2025年12月2日火曜日

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために 

現在87歳になる赤塚さんはハンセン病家族訴訟原告団 副団長として裁判に関わって来ました。赤塚さんの父親はハンセン病患者でした。  赤塚さんが小学校3年生のころ、父親が島にある国立療養所奄美和光園に強制収容されました。  ハンセン病患者への差別は家族にも向けられ、赤塚さんはいじめに苦しみました。  しかしその怒りをいじめた側ではなく、病に苦しむ父親に向けてしまい、父親が亡くなるまで顧みることはありませんでした。 親を差別してきた自分の人生を反省し、20年ほど前から差別によるハンセン病被害の救済に取り組んでいます。    父親との思い出から自分の人生をどう振り返って行ったのか、伺いました。

昭和13年に生まれて3歳のころ父親の出身地鹿児島県奄美大島に移り住みました。 父親は黒糖を作るためのサトウキビを作りに南の方に行きました。  ポナペ(ミクロネシアの主要な島)でサトウキビを作ったり指導したり、黒糖を作ったりしました。  父は熱帯病にかかったと言う事で帰ってきました。  ハンセン病の患者という事で、島にある国の療養所奄美和光園に強制収容されました。

昭和22年2月に警察官と職員、突然3人が来て連れて行きました。 父は42,3歳でした。  小学校4年生の時に「乞食」と言われました。 ハンセン病の子供も乞食になるという考えを村の人は持っていたかもしれない。  そこで判りました。 父の顔が赤っぽくて薬をつけても治りませんでした。  同級生が8人いましたが遊んではくれなかったです。   同級生の親に往復で顔を殴られて(海軍びんた)、悔しい思いをしました。 母親は咎めにも行かなかった。  指さすと指が腐ろなどとも言われていました。  

私が親替わりをして下の子の面倒を見たりしました。  父が家に来る時には夜来て朝方帰っていきました。  高校時代に親の話になったりすると逃げだしたくなりました。  高校を卒業後工場勤務を転々として、奄美大島に戻って来て県の職員として働き始めました。(25歳)  結婚式の時には父を呼んでいませんでした。  子供が出来て5,6歳ぐらいの時に、父は70代ぐらいで家にたまに抜け出して帰って来ますが、妻は子供のことを心配しました。はやく戻るように言ったんです。(贖罪 罪滅ぼし) 父はその時「まだお前はハンセン病のことを理解していないのか、自分は首でも切って死ぬよ。」と言いました。 初めて私に対して怒りました。  ハンセン病が治ったという事を理解していなかったという事です。 それからは家に来なくなりました。  亡くなるまで親を遠ざけたいという思いはありました。

父は83歳の時家で亡くなりました。 父をさするという事は出来なかったです。 知識が足りなかったという事が反省です。  大変な病気で一生かかっても治らない病気であると言われていた時代がありました。  私は手足が欠けたり鼻がくずれたりした人を見て来てるんです。  でも知らないという事は罪なんです、罪を作っているわけです。  いろいろ勉強してハンセン病の内容も判って来ました。  

腑に落ちないから反省してこの問題に取り組んでいるんです。  隔離という事は自由を奪う事です。 人権の侵害になるわけです。  ですから国と争っているわけです。                2001年にはハンセン病の元患者に対する国の賠償責任が裁判で認められ、2019年にはハンセン病元患者の元家族に対しても認められました。  勝ち取りましたが、申請は全体の3割です。 貰う事によって逆に差別される恐れがある。  離婚の原因にもなる、そういう人たちが多いという事です。  ハンセン病に対する理解が行き詰まっている感じです。   出来るだけ人に話したくないという病気なんですね。  まだ隠し続けたいという思いです。

講演を行っていますが、まずは物事を正しく知る事です。 正しく知らなければ間違った判断がいろいろ出てくると思います。  































 



















2025年12月1日月曜日

小山美砂(ジャーナリスト)         ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

 小山美砂(ジャーナリスト) ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

グローバルヒバクシャと言うのは広島や長崎だけでなく、アメリカや旧ソビエトなどの核実験やウラン採掘など世界各地で放射線の被害を受けた方々のことです。 この問題について取材を続けているのが、広島市在住のジャーナリスト小山美砂さん(30歳)です。  小山さんは 大阪市の出身、毎日新聞社の記者として広島に赴任し、原爆10日後に降った所謂黒い雨の裁判を取材しました。  2023年にフリーの記者に転身し、その年の10月にはこの黒い雨の取材で日本ジャーナリスト会議賞を受賞しました。  その後も小山さんは置き去りにされた核による被害者の取材を進め、去年の9月には旧ソビエト時代に核実験が繰り返されたカザフスタンを訪問し、慢性的な貧血や頭痛に悩まされる現地の被害者の声を聞き集めました。  小山さんにグローバルヒバクシャの歴史と現状を伺い、世界の被爆者の人権について考えます。

今年被爆80年で、核に対する関心とか、過去の戦争を原爆を含めて伝えてゆくという一年であったと思います。  一方で今も光が当たっていないか、置き去りにされている被害に私はどうしても目を向けなければいけないという思いがあったので、今年出した2冊も改めてだしたいという2冊になりました。 

2922年『「黒い雨」訴訟』を出版。  黒い雨は原爆10日後に長崎で降った雨のことを言います。  原爆由来のすすとか灰も含めて放射性降下物を総称して、黒い雨を捉えるという観点で私は取材と発信を続けています。  私が赴任した時には「黒い雨」訴訟の裁判が始まっていました。 高東征二さんと言う方が原告でありながら、黒い雨の被爆者の証言を聞いている人でした。  「黒い雨」は語り継ぐ歴史だと思っていましたが、現在進行形の問題であると実感して、取り組まなければいけない問題だと思いました。  もう一つ隠されてきた被害であるという事を非常にあります。  取材をすることで責任感も生まれてきました。

アメリカでの核実験のテストがあって、それからずーっと核開発が進んできて、新たに被爆者も生み出されてきている。  グローバルヒバクシャは核実験の被害者、ウラン採掘、原発事故、原発労働者、などの放射線の被害を受けた方々の言葉として知られるようになってきています。 核実験は地球上でこれまで2000回以上実施されています。  マーシャル諸島の核実験では1946年から10年間で60回以上も核実験が行われています。 第五福竜丸の事件もありました。(他にもあり)  旧ソ連でも沢山の核実験があり、インド、コンゴなどではウラン採掘が行われて病気を訴えている方がたくさんいます。 

去年カザフスタンに取材に行きました。  450回以上核実験が実施されています。 1949年8月に最初の原爆実験が実施されました。(旧ソ連として初めて成功した場所)    核実験の被害を受けた人は子孫を含めて150万人とも言われています。  他のところと比べ乳がん、肺がんの罹患率が2倍近く増加していた。 心臓に関わる病気も1,3倍とかデータとして出ています。  精神的な病気も倍増したといわれる。  カザフスタンは日本の7倍の面積があります。 国土の大半が草原と砂漠です。 2024年9月1日から11日まで行きました。 3か所に行きました(首都、旧首都、核実験場があったところのセミパラチンスク)  セミパラチンスク核実験場は市の中心から150kmは離れている。  四国ぐらいの面積のところで何回も核実験を繰り返していた。  周辺の住民が影響をうけてしまった 。  最後の実験から30年以上経ってしまっているが、放射線量は下がっていないところもある。 そこらじゅうにクレーターが出来てしまっている。 

 核抑止論は嘘だと思いました。  カザフスタンの場合は軍事機密だったので、なんかおかしいと思いながらも被害を認識することが出来なかった。  真実をそのままにしておいてはいけないという、真実を伝えてゆくこだわりは「黒い雨」と共通していると思います。 取材して60歳まで生きられる人が少ないという事はショックでした。  86歳の女性が核実験のことをよく覚えていました。  爆発があるよ親が村の中にある穴の中に子供たちを隠した言っていました。  上から絨毯をかぶせてしばらくいるように言われたそうです。 好奇心で絨毯をめくってきのこ雲を見たと言っていました。  親は経験的に知って子供たちを守ろうとしたんですね。 

首都でも取材をしましたが、彼女は核実験場のあった市で生まれました。 皮膚がかぶれてしまって辛かったそうです。  佐々木貞子さん(2歳で原爆に会い10歳で白血病で亡くなる。)の名が彼女の口から出てきました。  広島、長崎のことに心を痛めていました。 しかし、実は自分たちも核の被害者であることを後で知ったと言いました。  広島、長崎もセミパラチンスクも同じ核の被害で、だから手を携えて人類の危機ともいえるような状況を乗り越えていかなければならないと言っていました。 自分の視野の狭さを感じました。  核の問題は地球規模で考えないといけないと思いました。 

今年8月6日にカザフスタンの女性(71歳)を招待しました。 17歳の時に母親をがんで亡くして、その後姉二人を病気で失い、弟も失い、自身も肺がんを患って治療中とのことでした。 核実験との結びつきを意識しました。  カザフスタンの被爆者の権利を拡充、反核、核実験の現状を訴える活動をしている方です。 原爆ドーム等見学して、被爆者などとの交流を通して、広島のことを学ぶと共にカザフスタンの核実験についても知らせて頂くという滞在になりました。 彼女は子供たちの絵を60枚お土産にという事で持ってきてくれました。  セミパラチンスクと広島が未来に向かって一緒に歩んでゆくという動きを作りたいと言って、持って来てくれたものです。  

今関心があるのは、繋がる、繋げるという事です。  カザフスタンでは精神的つながりと言うものを強く言われました。  自分一人ではない、一緒に歩んでくれる人がいるという事が彼女を強くもするし、ある意味身体も軽くすると思います。  世界中に仲間がいるという事は背中を押しているんだなと言う様な気がします。  人々がよりよく生きられる世界を目指すためにも、核被害者の声をちゃんと受け取って、苦しんでいる人たちを救済してゆく、そういう社会を目指した方が、絶対みんなが生きやすいので、核なき世界を目指していると同時にもっとみんなが生きやすい社会を作りたいという思いで、活動しています。
































                                                                   

2025年11月30日日曜日

スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい

スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい

 スワーダさんは東京都出身の72歳、日本名は森田美保子さん。  高校卒業後銀行に就職、19歳で結婚し娘さんを設けましたが離婚、その後文化センターを経営し、洋裁や生け花などを教えていました。 1978年に日本とオマーンの文化交流の催しで、メンバーの一人としてオマーンに渡りました。  それがきっかけでオマーンでの結婚、学校の設立に繋がります。   その学校で日本式の教育を行い多くの成果をあげました。  スワーダさんはオマーン人になった初めての日本人、先日スワーダさんはオマーンで日本式の教育で成果を上げているとして、旭日章受章を受賞しました。

この受賞の喜びは娘にしか伝えられないのが残念です。 父は2000年に亡くなって、実母は子供のころに亡くなっていて、その後継母が育ててくれて、継母も2019年に亡くなりました。 姉も亡くなり、その人たちには聞いて欲しかった。 娘はニュージーランドで学校の先生をしています。 

小さいころからバレエをやっていて、世界と交流が出来たら面白いなと思っていました。   1985年ぐらいまでは森田美保子という名前を使っていました。 戸籍の名前を変更しました。 1979年日本とオマーンの文化交流事業の一人として、初めて行きました。  文化の違いに吃驚しました。  人々がとっても優しかったです。  着物着て琴で「さくらさくら」を弾いたら知っている人がいて一緒に歌っていただきました。  最後の夜にさよならパーティーをしてくれて、やり取りがあり日本に帰った後に、内大臣の秘書から電話がかかって来て、オマーンは好きかと尋ねられました。  もう一度来たいかと尋ねられて機会があれば行きたいと答えたら、本当にチケットが届いてしまいました。  貴方の日本の心をオマーンの女性に教えて欲しいと言われました。  再度行っていろいろ教えて、何回か行き来しました。当時私はシングルマザーで住みにくさはありました。  彼は日本に来て父親に娘さんと結婚してほしいと言われました。  

誠意のある人だったので承諾しましたが、国際結婚は許可ならない時代でした。  正式に結婚したのは1983年でした。 一夫多妻の制度でしたが、離婚が成立して誰もいないという事でした。 相手には3人の子がいて、突然4人を育てることになりました。  買い物は夫がして私は料理を作りました。  ハウスボーイは2人いました。  段々物足りなさを感じるようになりました。  自分で学校を開けば、みんなにいろいろ教えてあげられると同時に、 障害のある子にも何かできるのではないかあなと思って、学校を作ろうと思いました。   主人の兄弟も学校の先生だったので、OKがもらえると思ったらNOだったんです。     しつこく言っているうちに、お金は出さない、自分は一切なにもやらないが、それでもいいんだったらやりなさいと言われました。          

まずお金を生み出すことから開始しました。  自分自身でアラビア語の小学校に行きました。 1990年1月に、弁護士の方に書類を書いてもらって、文部省に提出して、7月に許可が出て9月に始まる予定でしたが、8月1日にイラクがクエートを攻撃しました。  無理かなと思ったのですが、遅れてもいいと言われて開校しました。  5人が来てくれて、私を含めて先生が7人でバスのドライバーが1人いました。  収入を得るためにサマースクールを別途開いて、凄い人数の生徒が来ました。  9月には年少、年長の幼稚園だけではなく、小学1年の3クラスを開きました。  オマーンでもサマースクールが定着しました。

日本の文化を教えるという事で、折り紙、運動会、水泳を教えました。 イスラムで3つの大切なことを教えなければいけないことは、剣、乗馬、水泳でした。  朝礼、ラジオ体操も毎日やっていました。  ラジオ体操をやる事によって脳の活性化が始まるわけです。 上履きを履く。 靴の紐を結わえたりして指を動かすことが脳の発展になる。 指先を使う事を教育の中に入れていきました。  小遣い帳も付けるように言いました。  整理整頓も出来るようになりました。  学校を楽しいところにしたかった。 

2010年に校長職を引退しました。  その当時、小学校から高校生まで850人いました。  これからは大学生を対象に、社会人になるための何かをしてみたいと思いました。  オマーンの大学生と日本に大学生との交流をしようという事でやって来ました。  その延長線上で、子供だけではなくて、大学生ということでいろいろ交流しています。 そして女性の自立を奨励してきました。  日本語を話せる人が結構いて、どうして話せるのか聞いたら、アニメから学んだようです。  日本語ブームは凄いですね。  日本の教育を私は輸出しましたが、輸出した先で学んだ人が、また逆に輸入してくれる。 そこで付加価値がちょっと変わってきて、価値あるものになって行けばいいなあと思います。































