2014年10月7日火曜日

沢 竜二(俳優)          ・一座を率いて60年

沢 竜二(俳優)       一座を率いて60年
1935年 福岡市生まれ 両親は各地を回って芝居をする旅役者、沢さんは4歳で初舞台を踏み、16歳で座長と成って一座をひきいて、芝居を意欲的に取り組みました。
今ではいわゆる大衆演劇の舞台ばかりではなく、映画やTVなどにも出演して、幅広い役柄をこなして高い評価を得ています。
沢さんは大衆演劇を歌舞伎や新劇に負けないジャンルにしようと、侍ミュージカルと銘うって、アメリカでの公演をするなど、日本の芝居の魅力を世界に発信しようとしています。
母の旅公演中に芝居小屋で生まれたという、沢さんの話を伺います。

6月に福島、南相馬で5か所、寸劇と踊りと歌とをやってきて、皆を笑わしてきました。(3年ぶり笑ったと言っていました)
4歳で初舞台を踏んでいる。 子役で出された。 忠臣蔵の子との別れの場面に登場した。
演劇をやるのに田んぼの中に舞台だけを作り、むしろで囲って、下にむしろ、ござを敷いて開幕は夜の7時からと成る。
新国劇の澤田 正二郞先生から母は名前を頂いた。
先生の人気が上がると女沢正と名乗る人が8人いた。 母も女沢正と名乗っていたが、8人もいるのはまずいという事で、先生がこっそり見て、母が8人いた中から選ばれた。
8人兄弟で、忙しくて母は九州から離れられなかった。
一番辛かったのは、夜遅くまで起きていて、コックリコックリしていると、母があやしてくれるが、おしろいがついてしまい、学校に行くとそれを周りからからかわれて、いじめの対象になった。
3日~5日で次のところに行くので、学校も転校になってしまう。
小学校2年生の時に、父が劇場を買ったので、それからは落ちついて学校に行けるようになった。

劇場が中学2年の時に燃えて、久留米に移転するが、万能選手だったので元の中学から呼ばれ、朝早くから通った。(走って通う様になる)
高校に通う様になるが、仕送りが少なくなり、3カ月滞納したものは退学という張り出しがあり、それを見て学校は止めた。
役者になることにする。  段々人気が上がり、男座長の方が客が入るという事で、沢幸次郎と言う名前で16歳で座長になる。
沢幸次郎として凄い人気になる。 関西にも行くようになり、関西でも人気になる。
昼間は時間が空いているので、ウエストサイド物語の映画を見て、凄いと感動して、どうしたらいいのか3日間芝居を休んで寝込んだ。

アメリカにゆき、日本のものをやるべきかと考えたが、そのためにはまず東京と考えた。
船村 徹先生に手紙を出して、先生に会う事になる。
40人の座員を置いて一人で東京に来れるのかと、言われたが行く事を決心する。
29歳で東京に出てくる。
考えた5倍、10倍の苦労だった。 家賃が払えず、キャバレー回り、内職などをする。(親子3人暮らし)
父が死んで、全部質屋に入れて、飛行機代がでて、死に目に会えた。
もう先が見えなくて、先生にもう帰りますと、言ったら、先生が5000円をくれた。
不運が随分続くが、逆境に強い人間になった。

稲垣 浩監督が 無法松の一生 主役 阪東 妻三郎 、三船敏郎  2本とも稲垣監督製作
3本目を考えているが、三本目の主役はお前だと言われて、1か月後にクランクインするから頑張れと言われて、監督は死んでしまった。
芸人研究所を作って80人集まる。
再び一座に戻って再生する。
大江美智子と半年間熱海で演劇をやり、「人生劇場」の水槽を使った大立ち回りをやったが、それを見ていたアメリカのプロデューサーが俺たちにやらしてくれと言うよな話もあり、アメリカ公演が増えてゆく事になる。
色々なところで開催をして、ラスベガスで3カ月のロングランをやった。
言葉は日本語でやるが、役者が喜怒哀楽を出せれば、通じることが判った。
宮本武蔵をやるが、一乗谷の決闘 一場面で最後に6歳の子供が白装束で相手としているが、子供を突く場面があるがブーイングで客が立ちあがるが、 立ち廻りをやると座ってきて、最後で二刀流でやる様になると拍手が来るようなる、最後の場面で、振り返ると殺した子供が立っていて、生きていると思って子供を抱くとやっぱり死んでいたかと、慟哭すると客が大拍手でした。

武蔵の格好をしたまま最後に「マイウェイ」を歌う。 日本語
プログラムにだけは英語で紹介してほしいといった。
「子供のころからスターではない、父母も旅役者だった。私も旅役者。 夢が一つ壊れたら夢が一つ消えたら、もうひとつ夢を見ればいい、命は一つでおしまいだけど、夢が消えても死にません。夢は必ずどっかに落ちています。 お互いにそれを拾って生きていきましょう」
ニューヨークタイムスの一面に、沢は武蔵の格好をして歌う「マイウェイ」はフランクシナトラを彷彿とさせる、という記事がでた。
これ以上の絶賛は無いので、ここで止めなかったら、客が入らなくなったりしたらみじめだと思ってアメリカ行きはここらがいい潮時だと思った。

