2026年5月11日月曜日

今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

 今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

心に残る数多くの名曲を、世に送り出した作曲家のいずみたくさん、そのいずみたくさんに指導を受けて、昭和43年「ピンキーとキラーズ」のボーカルとして、「恋の季節」がダブルミリオンのヒットをした今陽子さんに師匠のいずみたくさんとのエピソードなどのお話を伺いました。

あんぱんと言うドラマでいずみたく先生が出てきました。 やなせたかし先生とうちの師匠と、ここのところインタビューなどまた多いです。

いずみたく、本名今泉隆雄さんは1930年昭和5年東京日暮里で生まれました。  14歳で陸軍の幹部候補をを養成する陸軍幼年学校に入学しますが、翌年終戦、その後は演劇学校で演技を学び、俳優として活動する一方で、大衆的な社会活動、歌声運動にも参加します。 さらに作曲と、管弦楽法を独学で学び、1955年昭和30年、民放が主催するホームソングコンクールでグランプリを受賞。 三木鶏郎さんの「冗談工房」に所属し、新進気鋭の作曲家としての活躍が始まります。 

NHKのみんなの歌でも取り上げられた「手のひらを太陽」ではピンキーとキラーズの楽曲の数々、岸洋子さんの「夜明けの歌」、デューク・エイセスの「いい湯だな」、レコード大賞を受賞した差良直美さんの「いいじゃないの幸せならば」、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」中村雅俊さんの「ふれあい」や、「アンパンマンマーチ」などCMソングや番組の主題歌、ミュージカルの作品など幅広いジャンルで生涯15,000曲余りを作曲したいずみたくさん、199262年の生涯を閉じました。 生前こんな言葉を残しています。 「1番うれしいのは僕を知らない、ただただ音楽の好きな人たちが僕の作ったメロディーを口ずさんでくれること、歌われ続けることが作家としての誇り。」、 今日511日はいずみたくさんの34回目の命日です。

出会いは、私が中学214歳の時です。 当時石田あゆみさんがイベントで名古屋にやってきました。 当時、父が司会などをしてました。  石田あゆみに会いたくて、楽屋に行って意気投合してしまいました。  石田あゆみさんのマネージャーが私を見て芸能界に興味がないかと言うことで、とんとん拍子でいずみたく先生のところに入るようになりました。 春休みに東京に行って、いずみたく先生にお会いして、先生から東京駅で勉強する気あるかと聞かれました。 すぐありますと言いました。 いずみたく先生の奥さんと一緒に雪村いづみさんののディナーショーとかいろいろ3,4日連れてっていただきました。 両親ともに賛成してくれました。

先生のご自宅に入ってレッスンを受けました。(内弟子) 学校に通いながら、レッスンレッスンの毎日でした。 歌手として歌うだけでなく、ミュージカルをやりたいと言う思いはありました。  デビュー曲「甘ったれたい」は全く売れませんでした。  後から入ってきた佐良直美さんが「世界を2人のために」で売れて新人賞を取ったという事もありあり、挫折感を感じて田舎へ戻りました。  家に帰ったから母から叱責されて、翌日には東京へ戻りました。  

翌年ピンキーとキラーズの「恋の季節」で大旋風を巻き起こしました。 当時は大柄な女性は売れないと言うジンクスがありました。 周りに男性たちがいれば可愛く見えるということで、男女混成のグループを作ろうと言うことになりました。(いずみたく先生のアイディア)  売れすぎて超多忙になってしまいました。  全く休憩時間もなく寝る暇もありませんでした。 睡眠時間は良いところ1、2時間でした。  専属の医師と看護師さんが常に私についていて、移動の車の中で点滴しながら移動してました。 NHK出演後、グループで会場を逃げ出して、旅館の布団部屋で10時間寝たこともありました

先生からは褒められたことも怒られたこともありませんでした。 甥っ子さんの結婚式で先生とお会いしたときに、珍しく「お前最近すごく歌が上手くなったな。」と言われました。 そんなこと言われたことありませんでした。 それから間もなくして病気になって、入院されてお亡くなりになりました。

