2025年8月19日火曜日

高田敏江(女優)             ・朗読に託す平和への思い

高田敏江(女優)             ・朗読に託す平和への思い

高田さんは昭和10年群馬県前橋市の生まれ。  1954年に女優デビューし、以来、映画、テレビ、舞台で活躍してきました。  特に舞台では40年に渡って広島長崎で被爆した人たちの手記を朗読しています。 

今年の誕生日で90歳になります。  1985年に戦後40年という事で、被爆者の手記とかの朗読劇をやりたいという声がかかって来て、引き受けました。  最初は6人の女優で始めましたが、皆戦争体験者なので涙が出て来てしまって、それをこらえるのが大変でした。 私は終戦の年が10歳でした。  こんなに長く続くとは思ってもいませんでした。  1995年に沖縄公演に行きました。  2007年に地人会解散して、2008年にこれは絶対続けましょうという事で18人の女優たちが「夏の会」と言うのを作りました。  製作から全部やるので大変でした。  

「広島 母たちの手記」 新谷君江? 朗読

「勝次ちゃん(?) 貴方が生まれて2週間後に支那事変がはじまり、そして8月6日から10日後に終戦、戦争の間から貴方は生を受けていたのね。(?) 人間らしい楽しい生活も知らないままに、貴方が物心ついたころから夜は灯火管制で暗闇の生活。 食べものは大豆かすのご飯やぬかの混じったおだんご、貴方は大豆ご飯が大嫌いだった。 8月6日のその朝も、お母さんは仕方なく大豆ご飯を炊きました。  嫌いと言ったあなたはお母さんから叱られて涙を一杯浮かべて食べました。  そして学校に行ったのね。 ランドセルを背負って「行ってきます。」これが最後の言葉でした。 貴方は二度とお母さんの元にな帰ってこなかったの。・・・貴方はどこで死んだの。  火に包まれながら「お母さん、お母さん」と泣き叫んだのではないかしら。  全身やけどを負いながら、苦しい息の下から、「お母さん水を、お母さん水を」と言いながら、息は絶えたのではないかしら。  どんな姿になってもいい。  もう一度お母さんの元に帰って来て頂戴。  そしたらこの旨にしっかり抱きしめて、そして真っ白ご飯を腹いっぱい食べさせてあげたいの。  これがお母さんの切なる願いです。」

私も1945年8月5日前橋で空襲の体験をしました。  自分の街が燃えるのを赤城山の中腹から呆然と見ていました。  前橋の家のすぐ近くには大きな防空壕があり、家にいたらその防空壕に入っていたと思いますが、熱風でドアが開かなくて入っていた人たちは全員亡くなりました。 

18人でスタートしましたが、亡くなったりして2018年に解散という事になりました。  2019年には有志が長崎に行って朗読しました。  広島の世界平和記念聖堂と言うところで朗読と公演を頼まれまして、それを聞いていたなぎさ中学がそれからずっと平和学習としてやってくださいという事で今年もやって来ました。  この平和を何としても続けていきたいといった感想文を送ってもらっています。  中学生にも一緒に朗読してもらって、それが疑似体験にもなります。  

身体が続く限りはこれを皆さんに伝えてゆく事が、自分の責務じゃないかなあと思います。  


峠三吉の「墓標」   峠三吉は広島で被爆をして1951年原爆詩集を出版。

「小さな墓標」 舞台用の台本で朗読

「君たちはかたまって立っている。 ・・・今はもう気付く人もない一本の小さな標。 ・・・雨が降れば泥沼となるそのあたり、君たちは立っている。  段々朽ちる木になって何を甘え、何をねだることもなく、黙って、黙って立っている。 ・・・熱い熱い風の暗い暗い息の出来ぬところで、柔らかい手が小さな首が石や鉄や材木の下で、血を吹きどんなにたやすく潰れた事か。  「兵隊さん助けて。」と呼んだ時にも、君たちに応えるものはなく、何にもわからぬままに死んでいった君たちよ。 ・・・君たちは片付けられ忘れられる。 かろうじて残された一本の標柱も、やがて土木会社の拡張工事の土砂に埋まり、その小さな手や首の骨を埋めた場所は何かの下になって永久に判らなくなる。  「斉美(せいび)小学校戦災児童の霊」 ・・・あの日の朝のように空はまだ輝く青さ、君たちよ出てこないか。  柔らかい腕を組み起き上がってこないか。 ・・・戦争を起こそうとする大人たちと世界中で戦うために、そのつぶらな瞳を輝かせ、その澄み通る声で「ワーッ」と叫んで飛び出して来い。」   そしてその誰の胸にも抱きつかれる腕を広げ、誰の心へも正しい涙を呼び変えす頬を押し付け、僕たちは広島の、広島の子だとみんなの身体へ飛びついてこーい。」







2025年8月17日日曜日

井上あずみ(歌手)            ・歌は“自分の生きた証”

井上あずみ(歌手)            ・歌は“自分の生きた証”

井上さんは石川県金沢市生まれの60歳。  1986年スタジオジブリ宮崎駿監督作品天空の城ラピュタ』のエンディング挿入歌「君をのせて」に抜擢され、澄み切った歌声と確かな歌唱力で一躍注目を集めました。  その後『となりのトトロ』『さんぽ』など数々のジブリ作品の主題歌、イメージソングを担当、NHK「みんなのうた」のテーマ曲カバーや「みんなのうたです」のタイトルコールも長らく担当しました。  25年以上にわたり全国各地で家族向けのコンサートを開きその歌声を届けてきました。  2023年8月歌手デビュー40周年記念コンサートのリハーサル中に脳出血で倒れ、緊急手術を受け一命をとりとめました。  左半身にまひが残る中、懸命にリハビリを続け去年11月にステージ復帰を果たしました。  その後は香港やシンガポールに遠征、海外でも歌声を披露しています。  精力的な活動の源、今後の夢、そして新曲「母の家計簿」によせた思いなどお聞きしました。

車椅子で来ました。 リハビリも現在も続いています。  倒れた時までは覚えているんですが、病院の中でのことは覚えていないです。  後で回りの人から聞いて状況を知りました。  コンサートのリハーサル中に「君をのせて」を歌っている最中でした。  ろれつがまわらなくなりました。  高いマイクだったのでマイクを落としてはいけないという思いがあって、マイクを握ったまま、倒れたようです。  救急車がなかなか捕まらなかったんですが、娘(ゆーゆ 歌手)の的確なアドバイスで救急車を呼べました。  娘が詳細に症状と時間をメモっておいてくれました。  救急車の方が見て的確だったようです。(医療関係の仕事をやっていたのではないかと言われた。) 

7㎝ぐらいの血の塊があった様です。  これを取ったら身体が半分麻痺してしまうと先生が言ったそうです。  意識が戻ったのは2,3日あとです。  血圧が最高200迄上がったことがあります。  高血圧が判ったのは随分前ですが、薬は飲んでいました。  リハビリが始まりました。  左半身の手と足が半分麻痺している状態なので、まず動けるところから始まりました。  歌の発声に関しても娘から指導してもらいました。  大きい声でしゃべりなさいと言われました。  厳しかったです。  一週間に一回デイサービスに行っておじいさんやおばあさんと話をするのもいいリハビリになりました。  戦争、疎開の話などを聞かしていただきました。  歌手だという事は知ってもらっていました。 デイサービスでは歌のレッスンもありそれもいいリハビリになりました。 3か月後にステージに復帰しました。  「さんぽ」と「となりのトトロ」を歌って、娘が「君をのせて」を歌いました。  

1983年にアイドル歌手としてデビューしましたが、全然売れませんでした。 家族がみんなが歌好きでした。 のど自慢大会に出場していました。  審査員に歌手にならないかと言われました。  後に乙田修三歌謡研究所に門下生として在籍して歌手デビューを目指し始めました。  デビューは18歳でした。  天空の城ラピュタ』に出会たのはそれから3年後でした。  レコード会社の方と知り合いになって、アニメの歌を歌う女の子を捜しているという事で、カセットテープに入れて持っていきました。  それを宮崎駿監督などが聞いて、それからとんとん拍子に決まって行きました。  

天空の城ラピュタ』より「君をのせて」  作詞:宮崎駿 作曲:久石譲 歌:井上あずみ

この歌は余りヒットしませんでした。 ファミリーコンサートをするようになって生計を立てられるようになりました。  それまではいろいろバイトをしていました。  ファミリーコンサートは1年間に80本ぐらいやっていました。  

仕事復帰後1年余りのうちに、香港、シンガポール、インドネシアなど世界様々な地域で歌を披露しています。  コンサートをやると待っていてくれたんだなあという事が判り、頑張りたいなあと思いました。  私にとって歌は、生きていくためになくてはならないものです。今後の夢は新しく録音した曲がヒットする事です。 

*「母の家計簿」  作詞:松井五郎 作曲:中村由里子  歌:井上あずみ

ピアニストの中村由里子さんは私の1年前に脳出血で倒れて、その前からこの曲は貰っていました。 中村由里子さんはちょうどコロナのころで、リハビリが上手くいかなくて寝たきりになっています。  由里子さんが元気になればいいなあと思って歌っています。









 

2025年8月16日土曜日

深澤吉隆(元中学校教諭)         ・仏像疎開、その真意を伝承する

 深澤吉隆(元中学校教諭)         ・仏像疎開、その真意を伝承する

太平洋戦争のさなか、国宝の仏像など貴重な文化財の数々は所蔵する寺などを離れより安全だと思われる地域へ移送、疎開させられていました。  しかしその資料はあまり残っていません。  中学校教諭だった奈良市の深澤吉隆さん(62歳)はこの事実を若者たちに伝えるため、おもに奈良県内の仏像疎開について、数少ない資料から調べたり関係者に聞き取りをしたりして、学校現場で使う教材を作成しました。  仏像疎開とはどういうものだったのか、戦争の知られざる一面を次の世代に伝える意味とはなにか、伺いました。

平和学習はどこでも取り組んでいることだと思います。  奈良市では修学旅行で小学校では広島、中学校では沖縄に行くことが多いです。  地元の奈良のことをどれだけしているのかなとふっと思いました。  それがきっかけとなりました。  仏像の疎開と言うのはあまり知らないんじゃないのかなあと思いました。  それを教材化していこうとしました。   

基本は文献資料を当たってゆく事ですが、仏像疎開に関しては出てこないんです。 疎開をしているので現地に行ってみる。  関わった人がいたら聞いてみたいと思いました。  昭和16年3月に、国立博物館(当時は帝室博物館)から「東京帝室博物館有事の際における御物並びに保管美術品の処置方針」と言うものが政府に上申された。  これがスタートです。 この12月にアメリカに宣戦布告します。  その場所に選ばれたたのが奈良だったと言われます。  天皇を中心に国家を形成しようというあり方だったので、天皇家に伝わる御物をまず疎開させるという事はあったと思います。  戦況が悪化すると、「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」を閣議決定して、奈良にある国宝、美術品をさらにもっと安全なところに移動させようという方針が決定される。(昭和18年年末ごろ)  

昭和19年1月に文部省と県が協議をして、東大寺、興福寺、法隆寺と言ったお寺の仏像疎開、偽装(空から見てお寺とは判らないようにする)とい織ったことが決定される。  3月に東大寺、興福寺の国宝66点ぐらいが奈良市の円照寺に移送された。  その後ほかのお寺にも移送された。  昭和19年4月さらに疎開をしていこうという事が決められた。  昭和20年3月に大阪の大空襲がある。  三月堂、二月堂、大仏殿廊下と言ったものの解体の要請がある。  三月堂の解体は拒否していたようです。  昭和20年6月1日に東大寺の転害門(国宝)から西大寺に向かう一条通り沿いに空襲があった。  危機に瀕して三月堂の解体の承認をしてゆく。 興福寺の阿修羅像などの疎開も準備されてゆく。  

法隆寺はその何年も前から解体修理を進めていた。  仏像などは民間のところに疎開させるという事をしていました。  釈迦三尊像と救世観音像については断固拒否をしたそうです。(お寺の要)  唐招提寺の鑑真和上像の疎開には応じなかった。 興福寺は6月1日の空襲をきっかけに移送を決めます。  移送先が吉野の当時の町長宅(民家の土蔵)だった。 阿修羅像などが鉄道で運ばれたようです。  奈良側では移送には人手が無くて刑務所の受刑者を動員した様です。  終戦後直ぐには戻らなかった。  アメリカ軍の接収を恐れた。 戻ったのは昭和20年の年末。  

戦争になると異常な状態になる。  最悪の状況を想定して行った仏像の疎開など、全部情報が流れていたら、あの戦争ももっと早く終わっていたのかもしれない。  経験した方がいるかいないかという事は凄く大きいことだと思います。  やがて戦争を知らない人ばっかりになってしまう。  忘れないためには今判っている事実に基づいて正確に次世代に繋げてゆく、そういう事が大事だと思います。 







2025年8月15日金曜日

阿刀田高(小説家)           ・戦争と平和

阿刀田高(小説家)           ・戦争と平和 

2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長を務め、各地で平和について語って来ました。  阿刀田さんは現在90歳。  80年前小学5年生の時に疎開先の新潟県長岡市で長岡空襲を経験します。  当時の生活や空襲の記憶、そして戦後80年の今、日本の歩むべき道をどのように考ええているかを伺いました。

父が元々東京と長岡に意仕事の関係をもっていました。  戦争が激しくなり昭和19年の夏に家族で長岡に疎開しました。  米作りを2年間しました。  川に魚影を見かけて魚を取りに行くのが楽しかったです。   昭和20年8月1日  夜に空襲があり母と川の土手に避難しました。  B29が100機ぐらい来ました。  幸い私の家は焼けませんでした。  長岡市が焼けるのを信濃川?から見ていたので、心配しましたが。  5歳うえの姉がいて、姉は独りで逃げて、同行した人と共にもっと田舎の方に行きました。  家族はそれぞれ無事に帰ってきたのに姉だけは帰って来ませんでした。  ひろまろ?小学校が緊急避難所となっていたのでそこに姉がいるかどうか見てくるように言われました。  遺体なども置いてありました。  防空壕では或る母親と子供を二人抱えて死んでいるのを見ました。(防空壕は焼夷弾だと蒸し焼きにされてしまう。)  従兄弟が材料力学の専門家で、焼け跡の焼夷弾の鋼鉄を拾ってみて、「こんな鉄を捨ててゆく国と戦争をしては勝てないな。」と言ったのを非常に強く覚えています。  

私の世代は先生にも殴られ、天皇陛下に一命を奉げるという事をまるっきり信じた世代なんです。  8月15日が来て、その後9月、10月頃の授業で、これからは日本は戦争をしないんだと先生が言ったのを聞いて、天気のいい青空を観ながらもう戦争はしないんだと思ったのが凄く記憶に残っています。  これからは民主主義だとコロッと変わってしまって、大人は信用できないという事を我々の世代は根強く持っています。 (大人不信) 

我が家は戦前から自由な家庭でしたので、戦後の自由な雰囲気には割となじみやすかったと思います。   長岡花火は昭和22年にあがっています。  何でやるのか釈然としないところがあります。 焼夷弾に似てるんですよ。  花火を見ると空襲のことを思い出さない日はないですね。  

今は大変な時代に入ってきているなと言う実感があります。  もしかして人類は滅びやしないだろうけれども、もう一回地球の1/3ぐらいどうかなりそうなことが起きて、ようやく反戦にに至って、又次の何かが誕生するという事さえ起きるのではないかと思います。  日本は80年戦争せずにやってきたという事は凄い事だと思います。  あっちへペコペコ、こっちにペコペコしながら、平和を求めてゆく。  石原慎太郎さんのようにかっこいいことを言って頑張ってもこの国はなかなかうまくいかないよと、と言うのが私の考えです。 

先進諸国との格差は絶対追いつかない。  上手く折り合いが付くわけがない。  何かの拍子でとんでもないことが起きる。  独特な宗教観もあり折り合いがつかない。  世界の95%の人間は平和を願い、望んでいると思います。  でもなかなかそういう風にはならない。宇宙人が攻めてきたら地球人は纏まるでしょう。  小説家のたわごとみたいですが、本当に難しいことだと思います。  

日本人は、日本国は間違いない世界一の財産を持っているんですよ。  それがいろんなところで生きていると思います。  日本人は文字を知っている事、字が判るという事、文字がちゃんと読める、書ける、この力は国民の力にはなっている。  これを上手に生かしてゆく事、それがこの国が栄える道ではあるけれど、これで世界の混乱が何とかできるかと言うと、簡単には出来そうもない。  

日本はあの戦争があって負けて、良い国になったんだと思います。  日本の軍閥をなくすことは簡単ではなかった。  軍国主義を完全に葬られたということは、日本が負けたお陰だと思います。  平和、民主主義とかをちゃんと考えられるようになったのは、戦争に負けたお陰だったと思います。  今のアメリカの国を見るとこの国は大して立派な国ではないと言う気がしてしょうがない。  

あの戦争を体験しているのは我々世代でもう終わりです。  書かれたものが、個人の何かの原動力になるほどの強い印象を持つことは残念ながらないと思います。  これからは普通に賢く守ってゆくと言う事で、何とかこの国をやってゆくという事しかないんじゃないかと思います。   「日本国民は立派だ。」と言ってマッカーサーは去っていったんですね。  素朴な大切な事をちゃんと大事にしてやってゆく。  それで駄目ならその時は仕方ないんだと私は思っていますが。   平和を愛し、隣人を愛し、つまらないことに染まらず、極普通に人間として正しいと言われることを、ちゃんと素朴に守って行く、それが大多数であれば何とかそれなりの国でやってゆけるのではないかと思っています。








 








2025年8月14日木曜日

山口輝人(元兵士 山口静雄の次男)     ・木の上で闘い続けた男

山口輝人(元兵士 山口静雄の次男)     ・木の上で闘い続けた男

俳優の堤真一さん、山田裕貴さん主演の「木の上の軍隊」と言う映画が公開されています。  舞台は沖縄戦の縮図とも言われる凄惨な戦いがおきた伊江島、作品はそこで終戦を知らないままガジュマルの大木に身を隠し、2年間生き延びた2人の兵士の実話をもとに描かれています。 映画のモデルの一人となったのは宮崎県出身の兵士山口静雄さん、35歳のころ伊江島に派遣されました。  今回インタビューしたのはその静雄さんの次男である山口輝人さん(87歳)です。  父の背中を見て感じる平和への思いとは何でしょう。

昭和20年4月16日にアメリカ軍が上陸して伊江島を一気に制圧しようと猛攻撃を浴びせました。  6日間の戦闘で日本兵の戦死者およそ2000人、住民も逃げ場を失って集団自決に追い込まれるなどして、当時島にいた人たちの半数に上る1500人が犠牲になりました。  その島で静雄さんは2年間生き延びました。  父は断片的に話をしてくれました。  壕の中にいたら全然逃げ場がない。   自分の身を隠すことを考えた時に、ガジュマロの木が点々とあるぐらいで、身を隠す場所がなかった。  木の上にあがることを決めたようです。木の高さは8~10mぐらいです。  幹の太さは二人が手を広げたぐらいの木です。  葛が巻いたようになっているので登り易い。  