アメリカの客は九州のお客と似ていると思う。 即身体と声で返ってくる。
昔日本では喧嘩をするにも、どこまでやればいいと言う事は解っていたが、今は判らないから命がけでやってしまう。
踊りは自我流でやっていたが、国立劇場でやってもやりだしたら度胸がついてしまった。
蜷川さんの舞台にも呼ばれて出ているが、僕には絶対文句は言わないが、あの人にはかなわない。
健康の秘訣 ストレスを溜めない。 芝居をやっているとストレスは溜まらない。










2014年10月6日月曜日

松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル)  ・80歳、今もステージに立ち続ける

松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル) 80歳、今もステージに立ち続ける
ムード歌謡コーラスグループのセンターボーカルを担当している松平さんは、80歳の今もステージに立ち、甘いソフトな歌声で多くのファンを引き付けています。
多くの歌手が歳と共に第一線を退いてゆく中で、松平さんは独自の健康維持で、現役を保っています。
80歳での健康維持法、ボイストレーニング、若いころからエンターテイナーとしての芸を磨いてきた多くの方々との交流録について伺います。

80歳が来た様な気がしない。  マヒナスターズ結成60年
新幹線もなく演奏旅行がきつかった。 北海道等はバスの移動で疲れた。
歯はすべて自分のもの。 母がにぼしを味噌汁に入れたり、ぼりぼり食べていたりした。
生まれは新宿だったが、戦争のため北上に学童疎開していた。
末広亭で落語を聞いていたので、疎開先のお寺でしゃべって、食べものを貰ったりした。
戦争が終わって、直ぐに疎開先から帰ってきて、全焼で何もなく、お爺さん宅が焼けてなくて、アパートもやっていたのでそこから中学、高校と通った。
淡谷のりこさんが歌っていたのを聞いて、涙が出た。
立教大学に進学、ハワイアンをやった。

灰田 先生が池袋にハワイアン喫茶をやっていて(自分自身ではないと思うが)、そこに出演するように言われて、スカウトされて、進駐軍のところに行ってやっていたが、帰りが遅くて辞めたが、再度誘いがあった。
ギターもやったが手が痛くて、ボーカルだけをやる様になる。
三島 敏夫佐々木敢一、私でビクターから宣伝用のレコードの話があり、それに歌をいれていたが、三島さんが佐々木を連れて戻ってしまって、裏声をやる人がいなくなり、私がやらざるを得なくなり、裏声を練習していたが、喉が弱ってしまって、血が出て直ぐ病院に入院した。(22,3歳の頃)
結核だと思ったら1カ月半で治る。
佐々木敢一が戻ってきて、元の一人で歌えると思った。(「ウナ・セラ・ディ東京」あたりから)

(台風関係のニュースの為、中断)
ステージでジャズを歌ったり、ハワイアンを歌っていたりした。
トリオロスパンチョスがきて、声が素晴らしかったので、ラテン歌謡をやってみたくなった。
ウナ・セラ・ディ東京」 作詩 岩谷時子さん
声の管理 食事 焼き肉だとかは疲れが取れる。
車は夏は冷房、冬は暖房で声を出すのには、一番いい。
休みの日は発声練習、ジムに行って運動をやっている。
身体の弱っているところをカバーしようとして、余分なことをするといけない、返って悪くする。

子供のころから歌謡曲が好きだった。
歌謡曲、ジャズ、ハワイアンを良く見に行った。
カメラを持っていれば、東海林さん、岡さんとかいろんな人と一緒の写真を撮れたので、悔やまれる。
東海林さんは酒が好きだったので、一緒に飲んだりして、帰りに肩を組んで歌を歌ったりした。
座右の銘 「人生成り行き」 その時その時でがむしゃらにしないで、成り行きでやる、そういう気持ちです。


2014年10月5日日曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第7回

保坂正康(作家)   昭和史を味わう 第7回 ”昭和天皇実録”を読む(1)
 昭和天皇の青少年時代 人間形成を見る。
2014年9月9日公表 61冊 1200ページ 宮内庁作成
明治34年4月29日誕生  昭和64年1月7日亡くなる。
62年天皇在位
明治天皇記は 120卷(1冊は薄い) 公開は13卷 黒塗りがある。
今回は全部公開されたのが、画期的。
今まで推測として語られていたものが事実と成った部分がある。
1回目は誕生から即位まで、1901年~1926年まで
2回目は即位から亡くなるまで 1926年~1989年

幼少期の教育
大正天皇に出した手紙が3通公開されている。  
8歳の時の両親への手紙(静岡県沼津御用邸での日常での)
「まだやっぱりお寒うございますが、おもうさま、おたたさま ごきげんよういらっしゃいますか?
迪宮(みちのみや)も、淳宮(あつのみや)も、照宮(てるのみや)も皆丈夫でございますから御安心あそばせ。
私は毎日学校がございますから、7時45分ごろから歩いて通います。4時間のおけいこをしまって、みうちに帰ります。 そしてお昼をしまって大抵、山や、村や、松林に出で面白く遊びます。・・・昨日はお使いでお手紙のお道具や、おまなを頂きましてありがとうございます。 おもうさま おたたさま
ごきげんよう 2月4日 迪宮裕仁」