2025年11月29日土曜日

谷口浩美(元マラソンランナー)       ・走り続けた人生から皆さんに伝えたいこと

谷口浩美(元マラソンランナー)       ・走り続けた人生から皆さんに伝えたいこと

 谷口浩美さんは宮崎県日南市出身、1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しました。 その翌年1992年のバルセロナオリンピックの一言「こけちゃいました。」は広く知られています。  厳しいマラソン練習を乗り越えたメンタルやオリンピックの裏話など伺いました。 

宮崎県立小林高等学校へ進学、高校2年3年次には全国高校駅伝で2連覇を達成、日本体育大学体育学部体育学科に進学、3年連続で山下りの6区を走って区間賞を獲得、4年目には自身の持つ区間記録を更新し、総合優勝を達成。 卒業後、旭化成陸上競技部に入ってマラソンランナーとして活躍、1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しました。 1992年のバルセロナオリンピックの一言「こけちゃいました。」は広く知られています。 その後は指導者として活躍、現在はマラソンのゲストランナー、講演活動などを行っています。

小さいころから足は速かったです。 中学校から陸上をスタートしました。 宮崎県立小林高等学校へ進学、寮生活になり20人ぐらいの共同生活で全て自分でやらなければいけなくて、生活スタイルが大きく変わりました。  先生になることが夢だったので、そのために小林高校に行き、日本体育大学へ進学しました。 箱根駅伝は第60回からテレビ放送が始まりました。 残念ですが僕は第59回大会の時が終わりでした。  高校駅伝でも2年、3年でも優勝していますが、29回目が3年生で、第30回大会からNHK放送が始まったんです。  テレビに映ることが如何に凄いかという事です。  大学陸上を最後に競技選手を辞めるつもりだったが、教員採用試験で不合格となる。(国体の開催の関係で教員採用されてすでに一杯だった。) 再受験準備のため地元の旭化成に2年間だけ在籍という約束で入社することになりました。

25歳になって教員の道が閉ざされて、宗選手もいてオリンピックを目指す道に進みました。 朝6時ぐらいから12から16km走って会社に出勤します。 4時から6時ぐらいまで練習をします。  エネルギーの元の食を考え、運動するなかで絶対故障しない身体を作ることを考えました。  走っている時には勝つことを考えますが、ずーっと考え続けたら自滅します。頭を使うとエネルギーを結構使うので、エネルギーを如何に使わないように走るかなんです。  走りながらどういう風にエネルギーを温存するかという走り方を覚えない限りは勝てない。  細かなことが全部レースに出て来ます。 

1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しましたが、1988年のソウルオリンピックに出られると思っていましたが、大失敗をして出られませんでした。 1992年のバルセロナオリンピックの3か月前から練習を始めましたが,1か月して右足の人差し指を疲労骨折してい仕舞いました。  1か月前まで極秘入院していました。(バレなかったので参加で出来ました。)  20km地点過ぎて左足をあげるときに外国人選手に踏まれて、転んで、靴が脱げて飛んでいきました。(どこに飛んでゆくのか見てていました。) 直ぐに靴のところに戻りました。  30秒のロスタイムとなる。  一気に追いつこうか、じわじわと追いつこうかと思いました。  30km地点がダウンヒルで、先頭が見えて15番でした。 10位に入れば入賞だと思っていました。 35km地点では12番でした。  8位に入らないと入賞ではないと気が付いて、何とか4人抜いて8位に入れました。8番にしかなれなかったので、言い訳のコメントとして「途中で、こけちゃいました。」といいました。  銀メダルが森下広一さん(旭化成)4位が中山竹通さん 8位が私でした。   

38歳まで現役で宮崎に戻って来ました。  生活のなかで動くという事が基本です。 いまは全く走っていません。 家の階段は4つんばいになってわざと動かしながら登ります。 こんなことをしていても昨年の1月13日に脳梗塞で倒れました。 ゴミを片付けようと思って、左手でゴミを拾おうかと思ったら、左手の先がなんかおかしいんです。  これは脳梗塞だと自己判断して、「脳梗塞だと思うので救急車を呼んでください。」と言って、救急車を呼んでもらいました。(息子からまっすぐ歩いていないとか、タオルを落として何回も拾っているよと言われました。)  日常生活の自分をちゃんと見ているか見ていないかという事は大事です。   ちょっと違うという感覚は自分でしかわからない。  

いろんな機会があれば、話を聞いていただく方が多くいらっしゃればそこに行って、いろんな話が出来たらいいなあと思います。 そのためには健康が大事です。






2025年11月28日金曜日

2025年11月27日木曜日

神津カンナ(作家・エッセイスト・コメンテーター)・〔私のアート交遊録〕 違う角度からものを見る

神津カンナ(作家・エッセイスト・コメンテーター)・〔私のアート交遊録〕 違う角度からものを見る

父は作曲家の神津善行さん、母は女優中村メイコさん、3人兄弟の長女です。 現在は執筆、翻訳、作詞など文筆業にいそしむ一方で、ラジオ、テレビのコメンターターとして、またエネルギーや環境問題、国際協力など様々な分野をクロスオーバーさせて、問題提起をして発信しています。  自らプロデュースする朗読公演、耳で読む文学は16年に及びます。 3年前に食道がんの手術をした後も、両親から受け取ったた多くの言葉に多方面に発信する神津カンナさんに伺います。

2023年12月31日に母が亡くなりました。  母は2歳半から女優をやっていて、凄く長く女優さんをやっているので、亡くなる直前まで仕事をしていて、私の中でわだかまりがあったのではないかと思います。  母親よりも中村メイコさんだという気持ちがあったんですね。 母が亡くなって初めて母に甘えたなあと言う感じがします。 父は93歳で大分耳が遠くなりました。  はずきは母との関係においては、私に嫉妬をするというか、自分を殺して、周りに対して自分のスタンスを持っているという感じです。 善之介は私と14歳違っていて、よく私が面倒をみていましたが、絵描きになりました。 

3年前に食道がんをやって、手術をして大丈夫です。  食道はほとんど全摘しました。 声帯もいじったので声が出にくくなりました。  お酒は飲まなくなりました。 小刻みに食べる様になりました。  母からの教えは質問をすると、同じ質問を返すという事です。 それによって考えることが好きになった。  父からは、富士山を描いてみろと言われて、富士山を描くと二重丸を書いてくれて、これも富士山で上から見るとこう見える、物事は違う角度から見ると、全く違うものが見えると言われました。  最低二つの見方をしなければ、そのものの本当の形は判らないと言われたことが頭に残っています。(小さいころ言われる。)

親の影響がないところで暮らした方がいいという事で、外国へ留学しました。 演劇の方に行きましたが、台本、芝居をやるだけではなくて、全部やらされました。(照明、音響、衣装デザイン、等々)  シナリオを書くことが凄く大変でした。(英語)  脚本を書いた方がいいのではないかと言われて、物書きになりました。  小さい頃三島由紀夫さんに会ったことがあり、何の本を読んだらいいかきいたら、「本と言うのは巡り合うものだから、何を読めばいいと言うものではない。」と言われました。 「だから片っ端から読め。」と言われました。 限りがあるので、周りの友人に私の好きそうなものが有ったら教えて欲しいと言って、 教えてもらって段々私も目があいて、そういったものを好きになって行った。 知らないものを知って、それを世の中に人に味合わせてあげたいと思うようになりました。(20代前半)

エネルギー、環境問題にも目を向けるようになりました。  違う角度から見るという父からのサゼスチョンが生きてきています。 遺骨の問題に出会った時に、初めて日本人特有の考え方があることを知りました。

耳で読む文学は16年に及びます。  単なる朗読ではなく、音楽、照明、スライドでだして、それだけで世界観が作れるかどうかがひとつのテーマでした。  持ち場持ち場の人が率先して考えてくれました。  16回目は辞典をテーマにしました。  いろいろな辞典があり面白いですが、朗読には適さない。  いろいろなことを説明して、辞典ではこういっていますと言う様な構成にしました。 

相撲が好きで、大栄翔が好きで、押しですね。 その人を思っていると「よし 頑張ろう。」と言う気持ちになることが初めて判りました。 

「あるべきようは」と言う言葉が好きです。 「あるべきようは」と考えることが、今生きている私たちが一番失っているものなんじゃないかなあと思います。  「こうあるべきだ。」と言うのではなく「どうあるべきかなあ。」と考えるのが一番いいんじゃないかなあと思います。

北斎漫画は物凄く好きです。  筆は書き直しが出来ないので一回で書き上げます。 書き始めたら終わらせなければならない。 最後まで書くという事は大事だという事を北斎漫画が教えてくれます。









2025年11月26日水曜日

水戸岡鋭治(デザイナー)          ・〔心に花を咲かせて〕 列車だって自然を感じ心地よく

水戸岡鋭治(デザイナー)    ・〔心に花を咲かせて〕 列車だって自然を感じ心地よく 

超豪華列車7つ星を企画デザインして、その斬新さで脚光を浴びた水戸岡鋭治さんです。 他にもこれまでの列車のイメージを変えるようなデザインで注目されて、鉄道関連だけでも数々の賞を受賞しています。 列車を人を運ぶイメージからエンターテーメントに変えたという方です。 元々はイラストレーターやデザイナーで列車デザインとは無縁だったと言います。

100以上の列車のデザインを手がけました。 25歳のころ東京でイラストレーターとして仕事をしていました。  或る時ホテルをオープンするためのポスターを書いて欲しいと言われました。 ホテルの建築は進んでいましたが、ほかのことは全部やらさせて貰いました。 1987年4月、同ホテルのお披露目午餐会に参加し、偶然同席した石井幸孝JR九州社長(当時)の知遇をえました。 これを契機に、同社の列車・駅・広告のデザインに携わることとなります。   観光列車を作るというんで、プレゼンテーションをして、決まってしまいました。 列車のデザインはしたことが無かったんですが、周りからやれといわれてやりました。  タブーである白(汚れやすい)にしてプレゼンテーションをしたら、他の人は大反対でしたが、社長の石井さんだけが賛成してくれて、「この白がサービスの基本になるからね。」と言いました。

オンリーワンの観光列車を作れたらいいと思って、色は白、室内は白と黒だけ、海に向かって走るので、海に向かって椅子を置くとか、考えてJR九州が全部OKといってくれました。 それで終わりかと思ったら、次々と手掛けていきました。 内装に木を使う事も最初は予算の問題とかほかにも問題があって使えず、中途から採用するようになりました。 最先端の技術と懐かしい木を使った列車が出来てきました。  木とか、ガラス、沢山の色とか柄とか、素材をたくさん使っていく。  元々はたくさん使わないのが原則になっています。  一番大事なのは利用者が楽しいという事で、中を歩いても楽しいし、食べたり飲んだり出来たり、そういう旅を提供出来たらいいと思います。 楽しい、笑顔と笑いが生まれる車両が作りたいと思っています。 

マイカーで旅をすると、車内はまちまちで会話もないが、観光列車だとテーブルがあって、話しながら旅をしてゆく事が出来る。 そういったことから最後に豪華列車のアイディアが出て来て、社長から世界一の列車を作るように言われました。  ロマンと夢があるから人を変えてゆくし、社会を変えてゆく。  予算が決まっていても、倍のスピードで仕事をしたり、8時間に自分の時間を足してゆくとコストは半額になって来る。 想いがあるとエネルギーを足して、仕事の質を上げて無駄なことを避けてゆく。  列車であるのに中に応接間が有ったり、バーカウンター、茶室、サウナ、などに加えて西陣織、柿右衛門の陶器、などがあります。  人間国宝の柿右衛門さんのところに行った時に「これは私の仕事だ。」と言いました。  予算がないと言ってもやりたいと言いました。  公共の空間に置くというのが最も大事な仕事だといって、是非列車の中に置きたいと言ってやって頂きました。 それが出来た時に亡くなるんです。  夢と言うロマンに向かって、エネルギーを出して結果として、出来てそのロマン、情熱が見る人を感動させる。  

列車は狭いので、畳一畳の茶室とか、近いからリラックスして喋れるので、本音が喋れる。  狭いと言った人はいません。 茶室は1300✕1800mmしかありません。(景色を見ながらの走る茶室)  私のやっていることはデザイン職人です。  いいものは説明しなくてもしゃべって来ます。  今まで使っていないものとか、知らなかったものとかで、とてつもない新しい事とかはしてい居ないです。  小さいオンリーワンが集まってナンバーワンになってゆくんですね。 

最近では北海道の「赤い星青い星」を作っています。  赤い電車4両と青い電車4両です。 世界のデザイン様式を曼荼羅のように入れたいです。(世界中の人が来るので)  手間と暇を惜しまない。  情熱がクオリティーを作る。  情熱が全てを作ってゆくんだという価値観に戻らないと、薄っぺらな時代になってゆく。  もう一回北海道の良さを知ってもらうにはローカル列車がいい。  無人駅はその村のタイムトンネルで、そこに降りると昔の歴史が判る、物語が見えてくる。  価値があるのに捨ててゆく。 電車とホームと駅は一つのもので、鉄道会社が自分で出来るところ。   地域が変わるためには、ちゃんとデザインできるのは電車とホームと駅なんですね。  駅は元々は皆が集まる公民館みたいなものだった。 駅のトイレは凄く大事に考えています。(ヒーターのある温かいトイレとか) 居心地のいい時間と空間。 楽しいと笑顔が生まれ、最終的には豊かなコミュニケーションが生まれるのが大事です。

如何に生きるはいかにデザインするかと一緒です。 今日は何をしようか、日記をつけることはデザインの行為ですから。  ようやく個人の意識のレベルのデザインが一番難しいというのがわかって来たんですね。  手間がかかるけど自分でデザインしなくてはいけない。  デザインと言う切り口で皆さんのために約に立つことが出来れば(奉仕。、ボランティアなど)可能な限りやっていきたいと思っています。 (稼ぎ仕事(米仕事)から務め仕事(花仕事)へ)  人が喜んでいる姿が一番うれしいですね。
















2025年11月25日火曜日

佐野慈紀(元プロ野球選手・野球評論家)   ・利き腕を失ったリリーフエース

佐野慈紀(元プロ野球選手・野球評論家)   ・利き腕を失ったリリーフエース 

元プロ野球選手で糖尿病による感染症で、右腕の肘から先の部分を切断せざるを得なかった方がいます。 佐野慈紀さん(57歳)は愛媛県松山市の出身、松山商業高校時代は1986年の夏の全国高校野球選手権大会で準優勝を果たしました。 近畿大学工学部を経て1990年度ドラフト会議にて、ドラフト3位にて投手として当時の近鉄バッファローズに入団しました。 1996年には中継ぎ投手として、史上初の1億円プレイヤーとなり、中継ぎ投手の評価を高める存在となりました。  その後中日ドラゴンズや、当時のオリックスブルーウエーブを経て、2003年に現役を引退しました。  39歳の時に糖尿病を患い、感染症の転移によって去年右腕の肘から先の部分を切断しました。  自らの右腕でピッチャーとしてプロで活躍しながら、その右腕を切断せざるを得なかった思いなどについて伺いました。 

