2013年2月4日月曜日

坂本光司(法政大学大学院教授65歳)・会社の繁栄は社員の幸せから

坂本光司(法政大学大学院教授65歳) 会社の繁栄は社員の幸せから
法政大学で経営学を学び、故郷の沼津に帰り、県の産業支援機関に入り、中小企業と係わりを
もち、以来、40年,中小企業中心に 会社の有り方を研究していらっしゃいます
現場を学ぶをモットーにこれまでに訪問した7000社から調査した正しい経営の有り方を提唱しています
正しい経営とは会社に係わる5人を大切にすることで最も社員を大切にすることが坂本教授の
経営学の特長です  2年前には日本で一番大切にしたい会社大賞 という制度も作って正しい経営をする会社を表彰し、会社を業績第一から、人の幸せを追い求める組織に替えたいと活動しています
私の研究は現場そのものですから、研究室にはあまりいません  
40年で全国各地の会社7000社余りを訪問している
定年まであるいは亡くなるまで続けて行きたいと思っている   

今は1週間に2日位は外に出掛ける 年間に200社位になる(昔は400社位は訪問) 
私は大学の先生になるというのは無かった  
静岡で両親が住んでいて、両親ともに身体が悪く、農業をやっていたりしたので、長男でもあり産業支援機関からの就職口もあり、故郷に帰ってきた
企業の問題を聞いて来たり、に相談する、とか、政府への要望とか、話をするとか
調査とか、その成果を国に報告すると言う仕事だった 
 
初めて本当の勉強に出会ったと言うか、現場に行って こんなにも頑張っているのに
報われない人々がいるのかとか、こんなにおかしな大企業からいじめられている会社が有るのかとか、学問としては2重構造の底辺だとか、弱いとかそういうことしか教わってこなかった
初めて現場に行って水を得た魚のように、これだと言う感じがした  非常に面白かった
また再び勉強してお返しをする と    不特定多数に対して行うのが、公的な仕事であったが、同じ会社へも出かけ、相談に乗ったり、アドバイスしたりした
中小企業は生活そのもの  資金繰り、人の採用 新商品の開発に関する事、作った商品の相談も有った  喜ぶ顔が見たかったので対応した

今は講演要望があちこちからある 昔は之からの景気はどうなるか、どういう商品を作ったらいいのかという 質問が多かったが、ここ最近は経営の本質みたいなもの、 何のために  自分がやっていること、やろうとすることが 本当に世のため、人のために役立つのかとか
会社の業績を高めるのではなく 世の中をみると社会的な弱者がいるので その方にとって何か
してあげたいのだけれども どんなことをすればいいのかとか社員が頑張っている 
その社員に業界では一番と言われるような給料を出しているが もっと何か,社員が心底喜んでもらえるような制度とかを教えてもらいたいと 経営の本質を期待しだしている
ここ7~8年ですか  経営者の考え方が変わってきたように思う

かつてはもうかる話をしてくれと言っていたが 経営の目的は人を幸せにすることですからと、
私は言っている
光り輝く会社 社員が生き生きしている 会社に出会う 例外なく人を大切にしている 
そこに私は気がついた 
5つの新しい基準 新しい経営は 一番大切なことを一番大切にする経営   
一番大切なことと言うのは業績、成長、シェアー、ランク勝った負けたでは無く人の命と生活ですね 
正しい会社は人の命と生活を守り高めると言う事をベースに置いて ぶれずに愚直一途に
経営している会社
人と言うのは五人  
①社員とその家族 (これまでは株主、顧客と言われたいるが 順番を違えた) 
②社外良社員とその家族(仕入先 協力工場 下請  今までコスト、材料 外注 とか
 そう見てしまって人間としては見ていなかった  安い方がいい 汗みどろ 
 油まみれで頑張っている)
③顧客 (現在顧客 と未来顧客 の永遠の幸せを実現するための活動  
 買ってくれた人だけでなく 買ってくれない人と差別をしてはいけない)
④地域住民  (障害者、高齢者 困っている人、苦しんでいる人がいれば会社として出来る限り
 のことをしてあげる  障害者で働きたい人がいれば、その人達に雇用のチャンスを作るべき
 無いと言うならば会えて作る必要があるのではないか  立派な会社はそうしている)
⑤株主 出資者( これは余り意識するなと私の本には書いてある  結果としての幸せ)

