2022年7月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

平岡:季節の言葉を歌にいれるのは好きです。  それは自然と親しむみたいな感じではなくて集団幻覚みたいな気持ちで感じているからかも知れない。  みんなで夏という幻覚を見ているから夏があるみたいな。    

穂村:俳句では季語があるが、戦争を詠った俳句の名句には季語がない句があって、不思議だったんですが、季節を殺してしまっているものと言うか、戦争と言う集団幻覚を見ると、通常のノーマルな季節が消えてしまう。  集団幻覚説はリアルかもしれない。  

平岡:冬が好きで寒ければば寒いほど好きです。   東京の夏は暑すぎると思います。   春は苦手で秋は好きです。  春は芽吹いて来る力強いが、あの感じが結構怖くて、自分が生命体としてみたいな気持ちになります。  秋は生き物が弱ってゆく季節だから、この中だったら戦っても生き延びられるみたいな感じがします。  体質的に暑いのが苦手で、それに加えて夏の精神性は好きじゃないので、青春みたいな感じのもの。

夏の名歌を選択 

「赤き花抱きよぎれる炎天下いくたびか赤き花のみとなる」(選、平岡)   葛原妙子

平岡:大きい花束を抱えて歩いているところだと思いますが、その姿を上から見降ろすような目線があって、花を抱いているはずの自分がふっと掻き消えるようなそういう感覚が歌われている。  炎天下がポイントかと思います。

*「蝉みたいにかなしいにおいの軟膏を首筋にぬる八月六日」(選、平岡)   東直子

平岡:8月に原爆が2回あって、終戦があり、お盆があり死者とか命とかに想いを馳せる機会が多くなる季節だと思います。  広島の原爆投下の日がはっきり書き込まれていて、そのイメージで作られている歌だと思います。   蝉も短命のイメージがあります。 本当は命は危ういものだと感じている。                         穂村:蝉は音のイメージがありが、匂いで捉えるというのは珍しい感じがして、でもなんとなくわかる。  五感のうち嗅覚と触覚で、この組み合わせの歌は珍しいと思います。

夏は来ぬ 相模の海の 南風に わが瞳燃ゆ我こころ燃ゆ」(選、穂村)    吉井勇

穂村:ベタな夏の青春みたいな感じですが、時代そのものが青春みたいな、作者の青春とダブっているというか、今の人間はここまでストレートに夏を捉えることは難しいと思います。                                       平岡:青春なんですかね、自分の確かさ見たいな力強さを感じました。            穂村:この時代の人は生命の肯定みたいなものが凄くありますね。

「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(選、穂村)  与謝野晶子

穂村:当時不遜な、下品なというようなことで、この歌はめちゃくちゃ叩かれたんですが、僕は輝いていると感じますね。   人間賛歌ですよね。                         平岡:言い方が挑発的でないというか、シャアシャアと言っているところが器の大きさを感じます。

*「学年のなくなりて後夏はただ夏と呼ぶしかない一続き」(選、平岡)  永田紅

平岡:夏休みというくくりを失った後の目線で、夏休みと言う区間がどれだけ輝いていたかと言うようなことを振り返っている。                         穂村:社会人になるとくくりと言うのがなくなり、1年ごとのくっきり感が消えてしまう。

「夏が嫌いな平岡さんは夏生まれ夏が来るたび我は思うも」(選、平岡)  花山周子

平岡:ここに出てくる平岡さんは私のことで、自分の歌を持ってきてしまいました。   読むと安心します。                                穂村:夏が好きなという風になってしまうと、全然いい歌ではない。  

雲はいまネオ夏型ひかりして桐の花桐の花やまひ癒えたり」(選、穂村) 宮沢賢治

穂村:ネオ夏型という気象用語、科学的な専門用語だと思いますが、この短歌に投げ込まれたとたん、物凄い輝き、眩しさを感じる歌ですね。 何故宮沢賢治はほかの作家には書けなかったようなものが書けたのかを、或る宮沢賢治研究者に聞いたたことがありますが、「賢治は文学を文学としてだけ捉えていなかったからじゃないか」と言っていました。  宗教や農業や科学などに凄く関心があった。  複数の星座のような彼の関心のなかに文学もあって、ただ文学に関心を持っているだけでは、このネオ夏型と言う言葉は出てこないという風に思いました。   

花もてる夏樹の上をああ」がじいんじいんと過ぎてゆくなり」(選、穂村) 香川進

穂村:時そのものが歌われる歌は珍しいと思います。  この短歌の背景には昭和20年の夏という事がある。   戦争が終わって時間が動きだし、季節がよみがえったというような歌だと思います。                                平岡:時を詠う事は難易度が高いと思いますが、上手く行っていて、生命力のある有限な時みたいなものを連想させるところを上手く使っているのかなあと思います。  昭和20年に作られた歌という事を知って、凍っていたものが解凍された瞬間みたいな印象を受けました。   

「青い舌を見せ合い笑う八月の夜コンビニの前ダイアナ忌」(選、平岡)   山崎聡子

平岡:学生時代の光景かなと思いますが、夏特有の湿度が伝わってくる感じがあって、雰囲気のある歌だなあと思います。  自分たちにとって青春の一コマであるある時間が、誰かの忌日であるという、キラキラ感と後ろ暗さ、コンビニの前とダイアナ忌の組み合わせもいいと思います。

リスナーの作品

*「こんな日はただ眠りたいカンガルーのお腹のポッケに深く沈んで」  多治見千恵子

*「私お風呂明日入るわと言う友と旅行するのが一番気楽よ」      佐々

*印は短歌の漢字ひらがな等、名前も違っている可能性があります。