2017年3月30日木曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・私の昭和史を語る(1)

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・私の昭和史を語る(1)
400通近い便りが寄せられた。
8割以上が戦争に関する便り。
戦闘体験もあるが、飢餓体験、引き揚げ体験、被災被爆体験を語る内容が映っているように思います。

千葉県佐倉市伊藤昇?さん (90歳)
長野県の小作農家の長男として生まれた。
父は越後、母は東京へ出稼ぎにいって居た。
祖母と過ごしていた。
16歳のときに紙くず問屋をしていた伯父のところへ奉公に行くことになる。
仕事は紙くずを自転車についたリヤカーにのせ、集荷する作業で朝4時ごろから一人でする重労働だった。
昭和18年18歳で徴用令書が来て、行先は三菱重工業名古屋航空機大江工場、零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機(雷電)を製作。
B29を撃墜するというラジオ放送とは裏腹に本土が焦土化して行く現状を理解できなかった。
名古屋城も被爆し炎上、三菱重工業名古屋航空機大江工場も猛爆に消えた。
昭和20年3月、私にも令状が届いた。
静岡の浜名海兵団に入隊、行ってみると日本の飛行機、兵器もなく毎日塹壕堀だった。
8月15日の敗戦を迎える。
長野の田舎に帰るが母の嫁入りたんすが残っているが、金属供出で取っ手の穴だけが残っていた。
平和とはなにか、人間らしく生きることはどういうことかと問い続けていきたい。

埼玉県東松山市 東川ひとこ?さん (89歳)
3年生のころまでは授業がありましたが学徒動員で、海軍省管制本部に配属になりました。
毎日のように出征して行くのを見送りました。
霞が関の本省は攻撃目標となり危険とのことで各地に分散しました。
私の部は当時のNHKの隣のビルに移転し軍の極秘書類などを運びました。
特に印象に残ったのは昭和18年10月21日神宮球場で学徒出陣壮行会が行われたことです。
スタンドには多くの女子学生が見送りましたが私もその中の一人でした。
緊迫感は心に焼き付いています。
昭和20年4月13日の空襲でわが家も焼失しました。
防空頭巾をかぶって母と一緒に逃げました。
今も耳に残る焼夷弾の落下音、二度と聞きたくない音です。
戦後ワシントンで実物のB29(エノラゲイ)と焼夷弾の実物を見ました。
何ともやり切れぬ気持でした。
今なお生き続けるものとして、憲法9条を守り通さねば犠牲者たちに申し訳ないと強く思っています。

昭和の漢字一文字は「食」 東京都青梅市合田速志さん(84歳)
私の昭和史を漢字一文字で表せば「食」です。
小学校3年生から戦争が行われた10年間は空腹の日々でした。
戦時下では肉、米、卵牛乳、砂糖はまったく入手できませんでした。
すべて軍部に流れたのです。
唯一の楽しみは天皇誕生日の4月29日に登校して紅白のまんじゅうを貰うことでした。
なんとか食べ物が出回ってきたのは昭和30年ごろからです。
もう20年遅く生まれてくれば食べ物に苦労しなかったと思う反面、戦時下と余り変わらない食生活を続けているので成人病にかからずここの歳まで長生きしているのだと思っています。

私(保坂)も食はつらい思い出として残っています。

シベリア抑留のつらい思い出 広島県福山市 古木三郎さん(90歳)
元関東軍の一兵士としてシベリアのイエジベストコーガヤで4年間の抑留生活を余儀なくされました。
3年余りは電気、水道設備のあった収容所で過ごし、ほかの地区とは格段の好条件で死亡者も数人でした。
帰国後抑留記録を読むと、モスクワの南から、カスピ海のほとり、ウクライナ、中央アジアのタシュケントなどに送られ、多くの戦友が極寒、重労働、栄養失調に苦しめられていたと聞いています。
元関東軍兵士60万の1割以上が遠く異郷の凍土の下で無念の永遠の眠りに余儀なくされています。
この実態をあらためて日本の全国民に確認していただき不戦の思いを新たにしていただきたいのが私の願いです。