登って2,3日して木から落ちて、へこんだ地面のところに身を隠して、佐次田秀順さん( 一緒に木の登ったもう一人の人)が落ち葉、木の枝をかぶせました。  数週間すると米軍のブルトーザーが畠の整地をし始めた。  父の隠れているすぐそばまで来て、その時にはもう駄目だと思ったそうです。  運よく手前で止めたそうです。  傷を負ったところから膿が出てきたが、衣服の切れ端を細い枝に巻いてその部分に付けていたら、その後傷が良くなってきたそうです。  その間は佐次田秀順さんがイモとかとうきびなどの食料を調達してくれました。 昼間は木から降りられないので、夜遅くこっそりと出ていったんでしょう。  身体の具合も良くなってきて、助けてもらいながら、木に昇ったそうです。  木の枝で身を隠す工夫をしていました。   マムシなどの心配もありました。  空き缶に糞をして木から離れたところに臭わないように捨てた。   

2年間も木の上で生活していたという事は考えられないです。  二人で何とか手を取り合って頑張ったと思います。(意見の合わない時もあったと思いますが。)   二人だったから生き延びれたと思います、一人ではできないと思います。  父、山口静雄も体調がよくなってきて食べ物を探すようになりました。  食料を小屋の隅に隠して置いて、行ってみると少なくなっているので、「食べ物を取らないでください。」と書置きを2,3回書いたらしいですが、「日本の兵隊さん出て来て下さい。」と書置きしてあったそうです。  「戦争はもう終わりました。」とも書いてありました。  最初は信用しなかったが、出てゆく事を決断した。  

家では母親が中心となり細々と農作業をしていました。  父が帰ってきたのは小学校4年生でした。   服は米軍の服で、帽子は日本軍の帽子でした。  自立しろよ、と言うような父親でした。  兄弟で相撲をとったりしているところを見て、喜んでいました。 平成9年に父親が登っていたガジュマロの木に登りました。  「苦しい苦しいなか、2年間よく支えていただき、本当にありがとうございました。」、と独り言で話をして帰ってきました。  命の大切さをお互い考えて、平和な国であることを願うばかりです。





 

2025年8月12日火曜日

田中恭子(青森県六戸町)         ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ

田中恭子(青森県六戸町)         ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ

 太平洋戦争で日本人が1万人以上の命を落としたパラオ諸島のペリリュー島、この島に今も眠る父親の遺骨を求め手がかりを捜し続けてきたものの、その活動に一区切りをつけた女性がいます。  青森県六戸町に住む田中恭子さん(84歳)です。 戦後80年経った今、父親にどんな思いを抱いているのか聞きました。

父親がどんな人だったのかはわかりません。  父親がいつ動員されたのかも知りません。  満洲に行ったことは手紙で知りました。  昭和19年3月に軍服が送られてきて、母親は新聞などから南方に行くんだろうとさとったようです。  昭和19年5月にペリリュー島へ着きました。  この島には旧日本軍の大規模な飛行場があり、アメリカ軍はフィリピン攻略のために、重要な拠点と考えていました。  4通の手紙が私の手元にあります。  蟻の巣みたいに島の中全体に洞窟を作るために忙しかったようです。  2枚目当たりまでは余裕があって様々なことを書いています。  30数名の部下の家族のも父は手紙を書いていました。4通目は文書も少なくなっていて、 私のこと(・・・明るさと素直さを生かす如く恭子の訓育を望む。)、母親のこと(不幸であった俺の分まで母上様に孝養を願う。健康第一なり。病める家があるものは暗いものである。・・・)短めに書かれています。  遺書の様なものなので母が私に渡してくれたものと思います。

艦砲射撃があり、日本軍が1万名に対してアメリカ軍は5万名でした。  兎に角長引かせて本土に来るのを遅くさせるという事だったようです。  昭和20年4歳で父の死を知ることになります。 父がいないという事に引け目を感じていました。  父親の最後を知りたいと願う様になりました。  きっかけは満洲の戦友から「戦死した人のことを風化させてはいけない。」と電話を受けた事でした。  夫が中心となりペリリュー島戦車隊の会を結成、夫と共に情報を集めてきました。  生き残った人のうち4名の方の話が貴重でした。  父親の戦車に「陸奥」と書かれていたことを知りました。(アメリカの資料)   

平成7年に初めてペリリュー島に行くことになりました。  父に全部関連して景色などを考えました。  10日間泣いて帰ってきました。  全国から20数人行きました。  初めて会った人たちでしたが、兄弟みたいな感じがしました。  平成27年にペリリュー島を訪れました。  長年の活動が実り、戦車の掘り起こしと、遺骨の収集が本格的に行われました。 これまでに掘り起こされた戦車には「陸奥」の文字の戦車は発見されませんでした。  去年12月国が新たに戦車の掘り起こしをするといういことで、これが最後かと思ってペリリュー島へ向かいました。  しかし発見する事は出来ませんでした。  もうお骨はないと思って諦めました。(土にかえったものと思います。)   万一、父親のお骨が判っても、部下30数目にのお骨が見つからないままだったらどうしようと思いましたが、父だけのお骨を持ち帰ることは出来ないと思います。  


















2025年8月11日月曜日

瀬古利彦(元マラソンランナー)      ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る

瀬古利彦(元マラソンランナー)      ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る 

瀬古さんは四日市工業高校時代インターハイの800m、1500mで優勝するなど、中距離、長距離ランナーとして将来を期待されていました。  その瀬古さんを日本屈指のマラソンランナーに育てたのが早稲田大学競走部の中村清監督でした。  厳しい練習で知られる中村監督と瀬古選手、どんな師弟関係があるのでしょうか。 

中村監督が亡くなって今年で40年です。  怖かったです。  話が長くて練習の前に1時間ぐらい話します、乗っちゃうと2時間ぐらいは話します。  先生にとっては息子のような感じでした。  中村清さんは1913年韓国ソウルに生まれました。  早稲田大学在学中の1935年箱根駅伝で1区を走り区間一位、翌年は10区を走り区間2位の好成績をおさめます。    陸上1000m、1500mでも当時の日本記録を樹立して、1936年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表として出場しました。  1938年軍隊に招集され従軍、母校競走部のコーチに就任したのは終戦の翌年でした。  早稲田が箱根駅伝で18年振りの総合優勝を成し遂げたのは就任から6年後の1952年、更にその2年後の箱根でも総合優勝に輝きました。  一旦早稲田の競走部から退きますが、監督として復帰したのは瀬古俊彦さんが入学した1976年でした。  中村監督の指導の下、瀬古選手は大学2年で福岡国際マラソンで日本人トップとなったのをはじめとして、次々と記録を打ち立てます。   昭和55年瀬古さんが卒業してからは、瀬古さん所属の実業団SB食品陸上部の監督も兼ね、強豪チームに育て上げました。  中村さんは1985年5月渓流釣りの最中に足を滑らせて川に転落、帰らぬ人となりました。(71歳) 

私は早稲田から誘われましたが、受験に失敗しました。  南カルフォルニア大学に入学しました。  1976年早稲田大学に入学、中村コーチでした。  当時は箱根駅伝のは予選会にも通らなかったです。  瀬古を教えるのには中村しかいないと小田幹雄先生が頼んだらしいです。  それで合宿に参加しました。  「こんな弱い早稲田にしたのはお前たち学生のせいではない、OBが悪い。 私が謝らせてくれ。」と言って、自分の頬を自分の平手で思い切りバンバンたたき出しました。  「これで許してくれ。」と言ってみんなは唖然とました。   海岸に行って、 「瀬古君これからマラソンをやるんだけれど私の言う事を聞けるか。」と言って片手で砂を取って、「この砂を食べたら世界一になれる薬だったらお前食べれるか。」「これを信じて食べたら世界一になれるんだよ。」 私だったら簡単だと言って、口に入れて食べちゃいました。  凄い人だと思って、「ハイ、マラソンやりますから教えて下さい。」と言いました。  

月曜日は大学は練習が休みですが、私だけ中村監督の家に呼ばれて、話を聞いて練習をして美味しいステーキを食べて帰るという事をしていました。(特別扱いされていた。)  中村監督は中距離をやっても大した選手にはならない、マラソンだったら君のスピードを生かしたら世界に通用する。」と言われてマラソンに進む事になります。 (大学1年)  私なりの練習方法を二人で会話しながら進めていきました。 (ああしろこうしろとは言わなかった。)   宗選手の練習は朝40km、夕方40km走ると中村監督からは言われていましたが。   急には追いつけないので徐々に練習方法も増やしていこうと言われました。  「昔は選手を殴ったが、聖書を読んで愛の精神を勉強している、だから絶対殴らない。  本当にいう事を聞かなかったら自分を殴る。」と言いました。  この人は命がけでやる人だなと思いました。練習で雨が降る時がありましたが、傘をさしているのを観たことがないです。  練習時間が5時間とか長いですが、座っているのを観たことがないです。  

どっかの時点で厳しい練習では限界があることを感じたのかもしれません。  聖書に「他人にしてもらいたいことを貴方も他人にしなさい。」と書いてあります。  中村監督はその精神なんです。  私もそのような思いでアドバイスをします。  私は大学2年で福岡国際マラソンで日本人最高の5位でした。  3年生では日本選手としては8年振りとなる福岡国際マラソン優勝、4年生では日本人初の2連覇、モスクワオリンピック代表の座も射とめる。  福岡国際マラソンで日本人最高の5位になって、来た中村監督と座ったままで握手をしたら、「貴様はなんだ、教えている監督に座って握手するとはなにごとだ。」と言われて怒られてしまいました。  そういった精神は僕の心に残っています。 

1980年 SB食品に入社しました。  中村監督が「SBに行くぞ。」と言われてそうしました。  陸上部が無くて監督が自由に作れるからと言っていました。  1980年5月にモスクワオリンピックのボイコットが決まる。  「オリンピックだけがマラソンではない、他のマラソンで勝ちまくったらオリンピックに勝っただけの価値があるから、瀬古いいか、そういう風にしよう。」と言われました。  3つの目標を立てて全部達成しました。  1983年東京マラソンで自己最高の2時間8分38秒で優勝、福岡でも優勝、1984年のロサンゼルスオリンピックでは金メダル間違いないという予想だったが、14位だった。  「金メダルを期待している。」と毎日言われるわけです。  重荷になってもっと頑張らなければと勝手に思ってしまいました。  勝てばいいかも知れないが、負けることも人生に取って大事。   

その翌年新潟県で渓流釣りをしていた中村監督は事故で亡くなりました。  テレビで知りました。  家内と結婚する3週間前に亡くなりました。  妻に任せられると、僕は安心して天国に行ったと思っています。  1986年ロンドンマラソンで優勝、1987年ボストンマラソンでV2を達成。   瀬古は中村監督がいないと走れないと思われたくなくて、いなくても走れることを見せたかった。   1988年現役を引退。  勝てるような練習が出来なくなりました。   ソウルオリンピックの代表選考がもめました。  福岡国際マラソンで一本化という事でしたが、僕は怪我をして回避してしまいました。   4か月後の琵琶湖マラソンに出たんですが、物議をかもして瀬古は卑怯だといろいろ批判が出ました。 琵琶湖マラソンでは優勝しましたが、タイムはよくはなかった。  何で瀬古が選ばれるんだという事で、自分は皆さんから喜ばれてないんだなと言うようなことがあって、マラソンが楽しくなくなってしまいました。  ソウルは最後のマラソンだと思って出ました。  

SB食品の監督に就任しました。  自分の顔を叩いたり、砂を食べたりもしましたが、人真似は駄目だと思いました。  自分の心から出てくる言葉とかでないと駄目ですね。  中村監督は、自分が選手の見本になる人、そして引っ張てくれる人、そういう人です。  中村監督はソウルで生まれて貧しくて、日本に戻って来るのに皆さんのカンパで東京に来て、その恩返しのために自分は強くなって陸上競技に貢献する、原点がそういったところだと思います。  自分がお世話になった恩返しだと思います。  僕らも恩返しと言う気持ちはあります。  

中村監督は手紙を書くのが好きで、私に所には100通ぐらい来ています。 他の選手にも同様です。   

「49年前に先生にお目にかかった時のこと今でも鮮明に覚えています。 ・・・早稲田大学のセミナーハウスで、長距離合宿がありました。 ・・・ 「君が瀬古君だな、1年間浪人させてすまなかったな。  OBを代表して私が謝るから。」と意外な言葉が返ってきました。・・・「1000m、1500mのラストの切れ味は素晴らしい日本人離れしている。」と褒められました。 ・・・これはきっとマラソンで大成する。 私が命懸けで面倒を見てあげるから。」と言って命がけで指導して下さいました。 ・・・自分の顔を叩いたり、砂を食べて見せたり、雨のなかを5時間も6時間も立ったままで、私たちを観てくださいました。 ・・・私も先生と同じ年頃になりました。・・・こうやって半生を陸上競技に奉げてこられたのも先生のお陰です。  これからも陸上競技、マラソンの発展のために残りの人生をかけて行きますので、どうか見守って下さい。 」

言葉って、人の命を救うし、喧嘩もする。  だから言葉って本当に大事だと思います。 

















2025年8月10日日曜日

大島花子(歌手)             ・あれから40年 父・坂本九の心を歌いつないで

大島花子(歌手)             ・あれから40年 父・坂本九の心を歌いつないで 

今から40年前の8月12日日航機墜落事故で亡くなった歌手の坂本九さん、「上を向いて歩こう」「見上げてごらんよ要るの星を」などその歌は40年経った今も幅広い人々に愛され続けています。  当時11歳だった大島花子さんは、現在シンガーソングライターとして父坂本九さんの歌を通してその思いを届けたいとライブ活動を続けています。  大島花子さんは坂本九さんと女優の柏木由紀子さんの長女として1973年に生まれました。  大学在学中ミュージカルなどの舞台に立ち、そのまま作詞作曲を手掛けながらライブ活動を始めます。  2003年には「見上げてごらん夜の星を」でメジャーデビューを果たしました。  坂本九さんへの思いと時代を越える歌の力について伺います。 

父の影響は大きかったと思います。  健康で居なくてはいけないという事で、家ではサウナスーツを着て腹筋の運動をして汗をかいたり、テニスをしたり健康管理には気を使っていまいた。  舞台に向かう時の緊張感とかを垣間見ました。  今となっては何ともいない時間が戻りたい瞬間というような気がします。  亡くなる前日に暑いなかを庭掃除を一緒にしました。  その瞬間がキラキラ胸に焼き付いています。  一緒にいられる事がどれだけ価値のあるものだったのかという事が、その瞬間を思い出すたびに考えさせられます。 

あの出来事があって、感情を誤魔化しながら日々を生きていたような気がします。  30年経った頃に私は「悲しみを私は乗り越えていないんです。」と言えるようになりました。  悲しみと一緒に歩いて行けばいいんだなと思いました。  それから楽になったような気がします。  乗り越えなくてもいいんだと思った時に楽になりました。 

2009年に男の子を出産しました。  命の尊さを改めて考えさせられました。  出産をきっかけにもっと歌いたいと思うようになりました。  2003年にデビューをしましたが、命の尊さ、日常の大事さと言ったことを音楽で伝えていきたいとくっきり見えてきたのが、出産後でした。  より生活と密着した思いと地続きの曲を歌うようになりました。  今は息子も高校生でバンドをやっています。  

シンガーソングライターとして20年になります。  トークでは何でこの歌を歌うのかとか、何のためにこの曲を作ったのかとか、説明してから歌ったりします。

*「上を向いて歩こう」  歌:大島花子  手話で一緒にうたう。

父が手話が好きで習っていました。  私も大人になって手話の勉強をしました。  永六輔さんが作った「そして思い出」と言う曲がありますが、手話から作られた曲で坂本九が歌いました。  「誰かと話がしたい。」と言う出だしがありますが、心を通わすことが話をすることなんだなあと思いました。  人と人がコミュニケーションをするのを教えてくれたのは手話かもしれないと思います。  東日本大震災の時には40回以上継続的に伺っています。  音楽はお腹を満たしたりすることは出来ないが、ご飯では満たせない心を満たすという意味では、人間にとって必要なものだなあと思います。

「上を向いて歩こう」は保育園から高齢者施設でも歌いますが、一緒に歌ってくれます。 音楽は言語を越える力があるんだと、父の歌が証明している様な気がします。 

「心の瞳」は素敵な曲なのでA面にと思ったのですが、B面になってしまいましたが、父が亡くなってしまって、葬儀では私が弾いて父の声と重ねるという事にしました。  亡くなる当日にラジオの歌番組に収録があってこの歌を歌っています。  これを聞いた中学の先生が合唱にしようという事で徐々に広まっていきました。  大事な人との別れは必ずだれもが経験することで、その心をもっと大事にしていいんですよと、悲しみは有っても別に悪いものではないにのだから、泣いてもいいし泣かなくてもいい、私だから伝えられるメッセージだと思うので伝えていきたいと思います。  大事な人が目の前にいる人は、その時間を大事にして頂きたい、私はそんな思いを歌に載せて歌い続けて行きたい。











2025年8月9日土曜日

2025年8月8日金曜日

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋 

長崎に原爆が投下されて明日で80年です。  今年被爆者の数が初めて10万人を下回り、平均年齢は86歳を越えました。  被爆の記憶や記録を少しでも多く次世代に残そうと、国では全国の被ばく者を対象に体験記の募集を始めました。 そのなか被ばく80年にして初めて語ったと言う体験記が長崎に寄せられました。  綴られていたのは原爆に翻弄された或る恋の物語です。  手記を出したのは長崎で被爆して現在は群馬県高崎市にお住まいの森貴美子さん(85歳)です。  森さんが5歳の誕生日を迎えた4日後に原爆が投下されました。  森さんは被爆体験を語るのに何度も葛藤したと言います。  80年間誰にも話さなかった過去をなぜいま語ることにしたのか、伺いました。

こんなことは人に話すようなものでもないし、今まで誰にも話したこともないし、それをわざわざ書かなくてもいいかと思っていました。   死に直面した病気にかかてしまいました。  自分の命の限界を知った時に、何かの役に立てばと思って、 書くことにしました。  被爆したのは私の責任ではないじゃないですか。  もし被ばくしていなかったらこんな生き方をしていなかっただろうとか、苦しむことはなかっただろうとか、心のなかに自分は被爆者だという事を絶対思っていましたから。  

5歳の時に爆心地から4,5kmの家で被爆しました。  光が全体を包んだと同時に家中の家具とかが爆風で全部とんじゃって家に中は無茶苦茶でした。  母と伯母が私と妹を押し入れに突っ込みました。  それが良かったのかもしれないです。  妹と二人で泣いていました。  妹が亡くなりましたが、いつ亡くなったのか私は判らないです。 

「終戦を迎え私は大学時代にある男性と交際を始めました。  彼は私より7歳年上。 将来は結婚を前提としたお付き合いです。 勿論私の両親公認でした。 その方は真面目で正直な人でした。  結婚が二人の間で具体的になり始めた頃、私は初めて迷い出したのです。 私は被爆者。  このまま結婚して子供が生めるのだろうか。  仮に子供が生まれてもその子は一生被爆二世として生きて行なければならない。  今考えると馬鹿な考えと思うところもあるかとは思いますが、当時の私は不安で結婚に踏み切れなくなりました。  彼は子供のことが心配なら子供入らないとさえ言ってくれましたが、私自身いつ発病して死ぬかわからない、という思いに取りつかれ彼との交際を諦めお別れしました。  私が何の躊躇もなく結婚していたら今と全く違う人生が展開していたと思っています。  原爆は一瞬のうちに人の人生、生き方を変えてしまうものと思っています。 幸い体には目に見える傷は残っていないものの、心には生きる事への諦めがずっと残っていました。」