ソロに転向したのは、19722月でした。 後から聞いた話ですが、先生はグループにずっと置いて置くつもりはなかったようです。 「恋の季節」の次に出た「涙の季節」の方が私は好きです。  B面に「涙のバラード」がありますが、もっとこれが好きです。 ミュージカル俳優として、「死神」、「屋根の上のバイオリン弾き」などを始めとする大きな舞台での活躍が続きます。 

「基礎をきちっと学んで実力をつけて、長く君臨できるエンターテナーを目指したほうが良いし、そうなってほしい。」と言う事はおっしゃってました。  先生の事務所を辞めた時、出たときには気まずいものがありましたが、しばらくの間先生に対して不義理はありました。 1992511日いずみたくさんは62年の生涯を閉じました。 先生は入院してた時にお酒が好きなので、ベッドの下にお酒を隠して飲んでいました。 私はある程度覚悟ができていました。 お通夜には一晩中お付き合いすることができました。 私もそろそろ75歳になります。 15歳でデビューしてるんで60年になります。 先生との巡り会いがなかったら今の私はありません。

先生の手紙

「・・・62歳で亡くなったのはちょっと早すぎましたよね。 私は先生の歳を通り越して、もうすぐ75歳・・・芸能生活60周年を迎えます。 こうして長く大好きな歌を歌い続けてこられたのも全ては泉先生のおかげです。・・・14歳で弟子入りさせていただきました。 歌だけでなく、踊り、お芝居などみっちり勉強させていただいたので、ミュージカルなどいろいろなお仕事をさせていただけて幸せです。 人気歌手ヒット歌手は寿命が短いから、きちっと基礎を学び、実力をつけなさいと常々おっしゃっていた先生の言葉通り一生懸命頑張ってきて今があります。   これからも80代、90代と歌い続けて行けたら最高に幸せです。先生、いつも見守っていてくださいね。」







2026年5月10日日曜日

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」 

ウェルビーイングと言うのはWHO世界保健機関の憲章に謳われているもので、心身ともに良好な状態を指します。 前野さんは1962年山口県生まれ。  もともとは機械工学が専門で大学院を出てメーカーに就職、エンジニアとして働いていました。大学に戻ってからもロボットや脳科学の研究をしていましたが、科学技術は人を本当に幸せにしたのだろうかと言う思いから、幸福学の研究をした後、ウェルビーイング学会を立ち上げ、その理念を広く発信するとともに、2024年度に開設された武蔵野大学ウェルビーイング学部で未来を担う人材の育成にあたっています。

「ウェルビーイング」とは良い状態です。  1946年にWHO世界保険機関の健康の定義に使われたときに使われるようになったと言われています。  ここ5年ぐらいは一般の人に使われるようになりました。 心と体と社会の状態が良い、これがウェルビーイングです。 国際幸福デーが3月の20日、ウェルビーイングのイベントを10日間やりました。 10年前から始めました。 

残念ながら日本中が幸せとは言えないやる気がなかったり、つながりが薄くなったりすると言うのはあると思います。 世界幸福度ランキングというのが出ています。 残念ながら先進国中最下位、61位です。 フィンランドが何年も連続1位です。  社会福祉が行く届いていて、すべての人が健康で幸せに生きる制度が整っているところが大きいと思います。 日本は心配しやすい国民性というものがあると思います。  遺伝的に幸せになりやすい人となりにくい人がいます。  日本人は心配性遺伝子セロトニントランスポーターS型という遺伝子を持ってる人が多い。    8割が心配になりやすい国民性、アメリカ、イギリスなどはその遺伝子を4割しか持っていません。 日本人はよく言うと、非常に危機に対して準備する能力が高くて、心配事に対して対処する力が高いともいえます。 日本、台湾、韓国、中国あたりが高いです。

武蔵野大学のウェルビーイング学部と言うのは、世界初です。 最先端科学でわかったことが、仏教や東洋思想でわかっていたことと、ぴったり一致言うことで両方教える学校を作ろうと言うことになりました。 開設したのが2024年です。    大学院も作りました。  畑仕事、地域に行ったりなどもします。  生きとし生けるものの幸せを大事にすると言うことになると、植物、食べ物を大切に作って大切に食べさせていただくとか、植物を見て成長する喜びを知るとか 知識と行動体でウェルビーイングを表したい人を育てたい体験重視にしています。 

