2017年3月9日木曜日

菊池敏夫(震災語り部の会ワッタリ 会長) ・津波の記憶を次の世代へ

菊池敏夫(震災語り部の会ワッタリ 会長) ・津波の記憶を次の世代へ
宮城県亘理町では震災の津波で306人が犠牲になりました。
町で被災体験を多くの人に伝えようと活動しているのが、「震災語り部の会ワッタリ」の人たちです。
会長の菊池さんは67歳、流されてきた、いけすを船代わりに避難しました。
菊池さん自身亘理町に津波は来ないと信じていたと言います。
ワッタリの人たちは津波の体験を次の世代に、どう伝えようとしているのか伺いました。

町は復興途中ですがだいぶ進んできました。
海岸の防潮堤の修復がほとんど終わり、阿武隈川の堤防もかさ上げされて、そちらもほとんど終わりに近づいています。
避難道路は幅も広く直線的に建設中で完成に近づいています。
復興住宅、個人住宅も修復が終わって、生活が始まっています。
6年過ぎましたが、悲しさ苦しさは表立って表現する事は少なくなったが、気持ちのなかではそういう場面を思い出すとなると、沈み込むと云う事も見られるので、心の方は復旧していないんだと思います。
亘理町全体でも306人が亡くなり傷はなかなか癒されないと思います。

38年間、中学の教師をしていました。
町作り協義会が出来て、そこで事務局を任されました。
4月になったら本格的な動きにと云うような時に震災に遭ってしまいました。
家の建物全体が大きなブランコに乗っているように、体験した事のない物凄く大きな揺れでした。(5分ぐらいか)
避難誘導の手伝いを要請されて、道は渋滞していると云う事で徒歩で行きました。
液状化現象、道にはヒビがはいっていたりしました。
非難を呼びかけたが、店の品物の片づけがあると云う事で非難しなかった友人も居ましたが、その後会っていません。
巡回の消防車に乗せられて交流センターに戻って、屋上に上がりました。
水平線が二本あるような感じで、白い水しぶきを巻き上げながら近づいてきました。
水しぶきが茶色になり松林が水没して、どんどん押し寄せてきて、ほとんどの家が水没して何も見えなくなって、、その後家が動いていきました。(理解するまで時間がかかった)

交流センターは海岸から2km以上ありましたが、時速20~30kmの早さだったと思います。
自宅が流されたのは遠目から判りショックでした。
家族は母親が入院していて、妻は内陸の方に買い出しに行っていて無事でした。
着の身着のままでほっぽり出された状況でした。
交流センターには72人が避難してきました。
電気は点かない、暖房もなく、暗幕をはずして毛布代わりにしてよりかたまって寒さを防いで居ました。
夜なかに泥だらけになってけがをしている女性が運び込まれてきて、女性の方々が泥を払ったりお世話をしていました。(命には別条なかった)
翌朝は綺麗な青空でしたが、廻り一面は海と同じでした。
水浸しで歩いて避難が出来なくて、翌日も交流センターに泊りましたが、食べ物がなくて、自動販売機が壊れて中のものがむき出しになっていたので、高齢者、子供などに分け与えていました。
町の運動会の景品のビスケットが倉庫に有ったので、それを子供に分け与えたが、食べる子は居なくて大事そうに持っていました。

2日目は病気の方、高齢者などがヘリで搬送されて、30数名は残されました。
魚市場の魚槽(3m×3m)があったので、それを引っ張ってきて船代わりにして、4人ぐらいづつ分乗して、竹竿を使って小学校の方に避難しました。
850名ほど地域の方々が避難しました。
別のところに避難して、3日目には小学校には誰もいませんでした。
避難先の大熊小学校には、この人は知らないかという張り紙が多くありました。
私も、町の人も津波は来ないと思っていました。
伊達政宗の時代にもおおきな津波があり、明治、昭和のはじめ、チリ津波でも荒浜だけは犠牲者が出なかっという記録が残っていて、荒浜には津波が来ないと誤って伝わってしまったのではないか。
大津波警報があったが、たいした事はないだろうと思っていました。

平成25年から語り部の活動を立ち上げていきたいと云う事で、勧められたが、こんな被害の状況を人前でしゃべれないとお断りしたが、正しく地震津波の事を伝えなければいけないのではないかと再三言われて、スタッフのお世話役のお手伝いをすると云う事で引き受けました。
語り部は12名が現在います。(体験した人は1/3です)
「ワッタリ」 アイヌ語らしい。
入り江になったところをワッタラと表現していて、亘理町(わたりちょう)なので、カタカナで「ワッタリ」としました。
震災の遺構が無くなってしまっているので、DVDを見ていただいて、地域を案内して、慰霊碑の前に行って黙とうしていただき、学校、避難の丘、海岸近くの天然の温泉近辺まで行って震災の話をさせてもらっています。
仲間同士で話し方のチェック等もしています。

体験を話すと云うことは難しいなあと思いますし、語るのはつらいです。
どうしても思い浮かんできて言葉に詰まってしまう事があります。
震災前と震災後の町並みを比較する画像があるのですが、皆さん吃驚しています。
語り部の会を聴いた人は1万5500人を突破しています。
命の重さ、命を大切にすると云う事は、出来るだけ伝えているつもりです。
又全国からの支援の事はしっかり伝えたいと思っています。
災害は必ず来るので、避難して犠牲者を出さないようにする事は出来るので、考えを避難行動に移せるような話をして、皆さんに大切な命を災害で失わないように話を伝えたいと思っています。
語り部の会も高齢の人が多いので年齢の若い方を増やして、活動がスムースに出来るように出来ればいいと思っています。