2025年12月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・〔絶望名言〕 アンデルセン

頭木弘樹(文学紹介者)           ・〔絶望名言〕 アンデルセン

今年はアンデルセン生誕220年、没後150年に当たります。 アンデルセンはデンマークのオーデンセで貧しい靴屋の息子として産まれました。 幼いころに父親からアラビアンナイトなどの物語を聞いて育ち、14歳で俳優を目指しましたが、夢はかなわずその後戯曲や詩で評価され、小説「即興詩人」で作家としての地位を確立しました。 

「人魚には涙というものが無いのです。 それだけに一層苦しい思いをするのでした。」    アンデルセン

代表作には「人魚姫」、「みにくいアヒルの子」、「マッチ売りの少女」、「雪の女王」などがあります。   アンデルセンが生まれたのは1805年、亡くなったのは1875年。

アンデルセンは貧しい家庭に生まれ、旅に出て色々な経験をして、有名な童話作家になって国王や王子様と親しくなり、亡くなった時には国葬がおこなわれた。 アンデルセンの童話はアンデルセン自身を反映している童話が多いです。 アンデルセンにも悲しいことが沢山あったという事です。 

人魚は海のなかにいるから涙はいらないが、悲しい時に泣くことが出来ないと余計に辛いですね。 アンデルセンは悲しみを知っていた人ですね。 

「人間と言うものは一遍の優しい心さえあれば、物事を別の見方で観ることができるような場合にも、とかく他人に対して軽々しく厳しい判断を下しがちである。」 アンデルセン

「マッチ売りの少女」は自分のお母さんをモデルに書いたと言われる。  貧しい家庭に生まれて、靴直しの職人と結婚するが、貧しい暮らしが続いた。 夫は33歳で亡くなってしまう。その後再婚するがその人も4年後に亡くなってしまう。  その後お母さんは洗濯・?になる。 川の流れに立って(寒さのなか)洗濯をする。 

アンデルセンの母親は川の冷たさに耐えるために、酒を飲むようになる。 そのせいでアルコール中毒になって、二番目の夫を亡くした10年後に亡くなる。

「沈んだ私の心を奮い立たせてくれる人も、優しく慰めてくれる人も誰一人いなかった。         私は全く見放されてしまった。 真剣に私は自殺のことを考えた。」 アンデルセン 

母親がまだ生きているころにアンデルセンはデンマークの首都のコペンハーゲンに行きます。 コペンハーゲンまでは160kmもあります。 (14歳)  当てもなくお金もあまりない。  母親は止めようよしたが止めきれなかった理由があった。 アンデルセンの父親は優秀な子であって、 お金持ちが学校に行く金を出してあげようと言ったが、その両親は貧しかったので早く息子に稼いでほしかったので断って、靴直しの職人にした。  父親は自分の望む人生を生きられなかった。  自分の気の進まない道を無理に選んではいけないよ、本当に自分がなりたいと思うものになるんだよと言い聞かしていた。アンデルセンの父親は妻には「この子がしたいことが有ったら、それがどんなにばかげたことに見えようとも、望みを叶えてやってくれ。」と言ってあるわけです。 それで母親は止めきれなかった。

アンデルセンは芝居が好きで、王立劇場の舞台に立ちたいと思っていた。  願いはかなわず途方に暮れてしまう。 「沈んだ私の心を奮い立たせてくれる人も、優しく慰めてくれる人も誰一人いなかった。 私は全く見放されてしまった。 真剣に私は自殺のことを考えた。」 とアンデルセン絶望してしまう。  しかし諦めずにいろいろな人のところに訪ねて行って、支援してくれる人に出会う。 

「かくこなる?友人までが、私には童話を書く才能がないといって、断固として看視する始末だった。」 アンデルセン

支援してもらったアンデルセンは学校にも行って、外国旅行にも行かせてもらった。  イタリアで自分の人生と重ね合わせた「即興詩人」(森鴎外 翻訳)を書いた。 これが評価されて作家として認められるようになる。  「即興詩人」を書いている途中から童話も書き始めている。  最初の「童話集」は評価されなかった。  一人だけ物理学者が評価して『「即興詩人」は君を有名にしたが、童話は君の名を不滅にするだろう。』と言ったんです。

*メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲

「でも王様 裸だよ。 突然小さな子供が王様に向かって言いました。  人伝いに子供が言った言葉がどんどんひそひそと伝わって行きました。 王様は裸だぞ。 ついに一人残らずこう叫ぶようになってしまいました。  王様は大弱りでした。 王様だってみんなの言うことが正しいと思ったからだ。 でも今さら行進パレードを辞めるわけにはいかないと思ったので、そのまま今迄以上にもったいぶって歩きました。 召使いは仕方なくありもしない裾を持ち続けて王様の後を歩いていきましたとさ。」    アンデルセン

「裸の王様」の最後の部分。  馬鹿な人には見えない布で作ったという服を高く売りつけられた王様は、それを着てパレードをすることですが、みんな馬鹿と思われたくないので、服が見えるふりをする。 その時子供だけが、「王様は裸だよ。」と言うんです。 それで終わりかと思ったら続きがあって、裸だと判った後も王様は行進パレードを辞めるわけにはいかなくて、いっそうもったいぶって歩く。 家来たちもありもしない・・・?を続いて歩いてゆく。 これは怖いですよね。 間違いに気付いたけれどそれを正すことが出来ず、押し通そうとする。

「親指姫は綺麗だったのです。  親指姫を連れて来たコガネムシもそう思ったんですが、他のものがみんなみっともない、みっともないというものですから、そうこう自分も思うようになって、手元に置きたくなくなりました。 どこへでも好きなところへ行くがいい。」   アンデルセン

親指姫はチューリプから生まれた親指ほどの女の子です。 親指姫を連れて来たコガネムシは親指姫を綺麗だと思った。  周りがみっともないと言うと自分もそんな気がしてきてしまう。自分の最初の気持ちを大事にした方がいい。  

「アントンさんは掛け布団をぐっと上まで引き上げ、ナイトキャップをを目の上まで降ろしました。  すると昼間の商売や苦労が頭を去りましたが、それで気持ちがのんびりしたわけではありません。  今度は古い記憶がやって来て幕ををあけるのです。  記憶の中には・・針が入っていて、指を刺されることがあります。 痛いと言った時にはその針は血の通っている肉を刺してちくちく痛み涙が目に出てくる。 年寄りのアントンさんもたびたびそんな目に遭って熱い涙がキラキラ光る真珠のようにこぼれます。」   アンデルセン

独身のおじいさんが失恋を思い出す。 アンデルセン自身も失恋連続きで生涯独身で過ごす。 ヨーロッパを中心に旅に出て、長い旅だけでも30回以上あります。  旅をすることは生きる事と詩にも書いています。(当時としては旅は危険だった。)  勇気もあるが、しかし極度の心配症でもあった。  

アンデルセンの童話が毎年クリスマスに一冊づつ出て行った時がありました。  クリスマスについてアンデルセンの自伝に書いている言葉があります。

「その晩私は急に孤独の重苦しい気配を感じた。  それはクリスマスの前夜であった。 他の晩はともかく、この晩だけはお祝いの様子を見たり、クリスマスツリーのそばに立ったり、子供たちと喜びを共にしたり、両親が子供の気持ちにかえるのを見たりしたいと、常々願っていたので(ある。)? しかし私はただ一人こたび?一室に座って遥かに故郷の事を思い浮かべていたのだ。 私は窓を開いて、そこから星をちりばめた空を仰いでいた。  それが私のために点火されたクリスマスツリーだった。」 アンデルセン



























2025年12月27日土曜日

斎藤まゆ(ワイン醸造家)          ・ブドウ畑の空に乾杯

斎藤まゆ(ワイン醸造家)          ・ブドウ畑の空に乾杯

斎藤まゆさんは1980年生まれ。 早稲田大学2年生の夏休みにブドウの収穫の研修旅行で訪れたフランスボルドーやコルシカ島のワインに感動し、日本から世界に通用するワインを作りたいという思いを抱き、大学を中退します。  ワイン作りを学ぶため単身アメリカカルフォルニア州の大学に渡り、その後もフランス、ブルゴーニュ地方の名門ワイナリーで修業します。    帰国後10年余り前に山梨県甲州市塩山に設立されたワイン工房で、醸造責任者としてワイン作りの中核を担っています。  また最近では耕作放棄地をワイン用ブドウ畑へと変えて行こうと、地元農業の活性化にも情熱を注いでいます。 