はじめて恋をした方と結婚したかった。  結婚してもいいのか迷い出しました。 私は被爆者なんです。  家から彼を送ってゆくときに小さな公園で被爆のことを話しました。 隠し事をして結婚するのは卑怯なことだと思いました。  二人で背負ってゆくんなら二人で背負ってゆくしかしょうがないだろうと言いました。  聞いた時にこの人に負担をかけたら絶対駄目だと思いました。  結婚に踏み切れた人は勇気があったと思います。  

被爆体験のことを書いて読み返してみたら、こんなに浅い考えじゃないよな、もっと根深いものが自分のなかには残っているなと言う気がしています。   結婚をお断りした後、もう自分の人生は終わりだと思いました。  もう他に人とも結婚はしないし、出来ないし、これから先何を目当てに、何のために生きていくんだろうと思って死にたくなりました。  写真を全部ハサミで切ってしまって捨てました。  生まれた時から24,5歳までの写真は一枚も残しませんでした。  死のうと思いましたが、母に見つかって失敗しました。  被ばくしたからこそ生きて行かなければいけないと、今は思っています。 

原爆は私から愛、家庭、子供、自分そういったものを全部奪いました。  被爆するという事はある意味殺されるという事、生きる意味を否定される事です。  自分の夢や目標に向かって進んでいきたいと思た時に、それに全部ストップをかける。  原爆は本来の私を殺した敵です。  逃れられないから皆苦しんでいる。   特に小学生たちに、昔こういうことがあったんだよ、貴方たちの時代には絶対こういう事がないような、そういう世界をつくってねって、それを言いたかった。  原爆のことを知らない人たち、ちょっとでも知ってほしい。













2025年8月7日木曜日

金城利一(沖縄県豊見城市)        ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道

金城利一(沖縄県豊見城市)     ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道 

金城さん(91歳)が生まれ育ったのは沖縄県南部の豊見城市。  沖縄戦当時、海軍司令部などの軍事施設があったため、アメリカ軍の激しい攻撃をうけ、おおくの住民が犠牲となりました。  戦後80年沖縄戦を体験した世代の沖縄県民全体に占める割合は8%を切り、戦争体験を聞くことはますます難しくなっています。  11歳の時に沖縄戦を体験し、家族5人を失った金城さんに戦争の記憶と戦後80年の今、強める平和への思いを伺いました。

私は幼少のころ父が亡くなりまして、弟と二人兄弟でした。  貧乏で二人は育てられないという事で、私は母の実家で母と一緒に育ちました。  弟はおばあさんと一緒に育ちました。  弟とは一緒には遊んでいました。  学校でも遊びは兵隊ごっこでした。  小学校3年には軍事訓練も受けました。  ルーズベルトとチャーチルの藁人形を作って竹やりで突くわけです。5年生の時には学校は兵舎になって、兵隊が防空壕を掘って、その土を出すのが我々の仕事でした。  授業はなかったです。  軍国少年として育っていきました。  

1945年3月になるとアメリカの艦船が接近して、艦砲射撃が始まります。  4月には沖縄本島に上陸してきます。  4人に一人が犠牲になった地上戦が始まります。  3月23日は5年の終了式の日でした。  直ぐ帰るように言われてその日から防空壕暮らしです。  5,6世帯(20名ぐらい)が一つの壕に入っていました。  最初のころに母の実家は艦砲射撃でやられました。  1945年5月22日には旧日本軍の第32軍が首里城地下の司令部を放棄して、沖縄本島南部に撤退することになる。  住民も南へと避難を余儀なくされる。朝早く壕を出ました。  隊列を組んで後ろの方を歩いていました。  2,30mぐらいのそばに弾が落ちるわけです。   そこで隊列から別れてしまいました。  戻ったのは1/3ぐらいでした。  その後南へと向かいましたが、会えませんでした。  後ろの組は全員生き残りましたが、先の組は生き残ったのは2人でした。 おばあさんと弟は先の組でした。

命令なので南部を目指していきましたが、向こうに行っても壕はないとおじいさんが言うので、行かないでおこうと言われました。   戻るとアメリカ軍の捕虜になってしまうので戻れない。  近くで壕を捜してそこに入ろうとおじいさんが言って、壕を見つけて入りました。その間に10体ぐらいの死体は見ました。   4,5日してからアメリカ兵が出て来いと言ってきました。  手榴弾も投げれれることもなく、アメリカ兵が入ってきました。  おじいさんに向かって「心配ない 心配ない」と言ってきました。  手で引っ張り出されて、ここで殺すんだなと思いました。  水と菓子を出しましたが、毒が入っているのではないかと食べませんでした。  兵隊は水を飲んで菓子を 食べて見せました。  私は水も飲みましたが、その後殺されると思いました。  

糸満の潮平と言うところまで歩かされました。  そこには一杯人がいました。    母、おじいさん、私と親戚合わせて7,8名ぐらいが一緒でした。   弟、おばあさん、母方のおばあさんはおじさん伯母さんらとははぐれてしまいました。  南へ逃げた弟たちは壕を見つけて入ったそうですが、日本兵が後から来て民間人を追い出したそうです。  岩陰に隠れているところを集中砲火を浴びて亡くなったそうです。  その中の2人(従兄弟)は生き残り、日本兵の壕にもぐりこんだと言っていました。 (後日聞いた話) 戦後遺骨を捜しに行ったら大きな岩のところに白骨がありました。  誰の遺骨か、残っていた衣服のきれっぱしで母が判断しました。  遺骨を前に声を出して泣きました。

戦争と言うのは悲惨なものです。  どんなことがあっても戦争だけはいけないと思います。 南部撤退がなければ亡くならないで済んだのになあと思います。  捕虜になれば我々みたいに生き残った。  いまでも戦争はなくならず、一番被害を受けるのは住民です。  今の状況は戦前の臭いがします。  戦争に参加しない、戦争を起こさない運動を広げるべきだと思います。










2025年8月6日水曜日

岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長)   ・14歳の地獄。被爆者救護の島で

岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長)   ・14歳の地獄。被爆者救護の島で 

8月6日広島原爆の日です。 爆心地から南東に6km広島湾にある周囲およそ5kmの金輪島、原爆投下直後大榮の被爆者がここに運び込まれましたが、その記録は乏しいのが実情です。  島には陸軍の船舶司令部が設けられ、当時14歳だった岡本教義さん(94歳)が勤務していました。  被爆者を船から引き揚げる作業で、自身も間接被爆、島は地獄のような光景となりました。  戦後は職を求めて松山市に移住したものの、病気や差別に苦しんだ岡本さん、60歳になり戦争の記憶を語り継ぐ活動をはじめ、現在は愛媛県原爆被害者の会 会長を務めています。 今年戦後80年を迎えて一層募る平和への危機感、その思いを伺いました。

9人兄弟の5番目、1945年3月に学校を卒業して、軍族となって広島市中心部の実家を出て広島港にある旧陸軍船舶司令部の寮で暮らしていました。  金輪島は日清日露戦争のころからの本隊の要塞で、日本の地図には載っていない。  軍事施設があるという事を公にはできなかったようです。  原爆が投下された時には、朝礼が終わって南西の方向でぴかっと光りました。  白い煙が真っすぐ上がって横に広がりました。  金輪島では間口10m長さ20mぐらいの倉庫、木工所が潰れました。(爆風と海のしぶき)   ありとあらゆるむしろ、毛布、テントを出すように言われました。  夕方3時ごろから船が広島から来るようになりました。  人をピストン輸送しました。  負傷者を船から持ち上げます。  肩を貸して手を持つと腕の皮膚がツルっと抜ける。  前は焼けただれるが、背中は綺麗なのでそこに手を添えて移動する。   自分の親や兄弟ももしかしたらそうなっているのかとふっと思いつきました。  水を持ってきて傷を洗ったりしてあげる。  何のためかと言うとそこにはウジ虫が沢山湧いているのを取ってやるためです。   恐る恐るやると上官が来て、親や兄弟そう思ったら手ぬるいことができるかと酷く怒られました。  

お母さんが一生懸命に子供に乳を飲まそうとしている。  しかし子供は息絶えているから口が開いてない。  名前を呼んで一生懸命飲まそうとしていた光景を思い出します。  火葬場に行く時の臭いは思い出します。  人間の末路かなあと言う臭いがしています。 魚の腐ったものよりもまだ悪い。  息絶え絶えに「水を呉れ」と言うので綿花に水を浸して飲ましてあげると、兵隊に見つかって怒られる。  「火傷をしている人間に水を飲ましたら死ぬんだ。お前はそういう事が判らぬか。」と言うんです。  14歳の子供にわかるわけないです。  いずれ死んでしまう様ならば水を飲ましてあげて、「美味しかった。」と言ってもらえればそれに越した事は無い。  目を盗んで水を飲ましてあげて、10分もするとその人はいきを引きとる。  そのことはいまだに気になってはいます。  医者は軽症者には水を飲ませてもいい、重傷者には飲ませないようにと言うが、人間1/3火傷をすると助からないという事は後々わかるが、水を飲ませたのが良かったのかどうなのか、教えてもらえません。 これは永遠に僕が死ぬまでもっていかなければいけない事かと思います。 

家族を捜すための許可を貰って、8月13日に広島市街に入りました。  焼け野原で歩いても歩いても瓦礫ばかりでした。  似ているなと思って声を掛けたら弟でした。  帰ったら両親もいました。  全員無事でした。  父親は喉頭がんで、戦後の生活はどん底でした。  食べ物には苦労しました。  電気工場に見習いに行きました。 (広島)  その後松山に永住することになりました。  

被爆者を介護する時に間接的に被爆しました。  喉頭がんが2回、舌癌が1回やっています。21歳のころに娘さんと結婚することになり、親に話に行ったら被爆者と結婚したら奇形児が生まれるから、結婚したらいけないと反対されました。 原爆手帖を持っている、原爆被害者と言うだけで結婚が出来ませんでした。  その後別の人と結婚することになりましたが、被爆のことは結婚後に嫁に話しました。   60歳になって定年になったら定年離婚となりました。  30年間辛抱してくれました。  

語り部になったのは愛媛県原爆被害者の会 に入ってからです。  60歳を過ぎてがんになった時に原爆のことなどいろいろ考えました。  病室で自身の経験をノートに書いてみました。   会長職を5,6年やっていますが、段々人が少なくなって平和運動が薄れていくのではないかと言う危惧をしています。  若い人に平和の尊さを噛み締めて欲しい。  選挙の投票率も少ない。  今自分がやらなくても他人がやってくれるからと人任せにして、これは一番危ない事です。 平和はどこから来ているのかという事を噛み締めて欲しい。  今の若い人は平和ボケしている、なんかおかしいですね。  戦争になる根本はどこにあるか、こういうことを考える若者は一人でもおりますか。  核兵器廃絶に関して理屈無し、絶対に持ったらいけない。  

去年ノーベル平和賞受賞、日本原水爆被害者団体協議会の活動が注目されましたが、全世界の人から核兵器の廃絶と言うものに対して、もっと目を向けなければいけないという警鐘のための尻叩きのものと僕は感じています。  80年は第一歩です。  今は小さな平和です。  今の平和はほころびています。 ほころびを糸と通そうか、抜こうか中途のところです。  情けない事です。  何べんもがんを患ってもなおかつ生かしてもらっていることは、まだまだ僕の努力が足りないから、もう少し頑張れもう少し頑張れと、生かされているのではないかと思います。  どんなことがあっても戦争だけは止めて下さい。













 

2025年8月5日火曜日

高橋昇一(占守島の戦い 体験者)      ・占守島の戦いを語り継ぐ

高橋昇一(占守島の戦い 体験者)      ・占守島の戦いを語り継ぐ 

数少ない生存者北海道小樽市に住む高橋昇一さん(103歳)。  高橋さんは昭和18年千島列島最北の島占守島に配属されました。   終戦3日後の8月18日未明島にソ連軍が上陸、終戦後の戦闘という事もありその詳細はほとんど知られていません。  80年前の夏、占守島で何があったのか。(占守島の戦い

占守島は昭和20年には日本の領土でした。  夏は濃い霧が出て冬は猛吹雪の厳しい島でした。  ソ連軍が上陸する前は、国境警備、陣地の設営、豪を掘っていました。  国境警備は望遠鏡でカムチャツカ半島のソ連兵の動きを観て報告していました。  陣地の設営ではトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語 10人ぐらいが入れる。)を作っていました。  豪は深さ1,2mぐらい幅は60cmぐらい長さは4~5kmぐらいはありました。  アメリカが毎日空襲に来ました。   機関銃を扱う部隊長として11人ほどの部下がいました。  

8月15日テントに30人程度集められて玉音放送を聞きました。  負けそうだなと言う話は何となく聞いていました。  占守島は穏やかな丘が続いて、草原や沼地があり島の北側の一部は砂浜。砂浜以外はほとんど崖で多くの岩礁がある。 四嶺山(しれいさん、標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。 18日の未明に巨大な輸送船が8800人のソ連兵を連れて竹田浜沖に現れました。  まさかソ連だとは思わなかった。  重装備していたので昼頃につきました。  第一分隊が先に行っていたが、我々が行った時には撃たれていた。   機関銃は4人で操作するものでした。  1分に600発出ました。  豪に身を隠しながら応戦しましたが、ソ連軍からは丸見えでした。  ソ連軍との距離は150mぐらいでした。  戦闘は夕方まで続きました。  21日に白い旗を掲げて四嶺山のところで停戦の交渉をしていたようです。   交渉を終わってその上官は車に乗って帰るところをソ連の兵隊に撃たれました。  

その後私は捕虜になりました。  取り調べ後に日本に返すという事を言われました。  700~800人が貨物船に乗せられれました。  夜の北斗七星を観て北に向かっていると気付きました。  シベリアのスヴェトラヤと言う町に連れて行かれました。  一番寒い時には氷点下50度になります。  身体検査をして身体が丈夫な人は1種、次は2種、3種に分けられました。  1種は山で木の伐採、2種は掃除など、3種は特殊な技能を持っている人。 8~9時間の労働でした。  朝はご飯、とキャベツのおつゆなど、昼は100gの黒パンと魚、力仕事には足りるなんて言うレベルではなかった。  テントのなかに25人ぐらいが寝ていました。  トイレは外に壁もなくむき出しで、むしろがあるだけで、順番待ちなので辛かった。  仕事のノルマに達しないと食事を減らされて、痩せて栄養失調になって行きました。 

亡くなった方を埋葬するのに穴が掘れないのでダイナマイトで爆破して埋葬用の穴を作りました。  伐採仲間も栄養失調のため一人が亡くなりました。 4年間の抑留生活をしました。 痛んだスコップの柄を利用して麻雀のパイを或る人が作り上げました。  それが唯一の楽しみでした。  生きるためには喰う事でした。  昭和24年帰国することが出来ました。  

ウクライナは可哀そう。  ソ連は勝手です。  早く辞めてくれればいいが。

今後ロシアが占守島に博物館を建設するという意向です。  あの戦争のことを後世に残すための博物館と言う事だそうです。  ロシアにとっていい話ばっかりになるのでは。  戦後80年、連絡を取り合う戦友はいないです。   戦争は悲しい。 戦争だけはどんなことがあっても駄目。






2025年8月4日月曜日

齋藤幸子(旧満州国開拓移民2世)     ・わが子を滝に投げた母 ~地獄の記憶を紡ぐ~

齋藤幸子(旧満州国開拓移民2世)     ・わが子を滝に投げた母 ~地獄の記憶を紡ぐ~

 山形県鶴岡市に住む斎藤幸子さんは満州で生まれました。  太平洋戦争の終わり、旧ソ連軍による侵攻から逃れて、日本に帰国しています。  その後自分が引き揚げ者であることを人に話すことはありませんでした。  戦後間もない食糧不足の時代、身寄りを頼って生きる引き揚げ者は肩身の狭い思いをしてきたためです。  しかし戦争体験を語る人が少なくなる中、後世に伝えたい思いが芽生えてきました。  7歳の時に経験したソビエト軍からの命がけの逃避行、それは軍に気付かれないように、母親が泣き叫ぶ生まれて間もない弟を、犠牲にするほど過酷なものでした。  戦後80年の今、斎藤さんが過去の記憶とどう向き合い振り返ったのかを伺いました。  

仏前に毎日ご飯とお水をあげるたびに、毎朝思い出します。  名前を呼び掛けますが、私だけが生きてきてごめんなさいという事です。  平和なところに住まさせていただいていることが申しわけないと思っています。  私は長女で二人の妹、弟がいました。  昭和14年4月8日満州で生まれました。  昭和13年に渡って中国人と共に生活はしていました。  昭和19年3月父が兵隊として取られました。  昭和19年9月29日に戦死して、その間に4番目の子供を身ごもっていました。   父は優しくて手が器用で遊び道具を全部作ってくれました。 

昭和20年8月9日、ほとんど着の身着のままで2台の馬車に分かれて乗りました。  母と私と弟でした。  日中に歩く時には身のまわりに草を刺して山の中を移動しました。  日中は隠れていてなるべく夜に歩きます。  或る時に寒いので焚火をしたら発砲が始まりました。 翌朝日本兵がふたりの女の子を連れてきて、どこの子かと言うんで見たらうちの妹たちでした。  血だらけで虫の息でした。 (6歳と4歳)  母が二人をおんぶしたと思います。 私は弟をおんぶしました。  2,3日後に山の中で二人は亡くなりました。  弔って直ぐあとにしました。  逃げるのに精いっぱいで妹たちのことはよく覚えていません。  それを今でも悔やんでいます。  

母についてゆくのが精一杯でした。   四方八方から撃って来るので皆さん亡くなります。  山の中での逃避行になると、食べ物が何にもなくなりました。  ブドウの蔓を食べたり葉っぱを食べたりして生き延びていました。  山の中では首をつって死んでいる人もいたし、小さな水溜まりに皆が駆け寄って飲んだりしました。  毎日毎日亡くなった兵隊の姿を観かけていました。   母はお乳がでなくなって弟がギャーギャーと泣くわけです。  泣き声を聞くと発砲してくるので、誰かの命令で始末するようにという事になりました。  山の中の滝のところに4,5人が立って「一、二の三」でそれぞれ子供を投げたんです。  沈んだり浮かび上がったり数回見かけて「洋一」と叫んだら、母から大きな声を出さないようにとたしなめられました。  みんなの犠牲になって落とされてしまって、今でも毎日涙しないといられないとことです。 (弟は1歳)   