抑留60万人ではなく、実態はもっと多かったのではないかと思います。

引き揚げ 愛知県豊田市 鈴木玲子?さん(81歳)
父が軍人だったので旧満州で生まれ楽しい毎日を送っていました。
昭和20年8月9日、ソ連は突然ソ満国境から攻め込んできました。
女子供は避難することになりました。
8月12日、妊娠8カ月の母は3歳の弟をおぶって、私は食料などをリュックサックに入れて背負い弟を連れて、貨物列車に乗り込みました。
15日、北朝鮮の平城に到着、予定していたところはソ連軍に占領されていて行き場のなくなった避難民は平城在住の日本人宅でお世話になることになりました。
野宿をしながら歩いて38度線を突破して帰国船の出る南朝鮮に向かうことになりました。
ソ連兵に見つかり銃を突きつけられ、何が何でも日本に帰るのだと祈り続けました。
やっとのことで長崎県の佐世保港に入港、コレラが出たらしく2週間上陸できませんでした。
母は衰弱した弟を病院に連れて行ったが、息を引き取ってしまいました。
戦争のために弟、妹を亡くして、辛く悲しい思いをしました。
いつのまにか戦争体験を語れる最後の年代になってしまったようです。
私はお声がかかればどこへも出かけて行き、悲惨な戦争体験を話しています。
もう二度と戦争のない平和な日々が続くことを心から願っています。

戦前のラジオの思い出 宮城県仙台市 本郷勝夫さん (94歳)
第一の思い出、昭和11年ベルリンオリンピックの女子水泳の「前畑がんばれ」の放送です。
小学4年から6年の大相撲の放送も記憶に残っています。
武蔵山、男女ノ川 (みなのがわ) 清水川、羽黒山、双葉山などが挙げられます。
昭和16年の日米開戦の歴史的な放送、その後は嘘ばかりの放送報道に明け暮れました。
昭和18年の召集令で大陸に渡り、大作戦に参加させられました。
部隊長の一言で敗戦を知らされました。
いま94歳で元戦場体験兵の一人として生きています。

東京都板橋区 山下敏子?さん (84歳)
戦争が激しくなるとともに食料も不足、5年生ぐらいになると街角で千人針もしました。
国中が洗脳された時代で恐ろしい。
家の防空壕では危険と云うことで山の下の横穴の防空壕に避難しました。
近所の士官学校の生徒さん20歳前後の3兄弟は戦争に行きましたが一人も帰りませんでした。
昭和20年学童疎開で父の故郷に転校しましたが、片田舎にもB29がきました。
平凡な毎日がいつまで続くのでしょうか、最近戦前の匂がするのは私だけでしょうか。
子供孫の時代まで平和が続くことを祈ります。

大本営発表は846回あるが、前の話の中で嘘というふうになっているが戦況がいい時は事実を伝えるが、悪くなると言葉を誤魔化して行く、撤退を転進と云ったりして誤魔化す。
そのうち隠すようになる、どうしても発表しなくてはいけないときには嘘を云う。

戦中戦後の母親に感謝 広島県二十日市 利根栄子?さん(75歳)
12月12日生まれ 12月8日に大平洋戦争が勃発、母のの不安を察する昨今です。
心配でたまらなかったろうと想像もつきません。
父は戦地にいたそうです。
母は戦後を乗り越え物資のない時代を凌ぎ私たち4人をを育ててくれました。
母は親から貰った立派な着物を農家に持っていって食料と交換したそうです。
母は昨年96歳で長き人生を生き抜きました、凄いことです。
改めてお母さんありがとう、よくぞ育ててくれましたと感謝の思いにあふれて居ます。
もう二度と悲しい辛い思いを子や孫にさせてはならない、大切な命を守らなければならないと願わずにはおられません。

甲子園球場の空襲にまつわる便り 千葉市緑区 西村功?さん(78歳)
7歳の少年時代に経験した空襲と、引き続いた戦後混乱期の生活体験は今日に至るまで忘れることはないでしょうし、死ぬまで忘れません。
アメリカ軍B29爆撃機130機による阪神大空襲は鮮明な記憶で脳裏に焼き付いています。
昭和20年8月5日夜10時ごろから未明にかけてのことでした。
甲子園球場のすぐ近くに住んでいましたが、まさか空襲でわが家が焼失するなど夢にも思いませんでした。
突然父に起こされ、ラジオから何度も空襲警報発令の声が聞こえてきました。
父母のあとについて家を出て防空壕に避難しました。
夜が明けて空襲警報が解除され外を見ると、初めてあたりの状況が一変していることに気付きました。
すべてが焼け野原になって、みんな茫然としていました。
甲子園地域一帯が川西航空機鳴尾製作所、それに関連する軍需工場になっていたからです。
昭和20年1月の正月野球大会を最後に軍に接収され軍需工場に、内野は芋畑に、外野は軍のトラック駐車場になりました。
金属類は供出されてしまいました。
あれから70年経ちすっかり変わりましたが、しかし戦争による空襲被害は厳然たる事実なのです。
甲子園にも戦争の事実が刻まれていることを、後世に伝えつつ平和への誓いを新たにしないといけないと思っています。