小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長) ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると
椿はもともと日本に自生していた花で、縄文時代からあっただろうということです。 文字上で現れてくるのは奈良時代からだそうで、以来日本人に愛されていきたと思っていましたが、小泉さんにお聞きすると、椿にももてはやされた時代も受難の時代があって、それにはいろいろな理由があったようです。 「椿ブームを調べてみると」、日本ツバキ協会 副会長小泉不二男さんにお聞きしました。
日本の山に自然に生えているもので、ヤブツバキとか山椿と呼ばれる一重の花ですが、北海小津にはないが多様の個体差はあります。 記録的に見ると奈良時代以降という事になってきます。 和歌などにも出て来ます。 花として見る以外に、油が貴重なものだったので、税として集められていた。 (椿油) 万葉集には椿を歌った歌が9首あります。
「巨勢山のつらつら椿、つらつらに見つつ白妙(しろたえ)によしこの山の春の野」
「椿」と言うのは日本人が作った漢字なんですね。 ヤブツバキは日本と朝鮮半島の南の方だけです。 日本書紀にも記述があります。 白椿が突然変異で生まれたものを、目出度いものとして天皇家に献上したという記録が日本書紀に載っています。 お正月に茶道で白い椿を飾るという事は今でも続いている事です。 平安時代、鎌倉時代にはあまり登場しません。 推測ですが、当時他の物に関心が行っていた。 例えば梅(中国から入っている。)など外来の物に気を取られていたのではなかろうかと言われている。 室山時代の最後に安土桃山時代がありますが、茶の湯が熱狂的に流行する。 そこに茶花が必要になって来る。 椿が再び注目を浴びたと考えられれます。
戦乱が続いた後、江戸時代になるとようやく落ち着いて、お花を見ることができるようになった。 園芸をするゆとりが出来た。 その先駆けが椿であったと言われる。 徳川二代将軍の秀忠が当時の文献で花癖であった、花が好きで特に椿が好きだったといわれる。 それを知った大名が献上合戦のように行われた。 家光時代に作られた江戸城の屏風があるが、そこにお花畑が描かれていて、椿が植えられていることが判ります。 色々な変化のある椿を支えたのは北陸と言われます。 北陸にはヤブツバキとは違う別種のユキツバキがあります。 山の上の方のユキツバキとふもとの方のヤブツバキと自然交配すると99.999%以上が素朴な花になります。 中には一本変ったものが出来ます。 例えば八重よりももっと数が多いものとか、おしべの棒のところに花びらがあるように見えるものが出来たりバリエーションがでます。 それを見つけて農家の庭に植えられていた。 それが江戸、京都に運ばれて広がって行った。 元和寛永の椿ブームで図鑑、巻物が作られた。 そのころの多くの物は現在はなくなってしまっている。
今でもいかに椿を残していくかと言う事は大きな問題です。 人が守ろうとしないと木でもなくなってしまう。 江戸の園芸ブームで新しく「わびすけ」(茶花で有名、ひそやかに開く)が生まれましたが、はっきりしたことは判っていない。 金閣寺に「胡蝶わびすけ」というものがあります。 後水尾天皇(家光時代)がお手植えしたというのが、現在も残っています。 京都のお寺には古いものが残っていて非常に貴重です。 「肥後椿」は肥後藩の武士たちが品種改良して、一本の木であっても赤いはずなのにピンクの花、白い花が咲いたり、してそれぞれを育てるといろいろな品種が出来てくる。 太い芯を選抜して、芯を見るというものもあります。 今はイタリアなどで人気になっています。
尾張藩ではお茶席で初釜(1月)、野開き(秋)のために合わせた花の咲く時期のものを求めた。 (つぼみがふっくらとしている。) 現在も「御殿椿」として伝わっています。 江戸時代には400,500と言われていましたが、江戸の最後に資料があって、江戸の最後に出たものは今に伝わっています。 染井村の植木屋さんが明治になってカタログを作って、今我々が目にするものと一致しています。 花形の変化、花色(椿は複色になりやすい性質を持っている。)、赤に白いものが入っている、その大きさによってもいろいろな品種が生まれてくる。 絞りといってピンクであればより濃い線状が入り線の太さもいろいろのものがある。
倹約令が出て、園芸植物の人気が下がってしまう。 飢饉の時代も関心がなくなる。 明治になるともっと大きな逆風が来て、ヨーロッパ、アメリカから新しい園芸植物が入って来る。 椿は明治以降忘れられてゆく。 染井村の植木屋さんもいなくなってゆく。 埼玉のさいたま、川口、上尾に新しい植木屋の里が出来る。 染井村から苗を貰ったり挿し木にして保護、育てた人がいます。(皆川さん?) 戦争で食糧難になって園芸から農産物への指導があったが皆川さん?は椿畑を残したそうで、それが無かったらかなりの数の椿を失ったと考えられます。化
日本の椿が中国経由でヨーロッパに広がり、日本の文化も紹介されて、19世紀に「東洋のバラ」として、ヨーロッパで大ブームになる。 (貴重なもので貴族の花) ヨーロッパからアメリカに移って大ブームとなる。 (カルフォルニアなど気候が合う。 19世紀終わりから20世紀に広がる。) コンテストもあり品種改良が進み、大輪華麗な椿に変身する。 戦後になってアメリカで大評判になっている人気の花という事で日本に伝えてくるが、それが日本の椿だった。 戦後に里帰りが起こった。(洋種椿) 日本ツバキ協会が昭和28年に出来る。 神代植物公園に皆川さんから譲ってもらって、椿園にしています。
30代なかばに銀座の椿展があり、そこで観た白い椿の花に凄く感動しました。 椿を調べれば調べる程興味が湧きました。 今でも毎年のように新しい発見があります。 これからは本当の椿の時代になる可能性があるかなと思っています。