2025年のワインの出来は素晴らしい年でした。  今年は空梅雨と言われていて、雨の少ない年で病気にならずに健全なまま素晴らしいクオリティーのものが出来ました。 私たちが作ったワインが出て行くのは来年の春ぐらいです。  ブドウの種類は40種類ぐらい作っています。  社長はブドウ農家の3代目で、以前は60種類ぐらいのブドウを育てていたそうです。 ワイン用には5種類育てています。  ピノ・ノワールは愛好家の大好きな品種です。 ピノ・ノワールは育て方の難しい品種ではあります。  最初は緑色をした硬いブドウが段々と赤、黄色、ピンク、黒っぽい、とび玉(一房の中に飛ぶように色が付く)と言って黒く色付いてくる時は独特の美しさがあります。  

ピノ・ノワールの収穫は8月中旬ぐらいから始まります。  10月半ばから終わりぐらいで私たちのワイナリーは終わります。  ワイン用のブドウは甘さと酸っぱさがないといけない。 糖度が23度ぐらいあると12,5%ぐらいのアルコールが出来ます。 発酵中のワインはぷくぷくしゅわしゅわしています。  熱も出るので温度管理をしないといけない。  ワインの鑑定によって価格が付いてくるものもありますが、自分たちの作ってきた農産物の価値を上手に国を挙げて、上げて行ったと言いうその結果だと思っています。 そこにマーケットが反応してそれが売れるか売れないという世界になって来ると思います。

私たちは国際線のファーストクラスに乗せることが夢でした。  選考に何回も挑戦して落とされてきました。  2017年にイギリスの世界一ソムリエ、ワインの神様のジェラール・バッセが来日して、社長と共に私も食事の席に同席して、私たちのワインを飲んでいただいて気に入ってもらえました。  ツイッターに紹介してくれました。   スタッフ11名で5ヘクタールの畑で栽培しています。  2013年にワイナリーを立ち上げた時には子供を身ごもってて、ワインを飲むことが出来ないので、味の部分はブレインに頼んで意見を聞きました。 かおり、色あい、輝きその他数値で現れる品質などから判断していきました。  子供が出来たことで自分の持っているものをどんどん人に伝えて行こうと思いました。 

山間地の斜面なので毎日登ったり降りたり、そしてそこでの作業なので強靭な体力が必要です。 (ストレッチ、しこを踏んだりして鍛えています。)  専門的な知識はもちろん必要ですが、感性も大事です。  子供のころには母親から味噌汁の味について味見役的なことをしていて、意見を言っていました。 習い事もいろいろやらせてもらって好きなことを自身で探していきました。 そういったことで感性が磨かれたのかもしれません。  

ブルゴーニュ地方には「ワインの歌」と言うのがあるんです。  「ラララ」しか言わないが小さい子から老人まで一緒になって歌います。  生きている歓び、健康で美味しくワインが飲めるんだと、子供たちを豊かに生活をさせることができるんだと、そういう喜びをたたえるような歌だと感じました。  日本にはワインをたたえる歌が無いとずっと思っていました。   私が歌詞を作ってしまって、作曲は戸倉俊一さんに書いていただきました。

斎藤まゆさんが歌を披露する。






















2025年12月25日木曜日

岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

 岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

岡本さんは京都大学卒業後NHKに入り、番組開発やBSでデジタル放送の立ち上げなどに携わります。 特に若いクリエーターを発掘する「デジタルスタジアム」を立ち上げ、さらにその番組の入選者の作品を紹介するデジタルアートフェスティバル東京では総合プロデューサ―を務めました。 NHK退職後は東京芸術大学大学院映像研究科教授へ転身、2017年からは副学長も務めました。 芸大教員となってからもEテレ0655&2355』のプロデューサーを初めとして、番組の開発と後進の育成に努めています。 小学校時代の放送部の活動でメディアの世界に興味を持ち、映像による物作りへの魅力を感じてテレビの世界に入ったという岡本さんに、映像による物作り、人作りへの思いを伺いました。

