2025年12月5日金曜日

棚原喜美枝(一般社団法人ある代表理事)   ・生きていればOK 沖縄・“ケアリーバー”支援者

棚原喜美枝(一般社団法人ある代表理事)   ・〔人権インタビュー〕生きていればOK 沖縄・“ケアリーバー”支援者 

沖縄では子供の貧困が大きな問題になっています。 とりわけ児童養護施設や里親家庭などから離れた子供はケアーから離れた人、いわゆるケアーリーバーと言われています。 そうした子供や若者はその後の生活の中で、困難を抱えることが多く中に命の危機にある人もいるなど、どう支えていくか課題になっています。 今回はそんなケアーリーバーの若者たちの相談室、「虹のしずく」をつくり包括的な支援を先進的に担う棚原喜美枝さんに伺いました。

ケアーリーバーと言うのは、児童養護施設や里親家庭でケア―を受けていた子供たちが、そこを離れるという意味でケアーリーバーと言われています。 18歳で高校を卒業すると措置解除と言って、社会的養護の解除になります。 措置延長制度もかなり充実してきました。 まだ居たいという事になれば、年齢を区切らないことになっています。 「虹のしずく」は2019年から開所していて、相談台帳上は400人の子供たちの登録があります。  27,8歳の子もいます。  18歳になるとうちに繋がって、子供たちと毎月120件ぐらいラインで連絡したり電話したりして毎月関わっています。  一番多いのはラインでの相談です。 女性が6割を占めています。 若年で妊娠出産された方が多いです。 私たちが行ってお話を聞くこともあります。 

出前講座の「命の教室」で性教育もしています。  若年妊産婦の支援をしています。  経済枝的な問題はダイレクトで切実です。  非虐待児の入所は6割に達していると思います。  パートナーからのDVもありますが、自分が不利益だと判っていても切れないという事を言います。   負の連鎖になってしまう。  自分の傷つきの部分をきちんとケアーできていないから、同じようなサイクル、人間関係のサイクルに入ってゆく。 トラウマケアーが必要なんだと思います。  昨年からトラウマ治療を始めました。  本人が子供時代に受けた逆境体験を引きずっていて、その傷を癒さない事には先に進めないという事が判りました。    精神科に通院している子が多いんです。  400人のうち40人程度が通院しています。  通院同行が20人います。  

トラウマの原因は、子供のころに適切に扱われなかったので、母親が泣くのは自分がいい子にしていなかったからだとか、何かしら自分を自虐枝的に見てる、自分はいいよとさがってしまう、被害体験があると似た様なシチュエーションの場に行けなかったり、一人で行動できなかったり、パニック奔走?が起きてしまったりする。 無力な自分しか自覚できていないから、そういう場面に出くわさなようにしようとすると、外に出られないとかあります。   多くは性の被害が多かったです。 他には近親者(親とか)からの暴力。 

トラウマ治療はTF-CBT(Trauma-Focused Cognitive Behavioral Therapy 米国で開発された子どもを対象とした治療プログラムです。1990年代に性的虐待を受けた子どもの治療に試行されたのを皮切りに、養育者の治療参加、子どもの発達的要素への着目など、修正と改良が加えられながら発展してきました。)トラウマフォーカスト認知行動療法を取り入れてやっています。 約1年ぐらいかかります。  自分が悪かったのではないんだという事がはっきりしてきます。   辛い箱を開ける前にリラックスゼーションを行います。  当時の記憶に戻って再挑戦して、違う自分を作って行って、あれは過去に起きた事だったと自分に中で整理をつけると、同じ穴に落ちない。  

途中でリタイアする子もいます。 誰にでもできる事ではないです。 トラウマが邪魔をして自分に有益なことを選択しないことがある。 それを除くことによって選択肢が変って行って、出会う人たちが変ってくる。 自分の環境が明らかに変わってくる。  

私が施設にいる頃、15歳で卒業して高校生になれない子が二人いて、就職しました。 施設を出て自分の生計を立てていきます。  二人は目の届かない県外に行ってしまいました。  持病があって亡くなってしまったという事がありました。 ちゃんとつながっていればそんな事は無かっただろうと思って、後悔しました。 社会が悪いと思いました。 「虹のしずく」ではシンプルに「兎に角生きていればいい。」と子供たちに言い続けています。  この仕事をしていて10代で亡くなってゆく子が他にもいるんです。  

