2015年2月6日金曜日

野本三吉(元学長、作家)       ・生きる事の意味を問い続けて(2)

野本三吉(元沖縄大学学長、作家)            ・生きる事の意味を問い続けて(2)
ソーシャルワーカーを10年行う。
40代の後半、腰痛に襲われる。  
食べ物、絵本、おもちゃなどを持って、何時も両肩に一杯での家庭訪問などが多かった。
腰に負担がかかり、腰痛になり最後には腰が曲がったまま伸びなくなってしまって、医者に行ったが、手術は危険なので出来なく、仕事はできなくなり、腰に負担の掛からない仕事を考えていた。
和光大学に非常勤講師として行った事が有るが非常に楽しくて、若い人と一緒にやるのが面白かった。
横浜市立大学に応募してみないかと言われて、応募したら、面接に来てほしいといわれて、どういう大学にしたいのかと問われて、横浜市全体が大学に、と言う風に考えたいと答えた。
どこへ行っても授業ができるようにしたい、面白いとの反応で、教授会で決定したと電話があった。吃驚仰天した。(49歳)

社会福祉論という科目  子供、障害、老人、精神的な事など様々な問題含めて全部やるのであらゆる分野の事を猛勉強しました。
不登校の相談会等も出来て、市民の方と非常に親しくなった。
学生にもボランティアで参加してもらって、学生たちの成長も凄かったです。
大学の周辺が大学化して行った。
地域の中でと言うと、どこかに拠点が必要で、昔はお寺だったり、町内会の会館だったりするが、学校というのも面白いところで、大学を拠点にして、地域全体が学びも出来るし、協力も出来て地域の活性化ができて、大学が有るという事はその地域にとって、メリットが大きいと感じました。
横浜市立大学の時は本当に面白かった。
学生の前で話すという事は、一回整理するので、準備して語ると、、学生たちの反応が有り、感想を書いてくれたり、話に来るので、これは抜けていたとか、そうだと気付く事を言ってくれたりする。
もし学生が関心が有ると、応援に行きたいとか、学びに行きたいとか、手伝いに行きたいとか始まる。
大学の中だけで学ぶのではなく、地域の方たちと一緒になって学ぶというのはある意味原型ができてきたと思います。

社会臨床論、社会臨床学会を立ち上げる。
心理臨床学会が有る。 臨床とはベットの横に寄り添って、直接触れ合う事で治療してゆく。
社会的背景、全体を含めて幅を広げなくてはいけないのではないかと、新しく、違うネーミングが必要だと思い、社会臨床という事でたちあがった。
相談を受けている人も自分自身の生活体験も含めて、どんなものの考え方も検証されてしまう。
相談をする方たちがどういう環境の中で暮らしているか、一緒に拘わりながらやってゆく、そういう体験報告が次々に出てきて、聞きながら、これだなと、社会臨床というのは新しい学問になるなあと思った、ソーシャルワークと似ている。

第二回社会臨床学会を横浜市立大学で行う。 600人近く集まる。
これからどういう社会を創っていけばいいのか、そのためには人間関係をどう変わればいいのか。
人間関係を変える事によって社会も変わる。
横浜社会臨床研究会を作って、地域の人達も集まって大学で勉強会を始めて、数年間行った。
現場の中で、自分の体験を話すが、うまくいかなかった経験を話してもらって、そこに行ってみようという事になり、一緒に調べてみると、いろんな人が丁寧に見ると、一人では見えなかったものが、一杯見えてくる。
社会臨床は一人だけで物事を分析するものではない、いろんな人の視点で見てゆくと、今まで気付けなかったことが一杯見えてくる、そういう発見が毎回有り物凄く勉強になった。
地域と言うのも一つの臨床対象だと気付く。

地域が何か動きだしたり、停滞したりするのは、その地域の中に情報がどのように入ってきてどこが出さないか、が凄く大事で、地域と言うものが一つの生き物で、判断する場所、手足になる様な所、活動する場所が見えてくる。
地域が一つの生き物として見るという様になり、変わり得る、どこを応援したら全体が動き出すのか段々見えてきてとっても勉強になった。
女性が元気なところは大体よくなってゆく。
男性だけが元気のところは駄目になってしまう。
女性が元気なところは子供達が明るくなってくる。
子供達が明るく元気、女性が元気なところは、そこのコミュニティーは発展する。

女性は命を産み育てる存在なので、基本的に優しい、お年寄り、障害を持っている人に非常に目配りが利くし、苦しんでいる人には手を差し伸べる、そういう人たちが軸にいる。
男性は頭で、理論で考えるので、これで行こうという時になると、歪が見えなくなってしまう。
子供達を軸に地域社会を変えるということが、大事だと段々思い始めている。
谷川 俊太郎さんを呼んで若者フォーラムをしたときに、或る青年が、今の社会の中で自分は生きにくかったという事で、自分が「ノー」と言えなかったという事で、谷川さんの「いや」という詩をそこで朗読した。
子供達が嫌だとか、変だと言った時に、世の中こうなんだから従いなさい、駄目と押さえてしまうが、一回ちゃんと受けとめるという社会、そうすると当たり前だったと思っていたことを、これでいいのかと考える。
子供達が言える様な社会、これが社会を固定化させないで、もっと生きやすい、幸せになりたいという思いをひろげてゆく社会になるんじゃないかと思います。
子供達に学ぶことが物凄く多い、子供達のつぶやきとかが、本質的な問題を含んでいる事がとてもある。

