2015年2月5日木曜日

野本三吉(元学長、作家)       ・生きる事の意味を問い続けて(1)

野本三吉(元沖縄大学学長、作家)            ・生きる事の意味を問い続けて(1)
1941年昭和16年 東京生まれ 本名 加藤彰彦 大学で教壇に立つとき、執筆をする時は野本三吉を名乗る。
横浜の寿町に暮らす子供達の実態を書いた作品で第一回日本ノンフィクション賞を受賞しました。
横浜国立大学を卒業後、横浜市内の小学校の先生になり、充実した学校生活を送っていましたが、通信簿を付けることに悩んだ末に退職、以後生きる理想の地を求めて、日本各地の共同体を訪ね歩きました。
東京の山谷や横浜の寿町に辿り着き、生活相談員としてそこに住む人や子供達と共に暮らしました。
この体験をもとに社会臨床論という学会を立ち上げまして、横浜市立大学や沖縄大学で教壇に立ち児童福祉や社会福祉活動に取り組みました。
昨年沖縄大学学長を退任されました。

最終講義 「私はどんな職業に就くかというよりも、いかに生きるかという事が私のすべてでした」、と最後にお話しになっていますが。
様々な職業を経ながら、自分に一番ふさわしいものを探したりするのですが、その中で後ろ側に流れているのは、自分がどう生きたいか、何をしたいかということが背景に有ってたまたまこの仕事をするという事になると思う、そういうことをその時にしたと思う。
どう生きるか 一つ一つの経験の中で自分の中に触発されるものが有って、こういう生き方をしたいと思って、次に又ぶつかった時にそれを越えるような感動があって、次の自分の生き方が見えてくるとか、感じられると、修正されてゆく。
繰り返しやりながら自分らしい生き方が見つかってくるというか、そういう感じになってくる。
変化をしてゆくと思う。

最初の大きな出来事 3歳になった時 1945年 3月10日東京大空襲  妹は10か月だった。
防空壕に逃げ込むが、妹が防空壕で亡くなる。
その時は大きな衝撃ではなかったが、歳を追うごとにはっきりとした自分の原体験になってくる、という事が有る。
両親はつらい思いで、3月10日になると小さな位牌の前で、短くても30分肩を震わせて泣きながら「お母さんが悪かったと、助けてあげられなくてごめんね」 と泣いている。
その姿を毎年毎年見てきたので、子供が理不尽に亡くなる事は辛いことだと、戦争だけでもなく災害でも起こるが、フラッシュバックの様に浮かんでくる。
子供達をそういう目に合わせてはいけないと、生き残った私 兄として、子供達が安心して生きられる時代を作りたいと、私の原点になり、歳を追うごとに、真剣に考えないといけないと思った。

横浜国立大学に入学して、柔道部に入った。(高校時代からやっていた)
教えていて大きな人に大外刈りを掛けてもらって、うまくいかなくて力一杯やってもらったら、一緒に倒れ込んでしまって、巨体が覆いかぶさって後頭部をがくっと打ってしまった。
一旦立ち上がったが、身体が硬直して後ろに倒れてしまった。
救急車に乗せられて病院に行って、親や友人に医者が脳内出血の疑いが非常に濃厚で今晩が峠でしょう、一応覚悟なさって下さいという声が聞こえた。
私には聞こえてないと思ったらしいが、聞こえていた。
もう涙がぼろぼろこぼれて、もし生きかえるんだったら、本当に生きようと、生きたいなあと思うが死ぬんだと、せめぎあいだった。
注射されたが、奇跡的に一昼夜して意識が戻って、一か月入院してよみがえった。

生きること、死ぬ事が頭から離れなくなった。
生きているという事は、或ることができてないと生きられない、空気を吸う事、食べる事、飲む事が出来ている。
自力で便ができたりすると生きているという感じがした。(吸収と排泄ができると人間は生きていると感じる))
吸収・・・経験する事、体験したことが食べたと同じように血肉化する。
排泄・・・表現だという気がしてきた。
辛い事、悲しい事が有ると涙が出てきたり悲しんだりする。
嬉しいことが有ると笑ったり、歌ったりする。
表現出来る事、体験できる事、 と普遍化する。

母はがんで亡くなるが、辛さを友人に話そうかと思って話をして、気が付くと友人が眼がうるんで聞いていてくれる。
彼にも同じような体験が有ったのではないかと思った。
表現が向こうにも入ってきて、循環する。 相手の事も思って話す様になっていた。
生きているという事を話している中で相手と自分の中で交流している。
この交流している事自体が生きることだと気が付いた。 
関係が生きることで、関係が成立していないと、遮断されて生きる気力が無くなってゆく。
老人ホームなどで誰も来ないお年寄りは、早く迎えが来ないかなあとおっしゃる。
関係が生きている事の実態で、生き生きした関係が作れるかどうか、生きることの一番の大事なことで、これが抜けると、生きる現実の世界が成立しない。
関係が生きている事の本質なんだという事をその後の体験を経ながらドンドン膨らんできたというのが生きることについての体験です。

