2025年9月2日火曜日

松本隆(作詞家)             ・作詞活動55年

松本隆(作詞家)             ・作詞活動55年 

松本さんは1949年東京都生まれ。 1968年細野晴臣、小坂忠柳田博義、菊池英二らとエイプリル・フールを結成し、その後細野、大瀧詠一鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成します。1970年アルバムはっぴいえんど」をリリース、日本語ロックを初めて作ったバンドとして評価されました。  はっぴいえんど」解散後は作詞家に、アグネスチャン、太田裕美、松田聖子、近藤真彦などに歌詞を書き、多くのヒット曲を生んでいきます。 作詞した作品は2100曲以上、今年作詞家生活55周年を迎えました。 

英語のカバーが多くて、英語のカバーをやっているんだったらあまり意味がないと思って、自分たちの言語でロックでもフォークでもやった方がいいんじゃないかと思いました。 はっぴいえんど」では遠藤賢司に最初に会いました。  その後はっぴいえんど」の構想が固まって来ました。  その後はっぴいえんど」が解散して作詞家になります。  中学生ぐらいから文学青年でした。  詩なんて書いたことなかったんですが、はっぴいえんど」のファーストの「ゆでめん」です。 自分にとっても第一作品です。  

男性向けの詩としては南佳孝と鈴木茂が多かった。  女性向けと男性向けは区別して書いています。 絵を描くことも好きでしたが、中学3年生の時に断念しました。  ロックの方に進むんですが、父は南九州財務局長、仙台銀行相談役で、硬い人でした。  僕が大事にしたのは五感なんです。  普通音楽は耳から入りますが、それ以外に記憶とか匂いとか、強いじゃないですか、触った感じも大きいし、それで五感を大事にして、それと絵ですね。  背景に何があるのかという事が非常に重要で、海があるのか都会があるのかとか。  あと物語です。 物語を軽く見ているが、物語は非常に大きいです。  それを教わったのが「ウエス・トサイドストーリー」です。(派閥があって人種問題があるとか、シェークスピアのパクリだとか)  

キャラクターを書き分けると言うようなことはないです。  「赤い靴のバレリーナ」で甲斐さんが歌ったのと松田聖子さんが歌ったのでは、景色の見え方、ストーリーが違う。

「赤い靴のバレリーナ」  歌:松田聖子

「赤い靴のバレリーナ」  歌:甲斐祥弘(作曲)

「風をあめて」(はっぴいえんどの楽曲) 映画の主題歌でっ全世界封切りだったから、日本語のままで皆覚えちゃう。  歌が勝手に独り歩きして世界中をさまよっておるみたいな、そういったのが好きです。 (企業とかが関わらない。)  

55周年コンサートを行います。  カバーも新しい命を貰っているような感じがするので、そういうのもありかなあと言う感じです。  

「白睡蓮」新曲   歌:氷川きよし


















2025年9月1日月曜日

松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

 松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

松谷直美さんは昭和21年中国東北部の生まれ、生後3か月で帰国し、福岡県で育ちました。  上京して就職、結婚して子宝に恵まれしたが、長女を生後4か月で亡くし、悲しみのどん底にいました。  次の年に出産し、子育てが落ち着いたころに手話を習い始めます。   講習会で目と耳が不自由な盲ろう者と出会たことを機に、35年前から盲ろう者と交流し、手話通訳や介助を始めます。  視覚と聴覚に障害があっても盲ろう者の夢を叶えたいと20年前にNPO法人を設立し、共に楽しめることを行ってきました。  盲ろう者の心の声に寄り沿って、活動20周年を迎える松谷さんの思いを伺いました。

盲ろうの方と触手話と言って相手の手を触って、相手が言いたいことを汲み取って、自分が言いたいことを手話で伝えるというコミュニケーションをしています。  盲ろうの方は色々なコミュニケーションがありますが、手話、触手話など。  視覚と聴覚の両方に障害の有る方は総称して盲ろう者と言います。  全国で約1万4000人いると言われています。  盲ろうの程度によって4つに分けると、①全盲ろう、②盲難聴(全く見えなくて少し聞こえる。)、③弱視ろう(少し見えて全く聞こえない。)、④弱視難聴(少し見えて少し聞こえる。)

NPO法人「夢叶えたい」の活動をするには仲間がいないと活動できないので、事前準備があります。  歴史が好きな方がいて皆さんに説明するために、画用紙に前日に一睡もせずに作るんです。  チームワークで活動をしています。  盲ろうの方が6人いて会えるのが楽しみです。  通訳介助員も一緒に参加します。  