必要なことはやるという事でやって来て気が付いたら、認可外保育園もやってしまっています。 新生児から預かります、という事をコンセプトにしています。  子育て支援を大事にしています。 出産後1か月に赤ちゃんを特に大事にすると、母子の愛着を育み易くなります。 生後半年の時期は手厚くやってもらいます。  自分の子育てを通して、自分の育ち直し、育て直しをするというのが、今効果的に働いているのかなあと思います。 自分の子供時代を、自分の子供を通して、親の立場を比較できる。 自分の親と、親になった自分を比較できる。  辛い経験があるからこそ,人の痛みが判るので、自分の周りにいる子たちを底上げする力が彼らにはあると思うので、それを伸びやかにやって欲しい。














2025年12月4日木曜日

川瀬佐知子(大阪赤十字病院 看護師)     ・〔人権インタビュー〕 命の保障がない中、人権とは

 川瀬佐知子(大阪赤十字病院 看護師)  ・〔人権インタビュー〕 命の保障がない中、人権とは

川瀬さんはこれまでジンバブエでのコレラ救援事業や、ハイチでの地震災害救援などを経験してきました。 2023年7月にはパレスチナのガザ地区に派遣され、現地の看護技術の向上に取り組みました。  しかし派遣中の2023年10月イスラエル軍とハマスとの戦闘が始まり、川瀬さんは爆撃を目の当たりにするなど混乱の中で帰国を余儀なくされました。  帰国後は何の罪もない多くの市民が犠牲になっているガザ地区の状況や経験を講演などで伝えています。 現地の看護師が川瀬さんに幾度も伝えたという、「私たちに人権はない」という言葉の真意とは、川瀬さんのお話です。

戦争とか紛争はわれわれとはかけ離れた世界と言うふうにとらえられがちですが、人の人生が本当に一変してしまうことがこの世の中に有りうるという事で、ガザでは今その状況が続いていて、大変な状況をまずお伝えしたいという事がります。  

2023年7月ガザへ訪れました。 真っ青な空で雲が全然ないんです。 日本からよく来てくれたと凄く喜んでくれます。 子供たちも多くて、元気に走り回っています。  病院の規模に対して医療者が圧倒的に少ない。  教育の機会も限られています。 看護部長と現地職員が2人、男性の看護師さん、私ともう一人大阪赤十字病院から派遣に行きました。  男性の看護師のハムリは凄くよくやってくれる人で皆から信頼されています。  10月の17,8日に大きな研修を予定していました。 

10月7日ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに対して大規模な攻撃を開始、直ぐイスラエル軍はガザ地区にあるハマスの拠点を空爆しました。  朝6時過ぎぐらいで私は自分の宿舎にいました。(休みの日だった。)  最初花火の音か何の音なのかわからなかったが、鳴りやまないのでちょっと違うと思いました。  赤十字国際委員会から連絡があって、宿舎に待機するように言われました。  珍しくハムリが動揺していました。 テレビを見て事情を知りました。  私は後部座席で、車で別の宿舎にようやくたどり着くことが出来ました。  病院にはいけなくて、情報では1日目、2日目は運ばれてくる人数の連絡がありましたが、その後はどのぐらいの数なのかの連絡もなくなりました。  近所の住民も病院に避難してきました。 

病院で働いていた医師のお子さんが亡くなられて、辛い環境のなかで皆さん働いていました。将来に向かって病院の質の向上を目指して笑顔で皆働いていたのに、数日で全てが変ってしまいました。  10月13日北部全体が攻撃の対象になるという事で、南部のラファフへ移動することになりました。  避難民が沢山いて、そこで避難人の健康管理を行いました。  医師のいない環境で、自分がいろいろな判断をしなければいけないが、貢献できるという事では気持ちに安定感はありました。 11月1日の朝6時半に、エジプトへの避難をすることを言われて、急遽7時半に出発することになりました。  当時のことを日記に記しています。ハムリとの電話連絡で、大切な場所を攻撃されても、まだ世界中から攻撃されているというようなこと、涙ながらの訴えを涙を流して聞くしかなかった。  

