2015年2月27日金曜日

2015年2月26日木曜日

2015年2月24日火曜日

レシャード・カレッド(医師)     ・ 医師に国境はない

レシャード・カレッド(アフガニスタン出身・医師)     ・医師に国境はない
1950年生まれ 64歳 日本の進んだ医療を学ぼうと、19歳で来日し、京都大学の医学部を卒業しました。
その後静岡県の島田市で開業し、無医村への往診や老人介護に取り組んでいます。
その一方で死と隣り合わせの生活を送る故国の人達を救おうと、アフガニスタンに診療所や学校を作る活動も続けています。

小さい時から近所でかわいがってくれたお爺さんが、小学校の3年生になった時に、お爺さんが病気になって、医者が往診に来てくれて、食べれなくて寝たきりのおじいいさんを励ましてくれて、食べれるようになったりしたが、ある日家族を呼んでそろそろ爺さんは長くはないと話をして、家族は御礼言って感謝していた。
私は一方でお爺さんに対しては励ましの言葉を言いながら、家族にはそのようなことを言って、お爺さんに対してなんで嘘を言っているのだろうと心で思った。
家族は感謝して、お爺さんは手を合わせてお医者さんを送って息を引き取ったところを見て、時にはお医者さんは嘘をつかなければいけないという事は辛いだろうなあと思った。
これこそ人のため世のためにやっているんだなあと感動しました。
医者になって患者自身を思いやる事、家族を思いやる事をやって行かなければならないなあと決心しました。
お爺さんは結核だった。 まともな薬もなかった。 
唯一、医者の声がけが薬だったのだろうと思う、楽しみにして待っていた。

カブールの大学の後、日本の医療を学ぶ為に昭和44年に日本に来る。
最初は言葉で苦労する。
下宿しようと思ったが無くて、新聞に広告を出して、2軒OKだったが、1軒女性だと思っていて断られ、もう一軒はお爺さん、お婆さんの家でOKとなった。
親切すぎて、下宿代もとってくれないし、食事も出してくれる。
お婆さんは日本語で一日中対応してくれて日本語を学ぶ事ができた。
なんでそんなに親切にしてくれるのかと問うたら、我々は(お爺さん、お婆さんは)戦争中に中国にいて、日本に引き揚げようとするが、危険を感じたが、中国のお婆さんがかくまってくれたりして、船底に隠して日本への船に乗せてくれた。

その後お婆さんはどうなったのか連絡は取れなくて、お婆さんに恩返ししようと思っても出来ない、そこに現れてきたのが君だったんだよと、君に優しくしているのではなく、お婆さんに恩返ししているだけなんですよと言われた。
これこそ心の中の綺麗なボランティアだと思って心を打たれた。
そこが私の医療人としての道筋ができたと思った。
今度私から第3者にどういう風に恩返しするか、自分の人生のなかで考えて行かなければならないと思います。

専門は呼吸器。(アフガニスタンには結核が多い)
アフガニスタンに帰る予定だったが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻して、再考せざるを得なかった。
自分の目指してきたもの、日本で勉強して志すべきものを全部失われてしまった事が一番のショックだった。
私にできる事は何だろうと、戸惑った。
アフガニスタンに戻っても軍隊に入ってしまっては目的が果たせない、目指してる医療は日本でも世界のどこでもあるだろうと、その人たちに精一杯医療行為をすれば役割を果たせる、日本にいる事に依って、アフガニスタンに何か貢献できる別の体制が作れるのではないかと考えた。
赤十字病院で仕事をしているうちに、島田市に戻ってこいよとの話が有って、本気で言っている事が判って、開業する事を決心しました。
熱いエールを送ってくれた事は物凄い感動でした。

島田市に開業して1カ月の頃、夜中に父親が危篤状態なので見に来てほしいと言われた。
脳卒中で処置して、朝方に帰ってきて、診療して、午後行こうと思ったが道が判らなくてようやく行ったが、まばらに数軒しかなくて、往診してほしいとの要望もあり往診するようになった。
常に20~25人は往診している。 
月に380~400人はあると思う。
ただ薬を渡すのではなく、日常生活そのものを面倒見ないと、生活できないし、医療、快方につながっていかないので支援していかないといけないと思う。
医師が病気を見るという事は、その人自身の生活と自由を見落とす事が有る。
人間は病気を治すだけが根本ではなくて、豊かに生きることが大事なので、病を見るのではなく、その人の人生とか、生活そのものを見てその状況を十分に理解していないと、その病気の根本に差し迫ることも出来ないし、治すことも出来ないので、患者をトータルで見る、家族、環境、その人のやってきた人生そのものを見ないと、その人の習慣に依っても受けられるサービス受けられないサービスが有るので、全部見ておく必要がある。

