保阪正康(ノンフィクション作家) ・私の昭和史を語る(2)
*NHKの平成29年度予算と事業計画について、参議院の審議の模様を伝える番組のため
中止にします。
2017年3月31日金曜日
2017年3月30日木曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・私の昭和史を語る(1)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・私の昭和史を語る(1)
400通近い便りが寄せられた。
8割以上が戦争に関する便り。
戦闘体験もあるが、飢餓体験、引き揚げ体験、被災被爆体験を語る内容が映っているように思います。
千葉県佐倉市伊藤昇?さん (90歳)
長野県の小作農家の長男として生まれた。
父は越後、母は東京へ出稼ぎにいって居た。
祖母と過ごしていた。
16歳のときに紙くず問屋をしていた伯父のところへ奉公に行くことになる。
仕事は紙くずを自転車についたリヤカーにのせ、集荷する作業で朝4時ごろから一人でする重労働だった。
昭和18年18歳で徴用令書が来て、行先は三菱重工業名古屋航空機大江工場、零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機(雷電)を製作。
B29を撃墜するというラジオ放送とは裏腹に本土が焦土化して行く現状を理解できなかった。
名古屋城も被爆し炎上、三菱重工業名古屋航空機大江工場も猛爆に消えた。
昭和20年3月、私にも令状が届いた。
静岡の浜名海兵団に入隊、行ってみると日本の飛行機、兵器もなく毎日塹壕堀だった。
8月15日の敗戦を迎える。
長野の田舎に帰るが母の嫁入りたんすが残っているが、金属供出で取っ手の穴だけが残っていた。
平和とはなにか、人間らしく生きることはどういうことかと問い続けていきたい。
埼玉県東松山市 東川ひとこ?さん (89歳)
3年生のころまでは授業がありましたが学徒動員で、海軍省管制本部に配属になりました。
毎日のように出征して行くのを見送りました。
霞が関の本省は攻撃目標となり危険とのことで各地に分散しました。
私の部は当時のNHKの隣のビルに移転し軍の極秘書類などを運びました。
特に印象に残ったのは昭和18年10月21日神宮球場で学徒出陣壮行会が行われたことです。
スタンドには多くの女子学生が見送りましたが私もその中の一人でした。
緊迫感は心に焼き付いています。
昭和20年4月13日の空襲でわが家も焼失しました。
防空頭巾をかぶって母と一緒に逃げました。
今も耳に残る焼夷弾の落下音、二度と聞きたくない音です。
戦後ワシントンで実物のB29(エノラゲイ)と焼夷弾の実物を見ました。
何ともやり切れぬ気持でした。
今なお生き続けるものとして、憲法9条を守り通さねば犠牲者たちに申し訳ないと強く思っています。
昭和の漢字一文字は「食」 東京都青梅市合田速志さん(84歳)
私の昭和史を漢字一文字で表せば「食」です。
小学校3年生から戦争が行われた10年間は空腹の日々でした。
戦時下では肉、米、卵牛乳、砂糖はまったく入手できませんでした。
すべて軍部に流れたのです。
唯一の楽しみは天皇誕生日の4月29日に登校して紅白のまんじゅうを貰うことでした。
なんとか食べ物が出回ってきたのは昭和30年ごろからです。
もう20年遅く生まれてくれば食べ物に苦労しなかったと思う反面、戦時下と余り変わらない食生活を続けているので成人病にかからずここの歳まで長生きしているのだと思っています。
私(保坂)も食はつらい思い出として残っています。
シベリア抑留のつらい思い出 広島県福山市 古木三郎さん(90歳)
元関東軍の一兵士としてシベリアのイエジベストコーガヤで4年間の抑留生活を余儀なくされました。
3年余りは電気、水道設備のあった収容所で過ごし、ほかの地区とは格段の好条件で死亡者も数人でした。
帰国後抑留記録を読むと、モスクワの南から、カスピ海のほとり、ウクライナ、中央アジアのタシュケントなどに送られ、多くの戦友が極寒、重労働、栄養失調に苦しめられていたと聞いています。
元関東軍兵士60万の1割以上が遠く異郷の凍土の下で無念の永遠の眠りに余儀なくされています。
この実態をあらためて日本の全国民に確認していただき不戦の思いを新たにしていただきたいのが私の願いです。
抑留60万人ではなく、実態はもっと多かったのではないかと思います。
引き揚げ 愛知県豊田市 鈴木玲子?さん(81歳)
父が軍人だったので旧満州で生まれ楽しい毎日を送っていました。
昭和20年8月9日、ソ連は突然ソ満国境から攻め込んできました。
女子供は避難することになりました。
8月12日、妊娠8カ月の母は3歳の弟をおぶって、私は食料などをリュックサックに入れて背負い弟を連れて、貨物列車に乗り込みました。
15日、北朝鮮の平城に到着、予定していたところはソ連軍に占領されていて行き場のなくなった避難民は平城在住の日本人宅でお世話になることになりました。
野宿をしながら歩いて38度線を突破して帰国船の出る南朝鮮に向かうことになりました。
ソ連兵に見つかり銃を突きつけられ、何が何でも日本に帰るのだと祈り続けました。
やっとのことで長崎県の佐世保港に入港、コレラが出たらしく2週間上陸できませんでした。
母は衰弱した弟を病院に連れて行ったが、息を引き取ってしまいました。
戦争のために弟、妹を亡くして、辛く悲しい思いをしました。
いつのまにか戦争体験を語れる最後の年代になってしまったようです。
私はお声がかかればどこへも出かけて行き、悲惨な戦争体験を話しています。
もう二度と戦争のない平和な日々が続くことを心から願っています。
戦前のラジオの思い出 宮城県仙台市 本郷勝夫さん (94歳)
第一の思い出、昭和11年ベルリンオリンピックの女子水泳の「前畑がんばれ」の放送です。
小学4年から6年の大相撲の放送も記憶に残っています。
武蔵山、男女ノ川 (みなのがわ) 清水川、羽黒山、双葉山などが挙げられます。
昭和16年の日米開戦の歴史的な放送、その後は嘘ばかりの放送報道に明け暮れました。
昭和18年の召集令で大陸に渡り、大作戦に参加させられました。
部隊長の一言で敗戦を知らされました。
いま94歳で元戦場体験兵の一人として生きています。
東京都板橋区 山下敏子?さん (84歳)
戦争が激しくなるとともに食料も不足、5年生ぐらいになると街角で千人針もしました。
国中が洗脳された時代で恐ろしい。
家の防空壕では危険と云うことで山の下の横穴の防空壕に避難しました。
近所の士官学校の生徒さん20歳前後の3兄弟は戦争に行きましたが一人も帰りませんでした。
昭和20年学童疎開で父の故郷に転校しましたが、片田舎にもB29がきました。
平凡な毎日がいつまで続くのでしょうか、最近戦前の匂がするのは私だけでしょうか。
子供孫の時代まで平和が続くことを祈ります。
大本営発表は846回あるが、前の話の中で嘘というふうになっているが戦況がいい時は事実を伝えるが、悪くなると言葉を誤魔化して行く、撤退を転進と云ったりして誤魔化す。