昭和21年中国東北部に生まれしたが、高校生になるまで全く知りませんでした。  母が晩年に話し始めました。  姉夫婦が満州にいて、牡丹江と言うところで布団屋さんをやっていたそうです。  義兄が出征てしまって心配になって牡丹江に言ったという事でした。 ソ連が侵攻してきて街が炎に包まれてしまった。 貨物列車で逃げて鉄嶺と言う街に着いた。  昭和21年3月に私は生まれました。 何とかして私を連れて日本に帰ってきた。  それがあるから人に優しくできるのかなあと思っています。  6月に戻って来て福岡の母の兄の6番目の子として私を入籍しました。  母が結婚した時に私が養女となって入籍されています。  それを知ったのは高校に入学するときに戸籍抄本が必要で、それを見たら養女となっていました。  父は家庭のある人だった。(母の姉からの説明)  自殺しようと思うくらいショックでした。  家にいてはいけないと思って、高校卒業したら家には居ないと決めていました。 

卒業後、東京で就職しました。  結婚して男の子が二人。3番目が女の子です。 その女の子が生後4か月で亡くなりました。  保育所でミルクが器官に詰まって亡くなってしまいました。  翌年次女を出産して、この子は絶対自分の手で育てるんだと思いました。  小学校について行ったら、娘に「ついてこないでくれ。」と言われてしまいました。  会社も辞めていたし暇なので世田谷区の手話講習会に行きました。  地域で手話通訳として活動するのと手話講習会の助手をやるようになりました。  会場の入り口で白杖を持った男性が白杖を持った全盲ろうの女性を手引きしてきました。  場所を間違えたのではないかと声を掛けたら、手で何かやり取していて、「今日はお招きして頂いてありがとうございます。」と言ったんです。  その人は講師の一人でした。 衝撃的でした。 自分の不甲斐なさを感じました。   

生まれて初めて弱視ろうの手話通訳をしました。  その人からFAXが入って新宿で待ち合わせをして欲しいという内容でした。  35年前だったので当時は盲ろう者を支える制度は全くありませんでした。  ガイドはしたことがないので必死でした。(2時間のガイド)   ガイドヘルパーの研修を受けました。  

①視覚障害が先に起こって聴覚障害を伴う場合「盲ベースの盲ろう」(多くは点字を習得している。)コミュニケーション方法としては点字、指点字 ②聴覚障害に視覚障害が伴った場合は「ろうベース盲ろう」(多くは手話を習得している。) 手話、接近手話(見える位置での手話)  全盲ろうになった場合は触手話、パソコン通訳(最近多い) ③先天的又は乳幼児時期に発症した場合を「先天的盲ろう」 コミュニケーション方法としてはローマ字式指文字、成人期以降に盲ろうとなった場合は、耳の近くなどで話す音声を用いたり、掌に書く手書き文字などがあります。  

苦労しましたが、点字の勉強もしました。(1年掛かってようやく読めるようになりました。)全国盲ろう者協会の職員になりました。   悩み相談も受けて、会社を首になって死にたいという人の説得を手話で3時間かけて必死でやったこともあります。  最後に同じような症状の会に参加するように促して、参加してその方は元気になられました。 その人は今は関東地域の代表をしています。  

NPO法人を設立しました。  皆さんに助けられてやっています。  東京都立つばさ総合高校総合学科のなかの福祉科で教えています。  盲ろう支援の大切さを伝えていかなければいけない思っています。  福井県にある社会福祉法人「光道園」(障碍者施設)につばさ総合高校では合宿に行きます。   今があるのは盲ろうの方に出会ったからだと思っています。   












2025年8月31日日曜日

涌井友子(新聞記者)           ・94歳 生涯現役新聞記者

 涌井友子(新聞記者)           ・94歳 生涯現役新聞記者

涌井さんは1931年生まれの94歳、静岡県藤枝市出身。  激動の戦中戦後、夢であった教師への道を諦め静岡鉄道に勤務、その後東京都中野区で新聞記者をされていた涌井啓権(ひろのり)さんと結婚され1974年に夫婦で地域に寄り添った新聞「週刊東京」を創刊します。  しかし創刊からわずか7年で夫の啓権さんが亡くなりました。  …?が全くないなか、夫の遺志を継ぎ4人の子供を育てながら、たった一人で続けてきた「週刊東京」は去年創刊50年を迎えました。  激動の時代を生き抜いてきた涌井さんの歩みと新聞記者としての思いを伺いました。 