往診で医療そのものでは解決しない事が判ってくる。
介護施設を3つ作るが、町の中に在る、住む家と同じ感覚になる、安らぎになる。
毎日 朝 昼の食事を認知症の人と職員がいっしょにつくっているが、生活リハビリになるし、生活している以上は楽しく無くてはいけない、自分たちの食べたいのは献立も考えて自分たちで味付けして行う。
私を必要としている人がいっぱいいて、上手に使ってくれるので有難くてしょうがないです。
彼らが呼んでくれて、その生活、役割を私に与えてくださったので、その役割をどう貫いていけるのかが、みなさんに対する恩返しだと思っています。

2001年同時多発テロをきっかけに空爆が始まり、沢山の方が犠牲になり、2002年にアフガニスタンを支援するNGOを立ち上げる。
2001年 年末にアフガニスタンに行くが、多くの人が路頭に迷い、学校にも行けない。
出来ることは何かと、医療をやってゆく必要が有るが、教育も大事だと思う。
診療所を作る。 40万人の患者を見てくるが、6割近くが大人の女性、母親たち、が病気である事が社会問題です。
病気にならないための衛生教育も大事で、栄養のバランスの問題、等教育を中心にやっている。
子供を中心に予防接種をやっていて6万人の子供達に予防接種をやっている。
産婆さんも育てて、去年150名の子供達がそういうところで無事に生まれた。

危険を伴う事もあるが、一番大切にしていたいのは信頼と言う事です。
危険なところに行っても待ってくれているときには必ず彼らが守ってくれる。
学校も設立して1000人以上が通っている。
残念なのは今の子供は昔の姿を全然知らないで大きくなってきている事です。
もっと平和な時代を知らないのは、さびしい事です。
戦争で怪我をしたり死んでいったりするよりはまだましだと、これだからこそ平和だと思いこんでる人たちがいる、彼らには比較が無い。
昔は農業国でお互いに気持ち良く相手を思いやることが多かった、安らぎのある生活だった。
田舎に遊びに行き、勝手に知らない人の農園に行って一杯食べても、地主さんがうちを選んでくれてありがとう、昼も食べて行きなさいと言ってくれる、本来のアフガニスタンのお客さんに対する本来のアフガニスタン人の心だった。
お互いを大事にしていました。

日本の「お陰さま」の言葉は大好きです。  他の国にはない言葉。
日本は平和、繁栄があふれている国だが、平和ボケしてしまっている様な気がする。
平和の価値観が判らなくなったり、平和の意味を考え無くなってしまっている様な気がする。
今の繁栄、平和は多くの高齢者が一生懸命頑張って自分達を犠牲にしてこの国を作ってきたが、高齢者が邪魔扱いされて、社会のお荷物の様な扱いをされている。
平和そのものを軽視してしまっているという事もある。
日本の憲法 9条 平和が大事であるという根本だけは決して崩してはいけないと常々思っている。
感謝の気持ちを、恩返しして行きたい、身体が動く限り一生懸命に続けていきたいし、日本がもっと安泰であるために、気付いてもらえることを子供達に伝えて行きたいと思っています。
医師の報酬は皆の喜びです。 
褒められる事喜ばれる事が人間が次に頑張ってゆく事につながると思う。













2015年2月21日土曜日

杉若恵亮(国境なき僧侶団・代表 )  ・”仏の心”で縁を結ぶ

杉若恵亮(国境なき僧侶団・代表 )  ・”仏の心”で縁を結ぶ
仏の教えを元に世界の人たちと縁を結び、人々の苦しみに向き合っていこうという、杉若さん55歳。
京都府亀岡市のお寺の住職ですが、宗派を超えた僧侶のグループが一般の人々と語りあう座談会を京都の喫茶店や民家などで月に一度催し、30年近く続けてきました。
座談会はこれまでに300回余りを数え、1000人を越える人との出会いが有ったと言います。
仏の教えを伝えるためには寺を出て国境を越えて縁を結ぶという、杉若さんに思いを伺います。