印象に残っている会社は700社有る  伊奈市の会社 背中が震える想いをした  
ここまで社員、家族の生活 外注さんの生活  お客の幸せを念じているのかと言って私は正直言ってそういう会社こそこの国の多数派を占めるべきだと言った
会社を訪問すると経営理念を調べる 社長さんは 会社の目的は社員の幸せを通して社会に
貢献することです と言った
外注さん は変えた事がない  定年退職した場合は どうしても働きたいと言う人がいたら 
受け皿会社を作ってそこで働いて貰う

離職率 この会社は実質ゼロ  幸せを実感出来ると感じているから  
それで商売は出来るのかと言われるが48年連続増収増益 利益率は10%以上
高いものを売りつけている訳ではない
愛知県 豊橋 小さな歯車を作る会社  この会社しか作れない 長年勤めていた社員が重い病気にかかり、息を引き取った 2年半いちども会社に出社できず、
この会社はその人に対して、減額をせずに給料袋を渡した  夏、冬のボーナスを渡した
社員もその方に対して同様な想いであったと言っている  
その方に技術指導して貰ったので今の私達がある  とのこと

だから次から次に物凄い商品を出す  この会社では定年がない 
能力が落ちたり体力が落ちたりしたら そういう仕事を作る
給料が一番高い処から横ばいになる  若い人が嫌気をさすのではないかと思ったが、
私達の行く末ですから という
お年寄り、障害者の幸せをを考えると 若い人が心が燃える それは自分の行く末だから
チョークメーカー 当時従業員が50人ぐらいの会社  知的障害者7割を占めていた  
社会的責任として行動した 
今日本で一番上場会社で雇用している会社が13%  社員が社長に採用してくださいと時期談判して ,その気持ちに押されて採用したのが最初のきっかけ
出会った時にこの国の宝だと思いました
    
この様な会社が一杯ありますけど社員の目つき、顔つきで判る  
早く5時に成らないのかな 思う様な顔  顔、態度にでる  
 トイレ、社員食堂を見せて貰う  綺麗、汚いではなく
社員の午前中の疲れをいやして、之から始まる午後の為の準備をするという憩い場である
社員食堂は会社の中でもっとも良い場所に置くべきだと、思っているが良い会社はそうしている
 トイレ せめて一か所ウォシュレットにしてあげないと と思う 社員のための福利厚生施設 
良い会社は全部 まるです

障害者、高齢者がどの程度いるか  最高齢者 92歳の人がいた  
人を大切にする会社が1社でも増えるようにやっている  
高齢者を大切にすればするほど若者は燃える  自分達の未来が目の前で解るから
若い人との仕事の棲み分けはできる  年寄が好んで使う商品は若い者には解らない
価格競争力でやろうとすることは間違っている
アジアでは競争に勝てるわけがない  
価格競争力を維持する限りは人を幸せにすることはできないと思っている
高いけどサービスが良いとか、高いけど良い社員がいるとか 高いけど買った後いろんなことを
してくれるとか、 高いけどこんなことを社会にとって,いい事をしてくれているとか 社会はそういう軸で世界の人は見ていてくれる

この国が価格競争力の優位性を発揮している会社が少数派に成って 出来れば全部なくなって、 皆非価格 で その時初めてこの国と言うのは、長いトンネルを抜けて世界から再び
尊敬される国に成ってくれるのではないかと思っている
少しずつ増えている  非価格 社員、サービス 納期 社会貢献活動 社会はそういう会社を
評価している 
私が頼まれるテーマはどうしたら社会性が高まり、社会から評価されるような 社員が幸せだと
実感できるような そういう会社にどうすればできるかと
いう相談、講演が圧倒的です

物差しを変えろと言っている  業績軸から幸せ軸に  どうしたら関係者が幸せになれるかと 
幸せになれば必ず必ず会社の業績は高くなる
東証 一部 の社長さんに講演を頼まれて講演する  
日本の大企業が変わってもらわないと いけないと話すと(中小企業での事を話すと)
多くの人がポケットからハンカチを取りだして目頭をぬぐう光景を目にする
もしも逆の立場であったなら リストラされた商品を買いますか、 リストラした社長さんを
尊敬しますか、 自分が下請けだったら之からも一方的なコストダウンに対して、
これからもずーっと協力しますか 常に相手の側に立って、自利の世界から 他利の世界に  
利他 利他です
他人の幸せを念じて経営をすれば必ず回って来る 
この世に神様がいるがごとくだと言っています   
正しい経営は滅びない  誰かの犠牲の上の経営は永続きしない 
喜びも、 悲しみも、苦しみも共に分かち合う
宗教の違い、国籍の違い、年齢の違い、性の違い があっても之が経営の中で出来ないはずはない 
人を大切にする会社は滅びない  子供達の未来の幸せにも通じる