桑野鋭 自由民権運動をやっていて、新聞記者になって、宮内庁の中で家族向けの雑誌を出すのでそこの編集者として雇われたようだ。
昭和天皇、秩父宮、高松宮殿下の幼年期の教育係をされている。
新しい時代にこういう天皇であってほしいという想いが明治天皇、大正天皇にあったのでは?
足立たか 学習院長の菊池 大麓の推挙で教育係につく。(科学的に見つめる目)
足立たか の父親は札幌農学校で、新渡戸稲造と同期生、クリスチャンの雰囲気を身に付けている。
全人格的に広がりを持つ様に教育している。
学習院の初等科に入学 院長が乃木 希典
明治天皇から孫を育ててほしいという事で院長になる。  
質素、倹約を厳しく指導する。
乃木さんを家族に一番近い人として昭和天皇は尊敬していたようだ。

歴史が好きで、生物に対して興味を持つ。
物をよく見るという事を大事にしている。
二心のある者は嫌いだという事をよくいっていたと書かれている。
生物学、分類学 土台になる学問に興味を持つ様に導いていったという風に感じる。
明治45年 明治天皇が亡くなる。 11歳の時
皇太后が3人を呼んで、亡くなった姿を見せる。
乃木さんが殉死するが、その前の日に昭和天皇に2冊の本を渡す。
今までの資料では2冊と成っているが、実録では1冊の名前しか載っていない。(これからの検証が必要)

大正3年からお学問所ができて、帝王学を大正10年まで学ぶ(13歳~20歳)
学友が7~8人いる。 勉強のほかに体育、天皇に関しては別枠で帝王学、軍事学も学ぶ。
帝王学 基本的には歴代の天皇の事績を勉強する事、これからの時代は天皇は国民とどうあるべきか、と言う様な事を学ぶ。
どういう様な託し方をするのか、どういう人を信用するのか、どういう様なシステムの上でそれが動くのかなどを学んだと思います。
独自の相当分析力を持った、歴史的勘の優れた君主だったのではないのでしょうか。
大正10年にヨーロッパ訪問する。

イギリス訪問など 反対派も出るが、牧野 伸顕などが説得する、これからの天皇は世界をよく知っていなければならない、国際環境をよく知っていなければならないと、出発する事になる。
大正10年3月3日 船で横浜から出発する。 
イギリス中心 ジョージ5世が別室に呼んで通訳と3人で立憲君主制を説く。
立憲君主政と言うのは 天皇と言うのは君臨すれども、統治せず。
貴方が命令したり、指導するのではなく、貴方は存在しているだけ、臣下のものがきちんと大権を使う様に、そういうシステムになっているのだから、貴方は直接口をはさんであれこれいってはいけないんだと、それが君臨すれど、統治せず、立憲君主制 天皇はジョージ5世から教わったと言います。

第一次世界大戦が終わってから2年なので、ジョージ5世から戦場を見てほしいと言われて、フランス、ベルギーなど戦場を見ることになる。
戦場を見て、悲惨な戦争を聞かされて、時に涙を流す。 
戦争が如何に悲惨かを知らされる。
その思いをジョージ5世にベルギーから電報を打っている。
ヨーロッパ訪問は思い出の宝庫の様になっているのではないのでしょうか。(船での半年の旅)
大正天皇の身体がおもわしくなく摂政(天皇の名代)になる。 大正10年11月25日
大正天皇が亡くなる大正15年12月25日までの5年間。
大正デモクラシーが昭和天皇が即位された後、なくなってゆくのはなぜなのか、天皇の気持ちとは別に軍部がかなり横暴になってゆくプロセスがあるのではないでしょうか。


2014年10月4日土曜日

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家) ・百年の夢を次の百年に

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家)  百年の夢を次の百年に
81歳、昭和8年大阪府に生まれ、昭和32年に宝塚歌劇団に入団、「ベルサイユのばら」や、「風と共に去りぬ」など多くのヒット作の脚本演出を手がけました。
平成8年製作畑出身としては初めて、宝塚歌劇団理事長に就任、宙組(そらくみ)の新設などに尽力しました。
最古参の団付き演出家として今も活躍中で宝塚歌劇100周年の今年、新たな演出のベルサイユのばらを上演しました。
常にチャレンジをしてきた半生と改めて宝塚の魅力をお聞きしました。

