2013年3月8日金曜日

庄司アイ(民話の会78歳)       津波体験新たな民話で全国へ

庄司アイ(民話の会)
2年前の東日本大震災で宮城県山元町では町内の半分近くに津波が押し寄せ、633人の人が亡くなりました
被災しながらも、町民の津波体験を集めて、証言集としてまとめたのが、山元民話の会の人達です
会の代表が庄司さんです    
母親から地元の民話を聞いて育ち、山元町の保育園を退職してから、民話の会のメンバーとして、民話を語り継ぐ活動をしてきました
震災で自宅ごと流され、翌日瓦礫の海の中、辛うじて救出されました
知人、友人の多くを亡くした中で庄司さんは民話の会のメンバーと再会して、被災体験を新たな民話として語り継いでゆく決意を固めました
地元の人達に聞きとりをして、「小さな町を呑み込んだ巨大津波」という3冊の証言集に纏めました

体験したことの無い揺れで動転していました  孫を心配しながら孫の帰りを待った
津波が来るねと夫に声を掛けていました 40分ほどして孫娘が返ってきて、それから間もなく孫娘が庭に居て、途轍もなくでかい声で津波が来る2階に上がってと声がした
黒いもくもくした、くもりが有り、あっという間に水が来て、2階のベランダにいて「動いた 動いた」
と私は言った それから私の家は動いていき、西に500m位動いたときに、山が動いているように感じて 700m山に沿って動いて、引き波でまたぐらぐらと動いた
見渡す限り太平洋の瓦礫の景色、 家がちょっと止まった  瓦礫が溜まっていたところに止まった
2波、3波の波が来たがなんとかしのいだ 
一晩瓦礫の中で過ごす 次の日の昼頃救出された
70人ぐらいの人の同様な証言が証言集に寄せられている
民話を語ってきたものとして、責任が有ると思った 
津波の伝承をつたえる持ち話が私の中に4つあったんですが、その4つとも私は「あったそうだ」と語ってきた  有ったことをきちっと伝えなかった
私としては自分を責めることも有ったが、こういう事が有ってはならないと言う事が一番有った
「先輩に学ぶ」という企画で小学校で1時間話す機会が有った

その中に、私の故郷で何回も聞いたおすわさまの杉の木のてっぺんには、大昔の津波で流されてきた船が、杉の木のてっぺんに繋がっている 鎖がまだ残っていると言う伝説を語った
しかし真実としてあった事としたは語ってはいなかった  「あったそうな」であった
町内にも2つの伝承が有る  
この津波、この伝説、この話のもとになったのはいつごろですかと聞いてきた
処が皆さんも大昔の事とおっしゃっていた
今は記録もできるし、語る事もできる これは残さなければいけない
それではやってみようと言う事になった
活動に入ったのは5月半ば  避難生活の時で皆 自分のことを語れるような状況ではなかった
隣近所、会員の仲間だったら大丈夫という人達にお伺いして、語って貰った
お伺いするのにもいろいろ気配りをした

段々わたしの事も書いて、私も言いたい事が有ると言われるようになった
1冊目と2冊目は違ってきた  向こう様から体験を残してほしいと言って貰えるようになった
助かった人の場合は奇跡だと言っている   流されながら自分が助かった様子
家族を亡くされた人の様子も中々文字にすることは難しかったが
危機管理、防災の意識の低さがこうした大惨事に成った処もあるのではと思う
命だけは何とか助かったのではないかと私自身が思う
慶長の津波のいわれを私が語ってきた、それが語ってきたこと自身があいまいなところが有る
防災無線が壊れていて、不信を抱かなかった

皆安穏として、自分の家の倒れた茶ダンスなどを片付けていた
天災事変はいつどのように起こるかは、マニュアル通りにはいかないし マニュアルが有っても守れない部分が一杯有った その時の自己判断が難しい
最大の特徴は証言そのまんま  立派な言葉では無く、民話として語り継ぐ事が大事で語ったそのまんまを記録として残した  (語りつぐことの大事さ) そのまま文字にした
メモを取ってきて、文章にしてみて、足を運んでこんなものでいいかを確認した
文章を書きますと言う人もいて、文字の間違いなどはチェックして、文章はそのまま記載した
私が4~5歳の時 農家であったが病気をして退院した時には、この身体ではこのままでは農家をやっていけないと職員事務所に職員として働くようになる  
母が全部農作業を請け負う事になる

姉は学校を卒業すると同時に嫁に行く
母は養蚕、畑作業全部やる 繭も全部売らずに残したもので機織りもする  わら織りもする
母の手伝いをして母は喜んでくれて、話を聞かしてくれた
母の兄は講談を母に聞かせてくれた  民話、講談に出て来る話、世間話をよく聞かされた様だ
その様な話を私に聞かしてくれた
結婚して山元町にきた(友働きはしないのが条件ではあった)
公立保育所が出来て、調理師の募集が有り、免許を持っていた私に声が掛った
子供が好きで、保育園で見ていて、子育て方法について疑問も有った

保育士試験を受けて合格通知が来た  翌年保育をすることになる
民話を人形劇にしたり、母から教わった話をすると若い保育士の先生が興味を抱いた
昼寝の時間にこっそりと民話の話をしていたら、子供達は喜んで聞いてくれた
退職後、地元の民話の会に参加 平成8年 
民話についての講演会があった、一番最初においでになったのは宮城民話の会の代表の小野和子先生だった   
その話を聞いた時の衝撃は身振るいするほどの、物凄い衝撃だった
自分が子供の時に聞いたのも、民話だったし、いろんな保育の場で子供とどんな接し方が出来たかという事でも、子供の目線で子供の気持ちに成って対応が出来たのも 母の民話が基本に有ったのではないかと思って、宮城民話の会に入れて下さいと言って入会した
どんな話でも、訪ねて行ってそれを文字にして残すことを会はやってきた
山元町にもこんな会が有ったらいいなと思った
声を掛けて10人ぐらいが集まった
  