若い人にも話を聞いてもらいたいと思うので仏教は素晴らしいという事を知ってほしいと物凄く高まっている時に、青年会等に投げかけると、反応が鈍かったりした。
壁を壊したいと、宗派、年齢に関係なく、お寺の敷居が高くないよとイメージを持ってもらいたいと思って、喫茶店、民家等でやっている。
行き詰った時に、話し合える場所が求められているが、お寺に来ませんかではなく、出て行ってますから一緒にしゃべりませんかと、当時思っていました。
最初集まりは悪かったが、出会いが目的だったのでマンツーマンのときもありました。
3~4年過ぎてゆくうちに、マンツーマンで聞いてほしい話が有るという様になってきた。

我々は心に中に絶対的に迎えなけれればならないことが有り、病、死とか。
お釈迦様も同じ人間で、目指すところはお釈迦さんみたいな境地になれれば、楽になれるのではないかと、いう何か種を持っている。
どっかで目覚めようとしている種が無いと、坊さんがやっている事の琴線に触れないというか、仏の種が発芽したがっている、水を欲しているんだと、参加した方が感じて頂ければそれでいいんです。
仏種という種がいっぱい集まって森ができれば凄いじゃないですか。
種に水をやって発芽したら、神様がこういいましたというよりも、俺が考えたし、私が感じたし、動き出しましたという事の方が、良いんじゃないかと思います。

寺から出ることを始めたのは28歳の時。
主に大学生にアンケート調査をした。
①悩みはありますか?
②悩んだ時にだれに相談しますか?
③お寺やお坊さんに相談したいと思いますか?
悩んだ時の相談は圧倒的に友達、ほとんどお寺に対しては、NO だった。
固い、嫌い、暗い、煙たい、恐い、というイメージ。

出家者は本来屋根が有ったらおかしいはず。
お寺は信者、檀家に対しお守役をしているが、更に我々は一緒になってお守りしているのが日本の仏教スタイル、寺院スタイル。
仏教以外に積極的に参加。
平成7年1月17日、阪神淡路大震災発生。
神戸に向かう。 今自分にできる事は無いかと、僧侶と名乗らずボランティアに参加。
新潟、中越の時にも参加する。
平成23年3月11日  東日本大震災に調整して、数日後に被災地に行く事ができた。
前半は泥かき、家財のかたずけ等を行う。
亡くなった人の供養には2週間後ぐらいになると思う。
苦しんでいる人と一緒にいる事によって、感じる。
ちょっと一滴の心の静まりというか、又来てください、又きますとの声のつながりが、ちょっとでもどこかの勇気のかけらになっていただければと、思います。

お釈迦様の弟子としていろんなところに救済として現れる存在としていたいと願いがありますし、国境なき僧侶団に参加してくれる僧侶たちは恐らくそうだと思います。
フィリピンでは仏教はほとんど知識でしかないが、この格好で歩いていてもブッダと言ってくれるし、そこの地域に融合しながらというのが仏教の素晴らしいところなので、国境を越えてお役に立てることが有ったら、伝道者として入らせてほしいという気持ちもあります。
アジア圏には仏教が入りこんでいるところが結構あります。
上座部(小乗仏教) と大衆部(大乗仏教)とは根本分裂している。
万人共通項(平和論とか)を大切に守りつつ、自分たちの存在している環境なども意識を高めていくというのは皆考えている事と思う。
共通項は一致してゆくと思う。

昭和34年京都市内のお寺の生まれ  父親は専門道場で修行を積んだ厳格な人でした。
普段の振る舞いから厳しく指導する。
父親は禅宗 母方は日蓮宗 修行して母方の家を継ぐことになる。
毎日夕食の前には訓示が有り、今日の報告をする。(小学校の1年からでは報告は無い)
父親の一喝で涙がぽろぽろ流した。 よく怒られた。
小学校の4年生で母方のお寺で小僧として修行を始める。
外国語の短期大学に進む。 卒業後仏教系の大学でその後2年間学ぶ。
京都で更にデザインを2年間学ぶ、結局寺の仕事に専念するのは24歳の時。
世の中の人はお寺、僧侶をどう思っているのか、リサーチ的にバイトもした。
坊さんの事はぼろくそに言っていた。