体調自体はだいぶ良くなりました。  透析も受けていて体重も落としていかなければいけないという事で、いま小学校高学年ぐらいの体重です。 現役の時に比べてマイナス40kgぐらいです。  最初指に感染症が出て、指を2本切断することになりました。  その時の葛藤は結構あったんですが、感染が広まって腕の方まできて、その速度がかなり早くて、悩む前に決断するしかなかったですね。  2mmぐらいのかさぶたが2つあってそれがずーっと治らなかったんです。  血流をよくするための手術を行って治ると思っていたら、そこから急に感染症になって広がって行きました。  薬を飲んでも透析をしていたので、全部流してしまう。  利き腕の方なのでショックでした。 切断を決めたのが56歳の誕生日の前日でした。  迷いはもうなかったです。 ひじの上の切断では義手もつけられない。  能天気にいた方が気持ちは楽だと思いました。

野球を始めたのは小学校4年からです。 父が野球が好きでした。 高校時代はピッチャーも3番手、4番手でした。 松山商業としては一番弱いと言われるようなチームでした。 ピッチャーが強くなって負けなくなって行きました。  冬場の雪の舞うなかでノックしている時に、選手たちが全員裸になって「さあ来い」といって練習をして、監督、コーチもしょうがなく 自分たちも裸になってノックした、という事が一つのきっかけになったのかもしれません。  当時のキャプテンが水口栄二さんです。  彼が一番最初に脱ぎました。  夏に準優勝と言う結果を残しました。  決勝では投げられなかったのが悔しかったです。(相手は天理高校) 

近畿大学工学部に入学して、リーグ10連覇、最優秀投手賞を4回受賞する。  1年の秋から投げはじめて4年間で28勝しました。  近鉄バファローズから3位指名を受けて入団。  3年で1軍に行かないと首になるという覚悟はできていました。  1年目の成績はぼちぼちだったと思います。  中継ぎ投手としての重要さとか面白さがわかって来て、遣り甲斐が出て来ました。  1995年シーズンには自身初の二桁10勝を挙げる。 1996年シーズンオフには中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。 

1999年、シーズンオフで3対3の交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍しました。  自分自身しっかりしたモチベーションを持てなかった。   国内で契約してくれる球団が無かったので、2001年独立リーグエルマイラ・パイオニアーズでプレーしました。  2002年MLBロサンゼルス・ドジャースマイナー契約する。 2003年オリックス・ブルーウェーブへテスト入団し、日本球界へ復帰。  一軍登板は2試合にとどまり、現役を引退する。   大好きな野球を続けられたのは感謝しかないです。  悔しかったのは優勝をすることが出来なかったという事です。  

今はこのようになって、受け入れることが出来なくて、正直受け入れることは無いと思いました。  ただそれをくよくよ考えてしまうと、ネガティブになって落ち込んでしまうので、気持ちを切り替えようと思って、強がってでもポジティブでいようという風に決めました。  高い壁でもチャレンジして乗り越えた時の喜びは、何にも代えがたいものなので、そういったことを子供たちに教えて行ったら嬉しいですし、野球って何より楽しいので、それを感じて貰えたらなあと思います。



 









2025年11月24日月曜日

2025年11月23日日曜日

田中優子(法政大学 前総長・名誉教授)    ・江戸に惚(ほ)れ、江戸に学ぶ

 田中優子(法政大学 前総長・名誉教授)    ・江戸に惚(ほ)れ、江戸に学ぶ

今日は江戸という町が持っていた高い知性とセンス、それを生み出した教育について伺いました。

田中優子さんは法政大学名誉教授で江戸東京研究センターの特任教授を務めています。  今年は大河ドラマで「べらぼう」という天明,寛政時代、の大衆文化を前面に出した企画です。 江戸中期の平和な時代が大河ドラマにならないのかなと思っていました。  平和な時代でないと文化が育たなかったという事がよくわかります。  手習い(寺子屋)が段々増えてゆきます。  農民一揆が増えてくるが、 一人一人がサインをするんです。  文字が書けないと一揆にも参加できない。 農村でも町でも文字を書くことが必要になってきた。  貨幣で動くようになってきた背景もある。(数の管理) 文字が読めるになると本が読みたくなる。 出版社も本を出して本が売れる様になる。 

江戸は半分の人口が武士であるという事です。  各藩が江戸屋敷を作る。 当時は270藩ぐらいあった。  江戸留守居役が必要になる。(地元には居なくて江戸にいる。)  江戸留守居役のネットワークが出来る。 人口の半分が子供のころからちゃんとした教育を受けて、四書五経を読める。 和歌、俳句も作れるようになる。 知的レベルの高い都市になる。  商人は武士と関わらなければ生きていけない。 遊郭には武士も行くわけで、そこもネットワークが出来る。(接待)  版元は町人で、武士に依頼する。  武士は現金はあまり持っていないので、版元は武士を繋ぎ留めておく。 

大学で近代文学を専攻して、ある時に昭和10年代の文学をやることになり、私は石川淳(フランス文学)と言う人を担当しました。  そのなかに「江戸人の発想法について」という短いエッセイがありました。 読んでこんな人達がいたんだという衝撃を受けました。  いくつもの自分を持っているというのが普通の状態で、お互いに毎日を生きている。

現代の教育は暗記、覚える 、論理力、などが中心になり、科目が全部別れている。 江戸時代の場合は身体を動かすのが基本なので、読む前に筆を執って書く、書いて覚えてゆく。  子供のころからそれをやる。  読むときには声を出して読む。  声と一緒に覚えるとか、手で書いて覚えるとか、今の稽古とよく似ている。  武道も同じ。 修身、自分の感情がいろいろ出てきた時にどういう風に修めるのか、これが修身で道徳ではない。  これを出来るようになると、家のこと、国家の事も治められるようになるという事です。 丁稚奉公に行っても奉公先で計算の仕方、挨拶の仕方などの教育を受けるわけです。 

「習破離」、習ってそれを破って、離れて自分のものにする。  茶の湯、踊りとかの稽古に通じるものがある。  違っていてもそれを良しとするが、今の教育は試験があり、同じ答えを覚えなければいけない。  AIは有ってもいいが使いこなすもの。  それには使いこなすそれぞれの能力が必要で、AIを相手にしたら知識量などは全然かなわない。  知識の量を問う様な教育はもう無理なんです。  個々の持っている思い出はAIは知らないです。  でも人間はそういったものを使うんです。  身体に沁み込んでいる記憶もAIは知らないです。 人間は総動員しながら使いこなしながら編集するんです。 頭の中に知識が溜まるという事と、身に付くという事は違うらしい。 

連句、一人で作らないで皆でつくった方がいいんじゃないか。 連句の作法のなかに付き過ぎない、離れ過ぎないというものがあります。  付き過ぎると前の句と同じになってしまう。  隣の人と同じ人間になってしまうという事と同じ。  離れすぎると続かなくなってしまう。 どちらでもないというのが、本当の関りなんです。  人間関係とはそういうものなんだと、実体験として連句は学ぶ場なんですね。 今はかたまるか、排除するようになってきてしまっている。  人間関係を作り直すとしたら、江戸的な人間関係は最適なんです。 

前の時代には前にあったもの(能、物語とか)を持ってきて編集し直す。 新しいものを生み出す要素なんです。  私たちの時代は江戸時代以前のものを捨ててしまったので、呼び返そうとか、こっちからもらおうと言った発想は全くなくなってしまった。  江戸時代の文化の作り方を私たちが使うためには、江戸時代研究がもっと必要だと思います。 江戸時代の物語は膨大に作られているが、物語分析はさほど行われていません。  稽古を教える立場の人は教えることを指南と言った 教えられる側の心の中に入ってゆく。 その人の持っている能力の手助けをする。  寄り添うだけで、余り踏み込まない。 そういった関わり方、そういう事がこれから必要になるんじゃないかと思います。




















2025年11月22日土曜日

大日向雅美(恵泉女学園大学 学長)      ・村田町で語ろう!子育ての悩み

 大日向雅美(恵泉女学園大学 学長)      ・村田町で語ろう!子育ての悩み                  白鳥久美子(お笑いコンビ たんぽぽ)

多く寄せられたのが兄弟姉妹の育て方、自らのキャリアと両立についてです。 

「兄弟喧嘩へのかかわり方。」

大日向:「兄弟喧嘩は鴨の味」と昔の人は言っていました。  噛み締めれば段々といい味がする。 時間が経つといい味が出てくる。 鴨の味にするのは裁かない事。(公平には裁けない。)  子供は平等に愛されたいとは思っていない。  私だけ特別ねと思っている。 

喜怒哀楽は大事な感情です。  若い世代の人は感情を出すことに臆病なっています。  母親が怒っているという感情は大事です。 

「自らのキャリアと両立について」

大日向:これは永遠の問題かもしれません。  ご夫婦で、あるいは自分で考えて大丈夫です。 正解は無いと思います。  決めたら突っ走る。  頑張っている人を応援しようという時代になってきています。

「0歳の子供、私が育児休業、夫は働いています。  子供を抱っこしてご飯を作って

大日向:気が付かないことが多いと思うので、場面を変えて喫茶店とかで気持ちを吐露すると、気が付かなかったと言ってくれる夫もいるそうです。  妻の気持ちを言っていくことも大事かもしれないですね。

*子供がいたら帰りなさいという上司がいてもいいですよね。(拍手)

「子持ち様」→子供を育てている人が優遇されているのではないかと言う言葉。

「父親同士のかかわり方」

大日向:普段から仕事場で子供のことを話していれば、ちょっと早く帰らなければいけない時に、共有していれば理解ある反応をしてくれる。 

「子育てのやり方で失敗したりして、妻から信用を失ってしまった。」

大日向:母親も失敗を日常茶飯事でやっています。  母親は子供との通訳の役割もあります。  

*子供の好きなスキルを一緒に楽しんだり、どんな日常の子育ても考え方一つだと思っていて、毎日楽しんでいただければなと思います。 

絵本 「ジャッキーのしあわせ」朗読










2025年11月21日金曜日

沢木耕太郎(作家)             ・酒場も学校、旅も学校

沢木耕太郎(作家)             ・酒場も学校、旅も学校 

沢木さんは1947年東京生まれ。 横浜国立大学経済学部卒業した後、しばらくしてフリーランスとなって1970年『防人のブルース』で作家デビュー。 1979年『テロルの決算』で第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。 1986年から刊行が始まった『深夜特急 』3部作は累計600万部を越える沢木さんの代表作です。 60年代に入ってからは本格的に小説も手掛けて、今年翕初めての時代小説『暦のしずく』が出版されました。 なかなか旅に出ることが出来なかったコロナ禍を経て、70代の後半となった今の心境、ご自身の老いとどう向き合ってゆくのか、人生の旅をどう楽しんでいるのか伺います。

2つの長編が終わって、事務所のいろいろなものを片付け始めたら、疲労が溜まってしまって体調が悪くなってしまって、その後に黒田征太郎さんに会う予定があり、必死な思いで会いに行きました。 黒田征太郎さんは86歳ですが、きっかけは僕が22歳の時に大学卒業して、入社式の日に会社員には向いていないと思って、辞めますと言って辞めてしまいました。  ちょっと考えようと思っている時に大学時代のゼミの指導教官が、文章を書いてみる気がないかとおっしゃったんで、「アルベール・カミュの世界」という卒論を書きましたが、通してもらいました。 その先生が後に神奈川県知事となる長洲一二先生でした。 ルポルタージュだったらかけそうだと言ったのが全ての始まりでした。 

ある出版社から若い自衛官の生き甲斐感覚について書いてもらえるか、と言う話がありました。 引き受けることになりました。  答えを出さない人生相談の番組がありました。 僕はディレクターに会いに行きました。  ディレクターから「あんなんだったら俺にもできると思って僕のところに来たんでしょう。」と言われてしまいました。(図星だった。) 「でもそんなに簡単ではないんだよ。」と言われました。  「黒田征太郎さんの30年の人生をちゃんと含んで語っていることで、ただ聞いて対応しているだけと思うかもしれないけれど、そんなに簡単には出来ないんだよ。」と言われて、恥ずかしいことをしたなと思って帰ろうとしたら、黒田さんがきていて、名刺を作るにあたって聞いたら、「まず名前を書いてその横ルポライターと書けばいい。」と言われました。  「ルポライターと書けば誰でもルポライターになれるが、やり続けることが難しいんだよ。」と言われました。  「その名刺、僕に作らせてもらえますか。」と言われました。  500枚美しい名刺でした。 そこから黒田さんとの付き合いが始まりました。 

黒田さんは酒が好きで、新宿のゴールデン街に連れて行ってもらいました。  そこで絡まれたりしたらどう対応するのかとか、酒場は僕にとって凄く重要な学校でした。 入学させてもらったのが黒田さんなので恩義があるので、黒田さんから頼まれたら断らないという事を決めていました。  酒場と言う学校は今は機能していないのではないかと思います。 黒田さんはある時にゴールデン街には足を運ばなくなって、銀座に飲みに行くことになり、僕も銀座に行くことになります。  山口瞳さん、吉行淳之介さんなどの立ち居振舞を見て、学びました。  

劇団四季に入団したこともありました。  しかし10日で辞めてしまいました。 俳優の方とも知り合いになり、京都の飲み屋で色々い連れて行ってもらいました。  酒の場での人との対応の仕方を22,3歳の僕は遭遇していました。  酒場と言う学校で凄く多くのものを学んできたと思います。  

旅も物凄く重要な学校だったと思います。  春にマレーシアに半月ぐらい行きました。  電子カードを一枚持つことで旅は物凄く便利になります。  タクシーを呼ぶのにもアプリがあって5台分ぐらいがパッと出てくるんです。  ドア ツウ ドアで途中の寄り道もない。  駅までいって電車に乗り駅から歩いて目的地に行くというスタイルではなくなる。(僕の旅の街歩き)  アプリを使ったやり方だと目的地には行けるが何も起こらない。   過程を含めた目的地が旅なのに、目的地だけ切り離されて感動は薄いですよね。 愕然としました。   

小学生のころから貸本屋に行って、段々大人のコーナーの時代劇小説、推理小説などを読むようになりました。 高校生の頃にはその棚の本を全部読みました。 僕の文学的な素養は貸本屋の棚によって成り立っているわけです。  今から10年前ぐらいに、これからは1年ノンフィクションを書いたら、1年小説を書いてと交互に書くと言いました。  スポーツ小説、ギャンブル小説、時代小説、推理小説、恋愛小説を書くといいました。  時代小説『暦のしずく』を書きました。(4個目)  馬場文耕(ぶんこう)についての文献が何も残っていない。 それが僕の自由を保証してくれた。  