100年と言う歴史の重みは今年感じさせていただいたし、そこに立ち会えたという事の感動は言葉にならない。
100年前の第1回の「ドンブラコの桃太郎」をやった、高峰 妙子さんは私が入った当時、声学の先生で、教えに来ていて当時のことを昨日の様に話しているのを聞いていて、葦原邦子という凄い大スターがレビューの時の大転換期のスターからあんた宝塚に入りなさいと言われて、宝塚に入った様な事もあり、スターたちのいろんな話を聞いているので、自分の中では100年経ったのかと思う気持ちと、100年て長かったなあと、二つの気持ちがあります。
「ベルサイユのばら」 40周年
宙吊りをやると、子供達の目の輝きが違うので、そんなことも使っている。
毎回台本が違う。 生徒たちに失敗をさせられないというのが大前提ですから、生徒たちも色々あるので、芝居の巧い子、歌の巧い子によってどうしても見せ方が変わってくる。

両親が無かったので、小さい時から親の愛には飢えていた。
悲しさ、苦しさのなかで、何でもない一言が嬉しかったり、人の親切が嬉しかったりしたことが、こういう風に素直に気持ちを書けば、見てくださる人も判って頂けるなと言う自信には繋がりました。
1歳未満で父が亡くなってしまう。
祖母の方に引き取られていった。
おじさん、おばさんに対してお父さん、お母さんと呼びなさいと、小学校一年生の時に祖母から言われた。  優しく育てられた。
普通の方だったら感じられない人間の情みたいなものが書けるなと言うものが、書いた事が作りものではなくて、自分の経験であるという事が、そういったものが多くの方が判っていただけると、自信にもなっている。

戦後宝塚が再開したときに、クラスの中に星組の娘役のスターの弟が中学の同期生で、簡単に切符が入ったので、見に行って、それが最初だった。
焼跡だらけだし、女性は紺がすりのもんぺ、男性も軍服を背広に直した様な服装の世界に、宝塚だけがピンク、ブルーがあり、若い生徒が新しく入ってきたジャズで足を上げて踊るわけで、感動していっぺんに虜になった。
私の感動したとおなじ感動をお客さんに知っていただきたいなと思って、いつも自分の本の中にはある様な気がします。
役者になって芝居をしたら、いろんな世界を演じられると思い、役者になりたいと思った。
役者になるなら、声学、ピアノ、三味線、バレー、日本舞踊もやらないと、役者になれないと言われて、いろんな事を勉強しはじめた。(日本舞踊は名取になる)
中学では演劇部を作った。 高校でも演劇部、早稲田大学では第一文学部で演劇を専攻、在学中にミュージカル研究会(後に劇団早稲田劇場)を作って 21歳で樋口一葉のたけくらべの脚色、演出、振付をする。

声学、三味線、バレー、日本舞踊を勉強する中で、周りは先輩だらけで、その中で耳年増になってきて、グループの中で意見を言うと、どっか一色違った様で、演出の方に回されて、纏め役をするようになった。
ミュージカル研究会というのは、倉橋 健先生がニューヨークに行って、帰ってきて新進気鋭の評論家になって、その授業を受けている時にミュージカルがブームになっているといわれて、おもしろそうだと勉強し始め、舞台でやろうということになって、舞台をやる様になるが、どうしていいのか判らなくて、宝塚に似ているなと思う事があって、たまたま葦原邦子と言う人を知っていると言う人がいて、連絡を取ったら、やってあげるという事になり、稽古を見てくれたりした。
あなたは宝塚に入りなさいと言ってくれる事になる。
大学卒業後、昭和32年1月宝塚に入る。(本来4月)
レビューの王様と言われた、白井鐡造先生の助手として仕事をする。
小林 一三さんが同じ1月に亡くなる。阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ創業者)

「舞い込んだ神様」 を1年経たずして書いた。
日本舞踊が出来ることから、日本物のミュージカルの演出家として、宝塚でやることになる。
「ベルサイユのばら」の演出も手掛けることになる。
二枚目の芸を宝塚の男役に教えて頂きたいと思っていたので、長谷川一夫さんに演出をお願いして、やってもらって、1回目が終わってそれで終わりだと思っていたら、来年もやると言う事で、洋物をやりたいという事で、やってみるのも面白いのかなと思った。
ある少女がやってくださいと、マーガレット少女雑誌を送ってくれていて、これをやってみようかなと思った、それが始まり。
ベルサイユのばら」 18世紀フランスが舞台で、ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットの生涯を縦軸に、
道ならぬ恋の相手のスウェーデンの貴公子フェルゼン、王宮を守る隊長オスカル(ジャルジェ家の娘として生れたが、男として育てられた男装の麗人)、両親を亡くしてジャルジェ家で育てられたアンドレー(オスカルを愛している)、それぞれの人生、思いが絡み合いながらフランス革命の時代を迎えてゆくストーリー。

