2012年3月15日木曜日

田中一夫(写真家62歳)      ・歌垣が生きる中国の村を見つめて


田中一夫(写真家62歳) ・(歌垣)うたがきが生きる中国の村を見つめて
男女が集って歌を歌いながら踊り結びあう相手を選びあうという行事で、古代には日本でも行われていたと言われます。
39歳の時にフリーになる 民俗学者の指導を受けながら、うたがきの風俗を守り続けている中国の村々を訪れ昔ながらの暮らしを写真と音で記録するように成りました  
 1989年(平成元年)からその様な仕事を始める 天安門事件の直後の事    
歌と共に生きるみゃお族と呼ばれる暮らしを見つめ、民俗文化の貴重な記録となる温かく、詩情に満ちた写真を撮り続けてきました
村は中国のほぼ真ん中の山間 標高が500mぐらいの場所 20数年掛って撮り続けている  みゃお(苗)族 

暮らしは農業が主体 山間部なので小さな棚田を山の上の方まで作って暮らしている
文字を持たないでこれまで生活してきた(約150年前まで)  
歌が彼らの人生若い男女が恋を語る為に歌を歌う 
それが歌垣のメインの部分ではないかと思う  
みやお族の歌を是非聞いてみたいと思って、最初入って行った
とび(飛)歌 100m~150mぐらい離れた丘で、若い男女のグループが歌い合う
「結婚している男の人は私達に近寄ってくれない 

だから未婚の男の人達は私達と一緒に山に登って歌を歌いましょう」
「歌を歌うのもいましかないんだよ  
だから一緒に歌って素晴らしい人生を過ごしましょう」 その様な意味合いを歌っている
男も裏声で歌っている   古歌も歌うがアドリブでも歌う  最初 大勢で歌い合う  
反時計回りに踊りながら廻る
2日目は恋人同士になりましょうねと言うところまで ここでは1対1の2人同士の歌い合いになる
3日目は最終的な結婚 を決める 人垣に親が現れ、娘の彼氏はどういう人か、或は息子の彼女はどういう人か、 遠いところから見守っているという
一番メインの歌垣 
収入も安定している商業写真家から方向転換した理由は→1988年前はバブル真っ盛りと言う時代だった  コマーシャル写真家として10年ぐらいやっていた(39歳)
めちゃめちゃ仕事が忙しかった  その時になにか心の中に空洞を感じた 
自分ではよく判らなかった  なんか足りないなと言う思いがあった

そんなときに上智大学 名誉教授 故鳥居龍蔵氏 1902年から1903年にかけての中国の調査報告の本をたまたま見かけた  そこでみゃお族を知った
「東南アジア山地民族誌―ヤオとその隣接諸種族」
写真家として何か残したいという思いがあって、それ目標が見付かったと言う事です  
会社を辞める 妻からは金は貴方が貯めたものだから使ったらと言われた
1989年天安門事件 直後に行った 
しかし普段の生活は見られず、これでは駄目だと思い、一人で行くしかないと思った

最初は大変だった 「ニーハオ」「シェーシェ」ぐらいしか知らず1989年の夏に行った 
3人の老人に出会い、写真を撮りに来たと言ったら、すぐに立ち去りなさいと言われた  
若い人が来て、私の家であれば構わないと助け船を出してくれた
写真を撮らせてくれと言うが、巧く伝わらない 民族衣装を着てきて棒立ちになってしまう 
自然のままの姿を撮りたいんだと理解してもらうまでには時間がかかった
子供達と遊んだり、畑仕事を手伝いながら段々と溶け込んで入って行った  
ビザのぎりぎりまで撮影する 3か月~4カ月

3回目でようやく慣れてきてくれた 最初 うたがきがテーマだったが、いろんなことが判って来る人の温かさ 他人に思いやる心を直に肌で感じて撮影のスタンスが変わって行った  
普段の何気ない生活、結婚式、葬式 の撮影もさしてもらった
思い出の深い家族→パン・シンシェンさん ろしょう(足笛)の名人 ろしょうはみゃお族の男の大事なもの  女性は歌がうまいこと、刺繍がうまい事(民族衣装)が大事
男女共に働きものでなければならないのが大事な条件となる
お土産に月餅を10個 泊った家に持ってゆき4歳の子供に渡したところ 9個は近所、来ていた友達に渡す 残った1個を1/4にして両親に1/4、1/4  
残りを1/3にして兄さん、姉さんに 残ったのを自分が舐めるように食べる 
4歳の子がどうしてこのようなことをのだろうかと感動した

「歌とともに生きる」写真集を出版している  
みゃお族の人間性の豊かさ 心の豊かさ 殆ど自給自足の生活をしている人達なのに、これほどまでに人に心をくだく民族なんてすばらしいなと思いました
段々と村人の生活の中で私に見せてくれたこと、それは人と人との繋がり、絆  村の中の家族が全部が家族 自分の家の家族が家族ではない 
皆が村人との一人一人の事を思っている  私の様によそ者が来ても、受け入れてくれるそれがみゃお族の凛とした生き方 優しさと同時に背筋をピンとはった
誇りを持った民族 それが力強く生きていると言う事が私に取って本当に感動を覚える事なんですね
だから普段の生活が普通に出来ればいいんだ 笑顔でご飯が食べられれば、それでいいんじゃないか心豊かにご飯が食べられれば、何にもなくてもそれが最高の贅沢なんじゃないんですかね  
彼らから貰うメッセージと言うのは、当たり前のことは当たり前の生活をすることが幸せなんじゃないか そうやって私に教えているのかなと思います
自分でお金を作って、自分で取材に行く それが自分でやりたいようにできると思ってましたから、確かに妻は苦労したし、大変だったと思います
感謝しています

写真集のあとがき 「僅か20年ほどの間に 急速な近代化がみゃお族の暮らしを大きく変えた  村ごとに違った髪形、髷 民族衣装が消えてゆく
今は年配の人達が辛うじて 維持している うたがきも祭りのとき以外ほとんど見られなくなってきた  
この写真集は私の意図とは別に失われゆく民族文化の記録になってしまったようである」  
日本も昭和初期まで着物文化だった それが知らないうちに今は洋服文化になっている  
それは便利だからですよね
みゃお族の人に民族衣装を着たまま、新しいものを受け入れちゃいけないなんて、誰も言えないですよね
彼らの場合には携帯電話が先に入ってきた (2002年に行った時)  
急速に変化するなと思った
スパッと変わった村から民族文化を維持しながら、新しいものと融合しながら変化してゆくそういう村もある
願わくば民族文化を維持しながら、新しいものを取り入れてくれたら、私としては嬉しいのですが 彼らから見ると難しい事だと思います
この本を届けたい 4歳だった子が現在27歳になっている  (コックとして)  その子と話したい  近代化してゆく姿も記録しなくてはいけないのかなあと思ってます