2026年4月23日木曜日

西村由紀江(作曲家・ピアニスト)      ・私のアート交遊録「ピアノは心のビタミン」

 西村由紀(作曲家・ピアニスト)  ・私のアート交遊録「ピアノは心のビタミン」

3歳でピアノを始め、小学生時代には世界各国を演奏旅行、マエストロ本来はイタリア語で「巨匠」「名人」「優れた指導者」を意味し、特に音楽の指揮者や卓越した専門家を敬意を込めて呼ぶ言葉)や一流オーケストラとも共演します。    音楽大学入学と同時にデビュー、ドラマ、映画、CMの他、テレビやラジオ、エッセイの執筆と、多方面の活動を続けています。 

年間100本を超えるコンサートで全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして続けているのは、学校コンサートや病院コンサート、中でも東日本大震災直後から続けているのが、被災地にピアノとピアノの音色を届けるための支援プロジェクトです。 今年デビューを40周年を迎え、音楽には力があると感じることが多くなってきた、自分を勇気づけてくれた音楽に恩返しするつもりです、と言う西村由紀江さんにピアノとの出会いや音楽の持つ力について話を伺いました。

ピアノに関してはまだ追求したい音とかがたくさんあって、これからがんばります。 母親がピアノの先生をしてましたので、家にピアノがあって気づいたらピアノの前に座っていました。 手が特別小さかったものですから、同じ時期に習った友達より成長がすごく遅かったんです。みんなが簡単に弾けるものを何倍も練習しないと弾けない。 この手ではピアノ無理でと言われました。 しゃべるのはもっと苦手でしたが、むちゃくちゃにピアノを弾くと気持ちがちょっとスッキリしました。  このピアノは私の気持ちをわかってくれると思いました。

ピアノは自分の気持ちを表すための友達のような存在でした。 ピアノとずっと話をしていると、ある日「大変だね」とか「今日は頑張ってね」とピアノが話しかけてくれるような音色を感じたんです。 そこから曲作りも始めました。      自分の小さい手に合わせるような曲が作れるようになりました。  それが今の活動の原点かもしれないです。(3、4歳の時) 最初の作った曲が「一人ぼっち」でした。 

海外で演奏する機会を小学校2年生の時にタイと台湾で機会をいただきました。  音楽にはこんな力があるんだと言うことを体で感じました。 ますます音楽にのめり込むようになりました。  小学校の6年生の時にはチェコとハンガリーとかに行かせていただきました。 CDを出してみないかと言うことを高校2年生の時話があり受けました。 プロデビューしましたが、壁にぶつかって落ち込んで泣いてばかりいました。 

いつも五線譜を持ち歩いていますが、いつメロディーが降りてくるかは予測できないからです。  今何十冊と家に溜まっています。 23歳の頃、テレビドラマ「101回目のプロポーズ」の音楽を担当させてもらいました。(40曲位)  これをきっかけにどんどん変わっていきました。 曲にまつわるバックグラウンドを、話しながら曲を演奏すると言うスタイルをこの頃から確立できました。  

学校コンサート、病院コンサートは、2002年位から始めました。 音楽というものがいろんな力を持っているということがわかりました。  車椅子で来ている方がリズミカルな曲を弾くと足が動いたんです。(看護師が吃驚) 他にもいろいろあって、ピアノでできる事はたくさんあるんだなという事を、学校や病院行くと学ばせてもらえました。  東日本大震災、被災地支援プロジェクトにも関わっています。 

震災直後の報道番組でたまたま女の子の見ました。 「今欲しいものをなんですか?」と問われたときに、彼女は「ピアノ」と答えました。2011年の4月に行った時に、ピアノが田んぼに浮かんでいる光景を目にしました。 もう使わなくなったピアノを譲ってもらおうとホームページで募集したら、あっという間に150台集まりました。 でも全く届けられませんでした。 当時は皆さん家をなくされているので、ピアノをまではできませんでした。 音を届けるプロジェクトのコンサートは始めました。