お釈迦様の教えを商品として置き換えてみると、いままでの歴史の鎌倉時代の各宗祖の以降の方で、宗祖の方の企画をち密に研究した結果、普及されているわけです。
コンセプトをどういうものを盛り込んでいくか、自分の中のアンテナを働かせることは必要です。
(様々な場で多の人と語り合う中で、杉若さんや仲間の僧侶は宗教や宗派が違っても祈る心が同じであると強く感じています。)
祈りは世界共通だと思います。
祈りのベースになるのは何かという事です。
神様はこういいましたとか、言うのはそこの宗教の経典に書いてるかもしれないが、それも突き詰めてゆくと戒めであったり、仏教でも歴史と共に肉付けされてきているが、本来お前は人間だろうと、人間同士が殺し合う必要はないとシンプルなもの。
いろんな都合、歴史の中で肉付けされる中で、AとBで争う様になったりする。
人間としてはいけないことをいろんな都合でしてしまうが、そこに立ちかえらせてもらえるのが仏教だと思う。

人間はすべからく細胞の塊で、遺伝子の中に、自分の内側の平和と外側の平和のバランスを保ちたいという遺伝子を持っていると思う。
平和、平穏 平和細胞を持っていると思う。 仏種かもしれない。
仏種、平和細胞に気付いてもらえるような話ができればと、今後の展開として考えています。
お互いが寛容な人物を作っていければいいと思う。
仏教を宗教という枠に入れずに、人生哲学的なテキストと思えば、判ったひとは仏教にしがみついてもらわなくて結構です。





















2015年2月18日水曜日

川端政子(ものづくりアドバイザー)   ・ものづくり現場をつなぎ支える

川端政子(ものづくりアドバイザー) ・ものづくり現場をつなぎ支える
39歳 短大を出て大坂の町工場の事務員や営業の仕事をしてきた川端さんは、35歳の時かねてからの計画どうり独立して会社を興しました。
製造業の現場で働いてきた川端さんは、町工場の苦しい現状を打開するだけでなくもっと夢持って前向きに仕事と取り組み人生そのものを楽しいものにしようと、町工場の人たちに呼び掛けてアドバイスをしています。

もともといた会社は3K工場(きつい、汚い、危険)そのものだった。
20歳からパート事務員として働いていた。
社員さんに夢ありますかと聞くと、夢と言われても困るという様な返答だった。
夢を持って働ける様な会社を創っていかなければ、今後日本の中小企業の発展はありえないというところからメーキング ドリーム ファクトリーという言葉が生まれて行った。
24歳の時にそのうち社長になろうと思った。 60歳までの計画を立てた。
10年間かけてこの会社を良い会社にしようとして、これをベースに同じ様な思いをしている人達に何らかのサポートができる様な会社を作りたいと思った。
35歳になったら会社を作って社長になろうと志した。

働いていた会社は大手メーカーの下請けだった。
黙っていても月2000万円ぐらいの受注が来ていたが、その後1/10になってしまった時期が有り、28歳の頃は仕事がほとんど無くなり、会社がつぶれるのではないかと思った。
大坂でやっていても駄目だという事で、新規開拓で東京に行ってほしいと社長から34歳の時に言われた。
以前頂いた名刺をたよりに接触を試みたりした。
年間200社を回った。
いろいろ日本全国を回って、いろんな社長さんと会う事ができた。
女性の営業に負い目を感じた。(なんだ若い女が来たのか、というような感じを受ける。)
自分も精神的に気を楽にして、そういう人たちと心を開いて関われるようになった。
いろいろ悩んでいる、この人たちに何かしたいなと思う様になった。

展示会場では隣りに似たようなカテゴリーの会社が有り、そこはライバルとなる。
海外移転などで小さくなってゆく仕事量に対して、取り合っていていいのかという思いが有り、うちの会社だけで良くなるのでは無くて協力し合えば、もっとあるのではないかと思った。
女性的感覚だと思います。  中小企業の連携事業。
行政もやっているが、本当の意味ではやっていないという思いが有り、表面的に集まってやっているだけで連携ではない。
基礎教育のところを自分がやってきたことをベースにやっていこうとした。
どうせ働くならいい会社で働きたいという事は社員は皆同じ。
眼先の問題(納期、コスト、改善)に対して対処しているうちに疲弊していってしまう。
先ず聞いてあげて、どんな人間になりたかったのかを思い出してもらう事から始める。
整理整頓 手法として整理はこうですよと話すが、もっとベースに、なんで整理して行ったら良くなるのか、皆で話し合って、自分なりの結論を導き出していってもらう。
工場で単一作業をしていたりすると、何も考え無くなってしまう、考える必要が無くなってしまう。