伊藤昇さんが民話を持っていた(これを文字にしようと思った)
「登さんの昔がたり」(山元町の民話をつくった)
「証言集」は図書館、民話の会(全国の)の反応が有った
これは確たるものだと思っている  今は 機械と人間が会話しているが、矢張り語る、聴くを大事にしてほしいと思う
文字には残したがこれを語り継ぐ人が全国においでになって、次の世代にも次の世代にも、あらぶる神 日本の自然には向かう事無く、畏敬の念を持ちつつ、自然と共存して共に生きて行ってほしいと思うのが願いです
語り継いでほしい、語り継ぐ、それが命だと思います











 




2013年3月7日木曜日

城谷護(腹話術師72歳)        ・被災地に笑いを

城谷護(腹話術師72歳)     被災地に笑いを
城谷護さんは腹話術師になってまもなく30年になる 
18歳で長崎県から川崎市にある造船所に就職 19歳から地元の市民劇団に所属、演劇を続けながら、45歳から幼い頃から興味を持っていた腹話術も始めました
定年退職したのちに、プロデビュー アマチュア時代から全国各地の地震、洪水、津波などの被災地や福祉施設などに出掛けて笑いを届けています
今もプロ活動の合間にボランティアをしています

講演の回数 アマチュア 15年 350回位 プロに成ってから 12年間で2400~2500回
場所はいろんなところ 学校、保育園、 障害者施設、市民のお祭り、被災地等
小さい時から学校で見て、何で人形が喋るんだろうと思っていた
劇団では大勢で無いと芝居はできない (京浜共同劇団)
一人ででも出来るものは無いかなと思ったら、腹話術を思いだして遣る様になった
暫く一人で我流でやっていたが、伸びなかった 島三紀夫先生に頼んだら、教えてくれない
5年間おっかけをやって、芸を盗むと言う形でやっていたら、お前本気でやろうとしているいるなと言われて、基礎から教えて貰った

造船所の設計を長年やってきた (18歳~60歳まで退職するまで)
家は貧しかった 兄弟は9人 神社の床下で生活をしていた人(ホームレス)に両親に言われて自分達も貧しかったが、食べ物を持ってやっていたりした
貧しかったが皆いたわりあったり、励まし合ったりという事は小さい頃からあった
高校も諦めていたが、担任が入学願書を出してくれて、受験だけでも言いから受けて見ろと言われて、受けたら、受かってしまった、親を説得に来ていた
其れを聞いた町会議員の人が、奨学金を貰えるようにしてやると言う事で学校に行ける様になった
工業高校なので早く就職するように思って、良い処に就職できた(東京には親戚はいなかった)
劇団を立ち上げる内容が新聞にあり、仲間が出来たらいいなと思った
45歳の時に腹話術を始める 劇団の活動と腹話術を並行してやってきた
劇団のレベルは高かった(全国からも注目される劇団だった)
人形「五郎ちゃん」は島三紀夫先生に作って貰った

失敗は仕通しだったが  五郎ちゃんを人形として扱っていたが、トランクに人形を仕舞い込むところを幼稚園の生徒に見られて、先生に言いつけれられて、はっと気付いた
今迄、人形としてしか取り扱わなかったが、生き物の友達のように扱うようにした
其れからはお客の笑い方が変わってきた (芸とは何かを 子供に教わったような気がした)
ボランティアで講演をする  1/3強はボランティアでの活動(総計で約2800回)
「寄り添う」 悲しみに自分を置いてみたい、その何万分の1でもいいからわけて貰ったというか
そういう気持ちになる  
私が役に立つかというと、おそらく役には立つとは思えないけれど、寄り添いたいと思う
子供が喜んでくれたり、大人が喜んでくれたりすると、あーいって良かったと思う
今あるのはいろんな人たちに支えてもらったと言う想いが強くある
でもその人達に恩返しをしようと思っても、もういない
だから別の形で、今自分で出来る形で恩返しをする
東日本大震災の後に、15回 50会場で行ってきた
悲しみのどん底で、人が集まられるのかなあと思うが体育館で200~300人の避難者がいるが、コーナーで場所を作ってやるが 5人、10人とかしか来てくれない 
  
しかし終わるころには段ボールで仕切ったあちこちから立ちあがって拍手をしてくれる
それはもうなんか、感動もので、やってみないと判らない体験だった
88歳のお婆ちゃんが1カ月ぶりに笑ったよと言ってくれた  1年分笑ったと言ってくれた人もいた
被災地に寄り添えるようなネタを考える
日本には信じられないような事が起きている その為には優しさが必要
地方に行けば日常的な助け合いは見受けられるが、都会ではない
時と場合によっては迷惑になることが有るので、お膳立てをしてくれる人がいないと駄目な場合が有るので、その御膳立てをしっかりして行かないといけない
腹話術世界大会に参加した  東日本大震災の写真等も掲げた

ロシアでは平和の事を訴えた  仲間と一緒に行くことが多い(腹話術、劇団)
小学生も3人習っている(子供用の人形を持っている)
4月には子供達を連れて福島に行こうと計画している
ボランティアで行くと言うと回りからのカンパが有るが、それを手に着けずに上げて来る
東京演芸協会に入ったが、認めて貰えたのは3年後に成る
プロでの中でやるためには いろいろ幅も広がる レベルもきびしくなる
プロの腹話術師は東京で数人しかいない 

笑いだけで無くて、医療、教育、福祉に役立つ様な芸にたかめたい
認知症 人形との会話に成る 人形に対しては心を開いて話してくれる
アペットセラピー 人形を使って療養する療法がある
いじめ問題 虐めのもとは何なのかと解って、そのうえで人形と対話しながら、子供達に判るような話を伝えて行く事が凄く大事だと思います
感性を豊かにして行かないといけないと思う 人の痛みが判らないといけない
挨拶が出来ないと 人と人のコミュニケーションは取れない
戦争しか知らない子供達 中東 そこに行って話せたらいいなあと思う






 






2013年3月6日水曜日

西條允敏(社長68歳)         ・漫画の力で元気と笑顔を

西條允敏(社長68歳)     漫画の力で元気と笑顔を
石の森章太郎さんの展示する石の森漫画館は旧北上川の中州にあって2011年3月11の大震災で北上川を登ってきた津波で壊滅的な被害を受けました 
多くのファンの支援を受けて、21012年11月17日に復活して再開しました
西条さんは石巻市出身 現在は石巻市の文化協会の会長です 
「街つ”くりまんぼう」の代表取締役です