元気で50年を迎えられたという事はありがたいです。  東京都中野区を中心に新聞をだしています。  中野区は独りで回るのには面積がちょうどいいです。  発行部数は2000部ぐらいです。  10日と25日付の2回です。  もう1342号になります。  考えの古い家に育って、約束したらやらなければいけない、嘘をついてはいけない、そういことが基本にあります。  新聞のことは全然知らない素人ですが、皆さんに助けられて続けてきました。  

子供の頃は父の集めた文庫本などを読みました。  子供の頃に親の発した言葉と言いうのは子供にとっては凄く大事なものだと思います。  成長してから感じます。 5人兄弟の下から2番目です。  母、叔母たちが教員をやっていて、姉二人兄も教員で自分でも教員になりたいと思いました。   学校の2年の時が終戦で、家庭の事情もあり教員にはなれなれず悔しい思いをしました。  教育体制が633に変る狭間で、代用教員になったものの2年過ぎて「もう来なくてもいいよ。」と言われてしまいました。  卒業証書を出した学校と出さなかった学校で教員になる道が分かれて仕舞いました。 

終戦の翌年、母が急性リウマチになってしまって、トイレも行けずご飯も食べられないので介護と、炊事洗濯、お風呂から全部しなければいけなくなりました。  母を見送って今度は父が倒れ父の看病をしました。  私が静岡鉄道に勤めることが決まってから父は亡くなりました。(20歳で就職)  務めるようになってそれまでとは180度変わった世界で青春を謳歌しました。  中野区に短歌会がありそこに通っていたら、或るローカル誌に社長から声を掛けられて、自分の部下に引き合わせる作戦で啓権さんと出会いました。  結婚式だけはしましたが、お金がありませんでした。  集金で中野区内を回ってお店の方とかから親切にしてもらいました。  集金していた当時は子供が二人いて何とか保育園に頼み込んで対応しました。   もう会社に来なくてもいいと言われて、主人と二人で「週刊東京」を立ち上げることになりました。  記事を書くことになり、主人が校正をしたりしていました。(ベッドで)  

創刊たちあげた7年後に夫が亡くなりました。(私は50歳でした。)  その時子供は全員女の子4人でした。(一番下が小学校上がったばっかり)   市役所の広報の方から書き方とか本当に真実のことを書く様に言われました。  作家の水上寛裕(ひろやす)さん植田康夫さんからもいろいろ教わったり、ただで書いてもらったりもしました。  二人とも大宅荘一の弟子です。  大宅壮一の「マスコミ塾」にも通いました。  今は娘も助けてくれています。 大腿部を骨折してからは自転車には乗らないで歩いていきます。  本当に平和という事は有難い事です。  中野区では意見を出し合って、より住みよいところにしていただきたいなあと思います。










2025年8月30日土曜日

薫田真広(東芝ブレイブルーパス東京 社長 )・武骨に、日本ラグビーのために ~ラグビーリーグワン

薫田真広(東芝ブレイブルーパス東京 社長 )・武骨に、日本ラグビーのために ~ラグビーリーグワン

日本ラグビーの最高峰 、ジャパンラグビーリーグワンは東芝ブレイブルーパス東京 が2年連続の優勝を飾りました。  この東芝ブレイブルーパス東京 のGMとしてチームの編成を任された薫田真広さんはその手腕が評価され、8月1日付でチームの社長に就任し、更にGMを兼務することになりました。 薫田さんは1966年岐阜県生まれで、岐阜工業高校からラグビーを始め筑波大学に進学し、大学時代に日本代表に選ばれました。  卒業後は社会人の東芝府中に入社、1996年からの日本選手権3連覇に貢献しました。  日本代表ではワールドカップに3大会連続で出場し、95年の南アフリカ大会ではキャプテンを務めました。 ポジションはフォワードのフッカーで日本代表キャップは44で、その後東芝の監督に就任し、日本選手権優勝を始め、トップリーグ3連覇を成し遂げました。  日本代表でもアシスタントコーチや日本協会の強化委員長などを務めました。  今回クラブチームの社長に就任した薫田さんにリーグ2連覇を達成した要因や今後のビジョン、2年後にワールドカップを控えた日本代表の現状などについて伺いました。