僕が開発した幸せの4つの因子あります。 やってみよう、ありがとう、何とかなるありのままにです。  多面的に、いろんな主観、客観の幸せ度を測れるのが幸福度診断です。  社会を幸せにする核なって、僕は本当にウェルビーイング革命だと思っています、今までのお金や地位やGDPが高ければ良いと言う世界からウェルビーイングの幸せ度が高い国にならないと、人類は環境問題、貧困問題、戦争などありますが、新しい世界を作る人が育っていく、世界が良くなっていくというのをイメージしてます。

私はもともと物理や数学が得意でした。 好きだったのは心理学では哲学でした。一旦メーカーに行きましたけれども、大学に戻ってからロボットの研究をするようになりました。 ロボットの心の研究をするともともとやりたかった心理学や哲学を含んだ研究ができることになります。  AI作りみたいなことをやっていました。職場を幸せにするには、どうしたらいいかとか、人々を幸せにする家づくりとかいろんな応用研究までやりました。 

幸せと思う4つの因子、1つ目はやってみよう因子 やってみたい、夢や目標があったり、主体的に何かやっていたり、成長意欲が高かったりする人は幸せです。   2つ目はありがとう因子、感謝する人は幸せです。 人とのつながり、友達が多い、利他 思いやりや親切さのある人が幸せである。 3つ目は何とかなる因子、前向きで楽観的でチャレンジ精神のある人。 4つ目はありのままの因子、人と自分を比べすぎるのではなくて、自分らしく自分の個性を生かして、本来の自分と言うのはこうだと言う個性を発揮できる人は幸せです。 4つの因子を知ってるだけでちょっと気になります。 感謝の言葉を言う時に一寸丁寧に感謝の言葉を言うとか。 

職場の幸せの7因子、不幸せの7因子を研究しました。職場が良くなっていくことに繋がります。  地域の幸せは、デジタル庁が地域幸福度を測ってホームページに載ってます。  県名、市町村の名前を入れると、主観的幸福度、客観的幸福度がこうなっていますと言う円グラフのデータチャートが出てきます。 デジタル庁は、各省庁が縦割りでやってるところを横串を刺して、デジタルで合理化します。 その合理化するにあたって、その中心にウェルビーイングを置くことで、行政の統合を図るということです。 デジタル庁と連携してやってます。 

介護の幸せ研究もしてます。  年寄りの方が若い人と会うと元気になります。   核家族、一人暮らしよりも多世代共生の方が幸せです。 保育園と介護施設を一緒にすると言う「ハッピーの家」というのが神戸にあります。  孤独と言うのは、幸せ度が低くなりやすいです。 都会生活においても、いかにいろんな人とつながるかという事は、現代社会の課題です。  

私も幸せの条件を全部満たすように生きています。  失敗したと言う事は次の成功のために学んだと言うことです。 嫌な人が現れたら自分がより人として成長するためのチャンスが来たということです。 父が亡くなった時は悲しかったですけれども、父の分も生きる、父は心の中に生きてると言うことを覚えば、ポジティブに生きる力に変わります。 

研究以外に書道、作詞作曲、歌を歌う写真撮る後はいろいろ好きです。書道は 嶋田彩綜先生に習っています。 世界の平和のために書を書いていらっしゃいます。  弟子入りしました。  書道も写真も歌も全部幸せの世界のためにやってます。  美しいものを見るよりも、美しいものを創造する方が幸福度は高いです。    みんなが生き生きしてたら元気な社会になります。 思いやりを持ってみんなが助け合えば、戦争も、環境問題も解決できて、いい地球になります。 健康に対していろんなことをやっていくように、幸せについても4つ因子などを考えて、ちょっとしたことをやっていくと幸せになっていきます。


2026年5月9日土曜日

2026年5月8日金曜日

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」 

山口さんは1956年埼玉県出身。 1983年に竹田高利さんと「コント山口君と竹田君」を結成、1984年に初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝。 その後コント界の第一線で活躍しています。 山口さんが来月上演の舞台「生きる」の稽古に取り組んでいるとのことです。 テーマは認知症の介護ということで、そこに込めた思いなどを伺います。

