2015年7月31日金曜日

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね
53歳神戸市出身、 5歳で将棋はじめ、中学2年生でプロデビュー、史上最年少の21歳で名人のタイトルを取り、将棋界の頂点に立ちました。
羽生善治名人との 160局を越える戦いは多くの将棋ファンを魅了し、名人位を5期以上に贈られる永世名人の称号、17世名人の資格保持者です。
今も第一線で走り続けながら、日本将棋連盟会長として将棋界のかじ取りも行う谷川さんに伺いました。

父が兄弟の喧嘩を無くすめにはどうしようかと思って、5歳から将棋をやらせるようになる。
プロ棋士になる様な人は、幼稚園とか小学校低学年で将棋を覚えて熱中する事が多い。
兵庫県で行われる将棋大会にも出るようになる。
小学校2年で若松7段の将棋教室に通う様になる。
小学校3年生で、飛車角落ちではあるが、内藤8段に勝つ事になる。
中学2年制でプロ棋士になる。
21歳で当時の名人の加藤一二三さんを制して、史上最年少の名人になる。(実力的には5番目ぐらいと思っている)

名人は400年前からあり、最初に大橋宗桂が初代名人。
中原誠先生に挑戦するのが大きな目標だった。
23歳の時は私が名人位で中原さんから挑戦を受けたが、26歳の時には中原さんに挑戦と言う事になった。
3勝1敗で第5局で、優勢な状況であったが、休憩時間後再開したが、中原さんの悠然とした態度に、こちらが追い込まれたのではないかと思った経験がある。
1992年竜王、棋聖、王位、王将の4冠を獲得。(29歳)
2か月で公式戦の対戦が25局あった。(30歳直前)
事前の研究する時間が無かったが、公式戦の対局が一番の研究になる。
研ぎ澄まされている時は、集中力があるし、読みを積み上げていかなくても、結論が見える状況になっていた。

対局で疲れてくると甘いものがほしくなる。(ケーキ、フルーツ等 飲み物はレモンティー)
20歳代は先輩とのタイトル争い、30歳代では下の若い人たちが勝ちあがってきてタイトルを争う。
羽生さんとは30歳前半で数多く戦ったが、結果は出なかった。
タイトル戦で7連敗もしてしまうと、戦う前から結果の事を考えてしまう。
精神的によくない状況が続いた。
羽生さんには嫉妬すると本に書いたが、その人を越えたいという想いがあるから嫉妬する。
1995年、1996年王将戦 1995年の時は羽生さんが6タイトルをもって、王将戦になったが、1局目が終わって4日後に阪神淡路大震災が起きて、不自由な生活を強いられた中で戦った。
その年は4勝3敗で防衛できた。 
翌年は同様に羽生さんが6タイトルを得て、王将戦になったが、私はふがいなくストレート負けしてしまった。
私が無冠になって、新たなスタートラインに立つ事が出来たと言う意味では大きかったのかもしれない。

羽生さんを意識するあまり、勝たなくてはとの思いから小手先の技に走っている様なところがあり、自分自身の実力を高めることが一番大切なことで、それをぶつけて負けたら又精進をすればいいと、少しづつ思えるようになった。
棋士にとって大切なことは勝負師であり、研究者、芸術家であることと思っている。
情報量が格段に増えて研究はより大事になり、二人で作り上げる棋譜に芸術性は求められると思うし、最後には勝ち負けがあるので勝ちを求める姿勢が大事になるので、この3つをバランスよく持って臨む必要がある。
どんなに強い人でも1年間に20回ぐらい負けるが、勝負の世界でも負けることが許されない世界があるが(ボクシング)、将棋の世界は、ひとたび結果がついたらそれを研究材料にして、次に生かしてゆくかと言う事が大事だと思う。
負けて悔しいという気持ちが無くなったら、現役で戦っている意味はないと思う。
負けを引きずってはいけないし、負けた後は研究者の目になって、どの手が悪かったのか、どういう風に読んでいたのか、心理状態などをきちんと分析した後、後は忘れる。(言うは易し、行う難しだが)

2012年から日本将棋連盟の会長になる。
私の10代20代は将棋に勝つことに全精力を集中させていたが、今の若手の棋士は学業、将棋の普及にも熱心なので頼もしい。
昔の常識は今は全く通用しなくなってきている。
昔は玉を安全にかこってから仕掛けることだったが、玉を囲う間もなく隙があれば仕掛けるようになった。
電王戦では今年は勝つ事が出来た。
プロ棋士の威厳をもって戦うので、今までとは比較にならない重圧があると思う。
日本将棋連盟としては次世代の育成、子供たちへの普及、これが一番です。
将棋を通し記憶力、集中力、決断力を身につけて、或いは好きなこと得意なことを見つけることで、社会に出て生きていく上で必要な力を身につけてほしいと思う。

