2023年9月15日金曜日

志村季世恵(バースセラピスト)     ・〔人生のみちしるべ〕 命のバトンはつながっていく

志村季世恵(バースセラピスト) ・〔人生のみちしるべ〕  命のバトンはつながっていく 

志村さん(61歳)はバースセラピストとして、これまで30年余り心にトラブルがある人のメンタルケア、末期がんを患った人へのターミナルケアを担当してきました。   これまでバースセラピストとして出会ったクライアントの数は延べ4万人を越えます。  志村さんご自身子供のころから命を実感する経験を重ね、命の儚さと豊かさを感じながら、時には迷いながら生きてきたと言います。  志村さんが多くの人たちの命に寄り添う中で、教えてもらった事、志村さんの人生の道しるべについて伺いました。

バースセラピスト、中心にあるのはターミナルケアです。  末期の癌を患った人たちのそばに寄り添う事がありますが、ご家族がいる場合には、最後に亡くなる時にはお任せして祈る気持ちで待っているんですが、御家族がいない場合には私がそばにいて、お看取りするんです。私が学んだことがあって、人って亡くなる寸前まで誰かのために生きたいとか、何かを、種を蒔いてバトンを渡すように、次の方たちに渡しているのを見ますと、ターミナルというのは終末ではなくて、次に始まる事があるんだなと思った時に、バースだなと思ったんです。   セラピストの上にバースを付けてバースセラピストとしました。      次に大切なことを渡す時間が来たという風に思っておられるのならば、それを一緒になしえる事のお手伝いをさせてくださいと、言う風にお願いしています。          

どちらかというと孤独な状態であったり、ご家族がバラバラになってしまっている状態とか、自分の人生を全うしてゆくためにという意味で、自分が自分であるためには私がいた方がいいなと思う方もいらっしゃるようで、いろんな方がいらっしゃいます。   お子さんが自分(中学生)ががんで、私が出た番組のラジオを小児病棟で聞いて、私に手紙をくれたお子さんもいたりとか、いろんな方たちがいらっしゃいます。  その中学生の時には私が病院に行きました。  

自分には妹、弟がいて、両親がうまくいっていなくて家に帰ってこない、助けて欲しいというよなことでしたが、家族をいい人たちにしていこうという事からのミッションが始まりました。  給食代を払えないとか、いろいろあって友達もできなくて、学級崩壊みたいなことをその子はしてしまって、でも本当はその子はしたくなかったという事を話して、学校にお話をしに行って、もう一回お友達としてかかわって行きたいんだというという話をしたりとか、妹、弟さんへもご飯が作れるような練習を一緒にしようと言って、いろんなことをしました。

その男の子は亡くなりました。  その子は「気がかりなことがなくなって、幸せだ。」と言っていました。   子供でも大人でも大切な人のことを思って行動したいというのは変わらないんですね。   独りぼっちだなと思う事をなくしていきたいという思いと共に、自分のことを肯定してほしいし、自分の人生を肯定できる形であったらいいなあという事を願っています。   願う事に対して私にできることは少ないんですが、寄り添う事は出来るので、最後まで一人にしないよという事と、亡くなった後も御祈り続けているからって、私は宗教があるわけではないんですが、こういうことをしていると祈ることが多くなりますね。 どんなに辛い治療でも続けるんです。  大人の人よりも我慢強いと思うぐらいに、それは自分の家族に対しての愛なんですよね。  無常の愛というか、純粋な、真っすぐな愛だと思います。   誰かのため(お母さんとか)に長生きしたいとか、一種独特な愛の形があるような気がします。  

実は私は辛いんです。 毎回もうやめようと思うんです。 お友達で居ようという気持ちになるんですが、出会った友達がいなくなるという喪失感は、毎回強くて本当に泣くんですね。   大泣きしてご飯も食べられなくなりますが、命というもの、人間の凄さを教えて貰えて、愛のすばらしさも学ばせてもらって、そうすると悲しみと共に、頂いたものはあいまった感じで私に入ってくるというか、いいものだけでなく混ざり合って感じることが出来ました。  ターミナルケアはそんなに多くできるわけではなくて、限られて仕舞いますが、出会った方全てから学びはあったと思います。   

エッセーの中で書かれていますが、家庭が複雑(多様性)で、大家族で、生と死が小さいころから身近にありました。   父は3回結婚しています。  私は3回目に結婚した両親の子供で下に妹がいます。  一番最初に結婚した人の子がいまして、その人とは父が亡くなってから出会いました。  2番目の奥さんの子は3人います。 その子たちとは一緒に暮らしました。(私が2歳の時から同居)  私は両親をパパ、ママと呼んでいましたが、その子等は父のことは「お父さん」、母に事を「おばちゃん」と呼んでいました。    母と姉の歳が12歳しか違わなくて、兄弟たちは思春期だったので、荒れている時もあったんでしょうね。   