この衝突が起こる前から彼は「人権がない。」と言っていました。  その時には実感がなかったが、衝突が起こってこれまでの歴史の中で何度も起きてきたことなんだと、改めて考えさせられました。  何も悪い事はしていないのに、このような攻撃を受けるのか、この世の中はフェアじゃないと、彼はずっと言っていました。  でも誰も助けてはくれない、自分たちは見捨てられたと言っています。  人権とは一言では言えないが、その人らしさかと思います。 その人がその人らしく生活する一つ一つのことが人権かなと思います。 しかし、食べ物がない、着るものもない、プライバシーがない状況です。  食べ物を奪い合う映像が流れたりするが、本来彼らは決してそのようなことをする人たちではない、優しい人たちなんです。

一番大事なことは、伝える事と、伝え続けることで、今だけではないずーっと伝え続けてゆく事です。  制限のない自由、私たちにとっては当たり前のことですが、彼らにとっては何年も何年も夢見て来た難しい壁なんです。














 









 







2025年12月3日水曜日

松井佑介(きつ音の子どものためのスポーツ教室)・自分らしく、自信をもっていい ~きつ音を乗り越えた当事者が伝えたい思い~

 松井佑介(きつ音の子どものためのスポーツ教室)・自分らしく、自信をもっていい ~きつ音を乗り越えた当事者が伝えたい思い~

現在はほとんど吃音は出ませんが、幼少期から思た通りに言葉を出すことが出来ず、人前で話す機会を避ける日々を送って来ました。  しかし学生時代に得た小さな自信をきっかけに、いまではスポ―ツ教室を始め、富山市や金沢市で様々な吃音当事者への支援活動を行っています。 今年8月には吃音当事者の自己表現と啓発を目的に3年おきに開かれている吃音世界大会に日本人として唯一出場し、大会を主宰する国際吃音協会の理事にも就任しました。 自ら苦しんだ吃音に向かいあい続ける松井さんに、吃音当事者に何が必要なのか、伺いました。

吃音を感じ始めたのは4,5歳の頃です。  吃音の症状は3つに分類されていて、①連発(あああああありがとうございます。)、②新発(あーーありがとうございます 言葉を伸ばす。) ③難発(うううありがとうございます 最初の言葉が出てこない。) 小学生にあがる前には7~8割は自然消滅すると言われています。 症状は個人によって様々です。 

4,5歳の頃兄の友人から「あいうえお」と言ってみろと言われて、ちゃんと言えなくて大爆笑されたことがありました。  小学校4年生の頃には授業中に答えを回避したり、先生にさされて言いにくい答えだと判りませんと言ったりしていました。 自分に劣等感を抱きました。高校1年生の時にくじ引きでクラスの会長になってしまって、 「起立」「礼」「着席」の号令をかけなくてはいけなくて、ちゃんと対応できなくていじめみたいなことや、仲間外れとかが起こってきました。  先生から号令について指導されましたが、なかなかできなくて、会長の任期の最後に、「最後ぐらいちゃんと言えよ。」と先生から言われて、それもショックでした。 父に対して「こういう身体に産んだ親が悪いんだ。」ともっと酷い言葉を投げかけました。 

2年生になる前に担任になる先生に吃音のことを打ち明けました。  大学では受ける授業によってメンバーが全然違うので、最初に自己紹介タイムが設けられていて、又アクティブラーニングが多い授業はいけなくて、午後2時ぐらいに起きる生活をしていました。 アルバイトにチャレンジしようと思いました。  焼肉屋のキッチンのアルバイトがありました。(人と話すことはないと思った。)  行ったら接客係が足りないのでそちらに回って欲しいと言われてしまいました。  接客も工夫したりして段々自信が付くようになっていきました。   アルバイト後も吃音はありましたが、心理的症状が和らいだのか、今に繋がっていきました。  

