからできた経験とか、出会えた人とかも沢山いるなって思えました。 吃音も悪い事だけではないと言えるかなと思います。  

「吃音の理解が少しでも広がり、すベての人にとって生きやすい社会になることを心から願っています。」

今は社会人になる事の不安しかないですが、沢山のことに挑戦して、成長していきたいと思います。



2026年1月26日月曜日

2026年1月25日日曜日

大川義秋(箏奏者)             ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

 大川義秋(箏奏者)         ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

大川義秋さんは双葉町出身の30歳。  東日本大震災の時は中学3年生でした。  県外での避難生活で大川さんは琴に出会い惹かれ、プロの道を目指し、現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。 震災をテーマにしたオリジナルの曲や国内外の演奏会で、東日本大震災の経験を語り、命の大切さを語る大川さんにお話を伺いました。

東日本大震災から15年、そのなかでは沢山の出会いがあり、避難をした時のことを思い出すこともあれば、そこでの助けてくれた出会い、感謝を思い出すこともあり、琴を始めた瞬間の記憶もあります。  2011年3月11日午後2時46分、卒業式の日でした。 12時に終わって家に帰って進学のことなど話していた時に、被災しました。  長く揺れて怖かったです。  地面が割れてゆく音、家の家具が全部倒れて、食器など中身が自分の方に降りかかって来たり、窓が割れる音など今でも覚えています。  原発事故については、正直何があったのか判らなかったです。  卒業した中学校に避難しましたが、5000人近くの人が避難していたので、校舎の中は埋まってしまっていて、グラウンドに車を止めて過ごしていました。

翌朝、防具服を着た人が入って来て、1,2分後には警報が鳴って(放射能の情報がないまま)「遠くに避難してください。」と言われて車で避難しました。  埼玉に家族と避難して、そこで琴との出会いがありました。  避難者は汚いという風に思われるのが怖くて、部員ゼロのクラブを捜しました。  琴などの邦楽部が部員ゼロでした。 琴をやりたいとも思っていませんでした。  ピアノ、ドラムはやっていて、明るい楽器はやっていましたが、繊細な音色は触れたこともありませんでした。  悲しげな音色の琴にどんどんはまっていきました。   音色で会話出来ていて、支え合いながら寂しさを共有していた、そんな琴に出会ったのが人生のなかの財産だと思います。(僕が入らなければ琴は捨てられる運命にあった。)

*「レモンアカシヤ」 作曲、演奏:大川義秋  双葉町を想って作った曲

ベーシックな13弦だけではなくて、25弦、17弦、がありますが、僕は27弦と言うオリジナルを作ってもらいました。  人前に出てやることが苦手でしたが、中学に入って吹奏楽にはいって一つうえの先輩が凄く明るい人で、音楽を通していろいろ楽しく過ごすことが出来ました。 その先輩が津波で亡くなってしまいました。  音楽の楽しさを教えてくれたその人のことを思って作りました。 今では自然が豊かだった双葉町は大切な作曲をする時に大切な要素が詰まった街だと思っています。 

東京都内のデザイン系の大学に進んで、教えてもらう伝手が無く、一人で琴を続けました。  琴は自分自身で思っていることを表せる大切なものになってゆくのではないかと思いました。  現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。  昨年は16ヶ国で琴の演奏をしました。   震災に関するやり取り、命の大切さについても話してきました。    

*「ソラシドレ」  作曲、演奏:大川義秋  広島、長崎原爆を忘れないために。          2020年の8月頃に作りました。  災害を語り継いでゆく大切さに気が付きました。(コロナ禍)  どんなコンサートでも命を大切にするという思いで、セットリストを組んでいて、辛い事を乗り越えた事、震災のことを触れながら、構成して演奏しています。  家族が支えてくれたというメッセージは必ず話すようにしています。  この15年の間の思い出が沢山増えたなと思っています。  2年前に双葉町で演奏した後に、50人ぐらいで街歩きをしました。  街は新しい住宅が出来たりさら地になって居たり、景色は変わっていますが、 お祭りが再開したり前に進んでいるなと感じます。 

