2026年1月21日水曜日

原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)      ・原辰徳が語る~夢の続きのそのまた続き~

 原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)      ・原辰徳が語る~夢の続きのそのまた続き~

原さんは1958年生まれ。 1980年代から90年代中盤にかけて、巨人の4番に座り選手として6回のリーグ優勝、3回の日本シリーズに貢献しました。 選手引退後はコーチを経て2002年から2年間、2006年からは10年間、2019年から2023年までの5年間の通算17年間球団歴代最長の長期にわたって、読売ジャイアンツの監督を務め、監督としてリーグ優勝9回、日本シリーズ優勝3回、アジアシリーズの優勝、WBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表監督としても 見事優勝を果たしています。 

昨年11月日韓ドリームプレイヤーズゲームが北海道でありました。 両国のレジェンドが集まって交流の試合でした。 その時の日本の監督を担当、相手の監督が、キム・インシュク監督でした。  2009年の時は5試合戦って2勝2敗で決勝戦(世界一を争う)監督です。   40,50歳代の選手が集まっても一生懸命にやりました。  今年3月に第6回WBCがあります。  第2回WBCは星野さんで戦うものと思っていました。 そうしたら私の方に話が来ました。  西武と日本シリーズを戦っている最中なので、終わったらしっかりお話させてくださいと話しました。  受けると言う事でスタートしました。 第1回目は世界一になりました。  二回目もいいメンバーが集まりました。 まずイチローに連絡しました。 

最初イチローを3番にして世界一を取ろうと決断しました。 1番はヤクルトの青木選手、2番西武の中島でスタートしましたが、結果はイチローはあまり良くなかった。  コーチと相談した結果、イチローを1番、青木を3番にしました。  選手と言うのはプライドもあり、強くもあり弱くもあります。  そんななかでお互いが「独り言」という事で、意見交換をしました。  決勝の延長戦で2アウト2塁3塁でイチローの勝ち越し打で勝負が決まりました。  その前に2アウト1塁3塁で1塁走者を走らせました。 それで2,3塁となり相手がどう出るか相手側のベンチの動きを観察しました。  キャッチャーはベンチの方を見ています。   監督とピッチングコーチは話をしていて、何となく決断が出来ていなかったように見えました。  歩かせるのではなく勝負するんだと思いました。 イチローは4つファールが続いて、ボールもあり8球目にセンター前に打つ。   

父はWBCの日本の全試合を見てくれました。 父は優勝の表彰式をみて、感激したんでしょう、私に電話をしてきました。  「お前にもう何も言う事は無い。 本当におめでとう。」と言ってくれました。  私はプロ野球の選手になりたいという思いはありましたが、監督になるという事は全く思っていませんでした。  長嶋さんの元で3年間コーチをして、命を受けて監督になるわけです。   監督は、決断、戦法、戦術、セオリーなど当然勉強するわけです。   

父が監督をしていた高校1年の時の試合で、2アウトの時に9番(鈴木さん)がフォアボールで1塁に出ました。  サインを見ていたら初球に盗塁のサインが出たんです。   鈴木さんは果敢に走って、砂埃の舞った直後、セカンド審判がセーフと言ったんです。  あれ以上の作戦は無いと思いました。  ゲームが終わってうちの父がミーティングをしました。   1点ビハインドの中、ああいったシチュエーションで、あそこで出さないでどこで出す。  日頃からの準備があったからこそ、鈴木にスチールを出した、成功するに決まっているじゃないかといって、僕はそのミーティングのことが残っています。  そこが僕の原点でした。  僕は思い切った戦術、戦法は使いました。  

クライマックスの中日戦ではノーアウト1塁、二塁でセオリーで行くとバントで1アウト2,3塁ですが、1点が取れない場合もあります。 その時に左ピッチャーだったし思い切ってダブルスチールのサインを出しました。 (しびれましたが) 結果ノーアウト2,3塁となり、好転してクライマックスをジャイアンツが勝つことが出来ました。  成功する確率が高いことを思いこまないと駄目ですが、闇雲にと言うのは駄目です。 そのための準備は必要です。   

父はゴルフが好きで一緒に回る時には、ハンディーを2貰っていまいたが、その後はハンディー2をあげていました。  父は78歳で他界しました。  ゴルフを終わって家に帰って来て、心筋梗塞で25日間頑張りましたが、亡くなりました。  父の教えの中にチャレンジャーでなければいけない、という事があります。  三池工業高校の監督をしていた父は東海大第一高校をコテンパンにやっつけました。  東海大第一高校への監督の要請があり、静岡に行くのかと思っていて「都には学校が無いんですか。」と言ったようです。 都で勝負をしたかった。(チャレンジャー)  