4年前からきつ音の子どものためのスポーツ教室「ドモスポ」の運営をしています。 自分自身辛い思いをしてきたので、今の活動をしています。  吃音は百人に一人居る障害と言われています。  前半は僕が考えているスポーツプログラムで後半は子供たちがプログラムを考えて実施してゆきます。  対象は小学生、中学生です。 吃音を前向きにとらえて挑戦している子が少しづつ増えてきています。  

今年8月フィンランドで開催された、当事者が自らの経験を発信する吃音世界大会に出場しました。  吃音で悩んでいる人に、堂々と発表する姿を見せて希望になればいいかなと思いました。  吃音があっても自分らしく生きれるし、選択できるんだという事をメッセージとして最後に伝えてきました。  世界吃音協会の理事を決める総選挙にも立候補し、就任しました。  世界の吃音の人たちにも力になりたいと思いました。  

学校で悩んでいる子が多いので、そこに直接働きかけないと根本の問題解決にはならないと思います。  先生が気付いたら、フォローしてあげる姿勢が凄く大切なんだと思います。  吃音の正しい知識が不足していると思います。  経験した声は貴重だし、届けやすいと思います。  吃音には触れない方がいいという意識が働いているかと思いますが、そこは大きく変えていきたいと思います。  それが核になっている。  積極的に介入していただければと思います。  悩みを一人で抱え込まないで、周りの大人の人に相談していいんだよと言いたいです。






















2025年12月2日火曜日

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために 

現在87歳になる赤塚さんはハンセン病家族訴訟原告団 副団長として裁判に関わって来ました。赤塚さんの父親はハンセン病患者でした。  赤塚さんが小学校3年生のころ、父親が島にある国立療養所奄美和光園に強制収容されました。  ハンセン病患者への差別は家族にも向けられ、赤塚さんはいじめに苦しみました。  しかしその怒りをいじめた側ではなく、病に苦しむ父親に向けてしまい、父親が亡くなるまで顧みることはありませんでした。 親を差別してきた自分の人生を反省し、20年ほど前から差別によるハンセン病被害の救済に取り組んでいます。    父親との思い出から自分の人生をどう振り返って行ったのか、伺いました。

昭和13年に生まれて3歳のころ父親の出身地鹿児島県奄美大島に移り住みました。 父親は黒糖を作るためのサトウキビを作りに南の方に行きました。  ポナペ(ミクロネシアの主要な島)でサトウキビを作ったり指導したり、黒糖を作ったりしました。  父は熱帯病にかかったと言う事で帰ってきました。  ハンセン病の患者という事で、島にある国の療養所奄美和光園に強制収容されました。

昭和22年2月に警察官と職員、突然3人が来て連れて行きました。 父は42,3歳でした。  小学校4年生の時に「乞食」と言われました。 ハンセン病の子供も乞食になるという考えを村の人は持っていたかもしれない。  そこで判りました。 父の顔が赤っぽくて薬をつけても治りませんでした。  同級生が8人いましたが遊んではくれなかったです。   同級生の親に往復で顔を殴られて(海軍びんた)、悔しい思いをしました。 母親は咎めにも行かなかった。  指さすと指が腐ろなどとも言われていました。  

私が親替わりをして下の子の面倒を見たりしました。  父が家に来る時には夜来て朝方帰っていきました。  高校時代に親の話になったりすると逃げだしたくなりました。  高校を卒業後工場勤務を転々として、奄美大島に戻って来て県の職員として働き始めました。(25歳)  結婚式の時には父を呼んでいませんでした。  子供が出来て5,6歳ぐらいの時に、父は70代ぐらいで家にたまに抜け出して帰って来ますが、妻は子供のことを心配しました。はやく戻るように言ったんです。(贖罪 罪滅ぼし) 父はその時「まだお前はハンセン病のことを理解していないのか、自分は首でも切って死ぬよ。」と言いました。 初めて私に対して怒りました。  ハンセン病が治ったという事を理解していなかったという事です。 それからは家に来なくなりました。  亡くなるまで親を遠ざけたいという思いはありました。

父は83歳の時家で亡くなりました。 父をさするという事は出来なかったです。 知識が足りなかったという事が反省です。  大変な病気で一生かかっても治らない病気であると言われていた時代がありました。  私は手足が欠けたり鼻がくずれたりした人を見て来てるんです。  でも知らないという事は罪なんです、罪を作っているわけです。  いろいろ勉強してハンセン病の内容も判って来ました。  