そのうち隠すようになる、どうしても発表しなくてはいけないときには嘘を云う。
戦中戦後の母親に感謝 広島県二十日市 利根栄子?さん(75歳)
12月12日生まれ 12月8日に大平洋戦争が勃発、母のの不安を察する昨今です。
心配でたまらなかったろうと想像もつきません。
父は戦地にいたそうです。
母は戦後を乗り越え物資のない時代を凌ぎ私たち4人をを育ててくれました。
母は親から貰った立派な着物を農家に持っていって食料と交換したそうです。
母は昨年96歳で長き人生を生き抜きました、凄いことです。
改めてお母さんありがとう、よくぞ育ててくれましたと感謝の思いにあふれて居ます。
もう二度と悲しい辛い思いを子や孫にさせてはならない、大切な命を守らなければならないと願わずにはおられません。
甲子園球場の空襲にまつわる便り 千葉市緑区 西村功?さん(78歳)
7歳の少年時代に経験した空襲と、引き続いた戦後混乱期の生活体験は今日に至るまで忘れることはないでしょうし、死ぬまで忘れません。
アメリカ軍B29爆撃機130機による阪神大空襲は鮮明な記憶で脳裏に焼き付いています。
昭和20年8月5日夜10時ごろから未明にかけてのことでした。
甲子園球場のすぐ近くに住んでいましたが、まさか空襲でわが家が焼失するなど夢にも思いませんでした。
突然父に起こされ、ラジオから何度も空襲警報発令の声が聞こえてきました。
父母のあとについて家を出て防空壕に避難しました。
夜が明けて空襲警報が解除され外を見ると、初めてあたりの状況が一変していることに気付きました。
すべてが焼け野原になって、みんな茫然としていました。
甲子園地域一帯が川西航空機鳴尾製作所、それに関連する軍需工場になっていたからです。
昭和20年1月の正月野球大会を最後に軍に接収され軍需工場に、内野は芋畑に、外野は軍のトラック駐車場になりました。
金属類は供出されてしまいました。
あれから70年経ちすっかり変わりましたが、しかし戦争による空襲被害は厳然たる事実なのです。
甲子園にも戦争の事実が刻まれていることを、後世に伝えつつ平和への誓いを新たにしないといけないと思っています。
400通近い便りが寄せられた。
8割以上が戦争に関する便り。
戦闘体験もあるが、飢餓体験、引き揚げ体験、被災被爆体験を語る内容が映っているように思います。
千葉県佐倉市伊藤昇?さん (90歳)
長野県の小作農家の長男として生まれた。
父は越後、母は東京へ出稼ぎにいって居た。
祖母と過ごしていた。
16歳のときに紙くず問屋をしていた伯父のところへ奉公に行くことになる。
仕事は紙くずを自転車についたリヤカーにのせ、集荷する作業で朝4時ごろから一人でする重労働だった。
昭和18年18歳で徴用令書が来て、行先は三菱重工業名古屋航空機大江工場、零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機(雷電)を製作。
B29を撃墜するというラジオ放送とは裏腹に本土が焦土化して行く現状を理解できなかった。
名古屋城も被爆し炎上、三菱重工業名古屋航空機大江工場も猛爆に消えた。
昭和20年3月、私にも令状が届いた。
静岡の浜名海兵団に入隊、行ってみると日本の飛行機、兵器もなく毎日塹壕堀だった。
8月15日の敗戦を迎える。
長野の田舎に帰るが母の嫁入りたんすが残っているが、金属供出で取っ手の穴だけが残っていた。
平和とはなにか、人間らしく生きることはどういうことかと問い続けていきたい。
埼玉県東松山市 東川ひとこ?さん (89歳)
3年生のころまでは授業がありましたが学徒動員で、海軍省管制本部に配属になりました。
毎日のように出征して行くのを見送りました。
霞が関の本省は攻撃目標となり危険とのことで各地に分散しました。
私の部は当時のNHKの隣のビルに移転し軍の極秘書類などを運びました。
特に印象に残ったのは昭和18年10月21日神宮球場で学徒出陣壮行会が行われたことです。
スタンドには多くの女子学生が見送りましたが私もその中の一人でした。
緊迫感は心に焼き付いています。
昭和20年4月13日の空襲でわが家も焼失しました。
防空頭巾をかぶって母と一緒に逃げました。
今も耳に残る焼夷弾の落下音、二度と聞きたくない音です。
戦後ワシントンで実物のB29(エノラゲイ)と焼夷弾の実物を見ました。
何ともやり切れぬ気持でした。
今なお生き続けるものとして、憲法9条を守り通さねば犠牲者たちに申し訳ないと強く思っています。
昭和の漢字一文字は「食」 東京都青梅市合田速志さん(84歳)
私の昭和史を漢字一文字で表せば「食」です。
小学校3年生から戦争が行われた10年間は空腹の日々でした。
戦時下では肉、米、卵牛乳、砂糖はまったく入手できませんでした。
すべて軍部に流れたのです。
唯一の楽しみは天皇誕生日の4月29日に登校して紅白のまんじゅうを貰うことでした。
なんとか食べ物が出回ってきたのは昭和30年ごろからです。
もう20年遅く生まれてくれば食べ物に苦労しなかったと思う反面、戦時下と余り変わらない食生活を続けているので成人病にかからずここの歳まで長生きしているのだと思っています。
私(保坂)も食はつらい思い出として残っています。
シベリア抑留のつらい思い出 広島県福山市 古木三郎さん(90歳)
元関東軍の一兵士としてシベリアのイエジベストコーガヤで4年間の抑留生活を余儀なくされました。
3年余りは電気、水道設備のあった収容所で過ごし、ほかの地区とは格段の好条件で死亡者も数人でした。
帰国後抑留記録を読むと、モスクワの南から、カスピ海のほとり、ウクライナ、中央アジアのタシュケントなどに送られ、多くの戦友が極寒、重労働、栄養失調に苦しめられていたと聞いています。
元関東軍兵士60万の1割以上が遠く異郷の凍土の下で無念の永遠の眠りに余儀なくされています。
この実態をあらためて日本の全国民に確認していただき不戦の思いを新たにしていただきたいのが私の願いです。
抑留60万人ではなく、実態はもっと多かったのではないかと思います。
引き揚げ 愛知県豊田市 鈴木玲子?さん(81歳)
父が軍人だったので旧満州で生まれ楽しい毎日を送っていました。
昭和20年8月9日、ソ連は突然ソ満国境から攻め込んできました。
女子供は避難することになりました。
8月12日、妊娠8カ月の母は3歳の弟をおぶって、私は食料などをリュックサックに入れて背負い弟を連れて、貨物列車に乗り込みました。
15日、北朝鮮の平城に到着、予定していたところはソ連軍に占領されていて行き場のなくなった避難民は平城在住の日本人宅でお世話になることになりました。
野宿をしながら歩いて38度線を突破して帰国船の出る南朝鮮に向かうことになりました。
ソ連兵に見つかり銃を突きつけられ、何が何でも日本に帰るのだと祈り続けました。
やっとのことで長崎県の佐世保港に入港、コレラが出たらしく2週間上陸できませんでした。