旅先で何か月間は暮らしたことはあるけれど、1年を越えるような暮らしはないので、旅先で1年ぐらい暮らしたいという思いはあります。 














2025年11月20日木曜日

小松由佳(ドキュメンタリー写真家)     ・シリアの家族を撮り続けて

小松由佳(ドキュメンタリー写真家)     ・シリアの家族を撮り続けて 

地中海沿岸に位置する中東の国シリア、文明の発生地としても知られ古代から東西を結ぶ交通の要所として栄えてきました。 しかし2011年から続く内戦により去年12月のアサド政権崩壊後も不安定な情勢が続いています。 ドキュメンタリー写真家の小松由佳さんは内戦前からシリアで暮らす人々に魅せられ、カメラでその姿を追い続けてきました。 2013年にはシリア人のラドワンさんと結婚、2人の子供の母にもなりました。 しかし夫ラドワンさんの家族も内戦によって故郷を奪われ、難民となります。 平和に暮らしていた家族が内戦によって翻弄される姿を記録した小松さんの「シリアの家族」は今年7月第23回開高健ノンフィクション賞を受賞しました。 

小松さんは秋田出身の登山家としても知られています。  2006年に日本人女性として初めてK2の登頂に成功、植村直己冒険賞を受賞しました。  K2は世界第2位の高峰で最も困難と言われている山です。  祖父母が田んぼで働く姿を見て育って、その向こうには大きく青い山がそびえていて、いつかあの山の頂に立ってみたい、そこから見てみたいという気持ちがずっとありました。  高校時代は秋田県内の山を登って、大学は東海大学文学部へ進学し山岳部に入部して、本格的な登山を学びました。   K2に登る4人に一人は死亡するというデータもあって、非情のいただきとも言われている山です。  K2に登ったのは2006年の8月のことです。  山頂に立った瞬間地球が丸く見えました。 空の色が黒かった。 下山途中に8000mの最終キャンプまで下れずに、8200mの地点で一晩明かしたビバークの夜が忘れられません。  外気温がー20℃近かった。  酸素量も地上の1/3ぐらいしかない。 もしかしたら死んでしまうかもしれない危険な行為でした。 このビバークを乗り切ったことが、私のその後に繋がる大きな分岐点になりました。  

K2で生と死の堺に幾度も立つ経験をする中で、人間が生きるという事がどういうことなのか、山のふもとで受け継がれてきた伝統と共に、どう土地に根差して生きているのか、という事を知りたくなりました。  モンゴルの草原、中東の砂漠などを歩きながら、どんなふうに人が生きているのかと言うのを、旅をしながら写真を撮るようになっていきました。(2007年から)  シリアの暮らしを見たいという事でした。 シリアの国土の8割は砂漠です。  2008年にシリアに行きました。  シリアの砂漠は岩や石がごろごろしていて、冬になると一気に雨が降って一日に数センチ草が伸びて、一面緑の草原のようになる。 シリアには多様な自然があり、魅力的な家族に出会いました。  3世帯60人が暮らしていた家族で、今回の作品のなかでも中心に描かれています。 

シリアの国土面積は日本の半分ほどです。 ユーフラテス川の流域は緑豊かな農耕地で、古代文明の発祥地としても知られています。  8割が砂漠で遊牧民が暮らしている。 首都のダマスカスは世界最古の町としても知られている。  多様な宗派が共存してきた。 訪れた2008年の時の人口は2240万人でした。 

アブドゥルラティーフ一家に出会いました。  3世帯60人が暮らしていた家族でした。 生業は100頭余りのラクダの放牧です。  他にもいろいろな仕事をしていました。(果樹園の管理、サンドイッチ屋の経営とか)  後に夫となるラドワンさんもいました。  女性たちは10人ほど家にいてヒジャブを付けて髪を隠して、家族であろうとも配偶者以外には、自分の身体の線とか、髪の毛を見せないで、ゆったりとした服をまといます。  共同で料理をしたり子供を育てたりします。  アラブの春の影響をうけて2011年3月からシリアでは民主化運動が始まって行きます。  それまで50年余り独裁体制が続いていました。 アサド政権は武力で介入するようになります。  市民も武装して相対するようになり、武力衝突が各地広がっていきます。  

「シリアの家族」の本では、アブドゥルラティーフ一家の或る兄弟が砂漠を逃げ回っているシーンがあり、内戦が迫って来て家族がバラバラになってゆくきっかけとなった出来事でした。 アブドゥルラティーフ一家の16人兄弟の末っ子のラドワンと私は2013年に結婚しました。 夫や家族を通して内戦間の人々がどのような思いで生きているのか、と言ったことを教えてもらったような気がします。  シリアが内戦となる2011年3月の直前に、夫は政府軍の兵士として徴兵されます。  民主化に対して政府が弾圧するようになる。 夫も加担しなければいけなかった。  悩んだ夫は脱走兵となって、国外に逃れる決断をしました。 民主化に参加した兄も逮捕されてしまう。  2016年に両親をはじめ、ほとんどの家族がトルコに逃れて難民となりました。 威厳の有った父も人が変ったかのように言葉を発することがなくなって行きました。 

トルコはシリア難民の7割に相当する380万人以上のシリア難民が流入する国でした。 最初はシリア難民に寛容だったトルコでしたが、大量の難民の経済負担もあって、シリア難民に対する感情も変化していきました。 2020年以降コロナ禍で物価上昇が問題となり、シリア難民の排斥運動も盛んになって行きます。  ヨーロッパに向かう人々も増えて行きました。 移民となってヨーロッパに行くとなると、一人100~150万円ほどの支出をしながら命の危険のある海を小型ボートで渡って行かなければいけない。  私は人間の不平等を凄く感じました。 

何年も前からアサド政権下のシリアを取材したいと思っていました。 当時単独で取材に入るという事は難しかった。  2021年に夫の父のガーゼンが難民として亡くなったという事を受けて、親族訪問ビザを利用して2022年に得ることが出来ました。  夫の故郷パルミラでは秘密警察の監視を受けながら取材を行う事になりました。 夫の実家は半分が破壊されて家具なども略奪されてからっぽで廃墟と化していました。   かつては6万5000人近く暮らしていたパルミラですが、その当時は500人ぐらいしか残っていませんでした。 2年後にアサド政変が崩壊して人々が戻って来るとは予想していませんでした。 

アサド政変が崩壊したのを知って、8歳の長男を連れて、レバノンの空港で日本から来た夫と合流してシリアに入りました。  サイドナヤ刑務所は、多くの囚人が一度はいるとほとんど帰ってこられないという事から、人間虐殺の場とも呼ばれています。 実態はベールに包まれていた。 政治犯が行きつくと言われてきた場所です。  2012年に逮捕された夫の兄も収監されていました。 囚人の名簿のなかで兄は2013年には死亡していることが判明していました。 アサド政権下で行方不明になった人は10万人近いと言われています。 行方不明者を捜すビラがびしりと貼られていました。 

今年6月にもシリアに行きました。  より新しいシリアを作って行こうという希望が増しているような気がしました。 難民も故郷に帰って来て、新しい生活が始まっていました。  夫の故郷のパルミラでも、夫の兄たちが戻って来て家の一部を補修したり、インフラの整備などもしていました。  パルミラでは学校は半分ぐらいが開いていない状態です。 病院では最低限の治療などは行われますが、手術、出産などは大きな町に行かないと設備がないという状況です。  不発弾、地雷などが一部の家屋に残されています。 地雷事故も起きています。  夫は13年間日本で暮らしてきましたが、彼は彼らしくいられる場所で生きた方がいいと思うんです。 彼や家族の姿をこれからも 見つめ続けたいと思います。







 



























2025年11月19日水曜日

堀内恒夫(野球評論家・元読売巨人軍監督)  ・巨人V9を支えた大エースに聞く 後編

 堀内恒夫(野球評論家・元読売巨人軍監督)  ・巨人V9を支えた大エースに聞く 後編

堀内さんは18年間で560試合で203勝、200勝を達成した時には 32歳。  最近では田中投手が37歳、工藤投手が41歳、山本投手が42歳。

僕らの時代は酷使に近い状態だったと思います。 今は期間は長い、登板数も少ないし、それで勝てないんでしょうけれども。 

3年目にアメリカのドジャースキャンプに3人で行きました。(北川さんピッチングコーチ、宇佐美 同期) いい経験でした。2試合投げました。 

日本シリーズでの登板数27(シリーズの記録)、投球回数140回1/3(シリーズの記録)、勝利数11勝(シリーズ稲尾投手とタイ)  比較枝的器用なピッチャーだったので使い勝手が良かったのかも知れません。 

昭和46年9月5日右手に打球を当てて亀裂骨折。 ボールが投げられず、住田?先生に1週間マッサージしてもらって気絶するような痛さでした。 盗塁の福本選手対策をいろいろやりました。  森さんは晩年で肩も弱くなってきていました。 森さんもセカンドへの投球練習をしました。  森さんはバッターの遠いところに投げられないと始まらないとよく言っていました。  ピッチャーにもキャッチャーにも第六感があるのでそれを大事にしようと言っていました。  年齢も一回りぐらい違うが、首を振ってもいいと言ってくれました。  キャッチャーの求めているところへ投げないとリードなんてできないわけですから。 球種はストレートと、カーブとチェンジアップでした。  チェンジアップは1970年にアメリカの選手に教わって、2年間練習をしてそれから使いました。 1972年は26勝9敗で、沢村賞、MVP(シーズン)も貰いました。(他には王、長嶋選手のみ)   

川上監督はもう雲の上の人で、3,4年間話をしたことはないですし、食事を一緒にした事もないです。 

もっと身体が大きければ、アメリアでも通用したかもしれませんが、小さすぎました。(身長が177cm) 昭和48年がV9になる年でした。  全5試合中3試合に登板して2勝0敗。  第3戦でホームランを打っています。 ピッチャーでホームランを打つというのは日本シリーズでは余りないのでは。(ホームラン2本)  

川上監督は今日の試合は大事だというと、選手がパッと納得するんです。 そうすると勝ってしまうんです。  いい選手がいっぱいいましたが、9年続けて勝てるようなチームではなかったと思います。  川上監督だったからV9が達成できたんだと思います。(他の監督だったら3,4回ぐらいだったのでは)  僕の結婚式の仲人は川上さんがやる筈でしたが、やらないことになってしまって、川上さんが長嶋さんへ連絡をして、長嶋さんがOKという事で決まりました。  

1983年5月の甲子園球場が最後の仕事になりました。 (203勝目) プレイイングコーチだったのでコーチの仕事の方が多かった。  出るピッチャーがいなくて飲んでいる席で明日登板してほしいと言われました。 朝何とか酒を抜くのが大変でした。 2年振りの先発でした。 6回が限界で最初で最後ですが、自分で手を挙げて交代を要望しました。 エースと言うのはコンスタントに力が出て、コンスタントに結果を出してゆくピッチャーが、エースだと思います。 (長いスパンで考えたもの)  9回投げることがエースの仕事です。 


















2025年11月18日火曜日

山田洋次(映画監督)            ・生きる喜びを伝えたい

山田洋次(映画監督)            ・生きる喜びを伝えたい                       賠償千恵子(女優)

94歳を迎えた山田洋次監督の91本目の最新作「TOKYOタクシー」はまもなく公開されます。 主演は山田監督が欠かせない名女優倍賞千恵子さん、そして19年振りの山田作品出演とな木村拓哉さんです。 新作に寄せる思いを山田監督、倍賞さんに語っていただくと共に、山田監督には映画つくりの原点や家族や故郷への思い、今なお健在の創作意欲はどこから生まれるのか、又倍賞さんには山田作品の魅力や難しさ、そして度重なる病やアクシデントをどのように乗り超えたのかなど、伺いました。

山田:「TOKYOタクシー」の映画を準備し始めてから1年目ぐらいですね。 ちゃんと楽しんで呉れるのかなあとか緊張します。  自分で作ったもは判らないんです、観客が決めてくれるんで。  

倍賞:私もまったく同じ意見です。 

映画の内容 木村拓哉さんが演じるタクシー運転手と終活に向かう倍賞さん演じるマダムとタクシーで旅をする中で、心をお互い許しあってやがて想像もしなかった奇跡が訪れる。 

倍賞:今迄ネイルをしているとか指輪をしているとか豪華な衣装を着るとかは、やった事は無いんです。 

山田:倍賞さんの今までの作品とは違う、まず老人であるという事、華やかに装って自分を偽って、自分を演出するようなそういうおばあさんである、そんな役は今まで僕の作品ではやったことがない。 それが楽しみでした。 過去に彼女にとっては新鮮な素敵な青春時代があったんだという、今のおばあさんを通して想像できなければいけない、「下町の太陽」の頃の彼女のイメージを演出して作ったつもりです。 

倍賞:ネイル、メイク、つけているものも私(主役のすみれ)にとっては、挑戦的でなければいけない、と言うところから選んでいって、自分の心にも私は挑戦的にならなければいけないと言い聞かせて、撮影に入って行きました。 

山田:倍賞さんが最後に急に弱いおばあさんになっちゃうんだよな。 ラブロマンスではなく木村拓哉君との間に不思議な愛情が一瞬通う。 もたれかかるほどすみれさんは実は寂しかった。 年老いた女性は皆寂しさを抱えて生きている。  心の通い合った幸せな一日がタクシーの中で繰り広げられる。 

倍賞:山田さんの人間を見る観察力、温かさ、などを一人の人間にスポットを当ててその人を描いてゆくのではなくて、その人の後ろ側にいる人、その人をささえている人がいると思いますが、その人にもスポットを当てて膨らましてゆく。 そういう人間の見方が好きですね。 それが画面を支えている。 隅々まで人が生きている。

山田:映画監督として必要な心掛けは、どんな人間に対してもその人間に対して興味を持つと言う事、同じ人間であり同じ人間としての権利をもっているし、人間としての魅力、弱さも同じように持ってるんだという事を、いつも意識しながら人を見ていなければいけない。  それは僕は渥美清さんから学んだな。 あの人は本当に人を良く見ている。 観察してそれを自分の芝居に取り込んでいる。 

