2025年12月19日金曜日

向谷地生良(ソーシャルワーカー)      ・生きづらさが希望に

向谷地生良(ソーシャルワーカー)      ・生きづらさが希望に 

向谷地さんは1984年北海道浦河町に精神障害者の活動拠点「べてるの家」を設立して、現在は理事長を務めています。 2001年「べてるの家」のメンバーと一緒に当事者研究をはじめました。 不登校や精神障害など様々な生きずらさを抱える人たちが集まって対話をする当事者研究は近年注目されています。 当事者研究と言うのは仲間との対話を通して自分自身のことをよりよく知ろうとする実践です。 当事者研究が始まって今年で25年、向谷地さんは大腸がんと闘いながら当事者研究の普及を目指して全国を回っています。 当事者研究はどのようにして生まれたのか、又当事者研究を通して向谷地さんはどのように感じているのか、伺いました。

今年始めに大腸がんが見つかり闘病中です。 3月に手術をしてまだいろいろな段階があり8割までは来ました。  あと一回二回手術をして来年3月に仕上げという事になります。    当事者研究は25年を迎えて、準備期間でこれからさらに盛り上がってゆくのかなあと思います。   こちらに来る患者さんの背景にはいろんな人との対立やトラブルがあるんです。  そういう人たちに私が一番学んできたというか、そういう人たちに一番教えられたという意味では、私が一番当事者であると言う実感が常に出発点になっているという感じです。     

当事者研究は2001年に始まりました。 ソーシャルワーカーとして48年が経ちます。   親子関係、教育現場、職場とか社会全体がこの人たちに学ぶという、この循環をどう起こしていけばいいのか、例えば嘘を言っただけで・・・?がえる人たちがいる、隠し事をしただけでも不安で、気持ちが不安定になる人がいる。  あの人が嫌いだと気持ちの中にわだかまりを抱えただけで、バランスを崩して早くその人たちと仲直りしたりして、人に打ち明けないとままならない、そういいう弱さ、脆弱性を持った人たちがいます。 私たちは嘘を言っても人を憎んでもそれはそれとして普段仕事をしたり生活したりして別に影響を与える事は無い。逆にどっちが病気なんだろうと、現場のなかにいて反転して私たちは学ばなければならないことはいっぱい出てくるんです。 

憎たらしいと思った人と早く仲直りしてお互いがいい気持ちになれるようにしなければ生きて行けないという人たちがいるならば、むしろそのひとたちの側から社会を見た時に、和解できなくて対立したままさらに大きくなってゆくような、こじれるケースと言うのはいっぱいあるわけです。 仲直りしなければ生きていけない人達から、私たちはむしろ学ばなければならない。 正直になる事、人の目を気にするのではなくて、自分らしさを軸に生きてゆくとそういう人たちも生きる気になるという。  私たちは本来大切にしなければならないことを誤魔化しても生きていけるような体質を持った私たち、誤魔化しのきかない生きずらさを持った人たちを考えた時に、メンタルヘルスとしては、そういった人たちを病気を持った人たち、障害者としてくくってしまうわけです。  そうじゃないんじゃなっかと思うんです。

眠れなくなったり、一体何が起きているんだろうという事を一緒に対応化?しながら一緒に解き明かしていくと、子供の時の家族の中でのいろんな辛かった経験を封じ込めていたりとか、正直になれなかったりとか、仲直りをすることに凄く躊躇したりすることが、一緒に研究していると判ってきて、仲直りするにはどうしたらいいかという事をみんなの経験を生かしながら一緒に考えてゆく。  そして実践してゆく。 

今迄は貴方の思い込みだとか、専門家が答えを持っていてその正しさを伝えて導いてゆくという発想ではなくて、一緒に考えてゆくプロセスのなかで、自分の大切なものは何かを一緒に見出してゆく事が、これは皆にも使ってもらえるかもしれない、自分の経験が皆さんの役に立つかもしれない、自分にとっては大変だけれども大きなものであるという、そういう前向きさ、自信が湧いてくるわけです。  患者の清さん?と一緒に研究している私も、私を研究しているんです。