2013年2月3日日曜日

天谷保子(整体師88歳)     ・身体の力と知恵を生かそう

天谷保子(整体師88歳)           身体の力と知恵を生かそう  
1925年生れ、後に東京オリンピックの第二会場に成る、現在の駒沢オリンピック公園で終戦直後に地域の人と一緒に「青空保育園」を始めました
又子供のころから身体に痛みを抱え、後に野口式整体の野口晴哉と出会い、整体を学びました保育園を閉園後、天谷さんは88歳の現在も、整体の指導者として忙しい日々を送っています  

朝5時ごろに、目が覚めて、起きるのは6時30分~7時頃  
その間を寝ながら 身体を動かす 伸びをする  竹踏みを推奨している(竹踏みはいい)
活元運動 野口晴哉先生に教えていただいた 
最初身体の具合が悪くてお世話になった 昭和30年代だった  
整体の指導を現在も行っている  
若い人 運動やっていて捻挫した人が来て治って別の怪我をして来たり、 お年寄り定期的に週一回来ている人がいる
勉強会も有って教えたりもしている  「愉気」 愉快な気持ちを送る   
気は流れている 血液、リンパも流れているが 気の流れが一番大切

血液が滞っている リンパが滞っている、は医者に診てもらえばいいが、気の流れは解る人でないと解らない
気は人間の元 気持ち 気分、機嫌がいい 機嫌が悪い 気 全部気  
自分の気を手に集中させて、相手の気を感じてゆくと言うのが仕事なんです
気を手に集中させて手で触ってとどこうっている所を探して、滞っているところがあれば、そこに流れを作って行って、気が自然に流れるようにすることによって、気楽に過せるようにしていやる  
痛い処、気分が悪いところ の流れを良くしてやる  
治るのは自分 同じ病気でも治ろうと思う人と、もう駄目だという気分では全然違う
自然治癒力が人間にはある(誰にでも備わっている)   
それを引きだしてゆく 免疫力だとかを高めて行く 気にはそういう力が有る
身体は整えなければ、良い発想は出てこない  
頭で自分のやりたいことを描いて一生を送っていったらいいと思う

身体は止めては駄目、すべていつも動いていなければいけない  
身体の中は自然に動いている  心臓が動いていたり、血が流れたいたりしている
生きると言うことは動くと言う事だと思う
子供のころは不調のところが一杯有った 
6歳の時に怒りが有り1週間ねむってしまった  
その後に左足に麻痺が出てしまったが、引きずりながら歩っているうちに治ってきた
(20歳頃になおった) 
 
怒りの為にそのまま居たので頭痛と歯痛 がある   
中川李枝子(保育園に来ていた  児童作家)の紹介で野口整体にいった 
女学校の頃に保育園に手伝いに行っていてこういう事をやりたいなあと思っていた  
駒沢公園が昔は原っぱで引揚者の住居が有った 
その子供達がいて、町会長が子供を集めてみるようにしたらいいとの提案があった  
手の空いている人を募集していたので、一回行ったら明日も来てくれと言うようになって行くようになった
昔小学校の先生だった人がいて、その方が主体に成ってやっていた  
私も資格を取り、(都の資格) 先生も居なくなって、募集をしたときに中川先生にも来ていただく事になる  

2年ぐらいたってから手が動かなくなってしまった 
頸椎2番の滑り症 手術しなければ治らないと言われた  
どこの病院でも引き受けてくれなくて、成功率が10%と言われた  
覚悟をして(写真等を全部焼いてしまった)
野口先生に出会って、この先生は私を救ってくれる人だとさっと解った   
足の不具合が首に来ている と言われた
当時左足がだるくて一晩中動かしている様な状態だった   
大丈夫治りますと 言われた  今まで辛かったでしょうと言われた(他に頭痛、歯痛)
他の医者では何にも解らなかった、説明もしてくれなかった
先生の本を読んだり、活元運動をしたりした 
   
オリンピックの会場に成ると言うので都の方から引っ越してくれとの話があり、公営の保育園が出来て、保育園は止めて整体に集中するようになった  
毎週野口先生のところに行っていたが、保育園を止めた事をいったら  
ここに来なさいと職員にしてくれた  孫も一緒に整体の仕事をする様になった  孫はお腹にいる頃から整体のお世話に成っていたので自然と
見に付いていたものと思う  慶応の法学部に行っていたのに この仕事をする様になった
孫にはあんまり進められなかったが、非常に熱心で 野口先生の本は子供のころから読んでいたので、私と先生が教えて現在に至っている