倍賞:山田さんのイメージがあり、それをしっかり出さないと厳しいですね。

山田:なぜ納得いかないか、自分でもわからないことが多いんだよね。

倍賞:台本を基本にやっているんだけれど、もっと違う見方がある筈だとか、もっと違う表現がある筈だ思っていらっしゃって、自分の何かに合わないと違ってくるんですね。

山田:時々ぴちっと決まると笑っちゃうんです。

山田監督は中学生の時に旧満州大連から引き揚げ、1954年松竹に助監督として入社。 「男はつらいよ」シリーズ、「幸福の黄色いハンカチ」などを作り続けてきました。

山田:僕はルーツというか、故郷がないんだなという事を思います。(生まれてから青春時代は点々としていた。)  「男はつらいよ」でのあんな家族がいたらいいなあと、憧れみたいなものです。  小学校時代はお笑い映画ばっかり見ていました。 小学校4年生ごろは落語が好きでした。  辛い時に馬鹿なことをいうと笑ってしまって、笑うとまた力が出てくるんです。 「男はつらいよ」は無意識にそうなってきてしまったのかもしれません。 中学時代にアルバイトをした一つにちくわを何十本も売り歩くんですが、売れ残りが結構あって、こまっているときに競馬場の近くにおでん屋があって、それを買ってくれて又売れ残りが有ったら来なさいと言ttくれたおばさんがいて、有難くて涙が出ました。  さくらさんみたいな人だったんですね。 何十分の一でもいいから、映画を観た観客がもうちょっと元気に生きて行こうと、思えるような映画になればいいなと思います。 

倍賞さんは相手とのやりとりで、どんどん吸収してうまく受けとめて、そのことによって相手の役者迄うまく見えて行くという、相手の俳優を上手く見せることができる稀有な人なんです。  演技をする前にまず一人の人間としてどんとそこに存在している、存在しているという事が出来る俳優と出来ない俳優がいるんです。  貴方は貴方であってほしいところがあって、その上で演技をしてほしい。  言葉で説明できなくなる。 笠智衆さんなんて存在だけですよ。 居ればいいという、特別な人でした。 

倍賞:自分がしばらく山田さんとお仕事をしていないと、怠けていたという事が凄くよくわかるんです。  芝居を学ぶというのではなくて、人間としての何かを学んで行けば自分のなかからそれが出てくるみたいな。  渥美さんは相手の立場に立っていつも物を考えている人で、凄く優しくて、辛い思いを一杯してきたからそういう事が出来るんだろうと思います。  学校みたいだと思うのは、人間として失なっているものはないだろうかと、自分を確かめる時間でもあります。 

山田:渥美さんは天才だよね、ああいう人を天才って言うんだ。  凄い能力を持っている、何をやらしてもできる。 中学しか出ていないけど、大学を出ていれば一流の学者になったりしたんではないかな。

倍賞:一番最初はスキーで複雑骨折をしてしまって、肺がん、乳がんをして、右手を骨折して、動脈瘤をやって、脊柱管狭窄の手術をして6本ボルトが入っています。 2年前に大腿骨を骨折をして新しい骨を入れて、まだほかにもあるかもしれません。 母からの言葉「実るほど頭を垂れる稲穂かな」「人のふり見て我がふり直せ」とか手帖が変るたびに先頭に書いて、自分のよりどころにしてきました。  それが今に自分に至っているのかなと思います。

山田:映画を観た人が幸せな思いで映画館を出て行って欲しいと、そういう映画であってほしいという事はいつも考えています。 寅さんを通して僕が観客と会話を介していたんだと言う風に思います。 同じような土俵で似たような登場者が、今度は違う物を見せてくれよという、そのような要求にこたえて作り続けて来たし、面白かったねと観客が思って後にしてくれた、そういった体験が僕にとってとっても強烈ですね。 渥美さんと言う人は観客と同じ方向を向いている人なんですね。 一緒に歩いている様な、そういった姿勢は大事だと思っています。 観客と仲間のように作って、みてもらいたい。 いいよと言われるような映画を作りたい。



 

2025年11月17日月曜日

友吉鶴心(薩摩琵琶奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 友吉鶴心(薩摩琵琶奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

友吉鶴心さんは1965年東京浅草出身。 明治生まれの祖父の影響で幼少から様々な伝統芸能を学ぶ。 日本舞踊、三味線、お花、お琴、お香、書、鼓、狂言、などで自分が好きでした。   常磐津、義太夫、清本、長唄などもやりました。 1987年(22歳)薩摩琵琶奏者の鶴田錦史さんに入門、演奏活動を始める。 今年はプロバスケットボールBリーグの試合でもオープニングで演奏しました。 チームの紹介をするわけですが、名前を言うだけでファンの歓声が凄かったです。 

戦国時代薩摩地方(現在の鹿児島)で武士の教育をするために、琵琶と竹の笛のどちらかをやらないといけないという教育をしていました。 (島津家)  琵琶も 音楽的なメロディーを弾くというよりも、唄う事、語る事が中心です。  私の家は父方も母方も薩摩琵琶の奏者でした。  幕末から明治にかけて凄く流行るんです。 その時に曾祖父が始めるんですね。 母方は琵琶を教える人でした。 父方が友吉鶴心で母方が山口速水でした。  薩摩琵琶と言う言葉は明治14年なんです。(薩摩では単に琵琶と言っていた。)  明治14年に明治天皇が東京に下った時に、島津公が大きなパーティーをやって、琵琶の名手二人に御前演奏をさせる。 明治天皇が素晴らしいと言って、琵琶ですと言ったら、薩摩琵琶かといって薩摩琵琶と言う言葉が生まれました。 

今は琵琶屋さんは都内に一軒しかありませんが、明治、大正、昭和の第二次世界大戦の前までは45軒ぐらいありました。  海軍は宮崎出身者が多くて、みんな琵琶をやっているので、琵琶がかっこいいという事で広がって行きました。  東京ぽい節回しになって、芸能として錦心流ができて傾倒していきます。 琵琶のボディーに半月とか丸いお月様がついていて、月を崇拝する国、(中東)で作られて、シルククロードを経て、琵琶が仏教と一緒に日本にやってきたと推測されています。 糸は今でも絹の糸です。 

雅楽琵琶、盲僧琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶(薩摩琵琶と三味線とミックス 女性用)の5つが大きな流れとして伝わっています。  それぞれ素材から違います。 平家琵琶は雅楽琵琶と盲僧琵琶を足して生まれたものです。  持ってきた楽器は120~130年ぐらい経っています。  関ヶ原のころに植えられたものを江戸時代に伐採されて、天然の乾かしが入って朽ち果てた木をそぎ落として、なかの芯の桑の木でつくられたものです。 大正、昭和の大名人と言われた大館 洲楓先生がこの楽器を発注して作て頂きました。 それを今私が預かっているという状態です。 

*祇園精舎 演奏

私の師匠は鶴田錦史です。 鶴田流です。 女性ですが怖かったです。  悲しいところを悲しそうに歌うと駄目だというんです。 もっと朗々と歌えと言うんです。  私は死のうとしてる人を跨いでここまで生きて来た。(戦時中)  助けてと言うのを自分の命を優先してしまったから生涯その言葉は耳に残っている。  悲しさを越えている。  あんたたちは悲しさなんて判らないと、いつも言っていました。   聞いてくれる人が100人居たら100人の悲しさに音曲が落ち込めば、心の中に入れば、100人の悲しさがある。 役の人の悲しさとドラマの聞いた方の悲しさとがあいまった時に悲しさは広がるのではないかと言うのが師匠の考えでした。 

鶴田 錦史師匠は1911年北海道の生まれで、13歳のころから演奏活動をはじめて、1967年に武満徹に見いだされて、ノヴェンバー・ステップス』にて琵琶奏者として世界デビューを果たす。  世界のコンサートホールで100回以上演奏をしています。 琵琶での風の音、波の音、擦る音、など鶴田 錦史と武満徹先生の考案した奏法です。  稽古ではカセットテープをとって、それが今は宝の山になっています。  糸の具合とさわりでどれだけ稽古をしてきたのか判ります。  うちの師匠の凄いところは人前では絶対褒めるんです。  あんた私よりうまくならないと駄目よといつも言っていました。  弟子が上手くできないような師匠では師匠ではない、と常に言っていました。 

日本の音とは、日本人が持っている感性じゃないですかね。  感性が表現された音が日本の音だと思います。 











2025年11月16日日曜日

神野美伽(歌手)              ・演歌を世界に!

神野美伽(歌手)              ・演歌を世界に! 

神野 美伽(しんの みか)さんは1965年大阪府の出身。 1977年民放のテレビ番組東西ちびっこ歌マネ大賞」に出演した際、芸能プロダクションからスカウトされ、高校卒業後「カモメお前なら」でデビュー。 作曲家・市川昭介の門下生となって、1987年にNHK紅白歌合戦に初出場しました。 その後演歌だけではなくロック、ジャズ、シャンソンなど様々なジャンルの歌に挑戦しています。 

一昨年歌手生活40周年。 『SIZUKO! QUEEN OF BOOGIE』 ~ハイヒールとつけまつげと言う、(ブギの女王「笠置シヅ子」の一生を歌と芝居と生バンドで描く!歌とライブ演奏とで送る。)ものの主演をしました。 どっぷり演劇に漬かりました。 コロナ禍があり、6年振りに再演しました。 知っていた歌は6曲ぐらいでしたが、19曲を覚えました。 6年の間に「シズコ」というアルバムを出しました。 NHKの「ブギウギ」も後押しをしてくれました。

幼稚園時代に盆踊とかでやぐらの上で歌っていたらしいです。 太鼓だけで歌っていて、リズムで歌うという事は大好きです。  スカウトされたのは小学校5年生の時でした。 都はるみの「アンコ椿は恋の花」を歌える子を捜していると言う事でした。 放送されて、スカウトの電話がいっぱいかかって来ました。  電話では断っていましたが、最後のスカウトマンが家まで来ました。 でもまだ考えられないと言っていたら、最後に美伽さんは好きな歌手はいるのか問われて、「岩崎宏美さんです。」と答えたら、ピタッと止まって「宏美はうちだよ。」と言いました。  歌手になりたいと母に伝えて、直ぐに東京に出てゆく事になりました。(子供だったので7年後)  デビュー曲を12曲、いろんなタイプの曲を作って頂きました。(演歌でした。)    

演歌を違う評価が受けられるところで試したいと思いました。 ニューヨークへ行くことに決めました。(48歳)  オーディションがあり、ライブとか全部英語にして送って、或る所で15分あげるというところがありました。 リンゴ追分」を歌ったりしました。  何年か歌わせていただいているうちに、面白い歌を歌っている日本から来ているアーティストがいるという事で、ジャズや、ミュージシャンの方たちの耳にも届いて、2018年テキサス州オースティンで行われた世界最大級の音楽イベントSXSW(ロックンロール) に日本人演歌歌手として初めて出演しました。  着物を着て演歌をロック風にアレンジして歌いました。  チャレンじしましたが、笠置シズ子さんもそんな方だったと思います。 同時代に会っていたら物凄く共鳴したと思います。  

シャンソンだけのコンサートを開きます。 私20代のころから銀座の有名なシャンソンの店に入り浸っていました。(美輪明宏さんとか)  25,6歳の時にフランスへ2,3週間行って毎日シャンソンを聞いていました。  ポイントポイントで導いてくれる先生がいました。出会いが全てです。  人様が私を作ってくれます。 そのために毎日元気でいたいんです。 数年前から病気を持っているという事が判って、手術、入院を繰り返していた日々だったので、危機感を常に持つようになりました。  歌う一瞬のためにどれだけ日々節制して、そのためだけに生きているかという事ですが、やりたいことを一番優先すべきだと思います。この喋っている時間、歌っている時間が物凄く大事だと思っています。 


















2025年11月15日土曜日

石黒浩(ロボット学者・大阪大学大学院教授) ・「いのち」と「こころ」を問い続けて

 石黒浩(ロボット学者・大阪大学大学院教授) ・「いのち」と「こころ」を問い続けて

石黒さんはこれまで様々な人型ロボット、アンドロイドの開発に取り組み世界的に注目されてきました。  そんな石黒さんは先月閉幕した大阪関西万博で、命の未来パビリオンを担当し、私たちが直面する可能性のある人とロボットが共存するその未来を最新型のロボットや映像などで表現しました。 石黒さんは人間にそっくりなロボットを作る目的は、人間を深く理解する事だと言います。 滋賀県出身で子供のころから絵を描くことが好きだったという石黒さんが、どのようにロボット研究に進んで行ったのか、石黒さんがロボット研究を通して考える人の命と心とはどのようなものなのか、話を伺いました。

石黒さんそっくりのアンドロイド「ジェミノイドHI-6」がいます。

現時点で考えている心とは、人間同士やロボットとのやりとりの中で感じる主観的な現象であります。 つまり存在そのものと言うより、関係性の中で立ち上がるものなんです。 (アンドロイドの答え)

「ジェミノイドHI-6」は私より仕草が豊かですし、何語でもしゃべれるので、私よりも言語能力ははるかに高いです。子供の頃は普通にアニメロボットを見ていたぐらいです。  物を作ったり、昆虫採集したりするのが好きでした。 絵を描くのが好きでした。 小学5年生の時に或る大人から「人の気持ちを考えなさい。」と言われました。 「気持ち」、「考える」という事がどうしたらいいか判っらなかった。  大人ってすごいと思いました。  中学、高校の頃には答えを知っている人はいないのではないかと思う様になりました。  絵を描くことは自分の内面を表現するようなものなので、自分の気持ち、自分の考える事を考えるのと同じだと思います。

当時コンピューターが流行り始めて、そちらの方面の大学に行きました。 コンピューターは人間の脳に近いものだという事が判って来ました。  人工知能だけだと人間のように賢くなれない。 自ら経験できる身体が無いと、コンピュータは賢くなれない。 それでロボットの世界に入って行きました。  まずはデザインをどうしたらいいかという事でした。 人間そのものではないかと思いました。  人間そっくりのアンドロイドの研究をするようになりました。  すべての活動において「いのち」とかこういう事を考えることは大事だと思います。 

「いのち」とか「こころ」は一人では感じられないものだと思います。 人とかかわった時に自分は生きているんだ、自分はこういう「こころ」を持っているかもしれないとか。 人間を含めてすべての生物は、自分の内面を見る感覚はほとんどなくて、外側ばっかり見ているんですね。 外側で観てるものを通して、自分の中の「いのち」とか「こころ」を理解しようといしているのが人間だと思います。  生物はタンパク質で出来たメカニズムであって、メカニズムで「いのち」を厳密に定義する事は出来ない。 分子の構造だけで決まるよりは、互いの関係性の中で決めてゆくようなものではないかと思います。 相手と共感したり、自分らしい何かを見つけることによって、自分の中にも似たようなものがあるかも入れないと、そういう事を繰り返しながら、自分の断片をかき集めて来て、わたしの「こころ」が出来上がっているんじゃないかと思います。