最初、清さんに対して凄く腹が立ちました。  約束を守らない、予定通りにものが進まない、素直ではない、トラブルばかり起こす。  彼だけには物凄く腹が立つわけです。 これは自分にいったい何が起きているんだろうと思いました。  こちらも厳しいことを言ったり辛くあたていたために、お互いが居ずらくなる、そしてこういったことが社会の中のあちこちで起きているという発見です。  お互いを研究者として眺めることによって、繋がり、連帯できるという関係が成り立つわけです。  二人だけではなく、似たような経験の人が来たりして、みんなが集まってきてワイワイしたりします。  その人たちからいろいろ経験を学ぶことによって、自分の抱えている大変さの意味が判ったり、むしろこのままでいいのかもい知れないという様な気付きが生まれたりします。

私たちは自分だからこそ見えない自分の領域が必ずあるなあと、私たちの実感です。 人から見える自分と自分から見える自分の差は凄く大きいと思います。 人は一人では生きていけないし、ひとは関係の中で人間として生きられる。  自分の判らない領域を積極的に発信して、多くの人、家族に支えられたと言う経験を通して、積極的に自分の足りなさ、助けて欲しいことを開いて行って周りの情報、経験を受け取りながら、今の自分の生活を開いてゆく。  「弱さの情報公開」と呼んでいます。  自分のなかだけでこっそり解決したり、蓋をするのではなく、無理のない範囲で相談、打ち明けてみることによって、周りも打ち明けてくれて参考になります。 上手くいかない経験の方が大事だと思っています。  自分の中で一番うまくいかない経験に自分が寄り添う。 自分に伴走する感覚を私は大事にしてきました。

浦河で最初にあった人は、30代の漁師でアルコール依存症で奥さん、4人の子供がいる人でした。 お酒を巡るトラブルの絶えない人でした。  説得して医療につなげ、アルコールを3か月間絶って、心理教育を受けて退院した後、断酒会に所属してミーティングを重ねながら立ち上がって行く、そのモデルがあるわけです。  それに乗るように日夜働きかけをする。 私たちのなかには生命的歯車がすでにそなえられていて、 それを意識して使ってゆく事が私たちのイメージする対話であり、その一部として当事者研究と言う活動を今しているという感じです。  対話については当たり前すぎて気付かないでいる。  対話的に備わった一つの営みを一つの社会的な仕組みとして積み上げてきたのが民主主義社会であります。 

当事者研究をはじめる前から「べてる」には、自分ではどうしようもないことを笑い飛ばす文化がありました。  子供の世界はそのまま遊びの世界です。  子供たちが学校に行こうと思ったら、どういうわけか行きにくいという現実を語って発信してゆく、これは問題ではなくて社会で起きている何か大切な一つのシグナルであると思います。  繋がり合う事で今の学校というシステムが本当に私たちに合っているのか、という事です。

去年1年間に自殺した子供は527人に上ります。(これまでで最も多い。)  心の病気で来る外来患者はここ20年で2倍以上に増えています。  生きずらさを感じている人が多い。 家族的な背景、社会的な背景、職場の環境とかが生きずらさを招くという問題意識がありますが、 もっと大事なのはそれらが全て解消されたとしても、なおかつ私たちは生きづらいという、根源的な生きづらさを持っているんだという、生きづらさと言う経験そのものの中から実は生きやすさが生まれるんだという、生きにくさにもっと発想を変える必要がある。

自分の情けない経験、失敗した経験をどんどん前向きに発信していき、上手くいかなさ、不確かなことをみんなが堂々と発信し合える、そして生かしあえるる社会になったらいいなあと思います。

(説明が難しくて、上手く理解でいない部分がいくつかあります。)




















2025年12月18日木曜日

中林美恵子(早稲田大学教授)        ・トランプ2.0の衝撃

中林美恵子(早稲田大学教授)        ・トランプ2.0の衝撃

今年世界から大きな注目を集めているアメリカのトランプ大統領、アメリカ第一主義を掲げ各国に厳しい関税措置を打ち出すなど、国内外に多きな影響を与えている二期目のトランプ政権は、これから何を目指そうとしているのか、そしてアメリカ国民がトランプ大統領を支持する背景には何があるのか、中林美恵子さんに伺います。 中林さんはアメリカの大学院で学び、アメリカ合衆国連邦議会上院予算委員会で10年に渡り国家予算編成の実務を担うなど、政治の中枢で働いた経験がある、アメリカ政治の専門家です。 