その方が一番つらいと思っていることを こういう事ですよと言う事を言ってあげるとか、ここがこうなっているからここが痛いんですよと言って上げたり  、大体 冷えている方が多い  
後食べすぎ 目の疲れ  手の疲れ これが現代人のだれでも持っているもの  
伝えたいことは 生れたら死ぬまでは 一本の道に成っている  
その道をずーっと死ぬまで歩いていかなければならないので、自分の志を持って、自分の行こうと言う道を選んで、ずーっと行かなければいけない  
その中には家族、友達がいるが、そばにいてくれる  
皆に見守られている  家族と一緒に歩いて行くんだけれども、その途中で 何かに出合う事がチャンスがある 

そのチャンスを上手に掴んでゆくのが、旨く生きてゆくコツだと思う   
間違えて横道に行きそうになったときに、自分の信念があると横目で見ながら 通り過ぎてゆけるような人生でなければいけないと思う  
そのためには志を持っていないといけない 
 カンを育てて自分が歩いてゆく途中で、出合ったものをぱっと拾ってゆくと言うカンが必要   生きると言うことは動いていると言う事 流れている事  だから止まってはいけない  
明日の為に寝る 明日働くために寝る  
そうすると動きはずーっと続く    自分のやりたいことをずーっと遠くに持っている 
振り返ると言う事が出来ないタイプだった  
(子供に頃に妹と一緒に旅に出ようと言っていた と昨年妹から言われて気がついた)
妹、弟と一緒に旅と言うのに凄く出たかった   
その旅が今の一本道何ですよ  そこに出発点があったものと思う

2013年2月2日土曜日

笹森理絵(42歳)        ・発達障害を知ってほしい

笹森理絵(42歳)          発達障害を知ってほしい  
10年前に32歳の時に発達障害と診断されました 
発達障害は脳機能の障害で 集中できない 興味関心が偏る 計算が出来ない 
相手の気持ちを察することが出来ない、等様ざまな症状が子供のころから表れます  
笹森さんはこれらの障害が複数重なり、3人の子供も発達障害が有ります  
そんな一家の生活を手記に書いて平成17年NHK障害福祉賞優秀賞に成りました  
その後精神保健福祉士の資格を取り、発達障害が有る人が職に付けるように、NPO法人で就労支援の仕事をしています

4種類の症状が重なっている ADHD(集中出来ない、旨く情報処理が出来ない 
 計算が苦手、 不器用 右手左手が旨く出来ない)
子供のころも好きなことにしか気が向かない  我儘な子供と言われていた  
算数がとても苦手 国語 、社会はクラスで1番2番を争うレベルであるが、算数は数点しか取れない 
人の意見を中々聞かない 忘れ物がひどく困った  机のなか一挙に押しこむ 情報処理が苦手  
5年生のころに 机の上にものを出されて整理しなさいと言われる(女性は一人だった)  
手、顔が敏感で気持ちが悪い(化粧、顔を洗うのが苦手)
大学を卒業してすぐに結婚 最初は変人だと思われた 
趣味がツーリングでバイクの運転も男勝りの運転をする
神戸から東京に住んだが、カルチャーショックで引きこもりになってしまった  
普通推論して動くが、明らかに言葉にしてくれないと理解出来ない
(風呂を見てきて呉れと言われて、3分間見て来る 蛇口は止めることをしない)
姑との関係も旨く行かなかった 
ズバッと言ってくれない(おおらか)タイプなので解らないことが有って旨く行かなかった

最初の子供も発達障害が有った 
30歳を過ぎると社会性を求める大人の振る舞いが出来ずに ガラガラと崩れてしまって鬱病に成ってしまった
薬を飲んでも効かない  
一冊の本を読んだ 「片付けられない女」 その中には原因が有るのではないかという事が有って其れがADHDが出ていた
これは私の事ではないかとはっと思った  これを医者に伝えた 
専門の先生を紹介して貰って行った