母は衰弱した弟を病院に連れて行ったが、息を引き取ってしまいました。
戦争のために弟、妹を亡くして、辛く悲しい思いをしました。
いつのまにか戦争体験を語れる最後の年代になってしまったようです。
私はお声がかかればどこへも出かけて行き、悲惨な戦争体験を話しています。
もう二度と戦争のない平和な日々が続くことを心から願っています。
戦前のラジオの思い出 宮城県仙台市 本郷勝夫さん (94歳)
第一の思い出、昭和11年ベルリンオリンピックの女子水泳の「前畑がんばれ」の放送です。
小学4年から6年の大相撲の放送も記憶に残っています。
武蔵山、男女ノ川 (みなのがわ) 清水川、羽黒山、双葉山などが挙げられます。
昭和16年の日米開戦の歴史的な放送、その後は嘘ばかりの放送報道に明け暮れました。
昭和18年の召集令で大陸に渡り、大作戦に参加させられました。
部隊長の一言で敗戦を知らされました。
いま94歳で元戦場体験兵の一人として生きています。
東京都板橋区 山下敏子?さん (84歳)
戦争が激しくなるとともに食料も不足、5年生ぐらいになると街角で千人針もしました。
国中が洗脳された時代で恐ろしい。
家の防空壕では危険と云うことで山の下の横穴の防空壕に避難しました。
近所の士官学校の生徒さん20歳前後の3兄弟は戦争に行きましたが一人も帰りませんでした。
昭和20年学童疎開で父の故郷に転校しましたが、片田舎にもB29がきました。
平凡な毎日がいつまで続くのでしょうか、最近戦前の匂がするのは私だけでしょうか。
子供孫の時代まで平和が続くことを祈ります。
大本営発表は846回あるが、前の話の中で嘘というふうになっているが戦況がいい時は事実を伝えるが、悪くなると言葉を誤魔化して行く、撤退を転進と云ったりして誤魔化す。
そのうち隠すようになる、どうしても発表しなくてはいけないときには嘘を云う。
戦中戦後の母親に感謝 広島県二十日市 利根栄子?さん(75歳)
12月12日生まれ 12月8日に大平洋戦争が勃発、母のの不安を察する昨今です。
心配でたまらなかったろうと想像もつきません。
父は戦地にいたそうです。
母は戦後を乗り越え物資のない時代を凌ぎ私たち4人をを育ててくれました。
母は親から貰った立派な着物を農家に持っていって食料と交換したそうです。
母は昨年96歳で長き人生を生き抜きました、凄いことです。
改めてお母さんありがとう、よくぞ育ててくれましたと感謝の思いにあふれて居ます。
もう二度と悲しい辛い思いを子や孫にさせてはならない、大切な命を守らなければならないと願わずにはおられません。
甲子園球場の空襲にまつわる便り 千葉市緑区 西村功?さん(78歳)
7歳の少年時代に経験した空襲と、引き続いた戦後混乱期の生活体験は今日に至るまで忘れることはないでしょうし、死ぬまで忘れません。
アメリカ軍B29爆撃機130機による阪神大空襲は鮮明な記憶で脳裏に焼き付いています。
昭和20年8月5日夜10時ごろから未明にかけてのことでした。
甲子園球場のすぐ近くに住んでいましたが、まさか空襲でわが家が焼失するなど夢にも思いませんでした。
突然父に起こされ、ラジオから何度も空襲警報発令の声が聞こえてきました。
父母のあとについて家を出て防空壕に避難しました。
夜が明けて空襲警報が解除され外を見ると、初めてあたりの状況が一変していることに気付きました。
すべてが焼け野原になって、みんな茫然としていました。
甲子園地域一帯が川西航空機鳴尾製作所、それに関連する軍需工場になっていたからです。
昭和20年1月の正月野球大会を最後に軍に接収され軍需工場に、内野は芋畑に、外野は軍のトラック駐車場になりました。
金属類は供出されてしまいました。
あれから70年経ちすっかり変わりましたが、しかし戦争による空襲被害は厳然たる事実なのです。
甲子園にも戦争の事実が刻まれていることを、後世に伝えつつ平和への誓いを新たにしないといけないと思っています。
2017年3月29日水曜日
大杉正明(清泉女子大学教授) ・英語が拓いた世界への扉
大杉正明(清泉女子大学教授) ・英語が拓いた世界への扉
長年ラジオ英会話の講師として、更にラジオ深夜便でも「名画、名曲、名セリフ」や現在は大人の教養講座でユーモラスなだじゃれを交えた軽妙な語り口で人気です。
今日は今年70歳を迎えた大杉さんの英語の原点、英語で人生を切り拓いて子供の頃の夢を叶えてきた話を伺います。
1947年生まれ 今年で70歳、静岡県伊東市の出身、明治学院大学大学院を卒業、現在は清泉女子大学英文科の教授。
NHKの語学講座にかかわったのは1982年、35歳。
1987年からNHKラジオ英会話を11年担当。
TV、ラジオで28年間NHKの語学講座を担当して、8年前「名画、名曲、名セリフ」
から始まってラジオ深夜便出演。
団塊の世代といわれて居る世代です。
当時みんな貧しいので気にならなかった。
ゆったりしている生活感でした。
英語との接点はほとんどない子供時代でした。
英語の唯一の接点は西部劇でジョン・ウエインがステーキを食べているのを見て、家に帰るとアジの干物が待っていて、アメリカは凄く豊かなんだなあとアメリカに対するあこがれはアメリカ映画を通して芽生えてきました。
これが英語の勉強に対する最初かなあと思います。
西部劇の遊びでまねるのにデタラメ英語を使って遊んでいました。
段々本物の英語を使いたいと思うようになりました。
小学校に上がるかどうかのころに家にはフォードの車がありました。
家を売ってフォードを父が買いましたが、借家暮らしとなりました。
車で遊び歩いた父親に対し母親はついに離婚して、父親の借金を背負って4人の子を育てました。
母親は難行苦行の連続でした。
姉たちも私も自分の机の持ったことがありませんで、家で勉強したことはありませんでした。
ラジオから流れてくるアメリカの音楽に心を動かされて、段々プレスリー、ニール・セダカとかのまねしようとして、流れてきたものを判らないながら一生懸命聞いて真似していました。
後で英語が判るようになりましたが、当時結構正確に覚えたと我ながらいい方法だったと思いました。
中学の時には英語を一生の仕事にしようとは思わなかったが、映画、音楽の英語は楽しいし好きだし、ただ英語を勉強することとは違っていました。
英語の時間にカッコよく発音すると廻りから、いじめられたりしました。
日本語的英語の発音をすることで和が保てました。
高校時代も自宅では勉強したことがなくて、卓球ばっかりしていました。
英語の授業の担任の露木先生と出会いまして、先生から厳しく教わって、先生のおかげである程度力もついて来ました。
全国模擬試験で英語の点数だけは200何十番で、廊下に貼り出されて吃驚しました。
3年生の頃に、先生が私の出た大学(明治学院大学)に入らないかといわれ、明治学院大学に進みました。
英語の教員になる以外に考えはほかになかった。
兄弟の中で私だけが大学に行きましたので、自主的に勉強するのが大学の4年間でした。