2015年7月30日木曜日

2015年7月29日水曜日

2015年7月28日火曜日

故・深谷義治さんの二男・敏雄   ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵

故・深谷義治さんの二男・敏雄 孫・富美子  ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵
深谷敏雄さん 67歳  富美子さん24歳 
深谷義治さんは太平洋戦争の日本軍兵としては一番遅く、昭和53年に中国から日本に帰国、日本国最後の帰還兵になりましたが、昭和40年代に帰国した横井庄一さん、小野田寛郎さんと違って、日本国民にその存在を広く知られることはありませんでした。
その理由の一つは義治さんの任務に在りました。
大正4年島根県生まれ、22歳で応召し、日本陸軍に従軍、勇敢さと才能を軍に買われて、中国大陸でスパイとして活動しました。
敗戦後も任務を続行せよとの極秘指令を受けて、上海に潜入し、任務を全うします。
その後、中国人の女性と結婚し、子供も4人授かります。
敗戦から13年後、昭和33年とうとう中国当局からスパイ容疑で、逮捕されます。
義治さんは完全黙秘を貫いて、その獄中生活は20年余りに及びました。
残された家族も苦境に陥り極貧生活を送ります。
一家は不屈の精神で耐え抜いて戦後33年経った昭和53年にやっと日本に帰国する事が出来ました。
息子の敏雄さんが6年かけて、父の波乱万丈の人生を綴ったノンフィクションは戦後70年の今年大きな反響を呼んでいます。(『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』)
日本語が十分でない敏雄さんの執筆をサポートしたのは日本で生まれ育った孫の富美子さんでした。
本の出版を見届けて今年4月、義治さんは99歳で亡くなりました。
遅すぎた終戦、平和を願う想いについて、義治さんの子、敏雄さん、孫の富美子さんに伺いました。

現在広島に住んでいます。
娘は大学院で東京で暮らしてます。
妻は娘が3歳のころに亡くなり、男手一つでずーっと育ててきました。
444ページある長編ドキュメンタリーで6年かけて書き上げた。
父の事を歴史の闇に葬ってはいけないと思って少しづつ書いて、娘に直して貰って、公民館のボランティアの先生にも直してもらって、やってきました。
上海生まれ上海育ちで、30歳で日本にきたので、日本語の教育を受けてなかったので、大変なチャレンジでした。
娘にパソコンを習って、10年以上前からパソコンで一文字、一文字 娘から日本語の勉強を教わるようになりました。
助詞だけ間違えていれば、何を言いたいのか判るのですが、名詞、動詞うまく使えていなかったので、何を言いたいのか判らない文章が多かったので、すごく大変でした。
父の言葉を誤解して受け取ってしまったり、喧嘩をしたりしながら、二人三脚でやってきました。
開高健ノンフィクション大賞に応募、素晴らしい作品なので出版させてほしいとの話がある。
確認不足で、規定枚数の2倍だった。

父はほとんどもれなく記録して、獄中などで ノート8冊になりました。
釈放されてからも思い出して書きいれたりしました。
父(義治)の悲しさをみてきて、父の声、悲しさを日本中の皆さんに届けなければならないと使命感を感じました。
父(敏雄)は常日頃から辞書をもって勉強してきました。
そのうち、私でも判らない様な日本語を使うようになって、表現するにあたってふさわしい言葉を身に付けていきました。
敗戦後もスパイの任務を続行せよとの極秘指令を受けて、上海に潜入し、上海で任務を続けて、その後昭和33年につかまってしまって、ひどい拷問を受けて、病におかされても放置され地獄の様な日々を過ごすことになる。

その内容の一部
「昭和37年の夏、結核と肋膜炎が治っていない状態だった私は、静養さえ許されず強制的に労働させられた。
11月末重たい荷物を持ちあげようとした時に、ガツっと音がして激痛と共に倒れた。脊椎骨が折れるが病院に連れていく事もなく、治療も一切なく、痛み止めの薬さえもらえず、1年余りの日々、見えない鞭は昼も夜も私の身体を叩き続け24時間痛みに苦しめられた。
私は痛みを少しでも和らげるために、常に腰を曲げた状態でじっと痛みに耐えていた。
面倒を見てくれる人もおらず、腰を曲げたまま地面をはいずりまわらなければならなかった。
洗濯する気力もなく着る服は汚れ放題だったが、胸には常に日本人であるという誇りと一点の曇りもない日本人魂を抱いていた。
この地獄の様なところで骨をうずめることにならない様に全身の力を振り絞って、必死に這ってでも祖国に帰ろう、 私はその強い意志だけで生かされている毎日だった。」