現在リニューアルで工事中 3月23日のリニューアルオープンをめざしている
漫画館が出来てから11年に成る    009 仮面ライダー 20体ほどのモニュメントが有る
建物の形状は、石の森章太郎さんの希望だった(宇宙からマンハッタンに降りようとしたら北上川に降りたと言う様な宇宙船をイメージを持ってスケッチをしたという様な話も有る)
石の森章太郎さんは1998年に亡くなられている
推進委員会が有ってそこに参加されて、先生の話が有った(市民運動の様な形で進んで行った)
昔はこの場所に映画館が有って、石の森先生は若い頃にはよく来ていた

北上川は江戸時代から水運が栄えた場所で有った(商業であり、漁業であり水運業、要衝の地)
計画から立ちあがるまでに5年掛った(いろいろイベントをして推進するように働きかけをした)
漫画は文化であると言われて、私は抵抗感が有ったが、一緒に運動するという形になった
(若者が中心だった  最近は世界で認知される様になった)
年間 平均20万人ぐらいが来場していた  
2001年7月23日がオープン  10周年を計画していたが大震災の為に出来なくなってしまった
当時市役所の5階にいて立って歩ける状態ではなかった

津波が心配で車で漫画館に戻ろうとしたが、途中で交通渋滞で山の方に行くしか無くてそれで救われたのかもしれない(漫画館に戻ろうととの思いしか無かったが、交通渋滞で救われた)
山から見える場所が有るのでそこから漫画館の方を見た
2m位のひきだったので大きな津波ではないのかなと思った
6m位の津波が来た  1Fの天井まで瓦礫を伴って津波がくる(1Fは高かった)
いた人は3Fに避難した  永い人で5日間そこに留まった
満潮と高波が重なったときは現在でも少し遡上する
9万点の原画は2,3階に有ったので救われた

瓦礫とヘドロをどう片付けるか、考えた
(建物はしっかりしていたので、何とかなるのではと思った)
ボランティア、スタッフ で瓦礫、ヘドロの除去を行った (5月5日にはイベントを出来るまでにした)
スタッフでは家の作業も有ったが、それと並行して進めてくれた
イベントでは子供達が非常に喜んでくれて、大人達もなごんでくれたのでやって良かった
11月17日に復活させる 4000人が集まってくれた
参加者がメッセージを書いてくれて、そのメッセージには本当に有り難いと感謝している
全国から日の丸の旗に寄せ書きを書いて送ってくれた(海外からもファンが支援等贈ってくれた)
金の延べい板が送られてきた(今年、長野の消印であるが発送者は不明)
判るような方法でこのお金は使おうと思っている

施設は石巻市のもの 管理は「街つ”くりまんぼう」  裏の意味は漫画の「まん」と希望の「ぼう」
漫画を生かした街作りをやって行こうと思っている
震災復興に対してマンガジャパンの先生方も一緒に立ちあがってくれた
(石の森先生の外郭支援部署)
「まんぼう」の会社の運営費は6000万円のうち3000万円は市が負担して、残りは企業とか一般市民、商工団体の援助で運営している(管理者は市民で運営するので思い切った事が出来る)







2013年3月4日月曜日

春山満(59歳)          ・人生最大の不運から生き抜こう

春山満(59歳)    ・人生最大の不運から生き抜こう
春山満さんは介護医療のコンサルテイングやオリジナル商品の開発や販売などを経営している会社です。
父親の借金を抱えながら、不動産業を始めた24歳の時に手足の冷えを感じるようになり、26歳で難病の進行性筋ジストロフィーの診断をうけました。
難病が解ってからも、必死で働き、借金を返済し、不動産業が軌道に乗るまで4年を要しました。
33歳で日本初の福祉デパートを大阪に開き、その3年後 昭和66年に37歳の時に現在の会社を設立、福祉医療の事業を積極的に展開してきました。
独自の視点と着眼で数々のヒット商品を生み出してきました。
進行性筋ジストロフィーを抱えながら、介護医療に尽力してきた春山さんに人生哲学を伺います。

介護福祉ビジネスを開始して22年に成る。
望まれていながら提供されていない、そう商品を出そうと、解決した要素は本当に新しいお客様の喜びに替わったら適正な高価格でも、受け入れられると、利益と言うものを本当に大事に考えて来ました。
(国の補助、国の政策に左右されないで独立独歩で生きて行こうと想えば 健全な利益は非常に重要です。  (ですから利益の無い商品は開発しない)
24歳まで全く元気だった。 想像もしていなかった。 スポーツが好きでやんちゃだった。
スキーが大好きだったが、或る時、手足が冷たくなる、どうも走り方がおかしく、脱力感が有る。
25,26歳 でどんどんおかしくなってゆく。  
病院で検査を受けて進行性筋ジストロフィーと言う難病と判る。

先生が病名、症状を説明してくれた。  日本でも発症例が珍しいと言われる。
手足先の運動細胞だけを、全部中心に向かって崩壊させてゆく特殊なタイプだと言われた。
この細胞破壊は現代医学では原因、治療、すら解っていない難病中の難病だと言われた。
運動すればするほど、細胞の破壊は進行しますと、寝ていれば体力の減退でこれも破壊は止めませんと、運動しても駄目、寝て休んでも駄目、どうすれば良いんだと聞いたら、今日出来たことを出来るだけ、明日も続けてくださいと、但し 進行に従ってどんどん機能は奪われます。
呼吸と心臓の停止まで進行は止まりませんと言われて、流石に呆然とする。
車椅子になることも覚悟してくださいと、車椅子も永くは続かないと、やがて手も動けなくなって寝がえりもできなくなるかも知れませんと言われた。