生き延びるのには犠牲になってもらうほかないと思って、私も母に対して反対した覚えはありません。  母と二人になり、私も今日か明日かもという気持ちでした。  母には捨てられるのではないかという事は何回かありました。  用を足している間に母は歩いて行ってしまっていて、それに追いつく場面という事は何回もありました。  周りには子供がいなくなって身軽になっている様子を見て、自分にも子供がいなければ、と思ったのかもしれません。  流れの激しい川を渡ることがありましたが、私は母に肩車されて、数人で手を繋いで渡っていました。  その隊列に向かって「お母さん」と呼ぶ声があり振り返ってみると、ひろしちゃんが叫んでいました。  ひろしちゃんは生きていたんだと思っていたら、川の急流に流されて行ってしまいました。  助かっているのかもしれないので、 残留孤児が来るたびにひろしちゃんを捜しますが、見かけていません。  ひろしちゃんの母親がいましたが、一切見向きもしませんでした。(その時には皆自分のことで精一杯でした。) 

川を渡り終わったらソ連兵が発砲してきました。  そこでほとんどの人が亡くなりました。 (何十人、何百人)  たまたま生き残った私は銃を突き付けられました。  ここで死ぬのかなと思いました。  降参だと言いながら手をあげました。  母が「この子だけは助けてください。」と言っていました。 (「日本語)  母は私を日本に連れ帰ってくれました。   母には感謝しかないです。   弟のことに関しては戦中だったので仕方のない事だったと思うしかないと思っています。   

日本に着いたのは昭和21年9月8日のことでした。  母の実家には9年間暮らしました。 (中学3年まで)  引き揚げ者に対しては周りは冷たい眼で見ていました。(差別)  友達は作りませんでした。  戦争はあらゆる人を不幸にします。  弱いものを犠牲にする。  40年も戦争のことはしゃべらない様にしていました。   「救われた人は救う人になりなさい。」と母から言われました。   話を聞きたいという人たちが出てきました。  最初は思い出したくないので勇気が要りました。  亡くなった家族に対しては感謝しかないです。












2025年8月3日日曜日

太田ゆか(南アフリカ政府公認サファリガイド)・南アフリカで、人と自然をつなぐ

太田ゆか(南アフリカ政府公認サファリガイド)・南アフリカで、人と自然をつなぐ

 太田さんは1995年アメリカロサンゼルス生まれ、神奈川県育ち。 立教大学観光学部に在学中に南アフリカのサファリガイド訓練学校に入学し、現地の資格を取得、大学卒業後の2016年からグレータークルーガー国立公園にてガイドとして活躍しています。  ガイドの傍ら罠にかかった野生動物を救助、密猟からサイを守るためのプロジェクトなど野生動物の保護活動にも取り組み、そうした野生動物を取り巻く現状とサバンナの魅力を広く伝えようと、動画やSNSなどを使って積極的に発信しています。  2023年にはその活動の様子を綴った「私の職場はサバンナです」と言う本を出版しました。 

南アフリカの北東部に位置するクルーガー国立公園に広さは四国がすっぽり入ってしまうぐらいの広さです。  アフリカでも有数の保護エリアになっています。  哺乳類は114種類、鳥類は960種類ぐらい、虫は2万種ぐらいいます。   南アフリカは今は冬です。  朝は4℃ぐらいまで下がって、昼間は30℃ぐらいまで温かくなります。  動物たちにとっては厳しい季節になります。  乾期なので段々干上がってゆく水の中でどうやって生きるか、と言った感じです。 

サファリガイドとしては、世界中から野生の動物を観たいお客さんが来て、四輪駆動のサファリカーに乗ってもらって、広大なサバンナの中で動物を見つけ出すのがメインの仕事です。 見つけ出せたらこの動物に関するいろいろなことを解説します。  水場とか、なわばりをもつ動物がいるので、そういったところを重点的に探します。  後、音も頼ります。 寝ている時もいろいろな音が聞こえてきます。   サバンナなので不便なことは一杯あります。   ものが壊れたりすると自分で直すのが当たり前です。   棘が多いので服に穴が開くのは当たり前です。(いちいち直さない)  南アフリカのご飯は美味しいです。  普通の洋風のご飯と言う感じです。  

小さいころから自然と動物が大好きでした。  環境保護に興味を持つようになって、たまたまネットで見つけたアフリカでのサバンナ保全プロジェクトに参加したのが初アフリカのタイミングでした。   こんなところで働けたらいいなあと感じました。  サファリガイドと言う仕事があることを知りました。   大学3年の時に休学して1年間サファリガイド訓練学校に入学し、現地の資格を取得しました。  実技系と筆記系があります。  出会った時の動物との距離の取り方、安全に観察することが一番大切なので、現場でないと学べません。  種類ではなく個体によって反応は違います。  動物の気持ち、表情、ストレス感、とかを読み取るというのも訓練学校だから学べるものです。  8割は南アフリカ人で、2割は外国人と云った感じです。  英語が出来なかったので周りに助けてもらいながら勉強しました。 

都会では感じられない贅沢な生活があると思います。  自然のリズムに沿って暮らす事は本当に人間にとって必要な事だと思います。  個体認識できるようになると、同じ動物でもそれぞれ違う性格、特徴があります。  

*像が水を飲むときの音  録音を聞く。 鼻で吸って貯めて口に放出する。 綺麗な水を吸いたいので水面にそっと鼻を近づける。  

常にアンテナを張るのが日常です。  ライオンの足跡が古いか新しいか、時系列を判断する事はサファリガイドの必須のスキルです。   ウンチが一番重要です。  ウンチを開くと何を食べたのかとかいろいろな情報が判ります。   

サバンナでの環境の変化は、乾燥した地域に行くと気候変動の影響は顕著に出ています。  10年間近く干ばつが続いているところもあり、草が生えなくなっていて、草食動物がいなくなり、肉食獣も減って行きます。  ライオンも村の家畜を襲うようになります。  人とライオンの殺し合いみたいになってしまいます。  

  








2025年8月2日土曜日

桂文枝(落語家 六代)          ・落語家60年目にみる景色(後編) ~落語家として生きて~

桂文枝(落語家 六代)   ・落語家60年目にみる景色(後編) ~落語家として生きて~ 

大坂出身82歳。   母一人子一人で、母の兄弟に預けられて育ちました。  姉の叔父さんに連れられてNHKの第一スタジオの「お父さんはお人よし」を観て笑いに目覚めました。  高校になって演劇部に入って先輩に直井さん(レッツゴー3匹の真ん中にいるレッツゴー正児さん)がいました。  漫才を観て面白そうだなと思いました。  自分で書いて相方と始めたのが漫才でした。  直井さんがプロになってはじめた時の相方が横山やすしさんでした。  その後別れて最終的に横山やすしさんがきよしさんと組みました。  その年に私はこの世界に入りました。  私と組んだ相方が漫才を辞めることになり私は大学に入りました。 大学の2年の時に落語研究会を作ろうという話もあり、桂米朝師匠の公演を観て、感銘を受けました。

落語研究会を作ることに参加しました。  部長になって浪漫亭ちっく」の芸名を付けて授業にはあまり出ませんでした。    この先はと思った時には落語しか頭の中にはありませんでした。  プロになるように回りから言われてプロになりました。   同じ世代の人に聞いてもらうのと、世代の違ういろんなお客様に見せるのとこれほど違うのかという事を、厭と言うほど思い知らされました。  師匠の言うとおりにやっても受けませんでした。  受けるにはどういたらいいのか、悩んで悩んでやり始めて受けるようになってゆくというのが良かったと思います。  深夜番組に出るように師匠から言われて、いったら同年代層の人たちで、学生時代と同じような感じでやったら、凄く受けプロデューサーに気に入っていただきました。  

ラジオに出て有名になって、レギュラーが10本ぐらいもありました。  落語もやらないといけないという思いもありました。  長門裕之さんからいっそ落語を辞めて、司会者などになったらどうかと言われました。  悩みましたが、初心は忘れてはいけないという事で長門さんには落語を続けていきたいと話しました。  座布団を5枚贈られてきました。 合間合間に稽古をやり続けました。   「新婚さんいらっしゃい」で司会をやり始めて、51年3か月続けてやりました。  落語の話し方とは違う話し方をしているうちに、自分で落語を作ってみようと思いました。  意外と作ることができました。  創作落語現代派と言う名前をつけて頂き、声を掛けてさんまさんとか鶴瓶さんも出ました。  そこからずっと続いていきました。  いろんな創作落語をやってきました。  古典をこんな風に枝雀さんがされるようなものになったら私は到底出来ないなあと思って、新しい落語を作り出しました。  枝雀さん古典に戻りましたが、私は古典落語に戻る暇もなく創作を続けてきました。 

60歳の時に上方落語の会長に就任しました。  上方では60年振りとなる天満天神繁昌亭を開場しました。  上方落語家も300人に近づく勢いになりました。  上方落語を観ていて非常に危うい感じになって来ました。  落語を何とかせねばいかんと言う気概がちょっと薄れているような気がします。 また漫才に押されているという面もあります。  漫才へはいろんなところで1万組ぐらいが応募します。  落語は300年の歴史があり、10ぐらい覚えたら十分にいろいろな仕事が出来るんです。  それだけで満足してしまうと言うきらいはありますね。  漫才は苦労して苦労して頂点を目指してやっている。  まくらがあって本体があって下げがあって一つの落語ですが、どこに山を持っていくかとか、落語界のなかに教室をもって、次の世代の人のためにやってみようかなとは思っています。 

落語家がなかなか出て行けるところがないので、お客さんの前でしゃべるという事が大事なので、正統にやって欲しいと思います。  そういった場を増やしていきたい。  最後の最後まで落語に関わって、最後の最後まで落語をやって行きたい。  面白い落語を必ず500作完成させたい。















 

岡本知高(ソプラニスタ(男性ソプラノ歌手))・ソプラニスタの声が響くとき

岡本知高(ソプラニスタ(男性ソプラノ歌手))・ソプラニスタの声が響くとき 

岡本さんは高知県宿毛市出身。 その澄んだ高音と圧倒的な存在感でクラシックの枠を越えておおくのファンを魅了してきました。  宗教曲やオペラはもちろん、日本の唱歌やポップスなど幅広いジャンルを歌い、そして個性あふれるキャラクターと華やかな衣装でも注目を集めています。  岡本さんのこれまでの歩みを振り返りながら、声を通して音楽の楽しさや力をどう伝えてゆくのか、その思いに迫ります。

身長は175cmあります。  ヒールが5cmで衣装も大きいので巨大に見えます。  岡本さんは変声期を経てもなおソプラノの高音域を自在に響かせるという、世界的に稀有な男性ソプラノ歌手です。  国立音楽大学を卒業後にパリ市立プーランク音楽院を首席で終了しています。  奇跡の歌声と評される歌声は聞く人の心の奥に優しく届いていきます。 クラシック界はもちろんですがあらゆるジャンルのファンを魅了しています。  印象に残っているのは2021年の東京オリンピックの閉会式でオリンピックソングを歌いました。

*「ボレロ」  作曲:モーリス・ラヴェル  歌:岡本知高

ソプラニスタ(男性ソプラノ歌手) 少年のボーイソプラノもソプラニスタです。  裏声でソプラノを歌える方もソプラニスタです。  僕の場合は生まれつきのソプラノです。  足がちょっと痛い痛いと思っていたら、先生の診断ではペルテス病という股関節の難病でした。  小学1年生から4年生までの間、家族と離れ特別支援学校で過ごしました。  皆親元を離れて施設に集まって生活をしているという同じ条件ですし、皆障害と向かい合って戦っているので我慢を抱えているんだけれど、でも逞しいんです。  身体が動かせなかったので、夜になると先生方が歌を歌う時間を設けてくださいました。  僕にとっては大きな最初のステップだったと思います。  地元に戻って5年生からピアノを習いはじめました。中学では吹奏楽部に入りました。   サックスを担当することになりのめり込んで行きました。  音楽の先生になりたいという思いが湧いてきました。  高校も吹奏学部でした。  

楽器から教育の受験コースに転向しました。  入試科目に声楽がありますので高校3年で声楽の門を叩きました。 (愛媛県宇和島市 神﨑克彦先生)  ソプラノは声が出るが、低い声にチャレンジしたんですが、駄目でした。  その場で国立音楽大学の瀬川先生に電話をして東京に行くことになりました。  特殊な声で個性的なので声楽科を受験してみてはどうかと薦められました。  入学後声楽の基本から習いました。  大学4年でデビューしました。日本初演のドイツ捕虜兵たちの演奏(徳島県鳴門の収容所)を再現した第九でした。  君の声はカウンターテナー(裏声)じゃあないと言われました。 カウンターテナー(裏声)は緻密なテクニックの上に成り立っている。  ソプラニスタという言葉を知って、ソプラニスタと名乗って大学の卒業のコンサート(成績上位者)で歌って卒業しました。

国立音楽大学を卒業後にパリ市立プーランク音楽院を首席で終了しました。  先生にたどり着くまで13人でした。  もっと広いジャンルに向かった方がいいと言われました。  フランスではフランス語を大切にする国なので、自分では日本語を大切に歌う歌手になりたいと思いました。  日本に帰ってきて「スタジオパークからこんにちわ」と言う番組でした。  そこから芸能の道が広がって行きました。   歌が好きだという事が心の根っこにありました。  歌はオペラであれ、歌謡曲で有れ、僕の中では一緒で境目がないという感じです。

学校訪問コンサート、神崎先生から誘われて宇和島の体育館のコンサートで歌ったのが、僕の初ソロコンサートでした。  肥っていたので生地を買ってきて自分で工夫して衣装を作り始めました。  衣装は良かったが首から上に違和感がありました。  化粧も工夫してやがて顔と衣装が一体化したという瞬間が訪れました。  大学時代は勉強でしかなかった歌が、今は人に喜んでいただけることが嬉しくて、お返しするものだと思ってステージに立っています。  奥深さは年齢を重ねた方が出ると思います。  歌はうまいからいんじゃなくて、そこになる味わいに、歌っている自分、聞いて下さる方々が心を震わせた時に、歌の魅力が生まれると思うので、味わい深い歌が歌える歌手でありたいと思います。

*「あなたに太陽を」  Kiroro玉城千春書き下ろし新曲  歌:岡本知高










2025年7月31日木曜日

澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

 澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

1996年の夏の甲子園の決勝、愛媛県の松山商業対熊本工業の試合。  同点で延長戦となり、絶体絶命のピンチとなった10回の裏を奇跡のバックホームと言われた好プレーでしのいだ松山商業が延長11回に勝ち越して熊本工業を破り27年振り5回目の夏の甲子園優勝を飾りました。  この時の松山商業の監督が澤田勝彦さん(68歳)です。  澤田さんは愛媛県松山市の出身で、松山商業、駒沢大学で活躍し、1980年に母校松山商業のコーチに就任、1986年夏の甲子園準優勝を経験した後、1988年9月に監督に就任しました。  監督としては春夏併せて6回甲子園に出場し、96年夏の甲子園で優勝、2001年の夏の甲子園ではベスト4進出を果たしました。  その後愛媛県の北条高校を定年まで勤め、松山商業野球部OB会の顧問として部を支えています。

1996年の夏の甲子園の夏の優勝から来年で30年になりますが、あっという間でした。  奇跡のバックホームと言われるが、いろんな要素が含まれていると思います。  起用に彼が答えてくれた事には監督と選手との信頼関係があったとか、彼の練習を実証してくれたとか、様々なことを表してくれた、そしてその後の後輩に対してもいい教訓を与えてくれたことを含めて色々な要素があるバックホームになったと思います。 

私の高校時代は全国制覇を成し遂げた一色俊作監督、大学時代も全国制覇を成し遂げた太田誠監督と言う名将から指導を受けました。  学んだことを一言でいうと人間力だと思います。  野球をする以前に人としてどうあるべきかと言う事を叩きこんでいただいたと思います。  「目標は全国制覇、目的は人間形成」と言うスローガンを監督となってから掲げました。   ワンプレイごとに必ず人間性が出てくると思いますから、人間性を磨いておかなければ、特に土壇場の境地におかれた時には、人間力、人間性と言うものが如実に表れます。   信頼関係は一日二日で出来るものではありません、一日一日の積み重ねです。   

雪が降る真冬に上半身裸になってノックをやったという時もありました。  二人でノックをやっている時にショートのキャプテンの水口(後年近鉄に行く)が、急に上半身を脱いで「こいや」と叫んだら、内野の選手からボール拾いの選手まで全員が上半身を脱ぎました。 あの光景はいまだに忘れません。  彼の統率力が出ました。  当時の監督と私の目が合って自分らも脱がなければ駄目だと思って上半身を脱いで熱く盛り上がりました。

96年の夏の甲子園に出場、10年振りの決勝進出を果たす。  東海大三高さんに一回戦で8-0と勝てたことが、すべてのプレッシャーから解き放たれたと思います。  2期連続一回戦敗退と言う事でしたから。  決勝では熊本工業で初回に3点を取ることが出来ました。(押し出しが2点)   2回、8回に一点ずつ返される。  9回裏2アウトランナー無しと言うところで、沢村選手に同点ホームランを打たれる。  相手は10回裏に2ベースヒットを打って、この場面でピッチャーをエースの新田投手から渡辺投手に変える。

送りバントで1アウトランナー3塁、1番バッター、1番バッターを敬遠して満塁策を取る。  ピッチャーの後ライトに回っていた新田選手から矢野選手をライトに変える。  次が3番の左打ちの好打者だったのでライトが気になった。   後のピッチャーのことをことを考えるとどうしようかなどと頭がぐるぐると廻ったが、直ぐ決断をした。(矢野選手をライトに変える事)  打たれた瞬間に終わったと思いました。  矢野選手はフライ(逆風で失速)をキャッチしてダイレクトでホームに返球した。  

矢野選手は普段からバックホームが苦手な選手でした。(チームメートからも信頼を置かれないような選手だった。)   判定はアウトになり難を逃れる。   矢野選手は同級生から土下座されて辞めてくれと言われて(私は彼らの卒業後に知った。)、こたえたと思います。  自分への不甲斐なさの葛藤もあったと思います。 全てがあの一投に出たと思います。  矢野選手が11回の表に2ベースヒットを打って、そこから3点を取って6-3で松山商業が27年振り5回目の優勝を飾る。 

「勝機一瞬」勝ちに結びつけるためには一瞬を大事にする。  どう取り組んで、どういう生活をして行かなければいけないのか、磨かれた人間力が成績に現れたことと思います。   高校野球はひたむきさだと思います。










   

2025年7月30日水曜日

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない 

志の春さんは大阪の出身。  父親の転勤で8歳から3年間アメリカニューヨークで過ごし、帰国後千葉の高校からアメリカのイエール大学に留学、卒業後商社で鉄鉱石を扱う部門で働きます。  2001年に偶然立川志の輔さんの落語を聞いて衝撃を受け、商社を辞めて落語家の道を歩む事になります。  26歳で志の輔さんに入門して、2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  古典、新作とどちらも見事にこなす今注目の落語家です。  また英語で落語をする英語落語で海外の人たちにも喜んでもらうなど、新しい試みを行っています。

昭和51年生まれ、48歳です。  師匠は二刀流なので新作もやるように言われています。   新作を自分で作ってみると古典がどれだけうまくできているかと言うのを、再確認できます。  手持ちは古典が120ぐらい、新作が50ぐらいです。  新作は一回やった後、練り上げてゆく事が必要ですね。  子供の頃は相撲が好きでお相撲さんになりたかった。  スポーツは好きでした。  父親の仕事の関係で8歳の時にニューヨークに行きました。  順番にクラスの仲間から英語を習って、聞く方は半年、1年で出来るようなりました。 