半年位から徐々に届けることができるようになりました。64台お届けしました。 私は音楽の持つ力にずっと子供の頃から救われてきましたから、今その力でどなたかの心に力を届けられる、そんな少しの恩返しができればと思っています。   私の自由度が広がりました。 自分の音楽を届けて続けていきたいなと気分が軽いです。 今年40周年で全国を回ります。  私のお勧めの1点はモネの睡蓮です。  大学の頃に先生からモネの点描画のように弾きなさいと言われました。 美術作品は人が作っているものですから、訴えかけてくるものがあり、それが非常に作品のインスピレーションになります。






2026年4月22日水曜日

田川尚登(日本こどもホスピス協議会 理事) ・「重い病と生きる子らの、この瞬間を笑顔に!」

田川尚登(日本こどもホスピス協議会 理事) ・「重い病と生きる子らの、この瞬間を笑顔に!」 

小児がんや重い心臓疾患など命を脅かす病と共に生きる子供たちは、全国に約2万人いると言われています。 その多くは病院か自宅だけで過ごし、遊びや学びといった子供らしく生きる時間を奪われた状態にあります。 そんな子供たちと家族を支える子供ホスピスが、今国内で広がりを見せています。 自らの娘さんを脳腫瘍で亡くし、子供ホスピスの必要性を痛感した田川尚登さんは、NPO法人「横浜子供ホスピスプロジェクト」を立ち上げ、2021年全国で2番目のコミュニティー型子供ホスピスを横浜市に設立しました。 428日の日本子供ホスピスの日を前に、子供ホスピスとはどんなところなのか、設立に込めた思いとともに田川さんに伺います。

428日は4、2、8でよつばとも読めるので、希望、振興、愛情、幸福のシンボルと言われる四葉のクローバーをイメージして、子供たちがたくさん愛情に包まれながら豊かに生きることを支える、子供ホスピスの理解推進を図るために、日本子供ホスピス協議会が制定し、日本記念日協会から登録を認定されました。

私たち横浜では、子供ホスピスフェスタと言うイベントで、1年間の活動の報告を支援者に知っていただくということ、体験したことをお話ししていただいたり、ボランティアの方たちに様子を話し合ってもらうと言うようなことを進めていく予定です。 ホスピスと言うと緩和ケアを受けるようなイメージを持っていると思いますが、子供はどんなに重たい病気になっても成長発達してるわけです。 子供のやりたいこと、遊びたいこと、学びたいと言うこと。病気になっても子供の人権に関わるようなことなので、やれるように持っていくと言う、そういった流れを作っていくと言うことが子供にとって大切なことだと思っています。 

1982年に、イギリスのオックスフォードでヘレンハウスと言う子供ホスピスができてからイギリスの国内に広がっていきました。 その後海外に広がっていきました。 イギリスでは子供ホスピスが全国に52カ所あると言われています。 次にドイツが多いです。(15、6箇所) 日本では2012年に淀川キリスト教病院に子供ホスピスができました。  現在日本には3箇所です。 

私には娘が2人おりまして、下の子が1998 6歳になった頃のばかりに頭が痛いと訴えました。 MRIを撮ったら悪性の脳腫瘍と言うことがわかりました。 余命半年と告げられました。 1982年にできた子供ホスピスの話を聞いて、日本でも作れたらいいなと思いました。 子供の名前は「はるか」といいます。  限られた時間を親としてはどうやって過ごしたらいいのかということばっかり考えました。   希望することを叶えてあげると言うことを繰り返していました。  病院へ入院して、午後3時から夜の8時までが親子が面会できる時間でした。 8時前になると必死に話し始めます。 帰らせないように話しています 。泣き声を聞きながら病室を出ていくと言う事は辛い思いでした。最後は、海を見に行きたいということで、家族で一緒に行きました。 波の音を聞いて帰ってきました。 

脳死に向かってなっていく中で、呼吸器を外す決断をしてほしいと言うことを医師から言われました。 医師と相談して外す決断をしました。 悲しみがずっとこみ上げてきて、親としての後悔の気持ちが心の中を占めました。  遊びたいとか、学びたいとか、そういったやれる環境を闘病中でも絶対必要だと言うことを教えてもらった感じでした。 子供ホスピスの活動につながっていきました。 小児医療の改善を考えて、少しでも楽しい時間が過ごせるように、音楽を聞いたりできるようなコンサートの開催、15歳未満の子供は兄弟は面会ができないので、兄弟を預かるような預かり保育、付き添いの家族が泊まれる滞在所を作ると言うのを最初にやりました。 