6年生の時に転校して、人がいないので放送部をやれと言われて、指導者がいない中で試行錯誤の毎日でした。  アナウンサー、ディレクターをやり段々慣れてくるとしゃべるのに歓びに目覚めていきました。  NHKに入りたいと思っていました。  シルクロード、漫画アニメなどを毎日見るのが日課でした。  中学の時にスターウォーズを見て、自分は作りたいんだと初めて思いました。 NHKに入ってディレクターとしても いろいろ勉強させていただきました。 NHKではプロデューサーとしての作品の方が多いです。 私が作った番組でデジタル・スタジアム』と言う番組が、私の人生を大きく変えた番組です。  2000年ごろでパソコンが普及し始めた頃でした。  若い人たちがそれを使って、自分の作品を作るようになりました。  その作品が面白くて、若いクリエーターたちの作品を如何に世の中に紹介できるか、という事が私の目標になりました。 テレビが一番紹介する場所ではないかと思いました。 そこから若いクリエーターたちが育っていきました。  番組は10年近く続きました。  

2008年にNHKを退職して東京藝術大学大学院映像研究科教授へ転身することになりました。 私はアニメーション専攻と言うところにいますが、最近は半分ぐらいが留学生です。    韓国、中国、アジア圏が多いです。  2012年から放送されているテクネ 映像の教室のプロデューサーを務めてます。  独学で勉強する人が多いので、テキスト替わりになるような番組が出来ないかなと思いました。  発注型の映画製作も番組のなかでやって見ました。   2020年からは「日本アニメーション教育ネットワーク」の代表理事もやっています。  アニメーション関係の教育機関、教育者もまだまだ少ないです。  日本映画産業全体から言うとこれまではトップ100に入るのが稀でした。 今後ビジネスとしても産業としても成り立つような形にしていかなければいけないと思っていて、今年はその元年だと私は捉えています。

「鬼滅の刃」の劇場編が、全世界の収入が1000億円と言われています。(日本では初めて1000億円稼ぐ作品。)  この作品は世界のトップ5に入っています。  世界を対象にしたビジネスが成り立つんだという事が改めて知ることができた作品です。 コロナを機に世界的にリビングルームで観られるようになり、爆発的にアニメファンが増えます。 日本のアニメ産業を活性化して海外に売ればいいじゃないかと考えますが、本数を増やしてもどうしても頭打ちになってしまう。 一番大きいのはアニメのスタジオの人員不足です。  少人数でやってるスタジオが多い。(少数精鋭)   増やしたくても増やせない。  日本のアニメ産業に必要なのは人材です。  

国の援助が望まれますが、海外と比べると少ない状況です。 アニメーターの見習い期間の給料だけでも補助してあげれば、日本のアニメーションスタジオはどんなに助かるかしれません。 基礎研修を公けの機関がやってあげるという事も大事です。 人材育成の補助は公共機関の役割かなと思います。 海外から学びに来る学生は凄く優秀です。 そういった人たちが日本で仕事ができるようになるのは負担も大きので、そういったところにも補助があると、人材確保になると思います。  

私は人材育成の方で貢献をしようと考えています。  卒業生が活躍して評価されるのは10年ぐらいは掛かりますので、せめて10年、20年の単位で人材育成を考えて行ったらいいのではないかと考えています。  日本の基幹産業の一つとして行くためには母数を増やしていかないといけないと思います。  プロデューサーの人材も枯渇しているので、これが最大の課題で、研究中です。  お薦めの一点は片渕 須直監督のアニメーション「マイマイ新子と千年の魔法」です。 

















































2025年12月24日水曜日

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)     ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)  ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

椿はもともと日本に自生していた花で、縄文時代からあっただろうということです。 文字上で現れてくるのは奈良時代からだそうで、以来日本人に愛されていきたと思っていましたが、小泉さんにお聞きすると、椿にももてはやされた時代も受難の時代があって、それにはいろいろな理由があったようです。  「椿ブームを調べてみると」、日本ツバキ協会 副会長小泉不二男さんにお聞きしました。

日本の山に自然に生えているもので、ヤブツバキとか山椿と呼ばれる一重の花ですが、北海道にはないが日本の中にあって多少の個体差はあります。  記録的に見ると奈良時代以降という事になってきます。  和歌などにも出て来ます。  花として見る以外に、油が貴重なものだったので、税として集められていた。 (椿油)  万葉集には椿を歌った歌が9首あります。  