腑に落ちないから反省してこの問題に取り組んでいるんです。  隔離という事は自由を奪う事です。 人権の侵害になるわけです。  ですから国と争っているわけです。                2001年にはハンセン病の元患者に対する国の賠償責任が裁判で認められ、2019年にはハンセン病元患者の元家族に対しても認められました。  勝ち取りましたが、申請は全体の3割です。 貰う事によって逆に差別される恐れがある。  離婚の原因にもなる、そういう人たちが多いという事です。  ハンセン病に対する理解が行き詰まっている感じです。   出来るだけ人に話したくないという病気なんですね。  まだ隠し続けたいという思いです。

講演を行っていますが、まずは物事を正しく知る事です。 正しく知らなければ間違った判断がいろいろ出てくると思います。  































 



















2025年12月1日月曜日

小山美砂(ジャーナリスト)         ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

 小山美砂(ジャーナリスト) ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

グローバルヒバクシャと言うのは広島や長崎だけでなく、アメリカや旧ソビエトなどの核実験やウラン採掘など世界各地で放射線の被害を受けた方々のことです。 この問題について取材を続けているのが、広島市在住のジャーナリスト小山美砂さん(30歳)です。  小山さんは 大阪市の出身、毎日新聞社の記者として広島に赴任し、原爆10日後に降った所謂黒い雨の裁判を取材しました。  2023年にフリーの記者に転身し、その年の10月にはこの黒い雨の取材で日本ジャーナリスト会議賞を受賞しました。  その後も小山さんは置き去りにされた核による被害者の取材を進め、去年の9月には旧ソビエト時代に核実験が繰り返されたカザフスタンを訪問し、慢性的な貧血や頭痛に悩まされる現地の被害者の声を聞き集めました。  小山さんにグローバルヒバクシャの歴史と現状を伺い、世界の被爆者の人権について考えます。

今年被爆80年で、核に対する関心とか、過去の戦争を原爆を含めて伝えてゆくという一年であったと思います。  一方で今も光が当たっていないか、置き去りにされている被害に私はどうしても目を向けなければいけないという思いがあったので、今年出した2冊も改めてだしたいという2冊になりました。 

2922年『「黒い雨」訴訟』を出版。  黒い雨は原爆10日後に長崎で降った雨のことを言います。  原爆由来のすすとか灰も含めて放射性降下物を総称して、黒い雨を捉えるという観点で私は取材と発信を続けています。  私が赴任した時には「黒い雨」訴訟の裁判が始まっていました。 高東征二さんと言う方が原告でありながら、黒い雨の被爆者の証言を聞いている人でした。  「黒い雨」は語り継ぐ歴史だと思っていましたが、現在進行形の問題であると実感して、取り組まなければいけない問題だと思いました。  もう一つ隠されてきた被害であるという事を非常にあります。  取材をすることで責任感も生まれてきました。

アメリカでの核実験のテストがあって、それからずーっと核開発が進んできて、新たに被爆者も生み出されてきている。  グローバルヒバクシャは核実験の被害者、ウラン採掘、原発事故、原発労働者、などの放射線の被害を受けた方々の言葉として知られるようになってきています。 核実験は地球上でこれまで2000回以上実施されています。  マーシャル諸島の核実験では1946年から10年間で60回以上も核実験が行われています。 第五福竜丸の事件もありました。(他にもあり)  旧ソ連でも沢山の核実験があり、インド、コンゴなどではウラン採掘が行われて病気を訴えている方がたくさんいます。 

去年カザフスタンに取材に行きました。  450回以上核実験が実施されています。 1949年8月に最初の原爆実験が実施されました。(旧ソ連として初めて成功した場所)    核実験の被害を受けた人は子孫を含めて150万人とも言われています。  他のところと比べ乳がん、肺がんの罹患率が2倍近く増加していた。 心臓に関わる病気も1,3倍とかデータとして出ています。  精神的な病気も倍増したといわれる。  カザフスタンは日本の7倍の面積があります。 国土の大半が草原と砂漠です。 2024年9月1日から11日まで行きました。 3か所に行きました(首都、旧首都、核実験場があったところのセミパラチンスク)  セミパラチンスク核実験場は市の中心から150kmは離れている。  四国ぐらいの面積のところで何回も核実験を繰り返していた。  周辺の住民が影響をうけてしまった 。  最後の実験から30年以上経ってしまっているが、放射線量は下がっていないところもある。 そこらじゅうにクレーターが出来てしまっている。 