家族が泊まれる「リラの家」を作りました。 石川さんの思いと「はるか」の闘病生活が結びついて作ろうと言うふうに始めた活動が設立準備活動でした。    石川さんは看護師で74歳で亡くなりましたが、最後の職場が脳性麻痺のお子さんを看護していたこともあり、自分の資産を利用してほしいと言うことを代理の弁護士さんから聞きました。 遺贈は1500万円でした。 「横浜子供ホスピスプロジェクト」と言う組織で、子供ホスピスを組織運営していくための法人ということです。横浜市内で会社を経営しているような方々に話をしまして、共感していただきまして、一緒にやろうと言う取り組みにつながっていきました。 活動が加速していきました。 土地を借りることに対しても、行政と相談していきました。 

建物は延べ床面積が151坪です。 子供が思いっきり遊べる場所で、家族が一緒に泊まれたり、一緒にお風呂に入れたりできる空間ということで設計されました。  「海と空のおうち」の近くには、金沢動物園八景島シーパラダイスなどがあります。 アンケートをしまして、(終末期子供とどういう時間を過ごしたいか)1番多かったのが同じベッドで毎日一緒に家族で眠りたかった、2番目はお母さんの手料理を子供に食べたかった、3番目が子供と一緒にお風呂に入りたかった、この3つを建物の中に織り込もうと決めました。 

いろいろな希望があって、早目だけれども七五三をやりたいとか、誕生会をやりたいとか、いろいろな希望がある中で、できるだけ叶えるような方向で活動しました。 スタッフは現在11人います。 看護師の資格を持った人4人、保育士の資格を持った人が2人、闘病を経験した人が3名、そういうスタッフ構成です。 医療は提供してないです。 万が一の救急搬送の場合には、受け入れてもらえるような流れができています。

できてから5年目になります。  笑顔の循環が建物の中でできています。 「あー 楽しかった」と言う言葉を聞くと、「あー」の中に一日充実していた時間が含まれていると思って、凄く嬉しくなります。  はじめての方は中を見学してもらって、理解してもらえるような風に推奨しています。 子供ホスピスのある街づくりをしていきたいと思ってます。  地域の中に安心して出かけていけるような、安心して住める地域づくりにつながっているのではないかと思います。 小学校と交流の授業してます。 海外視察をしてきましたが、子供を大切にしている事はすごく伝わってきまして、いろんなことを聞ける友ができたと思って、海外の子供ホスト交流をずっと続けていきたいと思いました。 全国に15の小児がん拠点病院が点在してますので、拠点病院のあるところに子供ホスピスが出来て行く流れと言うのが必要だなと思っています。











2026年4月21日火曜日

2026年4月20日月曜日

木津かおり(民謡歌手)           ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

 木津かおり(民謡歌手)       ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

木津さんは民謡歌手歴40年以上。民謡を一言で言うと、日本中の故郷の旅ができます。 土地、風土によってこぶしが違ったり、声の出し方が違ったりとか、曲の中にあらわれています。 仕事歌、忌引き歌、田植え歌、御祝儀歌などがあります。

 神奈川県横浜市生まれ、民謡歌手であった父の影響で小さい頃から歌とともに育ちました。 10代でNHKの民謡番組に出演、18歳の時にレコード会社の専属歌手となり、本格的に民謡歌手の道を歩み始めました。 近年は、歌舞伎NEXT朧の森に棲む鬼』の公演に歌で参加するなど、伝統を大切にしながら、ジャンルを超えた表現活動を続けています。 

もうすぐ60歳になります。 3歳が初舞台です。 昭和50年代に民謡ブームがありました。 その時には歌舞伎座を借りて民謡大会をやったりしました。 父は民謡教室をやっていました。 18歳の時にレコード会社の専属歌手となり、本格的に民謡歌手の歩み始めました。 