今年で70歳です。 竹田さんも「明日への言葉」に昨年出演されて、テーマが「汗かきコントに一筋の涙」となってました。 竹田君は物忘れが器用で物覚えが不器用な方なんです。  竹田君に出会うことで自分の考え方が大きく変わりました。世のなか思い通りにはならないんだなということです。 自分の作ったコントを竹田くんに当てはめても、その通りにはやれない人もいると言う、その中で自分の考え方を変えて行って、竹下君ができることを考えてネタにしていくと言うやり方にしていきました。 ちょっと引いたものの見方ができるようになりました

お笑いスター誕生で優勝。 それから42年になります。 2014年から「生きる」と言う芝居をやってます。 認知症をテーマにした物語です。 2013年にブッチー武者さんから演出を頼まれました。 その後台本もやることになりました。 京都伏見介護殺人事件、54歳の男性が介護疲れと生活苦から親子心中を図ったと言う、その認知症患者の86歳の母親を殺害してしまったが、情状酌量の判決が出ました。    真面目に介護すればするほど、追い詰められていくと言う状況が1番辛いところだと思います。 これを本にすればどうしたらいいかと言うことを考えました。 

彼は3年の執行猶予を終了し、2014年に亡くなっています。 この劇が12年続くとは思えませんでした。 逆に言えば続いてることが問題なのかなと言うところ感じています。 良くならないものを突き続けても希望がなくなってしまうので、希望のある終わり方ができないかということで本を書き直したりしました 。四谷で今度おこないますが、25回目になります。 ブッチー武者に、こんな熱い思いがあったのかと、頭が下がります。 生活の中で起こり得ることであると言うことをポイントにして、それぞれの立場があると言う中で、こうならざるを得ないと言う社会構造をなんとかしていかなければならないんではないのかと言うことで、誰が悪いとかと言う様な作品にはしたくないと思いました。 そのためには喜劇が良いと思いました。是非うちの地域でもやってほしいと言うことで、実行委員会を立ち上げてくれたりして、草の根の力がなかったら続けられなかったと思います。 

自分でも老化と言う事は意識するようになりました。1番いけないのはストレスだと思います。 竹田くんと付き合っているとボケている暇はないですと言いながら、最近私も気になり始めました。  彼はボケをやっていますが、本当に真面目なんです。 未熟な自分に気づかない自分っていると思いますが、自分が未熟だから人を説得できないのに、一方的に攻めてしまう未熟な人間だったと言うことを竹田君に気づかされました。 

竹下君も途中から劇に参加するようになりました。 何回かやってきましたが、その都度ゼロから立ち上げていかなくてはいけないと言うような状況です。 浜田光夫さんが裁判官役、大信田礼子さんも認知症のおばあさん役ということで参加していただきました。 田原総一郎さんにもバックアップしてもらっています。(92歳)

コントについては、その年齢で表現できる生の姿で笑いが取れるんだったら、それまでやろうと言う思いではいます。 作、演出家としては事務所の若手を含めて勉強会をやってます。 若手が育ってゆくのは自分としてもも励みにもなります。     最近のコントは研ぎ澄まされた計算された笑いでそれもいいですが、そこに人間味を入れて欲しいと言う思いはあります。(計算しくされたネタが多い。)


2026年5月7日木曜日

遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

 遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

遠藤さんは東京都港区出身。 1965年に舞台活動を始め、1990年に単身フランスにあたると映画「ツイン・ピークス」などの音楽で知られる世界的な作曲家、アンジェロバダラメンティ氏から才能を見出され、日本人シャンソン歌手としてパリの音楽の殿堂オランピア劇場の舞台に立ちます。 以来32年にわたりパリを拠点にしていましたが、活動の場を日本に移し歌い続けています。 また、世界各国の映画と映画ポスターの比較研究を通じて、独自の視点で映画研究をする形でも活動しています。 今年は俳優のマリリン・モンローが生誕100年を迎えます。  遠藤さんはこのほどモンローが日本に残した知られざる姿を本にまとめました。時代の変化の中で今も残る音楽と映画への思いについて伺います。

パリの地に立った時、ここの地で国際クラブ歌手になろうとと思って決心をしました。  行ったときには、自分がシャンソンと思ってたものは、みんな懐メロです。 本当に歌おうと思ったらメロの酒場に行かないとだめです。 カセットテープを友人がアンジェロ・バダラメンティと言う人に送ったら、彼がそれを聞いて、いきなり一緒にやらないかときました。 結局アメリカには行けませんでしたけれども、それが自信にもなりました。 オランピア劇場で歌うことになって、それがきっかけになって、小さな所でも歌うようになりました。それが勉強になりました。フランスには哲学的文化があり、僕の性格に合ってました。 