トップリーグから、2022年からリーグワンに替わってこれまで4シーズンですが、2連覇したチームは今回が初めてです。  激戦の多いリーグになりました。  圧倒的なアタック力で勝ってゆくを目指しました。  世界の一流プレーヤーがにほんのクラブチームに集まるようになったのは、2019年のワールドカップが大きいと思います。  彼らは家族を大事にする文化なので、家族に対する安心感が彼らが日本に来る一つの要因になっていると思います。  GMはスタッフ、選手のチーム編成を主に、1シーズンを通したプランニング、マネージメントをしてゆきます。  8月1日付でチームの社長に就任しました。 事業と強化をしっかり廻してゆく責任を感じています。  今のラグビーの環境に適した戦略は立てられると思ってい居るので、周りの方と連携を取ってやっていきたいと思っています。

試合前は無骨さを出す、試合が終わったら選手が笑顔を見せながらファンサービスをするという、紳士さを見せようというコンセプトでやっています。  共感を頂いてています。  今は試合が終わっても30分ぐらいは帰らずに、スタンドに立って選手たちに声援を送っています。  うちだけは観客動員数が増えています。  開幕戦を4万人でという風に計画しています。(今迄決勝にみ達成)  

クラブが大事にしているのは真面目な選手を取って行って、人を育てるという事です。  「猛勇浪士」をチームコンセプトにしています。  そしてチームつくりには変化が必要です。   相手の分析を如何にうわ回れるかという事が非常に大事です。 

筑波大学に進学しましたが、フッカー(スクラムで中心を務める選手)に変更したのは高校の日本代表の強化合宿に行っている時に監督から言われました。  大学卒業後は東芝府中を選びました。  理由は日本一になっていないチームで日本一になりたかった。 1992年度、1994年度に全国社会人大会で準優勝、1996年から日本選手権3連覇に貢献。  東芝のDNAは派手ではなく無骨にラグビーを真面目にする、 と言ったものです。 

1991年のワールドカップではアフリカのジンバブエに52-8で勝って、ワールドカップ初勝利。  ジンバブエはどんなプレイをするのか判らなかったので、下見に行きましたが。当時エイズが流行っていて恐怖心を抱きまいた。 帰国した時にも全員エイズ検査をしました。(命がけの戦いでした。)  第3回ワールドカップ南アフリカ大会予選プールで、3戦全敗でニュージーランドに17-145という大差で負ける。 (キャプテンを務める) アタックがどの程度通用するのかと言ったところにフォーカスしました。  戦った結果がどう影響するのかという事を理解していませんでした。  負の遺産を残したショックが大きかった。           1999年の第4回ワールドカップ、予選プールで3連敗。(選手としては最後の大会。)  日本ラグビーが大きく発展する大会でした。  チーム力が上がってきている段階でした。 

33歳で引退しました。  2002年に東芝の監督に就任。(2年間の準備期間はあった。) トップリーグ3連覇など多くのタイトルを獲得。  相手が倒しにくるところを如何に立ち続ける為のスキルとフィジカルをあげるかと言う練習を徹底的にやりました。  選手がいつ伸びるのか、心技体の前に知力(いかにベンチワークが出来るかなど)については伸びしろがあるなと思っています。  そういった選手を如何に育てるかという事をやっていました。

1995年のワールドカップがオープン化、プロ化して海外のラグビーが変ってゆく時代でしたので、日本人の情報量ではこの先の日本ラグビー、日本代表は結果を残すという事がしんどいだろうとは思っていました。  最近では日本代表のヘッドコーチは外国人の人が多く務めています。  日本人でもできる指導者がここ最近出て来ていますので、日本人が担当するという事にチャレンジしてもらいたいと思います。  2027年のワールドカップにはしっかり結果を出してもらいたいと思います。  2019年のワールドカップでは決勝ラウンドで戦う余力が残っていなかった。  選手の層の厚さ、総合力の差がこの決勝ラウンドに出たと思います。まず層を厚くしなければいけない。  現在世界ランキング14位。  結果をあげて行かないと予選プールが難しくなる。  東芝ブレイブルーパス東京については3連覇に向けてしっかり準備してゆく事だと思います。  戦力が均衡化してきているのでハードルは上がっています。