新潟の魚沼地方の民謡、ご祝儀歌で「松坂」と言う歌があります。 三味線の伴奏がごぜさんの流れをくむ手組になっています。 ごぜさんと言うのは目の見えない芸能集団です。 3人ぐらいが一組になって、雪が解ける頃に集落を回って生活をしていました。 その風習が新潟が一番の大元でした。 ごぜさんの三味線をうちの集落のおじいちゃんが1年分のお米と交換にごぜさんから三味線を貰ってきました。 それで教えてもらって、自分の地方の「松坂」に作りました。その三味線をなかなか次ぐ人が居なくて、私が頑張っています。 この歌を歌い出すと無礼講になります。 

*「魚沼松坂」

その時の感情を表す民謡っていいですよね。フリースタイル民謡はいいですね。 父は生まれながらの芸人というか、人を楽しませることが大好きでした。    これは箱三味線と言う楽器です。ゴッタンといいます。 九州の方で残っていたものです。三味線の皮の部分が全部木(桐)でできています。

私は横浜に生まれ育っているので、横浜に野毛山節と言うのはあります。 流行歌の走りで、流行の歌の1番と言われています。 野毛山節は横浜開港とともに誕生した。(別名ノーエ節)

野毛山節

「寺泊おけさ」(新潟の柏崎の歌)20歳位の聞いたときにかっこいいと思いました。 音を消しながら弾きます。 おけさと言うのは、北前船の方から伝わった「牛深ハイヤ節」からの流れのもので、新潟に伝わると、なぜか「おけさ」になりました。 

「寺泊おけさ」

リズムが何とかもいいです。 掛け声が「秋田音頭」に似てます。 民謡は私にとっては心のお守りと言うふうに感じます。 先人たちの生活の中で生まれてきたものなので楽しむためだったり、辛い仕事を和らげるためとか、いろんな知恵がこの歌詞の中に入っています。 風土、風土によっていろいろ入ってます。 自分のふるさとの民謡を1曲でもいいので、歌えるようにしてもらって、何かあったときにそれを思い出して1人ではないんだと言うような気持ちになってもらいたいなぁと思って、最近すごく思うようになりました。

日本の音とは 声の響きが好きなんでしょうね。 お祭りの男性の声の響きが好きです。 私がやってみたいのは、自分の演奏会で、お客さんで来る人に「7、7、7、5」の言葉を募集して、そのお客さんの今の気持ちを、その時の演奏にして歌ってみたいというのあります。 今の民謡にしていきたい。 もっともっと自由であっていいと思います。


2026年4月19日日曜日

常盤貴子(俳優)              ・「ひとりの笑顔のために」 

常盤貴子(俳優)              ・「ひとりの笑顔のために」  

常盤さんは神奈川県出身で1993年に俳優デビュー、以後数々のドラマで主演を務めています。  NHKでは石川県の能登半島を舞台にした、2015年の連続テレビ小説、「まれ」で主人公の母親役を演じました。 これをきっかけに10年以上にわたって能登の人たちとの交流を続けています。 2024年の能登半島地震以降、被災地に繰り返し足を運び、能登の皆さんの心に寄り添う活動を続けています。 

常盤さんは現在NHK総合で放送中の夜ドラ「ラジオスター」に出演しています。 大阪からボランティアで能登にやってきた主人公が、経験もなければ、予算もない中で、地震と豪雨で傷ついた街を明るくしたいと言う気持ちのみで、ラジオ局を開局し、放送に奮闘すると言うストーリーです。 常盤さんは能登のおしゃべりお姉さんと言うキャッチフレーズで、ラジオパーソナリティーに挑戦する、地元の主婦の小野桜?役を演じています。 このインタビューでは、常盤さんの能登への思い、そして1人の人間としての生き方を見つけた現在について、朝ドラマの「まれ」のロケ地でもあり、常盤さんが能登を訪れるたびに、必ず立ち寄るとと言う能登半島の最先端石川県珠洲市でお話を聞きました。

20代前半の頃、いろんなことを吸収する時期で、現場で出会う人、出会う人が楽しかったです。 お芝居することも楽しかったです。 いいことばっかりだったとは言え、すり減って言ってしまうこともあって、24歳の頃、自分の中が空っぽになってしまったなと言う感じました。 楽しいと思ってやり始めたことが、その楽しむ先がなくなってしまった。  テレビドラマではお客さんと接する事は全くありません。 大林宣彦監督の映画で舞台挨拶が終わって、大林監督は映画を見てくださった方の人たちと握手すると言うことを伺いました。 私も行ってみて監督が嬉しそうに迎えてくださいました。 