*「虹」  作曲、演奏:大川義秋  どこかで繋がっているなと言う思いをテーマに作りました。





















2026年1月24日土曜日

渡辺謙(俳優)           ・〔私の人生手帖〕

渡辺謙(俳優)                             ・〔私の人生手帖〕

 渡辺謙さんは1959年生まれ、新潟県出身。 デビュー以来大河ドラマ「独眼竜正宗」の主演など国内外で活躍を続け、去年は大河ドラマ「べらぼう」の田沼意次役、社会現象となりました映画「国宝」では主人公の第二の父ともいえる重要な役柄を演じ注目を集めました。 一方ハリウッド映画「ラストサムライ」ではアカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、世界的に知名度の高い俳優として知られます。  今年もこの1月からは、BSのプレミアムドラマ「京都人の密かな愉しみ」、2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じるなど、話題作への出演が相次ぎます。  渡辺さんが俳優としての人生や、多彩な役柄を演じきるうえで大切にしている事、一方で命を向き合った日々の困惑や乗り越えたキーポイントなど俳優人生を丁寧に話してくださっています。

寝が浅くなっているせいか、リアルな夢を沢山見ます。 起きて落語を聞きます。  仕事が無い時には9時には寝ます。  「京都人の密かな愉しみ」シリーズとしては3シリーズ目になります。 僕は今回からの参加です。  今回は継承と言う事をテーマにしていて、300~500年続く老舗があります。  継承してきた人は一体何を背負い何を捨ててきたのか、どう生きて来て伝統を受け継いできたのか、店独特の伝承の仕方に対する時間の流れみたいなものが、日本の中でも独特の時間の流れがあるんじゃないかなと言う気がします。 

映画「国宝」では精神世界では近しいものはありました。  凄く挫折したこともあるし、大病した時もあるので、自分が描いた通りにはなない、でもその中で水かきは水面下であがき続けてきたみたいなことは今までもありましたから、舞台上のすばらしさはあるんですが、彼らがどうやって生きてどうやってその芸に向き合って来たかという事が一番のテーマだったので、自分が今迄いろんな役をやらしてもらったので、時間軸が上手くはまっていけてたらよかったと思っています.

テレビとか、映画の仕事をやってはいましたが、自分のなかで確信的な、こういう風にお芝居に向き合ったら自分の俳優としての立脚点が出来るんだというのがなかなか見出せませんでした。  タンポポ』、『海と毒薬』などにやらしていただいたんですが、舞台でやった「ピサロ」で、自分で立っている実感がつかめないんだったら、辞めてもいいかなと思うぐらい、自分の中で揺らいでいました。 そこで覚悟がようやく固まって、その舞台をやったので、俳優として役と向き合うという事はこういう事なのかと言うのを非常に強く体感したのはそこからですかね。  

僕たちは何のために演じるという事を選んでいるのかという事を、なかなかわからない。  本質的に人間として、何をもとめて演劇、俳優になろうとしたのか、という事で言うと自由になりたいんですよね。  世の中のしがらみ、社会のしがらみ、年齢のしがらみ、いろんなしがらみから自由になるために、その役を借りてその舞台の世界観の中で、日常ではできないことを舞台上ではできるわけです。  自分の心とか精神を自由にするためにこういう仕事を選んでいるんだという事を眼の前で体験してくれたんです。 稽古の時に如何に自由になるか、如何に自由な発想でそのシーンを積み上げていくかという事を、稽古でやってくれたんです。  僕の演劇観にも凄く影響を与えてくれました。  表現の自由を僕らに伝えてくれました。 

劇団の養成所に入った時に、志が無いような状態でお芝居をはじめたところがありました。   音楽をやりたかったが、才能はないし、大学に入って4年間過ごしても何か得るものがあるのか、と言った中から劇団の養成所に入りました。  周りには志の高い青年がたくさんいました。  取り残されると思って必死でついていきました。  与えられた役を必死でこなしていきました。  大河ドラマが終わって2年目に病気をしてしまいました。 その時に後ろを振りかえる余裕が出来ました。(今考えるとよかったと思う。)   復帰した時に、僕の後ろには沢山の人がいたんだなという事を感じさせられました。  