「巨勢山のつらつら椿、つらつらに見つつ白妙(しろたえ)によしこの山の春の野」

「椿」と言うのは日本人が作った漢字なんですね。 ヤブツバキは日本と朝鮮半島の南の方だけです。  日本書紀にも記述があります。 白椿が突然変異で生まれたものを、目出度いものとして天皇家に献上したという記録が日本書紀に載っています。  お正月に茶道で白い椿を飾るという事は今でも続いている事です。 平安時代、鎌倉時代にはあまり登場しません。  推測ですが、当時他の物に関心が行っていた。 例えば梅(中国から入っている。)など外来の物に気を取られていたのではなかろうかと言われている。  室山時代の最後に安土桃山時代がありますが、茶の湯が熱狂的に流行する。   そこに茶花が必要になって来る。 椿が再び注目を浴びたと考えられれます。

戦乱が続いた後、江戸時代になるとようやく落ち着いて、お花を見ることができるようになった。  園芸をするゆとりが出来た。 その先駆けが椿であったと言われる。 徳川二代将軍の秀忠が当時の文献で花癖であった、花が好きで特に椿が好きだったといわれる。  それを知った大名が献上合戦のように行われた。 家光時代に作られた江戸城の屏風があるが、そこにお花畑が描かれていて、椿が植えられていることが判ります。  色々な変化のある椿を支えたのは北陸と言われます。  北陸にはヤブツバキとは違う別種のユキツバキがあります。 山の上の方のユキツバキとふもとの方のヤブツバキと自然交配すると99.999%以上が素朴な花になります。  中には一本変ったものが出来ます。 例えば八重よりももっと数が多いものとか、おしべの棒のところに花びらがあるように見えるものが出来たりバリエーションがでます。   それを見つけて農家の庭に植えられていた。 それが江戸、京都に運ばれて広がって行った。  元和寛永の椿ブームで図鑑、巻物が作られた。  そのころの多くの物は現在はなくなってしまっている。  

今でもいかに椿を残していくかと言う事は大きな問題です。  人が守ろうとしないと木でもなくなってしまう。  江戸の園芸ブームで新しく「わびすけ」(茶花で有名、ひそやかに開く)が生まれましたが、はっきりしたことは判っていない。  金閣寺に「胡蝶わびすけ」というものがあります。 後水尾天皇(家光時代)がお手植えしたというのが、現在も残っています。  京都のお寺には古いものが残っていて非常に貴重です。 「肥後椿」は肥後藩の武士たちが品種改良して、一本の木であっても赤いはずなのにピンクの花、白い花が咲いたり、してそれぞれを育てるといろいろな品種が出来てくる。 太い芯を選抜して、芯を見るというものもあります。  今はイタリアなどで人気になっています。

尾張藩ではお茶席で初釜(1月)、野開き(秋)のために合わせた花の咲く時期のものを求めた。 (つぼみがふっくらとしている。)  現在も「御殿椿」として伝わっています。 江戸時代には400,500と言われていましたが、江戸の最後に資料があって、江戸の最後に出たものは今に伝わっています。  染井村の植木屋さんが明治になってカタログを作って、今我々が目にするものと一致しています。  花形の変化、花色(椿は複色になりやすい性質を持っている。)、赤に白いものが入っている、その大きさによってもいろいろな品種が生まれてくる。 絞りといってピンクであればより濃い線状が入り線の太さもいろいろのものがある。

倹約令が出て、園芸植物の人気が下がってしまう。  飢饉の時代も関心がなくなる。  明治になるともっと大きな逆風が来て、ヨーロッパ、アメリカから新しい園芸植物が入って来る。 椿は明治以降忘れられてゆく。   染井村の植木屋さんもいなくなってゆく。 埼玉のさいたま、川口、上尾に新しい植木屋の里が出来る。 染井村から苗を貰ったり挿し木にして保護、育てた人がいます。(皆川さん) 戦争で食糧難になって園芸から農産物への指導があったが皆川さんは椿畑を残したそうで、それが無かったらかなりの数の椿を失ったと考えられます。化