二期目のトランプ政権は一期目と大分違う政権になっていると思います。 一期目は政治には素人であり、政治経験も軍隊の経験もないという事で、周りの意見を聞いた閣僚の選択などをしていました。 本人がちょっと変わったことをやろうと思っても、閣内に止める人が複数いた。  本人がやりたいことをやるために、反対する人を入れないために、本人の直接知っている人を選んだという事が特徴です。 一期目よりもトランプカラーが相当出る政権になっている。  移民に対するアメリカ人の脅威感というものを、二期目もしっかりと強硬な形で受け継いで実行している。  移民を強制送還するために、外から来た人を探し出し捕まえてゆくというようなことを強硬に行うようになりました。 そこに予算もたっぷり付けるというようなこともしています。  

関税については最初は中国にかなり関税をかけましたが、バイデン政権になっても取り外されませんでした。  日本も鉄鋼、アルミなどに関税をかけられて、バイデン政権になってから例外をたくさん作って、重い部分を回避してきたところがあります。 二期目になると思い切った関税をかけてきています。  物作りがアメリカになくなってしまったという事で、アメリカの一つの敗因として見ているわけです。  製造業をアメリカに取り戻したいという事です。  バラバラになった家族を作り、コミュニティーを作り、伝統的な価値感を継承してゆく大事な人間の営みだという考え方に基づいているんだと思います。

今はマネーゲーム、AI、デジタルとか,そういったものに移ってしまったことにより、昔ながらのスキルを活かすことが出来ない、取り残された人が出て来てしまった。  こういう人たちが麻薬性のある、とても安く手に入る薬に頼って、そこから抜け出せなくなって地域が荒廃し、自殺者も増え、アメリカの社会が荒んでゆく、これを直したいと言うのが製造業だという事が根底にある。 トランプ大統領を支持する人たちの中に、そういったアメリカ社会に対する危機と言うものが可成り積もり積もって、今迄の伝統的な主流派の、政治家、官僚に任せておいても今後も全然変わらないのではないかと言う気持ちが積もっていた。  そこに出てきたのがトランプ氏だった。  このぐらい変った人でないとアメリカの積もり積もったアメリカのエリート政治は直せないのではないかとおもって、かけてみた人が二期目にも出て来た。  それを生んでいるアメリカ社会を私たちが見て行かないと、このトランプ現象は、トランプ氏が退任してからも続く可能性はある。  彼は退任した後も発信するかもしれない。 

自分たちが追い詰められたという感覚持った人たちは、伝統的な主流派の政治を見えてこなかった人たちなんです。 そこに光を当てたというのがトランプさんの天才的なところで、ワシントンにいた人たちにはこれが目に入っていなかったんでしょうね。  現在のトランプさんのことを見ると、本当に極端なことを言うし、昨日言っている事と今日言っている事とひっくり返るし、いったいどんな人なんだろうと、私たちはかく乱されてしまうというところがあり、トランプ研究に走ってしまう。  トランプさんは今自分が何を考えているのか、次にどんな手を打つか、知られたくない人なんだそうです。  アメリカの或る方からやっていることをしっかり見ないと間違えますよと言われました。  長期的に見ると、何故トランプさんを選んだのか、有権者の方を見る必要があります。 

11月4日に行われた地方選挙、ニューヨークの市長選挙がありました。 バージニア州、ニュージャージー州で知事さんが選ばれました。  どの選挙区でも民主党が勝ちました。  反トランプ政権の芽がふきだしたかのように見えますが、よく見るとちょっと違いが見えます。  ニューヨークの市長選挙で当選したマムダニ氏は34歳で、イスラム教徒、インド系の方ですが、ウガンダで生まれて幼い頃アメリカに来て、国籍を取った移民中の移民です。  ニューヨーク州や市などで、今迄光を当てられてこなかった問題がどんどん膨らんだという事に気が付かされるんです。  民主党の強いところですが、民主党の予備選挙で前のニューヨーク州の知事をしていたアンドリュー・クオモが戦ったが、予備選挙で負けました。   本選挙では民主党ではなく無所属として立候補しました。 でもマムダニ氏が勝ちました。 民主党の中にも反エリートの感覚が出て来てるのではないかと思います。 今迄の政治に怒る根拠を持っていた。 過去5年間の家賃の上がり具合を見ると、25%ぐらいあがっているが、給料は1%ぐらいしか上がっていない。  自分の家賃の半分ぐらいを家賃に費やさなけrばならない人たちも出て来ている。  24%ぐらいは貧困層だと言われる。