「天と地と」でカナダに乗り込んだんですが、そこで白血病が見つかり、1年近く療養して復帰しました。  まずは強い体に生んでくれた母親には感謝しました。(通常強い抗癌剤の使用で内臓がダメージを受けるがそれが無かった。)  生きるためにはどうしたらいいのかなあと言う事があって、先生の処方、対応に対して、上手く患者役をこなしたというような所はありました。 友人が「百連発」というお笑いのギャグのDVDを3,4本送ってくれて、病室で見て、笑っていて助かりました。 キラー細胞が笑い事で活性化されるという事を今では普通に言われているが、30年前にはそういったことは具体的には出ていなかった。  矢張り笑う事は大事です。

乗り越えたつもりが5年目で再発しました。 その時の方がショックでした。  2回目のときには、俳優として戻らないと生きている意味がないかも知れない、と思うぐらい強い意志を持って治療し始めました。  復帰後もなかなか大きな仕事は回って来ませんでした。   40歳になって脇役を2年ほどしてから、「ラストサムライ」の話が来ました。 全部英語だし、ミュージカルをやったことがないのによくやったという感じでした。  知らないからできたんだと思います。 そこでの経験は一回ガラガラと崩しておかないと、次の世界にはいかない様な気して、40~50代はやったことは過去のことという思いでした。

激しく波打つものよりも、穏やかに染み入って行くようなドラマの方が僕は今好きです。    好奇心はその時々で変わって行っていいものですね。  自分が表現したことが、こういう風に届いて欲しいとあまり思った事は無いです。  作品を選ぶときには僕が面白がれる事、興味がある事に針が振れないと、凄く仕事っぽくなってしまう。  自由になりたいと思い続けているのかもしれません。  スケジュールを聞いたり現場に行くことは仕事だと思っています。  メイクして衣装を着て、ある役を背負って現場に入ると、そこからは一切仕事だとは思わない。  身体、心を通してきっと何かを吐き出しているんです。

最終的には自分の身体と声しか使わないので、稽古とかいろいろな時間の中、ストーリーと頭に中でグルグル回っている時があり、それはある意味大事な時間です。  身体を貸している感じです。(終わったら自分に戻してほしい。)  セリフは、目から耳から入れないと反芻できない。  相手のセリフも全部手書きます。  震災以降宮城県でカフェをやっていますが、一日5分でもいいから、あなた方のことは忘れません、という思いでA4の紙に筆ペンで、その日の思いを書いてファックスで送っていました。(13年間やっていました。)    継承のことを考えています。  折々で大きな作品に出会っているので、相当恵まれているとは思います。   2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じます。












2026年1月23日金曜日

馬田草織(文筆家・ポルトガル料理研究家)  ・“ご機嫌”な日々を重ねて人生を楽しむ

馬田草織(文筆家・ポルトガル料理研究家)  ・“ご機嫌”な日々を重ねて人生を楽しむ

馬田さんは1970年生まれ、東京都出身。 大学を卒業後出版社で10年ほど勤務し、35歳の時に独立しました。  その後はポルトガル料理への取材を深め、食や料理を中心に様々な記事や書籍を制作しています。  馬田さんの人生で大きな転機になったのは、38歳の時に長女を出産したことだと言います。  ご自身のキャリアや孤独な子育て、娘の思春期など様々な悩みと向き合う日々で、大切にしてきたのは母と娘で囲む夕飯のひと時でした。   些細なことを面白がって自分を楽しませる、そんな視点を大切に毎日を過ごす馬田さんに伺いました。

雑誌の記事や自分の書籍を書くことをメインにやって来ました。  ポルトガル料理研究家と名乗って教室を自宅で開催したり、いろいろなところに行って開催することも10年以上やっています。  SNSで興味を持った方が来たり、いろいろです。 20代から70代後半まで幅広いです。  今、娘は高校2年生(16歳)ですが、保育園に通わせていましたが、そこでの知り合いから料理教室をやったらどうかと薦められて始めました。 