考えてもらって、自分たちがこういう風に変わってゆくんだと納得してもらって、楽しみながらやってもらうための方法。
最初に夢を思い描いていただく事から始める。  会社全体で、全社活動です。
ヒヤリング活動を最初行うが、ヒヤリングだけで変わってゆく会社もある。
改善活動も何の為にやるのか、考える所から始めて、自分たちで考えて、其れをやって、誰かにちゃんと伝えるというところまで行う。
変わってゆく人が一人一人と増えてゆくと、段々変わってゆき、社長さんも変わってくる。
何も考えないでやっていると、無駄を無駄だと思わなくなる。

整理:いるものといらないものを分けて、いらないものを徹底的に排除する。
    単純に二分ではなく、あと急がないものに分けて区別する。
    最終的には心の問題、そこまで整理して行きましょうという活動まで繋げていっている。

連携:全国連携のイベント事業もしているが、その場所にも出てこれない中小企業が多い。
   会社のレベルを上げないと、できない、社長がいなくても業務が回ってゆく、そういう会社に  
   ならないと、社長が次の手を打てない。   

先代の社長の奥さんが入社して半年ぐらいで末期がんと判る。
毎日病室に行って、教えてもらうふりをして引き継ぎをしてほしいと言われた。
私にしては死が遠い存在だった。
半年過ごすうちにその人の持っている人生そのものを引き継いでいる様な気持ちになってきた。
亡くなる1週間前 「政子さん 会社頼むね」と奥さんから言われた。
思いのバトンを受け取った時に、私は何もできないと思った。
このままでいいのかと思った。
少なくとも同じ歳になった時に、ここまでがんばれましたと誇れる様な人間でありたいと思ったし、死ぬときには何も持っていけないが、唯一出来る事は後世に思いを残すことだと思うんです。
自分の生きざま、夢みたいなものを、誰かに引き継いでいく事が人間としてやっていかなければいけない事だと、思った。
社長になって5年目になるが、思いを発信し続けて来たことが評価されて、夢に共感して何か協力したいと、そのためにも今と同じ事をずーっとしてるのではなくて、自分が本当にやりたいことをやるべきだと思っていて、3Sをやり始めた時に3つ約束してくださいと言っている。
①人の事を言わない。
②昔のことを言わない。(思いで話ではなく)
③やりもしないで、できないとはいわない。









2015年2月17日火曜日

森田泰弘(JAXA・マネージャー)   ・ロケット開発は人と人とのつながり

森田泰弘(JAXAイプシロンロケットプロジェクト・マネージャー) ・ ロケット開発は人と人とのつながり
1958年東京生まれ 一昨年、9月打ち上げに成功した国産新形ロケットの総責任者です。
このイプシロンロケットは最新の人工知能やIT技術を駆使し、ノートパソコン2台だけで打ち上げを行いました。
大幅なコストダウンを実現し、ロケットの世界の常識を大きくくつがえしました。
しかし打ち上げ成功の裏には7年間にわたる生みの苦しみが有りました。

最初8月27日に直前で中止になった。 発射19秒前にイプシロン自慢の自動シーケンスが止まった。
実際に止めたのは機械だった。
イプシロンでいろいろ新しい事に挑戦していたが、特にパソコン2台でロケットを打ち上げるモバイル管制みたいな事は世界でも初めての挑戦なんです。
それを実現させるためには、生みの苦しみもあるし試練もあると思っていたが、緊急停止もそういうことだと思っていたが、批判にさらされて辛い部分もあったが、いろんな人たちの応援の声を頂いたのが大きかった。

昭和33年産まれでSFが全盛だった。
ミュー3S2型ロケットの開発が始まって、ハレー彗星の探査を行うという事が大学のころに提案されて、衝撃的だった。
それが純国産 固体燃料ロケットだという事に感動した。
燃料 ①液体燃料ロケット H2Aロケットの様な大きなロケットに使われる。
②固形燃料は小型ロケットに多く使われる。 糸川先生がペンシルロケット 昭和30年に国分寺で始めて実験された。
とても優れた日本の技術の一つなんです。
ミュー3S2型ロケットの誘導制御が修士論文のテーマだった。
宇宙ステーションみたいなものも面白そうだと、ロボットアームの研究を始めて博士号を取ったのが、出発点だった。