帰国後、千葉県柏市で育つ。 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校と楽しく過ごしました。     イェール大学に留学しました。 (親は猛反対でした。)   イェール大学に行くことは、英語が全く話せない8歳の時の恐怖の時の方が大きかったです。  大学では中国史を選択しました。  日本のことをもっと知りたい、経験したいという思いがありました。   日本通の友達から日本映画のことなどについて衝撃を受けました。  帰国後三井物産に入りました。  鉄鉱石を扱う部門に配属されました。  2年後に立川志の輔の落語と出会いました。落語ってこんなに面白いものだという事に度肝を抜かれました。(25歳)  その後落語一色の日々になりました。  

立川志の輔師匠に履歴書をもって会いに行くことになりました。  会社勤めを続けながらアマチュアとして落語を楽しむ方が、一番幸せではないのかと断られました。  会社を退職して再度会いに行きました。  弟子ではなく見習いと言う立場でスタートしました。  今やっておかないと後悔をするという確信はありました。  3番弟子となったのが26歳。 2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  カルチャーショックでした。 アメリカでは褒めてのばすようなやり方に対して真反対でした。  気を遣うという事はむずかしかったです。  13回も破門されるようなことがありました。 

英語落語をやっています。  基本は海外に行ってやると言う事ですが、日本でも日本人と外国人が混ざったような会場で行います。  基本的には古典落語を訳してやっています。   げらげら笑うし、泣く時にはワーワー泣いているし落語の力を感じます。  AIで訳した古典落語を見せてもらったことがありますが、結構いい線いっているんです。  落語家になることに反対していた両親もよく見に来てくれています。  弟は大学卒業(オックスフォード大学数学科)後、劇団四季に6年ぐらい在籍して、今はミュージカルのプロデュースをしています。  子供の頃に新しい環境に入ることがそんなに怖くないという免疫が付いていた、それが今に繋がっていると思います。  出来るだけたくさんの古典落語を訳して、普遍性が備わっているからこそ、どの国の人が聞いても面白いし、人種、宗教観、とかがもろもろの人たちが同じ場で笑えるのが落語の笑いだと思うので、やって行きたい。  新作も普遍性が供えているものを作れるというのも一つの目標です。 







2025年7月29日火曜日

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

 永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

永田さんは1947年生まれ、千葉県出身。  湯川秀樹博士に憧れて京都大学に進学し、同時に入会した京大短歌会で後に妻となる歌人河野裕子さんと出会いました。  短歌と科学の2足の草鞋を履き続け39歳で京都大学の教授となります。  短歌では迢空賞、現代短歌大賞を受賞、又研究では日本人として初めてハンス・ノイラート科学賞を受賞するなど、どちらの世界でも第一線で活躍して来ました。  現在は宮中歌会始の詠進歌や新聞歌壇の選者、宮内庁御用掛、JT生命誌研究館館長を務めています。 2010年に妻の河野裕子さんが亡くなってからは二人の思い出を作品として発表し、ドラマ化もされました。  永田さんは今年の春、エッセイと短歌で綴る「人生の後半にこそ読みたい秀歌」を出版しました。   河野さんを亡くして15年ご自身後期高齢者となり、老いを迎えるための人生観を古今の短歌に探りました。

細胞生物学者と言うのは、細胞は一番小さな生命の最小単位ですが、細胞が生きて行くためには、細胞のなかにはタンパク質だけでも10万種類ぐらいのタンパク質がそれぞれの役目を果たしながら細胞の命を支えているわけです。   それぞれのタンパク質がどのような働きをして、細胞が生きて行くためのこの部分にこんな仕事をしているというのを研究しているわけです。  コラーゲンが作られるためには作るのに別のタンパク質が必要で、私が見つけた分子シャペロン(分子介添え役 さまざまな物質で混み合った細胞内で、フォールディング途上の不安定な中間体や熱で変性したタンパク質が凝集にならないようフォールディングを助けているタンパク質が存在します。) はアメリカ留学中に見つけました。  この研究を長くやっていました。   

タンパク質はアミノ酸が連なったものですが、間違って不良品のタンパク質が出来ます。  そのままにしておくといろいろな障害が起きます。  例えばアルツファイマー病、パーキンソン病とかいろいろな神経変性疾患を起こす。  間違って作られた不良品のタンパク質を如何に除いてやるか、元に戻してやるかという事がとても大事で、これをタンパク質の品質管理と言います。  間違って作ったら直そうとしますが、どうしても直せなかったら分解してい仕舞う、こういう品質管理の機構が働いています。 それに関わる新しい遺伝子をいくつか見つけました。  サイエンスの面白いのは一つ答えが出た、やったと思うと必ず別の問いが出てくるんです。 

歌の方で言うと、或るものを見た時に自分だったらこんなふうに感じるだという、自分だけしか感じられない思いが出てくる。  それを言葉にして表現できるのが非常に楽しいです。2つのことをやるというのは、後ろめたさ以外なかったですね。 

「人生の後半にこそ読みたい秀歌」  人生後半、老後と言うのはどんどん面白くない人生になってゆくようなイメージを持ちます。  後半の方がいろんなバラエティーがあって、年齢、時間に裏打ちされた感じ方の深さがあって、この一冊にしてみて自分で発見でした。

動物は性の成熟年齢と言うものがあって、子供が生めるようになる、子供が生めるような年齢から最大寿命は大体5~6倍とだいたい決まっている。  人間だけがそれよりもはるかに長く生きる。  生命にとって一番のミッションを解かれたあとの生の時間をどんなふうに生きるかという事は、最近になってようやく直面した問題でもあるわけです。  人生後半になって詠んだ歌を読んでゆくというのは、とても大きな示唆、ヒントを与えてくれる。

「人は皆慣れぬ齢を生きているゆりかもめ飛ぶまるき?曇天」  私の娘の歌

皆初めての齢を生きているという事に気が付いた歌。 人生の後半もいろんな後半があるんだよという事を紹介したい。  共感と自分にないことに対しる驚きと言うのは歌を読んでいくと色々あります。  

「明かる過ぎる秋の真昼間百円の老眼鏡をあちこち置く」  共感できる。

「銀行の監視カメラにお辞儀して嬉しくおろす初の年金」 

「老衰をわがするまでにかかるという数千万円を悲しく思う」  稼ぎつつ老いて行かなければならない。  どんなふうに人生設計しなければいけないのだろうか、と言った歌。

この20年気が付いた歌に介護のジャンルの歌が大きな割合を占めるようになった。

「浅き眠りの父をかたえに?読みふける介護の歌なき万葉集」  言われてみるまで考えたことがなかった。

「初めてのおむつをした日母が泣いた私も泣いた春の晴れた日」  こういう時代になったんだなとよくわかります。  こういった経験をした人は多いと思います。

妻が亡くなりましたが、ありえないことが起きたという感じでした。  がんの歌を作ると妻が死ぬという事をどっかで思い浮かべながら作ることが多いので、作らなかったんですが、再発してからはそうも言っていられなくなり、

「歌は残り歌に私は泣くだろういつか来る日をいつかを恐る」?  普段の言葉では言えないが、私の歌を読んで気持ちを一番よくわかってくれただろうと思います。

「お父さん頼みましたよわが髪を撫でつつこらえ残せし言葉」  亡くなる2,3日前の歌です。  

娘の言った言葉に、「歌を一首つくると時間におもりが付く。」と言いました。  一首作るとその時の時間がありありと思い出される。  歌がなかったら思い出なんてどんどん少なくなっていって、限られた思いでしか残らない。  他人の歌なのだけれども、自分の思い出としてよみがえって来るという歌がいくつもあります。  

「逝きし夫(つま)のバックの中に残りし二つ穴空くテレホンカード」                  今亡くなろうとしている人に「ありがとう」と言う言葉を伝えるくらい難しいことはないですね。  言ってしまったら別れを告げるに等しい。  

市川康夫?先生の所へ亡くなる前の日に行ったことがあります。  先生にはご厄介になったので「ありがとう」の一言が言いたくて行ったんですが、ついに「ありがとう」は言えませんでした。  「また来ます。」と言って病室を出たら、先生が「永田君 ありがとう。」と叫んだんですね。  私からも「ありがとうございます。」と言ったつもりでしたが、嗚咽の方が酷くて伝わったかどうかわかりません。  その夜に亡くなりました。 先生の「ありがとう」がその後の私を支えてくれたと思います。

人生後半、気を付けないと自分の生活圏がどんどん狭くなってしまう。  刺激が少なくなって、喜怒哀楽が少なくなって面白味のない人生になってゆく。  いろんなものに共感するという事がとても大事です。   共感力を如何に高めて行くかという事が人生の後半でとても大事な事だと思います。   私は酒が好きなので酒の歌を結構作っています。  若山牧水は酒が好きで一日一升飲んでいた。   僕もそのくらい飲んじゃいます。  

「足音を忍ばせて行けば台所に我が酒の瓶は立って待ちおる」

寂しがり方が15年経つと段々違ってきます。  初め大きな欠落感がありました。

「あほやなあと笑いのけぞりまた笑うあなたの椅子にあなたがいない」  笑い出すと止まらない妻でした。  今の自分を観てくれているひとがいない、その寂しさが大きいです。  私は外で食べるという事が出来なくて、買ってきたもので食事を作ります。  作ることはできなかったので、妻が料理の仕方を教える取ったんですが、拒否しました。 それは妻の死を認めるという事になってしまうので。  独りになって段々作れるようになってきました。  今の自分を観て欲しいし、褒めて欲しい。  褒めてくれる人がいないという事は悲しい事です。  

宮内庁御用掛  3代前には直接皇居に行って、お会いして指導されていたようです。     以降はファックスになりました。  私の代からはメールが主になりました。   皇族の方々はメールで歌を送ってこられます。 

美智子様は現代に百人の歌人のなかにいれた方です。  未発表のものを私の方で選んで「ゆふすげ」と言う歌集になりました。  

「まなこ閉じひたすら楽ししたのし君のリンゴ食みいます音をききつつ」  皇太子のころにリンゴを食べている、美智子様が目を閉じて音だけを聞いている、それだけで楽し楽し。 

ヒントを差し上げるというスタイルで行っています。

二足の草鞋を履くという事には後ろめたさがあって、両方進めてゆくためには睡眠時間を削るしかないですね。  今でも朝4時ぐらいまで起きています。








2025年7月27日日曜日

中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山さんは1967年生まれの57歳。  5歳の時に当時大人気だったフィンガーファイブに憧れて芸能界を目指します。  1985年お笑いコンビ「ABブラザース」としてデビュー」その後ソロとして活動を続け今年芸能生活40周年となりました。  数々のピンチをチャンスに変えて来た芸能生活について、又今年カンヌ映画祭で作品展を開催したライフワークの書道について伺います。

15歳で上京、今年で40周年。  今年カンヌ映画祭に書道家として御招待頂きました。   去年個展を群馬県でやりました。  去年の暮れに電話がありました。  デジタルアートをやっている赤松裕介君からでした。  彼は40年前、僕の家に下宿していたんです。  カンヌでコラボやりましょうという事でした。(詐欺かと思いましたよ。)  書道を始めたのは小学校1年生です。  小学校2年生で県に出展したら大きな賞を頂きました。  小学校、中学校と大きな賞を頂きました。  上京して以降時間がなかなか取れなくなってきて余りやっていませんでした。  子供には書道を習わせようと思って、そのついでに自分でも習い始めました。  毎日書道展で入選しました。  書道は自分の中では芯ですね。  個展をやらなかったらカンヌもなかったわけで、今やりたいと思う事はやろうと思いました。  40周年で自分の青写真をパンパンに埋めた感じです。

5月に「気くばりのススメ」と言う本を出版しました。  1か月で3万1000部突破しました。  まずは本気で相手の意見を聞いて、柳のようにしなやかに最後に自分の意見を言う。  徳光さんは話術、技術が凄いのは当たり前ですが、気配りの面で言うと、歌の特別番組で歌手の人は60名ぐらい出るわけです。  「中山秀ちゃんご丁寧にありがとう。」と言うんです。  どうしてかと思ったら徳光さんがゲストの方に手紙を書いていて、 僕の名前と竹下さんの名前が連名なんです。  手書きで書かれていて、凄いなあと思いました。

志村けんさんと出会ったのは30歳前でした。  良い言葉を一杯貰いました。  「いつまでも馬鹿でいろよ。」と言う言葉で「お前は司会をやったり情報番組などをやってゆくと思うが、知識が入って勘違いしてゆく。  そうすると人からみて上から目線になってゆく、上から目線になったら絶対駄目だから気を付けろ。」と言われました。  司会者はかっこよくやりたいという思いがどうしてもある。  

「週刊金曜日」と言う萩本欣一さんの番組があり風見慎吾さんがバンドを勇退することになり、新メンバーを水面下で募集することになりました。  僕が16歳の時でした。  今週のゲストは聖子ちゃんなので、トランペットで「赤いスイートピー」吹いてくれる?と言われました。  トランペットは吹いたことはなかったんですが、夜までには吹けるようになりました。  金ちゃん番組?と書いてありました。  意味が分からなかった。  「実は風見さんが戻るという事になりました。」と言われました。 (脱退無し。)  ピンチに落ち込むことはあると思いますが、しょうがないと思って、面白い方に振ってみる。  自分で深みにはまらないようにしているのかもしれません。 

ピンチをチャンスにその①  呼ばれてもいないのに上京して栄養失調になった16歳。  フィンガーファイブに憧れ、中学2年で劇団にはいります。  3か月でテレビに出ることが出来ました。  行けそうだと思って上京したが、その後は受からなかった。  栄養失調になってしまいました。  倒れて病院に行ったら栄養失調と言われました。  オーディション雑誌から片っ端から受けて、その一つが大手の渡辺プロダクションでした。  

ピンチをチャンスにその②  歌も芝居もイマイチで、バラエティー班にぎりぎり引き取ってもらう。  譜面も読めないし楽器も出来ないし、芝居の方がいいのではないかと言われました。  芝居をやり出したら芝居もイマイチだなあと言われてしまいました。  バラエティーは最後の砦でした。  高校から帰ってくるとレッスンを毎日やりました。  そのなかには作家志望の三谷幸喜さんもいました。  1985年、同プロダクションの松野大介さん(現在は小説家)とコンビ『ABブラザーズ』を結成しました。  

渡辺プロダクションの社長が亡くなってから、変って行きました。  社員も辞めてゆく人たちが居ました。  先輩たちも辞めていきました。  クレージーキャッツは残って、俺と松本明子だけになってしまった状態でした。(20歳)    チーフの塩崎さんが、ここをチャンスにしようじゃないかと言う考え方でした。   それ以降渡プロの形が随分変わって行きました。   今では一番大きいのはバラエティー班です。  

ピンチをチャンスにその③   お笑い第3世代の波に飲まれて負けを認めた。  第3世代は「ダウンタウン」「ウッチャンナンチャン」 などでした。  連中は小さい時から志が一つで来ている、もうやらなくていいよと言われました。  ただ一人としてはこれからが勝負だと言われました。  自分の戦い方を見つけようと思いました。  歌、ドイラマなどをトライしました。  辞めたいと思ったことは一回もないですね。   テレビでは一人ではできなくていろいろな人が時間をかけて作ってきたものを僕たちは演じているわけで、丁寧に表現してあげたいと思っています。  書道も個展をやろうと思っています。










 








2025年7月25日金曜日

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)     ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは?

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)  ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは? 

鴻巣さんは1979年生まれ。  一橋大学大学院を修了後、ソーシャルワーカーとして精神科医療機関に勤務、東日本大震災の被災者、避難者支援を経て2015年福島県白河市に非営利団体「KAKEKOMI」を立ち上げ、地域に暮らす生きづらさを抱えた人たちの支援の携わっていましたが、鴻巣さんは人間関係のトラブルやもやもやの多くは、自分と相手との間にある心の境界線、バウンダリーを侵害したりされたりすることで生じると語ります。  自分や相手のバウンダリーを守るのにはどうしたらいいのか、子供と良好な関係を築くため気を付けたいことなどについて伺いました。

非営利団体「KAKEKOMI」 ミッションとしては社会的な孤立と言うものを防止しようという事です。  活動としては大きく分けて2つあります。  ①子供食堂 週に一回子供、大人を含めて一緒に食べましょうと居場所を作る事業。  ②貧困、暴力などから抜け出したいが難しい人たち(女性)を対象としたシェルターを運営しています。 2015年に子供食堂を作りました。  私自身子供の頃いじめを経験し母親(外国人)にも相談できずに、居場所がありませんでした。   困難から遠ざかることが出来なかった。  食へのいろいろな困難さがあったので、作ったわけです。  私は料理は大好きですが、私自身は余り作らず子供が作ったご飯を、大人がお金を出して食べるという、変った子供食堂です。 高校生のスタッフたちが中心になって料理をして、小さい子が絡んできたりします。 

子育て中の母親にも気楽になれる場所があってもいいと思います。  良いことをする前に、害になることを辞める。  その子の容姿、体形などに一切コメントをしない。  許可なく身体に触らない。  性別で役割を押し付けない。 勝手に予定やルールを決めないなど。   小学生でダイエットをしたいとか、整形したいとかと言う声が珍しくないです。  身近な人たちから体形、容姿をからかわれるとかがきっけけになることがあります。  SNSとか広告が強く影響していると思います。   

バウンダリーは自分と他者との間にひく、お互いを守るために越えてはならない存在する境界線のことです。 (心の境界線)   赤ちゃんが生まれてから段々と親との境界線が育まれて行きます。  それが段々広がって行き、それぞれとの中に境界線が少しづつ構築されて行きます。  バウンダリーの太さ、強度は一定ではないです。  バインダリーの調節機能が壊れてしまうと、自分に対して嫌な事いじわるなことを言ってきても、境界線が緩くなってしまうと、その人の言っていることを全部受け入れてしまい、自分は駄目なんだと落ち込んでしまう。  反論も出来なく、厭なこと受け入れてしまう。  

無意識のうちに親が子供のバウンダリーを侵害していることは結構有ります。  大人の考える美醜の基準でジャッジしたり、子供の趣味を否定したり、意見を押し付けたり、子供に失敗を責めたり、いろいろあります。  つい心配から口出ししてしまう事は多いと思います。  親が道をしっかり整えた上を子供が順調に歩けたとしても、果たして子供自身は自分自身の力で歩って来たのか、誇れる様になるかどうか。  子供には躓いて欲しくないという思いは当然持っていますが、そのことばっかり力を注いだら、世の中の傾向が強まるだけで、変な世の中になってしまうので、その大人のエネルギーを何度躓いてもいいから、何度でもやり直しが出来るような世のなかにするにはどうしたらいいんだろうと、ちょっとそのエネルギーを持って行った方がみんながハッピーになれるのではないかと思います。 

子供が秘密を持つことに対して、親が過度に不安になる時は子供との間に話してもらえないという溝が出来てしまっている。  その溝はたいていは大人の側に何かしらがある。  私の願い、私の不安、とかまずは別々のお皿に出すことから始める。  テーブルに並べてみんなで見る。  それが対話かなと思います。 子供の声を聞く。  最善の答えをみんなが探してゆく。  時間をかけてゆく。  夏休み明けは子供が心と身体の健康を崩すいろいろなリスクを持っています。  夏休みはきっかけで有り原因ではない。  

