夕陽も自分の「こころ」を動かす一つの他者であると思います。  自然のものを見ながら自分の「こころ」の状態に気が付くという事は十分あり得ます。  人間とか人間に近いロボットを相手にしている時には、相手がどういう「こころ」を持っているのかも同時に見つかるものと思います。 最も大事なものは想像力だと思います。  人間の環境を観察する能力は9割が想像、1割観察みたいな、そんなバランスかと思います。 想像を上手く引き立てるようなアンドロイドだと、自分の好みの人間性を上手く見出すことができる、そんな存在になるような気がします。 

ロボットにも「いのち」を感じられる50年後の未来を描いたドラマが、命の未来パビリオンで上映されました。  おばあさんは身体的な寿命を迎える前に、自然な死か記憶を引き継いだアンドロイドになるのかの選択を迫られます。 アンドロイドになっても生きていて欲しいと願う孫娘の思いに心が揺れ動きます。 あえて答えは出していないです。  自分だったらどうするか真剣に考えている、そこが一番大事にしたかったところです。  みなさんが涙するのは、根本にあるのは皆さん命を大事に思われているからではないかと思います。 アンドロイドにはアンドロイドの意識があって、おばあさんにはおばあさんの別の意識がある。 記憶は連続的につないでいくことはできる。  50年経ったら人間らしいアンドロイドは作れるようになると思います。 新たな命の広がりを自分たちはどうやって受け入れてゆくのか、受け入れないのか、それは我々自分自身で決めて行かないといけないことだと思います。

ロボット開発から学んだ命や心、その学びを踏まえて人間はなぜ生きるのか、について伺いました。 働く為、楽しむため、いろいろあると思いますが、究極の目的は進化するためだと思うんです。  いろんなテクノロジーを取り込みながら、我々の身体や能力を拡張しているわけです。 他の動物は持たない進化の手段を手に入れたからだと思います。  多くの人と共感しながら多くの人からいろんな情報を貰えるような、そんな心が必要なんだろうなと思います。  進化において多様性は凄く重要です。  多様の中から選りすぐれたものが出てくる。その優れたものが新しい多様性を生み出す。  そういったことの繰り返しだと思います。

1000年後の未来、究極の命の未来、精神体になる。  精神体になっても身体は選ぶわけで、選んだ身体を使てより豊かにいろんな人と心を通わせて行く。 身体を自由に選べるようになるという事が大事かなと思います。 究極の多様性かもしれない。 人間の身体には制約があるが、そこにとどまる必要はない。  新しいテクノロジーをうけ入れる時は今まで以上にそのテクノロジーの力を人に大きな影響を与えるわけですから、使う側はより高いモラル、倫理を持つ必要がある。  そのためには人とは何か、社会とは何かと言ったことを深く考えて、目指す方向、どういう風に人間や社会を進化させていけばいいのか、ちゃんと自分たちで考えてゆく事だと思います。 人間の教育期間は更に伸びる可能性があると思います。

ドローンも沢山戦争に使われています。  だから戦争をしないという事が物凄く大事です. テクノロジーをちゃんと平和利用し、人間の進化に結び付ける。  地球上全体の心の進化が必要不可欠になる。 新しいテクノロジーを軍事利用すれば、非常に効率よく人の命を奪う事が出来るようになる。 心を進化させない限り新しいテクノロジーを普通に使うなんて言う事は難しいかもしれない。 










2025年11月14日金曜日

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 後編

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 後編

谷川俊太郎さんは一貫してものごとに執着せず、自分自身に固執しないあり方を追求してきました。 それを表す言葉が「デタッチメント」です。 

「デタッチメント」=距離を置く、離れる事、執着しない事、依存からの脱却、と言う様な意味になっています。 

志野:私の娘がニューヨークから一時期引っ越してきて、家は祖父の住んでいたところと父の住んでいる二つあって繋がっていましたが、祖父の家の2階にいれば娘がいるかどうかなんて判らないような感じなんですが、そこに娘が一時期住んでいたんですが、父は自分が使い慣れたスペースに孫娘でもいると、ちょっとそわそわして気が落ち着かないからアパート代を払ってあげるから探してくれと言って、娘はショックでした。 祖父と仲良くしたいと言う様な目的もあって来たのに、孫にはちょっと距離があるんだなあと思いました。

賢作:「一人がいいなあ。」と言うのは口にしていました。 

志野:他人に気を使う人なので、だから一人が良かったというのがあると思います。

賢作:介護の話に繋がるんですが、2023年9月1日から車椅子を導入しました。 その前からよく転んで杖をついて歩いていましたが、転ぶと亀のように全く起き上がれないんです。 それが介護の始まりですね。 私だったら何で早く来ないんだと激高しますね。

「転ぶ」 と言う詩

「立ち上がるつもりで転んだ。  転んだら初めから転ぶつもりだったと思いたくなった。  床に横たわっているのは立っているより自然だ。天井は昨日と同じ天井である。 違う天井でもいいのにと思う。 いやいややはり見慣れた天井がいいと思い直す。 折角横になっているのに   小便したくなった。 立ち上がって便所に行くのを   想像する。 楽しい想像ではないが   取り立てて嫌でもない。  ピンポーン   と玄関のチャイムが鳴った。  立ち上がるきっかけが増えた。   待っていた艶書かもしれない。 」

艶書はラブレターのことで、相当虚勢を張っている様な気がしますが。 転んで天井を見上げている時に詩が出て来たんでしょうね。(晩年の詩)

「デタッチメント」とどういう繋がりがるのか判りませんが。

志野:プライベートなことを外に出したくないとことは普通あると思いますが、プライベートなことに距離を置けて、詩にして公表てしまうというのはあらゆる「デタッチメント」だと思います。  

賢作:この語録ですが、あらゆる感情が淡いですね。晩年になってからの感覚に近いんじゃないかな。  父の晩年を見てて、次は自分の番なんだというものがひたひたと来てますね。 こんなふうに死ねるのかなという事を考えちゃうところはあるし。 車椅子になってヘルパーさんを頼んで見てもらう事になって、6時から9時と設定しましたが、父から大分抵抗がありました。 なんだ貴方はそこにいるの、と言う風でした。  2024年10月には「今日誰がみていてくれるの。」と言って大分変りました。  施設も見学に何か所も行きました。 気に入ったところはありませんでした。 

志野:一人が好きだったので、知らない人がいっぱいいるスペースは好きじゃなかったので、それもありますね。 

賢作:介護のこの状況がいつまで続くのかなあという思いはありました。  仕事は続けたいし。  ごく自然に「ありがとう。」と言う言葉が有りました。  朝起こして、リビングルームに連れていって血圧、体温を測って、薬を飲んだりするすべてに「ありがとう。」と言っていました。 

志野:割と昔から「ありがとう。」と言っていたと思いますが、機会が増えたと思います。  介護しやすい素直な老人でした。  

賢作:一番切なかったのは、直ぐ書いてしまう人が、ラップトップを前にしてボーっとしているのが寂しかったですね。  外に連れて行きたかったが、夏場暑くてなかなかいけませんでした。 

「ラストよたよた」(滞在記録2023)

「この世の滞在記録が 九〇年を超えた 快挙であると ひそかに自負している  自分も世界も健やかとは とても言えない身分としても ラストスパート いやラストヨタヨタに差しかかると… 朝陽(あさひ)にびっくり夕陽(ゆうひ)にびっくり星にびっくり自分にびっくり 奇跡でないのは人の手が触れたもの」

根底にいつもユーモアがあったなあ。

*「ここ プロローグ」  作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

志野:長年二人がいたという感じがこの詩のなかにあるなあと思って、好きなんです。

7月に本を出版 「行先は未定です」  目次「いきる」(今は生きている意味も無くていいと思える)「はなす」(僕には自分の言いたいことが無いんですよ)「あいする」(好きってやっぱり非常に肯定的な言葉ですよね)「きく」(良い音楽には自分がない そうう言う言葉を書けたたらいいな)「つながる」(人間であることが厭なんですよ わざとらしいんですよ)「しぬ」(死ぬと言うのはどういう感じなのかなあ 死んでみないと判らないんだよね)

賢作:最晩年はハイドンを聞いていました。 「ハイドンには自分がないからいいんだ。」と言う言葉が返って来ました。  ハイドンはつまらないからいいのかもしれない、緩やかで。  庭をボーっと見ている感覚と繋がるのかもしれない。

志野:父の人生をこういう形にして出してもらえるという事は、とても嬉しかったです。 「行先は未定です」と言うのは俊太郎さんらしいと感じました。 死ぬのは不安だという事は無かったようです。 

賢作:最晩年の或るインタビューで、「俊太郎さんの一番興味のある事、やってみたいことは何ですか。」と言う問いに、「死んでみる事」と即座に答えていました。

志野:生きているのにもうくたびれた、と言う様な感覚があったんじゃないかと思います。  死ぬのを待っていると言う様な感じはありました。  

賢作:素晴らしい人生だった、やり切ったよね、という、もう思い残すことはないというような感じです。 

志野:看護師さんから急に脈が少なくなっていると言われて、1分に1回ぐらいの脈でした。  それが長くありました。  娘を呼んで二人で横にいて、「もう大丈夫だから逝っていいよ。」と泣きながら言いましたが、亡くなった瞬間が判らなかった。 時間をかけて亡くなる時もあるんだなあと思いました。 

「芝生」

「そして私はいつか どこかから来て 不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた だから私は人間の形をし 幸せについて語りさえしたのだ」

「何事もなく」

何事もなく一日一日を過ごすのが なんでこんなに難しいんだ 手から滑って落ちたワイングラス 高いものでも大事なものでもないが 散らばったかけらが心に刺さる     体は自然から生まれたけれど 心はいつどこから生まれたんだろう 草木と同じ犬猫と同じ私の命は深く柔らかな生命の流れから逸(そ)れて 硬くぎこちないものになってしまった  目にする全て手にする全てにいつか言葉がべっとり張り付いて 近づいてくるはずだったのに かえって世界は遠ざかった 世界とか言葉とかは毎日の地道な暮らしにそぐわない 青空のもっとうえの宇宙だが いつかそこまで行ったとしても まだまだ先は限りないと 子供の頃から言葉に教えられた  夕焼けに言葉を失い 星空に恐れを抱く 命はそれだけで十分なのに


















 





2025年11月13日木曜日

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 前編

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 前編

詩人の谷川俊太郎さんが92歳で亡くなって1年、11月13日が命日です。 谷川さんは昭和27年20歳の時に詩集二十億光年の孤独』でデビュー、現代詩に限らず本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上に渡って活躍しました。 国語の教科書に採用された詩もおおく、幅広い人々に愛読され親しまれた国民的な詩人でした。 私生活では詩人の岸田 衿子さん、俳優の大久保知子さん、絵本作家の佐野洋子さんと3度の結婚と離婚を経験しました。  谷川さんの長男賢作さん(65歳)と長女の志野さん(62歳)に谷川さんとの思い出や心に残る言葉について伺いました。

 賢作さんは作曲家・ピアニストとして活動、志野さんはニューヨークを拠点に環境保護の重要性を次世代に伝える活動をしています。

賢作:志野は父に似て、やることをてきぱきこなしてくれます。

志野:兄はいてくれて心強いです。 小学校のころはよくケンカをしました。  15歳で私は家を出て両親は兄に任せたという後ろめたさはあります。 父の介護が必要になった頃は全部兄がやってくれていました。  ですから父の片付けは私がやっています。  私がやった方が思い出があまりないので、気楽に分別できます。  

賢作:お別れの会は堅苦しくない会にしようと思いました。  帝国ホテルでやらないとと、周りの人から説き伏せられました。  祭壇などは素朴にしようという事で大分近づきました。  自然の好きな人だったので、素朴と言う言葉が一番だと思います。  私は作曲家なので、父の合奏曲の多さには吃驚しました。 

志野:父のことを研究したい方がいると思うと、資料をしっかり整理したほうがいいなあと思います。 研究して欲しいという思いもあります。

谷川賢作さんは1960年東京生まれ、作曲家、編曲家、ピアニストとして活躍しています。 NHKの「その時歴史は動いた」のテーマ曲(オーケストラ)を作曲。 映画、舞台音楽の作曲、編曲を担当しています。  日本アカデミー賞優秀音楽賞を3度受賞しています。  1996年ごろから谷川俊太郎さんと一緒に、コンサート活動もしてきました。  賢作さん率いる「DiVa」(音楽グループ)と俊太郎さんの詩の朗読のジョイントコンサートを行ってきました。 

賢作:主に活動していたのは1997年から2000年までです。(佐野洋子さんと離婚した時で作詩も中断の時期)  昔から人前で朗読するのが好きな人でした。 

志野:娘の友達からインタビューしてくれないかと言われて、娘が「なんで詩人になったの。」と聞いたら、「それしかできないから。」、「どうして詩を書いたの。」と聞いたら、「家族がいてお金が必要だったから。」と言っていました。

賢作:「僕はいつも詩を疑っている、言葉を疑っている。 詩より音楽が素晴らしい。」と言っていました。

谷川志野さんは1963年東京生まれ、15歳でボストン郊外の高校に進学、以来拠点をニューヨークにおいています。 

志野:大学はグラフィックデザイナーの科目で、卒業後4年間グラフィックデザイナーとして仕事をしました。 海洋学を学ぶために大学に行きました。 大学院に行ってそれが今の仕事に繋がっています。  環境保護を次世代に繋げる仕事をしています。  都市などでは雨が降ると下水管が詰まってしまって、川とかに流れ出てしまう。 人が泳げなくなってしまう。 それで緑のスペースを増やそうという運動をしています。 

賢作:父と一緒に映画に行った思い出は貴重です。 (小学校) 人類滅亡とか子供が見ないような内容のものを連れて行ってくれました。  「2001年宇宙の旅」は小学校2年生の時で全くわからなかった。 テレビは見せてもらえなかった。 大人向けの映画は見せてくれました。 普通の子ではなくてもいいという思いが明確にあったようです。

志野:父が観たいものを一緒に観るというような感じでした。  全部アメリカ映画でした。中学の時に学校へ行きたくないと言ったら、車で一緒に湘南海岸に行ったことを覚えています。 楽しかったです。

賢作:学校で父が詩人と言うのが恥ずかしかったです。  からかわれたりしました。

志野:私のころは教科書に詩が載っているんで、物書きと言っていました。

賢作:父は音楽をやることは喜んでいたと思います。 色々応援してくれました。

*「けいとのたま」 作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

賢作:「言葉は何を言っても意味がすぐ生まれるから厭なんだ。」といって、我々に対する問いかけかもしれません。  「言葉に我々は頼り過ぎている。」とも言っていました。  音楽は好きでしたが、最晩年は「音楽よりも鳥の声を聞いている方がいい。」と言う様なことも言っていました。 

インタビューで聞き手の皆さんが意味を求めるんです。 この詩は何について書かれた詩ですかとか、メッセージは何ですかとか。  解釈は自由だなと思います。

「僕は自由に解釈して貰う事に嫌な気持ちは全然ないですね。  今まで自分が考えていたものとは違う何かを発見して貰えたら嬉しいという感じだね。 僕にはこういうつもりで書いたのに、と言う気持ちがないからどう解釈してもらってもいいんです。」

