2022年4月30日土曜日

平松洋子(エッセイスト・食文化研究家) ・父と故郷を語る

 平松洋子(エッセイスト・食文化研究家) ・父と故郷を語る

父と故郷倉敷を書いた自伝的エッセー集「父のビスコ」が、今年2月第73回読売文学賞を受賞しました。  自分をはぐぐんできた祖父母や両親、故郷倉敷のからは戦中戦後を生き抜いてきた市井の人々の姿が浮かび上がってきます。  家族や故郷への思いを昭和、平成、令和にまたがる3世代のエピソードを交えながら伺いました。

ここ数年大事な友人とか仕事仲間が相次いで亡くなる事が多くて、自分の生きてきた足取り、家族のことを含めて書かなくてはいけない時期に自分が来たんだなあという事をとても感じるようになりました。  父が戦争の時にどういう暮らしをしていたのか、どういう思いだったのか、言いたくなかったこともいろいろあったと思います。   3年半ぐらい連載してきて、連載途中で父が亡くなってしまいました。  

父は昭和3年生まれで、少年時代は戦争と直結しています。  叔父が満洲にいて下関から満洲に行ったという話をしてくれました。  大学を卒業して神戸に住んでいて、機銃掃射にあい2度死にかけたと言っていました。  自分がここにいる事の不思議さを感じました。   母方の祖父は僧侶でしたが、戦争に行って帰ってきてポケットからコンペイトウを子供たちに出したそうです。 一個だけ赤い色があり子供たちは取り合いになり、喧嘩になったそうですが母が一喝したそうです。   母が言うにはお父さんのお土産はコンペイトウと虱だと言っていました。  どんぐり飯を食べていたようです。  父の体験談でもあるし、日本がどういう風に生き延びてきたのか、細かいことは大事だと思いました。  今書かないといけないと思いました。 

岡山ではばら寿司という言い方とちらし寿司という風にも言いますが、いろんな食材(魚介類、野菜、かんぴょうなど)を前日から仕込んで、彩りよく散らしていきます。  家族総出で作ります。    岡山の日生の牡蠣は有名です。  ちょっと甘めの酢の物(じゃこ、キュウリなど)は良く作っています。  倉敷川は身近な場であり、風景です。   昭和の時代の倉敷川には牡蠣料理が食べられる牡蠣船がありました。   倉敷民芸館は父が大好きでした。 大原美術館は大原孫三郎大原総一郎(長男)ら大原家が創設した美術館です。民芸運動と倉敷民芸館は重なって行きました。 倉敷民芸館が生まれたのが昭和23年で日本で2番目に生まれました。  柳宗悦らが民芸の質を高めて行こうという運動でもあって、倉敷民芸館館長の外村(とのむら)吉之介さんが土地の染色家、陶芸家などを束ねて活動しました。  倉敷民芸館では講座も開いて父は良く通っていました。 私も3,4歳の頃ですがよく連れていかれました。

倉敷には有名な老舗旅館がありますが、江戸時代は砂糖問屋だったそうで、畠山繁子さんと言って料理屋をやっていましたが、大原総一郎さんから貴重な家屋でもあるので宿か料理屋をやってもらえまいかと話があり、一念発起で旅館へと引き継いたそうです。  有名人、財界人も来て大変だったようで、献立も全部書き残しています。  倉敷の迎賓館といった役割だったと思います。   畠山繁子さんは立派な本(風土記のような)を書き残しています。

敬子?さんと言う「とんかつ屋」で人気の高いお店があります。   どうしてこんなに人を引き付けるのか考えてきましたが、仕事に対する姿勢だと思いますが、このとんかつはあのお客さんにとか、お客さんの顔が判っていて、揚げているとんかつなんですね。    民芸は自分の培ってきた技術、知恵、磨いてきたものを、工芸の形にどう生かすかと言う事だと思いますが、敬子?さんの作るとんかつもそういものなんじゃないかなあと思います。 

母方の祖母の作った俳句の句集を母から見せてもらいました。  祖母は私が2歳ごろに亡くなりました。   祖母が亡くなった25周年目に祖父が312句を一冊に自分が書き移して、手作りの句集です。  

*「孫の守飽きて老婆に日の長き」   孫は私です。  不思議に思いました。     これも書かなくてはいけないと思って祖母の俳句も入れました。 

父は美術と本を読むことが好きだったので、それが生きる力だったんでしょうね。    父は「知りたいことがあるから死ぬわけにはいかん。」と何度か言っているのを聞いています。   父が言っていた、本に書かれていること「ここの生活に目新しいものがない方がいい。」という事の意味ですが。ここ(介護施設)で目新しいものを求めるのではなく、静かに暮らしていきたいという気持ちをどうやったら受け入れられるか、という事考えていたんだと思います。  そのこととは裏腹ですが、ウナギのかば焼きを買ってきて自家製うな重をもって行ったら、涙が出んばかりに喜びました。  父が好きなものを食べたいという事で、先生も了承して、或るお菓子をもって行ったらボリボリ音をさせながら食べていました。   父の晩年、どういう風に亡くなったのかなと言う事を、言葉にして書いていかないと自分は駄目だなあと思ったので、言葉を通じて向き合う事が出来たので、良かったなあと思います。  市井の人たちの営みとも繋がりたかったので、考えながら書くことが出来ました。