2021年5月20日木曜日

竹中直人(俳優・映画監督)       ・ベテランなんて言われたくない

竹中直人(俳優・映画監督)       ・ベテランなんて言われたくない 

俳優として数多くのTVドラマや映画で活躍、映画監督としても8本の作品を撮っています。 現在放送中の大河ドラマ「晴天を衝け」では徳川斉昭役を演じています。   

大河ドラマは3回目、大河ドラマは1年を通して役を演じるのでとても好きで、徳川斉昭の役を言われた時にはとてもうれしくて、大河ドラマに1年間行けるんだなあというのが最初の気持ちでした。  そんな早く死んでしまうのかと思いましたら、寂しさはありました。   徳川斉昭が「尊王攘夷」を訴え続けた、それは頭の中に常にありました。  烈公という事が強く頭に残ってたので、そのエネルギーが自分のなかでどう動かせるか、という事がありました。   役作りというのは嫌いで、感情が押し出してきたものが言葉になると思っているので、役は作れないですね。  役はその場のセッションだと思っていて、役を作るのは見ている側だと思いますね。  役者は役は作れないと思っています。

1956年神奈川県横浜市金沢区出身、両親は公務員です。  みんなとわいわいするのはしなくて、自分でストーリーを作って漫画を描くのが好きでした。  高校生のころには個性的な先生が多くてその物まねをするようになって、声も変えられる自分に気づいて、コンプレックスの塊であったことは間違いないです。  自分ではない人間になりたいというのは子供のころから思っていました。  物まねをすることで違う人間に成れるから楽になれるという思いは強かったです。    映画はあこがれの場所でした。  最初に見たのはピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」でした。  その後若大将シリーズ、007などを見ました。

芸大を目指して2浪して、多摩美術大学美術学部デザイン科に入り、宮沢 章夫と出会いました。  彼は社会派でした。  映像演出研究会で8ミリ映画の制作する会に入りました。   ブルースリーが好きだったので、最初それに模したものを作りました。   卒業制作も8mmで作りました。 自分がいろんな人物に変化してゆくという形態模写のようなものです。  作ったものは多摩美術大学の芸術祭に発表しました。   卒業したら映画の道に行きたいというのは大学1年の時からありました。    大学卒業後、劇団青年座に入団しました。   当時「赤テント」、「黒テント」などを見ていました。

半年間、月、水、金と研究生として学びました。  劇団青年座の本科生を受けたら受かってしまいました。   本科生になると授業料が高くて、或るイベントで3分間に笑わせると30万円もらえるという事で出ないかといわれて、それに出たら優勝してしまいました。   それで授業料が払えました。    劇団青年座では「三文オペラ」に出演したのが印象に残っています。   劇団青年座の準劇団員になったが仕事が来なくてこのままだとダメになると思って、27歳の時に、プロダクション人力舎玉川善治さんから声を掛けられて1983年、テレビ朝日『ザ・テレビ演芸』に出てみたらどうかといわれて、 「飛び出せ!笑いのニュースター」に出演してグランドチャンピオンになり、横山やすしさんから絶賛され、それがきっかけでプロの道に入っていきました。  4畳半から一軒家に住めるようになりました。

TV業界は苦しかったです。  自分でやっていることがそんなに面白いとは思ってもいなかったので、怖かったです。  そのうちに笑われなくなると思っていました。  宮沢 章夫と舞台のほうも演劇/コントユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」としてやりました。   劇団青年座を1990年に退団後、劇作家の岩松了さんと出会って舞台「竹中直人の会」を始めました。   1984年の滝田洋二郎監督の成人映画に出演、居心地がよくて楽しかったですね。  演技を得意の松本清張と松田優作の物真似で通している。  いろいろな監督さんとの出会いもありました。  森崎東監督の映画に出演した時に笑わせるようなことをやろうとしたら「余計なことはやるな、お前のままでやれ」といわれました。  その言葉に感動して泣いたのを覚えています。

五社英雄監督の「薄化粧」のときには何度もNGをだしましたが、「いいですよ」と優しく自分を見つめてくださって、本当に優しかったです。   憂さ晴らしは彼女が自分の泣き言を聞いてくれて、とても優しかったです。  海外に勉強に行きたいという事で別れてしまいました。

或る時奥山和由さんから、「そんなに映画のことが好きだったら1億円出してやるから映画の監督をすればいいじゃないか」と言われて、つげ義春さんの漫画『無能の人』を映画化、初監督ができました。 自分にとって夢のような出来事でした。  

1996年 周防正行監督のShall we ダンス?』は僕にとってはあまりにも意外な展開でした。  NHK大河ドラマ秀吉』で主演の豊臣秀吉役も同じ時期でした。  両方が大ヒットで両方に僕が出ていたので、急に世間の人に知られるようになりました。

やりたい役は一杯あります。  宮沢賢治、山頭火、藤田嗣治、内田百閒・・・。

俳優はかっこいい字だと思いますが、果たして自分は俳優かなあという思いはあります。

新藤 兼人監督が色紙に「生きている限り生き抜きたい」と書きましたが、素敵な言葉だと思います。  僕も「生きている限り生き抜きたい」と思っています。