人間はどんな場所にいても与えられ場所で、自分の持てる力を最大限に発揮して最善を尽くすことが大事だと、教え子などにも言っています。
高校の教員になるつもりでいました。
教員免許を取るには道徳教育の研究は必修でしたが、退路を断つと云うか、後期のレポートを出すのを辞めてしまいました。(大学院に行く事に仕向けるようになってしまった)
大学院に入って、その後職を得たのが女子聖学院短期大学(ミッションスクール)の英文科に入り6年頑張ってその後清泉女子大学に移りました。
ESSの顧問をして指導していて、全国規模の英語のスピーチのコンテストがあり、審査員の先生を頼まれて行って、審査員の一人がアラン・ターニー先生、清泉の教授で漱石の研究家で世界的に有名な翻訳家の先生で、もう一人がジョン・ネイスンと云う先生でコーネル大学で日本文学を教えていた先生で、安部公房、大江健三郎の作品の翻訳で有名な先生で、3人目が無名の私でした。
1日お付き合いをしたことで、1週間後にうちの大学に来ませんかといわれて清泉女子大学
に行くことになりました。
中学~大学院の教員と学生を対象に、ある試験があり優秀な成績で合格すると全額支給でミシガン大学に行ってディスカッションをしたりすることに参加できて、その次の数名は半額支給でそれに合格して、アメリカに行くことになり、見るもの聞くもの食べるものみんな初めてなので吃驚することの連続でした。
こっそり夜中に出て行って食堂に行って、ハンバーグを頼んだり飲み物を頼んだりしてそれがアメリカでの最初の英会話でした。
ホームステーも経験し、思い出深い経験でした。
別れる時に奥さんがハグしてくれましたが、ドギマギしました。(当時はハグなど全然知らなかった)
ルート66の旅は面白い経験をした旅でした。(ところどころ寸断していて廃道になっていてしまってたが)
イギリスの大学の客員教授に1年間行きましたが50代になって、再びカルチャーショックを受けました。
いかにイギリスの国、イギリスの英語を知らなかったかと云うことに驚きました。
35歳のときに初めてNHKの語学講座をやらせていただきましたが、28年になります。
オーディションを受けさせられまして、はじめて英語表現入門というTV番組に出ました。
ラジオ英会話は伝統のある番組ですが、毎日放送する番組で大変で、講演の依頼などもあり、授業もあり、どっちが本物かと思ったときに教員だと思って、マイクの前の仕事も意義深い仕事だと思うが、生身の人間を相手にするのでいろんな指導も必要で、一介の教員として本来の教員として、引き際を考えました。
戻って行くのは教壇だと思いました。
ラジオ深夜便の「名画、名曲、名セリフ」は楽しかったです。(8年間担当)
続けて居ることに意味があるのでこれからも英語の勉強をしながら、頭の運動、身体の運動をして、「過去に学び、今日に生き、明日に希望を」そういう気持ちでこれからも生きていきたいと思っています。
長年ラジオ英会話の講師として、更にラジオ深夜便でも「名画、名曲、名セリフ」や現在は大人の教養講座でユーモラスなだじゃれを交えた軽妙な語り口で人気です。
今日は今年70歳を迎えた大杉さんの英語の原点、英語で人生を切り拓いて子供の頃の夢を叶えてきた話を伺います。
1947年生まれ 今年で70歳、静岡県伊東市の出身、明治学院大学大学院を卒業、現在は清泉女子大学英文科の教授。
NHKの語学講座にかかわったのは1982年、35歳。
1987年からNHKラジオ英会話を11年担当。
TV、ラジオで28年間NHKの語学講座を担当して、8年前「名画、名曲、名セリフ」
から始まってラジオ深夜便出演。
団塊の世代といわれて居る世代です。
当時みんな貧しいので気にならなかった。
ゆったりしている生活感でした。
英語との接点はほとんどない子供時代でした。
英語の唯一の接点は西部劇でジョン・ウエインがステーキを食べているのを見て、家に帰るとアジの干物が待っていて、アメリカは凄く豊かなんだなあとアメリカに対するあこがれはアメリカ映画を通して芽生えてきました。
これが英語の勉強に対する最初かなあと思います。
西部劇の遊びでまねるのにデタラメ英語を使って遊んでいました。
段々本物の英語を使いたいと思うようになりました。
小学校に上がるかどうかのころに家にはフォードの車がありました。
家を売ってフォードを父が買いましたが、借家暮らしとなりました。
車で遊び歩いた父親に対し母親はついに離婚して、父親の借金を背負って4人の子を育てました。
母親は難行苦行の連続でした。
姉たちも私も自分の机の持ったことがありませんで、家で勉強したことはありませんでした。
ラジオから流れてくるアメリカの音楽に心を動かされて、段々プレスリー、ニール・セダカとかのまねしようとして、流れてきたものを判らないながら一生懸命聞いて真似していました。
後で英語が判るようになりましたが、当時結構正確に覚えたと我ながらいい方法だったと思いました。
中学の時には英語を一生の仕事にしようとは思わなかったが、映画、音楽の英語は楽しいし好きだし、ただ英語を勉強することとは違っていました。
英語の時間にカッコよく発音すると廻りから、いじめられたりしました。
日本語的英語の発音をすることで和が保てました。
高校時代も自宅では勉強したことがなくて、卓球ばっかりしていました。
英語の授業の担任の露木先生と出会いまして、先生から厳しく教わって、先生のおかげである程度力もついて来ました。
全国模擬試験で英語の点数だけは200何十番で、廊下に貼り出されて吃驚しました。
3年生の頃に、先生が私の出た大学(明治学院大学)に入らないかといわれ、明治学院大学に進みました。
英語の教員になる以外に考えはほかになかった。
兄弟の中で私だけが大学に行きましたので、自主的に勉強するのが大学の4年間でした。
人間はどんな場所にいても与えられ場所で、自分の持てる力を最大限に発揮して最善を尽くすことが大事だと、教え子などにも言っています。
高校の教員になるつもりでいました。
教員免許を取るには道徳教育の研究は必修でしたが、退路を断つと云うか、後期のレポートを出すのを辞めてしまいました。(大学院に行く事に仕向けるようになってしまった)
大学院に入って、その後職を得たのが女子聖学院短期大学(ミッションスクール)の英文科に入り6年頑張ってその後清泉女子大学に移りました。
ESSの顧問をして指導していて、全国規模の英語のスピーチのコンテストがあり、審査員の先生を頼まれて行って、審査員の一人がアラン・ターニー先生、清泉の教授で漱石の研究家で世界的に有名な翻訳家の先生で、もう一人がジョン・ネイスンと云う先生でコーネル大学で日本文学を教えていた先生で、安部公房、大江健三郎の作品の翻訳で有名な先生で、3人目が無名の私でした。
1日お付き合いをしたことで、1週間後にうちの大学に来ませんかといわれて清泉女子大学
に行くことになりました。
中学~大学院の教員と学生を対象に、ある試験があり優秀な成績で合格すると全額支給でミシガン大学に行ってディスカッションをしたりすることに参加できて、その次の数名は半額支給でそれに合格して、アメリカに行くことになり、見るもの聞くもの食べるものみんな初めてなので吃驚することの連続でした。