大学の卒業旅行で、イタリア、スペイン、ポルトガルに行きました。 ポルトガルではパン、チーズ、ワインなど素朴で安く美味しくて、暮らしやすそうだと思いました。 主な食材は干しタラで身が大きい。  ポルトガルでは日常の食にしていて、沢山のレシピがあります。  魚の塩焼き、いわしの塩焼きなどもよく食べています。 赤ワインで楽しんでいます。 和食と似ているところがあります。 

小さいころは引っ越しが多かったので、社交的にならざるを得なかったという感じです。   食べることは昔からすきでした。(父も同様)  料理する事にも興味を持って自分でもやったりしました。   中学では家族のご飯を時々作っていました。  ポルトガル料理との出会いは22歳ぐらいでした。  35歳の時に本格枝的に取材をして、有名なマリア・デ・ルルデス・モデストさんの料理の本に出合いました。  20年間に渡ってポルトガル全土を回って郷土料理をピックアップした中から絞られた800~1000ぐらいのレシピです。  10日間取材旅行をして、私の口に合いました。  その後1か月間ぐらい取材旅行に行きまました。  そのころパートナーもめちゃくちゃ忙しくて、いつも夜中に帰って来る状態でした。

悩み事をポルトガルの取材した人に打ち明けると、子供を持ちたいのであれば持った方がいいと言われました。  子供を持つとまた人生に違った視点を持てるから豊かになると言われました。  夫と話し合いを重ねて38歳の時に長女を出産しました。  考え方の何もかも変わりました。  子育てをしながら仕事をする大変さも知りました。  仕事だけだった自分の時間が半年間ぐらいは仕事の時間はほぼゼロになってしまいました。  1年間は保育園にも入れられませんでした。  寝ないタイプだったので、泣いてしまって、睡眠時間がなかなか取れませんでした。  

小児科医・松田道雄さんの平凡「育児の百科」と言う本があり、具体的なアドバイスもありますが、心のアドバイスも沢山あり、それに支えられました。   最後にダンテの言葉を引用して、「汝は汝の道を進め。 そして人々をして語るに任せよ。」 と書いてあり、この言葉がずっとわたしを支えてくれました。( 他人というものは無責任にあれこれと口を出すものなのであり、それを参考にするのは良いのだが、あまり気にしすぎると正しい選択や判断ができなくなるということである。) 何をしてあげるという事ではなく、楽しく一緒にいることが大事なんだという風に、考え方が定まって、自分が楽しくいることで子供も楽しくなるという事を大事にしていこうと思いました。 娘が10か月の時に、別れて一人で育てて行った方が、私が楽しく生きることを大前提にしたら別れた方がいいと決断しました。 

2024年娘が中学3年生の時に「塾前じゃないごはん」を出版。  塾へ行く前にご飯を食べさせるという生活ルーティーンが生まれます。  塾前ではないご飯、ゆっくり食べられる。  娘とのエピソードも盛り込みました。   親が出来事は見守るしか出来ない。 見守るという時には余計なことは言わない。  














 

2026年1月22日木曜日

土屋礼央(音楽家・ラジオパーソナリティー) ・肩のチカラが抜けたとき…

土屋礼央(音楽家・ラジオパーソナリティー) ・肩のチカラが抜けたとき…

 土屋礼央さんはミュージシャンであるかたわら、鉄道、野球、サッカー、F1など様々な趣味を持ったマルチタレントとしてテレビで活躍しています。 「肩のチカラが抜けたとき」と題して、順風満帆の芸能生活で突然であった転機と、そこにどう向き合ったかという体験をお話しいただきました。 

1976年東京都国分寺市生まれ。  中学2年の時にミュージシャンになりたいと親に宣言していました。  子供のころに合唱を経験しました。 幼稚園の時に「コダーイ・メソッド」という最初の音だしぐらいはピアノを使うが、ピアノを使わないで、周りの声や自分の声で気持ちいい音を探ってゆく、耳の力を育てたいという教育を受けました。  自分のメロディーに変えたりして、オリジナルソングは楽しいと思っていました。  高校では自分に合った音楽のクラブはなかったので、卓球部に入りました。  進学校でしたがミュージシャンになりたいと言って、家で曲を作っていました。  