心の中に目的、目標を持って、寝て朝起きると差が違います。  ゴルフもシニアーオープンに出たりして、飛距離は260ヤードぐらいは出ます。  若い頃にはジャンボ尾崎さんと廻ったりしましたが飛距離はそん色なかったですね。  ゴルフは我流でやってきましたが、教えてもらうようになって、なるほどなあと思う様になりました。  

WBCが開催されますが、相当打倒ジャパンと言う中で戦わなくてはいけないので、今年又世界一になるというようなことであれば、胸を張れることだと思います。 












2026年1月20日火曜日

いとうまい子(女優・タレント)       ・元アイドルから研究者への道へ

いとうまい子(女優・タレント)       ・元アイドルから研究者への道へ 

いとうまい子さんは1964年愛知県名古屋市生まれ。  1983年に「1億人のクラスメイト」と言うキャッチコピーでアイドル歌手してデビューしました。  ドラマやバラエティーなど数多くのテレビ番組に出演し、ドラマ「不良少女とよばれて」ではヒロイン役を演じ、高視聴率を記録しました。 その後は社会問題にも目を向けようと2010年に45歳で早稲田大学に入学、予防医学、ロボット工学、基礎老科学を専門にするなど、研究者としての道を歩んでいます。  常に新しいことにチャレンジし続けているいとうまい子さんに、人生を前向きに生きる為の秘訣や、その思いについて伺います。

今は研究よりも大学生に教えることの講義のスライドを、来週は何を教えようかとかという事を毎日書いている感じです。  4年生を担当しているので卒業論文についても担当しています。(初年度) 

1983年に歌手としてデビューしました。 ドラマ「不良少女とよばれて」ではヒロイン役を演じ、高視聴率を記録しました。  デビューして5年ぐらいで事務所を辞めました。  青春映画なので安心していいよと言われたら、ある時突然脱ぐこと言われて、実は撮影前から私が脱ぐという事が決まっていたようでした。  仕方なくやりましたが、その後写真集でも脱ぐという事を言われて、飛び出すように事務所を辞めました。  それからは10年ぐらいは親しくしてくれていたスタッフなども見向きもしてくれなくなりました。  仕事はなかったが舞台だけはありました。 30歳過ぎまでは地をはいつくばって生きている感じではありました。 段々周りの人の力添えがあって生きているんだなと感じるようになりました。 

恩返しをしたいと思うようになりました。 大学に入って恩返しできるものを考えてみたいと思って、大学に進もうと思いました。  兄が飼っていたゴールデンレトリバーの「アトム」を一時期預かって飼っていた時期があり、アトムが「生きているだけでいいんだよ。」「そのままでいいんだよ。」って、教えてくれました。  嬉しい時には本当に無邪気に喜び、悲しい時にはしょんぼりするんです。  自分らしく生きて行こうと思いました。 

大学に入る前にある仕事で教授からの話を聞いて、医療の現状において、ちょっとでも自分で予防すれば、医療費もかけずにもっと幸せに健康でいられるのにという事を聞いて、予防の大切さという事が頭に残っていました。  予防医学を学べる大学を捜して、2010年に早稲田大学人間科学部eスクールに入学しました。 (その前の面接では3人の教授から、貴方のような職業の人はすぐ辞めるから入れたくないと同様に言われました。) 学校は27年振りで本当に大変でした。(45歳)  俯瞰して観る自分がいて、そうすると人生楽になります。  予防医学を続けるつもりでしたが、先生が定年退職という事で行く当てがなくて、友達からロボット工学を薦められました。  大学院人間科学研究科修士課程へ進学、そこで作ったのがロコピョン、老人と共に一緒にスクワットするロボットを作りました。

大学4年までではまだ恩返しできるところまでは来ていないと思って、大学院へ進みました。企業の方と一緒に開発したのがロコピョンでした。 ロボット工学は修士課程迄でしたが、博士課程は違う事を始めました。  基礎老化学の講義があって凄く興味がありました。   その教授に相談しら、教授会でOKがでれば引き受けられるという事でした。 その教授会の重鎮の方々が来て、ロボットをやっている人間が生命科学なんて無理だと言われました。  教授たちがいろいろな質問をしてきましたが、基礎老化学の講義を2年間しっかり勉強してきていたので全部答えられました。  OKとなり博士課程は基礎老化学の方に入りました。    

