2012年3月29日木曜日

牧秀一(神戸よろず相談室長)    ・神戸のよろず相談室を東北にも


牧秀一(NPO法人神戸よろず相談室長62歳)    神戸のよろず相談室を東北にも
1995年に起きた阪神淡路大震災の被災者を支えて17年になります 
神戸の定時制学校の教師をしながら ボランティアで一人暮らしのお年寄りや、障害を持つ人達に寄り添い 見守り続けています    
仮設住宅 復興住宅での訪問活動をやっている 話相手は誰でも出来る  
ずっと続けることで信頼関係ができてきて本音が出てくる 
震災で家族を無くしたり、家を無くしても回り復興して行っても その中で自分は一人ではないんだと 訪問してくれる人がいる事で一人ではない
置き去りにされてないと言う事が判るんですね
その人は孤独死は無いんだろうと思っている

私の家でも倒れそうになったが何とか大丈夫であった 
職も教師であったので職を失うことも無かった
最初避難所が近くに有り校長から了解をとりそこでボランティア活動を始めた
最初はいったらボランティアがすでに来ていてリーダーがおり、話したい人、相談したい人が一杯いるのでそちらの方をやってもらえませんかと言われたのがきっかけ
避難所には約400人がいた 最初信頼関係が無いのでよろず新聞を作った 
必要な情報を大手の新聞から取り入れてぱっと配るのではなく、教室の一か所に集まって貰って説明をしたんです  
情報を説明する繰り返しの中で徐々に信頼関係ができてきた  毎日 これからどうするのか 
風邪の問題 病院はどこにあるのかとか説明をして行った

それがよろず相談室のグループが出来上がった 5人で出来上がった 8/31までになっていた  
最後の人が避難所をでるまでやろうと言う事で最後が9/10だった
一度活動は終わった 私達は避難所よりも仮設の方が良いと思っていたが孤独死とか自殺とかが毎日報道される
仮設住宅を訪問したらよくない状況があっちこっちにでた  
ちょうど1年目にボランティアの人と被災者の人達が集まって再開しようと言う事になった
その時は13人グループになった  仮設住宅に訪問する活動を行うようになった 
東灘区 とりわけ一人暮らし 病弱な人を主に訪問する
仮設住宅では隣の人が知らない人 隣の物音がする 
じっと過ごす様な生活状況 300世帯 毎週1回廻った

5年経って仮設住宅、復興住宅を訪問するようになる  
識字教室 読み書きができない人達に対して以前は隣の人達が補助をしてくれていたが
仮設住宅では隣が知らない人なのでフォローしてもらうことができない 
その人達が孤立しているので 3ヶ所に識字教室を設けて活動した
お年寄りが多い  段々隣同志が仲良くなってきたなあと思った時に復興住宅への抽選でばらばらになる この事が2度あった(折角絆ができても分断されてしまう)
おばあさんがポツンと「ここは都会の墓場です」と言ったことがあります
ある高齢者用復興住宅の自治会長は「身内がいない人が多いわ。死んだら誰も引き取りてないんやで」「あと10年したら、みんないなくなるよ…」と寂しそうに話していました

建物の立派さ・賑わいと反比例する人々の孤独・不安の深さが、復興住宅の現実なのです
復興住宅に入ってしまうと部屋に入ってしまうと隣同志の付き合いが全く無くなってしまう  
孤独死は仮設の場合は233名だった 復興住宅では9年間で600人ぐらい
自殺はそのうちの13%なんですよ 非常に多い 孤独死は男の人が多い 
原因がアリコール依存なんです   男の人の方が女の人よりも弱い
隣近所の付き合いが無くなる状態になってしまった  TVの子守をする 
そんな状況 建物を見た時にベランダから外をボーっと見ていて隣の人とは話す様子は無かった
資金は最初無かった新聞記事を見てくれてお婆さんがぽんと230万円を出してくれた 
その後報道されるたびにカンパしてくれるようになった
辞めようと思った時は何度もあったが 東京から毎月 親子で別々に1000円送ってくれる人がいた  8年間  おそらく年金で生活されている方 それを想うと、辞められなかった 
2010年12月にNPO法人になる ぐるっと一回りするのに1カ月かかる 
その間に亡くなってしまう事がある  
そのためできるだけ多く回りたいと思うようになった 
NPOなったが資金活動費用は助成金で楽に成るかと思ったが、そう甘くは無かった
お爺さんが病院に入院していてその人は死ぬ間際で、私に対して「ありがとう」と言った光景を見て こういう関係になれるんだと思って加わった人もいます

その人も10年以上やっている   接してきて段々信頼関係ができて 止めようと思う気持ちが出る時もあるが決して止められないと思う
震災障害者 震災で障害に遭った人達 阪神淡路大震災で約1万人重症者(1カ月以上の入院) 1/4が腕を切断とかその人達に目が向かっていなかった
同じ悩みを持つ人達の場が無いのでその人達が1カ月に一度会うような場を設けた  
お婆さんが10分ほどして泣きだした ここは泣いて良い場所なんだと、皆が受けれてくれてくれる    そういう空気があるんですね    
神戸以外はいけないと思っていた 東北との被災者との係わりについては 今回は全員が行かなければいけないと言う気持ちになって、4月の中旬に宮城県に行った 
何にもなかった 南三陸の光景を見たら絶句した これでは何もできない 
仙台で一泊して石巻に行った 小さな避難所に行った
 
そこの人達とは今も付き合っている   1年経って道路ができた程度であまり進んでいない
東北の人はお茶会に出てこない人をどうするかと言う事に対して遠慮してしまう傾向にある  東北の人同士で助け合いをしたらいいなあと思っている
生活格差ができてきている 金がある人は家を建てれるが  被災者を見る目 頑張る人は良い がんばれない人は駄目なんだと言うような目線の違いが出てきてる 
切実に成ってきているのが 仕事なんですけれども 仕事をすることが生きる事なんですけれども その仕事が無い 生きれないと言う事が大きな問題としてある
「なにも要らないけど話相手が欲しいんや」と或るお婆さんが言っていた  
とりわけ一人暮らしの人達が言っている言葉です

寄り添って話相手になることは誰でも出来るんだと思います 
遠いと1回2回は会えるかもしれないが3回4回とは会うことができないが 手紙とか電話で
交流する手段はあると思うんですよ つながる事が大事  大層なことでなくていい 
文通が始まると会う事と同じ
よろず相談室に仲介してもらえれば良いと思う  
喪失感を抱えている やけくそに成って当たり前だと思う  
1年経っているのにまだあんなことをしているのかと言うような目線で見てほしくない
温かい目で見守ってほしいと思う