こんなにひどいのにどうして解らなかったのと医者に言われた 
出来ないことはこれまで努力しても出来ないでいてたが、このことは努力の外に有り、これからは長所を生かした生きかたを考えた方がいいと言われた
本人て、怒られ続けてきたので、長所はどんなことなのか解らなかった 
長所についても、段々理解できるようになり、得意でない分野にもチャレンジしてみようと思う様になった
主人は最初腹が立った 
いままでこんなにひどい状態をやってきて、障害だと一言ですべてを丸く収めるとはとんでもない、受け入れられないといっていたのが5年ぐらい続いた  
子供もそうだとのことで、主人も肌でじわじわ感じてようやく理解できるようになった
 
自分の苦手から逃れるために言っているのではないかと捉えていた様だ 
でもそうではなくて困っているんだと言う事が理解できて、自分の中で 、納得が出来るようになって変わった  
長男、次男 三男共に育てるのが大変だった  長男が小学校のころに 私の病期が判った  次男も幼稚園の時に解った   子供が困っていることは今まで怒っていた  
今しつけておかないといけないと思って怒鳴っていた  
解ってから大分教え方が判ったと言うのが転換期だった  長所を見てやる
長男の事を認めてやらないと 自分も認めることにならないと思った  
この事を世間にオープンした(手記にしてNHKに応募した)

あちこちで講演もしている   
同じように診断された方が、今後の道筋が解ってきたとか、希望が見えたとか いろいろお話を頂いています
見方の違いをつくづくと感じた  他の障害と外見では違いが分からないので困る  
音が怖い 嫌なのではなくて怖い  
言い訳をするがそこまでしてやりたがらないのかと 言われてしまう
私は駄目な人間だと子供の頃からあった  
子供のころに障害が解っていれば、苦労もそれほどしなくてすんだかも知れない
1回目大学は考古学をした  
測量、不器用で土器等を触れなかった  等が有り 志半ばで諦めた

2回目はついこないだ大学を出た  
精神医学 福祉の仕事を通して発達障害に係わろうと思った  
以前から子供から老人まで介護の仕事をしていたので、守備範囲が広いので子供から高齢者までの発達障害の仕事をさせてもらえればいいと思います
今まで経験したことが生きると思う  
発達障害の有る人の就労支援も行っている
職業に係わる前の職業訓練に携わっている   
大学、通常高校をでた方で何が必要か 特性を見出す(得意な分野、不得手な分野を見出す)
障害をオープンにして伝える   偉人の中にも発達障害の人がいる  
自分の人生を自分の足でしっかり歩く事 
どんな仕事をしていても自分で選択して生きて行きたい 
自分の人生は自分でしかマネージメント出来ない
発達障害の当事者、その周りの人 の通訳として 役に立っていけるようにして行きたい

2013年2月1日金曜日

土肥美智子(英語翻訳ボランティア)  ・盲導犬と歩んだ50年

土肥美智子(英語翻訳ボランティア83歳 )       盲導犬と歩んだ50年  
昭和38年女性として日本で初めて盲導犬を利用された方 現在7代目の「ニルス」と共に暮らしています  
1歳の頃はしかの高い熱が原因で視力を失いました  
昭和12年日本を訪問したヘレン・ケラーが来日した際に、記念写真撮影の時に彼女の膝に抱かれた記憶が今も土肥さんの宝物として残っています  
戦後再び日本を訪問したヘレン・ケラーと対面し、その公演を聞いて英語の通訳をすることを決心します    
願いが通じ、アメリカ留学の費用を負担してくれる人も現れ、アメリカで5年間教育学などを学びました 帰国後、英語の通訳や点訳ボランティア等の仕事に携わります
80歳まで週に1度は電車で大阪に行き、英語の点字本の製作などに係わりました
盲導犬のお陰で生活の自立が出来、世界が広がったという土肥さんに伺いました

ニルスは11歳になる どこへ行くのにも一緒 道は指示してゆく 
英語で指示する 訓練はかなり厳しい 子供のころに性格が出てきて盲導犬に合うか判断
1歳で成犬に成る 後は1年に5歳ずつ歳を取って行く  
1,5歳に成って盲導犬の事を知る  父が盲導犬を連れている姿を見た(軍人だった)
アメリカ留学に行って、初めて盲導犬に接する   
戦前昭和12年(8歳)にヘレンケラーに会う 講演に聞きに行く 岩橋さんが呼ぶ
その時の記憶に一緒に写真を取って貰った 
膝の上に乗せていただいたのは覚えている  