宝塚はロココの美術の世界を舞台で作ったら、日本の演劇界では宝塚は一番似合うという事を聞いた事があるので、ロココの女王と言われたマリー・アントワネットの一生みたいなものは宝塚でやっても面白いのではないかと思った。
これはどうですかと言ったが、長谷川先生は大反対で、間男する話など駄目と言われたが、上手にオブラートに包んでやりますからと説得した、しかし漫画の読者、宝塚ファン両方から反対の投書が来た。
漫画のファンの方も素直に入ってくるような、プロローグにしないといけないと思って、池田理代子さんの原画、マリー・アントワネット、オスカル、フェルゼンを舞台に飾って、そこから始まる様に、ワンクッション置いた。
衣装、ブーツ、かつら、今は豊かになってるので、いろんなものがあるが、当時は本当に少なくて、稽古の後に、皆が必死になってくれて、対応した。
長谷川一夫さんは日本物だったらこう見せるけれども、振りが洋物だったらこうするという様な、コツ見たいなものは御存知でした。
ラブシーンで身体が痛かったらお客さんは、綺麗なラブシーンだと思うのだから頑張んなさいと言われたのをいまだに伝説として残っています。(オスカルとアンドレーの一夜のラブシーンの場)
普通TV、映画だったら抱き合ったらすぐにキスをするが、舞台では一瞬 身を引く、それがどんなに会いたかったかどんなに愛していたのか、表現する芸になる。
目線の位置に関しても、厳しく指導された。

「ベルサイユのばら」の初演から2年半後、「風と共に去りぬ」で又大ヒットする。
トップのスターがひげを付けることは、絶対にタブーだった。(脇役は許されていたが)
榛名 由梨に一遍やってみてはと言ったら、「やりましょう」と言ってくれた。
周りからは大反対だったが、しかし大ヒットした。(その当時は宝塚は冬の時代だった)

宝塚の魅力は?
これだというのはないのかもしれないが、私自身が戦後の焼跡の中で宝塚を見た感動、これが宝塚だという、楽しさ、嬉しさそういったものが、宝塚のお客さんが求めているものではないかと思う。
美しい夢、様々な人の愛、そういったものを描いてゆく事が、宝塚が持っている良さではないかと思う。
非現実的世界を2時間見ることで、現実を忘れて、楽しんで、新たに現実の世界で歩んでゆく。
宝塚が世界に羽ばたいてゆくためには、日本の文化を紹介する、その一つのお手伝いになれば嬉しいと思うので、日本物をやらせていただきたいと思う。




 

2014年10月3日金曜日

阿部知暁(画家・アフリカ学会会員)・ゴリラを描き続けて30年

阿部知暁(画家・アフリカ学会会員)    ゴリラを描き続けて30年
阿部さんは昭和32年高知市の生まれ。  45年前小学校の修学旅行で、ゴリラと出会いその時何故か初対面のゴリラが笑った様に思えたそうです。
阿部さんは父親が画家だったこともあり、大坂芸術大学に進みますが、作品の方向性とテーマに悩んで、上野動物園に好きなゴリラに逢いに行きました。
人気者のゴリラを見ているうちに、好きなゴリラを描く事を決心し、以来ゴリラを描き続けています。
日本、ヨーロッパ、アメリカの動物園、アフリカの野生のゴリラを含め、1000頭以上のゴリラと出会いました。
ゴリラを描いていると、ゴリラの子供が阿部さんの絵を覗きに来たこともあるそうです。
ゴリラはゆっくり反応し、ゴリラ時間があるのではないかと、感じると言います。

小学校の修学旅行の栗林公園の動物園で初めて見て、笑ったように感じた。
その瞬間から、なんかすごく好きになった。
絵を学び出して芸術大学にも行ったが、方向性に悩んで、悩んだ挙句に、上野動物園の「ブルブル」という有名なゴリラの前で、相談した。
にやっと笑って、描けるかい、と言った様に感じた。
ゴリラの事について、色々調べたが、判らないことが多くて、様々な疑問が出てきて、当時の上野動物園の北島さんが、そんなに見たいんだったら、見てごらんと近くで見せてくれたりした。
東山動物園では当時4頭のゴリラがいて、そんなに好きだったたら、見なさいと言ってくれて、見せてくれた。
段々好奇心が出てきて、山極 寿一先生(ゴリラ研究では著名な先生、 現在京都大学総長)を訪ねて、優しく色々教えてもらった。

野生のゴリラと飼育されているゴリラは違う様な気がして、一大決心をして、アフリカのジャングルに入ることにしました。
人が入れるところがあり、たまたまツアーがあって、運よくツアーに入ることができて、マウンテンゴリラと東ローランドゴリラの森に行く事が出来ました。
マウンテンゴリラは高地にいるので、登るのに大変だった。
私たちは訪問者なので、風邪をひいていたり、病気になっているとゴリラに対して問題が生じるといけないので入れない。

大きな群れがいて、描いていたが、のろのろと動いているので、ゴリラの3歳ぐらいの子が、私のところに来て肩を抱く、頭をつっついたり、描いている絵を覗いたり、最終的には私の頭をぽんとやって、ケタケタと笑って、親の元に帰っていった。(阿部さんの肩を抱いている写真がある)
東ローランドゴリラの群れの中にいる父親ゴリラが一緒に3mぐらいのところにいる写真もある。
食べている時はゆったり、のんびりしている。
案内者とゴリラは顔なじみなんだと言っている。
皆友達なんだから、大丈夫だと、案内者が言ってくれた。(優しい気持ちで接する事が大事)
動物園のゴリラは西ローランドゴリラ、TV等で放送されるのはマウンテンゴリラ(3000m級の高地に住む)。
西ローランドゴリラが住んでいるところは、低地で湿気と暑さで、蒸し暑いところ。
菜食主義で、葉っぱ、タケノコ、果物を食べたりしている生き物。
気が優しくて力持ちと言う事がゴリラに当てはまる。