民主党の中で起こったニューヨークの市長選挙の構図と、トランプさんが共和党の中から芽が出て来た構図は、実は同じではないかという風に言われる。  マムダニ氏が言っていることは出来るかどうか、本当にわからない、(おそらくできることは相当多いと思うが)それでも投票してみようというのはよっぽど限界に来てるのかなと言うところはあります。 アメリカの政治風土のなかにぼちぼちトランプさんが唱えたような、反エリートの意識が出て来ていて、(エリートに対する失望)ニューヨークの市長選から左側からも見えて来た。

年収でもトップの0.01%ぐらいの人は、1979年をベースにゼロと考えれば今は800%ぐらいアップしています。  トップ1%だと600%アップ、下の20%はほとんど伸びていない。     格差がどんどん広がっているという事も、アメリカ社会の暗い部分、不満が大きくなる部分だと思います。  トランプ政権が起爆剤になった要因だと思いますが、これが混乱や分断の象徴と言われていますが、ヨーロッパには来ていますが、日本も来る可能性があります。 極右派の票がどんどん伸ばしています。  トランプさんの真似をする政治家が各地に出て来ているものと思います。 それが分断に繋がっていくという事があると思います。

保守とリベラルが分断と言う風に見がちでしたが、エリート支配と生活者主義、生活者が主導すべきだという考え方というものと、グローバリズム対地域主義というものが台頭してきているので、いまはその変遷期であるが故の混乱ではないかと私は考えています。  アメリカは変革を目指す事のできる、社会実験を出来る国なんです。 アメリカが第二次世界大戦後、グローバル社会のリーダーとして、民主主義のお手本としてかなりリーダーシップを発揮してきた。  アメリカに負担や責任が押し付けられているではないかと、同盟国として責任を果たしていないのではないかと、今迄のエリート政治家だと今までのまんまのことをするに決まっているので、落ちこぼれた人に変えてもらうしかないという気持ちになるまで、相当引きずりました。 オバマ大統領は世界の警察官ではないと言った。  バイデン大統領は同盟国と一緒になって、格子状の安全保障の体制を作ってみんなで抑止力を発揮すればいいのでないかと言う言い方に変って行った。  トランプさんになったらアメリカ第一主義となった。    他の国もそうしろと、9月の国連の演説で堂々と述べている。  世界秩序が変ってしまうかもしれないという時代に入ってきています。

アメリカは日本にとっても世界にとっても重要な国です。  トランプさんの言動だけにとらわれることなく、振り回されていたら、トランプさんさえいなくなれば、アメリカは元通りに戻るという間違った期待が出てくる可能性がある。  アメリア国民は大きな壁を感じてしまっているので、トランプさんが選らばれたと認識すれば、私たちの見方も変わらなければならない。  ヨーロッパも混乱しています。  今の日本は世界がうらやましがる状況にあると思います。  日本の社会の安全さ、人間同士のコミュニケーションのいいところが残っている。バランスを取りながら日本の良さを残したら、世界中の人がうらやましがる気がしました。  

私が生まれた家は渋沢栄一の産まれた家のすぐ近くなんです。  農家で泥まみれになって遊んでしました。  知らないことに対する興味は大きかったのかもしれません。  政治は混乱していますが、アメリカには素晴らしい個人個人がいっぱいいると思います。 横並びと言う意識はなく、頑張った人にはそれなりの報酬と光の当たるものが与えられて当たり前という事で、自分は自分と言う自由があります。 日本にいる時には周りを気にしていましたが、こんなに自由なんだ、何をやってもいいんだと感じました。 お互いに認め合うという事もありました。  

来年は1月に中間選挙があります。 もし下院だけでも民主党が取ってしまったら、おそらく弾劾裁判にかけられると思います。  上院は100人のうち1/3づつ2年毎の改選なので、政党がひっくり返るという事は厳しいが、下院は435人全員が改選になるので、民主党にもチャンスが回ってくるという事で重要な分岐点になると思います。  