こっそり夜中に出て行って食堂に行って、ハンバーグを頼んだり飲み物を頼んだりしてそれがアメリカでの最初の英会話でした。
ホームステーも経験し、思い出深い経験でした。
別れる時に奥さんがハグしてくれましたが、ドギマギしました。(当時はハグなど全然知らなかった)
ルート66の旅は面白い経験をした旅でした。(ところどころ寸断していて廃道になっていてしまってたが)
イギリスの大学の客員教授に1年間行きましたが50代になって、再びカルチャーショックを受けました。
いかにイギリスの国、イギリスの英語を知らなかったかと云うことに驚きました。
35歳のときに初めてNHKの語学講座をやらせていただきましたが、28年になります。
オーディションを受けさせられまして、はじめて英語表現入門というTV番組に出ました。
ラジオ英会話は伝統のある番組ですが、毎日放送する番組で大変で、講演の依頼などもあり、授業もあり、どっちが本物かと思ったときに教員だと思って、マイクの前の仕事も意義深い仕事だと思うが、生身の人間を相手にするのでいろんな指導も必要で、一介の教員として本来の教員として、引き際を考えました。
戻って行くのは教壇だと思いました。
ラジオ深夜便の「名画、名曲、名セリフ」は楽しかったです。(8年間担当)
続けて居ることに意味があるのでこれからも英語の勉強をしながら、頭の運動、身体の運動をして、「過去に学び、今日に生き、明日に希望を」そういう気持ちでこれからも生きていきたいと思っています。
2017年3月28日火曜日
桃月庵白酒(落語家) ・新たな挑戦、落語に深みを!(H28/12/31 OA)
桃月庵白酒(落語家)・新たな挑戦、落語に深みを!(H28/12/31 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_31.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_31.htmlをご覧ください。
2017年3月27日月曜日
井村一洲(吟詠家) ・日本語の美しさを吟じる
井村一洲(吟詠家) ・日本語の美しさを吟じる
漢詩を日本語に変えて節をつけて発声する詩吟、この詩吟には多くの流派があってそれぞれ、吟じ方が違うとされていますが、美しい日本語の発声で間や抑揚、テンポに気を付けて、その詩が持つ情緒、詩情を聞く人に届ける、という事は共通して居ます。
井村さんが詩吟に興味もったのは二十歳の頃、大学を卒業して就職しますが、32歳のときに脱サラして、医療機器の会社を創業します。
仕事が忙しく詩吟から遠ざかっていた時期もありましたが、45歳の時に本格的に詩吟に取り組みました。
60歳で退職した後、レコード会社の全国大会で優勝するなどして、今は自分の会派で60人以上のお弟子さんをお持ちです。
今、井村さんはお弟子さんたちと小学生に詩吟を通して日本語の美しさを伝えようと活動しています。
吟と云う言葉はいろいろあり、呻吟(しんぎん)、苦吟、吟味とかある。
絞り出してゆく、自分の声として絞り出してゆくのが吟。
心の思いを絞り出すように出して行くのが吟だと思っています。
強吟、弱吟とかある。
自分の好きな漢詩を決められた読み下し文を使って、正しいアクセントと美しい母音で、言葉の明瞭さを保って詩情を聞く人に届けて共に感動しようとこんな目的で詩をうたうと云う風に思っていだだくといいと思います。
奈良から平安時代にかけて詩集が作られてそのほとんどは漢詩でした。
古今和歌集は900年に出来るがそれまでにできた詩集は全部漢字の詩集が出されていました。
和漢朗詠集は漢詩の一部と和歌、漢詩の持っている詩情を持っていた。
音読みのリズムの良さを感じて読み下し文にしていると思う。
音読みと訓読みの両方を加えた。
江戸時代になると、朱子学が主体の学問になるが漢学者が増えて、漢詩を勉強するようになり、一般庶民に広がって行った。
母音の美しい響きを損なわないように発声する。
「あ、い、う、え、お 」
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です、・・・」
ざわざわしたところでは、歯切れのいい言葉でないと伝わらないので、歯切れのいい言葉を使った。
歯切れのいいところは母音が残っている。
1日に15人ずつ毎日稽古をしています。
2時間で5~6人で、若い人が25歳、40代、50~60代若干名、70代が多いです。
作詞者の思いを自分の思いとして、言葉の一つ一つにしていこうと云う思いで作りました。
吟題を言って、作者を言って、作った人に敬意を持って吟ずる。
父親がある大学の詩吟の創設にかかわって、父が詩吟を始めて、その先生に会って聞いたら感動してしまいました。
中学、高校では弁論部にいて数分話すが、詩吟と似ていると思って始めました。
その後はあまりやらなかった。
32歳のときに医療機器会社を創業して、詩吟に目を向けるようになった。
アメリカに医療の見学ツアーに行ったときに、あるパーティーで詩吟を吟じたら、日本語の意味もわからないアメリカ人が凄く感動してくれました。
日本の伝統芸能を持っているとコミュニケーションもスムースに出来るようになりました。
弁論と詩吟はいろいろ共通点がありまして、マイクを使わないで声を出すので母音の響かせ方が必要、腹式呼吸、語る、弁論は生きました。
姿勢が良くなりました。
呼吸筋と姿勢を保つ筋肉類は同じだといわれています。
45歳のころに、70歳になった時に病気になって人が身のまわりに誰も見舞いに来ないのは淋しいと思って、なにかものごとを教えて居れば来るだろうと思って探してみたら、詩吟に思い当たり詩吟を始めました。
60歳で退職して今のような状況になりました。
吟にかかわると人にいかに話すか、話をすることを実感しました
自分をどの様に表現するか、表現力を磨く、心の内面を磨く、そういう面では言葉一つ一つが持っている重さを吟味して伝えていくことが一番大事だと思います。
弟子に教える訳ですが、上手は下手の手本、逆に下手は上手の手本と云うこともあり、教えることは教わることだと思っています。
2003年に指導者になりました。(師範になる)
2011年に自分の会派を立ち上げました。
世田谷区の小中学校に詩吟を通して日本語の美しさを伝えています。
10年ほど前に国語の教科書の中に有名な中国の漢詩が22題掲載されていて、日本語の響きやリズムを楽しみましょうとか、短歌、漢詩を音読しましょうとか、暗唱して朗読しましょうと呼びかけて居ました。
漢詩などを教える手伝いをするようになりました。
教えるとガラッと変わってしまって、感動しました。
赤ちゃんは親から言葉を覚えるときに、言葉と一緒に口の動きをみているそうです。
学校で百人一首を口の動きだけでやってみたら半数ぐらいが判るんです。
同じ事を自分の弟子の教室でやってみたら、なかなか伝わらなかった。