2025年8月29日金曜日

2025年8月27日水曜日

永田晶彦(園芸文化協会 副会長)      ・〔心に花を咲かせて〕 薬草を観賞の花に変えた日本の花文化

 永田晶彦(園芸文化協会 副会長)・〔心に花を咲かせて〕 薬草を観賞の花に変えた日本の花文化

愛知県の花市場の理事長をしている永田さん、花の流通だけでなく地元から海外まで広く日本の花文化を広めたいと活動しています。  特に中国とのつながりが強くて44歳から中国語を習い始めて、文献を読んだり中国に行って花関係者とも交流し、日本の植物は中国から渡ってきた薬草を元に品種改良を重ねた結果であり、日本は世界に誇れる花文化立国だと実感しているそうです。

営業を担当していましたが、退いて市場の理事長と言う立場になりました。  花自体が時代と共に変わっていきます。  花市場に役に立つことをしていったら段々手が広がって来ました。  日本の花文化は日本人にとっての生まれながらの資産と言うふうに思えてきました。  或る程度知識が固まってきたのが45歳ぐらいからです。  先代の理事長がある程度集めたものを段々増やしていって、植物園にしました。  最初は古典菊、カキツバタなどを中心に種を増やしていって、ツバキ、シャクヤク、ボタン、モミジなど日本伝統の植物を増やしていきました。  素人なのでいろいろなところへいって植物の基本から教えてもらいました。  今は2000種類ぐらい栽培しています。  ほとんど伝統園芸です。  椿は250種類ありますが、250株だけです。  

日本の植物、特に花は元々は中国から薬草として伝わったものが多いです。  本草書が文化として伝わって来る。 奈良時代の初期頃。  種とか薬とかから始まります。  代表的なのが朝顔とかです。 (芍薬、牡丹もそうだったと思います。)  朝顔は江戸時代に大ブレークします。  旧暦の9月9日に咲いた菊についた露を飲むと長寿になると言った言い伝えがあり、文化とともに伝わって来て、日本でも菊を栽培するようになりました。  菊が伝ったのは奈良時代の中ごろから終り頃です。  後鳥羽上皇が皇室の御紋にまでして、菊は日本の代表の花という事になりました。  栽培技術、新しい品種を作るという流れは日本の方が発展していきました。 (江戸期以降昭和)  日本はかなり優れています。  中国は菊で作った建築物の様なものに趣きを置いています。(規模が凄い) 

きんもくせいは香りのする花の代表の一つですが、中国から渡ってきています。  しかし、日本のきんもくせいほどは香らない。  日本ではどんどん香るものに集中していったと思います。(品種改良)  芙蓉は中国の四川省が発祥と言われています。  中国からすると芙蓉は木に見えるらしい。

44歳から中国語を習い始めて、文献を読んだり喋れるようになりました。   中国ではシュウカイドウは、清の時代悲劇の象徴のような花です。  雄花と雌花がありますが、雄花が先に落ちてしまいます。  残された雌花、と言ったところから小説が出来ました。    ホウセンカは周り花が咲き終わった頃に、耐え抜いたうえで花が咲く。  これに対して著名人が色々な詩を書いています。  毛沢東もホウセンカが好きだという事で書いています。(中国ではあまり知られていない。)   中国語を始めて20年になります。  2009年に中国で中国語で講演をしました。(当時は丸読みだったが。)   日本の花の文化のことを話します。  好意的に捉えてくれるのが圧倒的に多いです。  

営業を担当していましたが、退いて市場の理事長になって時間が出来て、日本の花の文化にも興味を持ち、中国語も勉強したり、一気にいろいろ始めました。  お茶の作法なども勉強しました。  万葉集、百人一首だとかから花の部分を理解していきました。  かつては花と日常が一つになっている文化ってありましたよね。(今は余り無い)   モミジは日本にしかないです。  花は日本人の生活の中に沁み込んでいて、そのレベルが高いです。 日本は花の多様性が発達する土壌があったんです。  日本の伝統文化、(文学、芸能、能、雅楽など)、はどれをとっても世界に通用するものばかりです。 だから日本で生まれている植物は世界最高峰に達する何かを持っているんです。  日本の花の文化レベルの高さを皆さんにお伝えしていきたいです。










2025年8月26日火曜日

木村一茂(被爆者・元会社員)       ・1歳の被爆者 証言を始める

 木村一茂(被爆者・元会社員)       ・1歳の被爆者 証言を始める

木村さんは81歳、1歳の時に広島市内で被爆しました。 それまで木村さんはさんは人前では被爆体験を語ることはほとんどありませんでした。 81歳を越えてから証言を始めました。   木村さんの証言のベースとなったのは、父や母が残した手記でした。  木村さんが被爆体験を語り出したのは何故なのか、被爆体験を伝えてゆく意味合いは、伺いました。