父は帰国してもどんな拷問を受けたのか語らなかった。
逮捕されて16年後(昭和49年)に家族が面会することができたが、父に会った時には10cm縮まっていました。
思い出すたびに、戦争が終わっても、こんな年月がたっても私たちは苦しんでいるという現実に、今でも考えたら涙が出ます。
罪人である反革命分子に対して「お父さん」と言ってはいけない状況だったが、「お父さん」と呼んでしまったが、思いきって呼んでしまいました。
父も涙をぼろぼろ流して、母も妹も全部泣きだしました。
私は(富美子)平成生まれで、戦争を知らない世代ですが、実感がわかないが身近に祖父、父とか実際に戦争を引き摺っている存在がいて、何とも言えない気持ちになります。
表面には現れないが日本にはほかにも一杯いらっしゃるのであろうと考えると、何とも言えない気持ちになります。
義治さんの家族も反革命分子として長男も投獄され、妻は貧乏と差別の中で心が折れて自殺未遂まで追い込まれる。

私は上海生まれ上海育ちですが、父と家族と一緒に祖国日本に帰ろうと思った。
その内容の一部
「氷点下6から7度の寒さに到底耐えることができず、どんなに抑えようとしても身体が震え、歯がガタガタと鳴った。
横にいる古参の政治犯は、このままでは私が死んでしまうのではないかと、みじめな様子を見かねて同情を寄せてくれた。
歯を食いしばりなさい、そうしなければ魂が段々肉体から離れて死んでしまうよと、アドバイスをしてくれた。
私はその言葉を受け止め、極寒の中、魂が抜けないよう渾身の力で歯を食いしばり過ごした。
その極限状態の中、母校の校歌、安来節 関の五本松を記憶から思い起こして、祖国での在りし日を偲んで心を温めた。」

中国からは、スパイとして潜伏していたんだと白状すれば、家族の元に返すと言ったが、絶対に話さなかった。
戦後もスパイとして潜伏していたことを言えば、この事実は日本の名誉を傷つけることになるので。
そのことは家族、自分を犠牲にしたが、今の人達には理解しにくいのではないかと思います。
義治さんは24歳で勲8等受賞 27歳で瑞宝章受賞 優れた軍人であるという事に対しての勲章だった。
祖父が国を思って意志を貫き通したため 周囲の人を巻き込んで沢山の悲劇を生んでしまったと思うが、その歴史があったからこそ、祖父が国を思って意志を貫き通したからこそ、私(富美子)の生活、父の生活があるのだと思う。
祖父が日本の名誉を守り、傷つけなかったことで、救われた人や生活もどこかに在る筈で、祖父の生き方は心から尊敬したいと思います。

昭和53年11月12日、日中平和友好条約締結、特赦で日本に帰ってくることができた。(戦後33年が経っていた)
深谷義治さん 63歳だった。
帰ってきても、軍人恩給が何者かによって不正に申請されて支払われていて、陳情しても聞き入れてもらえなかった全く無視されてしまいました。
亡命者と認定されていた。
20年ぐらい中国で服役したのに、何故父だけこうなるのだろうといまだに思います。
そのために本を書いて疑問を問いかけています、日本のみなさんの答えを聞きたいです。
日本は素晴らしい国ですが、父に対してはあまりに冷たすぎると思う。
国からご苦労様でしたと言ってほしいと思っていたが、父は最後まで聞く事が出来なかった。
父は認められないまま、無念の死を遂げました。
国から言ってほしいかった、「ご苦労様でした」と。
父の名誉回復のため、全力を尽くすつもりです。

これからは絶対戦争を許してはならない。
平和は守らなければいけないと思います。

父の添削を手伝っている時よりも、今の方が何倍も戦争、経験したことに思いをはせる濃さが増したという思いはあります。
父たち、わたし自身が言葉で苦労してきて、泣いたりした日々があり、豊かに言葉と関われる職業を探してきて、紆余曲折があった中で言語聴覚士に辿り着いて、仕事を通して言葉以外の部分から人の気持ちをくみ取って感じながら言葉を含め、その人の気持ちを受け取っていける様な人間になりたいと思っています。