ちょっとした変化、脅かされたりすると弱い、下痢をおこしたりする。 細やかな神経を持っている。
1000頭以上のゴリラに会っている。
30年前には北海道から九州までいたが、最近は少なくなった。
怒った時、よく来たね、といったときにはそれぞれ違った音声で対応してくれる。
イギリスのゴリラ「、ジュジュ」というお母さんゴリラ、自分が食べたい美味しそうな物があると、鼻歌を歌う。
飼育係さんが、鼻歌を歌っていると思っていたら、そうではなかったので吃驚した。
森でも、ハミングしているゴリラ、がいるといわれる。
NHKが放送していたゴリラの番組があった。
顔が嬉々として、走りまわっている画像を見て吃驚して、聞いて回ったが判らなかった。
BBCの放送で、イギリスのケント州にある、ハウレッツ動物園だという事が判った。(24年前 海外ゴリラスケッチが始まる)
寿命は30年~40年 
イギリスのゴリラの祖父母の時代から孫の時代までの付き合いとなる。
イギリスの動物園ではゴリラの繁殖が巧くいっていて、秘密があった、ゴリラと言うものは、上に登って手足を鍛えねばならない。
日本のゴリラは手足を鍛えるところが無かった。
ゴリラの動きは俊敏に動きつつ、のんびりゆったりしている。
ゴリラの時間と人間の時間は違う。(山極先生の著書より)

ゴリラに対し子供達はどのように接するのか?
①恐い、恐いと叫ぶ子  ②優しそう、大好きという子 二つに分かれる。
恐いよと言う子は、両親に対して凄く自分を見つめてと言う欲求を目で訴えるし、身体でも訴える。
優しそうという子は、その子自身が満ち溢れている。
木登りゴリラ  美味しい果物、葉っぱがあるときには、俊敏に登るが、そうしないと美味しいものに出会えない。
三角おむすびが連なった様なウンチをするが、腸の関係でそうなる。  オナラも大きな音をする。
ウンチの臭いはあまりしなくて、繊維質、果物の実があり、森の再生にも役立っている。

ゴリラの目の先には蝶が舞っている絵があるが、会っていないが、これを研究している山極先生とか、京大の大学院生の壺川さんと言う方などがドンドン資料を見せてくださって、いろんな話をしてくださって描けた絵です。   感じのいいゴリラです。(ガボンのムカラバのゴリラ 「ムル」)
ゴリラから学んだこと
苦しいことがあっても、何があってものんびり、ゆっくり、道は開けなければいけないとか、あくせくいろいろ考えても仕方ないこともあるし、でも打破できるかもしれないという事をゴリラから学びました。
明日、明後日の事を考えるのではなく、今を大切にのんびりゆったり、生きなさいと言われている様な気がします。






2014年10月2日木曜日

高橋まゆみ(人形作家)      ・創作人形、出会い旅(2)

高橋まゆみ(人形作家)    創作人形、出会い旅(2)
山形県の展示会での感想文
「さっきお婆ちゃんと喧嘩しました。 でも人形をみて悪かったなあと思い、優しい心を取り戻しました。 あす おばあちゃんと一緒に見に来ます 」
「認知症の母を気に掛けながら、昨年父は静かに亡くなりました。   私たちに気を使いながらも、母をいさめながらも、母を見つめるまなざしは、55年同じ生活を送った夫婦の優しさでした。
お父さん、介護は辛い時もありますが、心配しないで、天国で見ててね。 人形はお父さんとそっくりでした。」
全国で展開すると、一杯山の様に感想ノートはあるのですが、このような言葉が宝です。

母はほとんど寝ている感じだったんですが、母が人形館を見て回って、一体一体見たんですが、泣きっぱなしだったので、見ていたのか見ていないのか判らないのですが、兎に角嬉しさだけは伝わってきました。
ささやかだけれども、今の私を見てくれたのだなあと思いました。
私が結婚する前の年に母が倒れて、その2年後に父が倒れて、二人とも寝たきりの生活になってしまった。
結婚して親のありがたさを知りました。
現在は8人家族 4世代 孫もいるので、食事が大変です。

兼業農家、グリーンアスパラガス、とかモロヘーヤを出荷したりし、米とか他にも色々作っている。
私はほとんどしないで任せきりです。
人形を作る時間は、好きな時間に作れるのですが、作る物が感情が移入しないとできないので、いつも刺激を求めている。
寝る間を惜しんで作る時もある。
頭で考えながら作ることはないが、一瞬の閃きを大事にして、作ることにしている。
パートをしながら造っていたが、段々と売れるようになってきて、売れるんだけれど時間がなくなってきたり、人形作りを仕事にしたかったので、思い切って家族の前で言ってしまった。
最初は仲間とグループ展をやったりして、そこそこ売れていた。
欲が出てきて、東京でやってみたいと思っていたら、たまたま本を見たときに展示に関する記事があり、ギャラリーに電話してみたら、作品を送ってくださいとのことで、送ったら気に入ってくださって、翌年に開催する段取りとなった。