2025年7月23日水曜日

2025年7月20日日曜日

佐藤克文(海洋生物学者・東京大学教授)   ・海の生き物が教えてくれること

佐藤克文(海洋生物学者・東京大学教授)   ・海の生き物が教えてくれること 

現在58歳になる佐藤さんは、海中を動きまわる動物たちに小型の記録計をつけるという新しい手法で海の動物の研究を行っています。  その研究から重さ90トンのシロナガスクジラから500gの海鳥迄餌をとる時には、ほぼ同じ速度で泳いでいることを発見しました。  他にもアザラシやマッコウクジラはどのぐらいの深さまで餌を取りに行くのかなど、知られざる海の中の生き物たちの暮らしを次々に明らかにするる研究を行っています。 

動物の泳ぐ速さを測る装置をそれぞれの動物の身体に付けて調べたので間違いないと思っています。  餌を取る瞬間はダッシュしたり、動物ごとに変わりますが、呼吸をする水面と餌のある深さを往復するときの速度は同じでした。  時速4,0km~8.0kmです。 人間が早歩きする速度です。 一番少ないエネルギーで移動できる速さだったという事が判って来ました。  その手法をバイオロギング(陸上や海中の野生動物に行動記録用の電子端末「データロガー」を装着し、その生態を観察するサイエンスの分野または技術)と言う名前を付けました。  手法は1980年代から始まりました。  

野生動物を捕まえて身体にその装置を付けて、海に放してやります。 もう一回捕まえて回収する作業が必要ですが、2回捕まえることは難しい。  しかし、南極だと警戒心がゼロなんです。  南極が一番やりやすい場所でした。  水の中に入った瞬間に電波は使えないので、記録するという手法に頼らざるを得ない。  南極のウェッデルアザラシは一日中寝ていて、時々水のなかに入りますが、判らなかった。  バイオロギングで調査したら300mの深さまで潜っていたことが判りました。

私は1998年から2000年にかけて南極で調査を行いました。   夏の間はペンギンの調査、秋から春まではアザラシに新型カメラを取り付けて調査するのがミッションでした。 プラスチックのバンドで取り付けるんですが、寒さでポキポキ折れてしまうんです。  ステンレス製のホースバンドを使うとか、いろいろ工夫をしました。  春に子連れの母親に付けました。  回収したら5m~10mぐらいしか潜っていませんでした。 (300mぐらい潜る筈だと思っていたが)  親子のアザラシに深度記録計を付けてみました。  親子のデータが一致していました。  母親に後ろ向きにカメラを取り付けたら、一緒に後から泳いでくる赤ちゃんアザラシが撮影できました。  子供に泳ぎを教えるための潜水でした。  予想外の結果でした。  お母さんアザラシは子供を産んだ最初の授乳期間はでぶでぶに太っています。  400kgぐらい。  段々痩せてきて腹が減ってきたら、300m迄潜り始めました。  前向きにカメラを取り付けて、314mのところでいわしのような魚をパクっと食べる瞬間をとらえることが出来ました。  最初は浅いところで魚を捉えるが、あっという間に喰いつくされてしまって、深く潜らないと餌がない状態になるようです。 

国立極地研究所から2004年に東京大学海洋研究所国際沿岸海洋研究センター(岩手県)に移籍しました。  ウミガメと海鳥の研究をはじめました。  ウミガメは産卵は千葉県より南の太平洋側の砂浜に産卵します。   網にたまにウミガメが捕獲されるといことを漁師さんから聞きました。  翌年女性の助手がきて、漁師さんにウミガメが取れたら彼女のところに連絡するようにしたら、毎朝連絡が来るようになりました。  ウミガメをもらい受けて色々な調査をして、放流するときにバイオロギングの装置を付けて放流しました。  詳しい動き方、カメラに映る様子、1年間に及ぶ海洋経路を調べる研究を2005年からずっとやっています。(20年近く)   

どんな餌をどうやって食べているのかが判りました。  産卵期の雌のウミガメは餌を食べていなくて、事前に蓄積した脂肪で代謝を賄っていた。  アカウミガメは嚙む力が非常に強くて二枚貝、アワビなどを食べるのが通説として言われていた。 青年期のウミガメ(甲羅が50~60cm)に装置を取り付けて調査をしたら、ひたすらクラゲを食べていた。  大人になると甲羅が90cmぐらいになります。  

それぞれの動物がどういう経路で回遊しているかが、大分判って来ました。  思っていた以上に広範囲を泳ぎ回っています。  ピンポイントで同じ島に戻ってくることも判りました。 ウミガメ、サメ、ペンギン、アザラシ、クジラに共通な行動が見られました。  同じところでくるくると何十回も回るんです。 (餌取とは違くようだ。)   クジラは上にあがる時にらせん状にくるくる回っていた。   地磁気を精密測定したい人たちは、船、潜水艦などを使って潜水艦などはらせん状にくるくる回りながら、繰り返し測定をするという話を聞いて、それぞれの動物たちが精密な地磁気を測定している行動ではないのかと、今考えています。   犬も糞をする前にくるくる回るんですよね。   糞をしている方向を統計的に調べてみると、東西方向に偏っている。  南北方向に地磁気が走っているが、直交する方向に身体を向ける。  くるくる回って自分が行きたい方向に対して地磁気を使っているのではないかと思っています。  興味深い不思議な行動です。 

子供の頃から動物が好きでした。  小学校3年生から釣りにはまりました。  水産学科が釣りに一番深そうだと判りました。  京都大学農学部水産学科に入学しました。  卒論でウミガメに装置をセットして調査するという事が、自分で描いていた研究に近かったので、そのままこの道に入って行きました。  卒論は、四国の徳島の蒲生田岬の先端にウミガメが上がる浜があり、二頭のウミガメに取りつけましたが、一頭は5日後に網にかかってしまって、もう一頭は帰ってこなくて失敗しました。  そのまま大学院に行きました。  甲羅の4か所に穴をあけて取り付けていましたが、接着剤を利用する痛くない方法にしました。  4頭に取り付けたら4頭とも帰って来ました。  はまってしまって博士課程まで行ってウミガメで学位を取りました。  大学ではひたすら体育系のサッカーで身体を鍛えていました。  フィールドバイオロジーの分野ではこの体力はとてつもなくアドバンテージなるんだと実感しました。  帰って来るウミガメはどこに戻って来るのか判らないので、捜すために砂浜を一晩中合計10kmぐらい歩くんです。  その後南極へと向かいます。

バイオロギングを使うことによって、自分が思っていたよりもはるかに重要なことをデータが教えてくれるという事が良くあります。   意外な発見をするたびに、動物に教えられているような気がしてきます。   いま海洋プラスチックごみは大問題になっています。  カメは海洋プラスチックごみを食べても死んではいません。  日本全国の海岸に死んだカメが打ち上げられてその死因を調べる人たちがいますが、腸にプラスチックごみが詰まって死んでいる事例はほとんどないと言っています。  アカウミガメはプラスチックごみを見分けて食べませんが、アカウミガメは減少してきています。  アカウミガメに対してはプラスチックごみ以外の別の脅威があるという事です。  これは調べなければいけないことだと思っています。  プラスチックごみを食べてしまうアオウミガメは数を増やしています。  動物にとって何が良くて、何が良くないのかは、我々は判っていない。 

画像データは専門的知識が無くても面白いんです。  これを一般の方たちに観てもらうためのデータベースを作って、一般に公開するという事をやっていますが、まだ足りない。  水族館、博物館などにバイオロギングの成果を観てもらいたいので、データを展示するようなことを一生懸命やろうと思っています。


















2025年7月19日土曜日

小椋聡(デザイナー)           ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

 小椋聡(デザイナー)       ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

107人が亡くなり562人がけがをしたJR福知山線の脱線事故から今年で20年、この日は遺族や負傷者、JR西日本社員などが現場を訪れ犠牲者を追悼しました。  この2005年の脱線事故で最も多くの犠牲者が出た2両目、この車両に乗っていて大けがをしたデザイナーの小椋聡さん(55歳)が、このほど事故の体験や多くの人との交流を一冊の本にまとめました。  小椋さんに記憶を語り、記録を残した20年と言うテーマでお話を伺います。

物凄い力で投げ飛ばされたとうような感じでした。  車体がメリメリ潰れて行きました。   空間をすっと潜り抜けたと言う所までは覚えているんですが、気が付いた時には右足が人の積み重なった山の下に挟まれていていました。 青い空が見えていたというのが印象的でした。  人の山の上の方に生きている方から動かないと下の人は動けませんでした。  「痛い、痛い」と言う声はずっと記憶の中に残り続けました。  自分の足が抜けたのは多分10~15分後だったと思います。  隣にいた女の人から「子供がいるので探してください。」と言われて、僕の上に乗っていた人がどきはじめて、子供を抱えている手が見えて、それを僕が受け取りましたが、たまたまそのお母さんの子供(4歳)だったんです。  泣いていましたが無傷でした。  

仰向けの状態で顔だけが見えた若い女性がいました。 「助けて下さい。」と声を掛けられました。  その上には沢山の人が乗っていました。  たどり着ける様な状態ではなかった。   「頑張って下さい。」としか言いようがなかった。  この人は助からないと思いました。   107人が亡くなりましたと言う風な数字ではなく、電車のなかで人が亡くなるという事は一体どういうことなのかと言うのを、きちんと伝える必要があるのではないかと思いました。  

1時間半ほど救助したりして、その後ワンボックスカーで近くの病院に運ばれました。   野戦病院の様な状態でした。  「歩いてください。」と言われて、歩けたので消毒して、ガーゼを貼って、もういいですと言われました。  タクシーを捜して帰ることになりました。  後日精密な検査を受けると、右の足首の部分の骨が折れている事が判りました。  数日後無くなっていたカバンが見つかったという連絡を受け、受け取りに行きました。  メディアスクラムと言うのに初めて会いました。  いろいろ話をして、それがきっかけとなり20年に渡りメディアの人と付き合うようになりました。

激突して遠心力で人が外にばらまかれた状態で、線路の上での沢山の人が亡くなりました。  事故から2か月ほど経って、遺族、怪我をした人たちが中心になり、「4.25ネットワーク」と言う会が出来ました。  (小椋さんは妻と共に参加するようになります。)  2回目の会合に参加しました。   生き残った自分たちの記憶が、本当に必要としている人たちにとって物凄く大事な情報なんじゃないかという事に気付きました。 

「4.25ネットワーク」の分科会として乗車客?を見つける活動をやりましょうと言う事で始まりました。  提供された写真から、自分の夫がそこに寝かされていたという写真を見つけました。  新聞記事から情報を拾い、メディア、JRに協力してもらって、負傷者からの情報と遺族とを繋ぐ「情報交換会」を開くことになりました。  捜していた10組の遺族の人は全員乗車車両が判りました。 2人に関してはどこに座っていたかまで判りました。   4回目の時に車椅子で来た女性の話と僕の記憶が同じで、下敷きになって「助けて」と言っていた女性だと判りました。 あの人は生きていたんだと思いました。 

事故から6年になろうとしていた2011年3月東日本大震災が起きました。  事故にとらわれていた自分がこれでいいのかと思いました。  示談と言う問題がありますが、JRとの対峙は6年目で終わらせることになりました。  事故から8年、2013年西宮市から兵庫県中部の多可町?に転居します。  多くの関係者が来て交流は続きました。  そのなかにJR西日本社員の小椋さん担当の高本克也?さんがいました。  引っ越しの手伝いをさせて欲しいと言う事で4人来てくださいました。  食器を一緒に片付けている姿を見て、この人たちは本当に加害者なのかなとふっと思いました。  

2015年4月に東京のギャラリーで絵の展覧会を行いました。  木村奈央?さんからいきなりメールが来ました。  事故の絵とかいろいろと東京の方にも見て貰いたいという事でした。  大変反響がありました。  

2024年東日本大震災で被災した只野哲也?さんとのつながりが出来ました。  震災時は小学校5年生でした。  多くの児童が命を落とした大川小学校で生き残った児童のひとりでした。  私も55歳にもなり、自分の口で事故のことを語り続けることがいつまでできるんだろうと考えるようになりました。   只野哲也?さんの記事に共感を覚えました。 

2024年秋に、東京日比谷ホールで講演会と対談を開きました。  只野?さん、脱線事故で1両目に乗っていた福田優子さん?、木村奈央?さんテーマは「私たちはどう生きるか。」でした。  語りつくせないとは思っていました。  補う意味で書籍を作るという考えがありました。  「行ってらっしゃい」と言って送り出した人を、「お帰り」と言って出迎えてあげられることは、実はとても幸せな事、「ただいま」と言って帰ってくれる人に、「私はあなたのことを大切に思っている。」と是非知らせてほしいと記しています。 

風化と言う言葉は使った事は無いです。  脱線事故でしか学び得なかったこと、教訓などは必ず残ってゆくと思います。  新たな人との出会いの中から、自分が語る大川小学校は意味があると思っています。  彼が語る脱線事故も意味があると思います。  語り継がれる中には風化はないと思っています。













































 

2025年7月18日金曜日

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱 

結城さんは1843年東京生まれ。 父親の結城司郎次外交官だった関係から7歳から16歳までスウェーデン、セイロン(現スリランカ)、トルコ、イギリスなどで海外生活を送る。 バレリーナを目指してイギリスのロイヤルバレエ学校に学んだあと、俳優になるために帰国、1961年俳優座養成所第13期生として入所、卒業後はアメリカ留学を経て劇団「雲」に入団、舞台はもちろん、「肝っ玉かあさん」「女と味噌汁」などのホームドラマや「俺たちの旅」俺たちの朝 」「御宿かわせみ」などテレビドラマに出演しました。 1984年ごろから陶芸を始めて、現在は陶芸家としても活躍しています。

陶芸は動物のオブジェとか子供、人のオブジェ、仮面などを作っています。  小学1年生を日本で中退してほとんど海外でした。  毎回言葉が違うので、授業を受けてもちんぷんかんぷんでした。  昭和27,8年ごろで、当時は日本人はほとんどいなくて、いじめられたりもしました。  スウェーデンは4年生まで居ました。  英語は出来る様になりました。  悲しかったり怖い目にも会いましたが、楽しい良い経験もしました。  スウェーデンの森の中には妖精がいます。  そういったものが作品に反映しています。  イギリスのロイヤルバレエ学校には12歳で入りました。  スタイルが全然違うのでバレエは諦めて役者を目指そうと思って帰国しました。  

俳優座養成所に4年間通いました。  同期は石立鉄男さん細川俊之さん佐藤友美さんなどです。  俳優として活躍していましたが、陶芸の道にも進みました。  或る時に紙粘土で山岡さん等の全身像を作りました。  喜ばれて差し上げました。  それからどんどん作るようになりました。  紙粘土から土の粘土に変えました。  100%乾いていないうちに窯に入れるとヒビが入ったりします。  素焼きにして釉薬を付けてまた本焼きして、2,3回窯に入れます。  窯から出てくる時にはドキドキします。  

最初のころは自分の子供の2,3歳のころから思春期のころとかのものを作りました。     いろんな表情のものを作りました。   夢中で作って持って行こうとしたらドアから出られない作品もありました。  3つぐらいに切って持ち出して又くっつけるという事をしました。  動物のオブジェなどもあります。  表情と動きがあるのが特徴です。  小さい頃それぞれの国の美術館に連れて行ってもらいました。  時にイギリスではみんなで行って、自分の好きな作品を見つけてそこでランチを食べましょうと言うんです。  許可を美術館から先生が貰うんです。  私はピカソの青の時代にものが好きです。  

今の興味は生身の生きたままのリアルなお面を作るよりも、自分の感性とか、感情とかから出たものを作ってみたいと思います。  酒蔵会社からの依頼で龍をいろいろ作っています。   1m以上あるものを何体も作りました。  葉っぱに顔があるお面なども作っています。    モチーフは自然のものが多くなりました。  そこにはみんな顔があります。  役者をやっていたことがあるからかもしれません。   芥川比呂志さんのリア王の有る場面の表情は、凄かったです。  役者をやっていると身近で相手役の表情を見ることができるので、いい刺激になります。  健康の為に太極拳もやっています。  












 

2025年7月16日水曜日

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して 

ボール、リボン、フープ、クラブなどを手に持って演技して芸術性を競う新体操。  女子の個人総合が1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用されました。  その最初のオリンピックでの日本代表のひとりであり、続く1988年のソウル大会にも出場、新しい華麗なスポーツとして注目を浴びた新体操の女王、日本のエースとして活躍したのが秋山エリカさんでした。 

新体操はボール、リボン、フープ、クラブそしてジュニアにはロープと言う種目もあります。  手具と言います。  日本では新体操と言いますが、ヨーロッパでは芸術体操という事もあります。  音楽と合わせてそれを表現するという事、それに手具が備わるという事でいろいろな面で芸術に近づけなければいけないというのが新体操だと思います。  13m✕13mの四角いフロアーのなかで個人では1分30秒、団体では2分30秒のなかで表現します。  一番重要なのが音楽の持っている性質をどのように表現するかという事と、自分の内面からでる感情表現、この二つが重要です。  

私は高校1年生から始めました。  いまの学生たちは幼稚園、小学生からスタートしている人が多いです。  1964年福岡に生まれました。  小さいころは病弱な子でした。   家は美容室で親が美容師でした。  小学校に入る直前に、自転車の後ろに乗っていて左足を車輪に挟んでしまって左足を骨折してしまいました。  治ったのですが歩き方がおかしくて母がクラシックバレエを習わしました。  身体も強くなりました。 小中、9年間クラシックバレエをやりました。  高校に入ったら新体操部があり、入る事になりました。  運動音痴だったので1か月ぐらいで辞めようと思いましたが、それも言えずにずるずるとやっていました。  試合にも出ましたが失敗ばかりしていました。 あだ名がミス秋山でした。 高校最後の試合だけはミスをしないようにと必死で練習をしました。  フープを投げましたが、遠くに飛んで私の手には戻って来ませんでした。  

或る日突然一生に一度でいいからノンミスの試合をしたいと思いました。  東京女子体育大学を選びました。  部員は130名以上いました。  オリンピック強化選手、国体チャンピオンなどが軒並みいました。  1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用される事になりました。  その前年に入学しました。  クラシックバレエをやっていたおかげで選手に選考されました。  基本から教えてもらって、初めて新体操が面白いと思いました。  1983年の大学選手権で優勝しました。 全日本選手権では3位になりました。ミスをしないようにという思いだけで試合をやっていました。  世界選手権の予選に出ることが出来て、山崎さんの次の2位になりました。  フランスの世界選手権に出場して、日本人の最高順位で山崎さんよりも上になりました。  オリンピックの切符が掛かっていることを知りませんでした。   怪我をしたこととミスをしたことには、如何に自分にとってありがたかったのか、今でも感謝しかないです。