2015年7月26日日曜日

神 英雄(加納美術館長)     ・「清らかに仏の道を生きた”妙好人」

神 英雄(加納美術館長・歴史地理学者)    ・「清らかに仏の道を生きた”妙好人」
15年前に島根県の石見地方に移り住みました。
そこには清らかに信仰の道を生きる人達をたたえる妙好人という言葉がありました。
江戸時代にその言葉が生まれた様で、明治以降、鈴木大拙や柳宗義等が不思議なほどに好ましい人として妙好人を取り上げ、紹介しています。
神さんはこの妙好人と呼ばれる人の言葉やエピソードに共感を覚え、資料と伝承を探ってきました。
いまや埋もれた存在になっている先人の言動は、現代を生きる私たちに人生を乗り切る貴重なヒントを与えてくれるのではないかと、考えるようになったと言います。

妙好人とはどういう人なのか?
お釈迦さまが念仏者をたたえる言葉として使われたのが、由来だと聞いています。
煩悩にさいなまれている私たちですが、煩悩による穢土の中に美しく清らかに咲く花、白蓮華(びゃくれんげ) このことから始まってさとりを得た人、救いに預かった方の事を象徴するという事で使われる言葉だ」と言われます、主に浄土真宗で使われています。
江戸時代に後期、今の島根県西部に浄泉寺がありましが、仰誓和尚が現れる。
誤った教えを信じている人たちに対して、身をもって教える。

伊賀にいた時に、色々なところに行き、浄土真宗の教えと共に生きている方達と出会って、丹念に文章にして、「親聞妙好人伝」を書きました。
石見にやってきて、教えとともに生きている人たちから僧侶として学んだことを、丁寧に書いてゆくが、「妙好人伝」としてまとめられる。
「親聞妙好人伝」、「妙好人伝」も出版されることもなく、浄泉寺にあったが、仰誓和尚が亡くなり、その子供も出版しようとするが、亡くなってしまう。
数十年後、僧純が纏め直して、「妙好人伝」を書きました。
教えとともに生きる喜びを広く判り易く伝えていこうとした。

仰誓和尚の本は世の中に出なかったので、僧純の本だけが読まれ、妙好人は社会的弱者(文字が読めない、その日暮らしの人達、貧しい百姓等)だという誤解が生まれてしまったが、戦後に研究が進んで、仰誓和尚の本が見つかり、僧純の本はちがっていて脚色されていて、仰誓和尚が出会って感動した人たちは僧侶、医者、役人、女性、子供等様々な人達がいた。
貧しい人たちが教えとともに生きることによって、喜びを得たと言う話に変えていったきらいがある。

15年前、京都から石見に引っ越して、浄泉寺の住職から妙好人の事を調べるように言われた。
聴聞した時に、仰誓和尚、僧純が書いた文章に書かれている妙好人と同じではないかと言う人たちがいっぱいいた。
決して人の悪口を言わない、威張らない、謙虚で常に自らを反省してゆく、生活も慎ましいがしかし人の事を一生懸命考える。
私の人間、人格と言うものを地域の方が作ってくださったんだ、これが石見の「土徳」なんだと気付かされた。
そこに暮らしていた人達の思いが街を作っている、土徳があふれているんだという事を知りました。

因幡の源左
柳宗悦(やなぎむねよし)がいなかったら、この人は誰にも知られない存在だったと思います。
干し柿を干してあると、若い人たちが盗みに来るが、ここが丁度食べごろだと教えてあげる、柿の木があったら息子が取られない様に茨で登れない様にしたら、わざわざ梯子を懸けてやり、(怪我をしない様に) 息子が無くなってしまうというと、そうは言っても結局一番食べるのは家のものだろうと言っていさめる。
普通はあり得ないことを行う、或る意味受け取り方の名人と言っていいかと思います。
人から嫌なことされた時に、かっとなってなにくそ、このやろうではなく、自分自身過去にやった過ちに気付いてゆき反省をする、それを受け取り方の名人と柳先生は言っています。
動物にも心を砕きました。
牛が荷物をしょってくれるが、牛のお陰で自分が楽になったと、牛に心を馳せてゆく。

地域の人達が西田天香さんを呼んで講演会をひらいたが、因幡の源佐が聞こうと向かったが遅れてしまって、聞く事が出来なかったが、あとから聞いてみた処、西田天香さんは「歳を取れば短気になって、癇癪をもつ様になるそれではいかん、我慢で兎に角人を堪忍して上げることが大事です」と話した、源左は「先生、私は実は人を堪忍したことがございません、皆さんが私の事を堪忍して下さるんです。 我慢してくださるのは周りの人でございます、それを有難いと思います」と言ったら、西田天香さんは言葉が出なかったと柳さんは書いています。
西田天香さんの日記には、この事は書いてなかったので、もしかしたらなかった話かもしれない。
妙好人の話は慎重に扱わなくてはいけないとは感じました。