目が見えず、耳が聞こえず、話が出来ない 
三重苦の人で其れを克服して世界中を講演する
自分では聞こえないので解りにくいので 英語に通訳する
(トムソンさんに言いながら手のひらに文字を書く) それを日本語に更に通訳する(岩橋さん) 戦後も昭和23年に来日 当時18歳に成っていた 
通訳をやっている姿(甲斐さん)を見て感動して、その様になりたいと思った  
どのような巡りあいが有るか解らないので人生は楽しい(若いから怖いもの知らずだった)
22歳でアメリカに留学 お金がかかるが、テキサスの牧場主(80歳に成るかどうかの高齢の方)が支援をしていた 中国の方をお世話していた

中国は戦後、共産国なので支援することが出来なくなり、日本にいる人を探していた  
行くかと言われたので、即刻行くと返事していた
船で12日掛ってたどり着いた 
カリフォルニア、ロングビーチについて、そこから汽車でテキサスに行った  
エルパソに着いた(西部劇に良く出て来る街)
最初何を言っているのか解らなかった(訛りも有るしメキシコも近いので)  
テキサス大学ウエスタンカレッジ分校に入学する 戦争を戦った国なので、対応は? 
ボストンに行ったが誰とは無しに助けて貰った
ボストンでは教員養成課程があり、とらせてもらった  
中国、韓国、インド、ノールウェー等から来ていた 

27歳で日本に帰って来る ライトハウス (岩橋武夫 が設立した視覚障害者の福祉施設)で働くようになる
本の出版(日本語の点字) 等  図書館に納める  ニルスは歳の時に来る  
最初のころは喫茶店にも入ることはできなかった
列車に乗るのに1週間前に申請することが必要だった  
クリスは訓練を受けてないのに電車、エレベータなどにも乗ることが出来た
若い時から、一人で出来れば、それだけ自分が豊かになるので 盲導犬は欲しかった
最初シェパード 3か月の犬が来て7カ月頃になると手に負えなくなって、一旦協会に返して、訓練をし直して貰った

いろんな所へ行きたかった  いろんな音が聞こえるし、いろんな話声が聞こえるし、いろんなことをしているのが判るし、いろんな人に会えるし、視野が広がる 
いろんな出会いが有るので 色んな事に出っ食わすし、一人で出掛けることが嬉しい  
今どこを歩いているか解らないと駄目、自分で道を指示で来るように成らないと、盲導犬を使えるように成らない
パートナーとの阿吽の呼吸がないと駄目     私は本当に恵まれていると思う  
何でもしたい事をさせていただいた
留学をさせていただき、盲導犬と一緒に歩きたいと思った時に歩けたし、障害者向けの事をすることが出来たし、いろんな出会いが有った
出合いは素晴らしいことですね 外に出ることによって出会いが有った  

2013年1月29日火曜日

平良とみ(女優85歳)      ・沖縄芝居の心と方言


平良とみ(女優85歳)      沖縄芝居の心と方言  
沖縄の石垣島で小学校6年生の時に劇団に入りました 以来70年 夫の平良進さんと一緒に沖縄芝居の心と方言を次世代に伝えようと励んでいます
平成13年NHK連続TV小説「ちゅらさん」で沖縄のお婆さん役を行い、大ブレークしました

小学校4年の時に、母と一緒に石垣島に行った  
貧乏侍の家だった 食べ物はいも、野菜等問題は無かったが、貧しかった 
6年生の時に芝居に入った(貧しかったから その頃自分と同じくらいの生徒が夜お芝居して学校に来ていたので自分でもできるのではないかと想い)
女学校ができたが、そこにはいけないと思い、高等小学校はでたいと思った 
お給金を貰えればいいと思っていた(芝居が出来るかどうかは解らなかった)
最初に5円を頂いた 座長も苦労人だった 
 
当時教科書はお下がりだったが、参考書まで新しく本を購入出来た 
昼間は学校に行って夜は掃除したり、幕を引いたり、お茶を入れたり雑用をしていた
身長は130cm位 (小さい頃に脊髄を患ったため)  初舞台は踊りだった 背の高いきものだった 幅は大きいし、高さも余ってしまう着物だった
今思うとよくこういう事が出来たと思っている 
かつらをかぶったら、額の下の方に来てしまっていた 化粧も自分でやらなければいけなかった
鏡を見たら、泣いてしまって 目は真っ黒になるし、自分の顔がひどくて 座長に叱られて、出たものの、笑い声で一杯に成ってしまいどうして入って言ったか解らなかった   
辞めますとは言えないで、続ける  方言が使えない劇に成ってしまった
(戦時中だったので 規制が出た)  
大人たちは標準語が出来なくて この頃から子役として使われる様になった  
石垣島はマラリヤ蚊が多くてマラリヤで亡くなった人が多かった  
戦火にはしのげることが出来た
戦争が終わって喜んだ  座長が慰問をして、一緒にやった