1984年のロサンゼルス大会は19歳の時でした。  萎縮をしてしまって自分らしい演技は出来ませんでした。  山崎さんが引退して、新体操の女王と言われましたが、自分の中ではこれでいいのかという思いでした。  (1984年から1989年まで全日本選手権で6連覇を達成する。)  厳しい練習条件の中でブラジルの選手の思い切り楽しく演技している場面を見て自分で衝撃を感じました。  自分の持っている力を全部発揮するとか、は全員に与えられたチャンスなんだと気付きました。  そこから自分の考え方が変わりました。  自分にできることは何だろうと考えた時に、自分の演技をパーフェクトにやることだと思いました。  それまでは新体操は孤独なスポーツだと思っていました。  みんなのお陰でここに立てると思うようになりました。 

日本人であることをきちんと表現したいと思いました。  それまでは背が低い、足が短いとコンプレックスを持っていましたが。  オリジナルにこだわるようになりました。 現役引退が1990年です。  海外でのコーチ研修などを経て、後進の指導にあたっています。   選手が何をしたいのか、どこに向かいたいのか、 どんな演技者になりたいのか、どんな人になりたいのかという事が一番重要だと思います。    そこに向かってどういう風に計画してゆくのかという事を伝えられればいいと思います。   何度も失敗をして修正してを繰り返しながら精度をあげてゆく。 「パーフェクトを目指しなさい。 ミスは許される。」といつも言っています。   78名部員がいますが、全員をスターにしようと思っています。    それぞれに凄くいい特徴を持っています。  自分を深くよく知るという事、それを表現に結び付けることが大変重要と思います。  いつも選手は心が揺れてしまいますが、本当のやりたいことはパーフェクトにやりたい、そこだけを見つめて進むという意志の強さと言うものを選手に伝えたいと思います。 





















2025年7月15日火曜日

青木辰司(東洋大学名誉教授)       ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

青木辰司(東洋大学名誉教授)     ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

 令和2年7月豪雨では熊本県南部を流れる球磨川の氾濫で熊本県の人吉球磨地方は大きな被害を受けました。   この災害から立ち上がろうとする人たちの苦悩を、人吉市出身の俳優中原丈雄さんの主演で描いた映画「囁きの河」が完成し、各地で上映されています。  この作品のエグゼクティブプロデューサーを務めたのは日本のグリーンツーリズムのけん引役東洋大学名誉教授の青木辰司さんです。  20年を越える人吉球磨地方とのふれあいで積み上げてきたものが、災害からの復興を応援するエネルギーになりました。 

映画「囁きの河」、映画の舞台は熊本県の人吉球磨地方です。 日本3大急流の一つ球磨川は令和2年7月豪雨で氾濫、多くの人命が奪われ住民は住宅や店舗、施設、道路、鉄道など生活の基盤を失いました。  この映画は今もなお水害の爪痕で苦しむ人吉球磨地方で復興への道を必死に歩み続ける人々の生きざまを描いた作品です。 主人公は一度故郷を捨てた船頭を演じる地元人吉市出身の中原丈雄さん他に清水美砂さん、三浦浩一さんほか。  自然災害の恐ろしさ、親子の関係、地域の人たちとの人間関係を含め、復興への道は厳しく平坦ではありません。  監督脚本は元NHKプロデューサーの大木一史さんが担当しました。 

熊本県人吉市、熊本市で先行上映しましたが、想定外の入りでした。  これから全国興行します。  グリーンツーリズム、ヨーロッパでは農村でのツーリズムを言われていた。    1980年代から自然を生かした農業、自然を生かした景観、文化、とかトータルで言うとグリーンな文化、グリーンなライフスタイル、グリーンな食とか、意図的にグリーンをルーラルツーリズムの中に意味付けしてきたのが、グリーンツーリズムのヨーロッパの始まりでした。  

日本でも、もう一度農村を活性化するという意味でグリーンツーリズムをまずは東北の皆さんに呼び掛けました。  何よりも農家の女性の反応が鈍かったです。  副収入、女性の直接的な収入に繋げていきたかった。  岩手県の遠野で研修会をやりました。  70人ぐらい集まり盛り上がりました。  東北6県を回りました。  九州でも声がかかり全国的に展開しようという事で、NPOを立ち上げ第一回の大会を2004年に熊本県の水俣でやりました。    人吉でもグリーンツーリズムを立ち上げたいという事で繋がることになりました。  人吉は絶好の場所だと思いました。  2004年から84回の付き合いになりました。  他の市町村も一緒にやろうという事で全市町村にグリーンツーリズム研究会を立ち上げてもらいました。  広域連携型グリーンツーリズムと言うのは日本では人吉しかないです。  実は水害の時にもこれが大きな力になりました。   球磨川の一市、二か村が集中的にやられました。(人吉市、山江村、球磨村)  上流の人たちが支援しました。  グリーンツーリズムで培った絆ですね。  今も凄いです。  

調査によってその地域を変えてゆく、実践型社会調査をずっとやってきました。  地元の人たちは東洋大学の学生たちに感謝してくれました。  学生と祭の再生の企画を行いました。 都会にない農村の価値に学生が気付いた時にいいところだという事が初めて判る。  何が一番外から来た人たちの思いが、地元の人たちに取って感謝になるか、考えましょうと、これは復興支援にも言える事です。  本当に地元の人たちに取って有難い支援になっているかどうか、こういったことがグリーンツーリズムの基本の理念になります。  

「かわがあふれた!まちが沈んだ日 生きる力をくれたキジ馬くん」(人吉球磨の水害をテーマにした絵本)  キジ馬は子供の成長を願う人吉の郷土玩具。  700~800kgのキジ馬くんが置いてあったが、水害の時にさらわれた。  八代海に浮かんでいることが判り、生還した。  是非このことを絵本にしてほしいと頼まれて、絵本作家に相談して描いていただきました。  この絵本がきっかけとなり、映画製作に繋がって行きました。

文明の発達と水害は表裏一体であるという認識を深めないといけない。  我々の身の廻りにある自然、地球の変化と言うものに疎くなっている我々が、災害被害をどうやったら最小化できるか、と言うテーマがあるなと思いました。  我々が自然とどう向き合い、自然をどいう風に保全してゆくか、と言うテーマを是非この映画を通して、考えていただく或る意味防災の教材でもあるし、環境保全のテーマでもありうる。  フィールドワークも地元に還元するものでなければいけないと思います。  私がお返しとしてできたのかなあと思うのは、人を繋ぐという事だと思います。  
































2025年7月14日月曜日

大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

 大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

大川栄作さんは昭和を代表する作曲家古賀政男さんの最後の内弟子でした。  今も古賀メロディーとして歌い継がれる名曲の数々を残した師匠古賀政男さんについて伺いました。

古賀政男さんは明治37年福岡県大川市で、8人兄弟の6番目として生まれました。 5歳で父を亡くし、母と姉、弟と一緒に一番上の兄のいた朝鮮半島に渡ります。  4番目の兄からマンドリンが届いたのは13歳の時、このころから音楽家への道を志す様になりました。 大正12年日本に帰国し、明治大学予科に入学した古賀さんは仲間と共にマンドリンクラブを創設、卒業後はプロの作曲家として歩み始め、20代の若さで「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などヒット曲を世に送り出しました。  

その後も「東京ラプソディー」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「目ン無い千鳥」「湯の街エレジー」「無法松の一生」「東京五輪音頭」など戦中戦後の歌謡史に残る名曲の数々を生み出しました。  1959年には日本作曲家協会の初代会長として日本レコード大賞を創設、6年後「柔」で自身のレコード大賞を受賞します。  又作曲活動の傍ら、音楽親善大使として世界各地を回り、1974年には広島平和音楽祭を開催、音楽で平和を訴えた古賀政男さん最後のレコードは第4回の広島平和音楽祭に当たって、島倉千代子さんのために作曲した「広島の母」でした。  古賀政男さんは古賀メロディーとして、今も歌い継がれる数々の名曲を残し、1978年(昭和53年)73年の生涯を閉じました。  国民栄誉賞が贈られました。

村田英雄さんがデビューしたのが昭和33年で、小学校3年生でしたがその歌を聴いて感動しました。  「無法松に一生」をしょっちゅう歌っていました。  古賀先生とは同郷で、昭和39年に父に連れだって古賀先生とお会いすることが出来、歌いました。  上京するように言われました。(高校1年生 卒業後に上京。)   古賀・・歌謡学院という音楽学校の初等科に入りました。  「古賀音会」と言うところには20人ぐらいがいましたが、その中に入れていただきました。  1年半ぐらいしてから内弟子生活に入りました。  「歌は声のお芝居だから、ストーリーと言うものがあるので、それにふさわしい表現の仕方をしてゆくんだよ。」と言われました。 

庭木の手入れ、車を洗ったりとかもしていました。  レッスンはたまにありました。  弟子入り2年後にデビューしました。  1969年「目ン無い千鳥」でレコードデビュー。  一時期放送禁止になりました。 (目の不自由な方に関する歌)  30年ぐらい歌わせてもらえなかったです。  大ヒットしました。  「筑後川エレジー」はその次でした。  デビュー当時は古賀先生から衣装を譲ってもらいました。  1978年に先生は旅立ちました。  晩年は病気がちですた。  訃報は僕が肝臓で退院したら電話がかかってきて、それが知らせでした。(7月25日)  亡くなる1週間前に、僕の入院先の枕もとに先生からの花が届きました。   4年後「さざんかの宿」で大ヒットする。 (180万枚)  歌手生活30年という事で、1998年「筑紫竜平」のペンネームで作曲しています。  作曲の難しさを身にしみて感じています。  

先生は「歌は水ものだ。」とおしゃいます。  「みずみずしさが一番大事で、詩に対しても声に対しても、日本人の感性、感じる気持ちをいつも大事にしろ。」とおっしゃいます。 「感動する気持ちをいつも再現できるのがプロだ。」という事が一番大事かと思います。

古賀先生への手紙

「・・・16歳の末、九州から上京し、・・・歌いたい,教わりたい。心の底から湧き出る気持ちを判って呉れる人にやっと出会えたという興奮を今でも昨日ことのように覚えています。  先生の存命中の20歳から10年間、歌手としての表現、技術を学びました。  なにより感銘を受けたのは音楽と向き合う師の姿こそが、古賀メロディーの創作の神髄であり、歌唱表現の手法なのではないでしょうか。 ・・・明日の英気を、活力を或るエネルギーに変えて、人々の心を慰め続けた古賀メロディー、華やかな音楽様式に裏打ちされ、人々の心に沁みわたるメロディーを、その時代の空気感に添えて、そのしなやかな感性でヒット曲を生み出し、大衆歌謡の父と言われた称号に弟子の一人として心から誇りに思います。 一方私人としての生活は一言でいえば、孤独との闘いの日々だったと思います。 「影を慕いて」のヒット曲の始まり、最晩年のヒット曲「悲しい酒」で幕を降ろしますが、二曲共に魂の叫びともいえる叶わぬ思いをスローワルツの甘美なリズムに乗せて、満たされぬ寂寥感とわが身の不幸を嘆く一人の人間像、その姿こそ人間古賀政男の日常に重なります。・・・物心つかぬ頃に父と死別し、8人の子供を抱えて苦労した母を偲んでの涙だったのではないかと思います。 ・・・母への愛をこめて紡ぎ出すメロディーが古賀メロディーの本質と思います。・・・戦前戦中戦後の多くの人々の心を慰め、寄り添い生きる勇気を与えた功績は計り知れません。・・・」















2025年7月13日日曜日

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作 

南こうせつさんは1949年大分県出身76歳。  1970年にソロ歌手としてデビューし、その直後にかぐや姫を結成、「神田川」「赤ちょうちん」「いもうと」などのヒット曲を発表、グループ解散後もソロ歌手として活動を続け、今年デビュー55周年を迎えています。 40年以上故郷大分県の国東半島にある杵築市の大自然のなかで暮らし、その環境を生かしながらシンガーソングライターとしての活動を続けています。  深夜便の歌の「愛こそすべて」の制作に込めた思いや、現在暮らしている故郷大分県での自然に囲まれた生活などについて伺いました。

デビュー55周年を迎えました。  来援3月までツアーがあります。  76歳ですが、1970年代、「神田川」がヒットしましたが、ほとんどの方が還暦を越えてゆくんです。 その方たちがお客さんで来ていただいています。  改めて聞くとこういう意味だったのかと、不思議な感じがすると、味わいが違ってくるというようなことを聞いています。  人生を深く味わいながらもありかなとコンサートを進めています。  「神田川」の歌との出会いが私の人生だったですね。  「神田川」喜多條忠さんからぎりぎりで出来たという電話があって、メモをして、2番を書きながら何となくメロディーが浮かんできました。 (喜多條忠さんが、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くのアパートで暮らした思い出を歌詞にした。) 電話を切って3分後にはもう曲が完成していた。 

今回のツアーのテーマとしては55年間の自分と言うものをステージで再現してみようという事です。  ひょっとしたらこの町で歌えるのは最後かもしれないと思うと、切ない気持ちにもなります。  

深夜便の歌「愛こそすべて」、テーマとしては二つあって、今迄歌って来た人生を歌うか、夏の時期なので夏を歌うか、迷いました。  結果的には夏を歌う事にしましたが、いろいろな体験、誰かさんを好きになった思い出などを歌にしようと思いました。  

*「愛こそすべて」 作詞:渡辺なつみ  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

出会い、別れ、縁と言うのはちょっとしたことで変わってゆくんですね。  あの人はどうしているんだろうというのはどなたにもあると思います。  青春時代の思い出を思い出してもらえればいいと思います。  幸せを感じると思います。  

大分で暮らして43年になります。   波の音からメッセージを感ずることがあります。   新しい町の歌を作って欲しいという要望があり、「おかえり」の歌があり、この町にぴったりだと思いました。  星野先生の詩が素敵だと思いました(50年前に書いた詩)

*「おかえりの唄」  作詞:星野哲郎 作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

喉が続く限り自分の気持ちを歌っていきたい。  歌っている瞬間をお客さんと共有したいです。  

*「神田川」  作詞:喜多條忠  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ



 









2025年7月12日土曜日

眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

 眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

パンに塗ったりヨーグルトに掛けたりと食卓に欠かせない蜂蜜はケーキをはじめ洋菓子や料理にも広く使われてい居ます。  そんな蜂蜜を集めてくれるのは蜜蜂です。  蜜蜂には西洋から入ってきた西洋蜜蜂と在来種の日本蜜蜂がいますが、現在スーパーなどに並ぶ蜂蜜のほとんどは西洋蜜蜂の蜂蜜です。  一方近年趣味としての日本蜜蜂の養蜂がブームになっているという事です。 眞貝さんは和歌山県古座川町を中心に日本蜜蜂による伝統養蜂を調査研究し、情報を共有しようと日本蜜蜂養蜂文化ライブラリーと言うホームページで、その成果を発信しています。 

蜜蜂の群れには女王バチがいて働きバチは全員メスです。  オスは生殖の時働いて後は亡くなる。  働きバチの寿命は1か月ぐらいです。  女王バチは2年~4年とか状況によって違いがあります。  女王バチと働きバチのDNAは全く同じなんです。  王台という特別な部屋に産み付けられると、働きバチはこれは女王様になるハチだという事で、特別なエサを与えます。 (一生涯)  そのエサはロイヤルゼリーと言います。 働きバチが1か月生きると言いましたが、蜜を取る期間は最後の1週間ぐらいなんです。 その前は巣の掃除をしたり幼虫の世話をしたりします。  働きバチは1週間でスプーン1杯ぐらいの蜂蜜を取って来る。  花蜜を取ってきて、口移しで花蜜を渡して20%ぐらいの水分量に濃縮します。 口には酵素を持っているので成分が変ります、それが蜂蜜になります。  蜂蜜は餌でもあり越冬用の餌でもあります。  蜂蜜は常温保存が出来ます。  糖度が高くて微生物が繁殖できないので腐らない。  結晶するかどうかは蜂蜜の種類によります。   ブドウ糖が多い蜂蜜は結晶化しやすい。 

日本人の蜜蜂との関りは海外とは違うのではないかと思いました。  環境と食と蜜蜂のことを研究してみようと思いました。  主に日本蜜蜂の研究をしていて、和歌山県古座川町を中心に行っています。  熊野地域は養蜂の歴史が古くて江戸時代から特産でした。 祖母が古座川町の故郷です。  丸太を空洞にして巣箱を作っている家庭が多いです。  

日本蜜蜂は東洋蜜蜂の一亜種という事です。  1590年代朝鮮半島との文禄の役の時に熊野の或る人物が朝鮮半島から熊野に持ち帰って、広まったと言われています。 巣箱で飼うようになったのは江戸時代からです。  北海道と沖縄以外には居ます。  西洋蜜蜂が日本に入って来たのは明治10年と言われます。  アメリカから輸入しています。  採蜜量が日本蜜蜂に比べて数倍から10倍と言われています。  女王バチを人工的に育成することが出来ますから、群れを増やしたり分けたりすることが出来ます。  日本蜜蜂は非常に難しい。 西洋蜜蜂は日本蜜蜂よりも一回り大きいです。(12~14mm)  西洋蜜蜂は半径2~3km、日本蜜蜂では1~2kmの範囲になります。  西洋蜜蜂の方が働きバチの数も多くて2~4万匹ぐらいで、日本蜜蜂は数千~1万匹ぐらいです。   蜜蜂の輸入が93%で国産は少ない。  輸入の66%は中国からです。  日本蜜蜂は自家消費とかが多くて正確な量はわかっていません。  

西洋蜜蜂は飼い方が標準化されていて、スワップ式巣箱が使われています。  日本蜜蜂は中が空洞で自由に巣をつくるようなものです。  西洋蜜蜂は咲く花を追って移動が出来るが、日本蜜蜂の場合はそれが難しい。  珍しい蜂蜜5種類持参。  柿の蜂蜜、そばの蜂蜜、いろんな花が混じった蜂蜜、日本蜜蜂の古座川町の2種類。 (1種類は2回越冬させた蜂蜜熟成度が高い)  

昭和60年と令和2年の花の量の比較でレンゲ草では16%になってしまっている。  みかんでは24%ぐらい、アカシアで50%ぐらい、主要な蜜源が減っている。  暑いことも蜜蜂にとっては大変。  昆虫全体が減ってきている。  昆虫の総数が1年に2,5%ぐらい減ってしまっている。  農薬、都市化(緑が少なくなる。)、気候変動などいろいろな問題がある。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が減ってゆくと人間にとって大問題となる。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が日本のもたらしている利益(経済価値)を推定した値は2013年では約4700億円で、3300億円分は野生の送紛者による。  生物多様性が大事。

ドイツのバイエルン州では蜜蜂を守るための条例を2019年に作りました。



2025年7月11日金曜日

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い 

戦後80年の今年、改めて注目を集める絵本があります。  淡い色の水彩画で可愛らしい子供の絵をえがいた画家いわさきちひろさんが昭和48年に出版した「戦火の中のこどもたち」戦争に巻きこまれた子供たちの姿が詩のような文章と共に描かれた作品です。  当時いわさきちひろさんは東京芸術大学の学生で21歳の息子松本猛さんに、「この絵本を一緒に作ってみない。」、と初めて声を掛け母と子で制作に取り組みました。  絵本完成の翌年いわさきちひろさんは病気のため55歳で亡くなります。  松本猛さんはその3年後、世界で初めての絵本の美術館「いわさきちひろ美術館」を設立、その後50年余り絵本に携わって来ました。 松本猛さんは今年74歳、50年余りの研究の集大成として、「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」と言う本を今年出版しました。  半世紀前に母とともに作った最後の絵本、そこから引き継ぎ切り開いて来た人生について、美術評論家で作家の松本猛さんに伺いました。