日本の椿が中国経由でヨーロッパに広がり、日本の文化も紹介されて、19世紀に「東洋のバラ」として、ヨーロッパで大ブームになる。 (貴重なもので貴族の花)  ヨーロッパからアメリカに移って大ブームとなる。 (カルフォルニアなど気候が合う。 19世紀終わりから20世紀に広がる。)  コンテストもあり品種改良が進み、大輪華麗な椿に変身する。  戦後になってアメリカで大評判になっている人気の花という事で日本に伝えてくるが、それが日本の椿だった。  戦後に里帰りが起こった。(洋種椿)   日本ツバキ協会が昭和28年に出来る。 神代植物公園に皆川さんから譲ってもらって、椿園にしています。

30代なかばに銀座の椿展があり、そこで観た白い椿の花に凄く感動しました。 椿を調べれば調べる程興味が湧きました。 今でも毎年のように新しい発見があります。 これからは本当の椿の時代になる可能性があるかなと思っています。








 




2025年12月22日月曜日

山﨑徹(歌舞伎附け打ち)         ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

山﨑徹(歌舞伎附け打ち)         ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

附け打ちは多くは歌舞伎で使われるものですが、登場人物の動きや 演技に音を付けます。      舞台で打っている姿も見ていますが、気は付いていない方が多いかもしれません。      附け板と言う板があり、けやきの一枚板で出来ています。  厚さは七分ぐらい。  打ちながら削ってゆくので消耗品です。   附け木は樫木で出来ています。   2本あり真直ぐになっています。 手前がちょっと丸味がある。 軽く握る。  左が先で打って右で終わる。 丸味のところを先に打って次に真っすぐなところで打つ。  力強い人、子供、女形が出てきたりするので、それによって緩急をつけてゆく。  立ち回りもいろいろと間合いを取る。  センスにゆだねられるところがあります。狂言では使われていないが、狂言に附け打ちをやってみる。

山崎さんは1969年2月生まれ。 岡山県倉敷市出身。 高校卒業後テレビや舞台を制作する会社に入り、舞台に関わる仕事をスタート。 20歳で上京して歌舞伎の大道具に携わるようになる。 附け打ちの世界に入る。1992年23歳の時に、新春浅草歌舞伎で初舞台、以来国内外の歌舞伎公演に出演するほか、附け打ちのワークショップも積極的に行っています。 今月は劇団新感線の井上歌舞伎爆烈忠臣蔵に参加中。普通の現代劇にも嵌めたもの。 普通の歌舞伎公演の10倍20倍の稽古をしました。   時間も長くて3時間半ありました。  

附け打ちに入るきっかけは舞台の裏方の仕事をしていて、こういったお芝居の世界がるんだという事を知って、東京に出て行きました。  歌舞伎の世界にも入って行って、附け打ちを知ることになりました。  現在附け打ちの専門職として12人います。 

歌舞伎では見せ場が出て来ますが、舞台から花道を入ってゆく事なんですが、附けを派手に入れて打ち込んでゆく。  勧進帳で弁慶が花道を引っ込むときに、役者と附け打ちが一対一でお客さんから見えているのは二人だけで、その時には緊迫感がります。

日本の音とは、附け木など命を頂いているもの、そこから生まれた音と言う事だと思います。(先輩から教わりました。)  命を吹き込むように我々が打ってゆく。 日本の伝統芸能で使われているものはすべてそうじゃないかと思います。 「芯」」の有る音を出しなさいと言われます。  芝居に合わせた音、役者の心情を組んで打って行かなけらばいけない。 役者の気を感じて打ってゆくという事が大事です。 体験をしてもらうようにワークショップをやっていて今年で10年目になりす。 













2025年12月21日日曜日

藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰)    ・着物の魅力を伝えたい ②

藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰)    ・着物の魅力を伝えたい ② 

藤井礼子さんは1958年長崎県生まれ。  短大卒業後石油会社に勤務、社内結婚した夫の赴任に同行して20年余り海外生活を送りました。  4か国目のインドネシアで特産品であるジャワ更紗(バティック)に魅せられ、産地を訪れるようになりましたが、インドネシアでも経済発展の陰で伝統産業を担う人が減っている事態を目の当たりにします。 どうしたら職人たちの暮らしを支えられるのかを考える中で、日本向けにデザインしたジャワ更紗の帯の販売を始めることにしました。  現在は年間70本を目標に製作しています。