僕が小さい頃は空気が悪くて、小児喘息になってしまいました。 各区が保養所みたいなものを持っていて、静岡県の沼津に行きました。 時間がいっぱいあったので、考えたり本を読むことが多かったです。  その後お能をやりました。    自己表現に興味がありました。 句会にも出ました。(12歳から15歳位までの間) 同時に自分とは何なんだろうって言うことを突き詰めていました。 

詩集を作って新宿で自分で売ったことがあります。 ある日、金子光晴さんと言う人が買ってくださいました。 学生に共鳴した詩人でした。 街頭で詩を売る人間として結構有名になりました。 「許すという事に限度はあるの」と言う詩を書きました。 「どんなに未熟な詩でも、若いときのその感性と言うものはずっと一生持っていくものだから大事にして、詩集を出しなさい。」と言われました。       それで自主出版しました

父に連れられて映画をよく見に行きました。 本を読む前、映画が好きになりました。 ロックの原点と言われた人たちがいましたが、そういう人たちもあっという間にコマーシャルベースでなってしまう。  これって違うんじゃないかなと思いました。 坂本龍一君とか出会ったときに、いかにレコード会社が興味を持たない歌を作ろうかみたいなところに僕を燃えた時代がありました。 吸い上げていく大きな権力みたいなものが吸血鬼のように思えました。 吸血と言うことをテーマにしてパフォーマンスをしたことがあります。 彼は彼でオリジナルを模索していたんだと思います。 

日本全国にキャバレーがありました。 そこではラテン、ジャズ、シャンソン、カンツォーネなどを歌う時代でした。 僕たちはその後の時代でした。 「銀パリ」と言うところがありまして、オーディションを受けて受かりました。 

最初に「エマニエル夫人」の映画のポスター、日本のものと海外のものと集めました。 それからポスターが面白くなって興味を持つようになりました。 ポスターは3000枚あります。 僕の友人がマリリン・モンローが大好きでした。  友人はフランスでマリリンのポスターを集めていました。(60数枚)  藤井さんから、このポスターは絶対に買いなさいと言われました。 藤井さんと言う方でマリリンのお化粧をしたことがある人でした。 

マリリンは驚くほど記憶力の良い方で、成分表などを1回見ただけで全部覚えてたって言ってました。  藤井さんはマリリンから黒澤明に会いたい、日本のお手伝いさんをアメリカに連れて行きたいと言う要望を受けましたが、2つとも叶いませんでした。  黒澤明は、自分が使いたい女優はマリリン・モンローだと言うエビデンスを見つけました。 黒澤明とマリリンは符号するようなところが一杯ありました。      それで書いた本が「天使と侍」と言う本でした。 

もう1冊の「マリリン・モンロー100年の孤独」と言う方は、ちょうど今年がマリリンの誕生100年なので、マリリンの人生そのものを見てみようと思って調べました。 この人の孤独は、アリ地獄のような耐えられのような悲しみに満ちた孤独なんです。  僕は「天使と侍」の時に、マリリンが平和を希求していたことと、彼女は政治的な人でした。 反原爆運動でも、最初のハリウッドの俳優たちの中心人物であったりしましたが、それは全く知られないことでした。 初めて去年100年の孤独と言う本を読んだときに、本当に私は人に愛されたことがない。 でも1番悪かった事は自分を愛したことがなかったと言うふうに書いてありました。 

調べてみたら1番感情ができるときに11回も点々としていました。  その中で、マリリンは嫌われないように笑うしかなかったんです。  自分では「孤児ではない、お母さんがいるんだ。」と言ってますが、その母親は精神的にとっても問題のある人でした。 マリリンは大変な苦労をしながら、自分の身1つできたわけです。子供が知らない間に、人間て母親なり父親なりに教えてくるものがありますが、マリリンはそれがなかったんです。  マリリンが1番好きな宝石はパールでした。 お母さんの名前がパールと言う名前でした。それを聞いたときにはグッときました。最終的には母親をマリンが全部面倒を見ていました。 本人が亡くなった時には通帳には500ドルしかなかった。