無我夢中で70体の人形を作って、お披露目したが、ドアーを開けた途端に、地元の常連さんが来てくれて、嬉しかったです。   完売した。(ほとんど地元の人が買ってくれた)
ユザワヤ人形展で部門大賞を受賞する。  大きな自信になった。
心の中のものを表現しようとするきっかけになったのは、陽(みなみ)信孝さん。
山口県の萩市の方、本を購入して読んだら、物凄い感動をして涙がぼろぼろでてしまって、奥さんがアルツハイマーになって、ご主人は校長先生や、教育委員長をされた方で、日々の介護の素晴らしさ、温かさが素晴らしくて、感動してしまった。 「八重子のハミング」
読み終えた感動と共に作りたくなってしまった。

「まなざし」 2人で見つめ合っている人形
「慈しみ」 うさぎのぬいぐるみを抱えて、肩をだきしめながら2人でいる人形
「雪の中」 旦那さんを待ちわびている奥さんを抱きしめている人形
「ハーモニカ」 病になっても音楽の先生だった奥さんが、音楽によってご主人と繋がれている人形
展示会に来て下さるようになった。
自分の感動したものを形にするというのは、私の思っているものなので、思うままに作らしてもらったが、それを見て涙を流す人々がいてくれた。
精神世界に導いて下さったり、いろんな出会いが自分の今の300体の物の作品を残してくれた。
作っている時の気持ちを吐き出す様に作る、その工程が楽しい。

小物を作ってくれる人が、江戸東京博物館で出会う事が出来て、10年の付き合いになる。
私の人形サイズは30~40cmぐらいで、こんなの作ったんだけれど、これにあう人形を作らないかと、逆に言われてしまったりもする。
お風呂に浸かる水を作るのが色々失敗もあったし、大変だった。
 松澤登美雄さん 白馬村の木彫の人形を作っている方、おじいちゃん、お婆ちゃんを作った時に影響された。
昔ながらの日本の風景、暮らしの影響がおおきい。
義理の姉さん 実家は父、母が病気で寝たきりになり、義理の姉さんには障害のある子がいて、大変だったがずーっと介護してきてくれて、一度たりとも介護を替ってほしいとは言わなかった。
その中で姉の言った言葉は「介護する人のお陰で自分は強くなれた」と話してくれて、本当に真似はできないと思った。

母が亡くなった時には、「人に頼られるという事は嬉しい事だ」と言ってくれた、凄いことだと思う。
これからの目標は?
作っていることが幸せなので、ずーっと作り続けたい。
粘土は乾かさないといけない期間があるので、顔だけごろごろ乾かしてゆく。
一番大事なのは顔なので、顔さえできれば後は付いてくるものなので、作りたい顔に出会ったらすぐに顔を作ってしまう。
真田十勇士は2カ月で11体作ってしまった。
駄目な時は何カ月も出来ない事もある。

2014年10月1日水曜日

高橋まゆみ(人形作家)      ・創作人形、出会い旅(1)

高橋まゆみ(人形作家)    創作人形、出会い旅(1)
高橋さんは1956年長野市生まれ、 結婚後に夫の両親と同居するために、長野県の飯山市に移住されました。
子育てをしながら、ふとした事から人形作りの世界に入った高橋さん、常に人形作りにテーマを持って取り組んでいます。
2003年から故郷からの贈り物をテーマに、作品の全国巡回展を 7年間続け、2010年4月に飯山市に高橋まゆみ人形館がオープンしました。

人形館が出来た処は元は公園で何もなかった。
最初はこんなところに人が来てくれないのではないかとの不安の声が聞こえてきたが、私は来てくれるのではないかと思っていた。
7年間全国を旅して95か所で人形を見せてきているので、もう一度会いたいという方が足を運んでくれるのではないかと期待した。
人形がお父さん、お母さんになっている。 
家族の様になってくれて、人形の引き出す力を感じます。
この辺はほとんど農家なので、前かがみになって仕事をするので、背中も丸くなるし、腰が曲がってくるお年寄りが多い。

最初は粘土に出会って、形にする事が楽しかった。
絵本から飛び出てくるような、ちょっと癖のある魔女だったり、子供だったり、そんな物を作っていた。
性格がおおざっぱで、作ることに興味があったわけではなく、たまたま手芸屋さんに入った時に、粘土の教室をやっていて、物凄いときめいた。
教室に入ったんですが、子供ができる間際だったので、教室には何カ月しかいないで、家でこつこつやっていた。
人形を粘土で作ること自体が初めての出会いだったのでカルチャーショックだった。
飯山で生活するようになって、いろんな生活の中でのずれを苦痛に思えたりだとか、人との絡みもうっとうしかったりして、人形を作ることで忘れてゆく事が出来たし、自分の両親も寝たきりになっていて、さびしかったり、愚痴を聞いてくれることがなくて、最初は母が元気だったらこんなふうに笑いかけてくれるのではと、おばあちゃんの人形を作った。
自分のもやもやが引いていった。
段々おじいちゃん、おばあちゃん お年寄りの姿を見るにつけ、ドンドンそんな人形にはまっていった。

