2015年2月21日土曜日

杉若恵亮(国境なき僧侶団・代表 )  ・”仏の心”で縁を結ぶ

杉若恵亮(国境なき僧侶団・代表 )  ・”仏の心”で縁を結ぶ
仏の教えを元に世界の人たちと縁を結び、人々の苦しみに向き合っていこうという、杉若さん55歳。
京都府亀岡市のお寺の住職ですが、宗派を超えた僧侶のグループが一般の人々と語りあう座談会を京都の喫茶店や民家などで月に一度催し、30年近く続けてきました。
座談会はこれまでに300回余りを数え、1000人を越える人との出会いが有ったと言います。
仏の教えを伝えるためには寺を出て国境を越えて縁を結ぶという、杉若さんに思いを伺います。

若い人にも話を聞いてもらいたいと思うので仏教は素晴らしいという事を知ってほしいと物凄く高まっている時に、青年会等に投げかけると、反応が鈍かったりした。
壁を壊したいと、宗派、年齢に関係なく、お寺の敷居が高くないよとイメージを持ってもらいたいと思って、喫茶店、民家等でやっている。
行き詰った時に、話し合える場所が求められているが、お寺に来ませんかではなく、出て行ってますから一緒にしゃべりませんかと、当時思っていました。
最初集まりは悪かったが、出会いが目的だったのでマンツーマンのときもありました。
3~4年過ぎてゆくうちに、マンツーマンで聞いてほしい話が有るという様になってきた。

我々は心に中に絶対的に迎えなけれればならないことが有り、病、死とか。
お釈迦様も同じ人間で、目指すところはお釈迦さんみたいな境地になれれば、楽になれるのではないかと、いう何か種を持っている。
どっかで目覚めようとしている種が無いと、坊さんがやっている事の琴線に触れないというか、仏の種が発芽したがっている、水を欲しているんだと、参加した方が感じて頂ければそれでいいんです。
仏種という種がいっぱい集まって森ができれば凄いじゃないですか。
種に水をやって発芽したら、神様がこういいましたというよりも、俺が考えたし、私が感じたし、動き出しましたという事の方が、良いんじゃないかと思います。

寺から出ることを始めたのは28歳の時。
主に大学生にアンケート調査をした。
①悩みはありますか?
②悩んだ時にだれに相談しますか?
③お寺やお坊さんに相談したいと思いますか?
悩んだ時の相談は圧倒的に友達、ほとんどお寺に対しては、NO だった。
固い、嫌い、暗い、煙たい、恐い、というイメージ。

出家者は本来屋根が有ったらおかしいはず。
お寺は信者、檀家に対しお守役をしているが、更に我々は一緒になってお守りしているのが日本の仏教スタイル、寺院スタイル。
仏教以外に積極的に参加。
平成7年1月17日、阪神淡路大震災発生。
神戸に向かう。 今自分にできる事は無いかと、僧侶と名乗らずボランティアに参加。
新潟、中越の時にも参加する。
平成23年3月11日  東日本大震災に調整して、数日後に被災地に行く事ができた。
前半は泥かき、家財のかたずけ等を行う。
亡くなった人の供養には2週間後ぐらいになると思う。
苦しんでいる人と一緒にいる事によって、感じる。
ちょっと一滴の心の静まりというか、又来てください、又きますとの声のつながりが、ちょっとでもどこかの勇気のかけらになっていただければと、思います。

お釈迦様の弟子としていろんなところに救済として現れる存在としていたいと願いがありますし、国境なき僧侶団に参加してくれる僧侶たちは恐らくそうだと思います。
フィリピンでは仏教はほとんど知識でしかないが、この格好で歩いていてもブッダと言ってくれるし、そこの地域に融合しながらというのが仏教の素晴らしいところなので、国境を越えてお役に立てることが有ったら、伝道者として入らせてほしいという気持ちもあります。
アジア圏には仏教が入りこんでいるところが結構あります。
上座部(小乗仏教) と大衆部(大乗仏教)とは根本分裂している。
万人共通項(平和論とか)を大切に守りつつ、自分たちの存在している環境なども意識を高めていくというのは皆考えている事と思う。
共通項は一致してゆくと思う。

昭和34年京都市内のお寺の生まれ  父親は専門道場で修行を積んだ厳格な人でした。
普段の振る舞いから厳しく指導する。
父親は禅宗 母方は日蓮宗 修行して母方の家を継ぐことになる。
毎日夕食の前には訓示が有り、今日の報告をする。(小学校の1年からでは報告は無い)
父親の一喝で涙がぽろぽろ流した。 よく怒られた。
小学校の4年生で母方のお寺で小僧として修行を始める。
外国語の短期大学に進む。 卒業後仏教系の大学でその後2年間学ぶ。
京都で更にデザインを2年間学ぶ、結局寺の仕事に専念するのは24歳の時。
世の中の人はお寺、僧侶をどう思っているのか、リサーチ的にバイトもした。
坊さんの事はぼろくそに言っていた。

お釈迦様の教えを商品として置き換えてみると、いままでの歴史の鎌倉時代の各宗祖の以降の方で、宗祖の方の企画をち密に研究した結果、普及されているわけです。
コンセプトをどういうものを盛り込んでいくか、自分の中のアンテナを働かせることは必要です。
(様々な場で多の人と語り合う中で、杉若さんや仲間の僧侶は宗教や宗派が違っても祈る心が同じであると強く感じています。)
祈りは世界共通だと思います。
祈りのベースになるのは何かという事です。
神様はこういいましたとか、言うのはそこの宗教の経典に書いてるかもしれないが、それも突き詰めてゆくと戒めであったり、仏教でも歴史と共に肉付けされてきているが、本来お前は人間だろうと、人間同士が殺し合う必要はないとシンプルなもの。
いろんな都合、歴史の中で肉付けされる中で、AとBで争う様になったりする。
人間としてはいけないことをいろんな都合でしてしまうが、そこに立ちかえらせてもらえるのが仏教だと思う。

人間はすべからく細胞の塊で、遺伝子の中に、自分の内側の平和と外側の平和のバランスを保ちたいという遺伝子を持っていると思う。
平和、平穏 平和細胞を持っていると思う。 仏種かもしれない。
仏種、平和細胞に気付いてもらえるような話ができればと、今後の展開として考えています。
お互いが寛容な人物を作っていければいいと思う。
仏教を宗教という枠に入れずに、人生哲学的なテキストと思えば、判ったひとは仏教にしがみついてもらわなくて結構です。