其の時に病気のことを考えていなかった。  どうやって生きて行こうかと考えた。
22歳の時に父親が倒産して、借金取りが来て、家の査定をして、おろおろ泣く父母親 莫大な借金を残して、小さなアパートに越してきた。 
24歳の時に野心と夢だけを持ってガード下の1室を借りて不動産業をスタートしたばっかりだった。
頼れるところがなかった。 
父母は同情して守ってくれると思ったが、父親はあーっと、とんでもない悲痛な顔をして、母親は何でお前は、と泣いて (父親と母親の時の事は忘れません)
この時に決めた。 俺は絶対泣くまいと 後ろを向いたら絶望だけですから、開き直った。
俺が車椅子になるのなら、その前に車椅子を押してくれる社員を雇えば良いんだなと。
絶望だけれど、僕の手の代わりをして、会社と言うチームが作れればいいんだなと発想を変えた。
時間との戦いだと、車椅子になる前に後何年有るか判らないが、たどり着かないといけないと
前だけを見て、医療界と病院という社会と決別しました。

何故か言うと、呆然として、之からどうやって生きて行こうと思っている時に、このお医者さん達は
「3~6ケ月の入院と思って下さい」と言われる。 (断る気持ちは無かったが)
まるで死刑宣告に思われた。  どういった目的で入院するんですかと恐る恐る聞いた。
「貴方の筋ジストロフィーは日本でも発症例が非常にすくない。  
手先足先からこんなに綺麗に運動細胞を破壊してゆく、こんな筋ジストロフィーは見たことがない。
だから 克明な検査をさせて貰いたい」 その言葉を聞いてむかっとした。
「お断りやと、お前らの医者にとっては、おもろいサンプルの一つかも知れないけど、俺にとっては一生一回の人生と言うレースや、こんなところでモルモットに成って一生をおわるつもりはない
2度と来るか」と 捨て台詞を吐いた。(呆然としていたが、今から考えると彼らの常識が覆った)

自分の中でこう叫んだ。 無くした物は数えるな。 
残っている機能を120%活性化したら生き残れると
あれがない、これがない 昔はこうだった、ああだった。 
無くしたことばっかり考えて、被害者にしても、もしもとそればっかり数えて、そんなみじめな事はしたくなかった。  それだけです。
人間と言う者は本当は強いんです。  ユダヤの格言 「本当の希望は絶望の時に生れる」
豊かさと言うものはどれだけ私達を弱くしたか。 
私はこうやって、喋れる、考えられる、見える、聞こえる、感じる事が出来る。 
こんな素晴らしい可能性を私に残してくれた。
人と同じでは駄目で、人の2倍も3倍も磨かなければいけないと、私の無くした手足や補うところを補って貰おうとそうすると2人3脚、駄目だったら3,5人と、担いでもらったら私は生き残れるかも知れない。
こう思って絶望の淵から這い上がろうと考えてきました。
26~29歳と社会が私をたっぷりと鍛えてくれました。(世の中そんなに甘くなかった)
一つのチャンスが来たが、泥沼に巻き込まれて、裁判に引き込まれ、とんでもない莫大な借金、又
つぎ込んで、そこからさらに奈落の底に引き込まれて、その時に本当に世の中のいろんな仕掛けや生き方をこの身で学ぶことが出来ました。  
29歳の終わり 念願の大きな取引にたどり着いて、借金を全額返すことが出来て、念願だった社員を雇える事が出来た。

この時に第二の人生がスタートする。  
学生時代からスキーを教えた生徒の一人 約束したのが23歳の時27歳で結婚しようかと思っていた。  
難病に成って自分で飯を食えない。 そんな男が何が結婚なんだと、それでもいいといってくれた。
経済的に安定して、身の回りの事が整えられたら考えようと、自分のことしか考えられない身勝手な考えだった。  彼女は泥沼の中でも支えてくれた。
アパートで一人暮らしをしていて階段をあがれられなくなって、風呂にも入れなくなって、どんどん体力が無くなって、もうアウト寸前と言うところで、大きな取引に4年掛ってたどりついた。
神様からのご褒美かもしれないと思った。 
 
彼女の貯金も全部使ってしまっていた、彼女の父親も頑張れよと応援してくれたが、その父親からも借金をしていた。  全部返すことも出来て、結婚した。
結婚を切っ掛けに、ここからは本当に死に物狂いで働いて彼女を絶対に幸せにしようと思った。
この時に彼女がもう一度病院に行こうと言った。
周りは、私が難病と闘っていると言うが、私は戦っていません。
宿命って有るんですよ。  人の人智ではいかんともしがたい宿命はあるんです。
泣いて恨んで、そこからの宿命の解決は何にもないんです。
運命と言うものが有る。  運は動くもの、運命は宿るものではなく、掴めるものなんです。
努力して、真っ直ぐとそこに向かう時に運気はつかめる事が有る。

だから病院には行かなかった。 妻は病院に行こうという。 引き下がらなかった。
私は貴方を介護するために結婚したんではない、春山満という男が面白いから、貴方が何かやりそだから、貴方とだったら幸せになりそうだから貴方と結婚したと、貴方は仕事以外なにもしなくなった。 旅にも行きたい。 飛行機はどう乗れるのか分からない。
病院は不自由な人を専門にサービスしている所だから、あそこに行けば情報が有るはずだと。
30歳の時だった。  3時間待って居たら医者が友達みたいに言ってくれた。
看護婦にちゃんと言ってあるから大丈夫だと(子供に言うように言ったのでカチンときた)言った。
何と言う言い方をするんだと怒りは止まらなかった。 申し訳ありませんと言った。
白衣を着ただけで、偉そうにしてゆくのにおかしいと思った。
私はお客さんで医者も看護師もサービスマンだと思った。
常識の中に非常識がここには有る思った。
病院のベットの大半は年寄の長期入院 医療の必要がないのに帰れない。(家族は引き受けない)

病院は入院という名前で最後の最後の生活の場所で医療費で全額請求出来る。
病院の大半の売り上げは長期入院のお年寄り(まるでホテルのよう)  費用は約75万円
社会保険から75万円が入る 2万5000円(一日)  私はこの摩物を見た。(バブル期)
難病に成ってとんでもないビジネスチャンスを見つけたかもしれない。
究極のサービス業を作ってやろうと、それが私のスタートなんです。(福祉介護の世界に入る)
25年ひた走りに走ってきた。(バブル崩壊は関係なかった)  いよいよ表面化してくる。
トヨタ自動車が福祉自動車を開発していたが、一緒にやろうという事になる。
新しいファミリーカーにしようという発想の転換をした。