カナダでロボットアームの研究をしていたが、宇宙研に帰って来て、ミュー5ロケット制御の研究をするのに役立った。
秋葉先生が助手を公募するからという電話がかかってきた。
ミュー5の頃はペンシルから積み上げてきた技術が成熟の領域に達してきたころだった。
固体燃料ロケットのカテゴリーでは世界最高レベルに達していた。
性能は世界一だがコストが高いという理由であっさり引退になってしまったというのがミュー5ロケットだった。
国の方針は、次のステップとして、ミュー5ロケットよりもっといいロケットを考えてみなさいと、それが生み出された暁には、そのロケットの開発について相談に乗ろうではないかというのが、国の方針だった。

我々からすると非常事態、やるべきことの方向が見えなくなってしまっていた。
自分たちの固体燃料の未来が無くなってしまうかもしれないという状況だった。
チームの一人ひとりが一体どうしたらいいかと暗中模索で、追い詰められて考えに考え抜いて、一人ひとりの頭の中に或る瞬間ひらめくものがきっとあったのではないかと思う。
私の場合は、秋葉先生(大学院時代の恩師)と研究会を開いていた。
未来のロケットとはどんなロケットなのか、考えてみようという、自由な発想の研究会だった。
先生が「ミュー5の事はもうブツブツ言うな。 自分たちで自分たちの良いロケットを作って、自分たちの未来を開け」とおっしゃってくださって、私の心に物凄く沁みて、私の頭の中が180度切り替わった瞬間だった。
秋葉先生はまさにペンシルからずーっと固体燃料ロケットの開発をリードされてきて、ミュー5も秋葉先生は先頭に最初立っていた。
私の青春はミュー5と共にあったが、ロケット打ち上げる仕組み全体というおおきな視野の中で、パソコン2台で打ちあげるロケットみたいな画期的なアイディアにつながる事になったと思う。
研究に研究を重ねて、追い詰められて考えに考え抜いて、或るレベルに達すると視界がひらける瞬間が有る。
私の場合は秋葉先生を通して聞こえてきたと思います。

私の未来のロケットとは、今の飛行機ぐらい身近なロケット、そんなロケットができたらいいなと思った。
モバイル管制、手で持って運べるぐらい小さなロケットの管制。
ロケットの打ち上げは沢山の人と、沢山の装置と長い時間をかけて行うやり方で、アポロの時代と変わらなかった。
この方式を変えていかない限り、ロケットを手軽に打ち上げる事はできない。
今までのロケットの打ち上げ方の量も質も変えてしまう革命なんですね。
今までのロケットの管制室はロケットの発射台のすぐ近くの半分地下みたいなところに在った。
モバイル管制はどこにあってもいい、インターネットにつなぎさえすればどこでも管制出来るという事です。
イプシロンの管制室は発射台から2km以上離れた所でした。

全部点検する、点検項目は2000点ぐらいある。
今までは人が、点検する為の装置を、ロケットにつなげに行っていたが、つないだ瞬間に火花でも散ろうものならロケットにその瞬間火が付いてしまうので精密な作業で、ロケットも爆発する危険もあるし、つなぎにも、計測にも時間がかかるし、点検が物凄く大変だったが、ロケットが自分でしてくれるようになったので安全になり、時間が大幅に短縮して、劇的に簡単になってしまった。
ロケットの向きを検知するセンサーが有り、ロケット自身が点検できるようになった。
今までは信頼性が最優先だった。
ロケット本体はドンドン進歩してきたが、地上のロケットを打ち上げる仕組み、装置類、人の動きの部分はアポロの時代と変わってこなかった。
絶対失敗してはいけないと考えると、人手と時間を装置を掛けてやれるのであれば、そうすればいいんじゃないの、という事だった。

絶対失敗したくないという気持ちと、新しい事に挑戦して自分たちで自分たちの未来を開こうというチャレンジ精神と我々ははざまに在る。
イプシロンの場合にはどんな困難が有っても、乗り越えて自分たちで自分たちの未来を切り開くんだという信念が有りました。
まわりからはパソコン2台で出来るのかという心配の声、一方でそんなにロケットの打ち上げを簡単にしたら、自分たちの仕事はどうしてくれるという人もいて、外からは心配され、中からは批判されて我々は非常につらい立場にあった。
批判にさらされればさらされるほど結束力は強くなった。
ミュー5ロケットの打ち上げがまだ残っているのに、ミュー-5ロケットはもう引退だと公表してしまった。
是は大変つらかった。 モチベーションはゼロにされてしまった。
全ての人の仕事が完璧でないとロケットの成功はありえないので、皆の心が一つになっている事、
ミュー5ロケットの引退の後、私のしたことは皆の気持ちを兎に角未来に向ける事だけだった。