全然知らないことを学びたいという事が根底にあって、誰かが扉を開いてくれてそこに入ってしまうという感じかもしれません。  カロリー制限模倣物の探索と言うのをやっていました。 カロリー制限をするとどんな動物でも、健康寿命が延びるんです。 がん、疾患、糖尿病とかに罹らず健康なまま寿命を迎えるというのが報告されているから、人間でも行けるはずですが、カロリー制限はつらいですね。  赤ワインに含まれるレスベラトロールと言う成分はマウスではカロリー制限模倣物で、それを大量に摂取すると若いまま死を迎えるといういことが発表されて、サプリメントも出ています。  しかし人間には誰も証明されていない。  

日本人が食べる日本ならではの食材にそういった化合物が含まれていたら、いろいろ組み合わせて食べたらカロリー制限していないのに細胞が勝手に勘違いしている物質があるのではと、それを捜して実験をしていました。  博士課程でずっとやっていて、その後研究生になっても探していましたが、去年の3月に期限切れで追い出されて続けられなくて、ある紹介で今は東大の研究室のタンパク質などの構造解析をやっています。

ヒューニング、「ヒューマン(人間)」と「チューニング(調律)」を組み合わせた造語で人が本来持っている能力を最大限に引き出し、最適な状態に調整することを指します。    私がさ迷って這いあがってきた、これが言語化されているという事が判って、こっちの方が大事だという事で、ヒューニングを教えたいと思いました。 目の前のことを一生懸命にやると何かに道が必ず開けます。  しかも「感謝しながら謙虚に」、これに尽きます。 誰も幸せにはしてくれない、幸せは自分が感じるものなんです。  










2026年1月19日月曜日

大藏教義(能楽師狂言方)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠         

大藏教義(能楽師狂言方)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

私(大藏基誠)の父の弟(大藏吉次郎)の長男が大藏教義です。(従兄弟)  コロナ前まではNHKの職員の方に狂言を教えに父(大藏吉次郎)は来ていました。 祖父の代からで40年ぐらいになります。 今回101回になります。(9年)  

狂言は基本的には喜劇です。  人間が失敗してしまったり、日常生活の中でしでかしてしまう、慈愛に満ちた笑いで包んでくれるような優しい笑いがテーマです。  いい笑いはお客様が家に帰って布団に入って、思い出してフフッと笑うのがいい笑いなんだよと言っていました。狂言は能と共に室町時代から約700年間受け継がれてきています。  狂言をやっているとお化粧をするのかとか(化粧はしない)、かつらは被るのかと言われます。(ほとんどの場合は現代の普通の髪型のまま演じます。)

言葉が難しいとは言われます。  能の方が難しい言葉使いです。  聞いていれば段々判って来ます。

「名乗り」は必ず、能でも狂言でもあります。 戦の時の「名乗り」から来ているのかもしれない。  舞台は何もないので想像力を使ってみてもらいたい。  狂言に出てくる女性は皆強いですが、根は優しい。    

「髭櫓」のあらすじ

大髭が自慢の男が、大嘗会で犀の鉾を持つ役に選ばれたと言って喜んでいる。だが、新しい装束を仕立てるという話に妻は「うちは貧乏でそんな余裕は無い」と役を断るように迫り、さらに「その髭があるのが悪い」と自慢の髭を剃り落としてしまえと言ったため、怒った男は妻を打擲する。これに対して妻は近所の女たちと示し合わせ、熊手長刀などを持った女たちを引き連れ攻めてくる。男は髭を守るために髭の上に櫓()を組んで立ち向かうが多勢に無勢、ついに巨大な毛抜きで髭を引き抜かれてしまう。

大蔵流では原稿が180曲あります。 能っぽいものもあります。 間(あい)狂言も入れると300曲近くあります。 

「鈍太郎」のあらすじ 

鈍太郎は3年ぶりに都に戻り、下京の本妻と上京の愛人のもとを訪れます。しかし、どちらの女性も鈍太郎を信用せず、戸を開けてくれません。本妻は棒使いの男と、愛人は長刀使いの男と住んでいると嘘をつき、鈍太郎を追い返します。失意の鈍太郎は出家を決意しますが、後に本妻と愛人は鈍太郎が本物だと知り、出家を止めようとします。 最終的に女性たちの手車に乗って囃しながら退場する滑稽な物語です。

狂言でも大蔵流では最高級ランクの「釣狐」、「花子(はなご)」、「狸腹鼓」を私(大藏教義)はやらせてもらいました。  「狸腹鼓では母親の母性を如何にだすかと言うのが難しい。   「狸腹鼓」は、猟師に狸をとることを思いとどまらせようと老尼に化けた古狸が、正体を見破られ、命乞いのために腹鼓を打ってみせるという狂言。数多い狂言の曲のなかで最も重い曲とされる。   


狂言ではオノマトペ(擬声語)を用いる。  障子を閉める音、お寺の鐘の音、犬、鶏の鳴き声とか。  










  