早稲田大学のバンドサークルが早稲田大学にオープンカレッジがあって、高校卒業後もぐりこんでいました。 夜な夜な曲を作っていくという事が数年続きました。  一緒にやろうという女の子たちがいて、合宿でそこではじめて人前でオリジナルを歌いました。  こんな演奏では人に届かないと人に擦り付けてと言ったことを繰り返していました。  4年目に良かったと言われれのが、「ラブラブなカップリフリでチュー」でした。  その後「ズボンドズボン」の一員になりました。 「RAG FAIR」に卓球部の後輩が入って、彼から声がかかって参加しました。  RAG FAIR」が北上のイベントで、お金を貰うイベントで、ミュージシャンを目指している身として、重要な経験だと思って参加しました。 アカペラがダサいと思うようになったことを箇条書き出してみました。 それを解消するようなやり方をすれば、元に戻れるのではないかと思いました。  お客さんに向けてのエンタメアカペラをやろうと提案して、やり始めました。  

2002年に第53回紅白歌合戦に、RAG FAIR」で出場しました。(デビューして1年)   自分で作ったものが、 「ラブラブなカップリフリでチュー」で行きたいと言っているレコードメーカーの社長がいるという事は、自分で作ったものが生活をしてビジネスしたいと言ってくれていることが非常に感動しました。  浮かれると言いうよりも、大変なことになったという事がデビューが決まってからです。   デビュー日のライブのパフォーマンスがありましたが、地上波のゴールデンタイムの生中継の放送でした。  紅白歌合戦が決まって事務所は本当に喜んでいました。  僕は最初のうちはいい加減にしてくれとしか思わなかった。 (また忙しくなる。 曲も作れていない。)  後で聞いた話だと土屋家及び親戚が全員集まって僕の応援をしてくれていたという事を聞いて、ほんとうに出てよかったと後悔の思いが多いぐらいです。 

深夜放送のDJの話がありました。 アカペラを褒められるたびに自分を否定され続けられるようになっていました。  土屋礼央で仕事をしたいと言ってくれる人への嬉しさ、喜びがあり、これは全力で挑もうと思って快諾しました。  あれがあったから今のラジオ人生があります。  その間も「ズボンドズボン」、RAG FAIR」、音楽もやっていました。 DJをやっていて、質問が有ったら一つぐらいは返せるようにした方がいいと言われて、好奇心が湧いてて、人の3倍生きてみようと思いました。  アンテナを張って学んでいけば、同じ24時間でも72時間分の情報を入れたら、一個一個同じ気持ちでやれるのではないかと思いました。 それからが面白い人生になりました。 

或る時に声が出なくなりました。 (脳のストレスと思われる。)  しゃべりもでなくなる時もありました。  だましだましやっていたが或るライブで声が出なくて、迷惑をかけると思ってライブを止めました。  結婚して子供もいるので、生業としていた歌が歌えなくなりました。  生放送のラジオは声が出たのでそちらに腹をくくれました。  落語を習っているうちに口も滑らかになり、歌も歌えないなら楽しめばいいと思いました。 若者へのアドアイスをしたらいいのかなあと思いました。  そういったことをやっていたら物凄く仕事が増えました。  「肩のチカラを抜く」と言うとらえ方もできるし、自分は成功者だと思って振り返って見ると、結構なアーカイブは残っているし、自信を持ってもいいんじゃないの俺ってと思えたら、これからの人生は楽しいんじゃないかあと思います。  

どこを大事にしたいというところがあれば、何があっても自分の心は折れないような気がします。  若い頃はどんどんとがって、人に迷惑をかけても許されるような年齢の時には、自分の信じたことを徹底してやって、そこで反省して、傷ついて人のために生きようとようになるので、徹底してとがっていいよと、それを守るのが大人の責任だと思っています。