モンローが今受けている収益を孤児院の子供たちに寄付していると言うのを聞きました。  自分と同じような思いをして欲しくないと言う思いを心に抱えていたですね。  最初彼女は女性の敵と言われていました。 フェミニズム運動とかいろんな問題が世の中が変化するに従って、マリリンの価値というのが1種のジャンヌ・ダルク的な部分があることを認められてきて、女性のファンがすごく増えました。

墓石が彼女たちのキスマークでピンク色になってしまうほどなんです。 2番目の夫であるジョー・ディマジオが週に2回花を届け続けました。 マリリンはジョー・ディマジオとともに広島にも行きました。 1954年の段階では、原爆についてはまだアメリカに遠慮してました。 第5福竜丸の被爆とかいろいろあって、だんだん反原爆が広がっていきました。  最近では、アメリカのハリウッドでも、原爆の映画を少しずつ作るようになってきました。 

僕はフランスでも日本でも恵まれて、幸せでだから、今せめて少しでもお返しができればと言う気持ちはあります。 マリリンの孤独と言うことを確認したときに、自己確認しました。 家に帰ればご飯のある人間が孤独だの、寂しいなどと言えないだろうと言う、凄さですね。




2026年5月6日水曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 30年近く前五木寛之さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本が「最終章」として綴り話題になっています。孤立や孤独などについて語っていただきます。

一人でいるのが孤独ではないんじゃないかと言う、有名な思想家が群衆の中の孤独みたいなことを言っています。 みんなと一緒にいながらなおかつ違うなあ、話を合わせているけれども、俺の本当の考えていることとみんなの考えてる事は違うなぁと言う、そっちの方が孤独なんではないかと言う気がします。 一人ぼっちである事は孤独ではないです。 孤独よりも対立ということがきついと思います。   人間と言うのは、自分だけの社会と言うものをみんな持ってるものなので、わかってもらえないと言っても、嘆くとか悲しむとかと言う必要はないですね。

孤立感は孤独感とは違います。 1人で戦わなければならないと言うような、応援してくれる人がいない。  生きていく上での立ち位置として、運と努力2つの言葉に集約される。  偶然に助かったと言う事は何度もあります。 努力だけでもありません。

他力」の問題で大事なのは、「他力」を信じるか信じないかの違いがあると思います。 「他力」に身を委ねるかどうか、これは「自力」です。  「他力」に身をまかせて自らの計らいを全部任せる、と言う決断はこれは相当な自力です。「自他一如」と言う言葉がありますが、その境目正反対という事ではないと思います。  休筆宣言を二度しています。 なんか声が聞こえたりする時がありますが、どっか聞こえるような声はそれに従うか、従わないかの問題だと思います。 逆らって生きる道もあるでしょうが、その声には素直に従うと言う。

石原慎太郎さんは自力の人でした。 石原さんがこんなことを話したことがありました。 宮本武蔵と吉岡一門と決闘することになりましたが、向かう途中で神社があって、「どうぞ神仏のご加護を」と言って手を合わせようとして、その瞬間に神や仏に応援を得ようと言うのは既に負けたことになると考えて、手を合わせるのをやめて、決闘の場に行って結果的には勝ちました。 石原さんは神様などにお願いするような心がけではダメだと言うふうに力説してました。 僕は手を合わせようとした宮本武蔵の心に響いた声と言うのは、これは「他力」の声ではないかと言う気がします。 神仏の力を借りようなんて言うことではダメだと言う声が聞こえた。それは「他力」の声だと思います。 その声に従って、彼は合掌することをやめて、決闘場へ行った。 昔そんなことを石原さんと議論したことがあります。

*「織江の唄」 北九州の方言を使った歌  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ

健康よりも養生である。 少々故障とか問題点があっても、何とかそれと折り合って生きていくと言うという事は養生なんです。 健康は根こそぎに原因を立ち切ってしまうと言うようなところが感じられます。 心と体のお互いの関係というか、どちらも大事なんです、偏らない。 命は自分のものである。 12歳で決意したのが、好奇心のおもむくままに行動する。  自分の思うように生きる。 