 核抑止論は嘘だと思いました。  カザフスタンの場合は軍事機密だったので、なんかおかしいと思いながらも被害を認識することが出来なかった。  真実をそのままにしておいてはいけないという、真実を伝えてゆくこだわりは「黒い雨」と共通していると思います。 取材して60歳まで生きられる人が少ないという事はショックでした。  86歳の女性が核実験のことをよく覚えていました。  爆発があるよ親が村の中にある穴の中に子供たちを隠した言っていました。  上から絨毯をかぶせてしばらくいるように言われたそうです。 好奇心で絨毯をめくってきのこ雲を見たと言っていました。  親は経験的に知って子供たちを守ろうとしたんですね。 

首都でも取材をしましたが、彼女は核実験場のあった市で生まれました。 皮膚がかぶれてしまって辛かったそうです。  佐々木貞子さん(2歳で原爆に会い10歳で白血病で亡くなる。)の名が彼女の口から出てきました。  広島、長崎のことに心を痛めていました。 しかし、実は自分たちも核の被害者であることを後で知ったと言いました。  広島、長崎もセミパラチンスクも同じ核の被害で、だから手を携えて人類の危機ともいえるような状況を乗り越えていかなければならないと言っていました。 自分の視野の狭さを感じました。  核の問題は地球規模で考えないといけないと思いました。 

今年8月6日にカザフスタンの女性(71歳)を招待しました。 17歳の時に母親をがんで亡くして、その後姉二人を病気で失い、弟も失い、自身も肺がんを患って治療中とのことでした。 核実験との結びつきを意識しました。  カザフスタンの被爆者の権利を拡充、反核、核実験の現状を訴える活動をしている方です。 原爆ドーム等見学して、被爆者などとの交流を通して、広島のことを学ぶと共にカザフスタンの核実験についても知らせて頂くという滞在になりました。 彼女は子供たちの絵を60枚お土産にという事で持ってきてくれました。  セミパラチンスクと広島が未来に向かって一緒に歩んでゆくという動きを作りたいと言って、持って来てくれたものです。  

今関心があるのは、繋がる、繋げるという事です。  カザフスタンでは精神的つながりと言うものを強く言われました。  自分一人ではない、一緒に歩んでくれる人がいるという事が彼女を強くもするし、ある意味身体も軽くすると思います。  世界中に仲間がいるという事は背中を押しているんだなと言う様な気がします。  人々がよりよく生きられる世界を目指すためにも、核被害者の声をちゃんと受け取って、苦しんでいる人たちを救済してゆく、そういう社会を目指した方が、絶対みんなが生きやすいので、核なき世界を目指していると同時にもっとみんなが生きやすい社会を作りたいという思いで、活動しています。
































                                                                   

2025年11月30日日曜日

スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい

スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい

 スワーダさんは東京都出身の72歳、日本名は森田美保子さん。  高校卒業後銀行に就職、19歳で結婚し娘さんを設けましたが離婚、その後文化センターを経営し、洋裁や生け花などを教えていました。 1978年に日本とオマーンの文化交流の催しで、メンバーの一人としてオマーンに渡りました。  それがきっかけでオマーンでの結婚、学校の設立に繋がります。   その学校で日本式の教育を行い多くの成果をあげました。  スワーダさんはオマーン人になった初めての日本人、先日スワーダさんはオマーンで日本式の教育で成果を上げているとして、旭日章受章を受賞しました。

この受賞の喜びは娘にしか伝えられないのが残念です。 父は2000年に亡くなって、実母は子供のころに亡くなっていて、その後継母が育ててくれて、継母も2019年に亡くなりました。 姉も亡くなり、その人たちには聞いて欲しかった。 娘はニュージーランドで学校の先生をしています。 

