2023年9月11日月曜日

大江裕(歌手)             ・〔師匠を語る〕 北島三郎先生の優しさ

 大江裕(歌手)             ・〔師匠を語る〕  北島三郎先生の優しさ

大江さんは高校生のころ、常に敬語で話す礼儀正しいキャラクターで演歌高校生として、民放のテレビ番組、バラエティー番組で注目を浴びました。  その後憧れの北島三郎さんに出会う事を叶えて、歌手としてデビューします。  大江さんに日本を代表する歌手北島三郎さんについて、伺います。

北島三郎さんは神のような存在です。  北島三郎(本名大野穣)さんは1936年北海道の知内町で8人兄弟の長男として生まれました 。  地元ののど自慢大会で優勝を重ねていた北島少年が函館で行われた「NHKのど自慢」に出場したのは、高校2年生の時、結果は鐘二つでしたが、司会の宮田輝アナウンサーに「なかなか上手じゃないの」と褒められたことで、はっきりと歌手を志すようになりました。  高校卒業後上京して、東京の音楽学校に進学し、その後渋谷で流しを始めます。  その当時知りあったレコード会社の紹介で、作曲家船村徹さんの弟子になり、ブンガチャ節」でデビューしたのが1962年6月5日、25歳の時、二曲目の『なみだ船』の大ヒットでレコード大賞新人賞を受賞し、翌年1963年「ギター仁義」で「紅白歌合戦」に初出場を果たします。  

以来、「函館の人」、「兄弟仁義」「与作」「風雪流れ旅」など今も歌い継がれる名曲をヒットさせ、数多くの賞も受賞した北島三郎さん、歌手活動だけでなく1968年から2015年まで46年間座長公演を続け、俳優としての多くの映画やドラマに出演しています。  さらに原譲二のペンネームで数々の楽曲を発表しているほか、山本譲二さん、松原のぶえさん、原田ゆりさん、北山たけしさん、大江裕さんなど大勢の弟子も育てました。  去年芸能生活60周年を迎えた北島三郎さんは、今年10月で87歳、自身のデビュー記念日となる今年6月5日に、ニューシングル「つむじ風」をリリースするなど、今なお現役です。 

祖父の影響で演歌が好きになり、3歳のころに祖父の子守歌(「男の涙」、「兄弟仁義」など)を聞きながら育ちました。   その後北島先生の弟子になりたいという気持ちが高まりました。 当時北山たけしさんが最後の弟子という事で発表されていました。  歌手を諦めようかと決めました。  祖父が「諦めずに行け」と背中を押してくれました。  北山たけしさんに会う事にしました。   「今、新宿コマ劇場で公演をやっていて、エレベーター前までだったら連れてゆけます。」と言われました。  北山たけしさんと一緒にエレベーターのところで先生にお会いしましたが、頭を下げたまま何も言えませんでした。  2回目大阪の梅田芸術劇場でエレベーターボーイをさせて貰えることになりました。   エレベーターボタンを押し忘れて知っパしたりしましたが、「いい声しているね。 歌頑張ってね。」と言われたのが心に残っています。  「諦めるなよ。」という声にも聞こえました。  

その後先生から手紙を届きました。「・・・君の演歌に対する熱意は伝わってきました。 何か手伝えることがあったら力になります。」と書いてありました。  安住アナウンサーに相談しましたら、デモテープを作って送ったらいいのではないかと言われました。  音が悪くて、北島音楽事務所に行くことになりました。  デモテープを送って私は北島音楽事務所の身柄預かりとなり、「大江裕」という事になりました。  先生からデモテープが来て、一人でレッスンしていまいした。   事務所からレコーディングがありますと連絡がありました。  レコーディングの日に北島先生が来てくれて握手してくれました、それがこころにのこっています。  2009年2月15日デビューしました。   

デビュー1年半後に「パニック障害」という病気になりました。  歌を聞くだけで心臓がバクバクしました。  救急車で運ばれて病院に着くと何でもないんです。  ステージのことを考えると血圧が200になり、何も考えないと130に戻ります。  病気と闘うのは1年はありました。  半年ぐらいの時に北島先生に呼ばれました。 夢ももう終わりかなと思いました。    入ってすぐに土下座をしましたが、「いまは休む時期だ。」と言われて、「俺と一緒に旅に出ないか。」(コンサートツアー、劇場公演)と言われその後半年間度に出ました。   弟子として修業をしてこなかったと思いました。  先生について、レッスンをするようになりました。   2012年3月7日に北島三郎さん作詞作曲の「故郷はいま」で再起を果たす。 「「故郷はいま」これがお前の再出発の歌だ。」と言われました。  「親の元から一度預かった身だから、俺が責任がある。」と言われました。  先生に喜んでもらえる歌を歌おうと思いました。    公演の千秋楽の後の関係者の前で、先生と一緒に歌うはずでしたが、感動して歌えませんでした。2月のレコーディング迄にはまだ時間があるので頑張るように言われました。  パニック障害になって半年後、関係者はもう助けを求めても来てくれませんでしたが、先生は「あいつの面倒は俺が見る。」だったんです。  今年の4月に各々独立することになりました。  夢が終わる様なな感じがしました。(涙ながらに話す。)  

北島三郎先生への手紙

「幼いころから北島先生の弟子になりたいと夢を抱き、デビューさせて頂き、早や15年が経ちました。  僕が体調を壊した時優しく声を掛けて下さり、いつお会いしても「身体は大丈夫か。」と心配してくださる先生が大好きです。・・・北島先生のことは生涯お父さんだと思っています。・・・早く親孝行ができる様教えていただいたことを忘れることなく、これからも先生の大きな背中を追い続けてまいります。」