これは基本的な父の態度ですね。  

「生きる」とか、「朝のリレー」とか、自分の有名な詩だけが独り歩きしているのが凄く嫌だった。 

志野:父は言葉に疑問を持っていた人なので、特に志野はこうしなさいとは言わない人だったので、結局人生観とか言葉にならないものなんですね。  講演で人によって違う解釈をしますが、それはそれでいいんだと思います。 一人一人の生き方によって、読んだものの解釈は違ってくるのが普通なんだと思います。  「自分で好きなことをやっていいよ。」と言うのが、父親からの一番のメッセージだったと思います。  









2025年11月12日水曜日

佐藤弘道(タレント)            ・応援を励みに、自分が目標になれるように

佐藤弘道(タレント)            ・応援を励みに、自分が目標になれるように 

NHKのEテレの「おかあさんといっしょ」で「たいそうのおにいさん」として12年間務めて多くの人に親しまれまれています。  ところが昨年6月2日研修日に突然腰や足に違和感を覚えて、強い痛みのために病院に直行すると、脊髄梗塞と診断されました。 それから壮絶なリハビリに務め、いまは車いすや杖が無くても歩けるようになっていて、より一層体力が付くことを目指して、リハビリやトレーニングに励んでいるという事です。 仕事も復帰していますが、佐藤さんは同じような病気をした人の目標になれるように、努力していると言います。

今は腰回りの神経が全くないので、シャワーをかけても腰回りは当たっているのか当たっていないのか判らない様な状況です。  股関節から下は24時間しびれがあるので,温かい、冷たい、痛いがちょっと鈍い。  左足の方が麻痺が強いので、歩き方もひいていくような感じです。 脊髄梗塞は一生治らない病気で、私はバランス系の神経が切れてしまっているので、歩く時も立っている時も自分の身体の中心を探りながら立ったり歩いたりしている状況です。(見た目は判らない。) 躓いても転ばないようなリハビリをしています。 

人一倍健康には気を付けていましたが、まさかの病気でした。  6月2日の朝4時に起きたら左足がしびれていました。  荷物をもっていこうとしたら、左足ががくんと沈んでいくような感じがしました。  転んでおかしいと思っていましたが、仕事に出掛けなければいけないと思ったので、自分の車で羽田空港まで運転していきました。  バス移動の場所まで歩いていくうちに段々気持ち悪くなってしまいました。  腰回りに痛み出て来て、万力で締め付けられるような痛さでした。  無理かもしれないと思ったが、飛行機から荷物を降ろすという事は周りに迷惑をかけるからという事で、行けるところまで行こうと妻から説得されて、痛みも凄くてバスに乗る時も足が上がって行かないんです。 飛行機に乗る時にも両手を使って必死に登っていきました。 

ようやく座れて離陸して、どんどん痛みが増してきて、痛みに耐えていたが、どうもおかしいと言ったら、妻が本当におかしんだと気付いてくれて、着陸の時に車椅子を用意しておいてもらいました。  立とうと思ったら駄目でした。(4時間で完全下半身麻痺でした。)  お腹の周りはケンザンで打たれている様な痛みがずーっとしていました。  車いすに乗って、救急車で病院に行ってみてもらいました。 たまたま整形外科の先生がいました。  腰が痛いと言ったので、レントゲンを撮ることになりました。 骨は全く異常がないと言われました。  脳神経の女医さんがたまたまいました。 MRIを撮って貰ったら、脊髄が白くむくんでいました。 脊髄炎か脊髄梗塞かどちらかもしれないと言われました。  時間経過が経てば経つほど回復が遅れるんです。(原因が判らず病院を盥まわしされる場合がある。)   

脊髄梗塞の治療法を調べたら、支持療法(がんなどのような重篤な疾患や生命を脅かすような疾患を抱えている患者の生活の質を改善するために行われる治療、ケアのことと書いてありました。  この病気は治らないんだと言う事が判りました。  どん底に落ち込みました。発症して1週間後、事務所の方と話をして発表する事になりました。  パソコンでは伝わらないと思って直筆で、症状の状況とか、復帰できるかわからないが待っていてほしいと言う様な内容を書き、出演番組に発表しました。 SNSでも発表しました。 発表したらこの病気とちゃんと向き合わなければ駄目だと自覚が芽生えてきました。  発表した瞬間によしやろうというスイッチが入ったんです。   応援メッセージなど沢山来ました。  私も脊髄梗塞の患者ですと言う方から、車椅子に乗りながら旅行したりいるから、佐藤さんも頑張ってと言う様な励まし、あるいはもう歩いて仕事をしてますというものもありました。 成功例を見た時に僕も動けるようになるのではないかと思いました。(プラス思考に変る。) 

リハビリも早ければ早いほどいいと言う事は後から知りました。 僕は翌日からリハビリをして頂いたのでラッキーだったと思います。 リハビリの鬼と言われました。  鳥取には3週間入院していて、東京に戻りました。  たまたまリハビリの担当の女の子が、前に体操教室に行っていた選手で引退後リハビリとして働いていました。  一層懸命やってもらいました。 自分の部屋でも自分でリハビリをやりました。  東京でも3週間入院していましたが、最後の1週間は自分でも立てるようになりました。(歩行器使用)  病棟を歩き回りました。  鳥取の病院にいる時には妻や子供がポジティブな言葉だけ送ってきてくれました。  家族は笑顔で対応してくれてよかったです。 

僕は体操の選手かオリンピックの選手になることが夢でした。  柔道は幼稚園のころからやっていました。  小学校2年生の時に開催されたモントリオール五輪で見た日本の男子体操チームの活躍を見て、かっこいいと思って体操の選手になりたいと思いました。 中学時代は進学先に体操部がなかったため、友人に誘われてソフトテニス部に入部し、中野区の大会で団体で優勝しました。 高校は日本体育大学荏原高等学校に進学し、器械体操部に入部。  高校生では危険な技を練習して、失敗して頭から落ちて、頸椎亜脱臼、首の骨がずれてしまいました。(手術をしてワイヤーで固定。) オリンピックの選手の夢は潰えました。体育の先生を目指すことにしました。 日体大に入って体力測定は全体で2位でした。  

父が倒れてしまって、インストラクターを辞めて、父のやっていた焼鳥屋の店を継ぐことにしました。  彼女がNHKのラジオ体操のお姉さんをやっていて、履歴書を出すことになりました。  オーディションを受けて、今度は二次オーディションを受けたら佐藤さんに決まりましたと言う連絡がりました。  母からの後押しがありやることに決めました。 研修後、3月14日に初収録で、前日から病院にいました。 具合が悪かった父が朝死んでしまいました。 その日が初収録となってしまいました。  こういう業界の仕事は親が死んでも行かなければいけないという厳しさを、うちの父親が教えてくれたんだと思います。 

脊髄梗塞は生命保険の対象外、僕の場合は杖が無くて2km以上歩けるので障害者手帳ももらえません。  5項目の指定をクリアしているのに、国から難病の指定を貰っていない。   発症数の少ない病気という事です。  指定難病になるように活動を進めています。 「ヘルプマーク」が意外と知られていないので、「ヘルプマーク」の啓蒙活動もして行きたいと思ています。  「出来ないことを求めてもしょうがない、出来ることを一生懸命やりなさい。」と療養師?さんに言われました。  けがや病気で頑張っている人の励みになるようなことが出来ればいいなあと思います。













2025年11月11日火曜日

徳光和夫(フリーアナウンサー)       ・テレビとラジオ しゃべりの世界

 徳光和夫(フリーアナウンサー)       ・テレビとラジオ しゃべりの世界

今年84歳を迎えた徳光さんは、アナウンサーとして62年もの間第一線で活躍してきました。 テレビでの印象が強い徳光さんですが、パーソナリティーを務めるラジオ番組は今年15周年を迎えました。 テレビとラジオのそれぞれの魅力や違い、アナウンサーとしての原点、しゃべることの醍醐味、そして今なお大事にしている信念など、時代を越えて愛され続ける徳光節の魅力を様々に伺います。 

現在のラジオ番組パーソナリティーも朝5時スタートです。  ラジオは自分で原稿を書いたりしなければならない。 フリートークのところがあるので時間調整が必要になる。  ラジオは正直にやらないと駄目ですね。 映像がない分全部見破られている気がします。 69歳から始めて15周年を迎えました。 ラジオは生涯勉強ですね。 毎回新鮮です。 

長嶋さんの一挙手一投足を自分の言葉でしゃべりたくてアナウンサーになったんですが、王道はニュースかスポーツ中継で、プロレスには行きたくないと思っていましたが行かされてしまいました。 地方への出張もあります。(野球が見られなくなる)  プロレスの選手への取材は一切できない。  選手への知識がないのにもかかわらず、中継をしなければいけない。  作り話のような感じで自分でプロフィールを作ったりする。  レスラーは受け身のスポーツなので、受け身を如何に放送するかと言う事がプロレス中継の醍醐味だと言われました。  軽く投げたにしても大技に見えるような受け身をする。   レスラーの回復力は早いです。(トレーニングで) 

或る番組でデストロイヤーが四の字固めを急に私にかけることになり、それをマイクを持って放送しなければいけない状況になってしまい、激痛の様子をしゃべったりしました。  あいつにニュースをやらせると信用しないというようなことになりました。  でも47歳の時にはニュースのメインキャスターになりました。  ニュースは縁遠い番組なので勘弁してほしいといったが、きてしまいました。  ニュースは当時は政治からはじまって順番が決まっていて、格調高い言葉でしゃべっていた。  テレビを見ている人には伝わらないと私は思いました。  私が判らなかったらニュースではないと、言う様な事で担当させてもらいたいと言いました。  ニュースを自分の言葉でしゃべるようになって、今のラジオに生きているのではないかと思います。

石原伸晃さんがなだしお事件があった時に、報道局にきて現場からニュースを伝えましたが、言葉が難しくて中継中に、よくわからないから判り易く話してほしいと言ったら、やはり同じようにやっていたので、中途でもう結構ですと言って、次のニュースに行きますと言いました。  烈火のごとく怒って来ました。  わがままを言っていましたが、そのニュースの視聴率が上がったんです。 判りやすいニュースの機運が高まりました。 リポーター(女性)を増やして判り易い言葉を取り入れるという方向にしていきました。 

フリーになりたくて言ったら、このまま続けてくれないかと言われてしまいました。 結局3年間やってフリーになりました。(言ってから1年半後) しかしこの3年間勉強したり良い経験をさせてもらいました。 それがフリーになった後の大きな栄養になりました。  ニュースは是非体験すべきだと思います。  私なりにどういう風に伝えるかという事を考えるようになりました。  

歌番組に関してはキャリアを積んできました。 「年忘れ日本の歌」 アナウンサーの力を発揮できるのは、イントロにのせて、イントロかぶせのナレーションだろうと思いました。 歌詞の横顔を紹介する、これはプロレスで培ったものです。 曲に合わせて盛り上げ方を自分で考えて書きます。  人と接するのが私たちの仕事なので、初対面の人でもその人のいいところ、好きになりそうなところを捜す訳です。  この仕事をするにあたって身に付いた習性だと思います。 「ズームイン朝」の仕事を担当するようになってから、自分はアナウンサーに向いているのではないかと思うようになりました。  自然体で人生が生きられるという事は、アナウンサーにとって非常に大切な事じゃないかと思います。  妻が軽から中程度の認知症になって、私はこんなに楽しいのに、彼女はこの楽しさを知らないのかなあと思うと、申しわけないような気分になります。  私が看取らないといけないという様な気持ちです。 











2025年11月10日月曜日

伊集院光(タレント)            ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 前編

伊集院光(タレント)         ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 前編 

伊集院さんのデビューは6代目三遊亭円楽さんの門下の落語家でした。 伊集院さんと6代目円楽さんとはどんな師弟関係だったんでしょうか。

いまNHKラジオ「伊集院光の100年ラジオ」を担当しています。 NHKの100年に及ぶアーカイブ資料、録音素材を改めて聞いて凄いと思っています。  技術の凄さを感じています。放送日は毎週土曜日午前10時5分からNHKラジオ第一放送、FM放送では毎週日曜日午前11時に放送中。  放送100年をきっかけに出来た放送。 ラジオに出演するようになって40年になります。

6代目三遊亭円楽さんは1950年東京都墨田区出身。  5代目三遊亭円楽さんに入門したのは昭和45年4月、青山学院大学に通いながらの弟子入りでした。 大師匠6代目三遊亭円生さんから高座名楽太郎を頂き、昭和51年に二つ目に昇進、翌年27歳の若さで民放テレビの大喜利番組に抜擢されました。  昭和56年には真打に昇進し、2010年6代目三遊亭円楽を襲名、東西の人気落語家が所蔵団体の垣根を越えて交流する博多天神落語祭、札幌落語祭のプロデュースを手がけました。 2022年4月には江戸東京落語祭開催にも尽力されました。 この時円楽さんは脳梗塞の療養中で出演が叶わなかったものの、8月には高座に復帰、しかし訃報が届いたのは高座からわずか一か月後の2022年9月30日、72年の生涯を閉じました。 6代目三遊亭円楽を襲名した時、落語家は50年やらなければ駄目だという大師匠の言葉を引き合いに、楽太郎の名前で40年やってきた、円楽で後15年やりたいと抱負を語っていましたが、円楽襲名から10年で幕を下ろすことになりました。

僕はひきこもり、上手く学校になじめなくて、高校生の時にこんなはずではなかったと思いながら、高校に行けなくなりました。  逃げ場として寄席に行っているうちに落語に興味を持ち始めました。  親戚で5代目の円楽にはコネクションがあるということでした。 でも弟子が多くて、当時の楽太郎の方がいいんじゃないかと言われました。 何度も土下座をして入れると思っていたら、会ったら即入門が許可されました。 後で知ったんですが紹介してくれた親戚の人は5代目円楽の弟だったんです。 1984年に入門しました。(17歳 師匠は34歳)  理屈で怒るから世代的には大丈夫だろうという事でした。 三遊亭楽大と言う名前は5代目円楽が付けてくれました。  師匠が理論的に怒ったのは良かったと思います。 映画のチケットを呉れて映画を観に行ってこいと言ったりします。  「苦労は芸の肥やし」だというが、「肥やしをやり過ぎると植物は枯れる。」と言うんです。  たまには肥料の調整をしていいんだと言いました。 