私の居場所にちょっと違和感があって、叔父の家が私にとって救いでした。(自由にいられた。)    しかし、叔父が私が3歳の時に亡くなりました。   亡くなる時に、叔父さんが治るように祈るしかないと言われました。 夜中に3歳の私は眠ってしまいました。  目が覚めた時には霊安室でした。  私が祈らなかったからいけなかったと思ったんです。   お骨になった時にもう会えなくなったんだと知りました。  人が死ぬという事はもう一生会えなくなるという事なんだ、という事を3歳で知りました。死に対して敏感になった最初の歳でした。  

父が瀕死の時に母は結婚しました。 父を何とかしたいという思いがあり、19歳の違いで結婚して、看病から始まった見たいです。  父が死なないようにという思いが家庭内にありました。  兄、姉とはどうしたらうまいくいくんだろうとという事と、父はどうすれば元気になれるのか、とかいろんなことがありました。  小児病棟でお友達が亡くなったことを知り、両親が泣き叫びながら遺体に取りすがって泣く姿を見たりして命というものを感じました。  年の離れた姉、兄がいて出産という事も知ったり、命というもののいろんなものが見えてきました。  家庭に対するあこがれがあり、結婚して新しい家庭を作りたいと思ったのが20歳の時でした。  21歳で母になりました。  長男が身体が弱くて何回か昏睡状態に陥りました。   独りで抱えることはきついことだと思って、ボランティア活動に入って行きました。   ターミナルのことをお受けしたいと思うようになりました。

バースセラピストを始めたのは27歳でした。  24歳の時に、好きな執筆家がいて、サイン会に並びました。  「今年は幸せでしたか。」とおっしゃって、私は「いいえ」と言いました。  「それはつらかったですね。」と言われてサインしてもらって帰って来ました。   あとで、どうして「いいえ」と言ってしまったんだろうと思いました。    高校生時代、20代前半の頃の自分を見つめ続けて居る自分がいるんだと思って、ここが自分を孤独にしているんだと思いました。  

これは駄目だと思って、今の自分をしっかり見つめるべきだと思って、サイン会に戻りました。   「撤回します。 幸せです。」と言いました。   そこから変わりました。   家族にも友達にも感謝するのが一杯増えて、そのころ最初夫とももうまくいかないことを段々考えるようになって、自立しようと思って、友達の関係に戻りたいと思い、離婚して新しい自分を作ってゆくことが始まりました。  今度結婚した人が医療の関係の人で、新しい人生が始まりました。  それがセラピストになるきっかけです。   

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の理事として、活動しています。  完全に光を閉ざした純度100%の暗闇のなかで、視覚障害者のスタッフの方が案内、アテンドとなって様々なシーンを暗闇のなかで体験して会話を、ダイアログを楽しむという、暗闇のソーシャルエンターテーメントと言う風に言われています。   視覚障害者のスタッフがお客様をご案内しながら、楽しみながら対話をしていろんな出会いをして、人っていいねとか、助け合うって面白いねとか、人って本当は対等なんじゃないかと、状況、環境によって立場は変わるものだと知っていただけるようなエンターテーメントです。  

お客様が出てきて感想について対話する部屋があり、何人かの方が泣きながら出てくるんです。  「私は人が好きだと思って泣いているんです。」とおっしゃるんです。  暗闇で人とぶつかっった時に人が居て良かった、人の存在ってなんて温かいんだろうと思った、それを忘れてしまっていたんです。  人が好きだと思ったら、今自分が自分のことを肯定しています、とおっしゃいました。  これは私のセラピーとかで時間をかけるよりもこのダイアログを頑張ってやった方ががいいと思いました。  立ち上げたのが1992年。「ダイアログラジオイン・ザ・ダーク」も担当しています。   暗闇って自由になれるので、そこでもお話が出来ちゃうんですね。   

人は助け合いたいんだなあって思う事と、「ありがとう」という言葉を沢山使いたいんだなあという事を知りました。  人の世話になって何もできない自分になってしまったんだけれど、「誰かの役に立ちたい」とおっしゃるんです。 本当に学びました。  人間って素敵だなあと思います。  変化があって大抵おっしゃるのは、「どうして自分は無駄なことをいっぱいしていたんだろう」とおしゃるんです。  

自分の人生のなかで半分は、人と比較しながら生きてきた、そこで一喜一憂して幸せかそうじゃないかを決めてきた。  それはもったいなかったと思う。  自分の死に対して誰とも比較できないことが分かった。 そうすると比較するのはナンセンスだったと思うと、孤独な自分は誰とも比較できないとおっしゃるんです。  でも本当は人はずっと独りで生きてきたのだから、その孤独さを助け合う事に変って行ったならば、手を繋げることを知ったと言います。  「手放すこと」と、「手放さないこと」がある。  

私の場合は小さいころに兄弟から「生まれてこなければよかったのに。」と言われたことがあります。  私は兄や姉と出会えてよかったと、思ってもらいたいなあと思っていました。 私の方からはずっとずっと贈って行こうと思っていて、出会いが悪かったとは思いたくない。  そういう人たちの幸せを願うとか、それは諦めたくはないと思っています。   自分も幸せになってもいいし、相手も幸せになって良いという事を考えて、手放さなくってもいいと思っています。