2022年4月26日火曜日

寺田恵子(ロックボーカリスト)      ・生涯ロックを歌い続ける!

 寺田恵子(ロックボーカリスト)      ・生涯ロックを歌い続ける!

1963年千葉県の出身。  1985年ロックバンド「SHOW-YAのボーカルとして「素敵にダンシング」でデビュー。   1989年8枚目のシングル「限界LOVERS」が大ヒットし、女性ロックバンドとしてパイオニア的な存在となりました。   その後1991年SHOW-YAを脱退、ソロとして活動。  2005年SHOW-YAを再結成して、一昨年デビュー35周年を迎え、海外進出など精力的に活動しています。

デビュー当時は、女性バンドとか女性ミュージシャン自体が凄く少なかったので、男子に負けてはいけないとい思いがあり、努力していました。   女性ファンが多かったが、子育てなどがあり、その後親子で来たりもしています。  男性ファンも増えました。  

子どものころ、歌が好きで音楽の仕事がしたいという願望が強くて、10,11歳ごろに「カルメン・牧&OZ」のレコードが家に有りそれを聞いた時に、私はこの人の跡を継ぐんだと思って、そこからロックにのめり込みました。   17歳の頃にSHOW-YAから声を掛けられましたが、断っていました。  高校2年生までは地味でした。  分校になったのを機会に、自分が派手なほうに成ろうと思って、そのころから年上に目をつけられるようになって、やんちゃなほうに行きました。  高校1年生の時、文化祭でボーカルを探していた男性バンドに誘われ、最初はこの男性主体の7人組バンドで活動しました。   その後SHOW-YAに入りました。   

1985年にデビューしました。  ポップなロックからハードなロックに変えていきました。  デビューした時にすぐ売れるのではないかと思いましたが、違って、自分でビジュアルも考えたりしているうちに4年ぐらい過ぎてしまいました。   ある日、鏡で自分の下着姿を見て「めちゃくちゃかっこいい」と思い、さらけ出して生きて行こうと思い、以後自らの下着風コスチュームにして、ハードロックというSHOW-YAの原点になりました。   売れないと思っていましたが、限界LOVERSがヒットしました。  その後バンドを脱退しました。

それぞれがいいよと言ってくれるまでに5年かかって、2005年にSHOW-YAを再結成しました。   アルバムを作るのに7年間かかりました。   全部エネルギーを出し切った時の気持ちよさに浸ることがいいんですね。  それを求めるためにパワーアップしていきました。  耳だけではなく、目とその場の空気と言うのは会場に来ないと得られない感覚で、ライブを続けることは凄く大事だと思っています。  SHOW-YAという運命的な結びつきは一番大きいような気がします。  私はSHOW-YAと男を取る時に、どっちを取るかと言われたら多分SHOW-YAを取ると思います。  喧嘩をしても戻ってこれるし、SHOW-YAには家族に近いものがあると思います。   

昨年出したアルバムが全編英語でした。  又海外に向けてと言う話になって、チャレンジすることになりました。    今年1月にはフルオーケストラと共演したコンサートを行う。  20分以上の組曲に挑戦しました。   

限界LOVERS」 バトル オーケストラ

SHOW-YAプロデュースによる女性だけの祭典"NAONのYAON 2022"を4月に実施します。