2026年1月18日日曜日

串田綾香(「アール・ブリュット」 アーティスト)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

串田綾香(「アール・ブリュット」 アーティスト)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 

NHK障害福祉賞は障害のある人自身の貴重な体験記録や、福祉の分野での優れた実践記録に贈られるもので、串田さんんは463点の応募の中から最優秀賞に選ばれました。  奈良県在住の37歳、小さいころから人と会話するのが苦手でした。 周囲に適応するあまり体調を崩し、20歳の時に広汎性発達障害と診断されます。 静養しつつも焦燥感にかられるなか、絵を描くことで自信を取り戻し、再び人や社会とつながるまでの日々を「アール・ブリュット」と題して綴りました。 

受賞については、柳田邦夫先生もおっしゃっていましたが、「アール・ブリュット」というテーマが大きかったのではないかと思います。  「アール・ブリュット」と言うのは、正規の美術教育を受けていない人が、自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現したり、美術作品をさすそうです。  私は絵の専門知識はゼロで美術に成績も並み以下でした。 

今迄お世話になった方々への感謝を伝えて、その思いを繋げたいと思って応募しました。 自分の苦しみを見つめて外に発信する事は辛いと思いましたが、伝えたいことが大きかったので覚悟を決めました。 8000文字近いと思います。 

冒頭部分

『普通になりたい。 私は今まだ溜め込んでいた感情をすべて吐露するかのように、嗚咽しながら泣きじゃくった。 「何かあった。」母は優しい声でしかし動じることもなく、私に尋ねた。  クラスの子が私のことを普通じゃないって、仲間はずれにする。  何で私は普通になれないんだろう。 「普通じゃないって個性的という事でしょ。 個性的な人って面白いから私としては少し羨ましいけどな。 でも仲間は外れは辛いね。」 母はいつだって優しい。 私はそんな母が大好きだ。』 

これは小学校低学年の頃です。 自分が属する集団の大多数が普通だと思い込んでいました。 私は会話が苦手で常に緊張して、話せなかった。  クラスの大多数の人について模索する。 ノートにどんな風に過ごしているか、どのように会話しているのか、などをメモして自分なりに整理していました。  答えが見つかるのではないかと思いましたが、間違った答えが見つかりました。 それを模することが社会で生きてゆく中で、正解だと勘違いしてしまいました。 

「高校生になり私が擬態することを覚えた。 そうすると友達のいなかった私の周りに一気に友達が増えた。 しかし、過剰に人に合わせるという事は、本当の自分を殺すという事。   気付くとその反動から心はからからに乾いてゆき、まるで壊れかけの機械のように私の心は空っぽになった。」 この部分です。 

他の人が笑ったら笑ったりとか、気に入られようとしていました。 相手中心で、きっとこうしてほしいんだろうなとか、そういうことを察して自分が動いていました。  自分の身体と心が離れてゆくような感じでした。  高校3年間その状態が続いて、その後は精神疾患でどうにもできなくなって休養した感じです。 クリニックに行って広汎性発達障害と診断されます。(20歳過ぎ)  生まれつきの脳の特性によるもので、コミュニケーションが苦手だったり、得意な事と不得意な事に大きな差が有ったりします。  私の場合は情報処理能力が低くて会話が苦手なんです。 

医師から「今までお疲れ様です。」と言われて、涙が止まらなくなりました。 今迄の辛かったことがバーッと流れ出るような感じでした。  気持ちが少しずつ楽になって行きました。  同級生が就職、結婚などのうわさを聞きましたが、引きこもったままで自分はこのままでいいのかなと思いました。    

一人の或る製作動画を見て、自身の内側にあるものを描き続けたいと思いました。  自分の描きたいものが形になったと思いました。  最初のものは点描画でした。  使っている色は明るいものです。  心の中はまだうつうつとしていましたが、描き出すと明るい色が自然に出てきました。  衝動のままに描く「アール・ブリュット」   私の絵は構図も独特で線にゆがみもあります。  生きる事、命を尊重することの表現が私にとっての「アール・ブリュット」だと思います。  

作家登録をして作品が採用されると、収入を得る事が出来る福祉団体を知る事ができました。登録をしていろいろな企業からオファーがありました。  社会とつながるきっかけになり感謝しています。  その後就職をサポートして頂き、今の基盤ができました。   フルリモート勤務で週4日で仕事をしていて、 大半は絵画制作に宛てています。  会話の苦手な私でもハードルの低いコミュニケーションだと感じています。 