若い人は自分の好きなことを捜してゆくという事はとっても大事だと思います。 好きなことは深く集中してできるので、好きなことを捜して思い切りやって欲しいと思います。

































2025年12月17日水曜日

佐野稔(フィギュアスケート解説者)     ・〔スポーツ明日への伝言〕 世界への扉を開けたスケート人生

佐野稔(フィギュアスケート解説者・〔スポーツ明日への伝言〕 世界への扉を開けたスケート人生 

来年の2月にはイタリア、ミラノ、コルチナで冬のオリンピックが開かれます。 そのフィギュアースケートの日本代表の座をかけて、あすから東京で全日本フィギュアースケート選手権が開かれます。 1977年の世界選手権男子シングルで銅メダルを獲得、日本のフィギュア―界で最初に世界選手権でメダルを手にされた、日本フィギュアースケーケーティングインストラクター協会会長、フィギュア―スケート解説者の佐野稔さんに、ご自身の選手時代のことから佐野さんから引き継がれた日本のフィギュアースケートの系譜、来年のオリンピックでの日本選手への期待などを伺います。

練習は朝の6時には靴を履いているという状況です。 山梨県石和町出身です。 初めてスケート靴を履いたのは4歳です。  父が東京に行って買ってきてくれました。  兄、姉と私の3人兄弟です。 父はスケートが好きで、PTAの会長をやっていた時に校庭に水を撒いてスケートリンクをつくってしまいました。  僕は精進湖ではじめて滑りました。  小学校2年生の時に父に連れられて東京のスケートリンクに行った時に都築章一郎コーチに出会いました。  小学校5年生で川崎のリンクに行きましたが、近くの小学校にも入りました。  都築先生は厳しかったです。  上手にやりたい、いいものをやりたいと思ったのは、高校時代だったと思います。  

高校2年の時、全日本選手権で優勝しました。 その後5年連続優勝となります。  世界選手権にも出ていました。  1976年インスブルックオリンピックに出場を目指しましたが、9位でした。 その後の世界選手権では7位、1977年に東京の世界選手権がありました。 3回転の中には5種類あり、そのなかでも一番難しいトリプルルーツでした。 僕は5種類の3回転を入れていました。  規定がおこなわれて、6位でした。  翌日ショートがあり5位になりました。  最後が5分間(現在は4分)のフリーで、6点満点で、5,8が一人で他は5,9の点を出しました。  フリーは1位、総合で銅メダルとなりました。(大学3年生)

上を目指すのにはコンパルソリー(氷上を滑走して課題の図形を描き、その滑走姿勢と滑り跡の図形の正確さを競う種目)が僕は圧倒的に弱かった。  コンパルソリーの練習は日本ではなかったんです。  品川スケートリンクは西武系で堤社長と話をした時に、引退してアイスショーをやったらどうかと言う話が出ました。  約1か月アメリカのアイスショーを見に行き、アイスショーを立ち上げることになりました。 (現「プリンスアイスワールド」)

NHK杯フィギュアーが始まったのが1979年、解説を始めました。  ニュースのスポーツコーナーなどいろいろやらさせて貰いました。  フィギュアースケートは女性がするものと言う部分はあったかもしれないが、男が成績を残すことが当たり前になって来た状況はあったかもしれない。  羽生結弦さんは小学校の時に同じ都築章一郎コーチから指導を受けている。 

今度のオリンピックには女子は行けるのではないかと期待しています。














2025年12月16日火曜日

秋野太作(俳優)              ・つらいことがあればやり過ごす秋野流生き方

秋野太作(俳優)              ・つらいことがあればやり過ごす秋野流生き方

 秋野さんは1943年東京都生まれ。 大学在学中の1963年に俳優座養成所第15期生として入所。  1967年テレビドラマ木下恵介劇場「記念樹」で俳優デビューします。 その後テレビドラマの「男はつらいよ」「天下御免」「必殺仕掛人」など人気ドラマに出演、1975年から一年間放送されたテレビドラマ俺たちの旅』が話題となり、その後も10年おきにドラマ化されます。      1976年津坂 匡章から芸名を秋野太作に変更します。 現在も俳優として活躍中。 今年ドラマ「俺たちの旅」が50周年を迎え、鎌田敏夫さんの脚本、中村雅俊さんが監督し、「五十年目の俺たちの旅」と言う映画が2026年1月に公開されます。

テレビドラマ俺たちの旅』は大学生を対象にして、これから世に出る直前の3人を主人公にして、風変わりな作品でした。 終わってから何度も再放送することになり、名作扱いとなりました。 時代が移りこんで、若者がもがいていました。  ドラマを見てマネする若者が出て来ました。  「五十年目の俺たちの旅」と言う映画が2026年1月に公開されることになりました。  