浅原才市
鈴木大拙が世界中に、まれな宗教詩人であると紹介した。
下駄職人 若いころ博多に出稼ぎに行って、船を作る職人だった。
七里恒順先生に出会って、お寺の手伝いをしていた。
真宗を悟った様に思うと言ったことがあり、
「31まで何がえろうなった。 子猿の様な知恵ばかり、子猿の様なはからい辞めて、南無阿弥陀仏を言うばかり」と言う反省の詩を残している。
念仏を理屈で判ろうとしていた、阿弥陀様の教えを素直に頂くという事を教えて頂いた時ついて恥ずかしい思いをしてゆく。
石見に帰ってきて、下駄職人になり、朝と夕に安楽寺に聴聞を重ねるが、自分なりの解釈をかんなくずに汚い字で書いてゆくが、見ているだけで心が躍ってくるような字で、そこにははからいがない、思うままに自分の喜びが表れている。
住職から私に見せてほしいと頼まれて、帳面に清書するが、後に鈴木大拙先生が見て、こんな素晴らしい詩人がいたと言って世界に発信してゆく。

この人に言わせれば、周りの人が何でもかんでも、先生。
「かかあよ お前も全知識さん 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」という詩がある。
有名になってきて、絵師が貴方を描かしてくれと言って、でき上った肖像画は柔和な顔が描かれていたが、「このような柔和ないい顔ではなく、わしは鬼だ」といって、「頭の上に二本の角を描いてほしい」といって描いてもらった。
「心も邪険 身も邪険 角を生やすが、これがわたくし 浅ましや 浅ましや 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏」
風邪をひいた時 「風邪をひけば咳が出る、才市が御法義の風邪をひいた 念仏も咳が出る出る 御恩(ゴホン) 御恩(ゴホン) と聞こえる」 咳一つも南無阿弥陀仏につながるという。 

高鳥九兵衛 (現在の邑南町に住んでいた百姓)
日照りの続いた夏の日に、山へ草刈りに行こうとして自分の田んぼに来たところ、誰かが悪さして、全部抜いてしまって、干上がっていて、飛んで家に帰って、仏壇の前に座り、家族を呼んで、阿弥陀様にお礼を言いたいと思うので手伝ってほしいと言って、一部始終を伝えて、「これはじぶんがむかし同じように人様に迷惑をかけたことがあって、その過ちを今になって教えられていると思うんだ。 若いころだったら、腹が立って、隣りの人の田んぼに行って、うちの田んぼに水を入るようにしたにちがいない、それに気付かさせてもらったのは自分の田んぼの水を止められたからだ、何とも有難い、御礼を言わずにはいられない」
その話が周りに伝えられると、二度と九兵衛さんの田んぼから水を取ってはいけないと皆がよくしてくれたという事です。

石橋寿閑(医者)
神仏などは僧侶が金もうけにやっていると言って、絶対に信じようとしなかった。
自分の小さい娘が病になり、娘が「死んだらどこへ行くんでしょう」と言ったので、「死んだらお浄土という結構なところに行くんだよ」と言ったら、「とうさん どうしたらその浄土にいけますか」と言われ困ってしまって、苦し紛れに出まかせに「南無阿弥陀仏を唱えれば行かせてもらえるよ」と言ったら、娘が「南無・・・」といって唱えたが結局娘は助からなくて、お陰で私は目が覚めましたと言って、仏壇をしつらえて南無阿弥陀仏 を唱えるようになった。

「かけた情けは水に流し、御恩は石に刻め」 朝枝善照先生から教えてもらった言葉。
恩着せがましく言ってはいけないが、人様にしてもらったことは自分の子や孫に伝えなさい。
井戸平佐衛門
石見の大森銀山の代官を1年間ぐらいしかしていない人。
享保の大飢饉が襲った。
人々の苦しみどうしようもない状況だった。
薩摩に技術を取りに行かせて、密かに種イモをもちこみ、わけてあちこちに植えさせたが、気候が薩摩とは違ってほとんど巧く育たなかったが、釜浦の畑で芋が育って、株分けして、うまく育って飢え死にする人はいなかったと言われる。
更に幕府の命令を待たずに、大森代官所に有る米を全部蔵を開けて、皆に振る舞う。(独断で行う)
1733年、平左衛門は大森代官の職をとかれ、謹慎を命じられます。
1年後に亡くなってしまう。

欲しいものを貪って求める、私の欲を人に言ったり押し通そうとする、思い通りにならず愚痴を言う
他人を馬鹿にして優越感に浸ろうとする、盲念を抱いて誰彼となく疑ってゆく、俺が正しいんだと信じてしまう、こういうしょうもないことをやってきたのがこの私なんです、それに気付かされました。
今は有難いと思っています。