大島劇団等が沖縄に来ていて公演していた  露天の芝居小屋が出来た  
沖縄は芝居が好きだった 20数劇団が有った
沖縄本島に出て来る 露天の芝居小屋で雨が降って来ると舞台まで大変な水浸しになったが、当時の娯楽は芝居しかないのでお客は帰らなかった
お客はやっぱり情の世界 先輩を敬う 親に孝行  一度会えば皆兄弟(沖縄の心) 
「いちゃればちょう」と沖縄では言う
優しさを若い人にも伝えたい だからあえて沖縄芝居をやってほしい 
そこに人情とか、人間の優しさ 悪と善 がある

沖縄の言葉は沖縄の文化  沖縄の自分の島 国の言葉を忘れたら、親も思う大事な心だと思います
ちゅらさんで一躍有名になった  おばあ おばあと呼ばれる 方言で読んでくれる
昔はおばあと呼ばれると嫌だったらしい  
映画「ナビーの恋」でおばあ役をやってブレークする   
30代ぐらいからおばあ役が多かった
沖縄でも方言が一杯ある  首里(主都)、那覇(庶民)でも言葉が違う  
方言について教えている 方言口上とちょっとした芝居をやっている
言葉には歴史が有る   遊びながら言葉を教える その方がいい
沖縄は癒しの島 家族、血縁関係を大事にする  
お盆でも従兄、兄弟 とか挨拶言ったりするが、段々若い人は薄れてきている
ご先祖様が中心に成っているが薄れつつあるので、薄れないようにして貰いたいと思う

2013年1月28日月曜日

天野祐吉           ・隠居大学(早坂暁)


天野祐吉             隠居大学(早坂暁)
四国・松山中学の天野さんの4年先輩  中学は5年生 旧制高校3年 その上に大学が有った 平賀源内を主人公にした ドラマが有ったが 現代の時事問題を織りこんだドラマで画期的だった 散歩の達人 心臓をやられて倒れて医者が 貴方は余りにも運動不足だと言われて、始めた  
散歩はつまらないと思っていた  
猫がいると思って、猫に会いたくて散歩を続ける様になった 心筋梗塞から始まって 余命2~3年と言われた
朝から肉が好きで 肉ばっかり食べ、仕事をめちゃくちゃやっていて、夜も寝ないで仕事をして、終わると麻雀で遊んで、酒を飲む という生活をしていた

「夢千代」の途中だった  病院で書いていた 
1時間ドラマだったら4時間位で書いてしまう
野良猫を集めて、100匹位世話をした  旅先で猫を見つけて、連れて歩いていた 
貰ってくれる人を探して 中々貰い手が無く苦労した
殆ど猫に名前を付ける 「あまてらす」という名前を付けるがこの猫がいると回りが旨く行く
猫は死ぬ前にいろいろなところに挨拶に行く  
生前葬を行った 
病気ばっかり50歳からしており、今度死ぬかと思うと怖いので 見せまいとして 強がっていたが化けの皮が剥げて来て、本当に苦しくなってきて、もう1年か あと3カ月かと思って あんまり苦しい物だから 先に死んでしまおうと思った

生前葬をやった  お坊さんも呼んで、やって貰った やってよかった
 何が良かったと言えば 香典が沢山貰って自分で使えるのが、良かった
3回忌 7回忌とか やる  弔辞を読んで貰った 
貶すことは無い 自分がどのぐらいのものかを弔辞で評価して貰える
正岡子規が死ぬ2日前に作った俳句  
ユーモアのセンスが有る
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」 
「螽焼く爺の話や嘘だらけ」 
「渋柿は 馬鹿の薬に なるまいか」 
 