*「思い出の街」 作詞:五木寛之,作曲:加藤敏治 歌:松原健之        昔は学生街があって、古本屋などが結構ありました。(昭和の残影)

「老いとてんでんこ」 「てんでんこ」、津波の時にバラバラでいいから、自ら避難しなさいと言った意味で使われたりしますが、「てんでんこ」と言う言葉を一言で言う事は難しい表現だと思います。 ものすごく大事なことを言ってるような気がします。 

高齢期を3つの期に分ける。 前期、中期、後期、これからは高齢期が長い時間になる可能性があります。 高齢期の生き方が大きな問題になると思います。     高齢期は決して余計な生き方ではないんです。 高齢期は考えながら生きていかなければならない、大事な成熟の時期だと思います。 「生きている事そのことが大事」  生きていこうと言う意欲、どこにその基準、どう生きているか、なんでそんなに生きることに執着するのかと言われたときに、それに対する自分の心構えというか、答えをしっかり持っていなければならない。  生きるには理由があると言う理由を考えておく、そういう時期に入ってきたんではないかと思います。   「暗愁」心を暗くするような、言いようのない悲しい物思いやうれいを指す言葉 「暗愁」の持っている強さ。 明治、大正、昭和初期にかけて流行のように広く使われた言葉です。




2026年5月5日火曜日

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

 久保田さんは1990年から20 13年までEテレで放送されていた子供向け工作番組「作って遊ぶ」にわくわくさんとして出演しました。 番組が終了してからも全国各地で親子向け工作教室を開催、現在も工作の伝道師として活動を行っています。生涯わくわくさんを全うしたいと語る久保田さんは、工作の楽しさや、今後の夢など伺いました。

今年65歳になります。 大学4年の時に読んだ雑誌に劇団の募集というのがありました。 田中真弓さんが副座長と言う立場でした。 田中さんはNHKの番組などに出演していました。 のっぽさんの番組の「できるかな」と言う番組が終わることになりました。 新しい工作番組を作りたいということで、若い男の出演者を探してると言うことでした。 田中さんが私を推薦してオーディションを受けて受かってしまいました。 平成元年に「ワクワクおじさん」と言うタイトルでした。(27歳) 同じ年の年末からもう1本放送が始まってそこから「ワクワクさん」」になりました。

19904月からレギュラー放送になりました。 後で聞いた話では、オーディションを受けたのは私1人でした。 子供たちの前で話をしながらやることを勉強しました。 初期の頃の子供たちの反応は全然だめでした。  どうやって見てもらえるようにするかと言う研究がものすごく大変でした。 ノッポさんと言う方が、初めて工作番組を作ってくれた方です。 ノッポさんの最後の番組に私も参加しました。ワクワクさんと言う人物を自分で構築していこうと思いました。 「つくってあそぼ」が3年経過したときに、俳優、声優の仕事を全て止めて、ワクワクさんの活動を1本に絞りました。

結婚して子供ができたので、1本にかけてみようと思いました。 収入面では減りました。  家で自然な形で子供に喋るようになったので、それが良かったのかもしれません。  家でもいろいろ稽古しました。 子供も実験台にしました。子供の気持ちを引き寄せるには、子供たちとどこかの部分で同じレベルに下げる、目線を合わせるということです。 話し方反応の仕方、ある程度落とすことによってこちらを向いてくれます。 もともとは社会科の先生になるつもりでいました。 父親は手先が器用でした。 家にはノコギリ、ノミなどは20種類以上ありました。(趣味)

私はプラモデルなども、キットにないものを、自分で作って加えると言う事をやりました。 それがワクワクさんの番組で生かされるるとは思ってもいませんでした。 ワクワクさん歴36年になります。 ワクワクさんの設定が20代後半なので、演壇に立ったときに、ジジ臭さを出さないようにしようと言うことを考えないといけないと思ってやっています。 

子供たちがワクワクするものを作ってくれる人という意味で、ワクワクさんということです。 工作と言うものが、どのような時代になっても、子供たちの心を惹きつけると言うものは絶対あります。  そのヒントを提示すると言うのが、私の活動です。 だんだん材料を揃えるものと、家庭に道具がなくなってきているので、できるだけおうちにあるようなものを考えながら、大人の方が入手しやすいものを中心に考えてます。  生涯現役でいたいです。