2015年7月25日土曜日

山縣常浩(理事長)          ・「国産線香花火の伝統を守る」

山縣常浩(東京玩具人形協同組合理事長)  ・「国産線香花火の伝統を守る」
72歳 蔵前で5代続く店を経営、3年前まで花火の製造や販売に携わる人たちが加盟する、日本煙火協会の理事も務めてきました。
線香花火は平成10年までに日本国内での製造が途絶えて、国産のものは全くなくなってしまいました。
江戸から続く夏の風物詩、線香花火の伝統を守らなければと仲間に呼びかけ、立ち上がりました。
3年足らずで日本の線香花火を復活させる事ができました。
復活に至るまで、線香花火への強い思い、を語っていただきます。

現在50万本ぐらいしかよれない。(おばあちゃんたちがよっている。)
正月すぎぐらいからより始め、お盆が過ぎると終了するサイクルになっている。
おもちゃは8割ぐらい、2割が花火(花火が最近有名になったので) 売上と成っている。
昭和50年ごろから中国から線香花火が入ってくるようになった。
日本から技術指導で、線香花火を中国で作らせた。
昭和の末には中国製は2億本ぐらいと成って、日本では100万本もないぐらいとなった。
中国製は1本1円、2円で日本生は10円ぐらいでないと合わなかった。
日本の線香花火は和紙を使う、火薬が紙の繊維の中には入って行って、綺麗な現象になり紙は燃えない、日本製は絹の肌触り、中国は木綿の肌触り、染料も全然違う。
特級品と2級品の差はある。

江戸時代から続いているが、赤い松葉が出る前の燃えている状態が最も華やかで「ぼたん」、若い元気のいい時代が「松葉」、50歳ぐらいになって角が取れてきて大人っぽくなってきたのを「柳」、人生の終焉を迎えるのを「散り菊」、人生そのものだといわれる。(寺田寅彦)
※寺田寅彦随筆集(岩波文庫)第2巻「備忘録」にでてくる。
火薬は00.8g~0.1gしかない。
線香花火は忘れられない、必ずやりたがるので、どうしてもいい線香花火を作りたいと思った。
日本には3大産地があり、岡崎(徳川家康の居城 硝石を作る)、福岡(豊臣秀吉が朝鮮出兵した時に鉄砲方を集めて、火薬を集めた)、信州(真田幸村がこれからは鉄砲だという事で硝石を作る)その末裔が線香花火屋さんになった。
最初、信州が無くなる。(行商スタイルで、農家に持って回って行って、内職で作って貰って春になると集める)
次に岡崎、平成8年まで、昭和の名人の入山芳枝さんが最後まで頑張ったが、亡くなってしまう。
平成10年 福岡 みやま地域 一番多く作っていたが、和紙の質を落としたり、火薬の質を落としたりしたが、結局無くなってしまった。(17年前)

日本煙火協会は日本国中の打ち上げ花火の方が9割を占めていて、おもちゃの花火は中国から輸入協会を通して販売するシステムになっている。
三大生産地の線香花火を10種類ぐらいちょっと持っていたが、秋田の大曲(日本で一番の花火大会がある)の花火のミュージアムができるので寄付してしまった。
国産の線香花火の復活を考えて、岡崎を束ねている若松屋の佐野さんが、三州火工さん(日本でも1,2に大きい花火メーカー)の嫁さん、信州の一番大きい線香花火屋さんの娘を貰った話を聞いて、稲垣さんが電話して、嫁に来た時に和紙の束と作り方をもっていた事が判る。
できそうだという事で、稲垣さんから道楽をしようと言われて稲垣さんと2人で100万円ずつ出し合って、始めることになる。

火薬はできそうだという事で、紙も何とかなりそうという事になり、焼津で調達できた。
和紙をよる人も何人かおり、昭和の名人の入山さんから教えてもらった人等も見つかった。
黒色火薬に松煙(赤松をいぶしてすすにする)を加えると花が咲く。
松煙 九州と紀州で作っているが、紀州松煙は駄目(火薬を作るが置いておくと駄目)
平成12年秋 稲垣さんから電話があり、昔の線香花火と全く同じものができたとの事だった。
昔のままの染色と販売は私が担当する事になり、大江戸線の開通から、大江戸牡丹と命名した。
どうやっても50円で売らなければならなかった。
10本を袋に線香花火だけ入れて、500円にしたら、これが当たった。
中国では色々食べもの、汚染の問題が出てきて、日本のものを大事にしようと言う風な風潮にも合致した。