体験記を書くことによって、かなり上質な自己整理になりました。 3日間で書き上げました。 支えられていたばかりだと思っていましたが、私も受賞を受けて私も誰かの役に立ってたらなと思う気持ちが強く芽生えました。 アートを通じたピアサポート同じ体験をした仲間(ピア)が相互に助け合 う(サポート)こと)を始めてみたいと思いました。  3月には講演、ワークショップ、原画展示などをさせていただくことになりました。   会話が苦手なのでその私が考えるコミュニケーションとはと言うところを、絵を通じて伝えていきたいというところのサポートを考えています。 今いる環境が本当にあっているのかと言う問いかけをして欲しい事と、自分を受け入れてくれる、理解してくれる環境が有れば、その人の個性や価値は180度変わりうるという事を伝えたくて、応募しました。   

体験記の結びの部分。

「これからも企画やイベントなど様々な人との出会いを通じ、多くの人と未来と言う大きなキャンバスに、可能性と言う色を塗り続けることで、誰もがそのままの自分で輝ける世界を創造してゆく、私の創作活動はそのためのちいさな一歩だ。」

柳田邦夫氏の選評の一部。

「人は自分の内面を表現できるようになると、人と交わえるようになり、自己肯定感を持てるようになるものです。  これからも自分をいろいろなかたりで表現するように、道を捜してくださいね。」

私は環境に悩んで環境に助けられてきたので、環境の大切さを今後も絵を通じて伝えていきたいと思います。

「声」  岸田さんの詩

曇る小瓶のコルクを外す  そっと広がる星の砂  どれも誰かの宝物

時々混じる水色を  声は風  今日も種をふるわせて






 









  








2026年1月17日土曜日

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて 

まもなく阪神淡路大震災から31年、5時46分が発災の時刻です。 阪神淡路大震災の発災の直後から市民をささえる支援活動に奔走し続けた俳優の堀内正美さん(75歳)、震災後俳優を続けながら神戸で被災地を支援する「頑張ろう神戸」の活動を始め,NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を設立して追悼行事も行い、犠牲者の遺族に寄り添う活動を続けて来ました。  堀内さんにこれまで語ってこなかった震災の時の経験や、当時を振り返って今何を思うのかを聞きました。

僕は東京生まれの東京育ちで、神戸に移住して11年目に阪神淡路大震災と遭遇しました。   いまだに当時の震災のことを語れない人がいます。  連れ合いを、親を、子供を、友人を亡くされた方それぞれに喪失と悲嘆ってそれぞれに違って、一概に何年経ったからもう忘れません?、生きている方が大事だから、みたいな話はなかなか経験できないという事を凄く感じます。   濃厚な日本の文化は関西から始まったんだろうなと思って移り住みました。 神戸は僕としてはぴったりな場所でした。 

六甲の北側に住んでいました。  床が真下からドンと突き上げられました。 身体が浮く感じで、そして床に落ちる感じです。  次の瞬間に地底から地鳴りがゴーッと迫って来て、家がバリバリバリと揺すられました。  横にいる息子に覆いかぶさるしかなかった。  洗面所に行こうと思ったら扉があかないんです。 運悪くモップが斜めになっていてあきませんでした。 (扉の周りには絶対棒は置かないようにして下さい。)  南を見たら煙が立っていました。(火災と思った。) 直ぐに車で飛び出しました。 スーパーの建物が倒れて道路をふさいでいました。 衝撃的でした。  倒壊している家から人を助け出そうとしている人たちを見出しました。 (当時2℃) 僕は車から降りる時に手袋マフラー、防寒着を着こんでいきましたが、 助け出そうとしている人たちの姿はほとんど素足で浴衣とか、ステテコとか、寝ていた状態からの姿で必死になって、助け出そうとしていました。

助けられた人もいましたが、梁が動かせなくてどうしても助け出せない少年がいて、火がどんどん回って来て、母親が泣き叫ぶのを引きはがして、そんな自分の無力さ、助けられなかったことに、目頭から目じり迄ナイヤガラのように涙が出て、そんなな経験は初めてしました。  自分の行為がそれでよかったのか棘のように刺さっています。(一緒に行かせてあげればよかったのかもとか思うとか)  

その場にうずくまっていたら「何ぼーっとしてんだ。 早く来い。」とその時に思い切りひっぱたかれた感覚、でもそこに希望が見えたんです。 自分でやらなければと言う気付きのきっかけになりました。 震災が火曜日で、僕がラジオのパーソナリティーの番組の金曜日でした。 その番組では安否の情報、電話のやりとりなどしていました。 人が足りないと思って木曜日の夕方早めに行きました。 局の人間から連絡が入って、「堀内さん 来ないでくれ。」と言われて、「局は全壊です。」 スタジオは4つあるが3つは潰れて、残った機材を持ち込んで1つはなんとかそこでやっているという事でした。 ただ余震がきていつ潰れるかもわからないから、来ないでくれと言う連絡でした。 でも局に向かいました。  