皆さんと挨拶をしたときに直接私にご言葉をかけてくださったことにすごく感動しました。こういう世界があったんだと言うことに気づき涙が出てしまいました。 人対人になれた瞬間だと思いました。 「まれ」の撮影が始まった頃は、まだ自分の中にお客さんとの線があったような気がします。「まれ」の撮影ではお母さんの役でした。 合間に能登をに回って、自分で出会っていった人たちに対する思いが、どんどん募っていきました。 自分の中で線が消えていったという感じです。   人として大事なものを失うたくないと言うのは凄いと思っていると思います。 

2024年の元日に地震が起きて、110日には新聞に文章を載せました。     「・・・私の大切な場所が大変なことになっている。私の大好きな人たちが心を痛めている。 誰も誰のせいにもできないなんて言う事はわかっている。 それでも言ってしまいたくなる、もうやめてと。  私の大好きな人たちが住んでいる私の大好きな大切な場所,私は諦めません。 これから訪れるべき場所、これから出会うべき人たちだってまだまだいるんだもの。 私は北陸を石川を能登を輪島を珠洲を〇浜?を絶対にあきらめない。 私の好きな人たちの笑顔が戻るその日まで。」

自分でもこのタイミングでなければ出なかった一言だなと思います。 これを書いたことによって、自分の中心にそれがあるんです。 避難したまま寂しい思いをされている方がいらっしゃる。そういう現実を知れば知るほど自分の中で移すとしてしまうものがありますが、そういう人たちもいつか能登で笑顔で会えることを信じて、私はその日まで諦めずに進みます。 自分自身に対して覚悟が決まりました。

3月に入って炊き出しのボランティアをしました。 人と人が会える事は当たり前なことのように思っていましたが、会えると言うのは奇跡かもしれないと思って、人と会えることの喜びをすごく感じました。  「誰も来てくれない場所によく来てくれたね。」と言われました。 災害にあっても来てくれる場所と来てもらえない場所があるんだと言うことに気づき、そういう場所に行こうと言うふうに決めました。

人間常盤貴子は何を求めるかと言うふうに考えたときに、たった1人の人の笑顔でも取り返すことができたら、と思うようになりました。  能登の人たちとの出会いによって、自分で何かを考えて行動する勇気を持たせてくれた。 私がやっていることが望まれていることではないかもしれないけれど、私がやりたい、これはきっといいんじゃないかなぁ、皆さん喜んでくるんじゃないか、と思うことの提案をする勇気を持てました。 今まででは絶対できなかったことです。 大谷中学校の避難所に行かせていただいたことで、その道を自分の中で見つけることができたと言うことがあります

「ラジオスター」と言うドラマを放送しています。 石川県の能登に誕生した災害FMが舞台です。 このドラマで被災した人を演じています。  私たちの仕事は疑似体験するみたいなところもあって、かなり深いところまで体験をした人の思いには入り込まないといけない部分もあって、そこでのセリフになってくるので、深くシンクロすることができて、その体験と言うのは被災した人の思いに少しは近づく事が出来たのかなあと言う思いはあります。 

お正月を迎えた時に、「あけましておめでとうございます」って言う挨拶がまだしにくいとか、震災の後に能登の人間にとって、これから元日はおめでたい日ばかりではなくなりました、と言う言葉を言われたときに、私自身も言いづらくなってしまいました。 それが言えるようになればいいなぁと思っていますが、言えない思いも共有できたらいいなとは思ってます。  せっかくの人生なので、いろんな人の影響を受けたいです。 常盤貴子と言う1人の人間として、すべての人とお付き合いしていくことができたら、より楽しくなるだろうなと思います

能登は透明になれる場所、自分を自問自答する場所でもあるのかなって言う気がします。 能登の方々は非常に優しい人たちだから、そのエネルギーをいただくことで、自分の中にもその優しさがしっかり根付いて人を大事にしよう、私は人が大好きなんだと言うところに落ち着けるというか、そういう場所かもしれないです。





2026年4月17日金曜日