製薬会社とも提携 新しい自動販売機 必要不可欠なものにすると云うものにしようとした。
車椅子にとっては自動販売機は非常に扱いにくい。 
ミニスカートの人も使いずらい、お腹の大きな妊婦も同様 新しい自動販売機は180%に売れすじになる。
常識の裏にある非常識に気付いて、無くしたものを数えるのではなく、残っている機能を見つめてそうすると至るところに新しい芽が有ると、こういう発想が有ると日本はチャンスだらけ。
高齢者の住宅作りを考えた。  くらしそのものを支えないと駄目。
私もいよいよ立てなくなってきた。  浴槽に入るのに手助けしてくれるのに大変な作業が有る。
「風呂は人生の御馳走だ ありがとう」 と言った。 (妻は顔が曇っていた)
風呂に入るのも、妻にとっては一番大変な介護だと悟る。

或る段階を越えると気持ちが切れて行く。  想いはあるがいつまで続くのかと思う。
心の絆が切れて行く。 心も体もボロボロになってゆく。 (涙はこぼれないため息が出る)
在宅介護の厳しさ これでは駄目だと思った。 暮らしそのものを支えないと駄目だと思った。
どこにも移らなくていい、究極のついの世界をつくろうと思った。(バリアフリー+HILT)
HILT アメリカ人の友人に作っても貰った言葉。




 





  








  


2013年3月3日日曜日

戸田奈津子(映画字幕翻訳家77歳) ・時代を作った女たち

戸田奈津子(映画字幕翻訳家77歳)    ・時代を作った女たち
津田塾大学英文科を卒業 映画関連の仕事に就こうと門をたたき続けたが、当時の字幕翻訳
の仕事は少人数の男性ばかりの職場
そこで外国映画会社の通訳のアルバイトをしているうちに、大きな転機がきました 
戸田さんが志した時代には夢がかなうには永い月日が必要でした    
第1回淀川長治賞受賞  「字幕の女王」とも呼ばれる

最近は映画はみる機会が少なくなってきた  今は趣味が合わなくなてきている 
効果に映画は音楽が全編に流れていて、音楽だけでもシーンを思いだす      
この頃の映画は展開が早い
映画を見始めたのは戦後3年ぐらいで解禁になった  海外の映画は半分はヨーロッパ 
後はアメリカだった  小学校から映画を見始めた  別世界が有る事に吃驚した
掘立小屋で 途中でフィルムが切れたりして10分位待ったりしたことも有った

映画にははまりっぱなしだった   
中学で英語を学ぶようになって、映画の影響で興味を持って勉強した
話したり聞いたりは映画で接触が有ったので勉強になった   
一生に一度と思って映画の場面を見ていた
大學卒業時点で どうしようかとはたと困った  
好きなものを活かせるものは無いかと考えたら、字幕があり英語が生かせると気がついた
しかし、入れてくれる処が無かった 
清水俊二 字幕で良く出て来るので、手紙を出したら、返事が来て会って貰ったが、メッセージとしては駄目だった

清水さんは字幕の第一人者だった  繋がりは保とうと思っていた  
翻訳をして生活を繋いでいた   
映画会社からアルバイトが来た  英文の手紙を打つ   
映画会社に外国からお客が来ると言うので通訳の役割を頼まれたが、会話をやったことが無かったが、何とかこなして段々 こなせるようになった(映画の内容を理解していたのでこれが良かった)
段々字幕の仕事が入る様になった  20年掛った 
(苦節何年というような感じではなかったが  楽天的)  結婚には魅力を感じなかった
水野晴郎さんと出会う  チャールトン・ヘストン等にあう  転機になったのが「地獄の黙示録」 
コッポラ監督 フィリピンで撮影(日本で途中下車した)
コッッポラ監督の一声で字幕をやらしていただいた   これがブレークした これで人生が変わった  
全然くれなかったところからも、話が有り 無茶苦茶忙しくなった  1週間から10日しか時間を
くれなかった
CGでは封切りの間際まで画面をいじるので(フィルムではないので)、時間が無くて 字幕の仕事の条件が悪くなった
現在は字幕翻訳者は20人位(7割が女性)周囲に入りたい人が一杯増えてきている 
(女性が多い)
翻訳の性別は関係ない  個性は出て来る事はある(自分の事は解らない)    
原文はあくまで尊重しないといけない
万人がわかるような言葉 いかに日本語にするかが難しい(日本語の方が大変)

イマジネーションの力は大事   言葉に敏感であることは重要です
宗教を知らないといけないし、その地方地方の文化も知らないといけない  
解らない領域は専門の人に見て貰って問題点を指摘して貰う
頭の中が1週間ごとにドラマが有って楽しい  俳優と似ていると思う  
頭の中では全人物に成っている訳だから、感情がないと台詞に成らない
頭の中では芝居をしている    
今の若い人達は世界が狭くなってきているように思う  今の若い人は知った世界の話が好き
(お茶の間的な) 外の世界に出て行かない
好奇心が少ない様に思う  自分で決めてほしい  周囲の責任にしてはいけない

2013年3月2日土曜日

菅波茂(66歳)          ・多国籍医師団世界を駆ける

菅波茂(66歳)多国籍医師団世界を駆ける
国連医療NGOアムダグループの代表を務めている  AMDA は国連に登録された多国籍NGOで本部は岡山にあります 
代表的な活動は紛争や、災害が起きた時に 現地に派遣する多国籍医師団です   
スローガンは「救える命が有ればどこへでも」
相互扶助の精神に基ずき、緊急人道支援活動を展開しています  
ハイチの地震や東日本大震災の時にも出動しました
アムダは今から29年前に医師である菅波さんが中心に成って設立しました

本部に10人(スタッフ) ボランティアの人がいつも4~5名が来ている  
医師は私とナースの方がいます
普通は医療機関に勤務している  今は300人~400人が登録されている  
海外は インドネシア支部 ではハッサムリン大學にあります 
インド支部はマニパール大學に有って基本的には大學にある  どんどん送り出してくる 
だから向こう任せです 