大丈夫そうだと思って中に入って行ったらぐしゃぐしゃでした。 余震が来ると壁から落ちてきました。  そんな中で手伝いましたが、内心は怖くてしょうがなかったです。 13階建ての2階の部屋でいつ崩れるか判らない状態でした。  トイレに行く振りをしてビルから出ました。  車に乗ってエンジンをかけたら、ラジオに今やっている仲間の声が聞こえるんです。 淡々とした声が聞こえてきていました。  そのまま車で帰る事は出来ましたが、戻りました。

電話を受けると混乱している人なのでなかなか切れない。  「頑張りましょう。」と言うと電話が切れるんです。 (同じ目線での言葉。) それまでは「大丈夫だからね。」と言った上から目線的な言葉だった。   「頑張ろう神戸」を立ち上げる。  神戸は150万人都市ですが、山側には半分近くが住んできまが、道路は壊れていなくて、スーパーとか店は全て開いていまいた。  避難所では冷たいおにぎりを1つを家族4人で分け合って食べている時に、スーパーに食べ物の確保をしています。  僕がポリ容器で水を運んでいたら、「頑張って下さい。」といってその人は車の洗車をしていたんです。 その人たちはいけないのではなくて、何をしていいのか判らないからそうなってしまう。  これを記録に残さないといけない。

東日本大震災の時にも同じようなことを繰り返している。 遠い地方からお湯を運んでいますとか、牛乳を、支援物資を運んでいますというようなことをメディアは発信していた。  失敗の記録をちゃんと伝えていたらそうはならなかったと思います。 お湯だったらすぐ近くから運べるでしょう。  隣町同士が協力する。 都市間協力とか。  それが日本の文化、「困った時にはお互い様」「向こう三軒両隣り」それが壊れてしまったから今みたいな時代になった。 それをもう一回再生するしかない。  広島では原爆のときには地域の協定が出来ていた。  腐るといけないということで焼きおにぎりがうすぐに届いた。 被爆して生き残った人は10日間食べるものに困らなかった。 そういう発想で助け合う仕組みを作らないと同じことを繰りかえす訳です。  

救急バックは被災者にそのバックが提供できれば、少なくともその方は2泊3日分ぐらいの食べ物飲み物を渡せるわけだから、他者の為のバックとして自分が預かっていると考えれば、おたがいに有効活用が出来るのではないか。  手紙、名前、男性、身長○○cmとか書いてあるバックを全国から、それを被災地に届ける。 東本日本大震災の時にはそれを実施しました。 実名付き合いをすると親戚付き合いのようになります。(リンゴ、サンマなどが届いたとか、私に連絡がありました。)  熊本の方が岩手に届けたバックで岩手の方と繋がって、今度は熊本の方が被災したんです。  今度は岩手の方がその方の支援を始めるんです。 支援を必要としてい居る人が何を必要としているかを知ることが大事です。  そのためには個人と個人が繋がることが大事です。 地域のインフラとして支え合う仕組みと言うのを作って行かないと、救える命が救えなくなる。 

喪失するという事は、自然災害だけではなくて、事件、事故、自死もあります。 残された家族の人たちが、涙を流せる場所がないので、プラットホームを作ると言いったら、私たちも行きたいといって、来てくれるようになりました。 今をどうやって生きているのか語り合うような関係が1月16日の夜に繰り広げられるようになりました。  12月31日が大晦日ですが、ここの地域の人たちは1月17日が終わるとやっと新年なんです。 1月16日は大晦日なんです。 そんな場になっています。  場があれば人は集まって来て、そこで何かが始まる。 社会って、困ったこと、苦しい事、しんどい事、困っているんだという事をまずいう事、今の社会は言えなくなってきている。  声を出すことがまず大事だと思います。  人を信じて弱いところを見せる、それしかないいじゃないかなあ。  手を差し伸べてくれる人は必ずいます。




















2026年1月16日金曜日

むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

 むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

千葉県の写真家むらいさちさんは明るく淡いパステル調の作風が特徴です。 陸上だけではなく水中で風景や生き物を撮影する方です。  写真なのにどこかメルヘンチックで絵画のような作風は“ゆるふわ”と呼ばれて、展覧会には毎回多くのファンが訪れます。 去年は念願だった南極での撮影を実現して、今年夏には大規模な写真展を控えています。 むらいさんに“ゆるふわ”写真の魅力や自分のスタイルを確立する迄の歩み、撮影に込める思いなどを伺いました。

