2021年3月10日水曜日

渡邉浩二(地域活動サポートセンター柏崎 職員) ・東日本大震災10年シリーズ 避難者を支え続けた避難者

渡邉浩二(地域活動サポートセンター柏崎 職員)・東日本大震災10年シリーズ 避難者を支え続けた避難者 ~"原発の町"に逃げた避難者たちの10年~

新潟県柏崎市に住む渡辺さんは51歳、10年前に東京電力福島第一原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされて、当時住んでいた福島県の双葉町から同じく原発のある柏崎市に家族5人で避難しました。  東日本大震災の直後や原発事故の直後、新潟県では全国で最も多い8000人が福島県などから避難して、その中でも柏崎市には2000人ほどが身を寄せました。  渡邉さんは柏崎市に避難してきた人たちの元へ市の委託を受けて個別訪問し、生活で困っていることなどを聞きとる訪問支援員として働いてきました。  自らも避難者でありながら、支援者として歩んできたこの10年について伺いました。

この10年、立ち止まらずに走り続けた感じであっという間です。  地震の時はプールで水泳指導をしている最中で、海水パンツ一丁で外に飛び出しました。  娘の保育園に行きましたが、もぬけの殻でした。  生きていてくれという事だけでした。  小学校の娘には会えましたが、凄く不安な顔をしていました。   家族も無事でいてくれて、双葉中学校で家族5人が会うことができホッとしました。   2日目に校内放送が流れて、ただいまから西に向かって非難してくださいという事で、なぜなのかという事は言われてなかった。  安全神話を信じていたので、放射性物質が外に漏れだすという事は思ってもみなかった。  3日目の3時半ごろに次の避難所で爆発が起きたのをTVで見ました。 考えもしていなかったが。  もううちの町には帰れない、仕事も出来ないんだ、友達にも会えないんだ、と思いました。    

義理の父親が柏崎市でしたので、そちらに避難しました。   退職するように言われて、避難者が避難先を回って訪問する仕事があるのでやらないかと言われて、1年間やってみようと思ってやったら10年経ってもまだやっています。   避難の経緯とか健康状態などを聞く、情報提供もするという内容でしたが、いろいろ細かいところまで観察はしていました。    避難者であるがゆえにつらいところがありました。   心を開いてもらうためには方言丸出しで話しかけました。    話していて辛いことばっかりで、何回か僕も一緒に泣きました。   この人が死なないためにはどういうことをていきょうすればいいのか、ひとりでも考えていました。   母子避難で来ている人がいて、生きてゆく自信がないと言う事で、娘の上にまたがって首を絞めて自分でもその後一緒に死のうという方がいました。   あなた方がいたので今の私たちの今があるんですと、泣きながらいわき市に帰っていきました。   二人の命が守れたという事でやっていてよかったという瞬間でした。   

生活してゆく中での色々な苦労が見えてきています。   高校も柏崎市にするのか、福島にするのかとか、内容も変わってきていると思います。   語り部としても活動しています。  地震直後のことから、原子力発電所の事故とかですが、怖さよりも避難の仕方などを強く話していて、怖さなどはなるべく避けて話しています。   自分の持っている知識経験などを全部置いていきますという感じで、柏崎にいる自分の役割みたいなところだと思っていて、自分がやらなければいけない仕事の一個というところです。

柏崎とか県外に避難している人がどのように苦労しているか、福島県内にいる人にも伝えたいという事で、話をさせていただきたいとお願いして、講演をしました。  泣いて聞いてくれた人もいて、やる意味は物凄くあったと感じています。  今後もこの仕事を続けて行くことを考えています。   双葉の家は解体して、柏崎市に家を建てました。    多分柏崎で死ぬんだと思いますが、なんとなく福島に帰れる自分もいるんだと思いたいんです。   福島にいるときには渡邉浩二が100%でしたが、柏崎に来てからはあんまり自分を出さずに生活をしています、出したいけれど出せないんです、制御してしまっている。

故郷っていいところですよね、いつかはか帰る場所だと思います。   100%で笑える場所、気を使わない場所だと思います。   どんなに変わろうが双葉町は双葉町であり、人はそうそう変わらないわけで、僕たちの誇りですかね。