アメリカの学校でショー、アンド、トークがあり何か物を持って3分間喋る授業がありこれはいいなあと思いました。
自分を主張する練習をさせられているんだと感じました。
今後、日本の文化と云うものを文化資産として子供たちに伝えて行きたい。
詩吟を子供たちに伝えていきたい。(学びの連続 教えることによって教わる)
10年前から詩を吟じながら舞うと云う事をやっていて、世阿弥の言葉の中に「舞は声音で根をなす」があり、吟を一生懸命やって腹から出す声は舞につながるなと思いました。
良寛が作った漢詩 「余生」
雨晴れ雲晴れて気も復(また)晴(は)る
(雨晴雲晴気復晴)
心清ければ遍界(へんかい)物皆清し
漢詩を日本語に変えて節をつけて発声する詩吟、この詩吟には多くの流派があってそれぞれ、吟じ方が違うとされていますが、美しい日本語の発声で間や抑揚、テンポに気を付けて、その詩が持つ情緒、詩情を聞く人に届ける、という事は共通して居ます。
井村さんが詩吟に興味もったのは二十歳の頃、大学を卒業して就職しますが、32歳のときに脱サラして、医療機器の会社を創業します。
仕事が忙しく詩吟から遠ざかっていた時期もありましたが、45歳の時に本格的に詩吟に取り組みました。
60歳で退職した後、レコード会社の全国大会で優勝するなどして、今は自分の会派で60人以上のお弟子さんをお持ちです。
今、井村さんはお弟子さんたちと小学生に詩吟を通して日本語の美しさを伝えようと活動しています。
吟と云う言葉はいろいろあり、呻吟(しんぎん)、苦吟、吟味とかある。
絞り出してゆく、自分の声として絞り出してゆくのが吟。
心の思いを絞り出すように出して行くのが吟だと思っています。
強吟、弱吟とかある。
自分の好きな漢詩を決められた読み下し文を使って、正しいアクセントと美しい母音で、言葉の明瞭さを保って詩情を聞く人に届けて共に感動しようとこんな目的で詩をうたうと云う風に思っていだだくといいと思います。
奈良から平安時代にかけて詩集が作られてそのほとんどは漢詩でした。
古今和歌集は900年に出来るがそれまでにできた詩集は全部漢字の詩集が出されていました。
和漢朗詠集は漢詩の一部と和歌、漢詩の持っている詩情を持っていた。
音読みのリズムの良さを感じて読み下し文にしていると思う。
音読みと訓読みの両方を加えた。
江戸時代になると、朱子学が主体の学問になるが漢学者が増えて、漢詩を勉強するようになり、一般庶民に広がって行った。
母音の美しい響きを損なわないように発声する。
「あ、い、う、え、お 」
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です、・・・」
ざわざわしたところでは、歯切れのいい言葉でないと伝わらないので、歯切れのいい言葉を使った。
歯切れのいいところは母音が残っている。
1日に15人ずつ毎日稽古をしています。
2時間で5~6人で、若い人が25歳、40代、50~60代若干名、70代が多いです。
作詞者の思いを自分の思いとして、言葉の一つ一つにしていこうと云う思いで作りました。
吟題を言って、作者を言って、作った人に敬意を持って吟ずる。
父親がある大学の詩吟の創設にかかわって、父が詩吟を始めて、その先生に会って聞いたら感動してしまいました。
中学、高校では弁論部にいて数分話すが、詩吟と似ていると思って始めました。
その後はあまりやらなかった。
32歳のときに医療機器会社を創業して、詩吟に目を向けるようになった。
アメリカに医療の見学ツアーに行ったときに、あるパーティーで詩吟を吟じたら、日本語の意味もわからないアメリカ人が凄く感動してくれました。
日本の伝統芸能を持っているとコミュニケーションもスムースに出来るようになりました。
弁論と詩吟はいろいろ共通点がありまして、マイクを使わないで声を出すので母音の響かせ方が必要、腹式呼吸、語る、弁論は生きました。
姿勢が良くなりました。
呼吸筋と姿勢を保つ筋肉類は同じだといわれています。
45歳のころに、70歳になった時に病気になって人が身のまわりに誰も見舞いに来ないのは淋しいと思って、なにかものごとを教えて居れば来るだろうと思って探してみたら、詩吟に思い当たり詩吟を始めました。
60歳で退職して今のような状況になりました。
吟にかかわると人にいかに話すか、話をすることを実感しました
自分をどの様に表現するか、表現力を磨く、心の内面を磨く、そういう面では言葉一つ一つが持っている重さを吟味して伝えていくことが一番大事だと思います。
弟子に教える訳ですが、上手は下手の手本、逆に下手は上手の手本と云うこともあり、教えることは教わることだと思っています。
2003年に指導者になりました。(師範になる)
2011年に自分の会派を立ち上げました。
世田谷区の小中学校に詩吟を通して日本語の美しさを伝えています。
10年ほど前に国語の教科書の中に有名な中国の漢詩が22題掲載されていて、日本語の響きやリズムを楽しみましょうとか、短歌、漢詩を音読しましょうとか、暗唱して朗読しましょうと呼びかけて居ました。
漢詩などを教える手伝いをするようになりました。
教えるとガラッと変わってしまって、感動しました。
赤ちゃんは親から言葉を覚えるときに、言葉と一緒に口の動きをみているそうです。
学校で百人一首を口の動きだけでやってみたら半数ぐらいが判るんです。
同じ事を自分の弟子の教室でやってみたら、なかなか伝わらなかった。
アメリカの学校でショー、アンド、トークがあり何か物を持って3分間喋る授業がありこれはいいなあと思いました。
自分を主張する練習をさせられているんだと感じました。
今後、日本の文化と云うものを文化資産として子供たちに伝えて行きたい。
詩吟を子供たちに伝えていきたい。(学びの連続 教えることによって教わる)
10年前から詩を吟じながら舞うと云う事をやっていて、世阿弥の言葉の中に「舞は声音で根をなす」があり、吟を一生懸命やって腹から出す声は舞につながるなと思いました。
良寛が作った漢詩 「余生」
雨晴れ雲晴れて気も復(また)晴(は)る
(雨晴雲晴気復晴)
心清ければ遍界(へんかい)物皆清し
(心清遍界物皆清)
身を捐(す)て世を棄(す)てて閑人(かんじん)と為(な)り
(捐身棄世爲閑人)
初めて月と花とに余生を送る
(初月與花送餘生)2017年3月26日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
チャイコフスキーの遺伝子、2017年バージョン。
今年のウイーンフィルのニューイヤーイヤーコンサートを指揮したグスターボ・ドゥダメル。(36歳 ウイーフィルとは10年の付き合い)
*白鳥の湖のワルツ ワルツも素晴らしいが彩りを添える木管楽器の煌めきが素晴らしい。 指揮グスターボ・ドゥダメル。 ウイーフィル管弦楽団。
1972年モスクワ生まれ、ウラディーミル・ユロフスキ(45歳)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めている。