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、カメラマンになりました。 手元には写真集があります。 全体的にふわっとした感じです。 “ゆるふわ”は自然と定着した感じです。   シャッターを押す時って、心が感動した時なんですね。  綺麗なもの、明るいものを見た時に心が反応します。  試行錯誤する中で作品が出来上がって来ました。  海のなかは明るい青が基調になっています。  見せたいところだけにピントを合わせて、あとはふわっとぼかすようにすると自分の思いも伝えやすいです。  ストロボを使っているので変に影が出ないような撮り方をしています。(黒が好きじゃあないんです。)  絵と思われるような写真を撮っています。  

かき氷とシロップの写真もカラフルです。  下が黒いテーブルですが、鏡みたいに反射してうえがリアルで下が非現実の世界と言う風に対比させることによって、ファンタジーな感じが出せます。  2025年は色々なところで展示会をやらせていただきました。  12月に新宿で南極での写真を展示して、ペンギンに沢山の人が喜んでもらえました。  

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、27歳の時にダイビングの雑誌社に入る事になりました。 水中写真はそこから勉強を始めました。  モノクロで撮っていました。   自由に撮りたいという思いがあって独立しました。  当時はリアルに、瞬間を写す、きっちり写す感じでしたが、違う路線で戦おうと思いました。 陸上ではふわっとした写真を撮り始めていたので、水中に取り込めないかなと思いました。  試行錯誤を重ねているうちにデジタル化になって、何枚も撮れるようになって個性が出せるようになりました。 ふわっとした明るい写真を撮るようになりました。  普通に撮ってくれと言う依頼と、ふわっとしたものとが半々になって来て、自分は“ゆるふわ”だけで行こうという時期があり、そちらに舵を振りました。 (40歳ぐらい)  

今や認められて、明るくふわっと撮る人も凄く増えてきました。  世界中の南の方、東南アジア、ハワイ、インド洋とかで海辺が多いです。  カメラを持つとカメラの目になるんで、身の回りのものも撮ったりもします。  日常でもいろいろ刺激があるので楽しいと思います。

子供のころから南極に憧れていました。  「南極物語」の霞の中からタロウとジロウが走ってくるシーンが今でも鮮明に覚えています。  50歳になって今ならいけると思って、行くことになりました。(2年ほどの準備期間)  アルゼンチンの一番南の街から南極へクルーズ船が出ています。 その街まで飛行機で2回乗り継いで2日かけて行き、そこから船で南極にいきました。  20日間のクルーズ船でいろいろな島を回りながら南極まで行きました。 南極ではクリオネにも出会いました。  

サウスジョージア島では一面ペンギンだらけでした。(衝撃を受ける。)  数頭のペンギンが居て、一番前のペンギンが海へ飛び込む瞬間の写真は一番思い入れがあります。  クルーズ船内でのフォトコンテストがあって、この写真を出したら1位になってしまいました。   僕の“ゆるふわ”写真をみてジャパニーズスタイルという名前を付けてくれて本当にうれしいです。  僕の目標は写真で人を幸せにすることなので、この写真を撮たらだれかが笑顔になってくれるのではないかという思いが根底にあって、今一番熱いのが水中写真です。  そこを追求していきたいと言う思いがあります。 水中は毎回環境が変わるので飽きないです。 































2026年1月15日木曜日

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER 

徳本さんは50歳、鳥取市で110ヘクタール(東京ドーム24個分)の大規模な面積で米作りを行っています。  田植えを行わず、水を張った田に直接種を蒔く灌水直播や水を張らない田に、種を蒔く乾田直播、ドローンの活用など革新的な技術で低コストの米作りを成功させ、SNSで動画配信しています。 徳本さんは消防士、タレントのマネージャ―、歌手、ITベンチャー役員など遍歴し、2012年に故郷鳥取にUターンして、農業を始めました。

米の出来は全体的には悪くなかったんですが、後半で直接種の物が取れなくなってしまいました。  鳥が田んぼに蒔いた種を食べていくんです。  対策はしてきたんですが、想定していなかったようなことが起きてしまいました。  灌水直播の為の専用の機械はあります。 ドローンで種を蒔くアプローチもしています。  7割が灌水直播で3割が田直播です。 2019年から始めましたが、最初は田植えをしていました。  直蒔きには切り替えたいとは思っていました。  直蒔きの試験は繰り返していました。  倒伏しづらくて収量が多い品種を選ぶようにしています。 「虹のきらめき」、「しきゆたか」など。 「コシヒカリ」などは茎が細くて上に伸びる品種なので倒れやすいです。 110ヘクタールを2人で管理することになりました。 農地は全て借りています。 地権者は約200人です。 出荷先はJAと民間、半々ぐらいです。  