父は教えることが好きだったが技術者になって、結核で入院中に私に出来たら小学校の先生になってくれたらと言って、父の思いを遂げたいと教師の道に進むことになる。
先生を5年で辞めることになる。
本当に楽しかった、授業も楽しかったが、一緒に遊んだり、家に子供達を呼んだりしていたが、
一番の問題は通信簿、相対評価で 数人 「1」を付けなくてはいけない。
体育 鉄棒の逆上がりができない子がいるが、できる子の友達が応援して、1週間ぐらいすると逆立ちができるようになる。
握手をするとその子は血豆が出来て、破けて、絆創膏を張って凄まじい手だった。
握った瞬間に涙が止まらなくなって、その子を抱きしめてしまった。
跳び箱、その他同じで、一番遅くなってできた子は、1になるか2になるか、私はどうしても付けられなくなってしまった。
校長と掛け合ったが、国の決まりだという事で付けざるを得ず妥協した。
通信簿を2通作った、1通は普通のもの、もう1通は文章で私の思いを書いて2通を渡した。

子供達が或るとき、私たちも生生に通信簿を付けていいかと言って、全員が作って持ってきた。
その時、教師は教える存在で、成績も付ける存在、しかし子供たちも先生を評価し、注意したり誉めたりできる存在だと、さっきの関係論ですが、関係を固定してしまう。
関係を固定するものを権力と思えて、子供からも学べるんだというと、子供からも評価されるんだと、ここに居座ってはいけないなあと、一人の人間として、離れて、子供達と拘わりたいと思った。
そして先生を辞めることにする。

地域の皆さんが子供達をこういう子供達にしてほしいという想いを受けて教えるものだと思ったので、地域の共同体がちゃんと成立していないといけないと思った。
北海道の牧場が共同体を作っていて、そこにいって学ぼうと思って、そこに行った。
日本には共同体が沢山あって共同体巡りをした。 
北海道を皮切りに回って歩いて、気付いた事だが、自分が住んでいるところが問題点もあるし辛いところもあるし、そこで問題を解決したり、状況を変えていかないと、理想がどこかに在るのではないかと思うのは違うなあと、放浪した結果そう思った。

横浜の寿町に住むようになる。
まず山谷で「どや」で暮らすが、(やどの隠語 人間が住む様なところではない 東京は山谷、大坂は釜が崎、横浜は寿町 3大ドヤ街)
いろんな人たちと出会う事になる。
非常に切実に響いてくる、皆必死に生きようと思うがなかなか仕事が見つからない。
私が熱を出したりすると、仕事を早く切り上げてきて、バナナを買ってきてくれたり氷を買ってきてくれて一生懸命看病してくれる。
本当にありがたくて、人間の関係という事で言うと掛け値なしに兄弟みたいになってしまう。
社会からは偏見でみられたりしているという、この人たちの中に本当の人間性が有るという気がした。
城北福祉センターが中心で夜になると閉まってしまうので、夜も開けるように、誰か職員になればいいなと言う事で、横浜の寿町で募集をしている事が判り、試験を受けて横浜市の職員になる。

都市の中で共同体が作れないかと思った。
寿町で暮らしている人が、自分の思いを出し合って、一つにまとめた時に暮らしやすい地域に変わらないだろうかという夢が有って、当時市長が飛鳥田一雄さんがやっており、子供を大事にする、皆で話し合って町のことを考えてゆく横浜にしたいと言う夢を持っていたので、私も一緒にやりたいと横浜のどや街に行きました。
寿生活館の生活相談員になる。
判った事は、話したいことが皆いっぱいあるが、話す場所が無い、受け止める人がいない。
「言ベンに舌」で話す、持っているものを話す、さらけ出す、そうすると解放される。
辛い事、悲しい事を受け取った人がいると半減する。
嬉しいことが有った時に一緒に喜ぶと2倍、3倍になる。
話を聞く事が大事で、聞いた事の中に皆夢が有って、病気の時に医者にただで掛かれるといいなと言う事で、署名を集めて要望したら、飛鳥田さんはOKしてくれて、女医が来てくれて、皆が母親、妹の様に思い、先生を大事にしてくれた。(無料の病院が街の中に出来てくる)
夜間銀行、寿夜間学校(文字の書けない人もいた)、俳句会、そういうものがいっぱい出てきた。
寿住民懇談会も出来る。

食料問題、横浜中華街の残飯をご馳走になっていた。
そのころ給料を街の人に渡して一緒に暮らしていたが、給料の5日前になるとお金がなくなり、中華街に行くと、食べ残しを綺麗にして集め、バケツ一杯貰ってきて、皆で分けあいながら食べたが、とっても美味しくて、5日間を暮らした。
貧乏と貧困は違って、貧乏でも人間関係さえちゃんとあれば不幸にならない。
支え合いを軸にした生き方をしていた。
当時はまだ、結婚はしていなかった。
若者たちが、路上で生活をしている人を殺してしまう殺傷事件が起きる。
若者が不満を抱いていて、どこにもぶつけるところが無くて、その人たちに自分たちの不満をぶつけるという事で、そういう事件が有った。
その事件をきっかけに児童相談所に務める事になる。
社会の現実をちゃんと知ってほしいと思ったことと、学校の中、社会で排除された子供達、行き場のない子供達がいるという事で子供達ときちっと拘わりたいと思って、児童相談所に移る事になる。(ソーシャルワーカー)
社会を住みやすい社会に変えてゆく、それがソーシャルワーカーだと言う風に自分の中では意識付けられた。
孤立している方達をもう一回関係を取り戻して行く仕事、一気にはいかないが、ソーシャルワーカーとしてその人と人間関係を取り戻してゆく、生き直すという事になる。
ソーシャルワーカーとして生きようと本気で思った。