今年来日予定。
*チャイコフシキー交響曲第5番 第三楽章。 指揮ウラディーミル・ユロフスキ
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。
ラフマニノフ
学生のころからチャイコフスキーが大好きだった。
チャイコフスキーが亡くなった時には、ピアノ三重奏曲をチャイコフスキーにささげて居る。
*「ヴォカリーズ」
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
ラフマニノフ編曲 指揮 ヴァシリー・ペトレンコ ロイヤル・リヴァプール・フィル
ハーモニー管弦楽団。
ヨーロッパのジャズ界にもチャイコフスキーのメロディーが影響。
ジャンゴ・ラインハルト ステファン・グラッペの1949年の録音
*チャイコフスキー作曲 ラインハルト編曲 悲愴
いだかれたいテンポ
タンゴ風のチャイコフスキーの音楽。
ペーター・キーゼヴェッター ドイツの作曲家 1945年生まれ。
*タンゴ・パセティック キーゼヴェッター作曲 ヴァイオリン(ギドン・クレーメル) ピアノ(マルタ・アルゲリッチ) チャロ(ミッシャ・マイスキー) 演奏
チャイコフスキーの遺伝子、2017年バージョン。
今年のウイーンフィルのニューイヤーイヤーコンサートを指揮したグスターボ・ドゥダメル。(36歳 ウイーフィルとは10年の付き合い)
*白鳥の湖のワルツ ワルツも素晴らしいが彩りを添える木管楽器の煌めきが素晴らしい。 指揮グスターボ・ドゥダメル。 ウイーフィル管弦楽団。
1972年モスクワ生まれ、ウラディーミル・ユロフスキ(45歳)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めている。
今年来日予定。
*チャイコフシキー交響曲第5番 第三楽章。 指揮ウラディーミル・ユロフスキ
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。
ラフマニノフ
学生のころからチャイコフスキーが大好きだった。
チャイコフスキーが亡くなった時には、ピアノ三重奏曲をチャイコフスキーにささげて居る。
*「ヴォカリーズ」
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
ラフマニノフ編曲 指揮 ヴァシリー・ペトレンコ ロイヤル・リヴァプール・フィル
ハーモニー管弦楽団。
ヨーロッパのジャズ界にもチャイコフスキーのメロディーが影響。
ジャンゴ・ラインハルト ステファン・グラッペの1949年の録音
*チャイコフスキー作曲 ラインハルト編曲 悲愴
いだかれたいテンポ
タンゴ風のチャイコフスキーの音楽。
ペーター・キーゼヴェッター ドイツの作曲家 1945年生まれ。
*タンゴ・パセティック キーゼヴェッター作曲 ヴァイオリン(ギドン・クレーメル) ピアノ(マルタ・アルゲリッチ) チャロ(ミッシャ・マイスキー) 演奏
2017年3月25日土曜日
清水国明(タレント) ・めざそう、多毛作人生
清水国明(タレント) ・めざそう、多毛作人生
1950年福井県大野市(旧和泉村)に生まれる。
1973年伝説のフォークデュオを「あのねのね」で芸能界デビューします。
2004年自然ぐらしを実践する山梨県富士河口湖町で、NPO法人河口湖自然学校を設立。2013年には山口県周防大島近傍の無人島を購入、そのほか阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本などの被災地に積極的にかかわっています。
現在はTV、ラジオでも司会やコメンテータ、ー雑誌への執筆など幅広く活躍しています。
そんな清水さんが今年1月福井県若狭町の文化と福祉の複合施設パレア若狭で講演されました。
「あのねのね」のグループをやっていました。
「赤とんぼの唄」などを歌っていましたが、終わってTVの仕事などをやるようになりました。
福井県大野市(旧和泉村)に生まれ、谷あいの村でした。
たった一回の人生だから、いくつも楽しみたいと私は思っています。
憧れはエネルギーとなって人間の成長にふさわしいと言われています。
今は何にも揃っているので、憧れる必要がない、これが欲しいと云うのも憧れだといえばそうであって、それに進んでゆく、そういく考え方もあります。
京都の方の大学に行って、いい仲間(笑福亭鶴瓶、原田伸郎ら)と出会って、京都で8年間過ごしました。
旅館でアルバイトをしていて、あるとき、ビアガーデンで歌を歌う話があり30分で2000円貰えると云って(本当は3000円貰えるが)二人には1000円渡して、私は2000円もらったというようなことをしていたりしました。(冗談半分に)
そのうちTVにださせてもらってあっという間に人気者になって、あっという間に落ちてしまいました。
東京に移動して、ローンを組んで家を建てて生活していました。
今は山梨県川口湖に引っ越して、自然の中での遊び方を熟知していたので、自然を楽しむ学校「森と湖の楽園」を始めて今日に至りました。
いろんなところに行っていろんな人との出会いがあり、いろんな仕事も変わって行って、沢山の人生が出来たなあと思っています。
瀬戸内海の無人島に行って、愛媛県と山口県の県境のところ、みんなで購入して、自給自足で稲を作ったり、海水から塩をつくったり、自主自立の生活を始めて居ます。
無人島で不便さをあえて楽しんでもらって、日ごろの便利さに感謝出来ると云うものです。
ありが島(ありがとう)という島を作りました。
そこでキャンプすると、何にもないんで早く帰りたいと思う。
家に帰ってくると、電気が点く、電気がつくんだと云うことになる。(当たり前のことに感動)
実はありがたい生活をさせて貰っているんだなあと気付いて感謝して生活をするように
成ります。
当たり前と云う事が実は有り難いものである。
「婚活」の島を今年は作ろうと思っていて、おめで島(おめでとう)と云う名前にしようと思っています。
オートバイの競争の世界にも入って、14箇所骨折をしました。
レースで人と競うのが好きなのかも知れません。
全国規模の魚の釣りのトーナメントにも参加して、場を変える、世界を変えることで一匹の魚に震えるような喜びを感じる事が出来るんだなあとも思いました。
いまは自然界で自然をベースにした事をやっています。
ビジネス界は苦手です。
お金に対して手紙を書いて私のところに来て下さいということで新聞にも載ったりしたが、大分来るようになりましたが、じっとしてくれません。
自然の中で鍛え直すという、企業研修をやっています。
3本マッチを渡して火をおこすことをやってもらうが、今の若い人は火をおこせない。
企業研修にはそこそこハマりました。
一番良いのは好きな事をやっていてそのことで皆さんに感謝されて、皆さんからお金を頂ける、そういう暮らしをしているのが一番だと思います。