支部は世界に 29カ国 メインはアジア、中南米 、アフリカ、ヨーロッパの一部  アジアであれば  
韓国、モンゴル、台湾、フィリピン インドネシア、カンボジア、ベトナム、インド、スリランカ、バングラディッシュ、ネパール
アフガニスタン、カザフスタン、   カナダ  南米(コロンビア、ホンジュラス、ペルー ボリビア)
アフリカ(ザンビア、ウガンダ、スーダン)
志の原点  高校二年の時に 太平洋戦争写真集と言うのが有って、出て行く時と負ける時 
負ける時の中に、同じ年頃の日本兵が南方戦線の海岸の浅瀬で顔を半分うずめて死んでいる
写真が有った

海岸の浅瀬で顔を半分うずめて死んでいる写真が有った 
どうして同じ年頃の日本人がこんな死に方をしているのかと言うのが私の意識に入っている
1946年生れで  戦争と言う者は私の人生に大きく影響はしている 
大學に入って昭和41,42年にアジアに医学調査団を出そうと言う事で塾を開いた 
7人いたが、学園紛争で、4人が全共闘に参加して空中分解した
それではひとりでもやろうと 学校を10カ月位休学して、ずーっと旅をした  
体が弱くて病院に行ったりした   そこでいろんな体験をしたので関心が高まった
アジアの活気、多様性にも魅せられた

昭和44年に帰って来てから 尺八をやっていたので 琴、三味線のクラブで アジアに親善邦楽演奏キャラバンをやろうと20人ぐらいでやったとき倉敷の或る方から 医者と医学生がいるのならミャンマーとタイの国境地帯 にあるパコダ農場で健康診断をやってくれと言われてそうすればバンコックで私が演奏会場を世話すると言われて、パコダ農場で寄生虫の検査等をやって医療器具を置いて帰った
農場主から手紙が来て、保健センターと保健委員会を作ったからもう一度来てくれと言われて、
もう一回行った(お金がかかるので寄附を頂く)
その後どうするんですかと聞かれて、又いきますという事で、どんどんといろんなところに行くようになって、専門知識が増えて現在に至った

アムダに成って行く経緯 1978年にカンボジア難民が出た 日本のメディアが欧米の若者達が
東南アジアにいって一生懸命ボランティア精神で頑張っていると日本の若者にボランティア精神は無いのかと、こういうキャンペーンが有った
私達も行ってみようと思った  
その時に難民キャンプがどこにあるかと言う事も解らなかったし、世界の難民を国連難民高等弁務官が一元的に管理している事も解らなかったし、実際に難民キャンプにたどり着いても、実績のある団体しか国連難民高等弁務官は契約して実際に仕事をさせない
善意が有っても善意が有るだけでは救えることはできないことが解って、1980年にアジアの医学生と今のうちから人間関係を作って、将来アジアの為の医療プロジェクトをやったらどうかと言う事で、第一回アジア医学生国際会議をバンコクでやって、4年経って そのOBでアムダを立ち上げた

 the assosiation of medical doctors of asias゙(アジア医師連絡協議会)  
学生のネットワークを作った  国内的には一体何をやっているのか解らなかった 
1992年に湾岸戦争がおこった
多国籍軍にお金を寄付した(それも10年間と言う立法を作って) 処が当事者のクエートがアメリカの
新聞に感謝の広告を出したが、30ケ国に日本が入ってなかった
そこでお金だけでは駄目だと、顔が見えない日本 ではどうするかと NGOという団体が有るのだからという事で外務省が予算を付けた 
郵政省が国際ボランティア貯金をやった  
それから世の中がすこしずつ認められたが、1995年の阪神大震災の時に100万人の入ってなかった
ボランティアが入ってきたが、ボランティアの受け皿に成ったのが、私達の様な国際NGO医療団体だった   
初めて国際NGOの認知を得た  初めて認められたのがここですね
東日本大震災の時にインドのブッタガヤにいて、子供の心臓病のできる手術が出来る所を探して
いた  本部と連絡したらその時には医療チームを派遣した後だった  
凄く早い対応に感激した
日本海側から入った方がいいのではと新潟から経由して仙台に入って行った
一番大切なことは避難所に真っ先に行く事  
その人達が何を感じているかが、一番大切 自分達は見放されたと言う気持ちに成っている
何が出来るかと言う事も大切だが、貴方がたは見放されていませんよというメッセージが一番大切  次に自分達がどこで活動拠点にするかと言う事 被災地に入って考えるしかない 
被災地に早く入る そこでいろいろ情報を集めて、どうしたらいいかを考える 
 
広範囲には絶対できないので目の前で何が出来るかと言う事で対処する
岩手、仙台、福島 あたりはアムダの会員はいないので被災地の会員が活躍すると言う事は
出来なかった 
釜石、大槌町 仙台 南三陸町  南相馬市  で活動した  医師とナースを送りこむ  
延べ150人 補給は岡山、東京から支援物資を送った
感動したのが大槌町 避難所の中でクリニックを立ち上げて、避難者と一緒に寝泊まりしていたケアーをされていた   現地の医者とも協力して連係してやった
避難の学校ではいろんな方がと協力してやった

私たちはよそ者であるので、一番大切なのは、被災地の方々がどう考えて、どう思われているのか、その考えを大切にしたどう支援するのかと言うのが私達の役目だと思います
被災地の医者が頑張っているんであれば、その医者を応援すると言うのがベストだと思います
医療行為で一番恐ろしいのは医療事故 どんな薬が駄目だとか、どんな病気を持っているとか
見過ごしたら行けない
被災地の医者は患者を良く知っているのでまず彼らが主人公です   
私達はお手伝いする 、と言う事がベスト

インドネシア、タイ、韓国 ここからは受け入れて一緒に避難所を廻ってもらった  
医療行為も中心に 以外はポジティブリストとネガティブリストがある
ポジティブリストはしては、しなければいけないこと以外はしてはいけない 
ネガティブリストはしてはいけない事以外は何をしてもいい 私達はネガティブリスト 
①医療事故は困る ②被災者の方々に迷惑をかけてはいけない 
③他の方々の提案とかを拒否してはいけない    医師とか、ナース以外に調整員がいるので、
なんでも役に立つことが有ったら実現してゆく