小さいころからバレエをやっていて、世界と交流が出来たら面白いなと思っていました。   1985年ぐらいまでは森田美保子という名前を使っていました。 戸籍の名前を変更しました。 1979年日本とオマーンの文化交流事業の一人として、初めて行きました。  文化の違いに吃驚しました。  人々がとっても優しかったです。  着物着て琴で「さくらさくら」を弾いたら知っている人がいて一緒に歌っていただきました。  最後の夜にさよならパーティーをしてくれて、やり取りがあり日本に帰った後に、内大臣の秘書から電話がかかって来て、オマーンは好きかと尋ねられました。  もう一度来たいかと尋ねられて機会があれば行きたいと答えたら、本当にチケットが届いてしまいました。  貴方の日本の心をオマーンの女性に教えて欲しいと言われました。  再度行っていろいろ教えて、何回か行き来しました。当時私はシングルマザーで住みにくさはありました。  彼は日本に来て父親に娘さんと結婚してほしいと言われました。  

誠意のある人だったので承諾しましたが、国際結婚は許可ならない時代でした。  正式に結婚したのは1983年でした。 一夫多妻の制度でしたが、離婚が成立して誰もいないという事でした。 相手には3人の子がいて、突然4人を育てることになりました。  買い物は夫がして私は料理を作りました。  ハウスボーイは2人いました。  段々物足りなさを感じるようになりました。  自分で学校を開けば、みんなにいろいろ教えてあげられると同時に、 障害のある子にも何かできるのではないかあなと思って、学校を作ろうと思いました。   主人の兄弟も学校の先生だったので、OKがもらえると思ったらNOだったんです。     しつこく言っているうちに、お金は出さない、自分は一切なにもやらないが、それでもいいんだったらやりなさいと言われました。          

まずお金を生み出すことから開始しました。  自分自身でアラビア語の小学校に行きました。 1990年1月に、弁護士の方に書類を書いてもらって、文部省に提出して、7月に許可が出て9月に始まる予定でしたが、8月1日にイラクがクエートを攻撃しました。  無理かなと思ったのですが、遅れてもいいと言われて開校しました。  5人が来てくれて、私を含めて先生が7人でバスのドライバーが1人いました。  収入を得るためにサマースクールを別途開いて、凄い人数の生徒が来ました。  9月には年少、年長の幼稚園だけではなく、小学1年の3クラスを開きました。  オマーンでもサマースクールが定着しました。

日本の文化を教えるという事で、折り紙、運動会、水泳を教えました。 イスラムで3つの大切なことを教えなければいけないことは、剣、乗馬、水泳でした。  朝礼、ラジオ体操も毎日やっていました。  ラジオ体操をやる事によって脳の活性化が始まるわけです。 上履きを履く。 靴の紐を結わえたりして指を動かすことが脳の発展になる。 指先を使う事を教育の中に入れていきました。  小遣い帳も付けるように言いました。  整理整頓も出来るようになりました。  学校を楽しいところにしたかった。 

2010年に校長職を引退しました。  その当時、小学校から高校生まで850人いました。  これからは大学生を対象に、社会人になるための何かをしてみたいと思いました。  オマーンの大学生と日本に大学生との交流をしようという事でやって来ました。  その延長線上で、子供だけではなくて、大学生ということでいろいろ交流しています。 そして女性の自立を奨励してきました。  日本語を話せる人が結構いて、どうして話せるのか聞いたら、アニメから学んだようです。  日本語ブームは凄いですね。  日本の教育を私は輸出しましたが、輸出した先で学んだ人が、また逆に輸入してくれる。 そこで付加価値がちょっと変わってきて、価値あるものになって行けばいいなあと思います。































2025年11月29日土曜日

谷口浩美(元マラソンランナー)       ・走り続けた人生から皆さんに伝えたいこと

谷口浩美(元マラソンランナー)       ・走り続けた人生から皆さんに伝えたいこと

 谷口浩美さんは宮崎県日南市出身、1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しました。 その翌年1992年のバルセロナオリンピックの一言「こけちゃいました。」は広く知られています。  厳しいマラソン練習を乗り越えたメンタルやオリンピックの裏話など伺いました。 