二番目は好きな事をしているが貧乏、三番目にはいやな事をやらされながら金持ちになる、四番目は嫌な事をやらされながら貧乏、これが一番多いと思う。
最後は一番目を目指して頑張ろうと思っています。
世の中は発展しているが、人間力と云うか、生命力はどんどん落ちていっているような気がします。
自分で修理する時代ではなくなってきてしまっている。
自分持っている色んな事を伝承する役割があるのではないかと思います。
お金持ちの別荘地でお金を守りに入った人は意外といらいらしたりしてクレームがいろいろ来ていると、ある管理人から聞きましたが、子供たちに竹細工、英語などを教えて居るおじいさんおばあさんがいるがその人たちからはクレームがないそうです。
渡そうと思った人と守ろうと思った人の違いではないか。
何人もの人との出会いをしたいと思っている。
清水クーコと結婚したが、離別してその後再婚して3人女の子が生まれました。
これからは自然にと思ったが、家族は一緒には来ないと云うことで、離婚と云うことになり、河口湖に行ったら3回目の結婚をして男の子が生まれました。
子供は9歳になりました。
楽ではない事だが楽しいことはしてきたと思います。
楽な事がいいと錯覚してしまうと、楽な方に流れてしまう。
楽の究極は寝たきり状態だが、感動の為にはあえてわざわざ寒いところ、不便な所に行って一日一日をベストで生きていきたいと思う、そうすると何処で死んでもOKです。
一番いい死に方は100%で生きてきて寿命が来たらパクンと死ぬ、だらだらと死なないそれを直角死と云います。
1950年福井県大野市(旧和泉村)に生まれる。
1973年伝説のフォークデュオを「あのねのね」で芸能界デビューします。
2004年自然ぐらしを実践する山梨県富士河口湖町で、NPO法人河口湖自然学校を設立。2013年には山口県周防大島近傍の無人島を購入、そのほか阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本などの被災地に積極的にかかわっています。
現在はTV、ラジオでも司会やコメンテータ、ー雑誌への執筆など幅広く活躍しています。
そんな清水さんが今年1月福井県若狭町の文化と福祉の複合施設パレア若狭で講演されました。
「あのねのね」のグループをやっていました。
「赤とんぼの唄」などを歌っていましたが、終わってTVの仕事などをやるようになりました。
福井県大野市(旧和泉村)に生まれ、谷あいの村でした。
たった一回の人生だから、いくつも楽しみたいと私は思っています。
憧れはエネルギーとなって人間の成長にふさわしいと言われています。
今は何にも揃っているので、憧れる必要がない、これが欲しいと云うのも憧れだといえばそうであって、それに進んでゆく、そういく考え方もあります。
京都の方の大学に行って、いい仲間(笑福亭鶴瓶、原田伸郎ら)と出会って、京都で8年間過ごしました。
旅館でアルバイトをしていて、あるとき、ビアガーデンで歌を歌う話があり30分で2000円貰えると云って(本当は3000円貰えるが)二人には1000円渡して、私は2000円もらったというようなことをしていたりしました。(冗談半分に)
そのうちTVにださせてもらってあっという間に人気者になって、あっという間に落ちてしまいました。
東京に移動して、ローンを組んで家を建てて生活していました。
今は山梨県川口湖に引っ越して、自然の中での遊び方を熟知していたので、自然を楽しむ学校「森と湖の楽園」を始めて今日に至りました。
いろんなところに行っていろんな人との出会いがあり、いろんな仕事も変わって行って、沢山の人生が出来たなあと思っています。
瀬戸内海の無人島に行って、愛媛県と山口県の県境のところ、みんなで購入して、自給自足で稲を作ったり、海水から塩をつくったり、自主自立の生活を始めて居ます。
無人島で不便さをあえて楽しんでもらって、日ごろの便利さに感謝出来ると云うものです。
ありが島(ありがとう)という島を作りました。
そこでキャンプすると、何にもないんで早く帰りたいと思う。
家に帰ってくると、電気が点く、電気がつくんだと云うことになる。(当たり前のことに感動)
実はありがたい生活をさせて貰っているんだなあと気付いて感謝して生活をするように
成ります。
当たり前と云う事が実は有り難いものである。
「婚活」の島を今年は作ろうと思っていて、おめで島(おめでとう)と云う名前にしようと思っています。
オートバイの競争の世界にも入って、14箇所骨折をしました。
レースで人と競うのが好きなのかも知れません。
全国規模の魚の釣りのトーナメントにも参加して、場を変える、世界を変えることで一匹の魚に震えるような喜びを感じる事が出来るんだなあとも思いました。
いまは自然界で自然をベースにした事をやっています。
ビジネス界は苦手です。
お金に対して手紙を書いて私のところに来て下さいということで新聞にも載ったりしたが、大分来るようになりましたが、じっとしてくれません。
自然の中で鍛え直すという、企業研修をやっています。
3本マッチを渡して火をおこすことをやってもらうが、今の若い人は火をおこせない。
企業研修にはそこそこハマりました。
一番良いのは好きな事をやっていてそのことで皆さんに感謝されて、皆さんからお金を頂ける、そういう暮らしをしているのが一番だと思います。
二番目は好きな事をしているが貧乏、三番目にはいやな事をやらされながら金持ちになる、四番目は嫌な事をやらされながら貧乏、これが一番多いと思う。
最後は一番目を目指して頑張ろうと思っています。
世の中は発展しているが、人間力と云うか、生命力はどんどん落ちていっているような気がします。
自分で修理する時代ではなくなってきてしまっている。
自分持っている色んな事を伝承する役割があるのではないかと思います。
お金持ちの別荘地でお金を守りに入った人は意外といらいらしたりしてクレームがいろいろ来ていると、ある管理人から聞きましたが、子供たちに竹細工、英語などを教えて居るおじいさんおばあさんがいるがその人たちからはクレームがないそうです。
渡そうと思った人と守ろうと思った人の違いではないか。
何人もの人との出会いをしたいと思っている。
清水クーコと結婚したが、離別してその後再婚して3人女の子が生まれました。
これからは自然にと思ったが、家族は一緒には来ないと云うことで、離婚と云うことになり、河口湖に行ったら3回目の結婚をして男の子が生まれました。
子供は9歳になりました。
楽ではない事だが楽しいことはしてきたと思います。
楽な事がいいと錯覚してしまうと、楽な方に流れてしまう。
楽の究極は寝たきり状態だが、感動の為にはあえてわざわざ寒いところ、不便な所に行って一日一日をベストで生きていきたいと思う、そうすると何処で死んでもOKです。
一番いい死に方は100%で生きてきて寿命が来たらパクンと死ぬ、だらだらと死なないそれを直角死と云います。
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