1歳9か月で被爆しましたが、ほとんど覚えていません。  父が昭和46年に広島の戦災史と言うものに手記を出して、その後話をしてくれたのでそのころから、被爆の意識を知るようになりました。  父は軍人で経理課長として勤めていました。 母は弟を生んで、8日は縁側であせもの薬を塗っていました。  3つうえの姉がいました。  その後父は病院の立ち上げに携わっていたと言っていました。  公職追放令があったので、父は母の実家の方に行って農業をやっていたと言います。  その後警察予備隊の募集があり、そちらでずっと勤務していました。  最後は陸上自衛隊の経理学校の校長を務めて終わりました。

私は東京の電気の学校に行きました。  電気関係の会社に就職したのちに、30歳の時に羽村にある自動車会社に就職をしました。 ラインの整備点検の業務をしていました。 父の手記とか母は被爆の会の証言集などを書いていたので、それらから被爆のことを知るようになりました。  母からは被爆の話を聞くことが出来ました。  私は剣道を教えていて講話で被爆のことを少しは話をしていました。  

私が80歳になった頃、東友会と言う東京の原爆被害者協議会に所属していましたが、高齢化して話をできる方が少なくなってきました。  危機感を感じて自分で話せることだったら話をして、核兵器禁止を訴えていかなければいけないと思いました。  父母の手記がまずベースになりました。  姉からも聞くようにしました。  私なりに組み立てていきました。  

母は縁側で生まれて8日目の弟にあせもを塗っていて、閃光が走ったので驚いて隣の部屋に飛び込んだそうです。  元の場所に戻るとガラスの破片で一杯だったと言っています。 姉は庭の片隅で血を流して(耳の後ろを切って)佇んでいたそうです。 私と姉は飛ばされた様ですが、私は無事だったようです。  避難しようと山の方に出たらしいんですが、途中では山から下りてきた人に出会って、皮膚がぼろきれのように下がっていたそうです。  着く頃には大粒の雨が降ってきて慌てて防空壕に避難したそうです。  黒い雨で放射線をたくさん含んだ雨だったようです。  黒い雨を浴びた方は病魔に襲われて沢山亡くなったと聞いています。母は父がけがをしたという事が頭に浮かんで、それが現実だったという事でした。 (母の手記を中心に姉からの情報を含めた内容)

父が被爆した日は、朝に自転車で市役所に行く中途で、よく晴れた空にB29が飛んでくるのが見えたそうです。  B29から光るものが落下したというので、伏せたとたんに閃光と爆風に襲われたと言っています。  自分の上には一杯瓦礫がかぶさていたそうで、それをどけておき上がったら頭から一杯血が出ていたそうです。  持っていた風呂敷で止血をして、軍の自転車なので捨ててゆくわけにはいかないので、担いで避難所の方に向かったらしいです。知っている軍医がいたので治療をしてもらおうかと思ったが、怪我をした人が沢山集まってきていて、自分が頼めるような状態ではなかったそうです。  

諦めて宇品の部隊に向かったそうです。  完全にではないが消毒をしてもらって縫ってもらったそうです。  昼頃には宇品の部隊に被爆した人がどんどん集まって来て総出で対応したそうです。  家の状況を見に一旦帰った部下の人たちが語るには、悲惨な状況を語る人が沢山いたそうです。  父も家に帰ることになったのですが、宇品から宮島に船で渡ったそうですが、市内は凄く燃えていて大変な状態になっていたという事でした。  下船してから救援のトラックと何台かすれ違ったらしいですが、亡くなったかは放り投げてゆき、負傷して歩いている方を乗せていくと言う様な状態だったと言っています。  自宅に戻ったら半壊の状態で誰もいなかったという事で、防空壕に向かったら母や私たちが無事だという事で、ホッとして虚脱状態になって、茣蓙のところに横になったと言っていました。  8日に部隊から迎えがあって行ったそうです。     部隊で治療を受ける人たちも食事はとれず水で2,3日過ごしたそうです。(父の手記を元にした内容)

父は67歳でなくなりました。  白血病の一種が発症したようです。  ノーベル平和賞については、私自身もよかったと思います。  妻と一緒に孫と被爆したところを見て回りました。  核兵器を廃絶するためには、我々が被爆証言をしっかりやって、世界の方々にも聞いてもらって、被爆資料館を観てもらえるように、そういう証言をしていきたい。