我々が手塩にかけて作ったモバイル管制がロケットの打ち上げを停止してしまった。
心配が的中した部分もあったが、皆には是は新しいことを生みだすための生みの苦しみだ、こういうことを乗り越えない限り新しい事は出来ないぞと、ひたすら毎日言っていた。
皆の気持ちがばらばらになるのが一番怖かった。
幸せだったのは、内之浦の街が我々を家族同然に接してくれて、街の人の応援は有難いと思った。
「中止は失敗ではないから、本番では頑張れ」と色紙に書いてあり、私が毎日皆に言っていたことがそのままが書いてあって本当にうれしかった。(施設の人より)
いろいろの人の支えに助けられた。
1万5000人ぐらいの人がイプシロンの打ち上げに来てくださって、私にとっては衝撃でした。
ミュー5引退後7年後の事で、皆の苦労に値する様なフライトだったと思う。
イプシロン 名前の由来 日本の固体燃料ロケットはラムダロケットが出発点に近いが、日本の最初の人工衛星「おおすみ」という衛星を上げたロケット、以来ギリシャ文字を付けて上げるというのが習慣にっなっていた。
新しいロケットにイプシロンとした。 E (英語)   education excellence exclamtion
そういったメッセージが込められている。
野球もロケット開発も全く同じで、チームプレイ、全ての人のプレイがチームの勝利に繋がる。
発射中止になった8月27日の記者会見が終わって、イプシロンのところに行って「すまん」と謝った。
たんなる機械ではなく生きた機械、そういった感じです。
イプシロンの挑戦はまだ始まったばかりなので、行く行くはロケットが飛行中の出来事を全て自分で監視して、いろいろなことを自分でやれるようにしてやろうと思っている。
ロケットが飛んだ後もパソコン2台で出来るかもしれない。
TVの中継車ぐらいの簡単な設備でロケットの打ち上げが出来るかもしれない。

































2015年2月15日日曜日

岡本喜代子(日本助産師会・会長)  ・安全で自然なお産を増やしたい

岡本喜代子(日本助産師会・会長)  ・安全で自然なお産を増やしたい
66歳 学生時代実習で血を見て脳貧血を起こして、倒れてしまった時期もあったそうですが、27歳の時ゆめがかない念願の助産師になりました。
岡本さんは助産師として4年間活動した後、教員になり後進の育成につとめました。
46歳の時に日本助産師会の事務局長に就任しました。
当時日本看護協会が助産師の制度を廃止すべきだという見解を示し、これに対して制度を残すため、事務局長として様々な活動を行いました。
現在岡本さんは、助産師会の会長を務める一方、東京八王子市で助産院を開業し、妊婦の健康、子育ての悩みの相談に乗っています。
これまでの経験から可能な限り、自然なお産を増やしたいと考えています、
そのためにもお母さんたちを近くでサポートする助産師を更に育成していきたいと言います。

19歳の時に、血を見て倒れてしまった。
精神面をきたえるために、同志社の神学部にいった。
高校の時にキリスト教に魅かれて関心が有った。
大学紛争の時で1年間はほとんど授業は無かった。
3年間で単位を取った。
最後の実習が分娩で、赤ちゃんがとってもかわいくて、素晴らしい仕事だと思い、チャレンジしました。
助産師を目指して大阪大学医学部附属助産婦学校に行く事になる。
27歳で助産師になって、4年間大学病院で助産師として働く。
一番印象に残っているのは、東海大学では分娩部だけではなく、産婦人科も一緒だったので、他の仕事も手伝ってくれと言う事が有り、癌で亡くなられてその後のケアをして、お産も進んでおり、直後にお産が有り、亡くなられて体温が冷たくなり、その直後にお産の介助をさせてもらって、赤ちゃんの命の温かさが今でも忘れらません。
分娩が自然で経過してゆくときには無理な力が加わらないので、生まれた時に赤ちゃんは皆同じような悟りきったお地蔵さんの様な顔をしているし、神々しいような、めちゃくちゃ泣かないし、天からの授かりものと本当に実感しました。