母親が早く亡くなって父子家庭でした。  昭和18年生まれで、2歳の時に空襲で大分の方に疎開しました。  母は再婚で、家は前の旦那の家なんです。 義理の兄さんが2人いました。 母親は肺病になってしまって病院に入ってしまって会いたくても会えませんでした。    先夫の家で死なす訳には行けないという事で、父が母と私を連れて戦後の東京に引っ越しました。 狭い長屋で母親は直ぐに亡くなります。 近所のおばさんが「お母さんは亡くなったの。」と聞かれて、初めてあれは母親だったんだと判りました。 小学校1年から3年生までは学校は給食を食べに行くところで、一切勉強はしませんでした。  授業の時にはぼーっとしていました。  父親は銀行員でしたが、独立して印刷屋を始めますが、長屋は巣鴨にあってて、週末だけ父親が迎えにきて印刷屋のほうにいって、土曜日の夜だけ一緒に寝ていました。父親から小遣いをもらって、日曜日には一人で2本の映画を見るのが物凄く楽しかった。 夕方にはまた巣鴨の長屋に帰って行きました。 後から秋野君は寂しそうな子だったよねと友達から言われました。

大分にいた頃に弟が出来ていて、小学校1年生になる時には引き取らなくてはいけなくなって、母親の親友(永田さん?)が弟を東京に連れてきてくれました。(2泊3日)  酷い状況なので、親友(永田さん?)が半年ぐらい必死になって、私の面倒をいろいろ見てくれました。  身の廻りのもの、勉強も教えてくれて、それで奇跡的に助かった。  父は婚活をして2度目の母親が子連れでした。(同じ歳の女の子)  小学校で何故か級長に選ばれました。(女の子にもてた。) 成績が良くないことを先生が知っていたので、級長にはなれなかった。 2学期には級長になり何とか務められました。  5年、6年では学校に行くのが楽しみでした。(人気者) 

中学生のころになると、2度目の母親は可哀そうな人で、教養が無くて人柄にいろいろ問題があり、私へのいじめが始まります。 学校では相変わらず人気者で、勉強も出来ていたが、家に帰ると散々でした。  公立の高校に入り、相変わらず母親とのバトルがあり、家出のことしか考えていなかった。  日本大学法学部に入って、3年間で全部単位を取って、司法試験を受けるクラスがあってそこに入って、1年で挫折しました。 進路をどうするか考えました。

俳優座養成所第15期生として入所しました。(20歳) 仲代達也さんに影響されました。   養成所以降はバラ色でした。 養成所は3年間で、その後俳優座に入りました。 栗原小巻さんと原田芳雄と私でした。    いい先生にも巡り会えました。 

天気の悪い日は頭を沈めて、無理に表に出ないで、抵抗しないで、雨雲が去ってゆくのを待った方がいいと思います。 天が味方する時期があるんですね。

外の世界へ出るとそれはそれで面白かった。 新劇の世界の枠から違う視点で考えられるから。 テレビドラマはいろんな雑多な世界から集まって他流試合をする場所なんですよ。    ワクワクして本当に勉強になりました。  僕は渥美清さんの大フアンだったので喜んで出ました。  それから幅広く芝居が出来るようになりました。   外の世界をもっとやりたいという思いが劇団を辞める原因の一つにもなりました。   「天下御免」は自由にやっていました。 渥美さんとは非常に馬が合いました。  「必殺仕掛人」もやりました。 「五十年目の俺たちの旅」もビックリです。

父からは「金と女と健康には気を付けろ。」と言われています。 父は女運にも悪かったし、金も戦中戦後苦しい時を生きてきているし、歳をとった来ると健康も壊していたので。  健康は自分のせいですね。 健康が一番ですね。 舞台をやりたい、本当は演出もしたい。




























2025年12月15日月曜日

伊集院光(タレント)            ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編

伊集院光(タレント)          ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編 

伊集院さんのデビューは6代目三遊亭円楽さんの門下の落語家でした。 伊集院さんと6代目円楽さんとはどんな師弟関係だったんでしょうか。

僕が落語を廃業するときにも、直接には落語を辞めるなとは言いませんでした。 「じゃあ 頑張れよ。」と言うだけでした。  大師匠のところに行くのは勇気が要りました。  「辞めるというのには誰も止はしなよ。  一つのことを続けられない人間が、上手くいくわけないっけどね」と言うようなことは言われました。  一か月後に空いている日に大師匠の家に集まるようになっていましたが、兄弟子から聞いた話ですが「最近落第が来ないけど何かあったのか。」といったそうです。  大師匠は瞬間に怒るけど直ぐに優しくなる人でした。

