2022年7月22日金曜日

中澤英高(友禅染作家)         ・友禅染に個性と新風を

中澤英高(友禅染作家)         ・友禅染に個性と新風を 

1941年東京生まれ、1947年に千葉県松戸市に引っ越しました。   大学の工業衣装科を卒業後、友禅染の職人であるお父さん福蔵?さんの元で修業を重ねました。   しかし伝統的な職人芸に飽き足らず、30代後半から着物の図案から仕上がりまで一貫して創作する友禅染め作家の道を歩み始めました。  1981年に日本伝統工芸展に初入選し、1986年には日本工芸会正会員に認定されています。   その後も文化庁長官賞、又21世紀伝統工芸世界工芸展で最優秀賞など多数の受賞歴があります。   筑波大学聾学校、現在の聴覚支援学校の染工科で10年間染色指導されているなど後進の育成などにもあたってきました。  

暑い夏に時期になると秋の展覧会に備えて又今年もかなと言う思いでいます。  私が出したのが第29回で今年が第69回で40年目の節目になります。  日本伝統工芸展です。  着物の一反が13~15mあります。  それを引っ張るにはそのぐらいの距離が必要で、土間でした。 濃い染色だと家が汚れる。  のりが適度な湿度が必要で、土間ですと自然の湿気でもって、のりが程よく戻る。  そういった理由で土間での作業となります。   今は仕事の量も減ったので板の間にしました。 

2月11日松戸市の教育委員会主催で松戸の作家の総会講座で、「一期一会」をテーマに話をしました。  市として美術館を新しく作りたいという思いがあり、その一環の一人として話すことになりました。   友禅染の作品も展示しました。  自然をテーマにした創作もの3点です。   

友禅染ですが、元禄のころ友禅斎(宮崎友禅)と言う禅僧が、寺の門前で白扇に絵を書いた、墨絵ではないかと言われている、それが巷で流行したという原点があります。   それまではほとんど刺繍と絞りでした。  費用と時間が掛かり、出来た着物も重かった。   描くことで図案が着物のなかで表現されるようになった。   そのころは尾形光琳とか文化が繁栄した時代でした。  素描が着物の中で流行した。  それが友禅染と言う言葉で今日あるわけです。   素描だったところに縁にのりで輪郭を取って、その中に色さしをするという形になりました。   

小学校時代は絵が好きでした。  大学の衣装科を出て、或る織物の大手の会社に就職しようとしたところ、家に帰って父の仕事を見た時に、父の仕事を離れられないと思いました。父親から師事されました。 「黙ってみてろ」とそういったことがしばらく続きました。  段々仕事も覚えて行きましたが、ほとんど座りきりの仕事の世界なので世の中の動きが判らないわけです。    最初は現金で振りこまれていたものが、小切手になり、手形になって行って、36,7歳のころで、このままではいけないなという直感があって、大きな転機になりました。   父親に辞めたいと申し出ましたら、大変怒りました。 結婚して子供が幼稚園ぐらいの時でした。   小山さんとの出会いがあり、(後で判ったが、伝統工芸展の重鎮の一人だった)伝統工芸展への参加を求められました。  初出品迄3年かかりました。  その間に伝統工芸展を見た時に友禅染でもこんな表現があったんだと驚きました。自分が出品したのが第29回で、今までどうして知らなかったんだろうと思いました。   1981年に初めて入選しました。(40歳)   1986年には日本伝統工芸会の正会員になりました。 

職人時代と創作の世界に入った違いは色々ありますが、創作に入ると物は売れないので、経済的には困りましたが、作る喜び、生きる喜びは職人時代には全く感じなかったのが、喜び感は有りました。    父との葛藤がありましたが、何度か工芸展で入るようになってからは、或る時父が「俺もやってみる」という事で創作活動を始めました。  その年にいきなり作って出して入選したんです。  それが何年か続いて、伝統工芸展に二人並んで、作品が展示されたりするんです、この時には感動しました。   その後銀座でギャラリーを借りて親子二人展を毎年開きました。    それからお客さんとの出会いが多くなりました。  

友禅染の技術を次の世代に残していきたいという思いで取り組んでいます。   東京芸術大学の中野正樹?さんとの出会いがあり、小さなマンションの一室を借りて、若い人を相手に教える事になりました。 新しい縁がいっぱいできまして、スケッチ旅行にも連れていってもらいまいた。   

1975年から84年にかけて、筑波大学聾学校、現在の聴覚支援学校の染工科で染色指導をしました。   ボランティアで2年間の予定が10年間勤める事になりました。  相手が聞こえないので意思の疎通が難しかったが、ものを作る姿勢を見せているうちに興味を持って作るようになっていきました。    横浜から通っていた女性がうちに通いながら10年ぐらいして、工芸展に出して4,5回入りました。 彼女は横浜の文化人として表彰されました。   「見ただけで好き嫌いをいうな」と言っています。   「毒でないかぎりまず口に入れて見ろ」と言っています。  「厭だったら吐き出せばいいし、悪いものなら自然に出てしまうから。」   「アンテナを張って、花がきれいならばどこがきれいなのか、葉っぱはとか、細かい目線を持っていると捉えることができる」と言っています。