創作人形 決まりが無い。 形もどうでもいい。 それが私の性分に合っていたと思う。
通信教育があって、基礎的なことは習いたいと思って勉強した。
試行錯誤でやってきた。 
材料は紙粘土、中に針金とキルト芯をボディーにしている。
針金は柔らかいアルミの針金、それに人形の芯を作る。
そこにキルト芯を細かくスライスしながら巻き付けてゆく。
身体の形に補正しながら、身体の肉を付けてゆく。
脱脂綿などで補正をして、その上に下着、洋服を着せる。
細かい顔の部分はコテで作ってゆく。
働いてきた年季のある、使用している布も見て頂きたい。

田舎のお百姓さんがモデルなので、素朴で働き者で、手に表情がある様なごつい手にしたり、しわも深みがあって、腰とか肩も丸みがあって、素朴で働いてきた人体像を作りたいですね。
働く事が生きること言っている、と言っている様なお年寄りばかりで、いいなあと思います。
親子の別れの人形 しろむくを着た花嫁とお母さんが手を握って、これから頑張るんだよと、お別れをしているところと、背中を向けて、涙をためて別れを言いたくないお父さん、奥には髪結いさんがいたりとか、その中に感情とか、ストーリーを埋め込みたいと思っていつも作る。
嫁がせる時のホッとした所と、寂しさ、父親の寂しい感情とか、一つ一つを見て頂きたいと思う。

最初は笑っている様な人形ばっかりだったが、最近は精神的に深い様な人形を作る様になったが、それはいろんな人との出会い、自分の気持ちも変わってきたと思う。
風呂に入っているシーンの人形
お爺さんと孫たちを入れている。  
今はお風呂に家族で入ることは無くなったが、色々な姿を表現している
お爺さん、お婆さんが孫にかかわる関わり方が、本当に思いやりと愛情がいっぱい。
子供が学校に行った時に、雨が降ってきて、いつの間にか、お爺さんが学校に向かって子供の帰りを待っている姿があったりする。
「冷たい手」 冬になると雪が沢山降るが、かじかんだ真っ赤な手をお婆ちゃんが自分の懐に運んだという光景が思いだされて、これも人形にしたいと思った一場面だった。

大事なものを拾い集めて作らなければいけないなあと、使命感の様なものを感じる。
もの作りは気持ちが作らせる様なところがあるので、時間が経ってしまうと駄目なので、忘れないうちに作る様にしている。
言葉も添えているので、寝ながらぱっと浮かんできたりするので、必ずメモしている。

飯山に移って、他人同士が一つ屋根に暮らすので、生活のリズム、食べものの好み、しがらみとか色々あるので、子供も生まれて、子育ての不安とか、寂しさがあり、ストレスがたまった時期もあり、最初おばちゃんの人形を作って、お年寄りを作るきっかけになった。
人形を見ると、助けてくれるように語ってくれる。 作ることで癒されていった。
母親はくも膜下出血で言葉も自由にならないような状態だった。
「母の手」人形  
先月母は亡くなる。(8月) 
 31年ぐらい寝ていたので、悲しみは無かったが、たんが絡んだりとか、寝ている時の辛さを見ているのでやっと穏やかなところに行けたのかなと、言う気持ちの方が強くて、ずーっと寝たきりの母だったが、私がストレスがたまるころに辛くて家を飛び出したことがあり、病気の親のもとには帰れないので、ビジネスホテルに泊まって、次の日、母の顔を見て帰ろうと思って行ったが、ぼろぼろ泣いてしまって、母の寝ている膝の上で泣き寝入りしてしまった。
半身不随の母が動く方の手でずーっと肩をさすってくれていて、寝たきりでも役目を果たしてくれていると、吃驚しました。

「赤い万華鏡」人形
寝たきりの母に万華鏡を持っていったら、喜んでずーっと万華鏡を見ていたので、作品にした。
親孝行ができたなあと思ったのは、人形館が出来た初年度、休館日に、義理の姉と看護師さんとで寝たきりの母を連れてきてもらって、たった一人の入館をさせてもらった。
人形を一つ一つゆっくり車椅子を引きながら見せてあげて、母は泣いて喜びました。
7年間の全国巡回展が終わってどうしようかと思っていたときに、この話(人形館)があって、嬉しかった。
又改めて地元に展示できることになって、嬉しかった。
全体で300点の人形があり、そのうちの100点ずつを展示している。
以前は売っていたが、今は売っていない。
その時の強い思いで作った人形は、同じ手で作っても絶対に作れない、その時間を売りたくない。
展示して見て頂く様にしている。
プロデューサーがついていたので、お陰さまで全国を95箇所を廻り 180万人が来てくださった。