鳥取のJAは生産費払いと言う形で農家さんから米を引き取るというやり方に変えました。 (経費プラス儲け)  鳥取では1ヘクタール未満の耕作者は84%です。  面積が小さくなるほど生産原価は高くなる。  60kgで2万2000円です。  うちでは生産原価は60kgで1万円はきってくるぐらいにきています。  

ドローンで種を蒔く以外に肥料を撒いたり農薬を散布したりしています。 ドローンに衛星のデータを読み込ませて、地力マップ、稲の生育状況などをドローンに読みこませるという様な技術が進んできていて、葉っぱの緑が濃いほど肥料が効いていて、薄いとチッソが不足しているので、濃淡に合わせてドローンが勝手に調整してくれるんです。(必要な場所に必要なだけ肥料を撒く)  10~15%肥料代の節約になります。 トラクターの自動運転システムを使っています。  SNSで動画配信しています。  見る人は農業経営者が一番多いです。 

今年で7年目になります。  消防士を5年間やって、歌手になりたい夢があって東京に来ました。  オーディションをけてそこそこ行きますが、デビューまではたどり着けなかった。 芸能マネージャーをやって、それがデヴィ夫人でした。   海外にもいろんなところへ連れて行って貰えました。 いろいろの人と会う事によって、自分はいかに狭い世界で生きてきたのか、という事を学びました。 日本は本当に恵まれ国だという事も判り、挑戦しないと駄目だと思いました。  又音楽の道に入って行きました。  路上ライブもしましたし、いろいろ売り込みもしました。  いかにして足を止めてもらうかを考えました。 デビューは結果的には出来ませんでした。  結婚することになったので稼がないといけないと思いました。

IT産業で働きたいと思って、六本木の飲む場所でバイトをしながら経営者と仲良くなっていき、ある会社に参画しました。  営業からスタートして、成績がどんどん良くなっていきました。(ストリートライブなどで鍛えたことが幸い。)  最後には取締役になりました。   収入が何十倍にもなり一時家にも帰らずに毎日飲み歩いていました。  二人目の子が出来て、家事もいろいろやって調理の材料がいまいちだと感じて、鳥取の原風景を思い出して、人間の幸せとはああいう事なのではないかと思いました。 子供たちにそういった豊かさを味わってやりたいと思いました。  リーマンショックで会社も非常に大きな打撃も受けました。  これからは農業が重要になるのではないかと思いました。  

農業をやるなら最初から事業でやりたいと思いました。  有機農業は流通の全体の0,4%ぐらいです。   これを10%にしようと、これを大規模化を掲げてスタートしました。   最初はジャガイモなどの野菜の大規模化を始めました。  信じられないぐらいの失敗の連続でした。(3年続く 地域の信頼もなくす。)   全国の優秀な農家さんを渡り歩きました。得たものは農業は科学、と経営だというキーワードでした。   土壌分析をして土作りも科学的視点を持って、野菜に関しても科学的視点から見つめ直して、段々畠の様子が変わって来ました。   収穫量が変って来て、有機農産物も軌道に乗りました。  適時適作、その土地ににあった作物を選ばないと農業は成長していかない。  鳥取のエリアはほとんどが水田です。  水はけが悪い。 野菜の一番の天敵は湿害です。  米作りにシフトしていかなければいけないと思いました。 

2019年に米作りに転換しました。 最初は7ヘクタールからスタートしました。 失敗もありますが野菜より楽で、失敗も投資だと思います。  これからは大規模農業経営が求められて来ます。  リスクが有るが新しい生産性の高い技術を試しながら、水田技術も変化していかなければならない。   田んぼは信頼性がないと貸して頂けないので、野菜で失敗して大変でしたが、地域の方はちゃんと見てくれていると思います。  生産性の高い米作りをやってゆく必要があると思います。  2030年には1000ヘクタールを30人程度を考えています。  水路の管理が大変です。  土砂が溜まったり、イノシシなどが増えて畔を崩して水路が埋まったりします。  田んぼのインフラの維持をどうするかという事が非常に大きな問題としてあります。  少ないマンパワーでも維持できる方向にしていかなければならない。  3枚の田んぼを1枚にまとめ畔を少なくするとか、水路ではパイプラインで地下に埋めるとか、インフラをリフォームしていかないとコメの生産基盤の維持が難しくなっている。

農業は本当に素晴らしい仕事だと思うようになって来て、自分で作詞、作曲をして「I AM A FARMER」という曲を4年前に作りました。

*「I AM A FARMER」  詞、作曲、歌:徳本修一