実際の工房はインドネシアにあります。 福井県の仕事場ではデザインを考えたり、インターネットでインドネシアのスタッフとデザイン、色の説明したりしています。 ジャワ更紗は1800年代から作られていたという伝統の布です。 ろうけつ染めです。  私がやっているのは手書きです。 ろうが付いているところには染料が付かないので、染めたくないところにろうを付けます。 腕のいい職人さんでないと出来ない、髪の毛ぐらいの細さのチャンティン(蝋噴出ペン使用の手書きと、cap(チャプ)と呼ばれる銅製のスタンプ押し)でろう付けする事は出来ます。 細いチャンティンを使うのでろう付けには時間が掛かって、帯を作るのに早くて6か月ぐらい、長いものでは1年以上かかるものもあります。日本の日の光とか風土に合うものを、日本の人が素敵だと思てもらえるような色と柄を使ったものを作ってみたいと思いました。 

母は洋裁和裁が得意な人でした。  小さいころから結婚するまで母が作ったものをずっと身に付けていました。  成人式の振袖も母が縫ってくれました。布好きでした。  結婚して海外で暮らす様になりました。 現地の言葉で話すという事が仲良くなるためには大切な事と思います。  最初はアラブ首長国連邦のアブダビに来ました。(イスラム圏)  インドネシアは4番目の駐在国でした。  行った時にはインドネシア語は全然話せなくて、家にいる時にはテレビでインドネシア語を流して聞いて、近所で話せる機会のある人たちと出来るだけ話すように心がけました。  

インドネシアは布の宝庫と言われる国です。(行ってから知った。)  ある店に行った時に美しい布で作った服を着ていて、バティックはいいなあと魅せられました。 「花更紗の神様」という工房で作られたもので、オーダーしてから3年後にようやく手にいることが出来るという事でした。  治安も悪くジャカルタから11時間ぐらいかかるところなので、行くことに最初な反対されましたが、なんとか説得しているうちに行けることになりました。 最初はその距離の半分ぐらいのところの工房にいくことにしました。 段々いろんな村に行きました。  腕のいい職人さんが段々辞めていきました。  腕のいい職人さんのものは高くてなかなか売れないために、腕のいい職人さんほど仕事がないということが起こっていました。  危機感を感じました。  

自分の洋服用に依頼はしていました。  一時期日本に戻った時に着ていたら、洋裁店の方の目に留まって、うちに置いてみないかと言われました。  それがきっかけになって仕事を始めました。  私は最初からシルクで作っていました。  或るお客様からシルクだから帯にも出来ますねと言われて、帯を作ってみようと思いました。 ただ帯にするのには強度とか問題があるのではないかと思いました。 作ることになりましたが、布、ろうけつ染めの職人さんは頑固なところがあり、新しいことに対して、抵抗がありました。 何とか説得して、作ってもらえるよぅになりました。 下絵師さんにもいろいろ説明して納得してもらえるようにしていきました。 (実際に帯を締めて柄の位置とか形とか説明)  

口コミで段々広がっていきました。  工房の職人は34人います。  二つの村に分けて分担しています。 下絵の職人が男性でそれ以外は女性です。  下絵師の人は気難しい人ですが、彼の技術が素晴らしくて、違うものも作れるという思いがあります。  ここ5,6年行っていませんが、インターネットの普及で情報のやり取りができるようになって、行かなくても対応できるようになりました。  私が思っていたよりもいい感じで染まっていることが多いです。  私は日本向けに合う色で染めたいと思っています。 2009年、世界遺産にバティックが選ばれました。  インドネシアではバティックを見直す機運が高まっていると思います。 帯を作るようになって着物も着るようになって、着付けも習ってお茶もやる様になりました。 