正常な経過がたどれる人はその人に合った様なお産の進み具合で進む。
人間も大自然の一部だと実感するが、満月と新月のころに生まれやすい。
羊水と海水はほとんど同じような成分になっている。
羊水は500~600cc 子宮の中の羊水も満潮とか、月の影響を受けている。
低気圧の時には白血球のなかのリンパ球が増えて、精神的にリラックスする。
リラックスしていたほうが陣痛がスムースに来るので、台風の後の新月、満月の頃が忙しいんです。
妊娠中の生活の過ごし方によって正常になるように過ごしていただく。
体重も増えすぎるとかない様に、バランスのいい食事、睡眠も少なすぎない様に、する。
自然の経過で有れば一人一人に合わせてお産の進み具合が変わって来る。
その方が体の負担が少ない。
後の子育てを考えた時に、体力が残っている様なお産をしてもらいたいと思っている。
自然のお産は精神面も充実感があるようです。

日本の助産師の教育は外国と比べて実習が少ない。(外国は30例 日本は10例程度)
実践を充実するように口を酸っぱくして言っている。
日本助産師会を充実するために大阪府助産師会の会長だった多賀琳子先生が中心になり改革が始まる。
日本看護協会 昭和56年に保健師、助産師というような別に資格はいらないと、看護師という一本の制度の方がいいと、総会で決めてしまった。
助産師制度を残さないといけないと思っていたので、多賀先生から要請があったら、ためらわずに行きました。
日本看護協会は看護師、助産師(2万人)、保健師、准看護師等で構成。
日本助産師会はもともとは開業助産師でしたが、今は勤務助産師も増えて9500人ぐらいで、6割以上が勤務助産師となっている。

あまり実践が無いのに資格が与えられるのは、サービスの質が下がるのでお母さんたちに満足していただけるケアができにくくなるので一番反対した理由ですね。
資格を単純化したかった、さかのぼるとGHQのアメリカに助産師がいなかったことがそういうものはいらないのではないかと、保健師制度という 3年の専門学校を出て資格を一つというそういう動きがあったが、再度そういう動きが有ったのではないか。
日本は明治から戦前までドイツ医学が主流で、助産師の制度、教育をしていたが、戦後、助産師のいない看護制度をGHQは導入しようとした。
日本は明治からのいい助産の形態が残っているので、開業権などは世界に誇る制度になっています。

日本助産師会として、どうやったらいいサービスができるのか、電話相談の拠点、命の教育、性教育など頑張ってきました。
今は一緒にいろんなことをさせてもらっています。
平成19年副会長を担当する。 
間借りをしていたので自分たちの会館にしたいと思いが有って、同年、場所も新しい場所になる。
研修会、講座等をやったりして地域貢献も出来るようになった。
将来の夢は開業する事だった、おたふく助産院という名前も考えていて、助産院を開きたいとの思いが有った。
八王子に開業する事ができた。(資金は先輩、友人から無利子で貸してもらった)
何かあると全責任を負わなくてはいけなかったので、素晴らしさと同時に大変さを経験しました。
嘱託医の先生が亡くなってしまって、やっと見つかったが車で1時間ぐらいのところに在り、いまは分娩は対応しないで、産後のケア、乳母ケア中心の助産院に切り替えています。

今は助産師は3万5000人ぐらいに増えてきたが、クリニックにはまだ8000人ちょっとしかいなくて、後2~3万人は欲しいと思います。
地域で退院してからのケアは少ない。
母乳にまつわる相談が多いので、近所で相談できると、いいリズムの子育てができるので母親の負担も少なくなる。
核家族が多いので、育てることの不安があり、自分だけで悩む事が多い。
インターネットでの情報もあるが、逆に情報過多でどれを信じていいのかわからないという様な事も出てきている。
しつけという形で大きくなったら迷惑を掛けないとかあるが、両親がきっちりしつけてゆく必要があるが、その辺がちょっと弱い。
自分の気持ちをコントロールできない、子供、大人が増えてきている、其れが子供の虐待、DVにつながってきている気がしてならない。
世界助産連盟があり、各地域にもあり、アジア太平洋地区の大会が今年7月に横浜パシフィコで行います。
色々な研究発表、ワークショップ等あります。
一番の原動力は赤ちゃんから貰っています。
自然な正常産、母乳育児が当たり前、基本は母乳育児、少しでもお手伝いできるようになればいいと思っています。