60歳で沖縄大学に。 (2002年)
2001年9月11日 世界貿易センターに飛行機が突撃する、それを見たときに全身が震えた。
世界貿易センタービルがバベルの塔の様に見えた。
何時の間にか、人間が地球の中で支配者になって、好きなように地球を使っていて、そこが打ち壊されてゆく。
社会の貧困の中で、虐げられた人の辛さ、怒り、恨みが有ったとすると、人間はもう一度原点に戻って生き直さなければいけないのではないかと、自分もいつの間にか、そういう意味で言うといろんな人たちから恩恵を受けているのに、それに無自覚になっていると、もう一回原点に戻りたいと、自然との共存となると、どうしても沖縄に眼が行く。
沖縄に行きたいと思っていたら、沖縄大学で児童福祉論を授業をやる先生を探しているという事で、50歳未満という事だったが、無理と思っていたが応募した。

面接をして受け入れて頂いた、
沖縄大学は沖縄の歴史と共に変化してきた大学で、理念は「地域に根差し、地域に学び、地域と共に生きる開かれた大学」、これは私にぴったりだった。
当時学長は新崎盛暉先生(沖縄現代史の専門家) 宇井 純先生は「公害原論」をやった先生。  
こういう方と一緒に学べることは嬉しかった。
沖縄そのものが負の原点を持っているので、平和、戦争をしないと言うものを原点に在るので、大学の教育をしているのでいいなあとおもった。
児童福祉論を教えることになる。
施設に学生が行って、レポートしてもらったが、沖縄の現実が非常に厳しいことが判った。
経済状況が非常に貧しい。
子供達の実態を調べようと、学生たちと沖縄の子供研究会を作って、大学でやっているだけでは無理だと判り、現場の先生方と一緒にやろうとした。

「今、沖縄の子供達は」というシンポジウムをやった。
この一回だけで止めないでほしいとの声が有って、ネットワークを作って、お互いの情報連絡を始めた。
子供研究会を作って、毎月大学で勉強会を開いた。
最初は個別だが、それが集まってくると、こういう風になればいいんじゃないかという事になり、行政を巻き込んだ形の流れが見えてきて、最後は時代を変えてゆくために、法律を作り替えたり、新しい制度を作るとか、そういうところまで動き始めると、行政の皆さんたちを含めた勉強会や、本音で話し合う、先生方とも本音で話せる様な場が作れれば良いなあと思います。
先生方も規定が有るものだからはみ出せなくて、皆悩んで苦しんでいる。
教育のソーシャルワーカーみたいなものが本気に始まってくると、学校が変わって、日本は一気に変わって素晴らしい国になると思っている。

満潮 最初砂地だったところが、そのうち砂の中から、数か所水が湧いてきて、水たまりが段々くっついてきて、それが途中からが早くて瞬く間に繋がって海になってしまう。
満潮とはこういうことだと言われたが、私の中で時代が変わるという事はこういうことだと思った。
一つ一つが何とかこういう風にしたいと取り組んでいるが、一緒にやろうと繋がる、日本中のあちこちで起こってることが、ドンドン動き始めて気付いた時に時代が変わる。
どんな小さなことでも諦めずにやり続けて、同じ様に考えているひとが、手を取り合ってゆくという、これでいいんだという事を沖縄で教えてもらった事は大きい。

沖縄では住んで12年になる。
沖縄は自分たちが地域を創っていくんだという形で動き始めたと思う、変わってゆくと思う。
春には横浜に戻って、自分のスタイルでやって行きたいと思っている。
社会評論社からいままでの事を纏めてみないかと言われて、「生きる事、それが僕の仕事」というタイトルの本を出させてもらった。
何を自分の中の基準にして生きようかと思った時に、命というものが一番軸に来る、沖縄戦では沖縄では4人に一人が亡くなるという状況の中で、生き残った方が 「命こそ宝」という言い方をした。
命 (三つの要素)
①命には全く同じものは一つもない。 皆かけがえのない存在。
②命はちゃんと自らのうちに自らが育ちたいという力とエネルギーを持っている。 
③命は他者との関わりの中で、豊かになる。
何かあった時に、命にこれでいいのかとか、どうしたらいいかと 命に聞こうと、命が喜ぶことをしようと思う。
もし命が拒絶したら、私は断固としてそれは拒否します。
生きるという事そのことが私にとっては仕事です。

親しい人のお見舞いに行った時に命を大事にしなさいよといった、との事ですが?
元気だった人が不自由になると、とても辛くて、やれないと思った時に早く死にたいとか思う様になると思うが、奥さんが「食事を食べて」と言ってもどうせ死ぬんだから食べたくないとか、「歩いて」と言っても嫌だとうかがったが、「食べることが貴方の仕事ではないか」と言ったことが有る。
食べることが仕事だなんて、誰も思わないかもしれないが、生きることが仕事だという風に言うと
食べる事自体は今が仕事なんです。 一歩、歩く事が仕事なんです。
その人がいま出来る事を、精一杯命が望んでいることをやる事自体が、その人にとっての仕事、その人自身が生きようとすること自体が仕事だと思ってます。

私は、人間て、一番何がしたいかというと、他の人の喜びや、助けられる事をやれる、何か喜んでくれる事をしてあげることが、多分一番嬉しいんだと思います。
身体を壊した人が、自分が治ろうとすること自体が仕事なので、仕事という概念をもっと広く持って生きられたらいいなあと思っている。
命に聞きながら、命が喜べることを一つづつ、やって行きたいと思っている。