楽太郎の弟子だというようなことは、相手側から言われるまでは辞めようと思っていました。 師匠とは全く交流がなかったです。  困らせて困ったところを応援したいという番組があって、女性の下着をつけてしゃべっているところへ、うちの師匠が突然現れるというものでした。  ラジオでしどろもどろになったのはあの時だけですね。  終わった後に、自分の立場がはっきりしていないので「今の状態は破門という事ですか。」と聞いたら、「お前が今でも尊敬しているのならば、師弟関係だよ。」と言ってくれました。  その後クイズ番組などでご一緒したりするようになりました。 ラジオの競演もしてもらえました。  

コロナが流行ってゲストが呼べない時期があり、或る番組に対して師匠がゲストに呼んで欲しいと言ってきました。(ゲストを呼べない時期で困っているのを察してのことです。) そこで対談があってアシスタントのアナウンサーが最後のころに、「伊集院さんは落語をやってはいけないのですか。」といったら師匠が「やろうぜ。」と言いだして、二人会をやることがトントン拍子でやることになりました。(2020年)  師匠が体調を崩していたりする時には、師匠のラジオ番組に出演したりする様になりました。  師匠の弟子として一番充実していたのは、二人会が決まってやって終わって、その期間は短かったが楽しかったですね。  二人会は一回だけの予定でしたが、 舞台上で後3回やろうと言ったんです。 自分では完全燃焼したつもりでした。  「死神」をやることになり自分でも工夫してやろうとしていたら、師匠がそれは「トリ」にやってもらおうという事で「トリ」を務めました。 その時の師匠は入院するほどではないんですが、完全回復ではないが大熱演しました。  疲れたから帰ると言ったんですが、私の話の後迄いて、楽屋のソファーで横になっていました。  「寝ちゃったな、聞いてはいたけど。」と言いましたが、「 見て聞いていて寝たふりをしているだけです。」と、一門の弟弟子たちは「一生懸命に見ていました。」と言っていました。 

「お前らは先人たちが削って削って綺麗な古典にしたのに、足し過ぎだ。 そんなに説明しなくてもいいんだよ。 落語は理屈じゃあないんだから、ここからどれぐらい削るかと言う作業なんだよ。 削って下さい。」と言われました。  落語のなかで「結局」と言うのに古い表現だと「とどのつまり」と言うのがあります。  「とどのつまり」を使ってもかみさんにはわからないといったら、師匠が「うーん まあな」でどうだと言ったんです。 「結局」と「とどのつまり」の両方の意味で使えることにぞっとしました。

2018年に初期の肺がんを師匠が公表しました。  手術をして翌年高座に復帰、2022年脳梗塞で再び入院。  肺がんの話はショックでしたが、また倒れたという事もショックでした。  5月に退院して、8月の国立演芸場中席でトリを務める。  9月30日旅立ちました。  師匠は一切泣き言を言わない人でした。(錦糸町で写真週刊誌に撮られた時も動じませんでした。)  お墓は群馬県前橋市の釈迦尊寺にありますが、火事になって大きなダメージを受けました。  いろいろ迷った時に、師匠だったらどういうだろうか、と言う時にお墓は必要なんです。    時間を忘れて夢中になったぐらい好きになったことに、社会性を持たしてしゃべりなさい、そうすればくいっぱぐれる事は無いというんです。 例えば野球が好きならば、社会性を持たせるという事は、野球を全く知らない人にも届く様に、面白さが判る様にしゃべるという事。 

師匠への手紙

「師匠 ここの所小言を言ってくれませんね。 ・・・60歳近くになると小言を言ってくれる人がいませんから、小言無しは寂しいものです。 ・・・三回落語会をしようと言われ、戸惑ったもののいろんな演目についてアドバイスを頂く日々は、長く不義理をしてしまった不肖の弟子としては修行生活のなかでとても充実した日々でした。・・・僕の朝毎日やっていたラジオ番組が終わってしまい、凹みに凹んで、毎日のラジオ番組なんてこりごりですと強がった時に、師匠が「これで芝浜もうまくなるかも知れねえな。」と「朝起きて魚屋の仕事を行かない気持と久しぶりに魚屋やりてえなあと思う気持ちがいつか判るんじゃあねえか。」と言うアドバイスです。・・・ 「宮本武蔵」みたいなもんだと言われて、後で宮本武蔵」の本を読んで、やっと意味が分かりました。 芝浜をやる事は無くなったけれど、今僕は昼のラジオをまたやっていると、たまにこの言葉を思い出します。 ・・・僕は師匠の言葉を胸にもう少し頑張ってみようと思います。」



