宮崎県立小林高等学校へ進学、高校2年3年次には全国高校駅伝で2連覇を達成、日本体育大学体育学部体育学科に進学、3年連続で山下りの6区を走って区間賞を獲得、4年目には自身の持つ区間記録を更新し、総合優勝を達成。 卒業後、旭化成陸上競技部に入ってマラソンランナーとして活躍、1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しました。 1992年のバルセロナオリンピックの一言「こけちゃいました。」は広く知られています。 その後は指導者として活躍、現在はマラソンのゲストランナー、講演活動などを行っています。

小さいころから足は速かったです。 中学校から陸上をスタートしました。 宮崎県立小林高等学校へ進学、寮生活になり20人ぐらいの共同生活で全て自分でやらなければいけなくて、生活スタイルが大きく変わりました。  先生になることが夢だったので、そのために小林高校に行き、日本体育大学へ進学しました。 箱根駅伝は第60回からテレビ放送が始まりました。 残念ですが僕は第59回大会の時が終わりでした。  高校駅伝でも2年、3年でも優勝していますが、29回目が3年生で、第30回大会からNHK放送が始まったんです。  テレビに映ることが如何に凄いかという事です。  大学陸上を最後に競技選手を辞めるつもりだったが、教員採用試験で不合格となる。(国体の開催の関係で教員採用されてすでに一杯だった。) 再受験準備のため地元の旭化成に2年間だけ在籍という約束で入社することになりました。

25歳になって教員の道が閉ざされて、宗選手もいてオリンピックを目指す道に進みました。 朝6時ぐらいから12から16km走って会社に出勤します。 4時から6時ぐらいまで練習をします。  エネルギーの元の食を考え、運動するなかで絶対故障しない身体を作ることを考えました。  走っている時には勝つことを考えますが、ずーっと考え続けたら自滅します。頭を使うとエネルギーを結構使うので、エネルギーを如何に使わないように走るかなんです。  走りながらどういう風にエネルギーを温存するかという走り方を覚えない限りは勝てない。  細かなことが全部レースに出て来ます。 

1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しましたが、1988年のソウルオリンピックに出られると思っていましたが、大失敗をして出られませんでした。 1992年のバルセロナオリンピックの3か月前から練習を始めましたが,1か月して右足の人差し指を疲労骨折してい仕舞いました。  1か月前まで極秘入院していました。(バレなかったので参加で出来ました。)  20km地点過ぎて左足をあげるときに外国人選手に踏まれて、転んで、靴が脱げて飛んでいきました。(どこに飛んでゆくのか見てていました。) 直ぐに靴のところに戻りました。  30秒のロスタイムとなる。  一気に追いつこうか、じわじわと追いつこうかと思いました。  30km地点がダウンヒルで、先頭が見えて15番でした。 10位に入れば入賞だと思っていました。 35km地点では12番でした。  8位に入らないと入賞ではないと気が付いて、何とか4人抜いて8位に入れました。8番にしかなれなかったので、言い訳のコメントとして「途中で、こけちゃいました。」といいました。  銀メダルが森下広一さん(旭化成)4位が中山竹通さん 8位が私でした。   

38歳まで現役で宮崎に戻って来ました。  生活のなかで動くという事が基本です。 いまは全く走っていません。 家の階段は4つんばいになってわざと動かしながら登ります。 こんなことをしていても昨年の1月13日に脳梗塞で倒れました。 ゴミを片付けようと思って、左手でゴミを拾おうかと思ったら、左手の先がなんかおかしいんです。  これは脳梗塞だと自己判断して、「脳梗塞だと思うので救急車を呼んでください。」と言って、救急車を呼んでもらいました。(息子からまっすぐ歩いていないとか、タオルを落として何回も拾っているよと言われました。)  日常生活の自分をちゃんと見ているか見ていないかという事は大事です。   ちょっと違うという感覚は自分でしかわからない。  

いろんな機会があれば、話を聞いていただく方が多くいらっしゃればそこに行って、いろんな話が出来たらいいなあと思います。 そのためには健康が大事です。