1660年ごろに、鍵屋八兵衛が今の奈良県から江戸に来て、鍵屋八兵衛商店を興す、子供、女性に向く様な花火を作って大当たりして、その中の一つによし、あしに黒色火薬を詰めて、花火を作ったらしくて、よく売れた。
わらの先に黒色火薬を付けて、火鉢、香炉の上に立てて、上から燃えてくるのを楽しむ。
立てた状態が仏壇の前のお線香、わらの先に黒いのがついて線香花火という。
関西にも広がり スボ手牡丹として原形をとどめている。
玉屋は100年後ぐらいに鍵屋から玉屋として独立して、両国の吉川町に店を開く事になるが、6代目鍵屋の大番頭だった。
鍵屋さんの裏庭に飾ってあったお稲荷さんに、片方は鍵、片方はまが玉をもっていて、そこから玉を取って玉屋として独立しなさいと言う事で玉屋になる。
「線香花火は紙かんぜなり」という口上が残っていて、かんぜ=こより 1760から1800年以降では紙になっていたことが判る。
最近中国製は5から6円になっている。

世界中にいる日本人の方に(ブラジル1世、ドイツ、フランス等の日本人村等々)に線香花火を思い出して見せてあげたい。
















2015年7月24日金曜日

田中 克(京都大学名誉教授)    ・「森里海(もりさとうみ)で自然再生を」

田中 克(京都大学名誉教授)    ・「森里海(もりさとうみ)で自然再生を」
1943年滋賀県大津市生まれ 京都大学農学部水産学科に入学、大学院に進み、長崎県にある西海区水産研究所で、タイやヒラメなどの研究一筋の生活を過ごされました。
この研究で水際、海岸線がタイやヒラメの稚魚を育むゆりかごであることを突きとめると同時に、海岸線が埋め立てなどで消失している現実に直面しました。
人と自然、自然と自然をのつながりを破壊したのは、半世紀余り続く高度経済成長ではなかったか、自然とのつながりを取り戻し、自然とともに歩む持続社会を築こうと田中さんは2003年京都大学に森里海連環学という学問を立ち上げました。
現在は柳川市のNPOとともに有明海の再生を目指し、東北では森は海の恋人運動で、地域や住民と連携して森里海連環学の実践に取り組んでいます。

現場主義で現場からいろんなことを考えたり、と言う事で東北から柳川までを行ったり来たりしています。
震災前から日本の海がドンドン環境が悪化して来て、生き物がいなくなる兆候が現れてきて、一番象徴的なのが有明海と言う事で、この海を何とかしないと日本の沿岸は良くならないという背景があり、調査をしようと、ボランティアチームを結成して、有明海にかかわっていた人達が気仙沼でも動き出しました。
昨年はシーカヤックで宮城県下を15日間海を回りました。
大震災で顕著に起こったのが、水際で、水際をどう再生するかが、東北の抱えた問題です。
生態系の観点からすると、海と森の繋がりを分断する様な防潮堤ができそうな流れが出来てしまっている。
1997年総工費2500億円 全長7kmの堤防を作った。(諫早湾)
お金の無駄使い、そこだけでなく大なり小なり海岸がコンクリートで水際が固められている。
かつては宝の海と言われた海だったが、今唯一残っているのがクラゲだけです。
有明海の全域の水辺がコンクリートで固められて、陸と海のつながりが大きく断ち切られてしまった、それが魚がいなくなってしまった本当の原因ではないかと思う。
三陸の震災での問題と有明海が抱えた問題が、根っこは同じだという思いに至りました。

琵琶湖もかつては、自然が湖と陸のつながりがあったのが、琵琶湖総合開発計画で、見た目には綺麗になったが、琵琶湖でも同じだった。
今は本当に深刻な絶滅危惧種は、日本ウナギではなくて、海辺で遊ぶ子供達がすっかりいなくなってしまった。
子供達の暮らしと自然が完全に分離されてしまって、この先本当に確かな未来はあるのだろうか、と言う事までに至りました。

研究の原点は海の魚で、その子供達の生態でした、稚魚が暮らす場所は海辺が多い。
陸からのいろんな水を含めた栄養物質が供給されることが彼らを養っている背景がある。
牡蠣が育つのは森の恵みだと、同じような現場の感覚から結論に至った畠山さんと、海の稚魚の研究から必然的に繋がりができて一緒に進めている。
水辺には人がたくさん住むようになり、いろんな負荷がかかって、森と海を分断してきている。
分断しているのは人間そのものなので、人間の暮らし、産業の在り方を自然に寄り添う形に変えない限り、価値観を変えない限り、森と海のつながりは元に戻らないし、自然も戻らない。
キーは里、人が暮らす生活空間、ちゃんと変えない限り森と海のつながりは再生できない、森里海連環学として捉えている。