東京に来るのは月に2,3回ぐらいです。  絵本がいま平和のことを語る絵本が凄く増えてきているので、そういうものの関連の仕事が増えてきています。  あちこちで紛争があり、戦争を描いている絵本も増えてきている。  1970年以降毎年のように必ずそういう絵本が出ています。  特にウクライナのことがあって増えてきているような気がします。 絵は共通言語で国境も越えられ、親と子が絵本を通して語り合えるんです。  子供の時から平和を知ってもらいたいという人たちが多くて、だから戦争の絵本が出てくるんだと思います。   どうしても戦争が地球上からなくならないからだと思います。 

ちひろは戦争が終わった年は26歳でしたが、その世代前後は、戦後スタートラインが皆同じだったんですね。  やっと戦争が終わって自由に表現できるようになった。  戦争抜きには表現が出来ない人たちだったと思います。  自分たちの創作の原点は多くの人が戦争だったんじゃないかと思います。  

「戦火の中のこどもたち」母と子の共同作業で作られたものです。  母にとってはある程度自由に話しあえる相手だとは思っていたと思います。  絵はそれぞれ独立した作品として描かれていました。  それが20、30点溜まった時に僕に声を掛けて、構成を考えてと言ったような感じでした。  何となくゆるやかな流れは作れそうな気がしました。  出版まで半年以上かかっています。  第二次世界大戦のことについていろいろ本を読んだり調べたりしました。   5月29日の山の手大空襲で家は被災しましたが、母からはあまり聞く事は無く、谷川俊太郎さんから詳しく聞くことが出来ました。  元々想像力の豊かな人で、原爆のことも資料館に入るつもりが、資料館に足が運べなくなっちゃって帰ってきてしまったりしました。  原爆の絵、戦争の絵はきつかったと思いますが、描かなければいけなかったんだと思います。 

僕は高校時代から芝居の脚本を書いたり、演出をやったりしていました。  芸術一般を勉強できる場所は無いのかなあと思っていました。  芸大の芸術画家に入りました。  大学の先生の話を聞くよりも母親から映画に関する事とかを聞くことの方が面白い事は結構ありました。  絵に関しては非常に厳しいところがありました。  

「戦火の中のこどもたち」

(女の子の後ろ姿が立っていて、背景にはシルエットで爆撃機が何機も描かれている。)    

「赤いシクラメンの花は去年も一昨年もその前の年も冬の私の仕事場の紅一点。 一つ一ついつとはなしに開いては、仕事中の私と瞳を交わす。 去年も一昨年もその前の年もベトナムの子供の頭の上に爆弾は限りなく降った。  赤いシクラメンのその透き通った花びらの中から死んでいったその子たちの瞳が囁く。  私たちの一生はずーっと戦争のなかだけだ。       (ほとんどモノクロですが、赤いシクラメンだけが色が付いている。 花びらの中から子供達の顔が浮かんできている。)

「貴方の弟が死んだのは去年の春。」                                    (うつむいた少女が小さな花びらをもっている。  弟を思い出しているシーン。)

「あの子は風のようにかけて行ったきり。」                                  (男の子の強い目線の少年が描かれている。)

「もうずっと昔に事と言えるのかしら。  東京の空襲があけた朝、親を捜していた小さな兄弟の思い出。」                                          (激しいタッチの黒い太い筆で周りを塗りつぶしているが、真ん中にあいた空間のところに、女の子が弟をおんぶして歩いている姿が描かれている。)

(つぎのぺージは言葉がない。 ボロボロの服を着た男の子がただ佇んでいるだけ。少年のことをいろいろ考えて欲しいということ。)

「母さんと一緒に燃えて行った小さな坊や」                          (凄く厳しい顔をしたお母さんと腕に抱かれた赤ちゃん。 赤ちゃんの瞳は可愛いが、お母さんの瞳は本当に厳しい瞳です。 戦争を起こしたものへの怒り、そういう表情にも見える。)

「兄ちゃん、昨日登った木は。」                              (3人の男の子が焼け焦げた木の方を眺めている。)

(つぎのシーンは表紙にもなった女の子 呆然としてどこを見つめているのか判らなよな表情。)

「暑い日 一人。」                                         (鉄条網が描かれていて、その下に裸の男の子が横を向いている。  当時ベトナムで一つの村を全部鉄条網で囲まれていた。  ゲリラと交流しないように。  その中の少年を描いている。)

「うちの兄ちゃん強いんだぞ。  私のお姉ちゃんだって強いんだから。」               (防空壕の中と言うような設定。) 

「B52 森 ファントム 原っぱ トカゲ 炎 ヤシの実」                    (ここは傷ついた男の子や女の子たちが描かれている。)

「雨が冷たくないかしら。  お腹もすいて来たでしょう。」                         (雨の中に座ってじっと横を見ている少女が描かれている。  ベトナム戦争の時代にはいろんな人がゲリラ戦に関わっていた。  この子はいろんな連絡を待っている子だったのかもしれない。)

「牛と遊んでいた暑い夏の日。」                                (水牛と一緒にいる子供達と少年のことが描かれている。  ベトナムの平和な時のイメージだと思います。)

「風 母さん」                                             (このころベトナムではお母さんが出勤するように戦いに出掛けて行ったという小説がありますが、帰ってきたのかなと思う女の子の表情が描かれている。)

「赤いシクラメンの花のなかに、いつも揺れていた私の小さなお友達。  赤いシクラメンの花が散ってしまってもやっぱり消えない私の心のお友達。」                       (大きなシクラメンとそこに少女の横顔が描かれている。  ここで終わりになります。)

戦争の中で子供はどうなってしまうのか、そういったことを絵を通して表現したかったもので、言葉は最小限にとどめました。  この本が出版されたのは昭和48年。 翌年ベトナム戦争は終わるが、終わるのを知らずに母は亡くなってしまった。  肝臓がんが判ってアッと言う間に亡くなってしまいました。 

絵本と言うものをきちんと位置付けたいという思いが、母にも私にもありました。  それには絵本の美術館を作るのがいいのかなあと思いました。  

「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」を出版。  7年かかりました。  自分が感動したものを子供に伝えれば、親も子供も両方その絵本の魅力を知ることになると思います。 大人こそ絵本の魅力を知ってほしい。   作ることの歓びみたいなものを追いかけ続けてきたような気がします。  強くないと優しくなれないんじゃないかと思います。 それを母から学んだような気がします。




 






                                            





2025年7月10日木曜日

植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

 植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

現在4コマ漫画を中心に活躍している植田さん、1982年の4月から新聞の連載が始まった「コボちゃん」は今年の4月で1万5000回を越えました。  ほのぼのとした漫画で人気がある「コボちゃん」、ちょっとしたいたずら書きで始まった漫画家人生ですが、もう55年も続いています。 

2年ぐらい前に病気をしまして、その時までは夜の3時半に寝て10時半に起きて始めるという一日でした。  病気後は7時に起きて12時に寝るという事にしています。  読売新聞での「コボちゃん」の連載がことしの4月で1万5000回を越えました。  43年ぐらいですがあっという間でした。  その日その日を書いているうちのそうなっちゃったと言う感じです。  ネタは何かの目次とか、辞書、カタログ、新聞と言ったものから取っていました。 観てその場で選ぶと言う感じです。  雑誌だと4ページ貰って7本考えないといけないので、一日8時間ぐらい考えないと出ないです。  連載は40年間変わっていないのですが、枚数が減って、新聞と雑誌が3つです。  1年で600本ぐらいは考えないといけない。  ネタ帳に絵を描いてみる。  描いているうちにハッと見つかるんです。(見つからない時の方が多いが。)  まずは面白い事の落ちを考える。  前の3つを話にする。 

突飛なことはコボちゃんの場合に合わない。  私は新聞を取っていた時に「サザエさん」が連載されていて、夕刊が「クリちゃん」でその後にサトウサンペイさんの「フジ三太郎」で、漫画と言うとそれしか見ていないです。  一般家庭のリアルな感じの漫画でした。  コボちゃんは私が子供の頃呼ばれていた名前です。 

1947年生まれの78歳です。  3人兄弟の末っ子です。  母が絵が好きで、祖母も美術学校に行っていたらしいです。  親戚でも絵を描く人は多いです。  自分でも絵を描いていましたが、絵で行こうなどとは全然考えていませんでした。  近くに貸本屋があり小学校低学年のころよく読みました。  中学では野球、高校ではラグビーをやりました。  大学ではカメラマンになろうと思って、2年の時から夜間の写真学校に行きました。  大学紛争の時で4年間のうちの1年ぐらいしか大学にはいかなかったです。  新宿騒乱事件を撮りました。   渋谷音楽堂で決起集会をやっていて、そこに赤軍派と京浜安保系などがなだれ込んできて、全学連が排除されてしまいました。  それをみて学生運動はおしまいだと思いました。その日から学生運動を追いかけることを辞めました。  写真への興味もうすれてしまいました。 

炬燵に母と兄と私がいた時に、私が広告に漫画みたいな絵を描いて、それを兄が見て面白いじゃないかという事で、母も同様で、ちゃんと描いて出版社にでも持って行ったら、と言われました。  8本ぐらい描いて持っていったら、面白いから預かりますと言われました。  しばらくししてから又描いて持っていきました。   半年間ぐらいしたら初めて注文が来ました。4コマ漫画では食っていけないので、数ページのものを描いて欲しいと言われました。  自分ではやったことがないので、作っても面白くなかった。  4ページを全部4コマで埋めちゃえと思って、7本持っていったらこれで行こうよ、という事になりました。  あっという間に連載が始まりました。良い漫画家だと思うのは、長谷川町子さん(サザエさん)、根本進さん(クリちゃん)、サトウサンペイさん(フジ三太郎)、秋竜山さん(面白いと思って始めてみた漫画家)です。 

「ああ ちょんぼ」デビュー作 23歳(1970年)  月刊誌の連載を引き受けることになったが、4ページを描いてゆくのに、本当に1か月かかりました。  それが3,4か月続いた時にもう一本持ってくれませんかと言われました。  無理だと思ったが、月に2本になりました。  何とかこなしながらやっていたら、数か月して隔週誌をやらないかと言われました。  どんどん倍になって行きました。  次に週刊誌をやらないかと言われました。   他の週刊誌からも声がかかってきてしまって、どんどん増えていきました。  

普通の家庭、普通の人間のやる面白さ。  新聞は多くの人が読むので、いろんな人に判ってってもらえるようなものを心掛けています。  朝刊なので読んだ人が厭な気持になって出かけないような、そんな感じは最初から思っています。  1枚漫画は描いてみたいが、普通の生活の中の1コマ漫画を描くというのはあると思うが、発表の場がない。











2025年7月5日土曜日

桂文枝(落語家 六代)          ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝(落語家 六代)     ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝さんは今年落語生活60年目を迎えました。  若手のころからテレビ、ラジオで超売れっ子となり多くのレギュラー番組を持つ一方、落語家としては300を越える創作落語を手掛けてきました。  60歳からは上方落語協会の会長として活躍、上方では60年振りとなる定席「天満天神繁昌亭」を開場するなど尽力し、文枝さんが入門した当時は数十人だった上方の落語も、今では250人を越えました。  長年上方落語を牽引してきた文枝さんの思い、今の落語界をどう見ているのかなどお話しいただきました。   

先代の文枝さんに入門したのが1966年、今年で入門60年目となります。  人数は少なかったけれどそうそうたるメンバーに出会えたことは良かったです。  先輩師匠方とお別れすることになって、先輩方から引き受けたものをこれからどうするのか、今考えています。  黒柳さんが現在91歳で100歳を目指していて、私は90歳を目指して元気に落語がやれるようにしたい。  私は歩いて舞台に行く、そして降りてゆく事が出来なくなったら最後だなあと思っています。 足腰を鍛えていつまでも高座に出られるようにしたいと思っています。

落語の中だけにいたら井の中の蛙になってしまうので、いろいろと勉強して、それを又落語に持ち帰って行くという事で、いろんなことにチャレンジしたいと思ってきました。  創作落語は350近いと思います。  創作落語は同じ名前は使わない。  昔やった創作落語をもう一度覚えるという事になると物凄くエネルギーが要るんです。  名前が全部違うし、80歳を過ぎると物忘れもするようになりました。   時代と共に昔のものができにくくなる。  昔は待ち合わせで行き違いがあってそれをネタにするようなものもありますが、今は携帯があるので行き違いはない。  次の時代に合う落語を作って、それをいろいろな方に覚えていただく。  古いものほど古くならないという感じはしますね。  

1982年作、坂本龍馬が近藤勇にゴルフの勝負を持ちかける、近藤勇がゴルフに夢中になって行くという展開。  これは作るのに凄く時間が掛かりました。  テーマ、時代背景も様々で、家族愛を描いたもの、日常のふっとした出来事、時代の世相、とか多種多彩です。 2003年作「妻の旅行」、 定年退職した夫の妻へのぼやきを息子とする。  「宿題」、では兄弟愛が必要なのではないかと問う様なものでした。  塾などに行って取材をしています。 事実があってそれが誇張されて、飛躍して又事実に戻るという、そういうのが無いと、やはり落語は市井の生活のなかから起こる笑いでないと同調できないところがある。  第一作は1964年「アイスクリーム屋」 「アルバイト幽霊」 学生時代いろいろなアルバイトをしたので役に立ちました。  

作風は最初のころとかなり変わってきたと思います。  笑いで客が中心でしたが、落語はもっと人間の深さ、想いを描かないと(親子愛、夫婦愛、兄弟愛、友情など)、そこに根底がないと面白いものは作れないというのが段々わかってきて、そこには笑いが無くても深さが大事だなあと思います。  深さがあるから又笑いが大きくなる。  現代の古典を作るというのはぴったりするような気がします。  「温故知新」古いものを温め直す、皆に伝わるように温め直す。   

目標を500作と大きなことを言ったものですから、それをやるのにはどうしても時間が掛かります。  90歳まで頑張らないと絶対作れない。  作った後に練り直して練り直して覚える作業が大変です。   若い弟子(30人ぐらい)に勉強して貰おうと思って、グループラインを使って毎日問題を出しています。   答えを観て順位をつけて、又問題を出します。  弟子にはきっちり教えていかないといけないと思っています。  

今年82歳なので、中継風景で「屋島の合戦」を伝える落語を、30~40年ぐらいやっていないのですが、チャレンジしようと思っています。 




 


2025年7月1日火曜日

小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

 小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

倉橋由美子さんは昭和10年高知県生まれ。  大学在学中の昭和35年初の小説集「パルタイ」が芥川賞候補となりました。  その後は留学や海外生活をしながら、独自の作品世界を描きました。平成17年6月に亡くなりました。 (69歳)  今年は倉橋由美子さんの生誕90年、没後20年に当たります。  小池真理子さんは倉橋由美子さんのエッセイをまとめた本「精選女性随筆集」の選者を務めました。  

私の17歳年上の方になりますが、全く面識がありません。  1968年、69年(高校生)のころに倉橋さんの本に接していました。  『聖少女』は文学好きの文学青年、少女が全員読んでいた。  『聖少女』のテーマが近親相姦、父と娘、姉と弟。  なんて非道徳的なことを書くんだろうと非難を受けるようなことを、むしろ好んで書いていた方ですね。   その中の一つがインセスト(近親相姦)と言う大きな一つのテーマになっていました。    

『聖少女』では交通事故で記憶を失った少女(22歳)が出て来る。  彼女と出会った少年の目を通した箇所と、彼女が記憶を失う前にかいた日記がそのまま作品のなかにあります。  日記の出だし、「今血を流しているところなのよパパ。 何故、誰のために。 パパのために。 そしてパパを愛したためにです。」  衝撃的な出だし。  文体が冷たい。 正統的な日本文学も嫌い。 影響を受けたのはヨーロッパの近代文学、カフカカミュ、サルトルの影響を受けた。  いかにも自分自身のことを書いている様に思われる作品も多々あるけれど、それは自分の死体を自分で解剖するようなものだ、という風に書いています。  世界と自分を凄くわけていて、アウトサイダー的な位置で作家をやっていくという、深い信念のもとに書いていたという印象です。  本人は恥ずかしがり屋で人の多くいるところが苦手。 現実に興味がない。  タブーとされていることを言葉によって、事もなく破って見せるという事に興味がある。  

結婚して二人の娘さんがあるが、結婚制度には物凄く反発していた。  多くの人が望むロマンチックな局面を完全に追放したいという風に書いています。  人間世界の消滅を夢見ている、と言う風に断言している。  徹底したニヒリスト振りが倉橋由美子であり、当時の文学好きの読書好きの憧れを誘った。  女性であること自体を否定しようとしている。

その裏にあるものは何なんだろうと、私なりに出した結論としては、実にこの方は女性的なものを沢山持っていた方ではないかと思います。  その中で自己嫌悪みたいなものを感じる局面が多かったのではないかと思うんです。  倉橋さんの作品はどれを読んでも女の子なんですね。  女性を感じるんです。   いろいろなものの紆余曲折を経て、女性性を持つ自分自身に対する自己嫌悪が若い頃からかなり強かったのではないでしょうか。  彼女は昭和10年生まれで、普通であることに彼女は耐えられないところがあったのかもしれません。

私は三島由紀夫が好きで影響を受けました。  倉橋さんは、「もし私が男だったら盾の会に入りたい。」といったらしいんです。  新聞に掲載されて、それを読んだ三島由紀夫は感動したらしくて、「豊饒の海」シリーズの「暁の寺」をサイン入りで倉橋さんに贈ったそうです。 三島事件で思い知らされたのは、自分が男ではなかったという悲しい現実を突き付けられたと書いています。  自殺してしまわなければいけないぐらいの思想であるとか、想いの強さ、そういうものを女には持てない、女には三島さんのような行動は出来ない、と言うようなことも書いています。  男と女は根本的に違うとはっきりと言っています。 

倉橋さんの小説を書く心構えが箇条書きになっている。

主人公は道徳や世間の常識などに縛られずに行動する人物であること。           実在の人物をモデルにしない。  主人公の名前すら記号になっている。          内面を描くとか、精密な心理分析とか 、とりとめないことを延々と書いて読者に苦痛を強いたりしない。                                                                                                     

おしゃれな感覚を持っている人。  今後も出てこない作家だと思います。  晩年は体調が良くなかった。  69歳で亡くなる。  物語を嫌っていて、物語性が希薄です。  自分自身の生きた青春の一コマの中に倉橋由美子と言う作家がいたという、それだけで素晴らしいことだと思います。

私(小池真理子)は家に閉じこもっている方が好きで、運動もあまりしないです。  夫(藤田宣永 作家)を5年前に亡くしましたが、夫も私と同じで家を出ない人でした。  ぼんやりしているなから浮かんでくるものをキャッチしていきたいと思っています。  倉橋さんと類似しているところはあると思います。  推理小説から始まって、恋愛小説、最近は人間存在そのものに焦点を当てて書いています。  死ぬこと、生きる事、出会い、と言ったような事。  両親と夫を10年の間で看取ったので、書くテーマも違ってくるなと自分では思います。