寒さ対策  必要なのは灯油  アムダを支えてくれている団体が有るので出来る事が有る  
タンクローリー出被災地に持ってきて呉れる  ガソリンもない 電気自動車を持ってきて呉れた
小さな避難所が一杯有ったので電気自動車で往診が出来た 
団体、自治体が有ったためにこの様な事が出来た  
ナース、助産婦 ミルクの対応  子供の為のプレルームの作成およびそれらの補助道具の手配
海外での活動 フィリピン、インドネシア、 災害が多発する ここが一番多い あと中南米

 2010年はハイチの大地震 インド、トルコ あちこちにいく
地震の後にコレラが発生して対応をした  アムダの反響は 私達が一番大切にしているのは
相互扶助  一方的に相手を支援するのではなくて、困ったときはお互い様 援助を受ける側にもプライドが有る    
プライド 自分も他人の役に立ちたいとの思いの裏返し
2006年 ジャカルタの京都に当たる処で、地震と津波が有った時に救援活動をした  
その後1年後に行ってオープニングセレモニーが有ったときに何故私達が来たかと、それは貴方がたが困ったから来ました しかし 私達も日本人も阪神大震災の様な困る事が有る  
その様な時には是非助けて下さいよと話をしたら、その後に知事さんがスピーチをされて
、Dr菅波のように、自分達が困ったら来てくれといってくれた、団体は初めてだと、いままでもいろんな団体が支援してくれたけれども、自分達が困ったときに、来てくれと言ってくれた団体は初めてだと私達は非常に嬉しいと言ってくれた

これが相互扶助だと思います
東日本大震災の時には来てくれた 
ハイチの時にはマックスが(岡山大学歯学部大学院で勉強した人が忽然と現れる)支部を作ってくれて 救援活動をしてくれる
被災地に入って行って、支部がなければ当事者に支部を作って貰う  
そうして支部が増えて行く
1995年5月にサハリンで地震が有りました  チャーター機で入ったときにサハリの政府のひとが、
日本の援助は要らないから帰ってくれと言われた
医療支援だけでなく我々にはもう一つ役目がある、5か月前に阪神淡路大震災が有ったときに
貴方の国はたすけてくれたんじゃないかと、其の時の市民が貴方がたにお返しにしたいと、私達は調査を兼ねてきたんだと、判ったと言う事で800km離れた被災地まで向こうの飛行機で
何回も行ってくれた 
 
困ったときはお互い様  相互扶助は国際的に通用する と判った  
相手の面子が立つ
何故来たのかと言う事 相互扶助 、日本とその国との歴史も良く勉強して説明すると受け入れ
てくれる  一番大切なものは 人間関係
①フレンドシップ  ②スポンサーシップ ③パートナーシップ  があるが基本になるのは「私は貴方を見離しませんよ」 「私は必要とされている」  
3つの処で一番危険なのが 一方的に支援するスポンサーシップ  
これは援助を受ける側のプライドがでない自分も役に立ちたいんだと言う事がでない
人間関係と言うものは、苦労を共にしないと尊敬と信頼がでない
苦労を共にするという事は苦労を解決する中で、自分にないものを相手に見出した時に尊敬の念が起きる 

そしてどんなに苦労が厳しくなっても相手が逃げないと言う事が判ったときに、信頼がでる
尊敬と信頼という人間関係が出来て 育ちも、生れも、宗教も、国の違う人達が共存共栄が出来る
人はできるだけ苦労を避ける これも当然しなければいけないが、しなければいけない苦労は一緒にすることによって共存共栄という新しい立場が出来て来るんだと  これがアマダの哲学
何故難民キャンプにわざわざ行くのか  それはともに苦労するというパートナーシップ   
そこの人達のこれを契機にして信頼関係に基ずいた共栄共存と言う人生を一緒にやり
ハイチに行ってみて、直接米軍が占拠していて入れなくてドミニカから入った  
ハイチと歴史的に対立の歴史が有ったが、沢山の人がドミニカに入って治療受けている  
支援の手を伸ばさなくてはいけないと機運が生じた時  子供達をもっと親しく
したらどうかと、言う事で 言葉は違っていたのでスポーツだったらお互いに理解が出来ると思うので、大阪の少年スポーツサッカークラブに御願いして、日本とドミニカ、ハイチのサッカーをした

スポーツは物凄い求心力が有るなあと思った  
紛争を抱えている処でスポーツを積極的に取り入れて行って、子供の時からお互いに尊敬できる
人間関係に持ってゆくと言う、スポーツ和平を医療和平に加えてやっています
政府が入ると国益、お互いの立場だとかあり 民間サイドでやって行くのは良い
平和の定義 今日の家族の生活と明日の家族の希望が実現できる状況であること
今日の家族の生活とは 食べれて、健康で有ること 明日の家族の希望 子供に教育を与える事
阻害する者、 紛争、災害、貧困がある   その解決にいろんな人が関与できる 
スポーツ、教育、医療 その応援も一市民として出来る
市民参加型人道支援外交 いま必要ではないかと思う  
相互扶助という形でやって行く事がお互いの平和の為に一番解り易いし、世界全体がそうなる
ことが私達の最終的な望みなんです

2013年3月1日金曜日

今井信子(ビオラニスト69歳)       ・古希を奏でる深い音色 

今井信子(ビオラニスト69歳)      古希を奏でる深い音色
1943年 生れ 6歳でバイオリンを始める 
桐朋学園大学に進んで室内楽を斉藤英雄さんに師事しました  
1964年桐朋学園オーケストラの一員としてアメリカツアーに参加 この時にボストン交響楽団が演奏するリヒャルト・シュトラウスの「ドンキホーテ」を聞いて、ビオラの音色に魅せられて、帰国後バイオリンからビオラに変更しました
桐朋学園を卒業後 海外に留学 1967年ミュンヘン、1968年 ジュネーブの国際コンクールで最高位を受賞しました
ジュネーブ音楽院 アムステルダム音楽院の教授を務めながら、演奏活動を行っています  
1992年からは東京で教育的音楽祭ビオラスペースを開催して後進の指導にもあたっています
3月3日には古希記念としてコンサートを開きます