2025年12月14日日曜日

バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

 バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

エンフマンダハさんは37歳、幼い頃の事故がもとで13歳の時に失明しました。 モンゴルの大学で日本語を学び、2009年に来日、猛勉強の末に日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の3つの国家資格を取得しました。 2013年にはモンゴルで初となる視覚障害児を支援する団体、「オユンラグセンター」を設立、首都ウランバートルでマッサージ店を営みながら、地方に暮らす視覚障害児の修学支援を続けています。 

今回15人で日本行きました。  モンゴルにある唯一の盲学校の校長先生と3人の先生、モンゴル科学大学の特別教育部の主任の先生、盲学校の生徒たち3人親二人、幼稚部の先生とオユンラグセンターの事務局長。  日本に来た目的は日本での特別教育を聞くよりも見たほうが確実で、実際マネが出来るのではないかと思ってきました。  障害者スポーツセンター、筑波大学、筑波大学付属視覚特別支援学校の見学をしたりしています。  先生方が教える教材を工夫して作っているところが大変参考になりました。 私も日本に来て初めて白杖を持ったし、モンゴルでは今でも白杖をもって歩くのは難しい。 点字ブロックもありますが、途中で切れて居たり、電柱が有ったりして、逆に危ないかもしれない。  一人で行くことはなかなかできないです。

5歳のころに外で遊んでいた時にブランコから落ちて網膜剥離を起こしてしまい、段々悪化していって全く見えなくなったのが13歳ぐらいです。  学校は高校まで盲学校に通っていました。  視覚障害児は3千何百人いると言われますが、今盲学校には108人だけです。  日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の資格を取った先生から話を聞いて、自分も資格を取りたいと思いました。  大学で日本語を勉強しました。 点字の教科書など何もない状況でした。  大学も視覚障害者の受け入れは初めてなので、視覚障害への理解がなかなか得られませんでした。  いろいろな壁を乗り越えてきました。 

大学2年の時に日本の国際視覚障害者援護協会の日本語の試験に合格し、日本に来ました。(2009年) 筑波大学付属視覚特別支援学校に入学しました。(19歳)  魚が食べられなかったし、野菜も嫌いでしたので、食べものには困りました。  カレーなどを食べていました。 漢字、医学用語も大変でしたが、先生はじめ回りから助けられました。  今でもその方たちとの付き合いがあります。  家族の私への期待、応援もあって頑張ってこれました。      

帰国して「オユンラグセンター」を立ち上げたのは2013年です。 経済的な理由でモンゴルで唯一の視覚障害者の学校を辞めて行ってしまう事に対して、残念に思っていました。  日本での作文コンクールがあって3位に入ってその賞金(5万円)を「オユンラグセンター」設立に使いました。 オユンラグ=知恵と言う意味です。  今は10人ぐらいの生徒を学校に行せています。  学校へ行くための生活資金、交通費などを支給することをしています。  視覚障害の子を見つけ出して、説得して学校に行かせるようにすること自体が、大変という事もあります。 

今は10人ぐらいの生徒がいますが、親に置いておかれて孤児になってしまった子が3,4人います。  2014年に出会って小学1年生に入学した男の子が今回一緒に来ています。   やって来てよかったし、今後も続けたいと思っています。  「宝の家」と言う施設を日本人のお母さんが作ってくれて、そこを利用してサマースクールを開いています。(7年目)    生活訓練などもしています。  保護者に対しても、危険だからやらせないという様な、考え方を改めてもらうようにしています。  私も結婚して子供が出来て、1歳1か月で大変です。 来年は「宝の家」の施設を冬でもできるようにしようと思っています。  勉強したり経験できることは全て日本の支援の皆様のお陰なので、これからの人生を明るく生きる子が多いので、感謝の気持ちで一杯です。 
















2025年12月13日土曜日