話の流れ、ギャグの使い方、声の大小など理論的に説明してくれて、納得がいきました。   「失敗をした時により派手に謝ることで、失敗をしなかったよりも下手すればいい効果があるよ。」、と言ったことを言われました。  謝るときには出来るだけ早く大げさに謝るように言われました。  終電の新幹線に見送りに行かなければいけないのに、忘れてしまいました。師匠は名古屋に3日間行っていて、今謝るのか、帰って来て謝るのかですが、僕はバイクで名古屋に行って、ホテルのフロントに直筆で謝りの手紙を書いておきました。 (とんでもない手段を使ってきていることは判るわけです。)  又夜中に長野からの帰りに車で帰って来るんですが、道の指示を僕がやる予定でいましたが、眠ってしまって怒られて、サービスエリアで降ろされてしまいました。 どうやって帰ってきたか面白く話せればOKだというんです。 アクシデントがあった時にちゃんと笑いに変えられれば、俺は許すと言う考え方なんです。

39℃の熱が出ていたが、師匠の家に行って部屋掃除をしたりする予定があり、無理して出かけました。(褒められると思った。)  師匠は怒りました。 体調管理が出来ていないことは恥だと言われました。  今日やらなくてはいいような着物の洗濯屋さんへ持っていくようにとのメモがありました。 自分の家から歩いて5分のところで、要は休んでいいという事でした。   師匠の掌で遊ばされている、育てられている感じがします。 師匠はかっこいいおしゃれな人でした。  

1988年に私は二つ目に昇進しました。  落語で行こうと思った時に高校を辞めてしまいました。  退路を断ったことはでかかったです。 同年には第17回NHK新人落語コンクール(現:NHK新人落語大賞)本選に、「子褒め」で出場しました。  最初は勲章を貰えるような古典落語家になりたいという思いがありました。  自分の才能の限界にぶち当たって努力を怠ったりする中で悶々としていた時に、兄弟子だった人が落語を廃業して放送作家を始めました。  

その兄弟子から私にラジオ番組に別のキャラクターで漫談をやって欲しいと言われました。  伊集院光の名前で出て、売れ始めました。 あいつは三遊亭の名前が恥ずかしいから、伊集院光の名前で活動いているという事を、大師匠に告げた人がいました。  大師匠は楽太郎師匠に怒ったが、楽太郎師匠は「あいつは馬鹿だから一回やらないと何もかも判らないだろうから、このまま続けさせます。」と口答えをしたら大師匠は烈火のごとく怒ってると連絡が入りました。   楽太郎師匠は大師匠と僕の考え方との板挟みになっているということを聞きました。    伊集院光でやって行くという事で落語を廃業することにしました。 


























2025年11月9日日曜日

嶋暎子(アーティスト)           ・80歳でブレイク 折込チラシをアートに

 嶋暎子(アーティスト)           ・80歳でブレイク 折込チラシをアートに

嶋さんは1943年東京生まれ。 新聞の折り込みチラシのあらゆる写真を切り抜き、それを貼り付けて制作する巨大なコラージュ(ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法)など、独特の作品世界で注目されています。 4年前自宅近くの個人ギャラリーで数日間だけ開いた個展が、SNSで大きな反響を呼び80歳を目前に一躍人気アーティストとなりました。 嶋さんは結婚後仕事や家事、育児に加え家族3人の介護に追われ30年近く創作活動を中断しましたが、50代半ばになって本格的に再開、高密度と呼ばれる緻密なコラージュに辿りつきました。  紙が私の絵具と語る嶋さんにお話を伺いました。

渋谷で展覧会が開催されていて100号サイズ(165cm✕140cm)が4枚連なって、迫力がある。 高層マンションが連立していて未来都市のように見えるが、目を凝らしてみるとマンション群が折込チラシのマンションの写真が一杯重なっている。  さかな、ネギ、バナナなどが飛んでいる不思議な光景。  一点で、集中して3か月ぐらいかかります。  材料は全てチラシから切り抜いていきます。  紙質を選ぶという事もします。  使えそうだと思ったものをおおざっぱに集めて、時間のある時に鋏で切り集めて行きます。  広告一つ見ても時代と共に読めるものがあります。 切ったものは透明な引き出しケースに入れておきます。 色ごとに分類して、選んでいきます。  鋏も3本あります。 少しづつ輪郭を取って貼りこみます。 糊は普通の糊と木工用の接着剤を混ぜて使っています。(糊によって印刷の色が変わらないように)  細かいところを貼る時に、貼り残しが有ったりするときに、つまようじの先に糊をつけて修正したりします。 

SNSでの発信があり、大ブレークしました。  見て下さった若い方が元気をもらったとかいろいろなことを言ってくださって、少しでも元気が分けられてよかったなあと思います。 感想、ご意見を頂き、私も励みになって嬉しいと思います。 

父は若い頃から美術関係の本を家に集めていました。 それを見て育ったという事は大きな影響かと思います。 絵が好きでした。  小学校で観た山下清さんの貼り絵展が印象が強く、ピカソ、マティスも切り絵があるので、そういったところから自分でも紙の作品を作り出したものと思います。  高校生の頃はピカソ、マティスの切り絵の影響が大きかったかも知れません。  高校時代が貼り絵のスタートかなと思います。  高校卒業後、就職して美術部に入り油絵をはじめました。  貼り絵を出展して奨励賞を頂いて、それから貼り絵にシフトしていきました。  個展でやなせたかしさんから「紙様のように心のままに貼って下さい。」といったサインを頂きました。 

27歳で結婚して子供も二人生まれて、家族も7人だったので、生活、仕事に追われていました。 (55歳ぐらいまで続く)  夫の両親、姉、が同居して大変でした。 夫の父は早く亡くなりましたが、私が更年期のころには夫の母と姉、そして実母も呼び寄せて、介護が始まりました。  会社を辞めて徐々に時間が出来てきたので、みんなが寝た夜中に切り絵を始めました。  30年近く経ってから個展をやりました。  公募展に4点ほど出して、新人賞を頂きました。  その後作品つくりに打ち込みました。  創作活動開始が55歳ぐらい。  ほんの少しの時間を見つけては作品に取り組んだり、夜中2時、3時迄やっていました。  子供にはしわ寄せが行っていたかもしれません。  両親、姉を看取ったのちに76歳の時(2016年夏)に背中に激痛が走りました。 診断は腰椎化膿性脊椎炎でした。 直ぐに手術を行いました。 ボルトを入れたので1年間コルセットを装着しまた。  1年間は車椅子の生活でした。  切り絵の小さな作品を作り出しました。 2018年に世田谷の区民ギャラリーで個展を開催しました。  2019年も個展を行いました。  大波は被らなかったとしても、ひたひたさざ波が打ち寄せている様な人生でした。  高密度のコラージュをこれからも作っていきたい。  









  




















2025年11月8日土曜日

一幡公平(カメラマン)           ・〔人ありて、街は生き 〕 放送百年、歴史を秘めたラジオ塔を探して

一幡公平(カメラマン) ・〔人ありて、街は生き 〕 放送百年、歴史を秘めたラジオ塔を探して 

ラジオの電波を送信する電波塔のことではありません。  多くは公園にあって高さが2m~4m神社やお寺にある灯篭か常夜灯のような形をしています。 実はこれはスピーカーからラジオの音声を流す街頭ラジオで、かつては多くの人が集まって放送を楽しみました。    ちょうど100年前の1925年(大正14年)3月日本でラジオ放送が始まりました。  より多くの人にラジオ放送を聞いてもらい普及を促そうと1930年(昭和5年)大阪の天王寺公園に初のラジオ塔が作られその後全国に460基以上が建てられたという事ですが、いまは忘れられた存在です。 そんなラジオ塔を捜し歩き著書にまとめた男性がいます。 岡山県岡山市在住のカメラマン一幡公平さん(52歳)です。 ラジオ塔の何が惹きつけるのか、全国のラジオ塔は今どうなっているのか伺いました。

2011年にたまたまインターネットでラジオ塔の記事を見ました。  翌日公園に灯篭のようなものが見えました。  それがラジオ塔だったという事が判り、そこから興味を持つようになりました。  東京にラジオ塔のある公園がありましたが、リニューアルするときに撤去されていることが判りました。 (その公園ラジオ体操会の発祥の地) 自分で本を作ってラジオ塔を知ってもらう活動をしていこうかなと思いました。  私の本を観た方が岡山市の上伊福西公園にある塔がラジオ塔であることを知って、ラジオ塔を使って地域おこしをしようとして、コミュニケーション出来ないかと考えて、復活させたという事です。 中にラジオを置けるようにして、ラジオ体操に使うようになりました。  子供たちがお茶会で振舞う時にラジオから琴の音を出すという事もしました。  

記録では465か所以上あったとあります。  私が観たのは200ちょっとです。   現在残っているのが40か所です。  台湾にも3か所あります。(日本が統治していた時代)  探すのに苦労しました。  1925年(大正14年)3月日本でラジオ放送が始まりましたが、当時はラジオは高価なもので一般には普及していませんでした。  街頭ラジオとしてラジオ塔を作って行った。 第一号が大阪の天王寺公園です。(現存していない。)  だいたいが灯篭型です。  ラジオ体操、野球実況中継、相撲、演芸番組などを聞いていたようです。   いろいろの形状で二つとして同じものは存在しません。  昭和14年15年あたりが一番ラジオ塔が多くできた年です。 2年で300ぐらい。 第二次世界大戦が勃発したのが、昭和14年、太平洋戦争が昭和16年。  ラジオ塔が戦争と少なからず関係していると思います。(戦意高揚、戦況報道、空襲警報など) 戦後しばらくは使用されていたようです。  

昭和30年代になって来るとテレビの時代になって,、街頭テレビが登場してきます。  そのころにはラジオ塔は稼働していなかったと思います。  作ったのは放送協会、自治体、その場所の所有者が作ったもの、個人の寄付などによります。  大阪城公園のラジオ塔は昭和13年い建てられて高さが2,9m。 JOBK(かつて大阪放送局のコールサインが貼られていた。) の跡が残っている。  京都円山公園のラジオ塔は昭和7年に作られて、高さが3,3m。(昭和57年に修復)  香川県塩釜神社(塩田の神様)のラジオ塔は形の綺麗なラジオ塔で、個人で建てたラジオ塔。 (塩田会社の社長 塩田忠左衛門?) 岡山県岡山市にある斎場稲荷のラジオ塔、最も高くて5m強あります。  かつては駅前広場にあったが、ケーブルカーが金属供出で廃止になってしまって、駅は無くなり今は山にポツンとある。

今のラジオ塔は復活したものが多いです。 台湾にあるラジオ塔は日本の形状とはちょっと違います。 (屋根瓦がある。)  国内では傾いてきているラジオ塔もあり心配しています。  2017年に本を出版した後に、新たに見つけたラジオ塔もあります。(川越市初雁公園)   岡山県浅口市にラジオ塔らしきものがるという情報があり、 見に行ったらラジオ塔らしいが確証はないです。  ラジオ塔は二つとない個性的な形が面白いです。




 

















2025年11月7日金曜日

児玉竜一(早稲田大学教授・演劇博物館館長)・舞台の魅力を届けたい

 児玉竜一(早稲田大学教授・演劇博物館館長)・舞台の魅力を届けたい

児玉さんは昭和42年兵庫県の生まれ。 専門は歌舞伎の研究と評論です。 2010年から早稲田大学教授を務め、2023年演劇博物館館長に就任しました。 

歌舞伎は毎月観ています。  演劇、映画、テレビドラマなども観てはいます。 歌舞伎の生の舞台を観たのは小学校から中学にあがる春休みの時です。  忠臣蔵に興味を持って、歴史にも興味をもって、本も読んでもいました。 そこから歌舞伎にも興味を持つようになりました。 春休みに観たのが忠臣蔵でした。  忠臣蔵のストーリーの魅力、役者、セリフの言い回しの魅力がありました。  生で観るようになるといろいろなところに魅力を感じる様になりました。 中、高校になるといろいろ覚えて来て、自分の中の記憶をどんどん増やしていきました。 

早稲田大学に入って歌舞伎研究会があり、関東学生歌舞伎研究会連盟があり、そことの交流もありました。  同じ演目で同じ役者さんがやるのをよく観ました。  舞台は生もので同じ舞台でも違うんだという事がよくわかりました。  いい日に当たったという幸せ感も判りました。  特に20歳前後に観たものはよく覚えています。  昭和63年に21歳でした。  歌舞伎の世代交代の時期で、17代目中村勘三郎が亡くなったのが昭和63年4月でした。 尾上松綠さんがなくなられたのが平成元年でした。  入れ替わるように、今のトップ、伯鸚さん、菊五郎さん、二代目吉右衛門さん、仁左衛門さんと言った世代がどんどん上がっていきました。 

演劇博物館の副館長を務めていましたが、2023年演劇博物館館長に就任しました。   2028年に演劇博物館が100周年を迎えます。  坪内逍遥が博物館構想を大正期にもって、やがて浮世絵を大量に買い入れて収蔵する場所を作らなければといている時に、関東大震災が来ました。 個人収容の限界を感じて、博物館を考えました。 坪内逍遥の古稀をむかえるということと、シェークスピアの全戯曲の翻訳(40巻)の完成とを期して、1928年に博物館が建てられました。 世界中の演劇と名の付くものであればなんでも集めようという事になりました。  書籍、フィルム、大道具、小道具、衣装、かつらなど沢山あります。(100万点をこえる。)  6代目菊五郎の寄贈の衣装、宝塚歌劇団のベルサイユのバラの衣装もあります。 中国の京劇の使った衣装の一部、楽器などもあります。  現在「日中演劇交流展」をやっています。  演劇を媒介としながら様々な形で、文化人たちの交流が行われています。  北大路 欣也早稲田大学第二文学部演劇専修卒業)さんに関する全貌をお目にかけたいという事で現在展示しています。 かなり自由に一般の人が入れます。 

文学部の教授としても学生に教えています。 日本の演劇の歴史、演劇全般を教えています。 学生には出来るだけ生の要舞台に触れて欲しいと思っています。 AIによる技術は今後進む一方ですが、生で同じ時間と空間を共にしてものを観るという事はどういうことなのか、どういう価値があるものなのか、という事を考えて行かないといけない時代が来ると思います。 生で観ると言う事がどれほど大事かという事を考える大事な要素だと思います。 

映画「国宝」(任侠の家に生まれながらも、歌舞伎の世界に飛び込んだ男が、芸の道に人生を捧げ歌舞伎役者になるまでを描く。)が多くの歌舞伎ファンを惹きつけた。  文庫本(吉田修一)も沢山売れて、歌舞伎に関わる題材を読んでいただいてよかったなと思います。 これをきっかけに生の舞台に新たに来て下さるといいなあと思っています。 自分が観ることのできる世代は選べない。 今生きている我々にしか見ることができない、だからこそ同時に居合わせて観ることができる、という事が味わえる。