現在ジュネーブに住んでいる 日本では3か月ぐらい滞在している  
メナヘム・プレスラーとかロバート・マンとか私の先生でもあり 現在でも90歳を越えている方が、
まだ旅行なさって演奏しており、私などはまだまだです
精神的にも肉体的にも若い人達です
最初はバイオリンを習ったが、母親がこの子には手になにか技術を付けようとした   
常に付き添ってくれていた
生活のリズムがそうなって行った   大人しくてひ弱な人間だった  
小学校の頃はあまり覚えてはいない
桐朋学園に入ったときはバラ色の状況だった  一日中けらけら笑っていた時期であった  
高校3年に成って感受性が開けて、いろいろ先生と話していただいて、世界が広がった 
バイオリニストには成ると思っていた

音楽は終わりは無いし、その人の表現であり、感情に結びついているので モーツアルトのシンフォニーで2楽章で緑の色なり、若草色、ブルーが虹が出てきたりして、これだったら音楽の世界で生きて行こうと思った(音楽に色を感じた)
齋藤秀雄先生はスパルタ教育の 精神的なところをがしっと教えて貰った   
物事に対する時には真面目に,真摯に、とことんまでやらないといけないと言う事を教わりました  
それは本当に大きいことだった
1964年にアメリカに渡って演奏旅行をした  スケールが違って物凄く驚いたのを覚えている
ボストンシンフォニーの夏のフェスティバルのある処で私達も呼ばれて弾いた時の事、今でも鮮明に思い出すが、思い出すが 芝生の上で聞いていた時のリヒャルト・シュトラウスのドンキホーテと言う曲があり(私も知らなかったが) チェロの素晴らしいソロが有って、それを聞きながら、ちょっと序奏が終わったときに素晴らしい、甘い バイオリンでも無い チェロでも無い ビオラの場面 語りかけるような音が聞こえてくる  
ビオラも多少は弾いたことはあるがこんな音は聞いたことは無かったので物凄くはっとして
、こんな音が出るのであれば、私のこれから一生やっていきたいと思った

弾いている人に有った イタリアの人で 弾いてくれと言われて、そこで弾いてみた  
手を見せてくれと言われて、手の大きさを観てくれて、これで有れば出来ると言われて、天にも昇るような気持ちだった
一瞬のある出来事で人生が変わる時が有る  
ビオラをやることを決心する(大學4年で)それまでも、バイオリンとビオラは両方やる様に教育されてきた
音楽上で言えばビオラは大事な部分だと思う   ビオラ曲は増えてきている  
やることはたくさんある
ヘンデル作曲  細川俊夫 編曲 「私を泣かせて下さい」  (天に向かって弾いている気持ち)
音域的には5度低い  特有なセンチメンタル ノスタルジックな音だと思う  トランペットのような鋭い音も出る  人間の音域に近い

最初はアメリカに留学する 英語が解らなくて苦労した ビオラを弾く時間が余り無くて、ニューヨークに
出たいと思って、ジュリヤードに入った
もし落とされたらに日本に帰って来るつもりだった   
 1967年ミュンヘン、1968年 ジュネーブの国際コンクールで最高位を頂いた  
スイスのチューリッヒに行く ヨーロッパでカルチャーを学びたいと思った  
住んで見たという憧れの地であった
アメリカのシカゴのカルテット フェルメールカルテット そこで5年間弾いた 音楽家として基礎を
学んだ一番大事な時期だった

バイオリン2人 チェロ1人、 ビオラ1人  4人で競い合いした  出て来るものも濃い、内容の有るもの
だったと思う
子供がいたので、自由な時間が欲しくて ロンドンでソロを弾いたり、室内楽を混じったりしてやっていた   子供を連れての生活だったので 制約があり 大変だった
武満徹と出会う 自分は音楽を聞いて殆ど泣く事は無かったんだが私の音楽を聞いて、感動してくださってそれから親交が生れて 彼の作品を私が弾きたいと思って、1989年パリで初演した色彩豊かな曲を作曲して頂いた
ビオラスペース 20年続いている  ヒンデミット 何でもできる人
ビオラ奏者として、楽器を教えると言うよりも、斉藤先生から学んだ音楽家としてあるべきこと、
人生をどういう風に過してゆくかと言う事 に物凄く興味が有って、レッスンをしてても、、
人間と人間ですからいろんな事が有り、レッスンを休んだりとか、質問を受けた時にどう対処するか、難しくて 人と居る時にはいつも正直であるとか、音楽と向き合う時も本当にとことんまでやる 
中途半端にやらない 諦めずにやる
周りの人に恵まれていた   何かあったときにタイミングが物凄く大事で 待たない方がいい時が殆ど やる事は今日やる
多少のリスクはあろうとも突き進むことが大事  考え込むと出来なくなってしまう   
壁にぶつかり ぶつかり 諦めないで行く
一生懸命にやっていれば、必ず何か降って来ると言うか 道が開けて行く  
リスクの無いところに栄光は無い  音楽は変化するもの 終わりはない
音楽はいろいろな解釈が有り、骨組があり、それを知っていることは大事だが、それに捉われると見動きが出来ない、自由が求められない
  
そう言う事に成って行くと音楽は死んでしまう
今生れた音だと言う感じの音で弾かないと誰もなにも感じない
全部決めてしまって弾くものではない  いつも新鮮さがないといけない  
いつも感じると言う事は大事ですね 初心の心で弾きたいと思っている
初心の心で弾きたいと思っている

*ロバート・マン  1946年にジュリアード弦楽四重奏団を結成し、1996-97年のシーズンに引退   する
   まで50年にわたり第1ヴァイオリン奏者を務めた
  近年はソリスト、作曲家、そして指揮者としての活動にエネルギーを注いでいます。
*メナヘム・プレスラー1946年サンフランシスコのドビュッシー・コンクール優勝。フィラデルフィア管弦  楽団と協奏曲を共演、カーネギーホールデビュー現在インディアナ大学で教鞭を執り ヴァン・ クライバーン、エリザベート王妃、アルトゥール・ルービンシュタインといった各国際コンクールの審査員も務める