福島原子力発電所の崩壊、森に広がった放射性物質は海に流れて海をおかしくする。
マイナスのつながりになる。
有明海は火山に囲まれていて、筑後川が流れて込んでいるが、地下水も流れている見えないルートが凄く重要な役割をしている研究もされ始めている。
防潮堤は見えない地下水を含めた森と海の繋がりまで壊してしまうのではないかと懸念される。
このままの暮らし、産業の在り方を続けていくと、孫、その次の世代が幸せな暮らしができるかと言うと厳しい状況です。
森、海、川が分断されていて、社会の構造自身、人々の考え方も縦割りで目先の対応しかできない、対応する側が縦割りで身動きができないのが問題。
森里海連環学の目指すところは今の社会を、自然の再生を思う様にできないのは、縦割りの構造組織、いろんなことが密接につながっているということが大事だという価値観を取り戻すという事が、森里海連環学の一番の大きな目標ではないかと思います。

小学校の頃はよく自然の中で遊んだりしていた、先生が魚が好きだったので、ホンモロコという琵琶湖しかいない魚を先生とともに釣りをして、その最初の一匹を釣って今日が決まってしまった。
稚魚の研究を大学院、博士課程で研究して、そのご 西海区水産研究所に就職。
真鯛の稚魚の研究をして稚魚が浅瀬、水際で生活することに気が付く。
魚の生態、生理、環境等異分野の研究者が集まって合宿生活しながら喧々諤々の議論をしたのはその後の研究の展開に意味があった。
異分野、地域の漁師の人たちとの連携も特徴的だった。
「森は海の恋人運動」畠山重篤さんを社会連携教授として招く。(社会と学問をつなぐ)
森里海連環学の講義の一部を受け持ってもらった。
有明海 水が濁っている、汽水(真水と海水が混じっている) 筑後川が入りこんでいる。
面白い生き物がいっぱいいる、氷河期の遺産的な生き物で、ルーツをたどると中国、韓国の生き物で、地球の温暖化、寒冷化の中で大陸とくっついたり離れたりするが、そういった歴史を反映して、魚類は日本までたどり着いて生き残った、本当に面白い海なんです。

何とか再生に向かわせる為に取り組む事ができないかという事で、地元の旅館の人達と有明海を再生する取り組みを2010年から始める。
高校生、大学生も加わるようになった。
NPO法人SPERA森里海(ラテン語で希望、信頼)・時代を拓く を地元の旅館の人を中心に立ち上げる。
キーワードは繋がり 森と海(空間の繋がり) 時間の繋がり(次の世代への繋がり)
「森は海の恋人運動」と「森里海連環学」をいかに共同して大きな輪を広げてゆくかを主眼にしている。
新しい展開が始まり、その人達と環境省が1014年12月にキックオフの会議が始まり、中間取りまとめとして、「繋げよう 支えよう 森里川海プロジェクトが動き出す。
残念ながらお金が無いが、国民運動的に盛り上げて、生物多様性の問題を含めて、自然と人がいかに共生をしながら持続可能の社会を生み出せるか、という大きな流れに結びつく様なプロジェクトが今立ち上がった。
自然資本経済と言う新しい学問も生まれ始めている。
自然の資本を循環する事によって、いろんな恵みを生みだし、地域の活性化してゆく。

地球が養えるはるかに超えて人が増えているが歯止めはかからない。
物質的には豊かになったが、心の豊かさ、心身の健康からはドンドン違う方向に行きながら、物の豊かさだけをもとめているが、そこを転換しない限り、地球自身が持たないし、本当の豊かな社会の到来もないだろうと、そういう局面に来ていると思う。
そういう流れを作るには、この10年ぐらいでやらないと向かうゴールにはいかないと思う。
各地に芽があるので、うまく繋がれば大きな流れが生み出される可能性はある。
研究所の湾の奥に地震と津波がよみがえらせてくれた湿地があるが、買い取って保全している。
生物多様性の宝庫なので、そこの価値をきっちり研究して環境教育の場に使って、どれだけの価値があるかどうか究明できれば、社会的に大きなインパクトを与えられるのではないかと思う。
「森は海の恋人運動」と「森里海連環学」はアジアに共通の理念になるのではないかと思う。
日本初のそういった学問をアジアに広げる拠点に、「森は海の恋人研究所」ならないだろうか。
フィリピンとJICAで交流が始まっている。