俳句というのはユーモアを大事にするものでは、自分の命も 自然の中の一つとして、特別なんだけれど そこに飛んでる蝶とかトンボだとか と同列に見て詠む物ですからユーモアが出て来る  
そういうところが俳句の面白さだと思う
戦争で帰ってきて、広島の惨状を見て 悲惨な思いで家に帰ってきたら、句会をやっていて なんだこの人達はと思ったが やっと戦争は終わったと感じた
「生きたくば 蝉の世になけ 八月は」  人の命と蝉の声が同列何ですね  
人間が威張り腐っていると言う事ではなくて、小さな虫、トンボ、蝶 そんな弱い者と いたいけのものと 人間の命が同列にして ろんぐり引いて読むものですから 非常にユーモラスな光景に成ることもある  
元々物書きになろうとは思わなかった 
親戚の医者の後を継ごうと思っていたが、手術等は嫌いだった
受験受験は無かったので、旧制高校は青春を謳歌した   渥美清 小沢昭一  友達だった  海軍兵学校を出たが乗る戦艦はもうなかった

医者の道は嫌だった、東大、東京医科歯科大学 慶応を受けた  
全部落ちて、日大の演劇科に入った 
郷里に芝居小屋をもっていたので、演劇界に入って行った  
役者になるのはむかない様な気がして、途方にくれる  
雇ってくれるところが無く 駄目な人間だと思い知らされる  
翻訳をやることになる  広告を取って来るように言われて、行くが全部断られる  
見下していた連中が広告を取って来る
自分のみじめなところを見せたのが(その時にはずぶぬれでみじめな状況だった) 
広告を取ることが出来た   東京に来てから食う事には困った

2013年1月26日土曜日

絹谷幸二(画家70歳)      ・古事記というテーマに挑む

絹谷幸二(画家70歳)       古事記というテーマに挑む   
去年は古事記をテーマにした大作を描き精力的に活動しています  
古事記というテーマに挑むことで故郷奈良の新たな魅力に気付かされたといいます    
純然とした空の青を背景に、限定された形の中に明るく躍動的な色彩で描かれた人物などが特徴とされる。アフレスコという壁画技法の国内第一人者でもある    
  
奈良県立美術館から記紀、万葉の絵を描いてほしいとの依頼が有った  2
00号にして20点以上が必要 館内に半分の面積を依頼された   
片方で又新作展覧会が予定されていた  パリ、ロンドンに飛んだ 
アフリカ等の原始の時代の絵が展示されているので、参考にするために出掛けた   
熊や鹿の着物を着ていると、地面にもごろりと寝ころんでも大丈夫だし、雨の時にも大丈夫  
古代の人はどんな感じだったのかなあと想いをめぐらした
  
大和にも高天原が有る 奈良に有る  葛城山のふもとに有った  
昔の時代に自分が移った様な感じで考えると 綿の着物よりも 、毛皮だと思った   
古事記に出会って、奈良というものがいかに 素晴らしい処かということに気付いた    
奈良は青柿山に囲まれた狭い盆地だと思っていた  
大阪平野の方が広いだろうと 関東平野の方が広いだろうと 思うが、大きな誤りだと思った   
記紀 万葉の時代 どの程度 人間の数がいたでしょうか  
奈良時代 奈良が一番人口が有って 最大見積もって20万人 7万人程度と言われる   
記紀の時代にはもっと少なかった  もっと少ない人数で 筑後川を制御できるか  
今平野に流れている川をちゃんと安全に堤防を作って出来るか   
とても平野として使えない そうすると人はいけない  
奈良の田原本 大和高田 このあたりの傾斜が非常に米作りには適している   
川は大きくなく 氾濫がおきにくい 
糞尿が下の方に流れて行くので(病原菌が)健康が維持される 
  
吉野は遠いと思ったが、一つ山を越えればすぐにたどり着く   
丘の上に住むか、山の上に住む  はえもいない 蚊もいない   
インカとか、ああいう人達は何故高い山に住むのかなあと思ったが、病原菌から避けるために高いところに住んだのではないだろうか   
当時の人はやまさちひこ うみさちひこ 天と地に広さ  20m位のところに住むサメは小さい サメの話が出てくる   
昔の旅は そのまま歩く 夜も歩く  絵描きは時間の観念が余りない  
フレスコ画家(壁画) 壁が乾かない状態で書かなければならない   
最近の旅は8~10時間 私は(絵描きは)24時間働く  昔の人は余り死を恐れてはいなかった    
宇土神社は凄いほこらがある 天照大神がほこらに隠れる 真っ暗になると色彩が無くなる  岩戸が開けられると色彩が復活する    
全体に渡って見渡すような思考が現代人には無い (専門化しすぎてきているため)  
昔の人は足の裏で見ていた   
天孫降臨  奈良の高天原がふさわしいと思う  故郷はその人そのもの   
自然は美しくなければいけない 自然とは一体   
故郷と私達 風景と自分  故郷の物を食べている様な循環方式がいい