2025年12月20日土曜日

丹羽薫(プロトレイルランナー)        ・私を変えたトレイルランニング

丹羽薫(プロトレイルランナー)        ・私を変えたトレイルランニング 

トレイルとは未舗装の道のことです。  山や平原、森林など自然の中のおもに未舗装の小道が設定されて、走り抜けるものです。 時に酸素の薄い山岳地帯そして木の根や石が転がるような悪路も走ります。 距離は大会によって幅がありますが、初心者も参加できる10km、20kmの短い距離から100kmを越え、中には400kmを越えるとてつもなく長い距離を競うレースもあり、これがトレイルランニングです。 こういった長い距離の場合は数日に渡って走り続けることもあるという過酷な競技です。 丹羽さんはおよそ160kmを越えるような超長距離と言われるレースを得意としています。 身長152cmと小柄で細身、ショートカットの髪をなびかせ大きなリュックサックを背負って山を駆け抜けます。 これまで世界の多くの大会に出場、幾度も表彰台に立っている日本のトレイルランニング界女性ランナーの第一人者です。 トレイルランニングのキャリアーはおよそ15年、現在50歳と言う丹羽さんです。 ことしは5月にインドネシアで開かれたおよそ160kmのレース、9月にイタリアで開かれたおよそ450kmの距離の大会、11月に南アフリカで開催されたおよそ160kmのレースに挑戦しました。 今年の春左足のじん帯を痛めた丹羽さん、一つ目と、二つ目のレースは途中でリタイアです。 しっかり治療して臨んだ南アフリカの大会では完走して上位の十位でレースを終えています。 丹羽さんにトレイルランイングの魅力、50代を迎えてのレースの向き合い方を伺いました。

南アフリカの大会では33時間28分4秒、世界中から実力のあるランナーが集って、男女合計150人が参加。  女性ランナーが25人で6位に入りました。 レベルが上がていて30時間を切らないとトップ5に入れなかった。  自分としてはいいレースが出来たと思います。 いいレースをした後は回復も早いです。(3日後には走れるようになった。)  

高校時代は柔道部、大学はヨット部、就職してからは馬に乗ったりスキーをしたりしていました。  35歳の時にトレイルランニングと出会い、20km程度の短いレースに参加しました。  トレイルランニングはずっと走り続けなくてもいいので、登山の延長の様な感じで自然の中を走るので五感を刺激して、自分にあってると思いました。 マラソンは出た事は無いです。  練習は基本的にはロードとか山道を3,40kmをほぼ毎日走っています。 筋トレもしています。  レースの前になると一日7,8時間走っています。 一人で走るのは辛いので犬と一緒に走っています。  完走するというのは強い心を持って諦めなければ、多くの人ができることだと思います。  海外のレースなどは可能な限り早く現地に入ってコースを辿ってチェックしておきます。  試走して、食べるもの、水分の量などを決めます。

毎年クラウドファンディングをして海外遠征費を皆さんに支援してもらっています。    走っている時には戦略的な事とか補給のタイミングなどを考えながら走っています。    360kmのスイスのレースに出た時に、男性が財布を落としたと思ってみたら唯の石で、そういった幻覚を見ました。  他にも幻覚を見ています。 睡眠不足で認知機能が低下しているようです。  そのペースで走ると遅くなるので、5分ぐらい寝るというのも一つの戦略です。 2023年 イギリスのウエールズで開催された時には、最後の頃も身体が動いていて、順位を上げて行って、ラストの4kmぐらいで一人抜いて4位に入賞したことがあります。 興奮状態でそれまで感じていた足の痛み身体の痛みが全部吹っ飛びました。

超長距離になると経験がものを言うレースかと思います。  身体にいろいろなトラブルが起きるので、経験が多いとトラブルシューティングの引き出しが増えて行きます。  後半になってペースを上げることは怖いです。  そのテクニックも経験の多い方が対応が出来ます。 これから後何年続けられるか判らないですが、、毎日コンスタントに練習が続けられる限りは、頑張りたいと思っています。  目が衰えて来て、夜走る時には苦労します。又デジタルの時計では最近色々な情報が入って来るタイプだと見にくくなってきましたが、最新式のものは明るくて便利です。 

関西には100マイルレースが少なくて、周回レースも面白くなくて、関西でも作りたいと思って、始めました。(5年前から)  人気のレースになってきています。  女性も30%ぐらいいます。(普通10%程度)  3県にまたがるコースなのでいろいろなところに許可を貰ったりするのに、一回目はほとんど自分でやったので大変でした。 今は実行委員会があって運営を分担してやっています。  世界でも女子が3人ぐらいしか完走していないレースがインドネシアであり、完走して表彰台に乗りたいです。 あと今年棄権した450kmレースで表彰台に立ちたいと思ってます。