2023年4月7日金曜日

農口尚彦(能登杜氏)          ・伝説の杜氏 魂の酒づくり

農口尚彦(能登杜氏)          ・伝説の杜氏 魂の酒づくり 

農口さんは1932年 石川県珠洲郡内浦町(現・能登町)に生まれ、父、祖父ともに杜氏の家でした。  16歳から酒つくりに携わってきました。  静岡、三重での酒蔵の修業を経て28歳で石川県の酒蔵の杜氏に抜擢され、廃れかけていた山廃仕込みを復活させます。   農口さんの酒は人気を博し、その名が全国に知られるようになりました。  吟醸酒や山廃ブームの立役者である農口さんは二度の引退を経て、2017年杜氏として復帰、現在は小松市に6年前に作られた農口尚彦研究所の杜氏として全国から集う若手醸造家の卵たちに、惜しみなく酒作りの技を伝えています。  農口さんが魂の酒と呼ぶ酒作りとはどういうものなのか、90歳の今、次の世代に何を残そうとしているのか伺います。

新酒が出来る12月ごろに青い玉を付けて,少しづつ赤くなっていって行きます。    今年は米が不作で心配していましたが、作ってみると本当にいい酒が出来ました。     スッキリしてちゃんとうま味のある切れ味のいい酒だと思います。  ノートを付けていて、数字がびっしりと書かれています。  温度、時間、水分量、手触りの感覚などを全部記録しています。  さかのぼることで、今年はどう言う風にしたら一番いいかがわかる。 25のタンクに仕込むのでどのタンクの酒が、どういう過程を経てどんな味になったのか、という事が一つ一つ記録されています。   米の出来も毎年違いますから、そのそれぞれの記録を見て、やり方を検討します。  勘では何の数値もない。    理論的にちゃんとしたものを持つ、そしてその都度の勘を働かせる。  70年杜氏をしているので70冊あります。  

麹室、普段なら35,6度あります。  細長い部屋に2m×10mぐらいのテーブルがあり、アルミの天板になっていて下に温度調節ができるようになっている。  ここに蒸したお米を広げて、麹菌を振るわけです。   一晩だけ寝かします。  朝4時、5時に起きて機械で砕きます。  隣の部屋には木の桶があり、一杯に盛って菌をお米の中心迄しみこませます。  ブドウ糖に替える酵素が一番できるところです。  酒の味が違うのもここで、一番大事な工程なんです。   口に麹を含んで、硬さ、美味さが判ります。  いい麹はさばきがよくて、綺麗な味が残ってゆく、栗のような香りがする。  

身体を動かす運動、人生には大事です。  能登杜氏の発祥の地としても知られています。 父は正月でも杜氏の仕事で居なくて寂しい思いをしました。   16歳で静岡に、三重での酒蔵の修業をしました。   初めのころは掃除洗濯から媒酌の料理作りまでしました。麹係の見習いもして、温度、時間、確かめ方など徹底的に教えられました。   4年でしっかり覚えました。   28歳で石川県の酒蔵、菊姫の杜氏に抜擢されました。     社長からは本を読めと言われて、小説は面白おかしく書いてあるが、書いた人が読んだ人たちに 自分の思いを必ず書いてあるはずだから、それを読み取らなければ、小説を読む資格はないと言われました。  社長からは酒のことは分からないけれど、いい酒を作ってくれと言われました。   綺麗な酒を作ったら山仕事をしている人たちからは薄い酒だと言われてしまいました。  飲むものの気持ちになって作らなければいけないと1年目に感じました。   山廃を作ろうと思って作ることにしました。  発酵を促す段階で、酸性を強めにするために乳酸を入れて早く醸造してゆく、それを速醸と言います。 安全に楽に出来ます。 当時は全部速醸でした。   山廃には手間もかかるし設備も必要になります。  山廃は幅のある味になります。   3年間山廃の修業をしました。   

吟醸作りもしました。  東京の日本酒の愛好家たちが、吟醸酒が美味しいという事で、米を手配するから作ってほしいと言われました。  吟醸酒ブームになりました。      米のうま味が生きていて、香りが良くて、味が良くて、そういう吟醸でした。  喉を通る切れ味の良さも必要です。  汗水たらして働く時代、エアコンなどでの環境下の時代、時代と共に酒作りも変わって来ます。  お客さんの声を聞くことが大事です。

人材の育成にも努めています。   4年目の篠宮光則?さん(36歳) 以前は半導体を扱う会社で働いていました。   酒作りは勿論ですが生き方そのものも教えてもらっています。   情熱の凄さに感動します。  もっともっと聞いて欲しいと私(農口)としては思っています。   

『魂の酒』発行。  市場の動きを知る、市場の動きに合わす酒作りをしなければいけない。  海外ではどういうものが喜ぶだろうと思っています。  それに合わせた酒を作って市場を開拓していきたい。  









    








  










































2023年4月6日木曜日

盛口満(沖縄大学人文学部教授)     ・いきものたちの楽園"琉球諸島"に魅せられて

盛口満(沖縄大学人文学部教授)     ・いきものたちの楽園"琉球諸島"に魅せられて 

1962年千葉県館山市生まれ。  小学生の時に海岸で貝拾いに夢中になりました。     生き物たちを幅広く学ぶため千葉大学理学部生物学科に進学。  その後埼玉県の自由の森学園の生物学の教師となります。    2000年に那覇市に移住、現在は沖縄大学人文学部で教授として理科教育を担当しています。  教育の傍ら琉球諸島の各地に足を運び、鳥、動物、植物などあらゆる生き物たちの調査、研究に務め、著作は100冊を越えます。      琉球諸島の面白さや、島の人々への思いなど伺いました。

父親に連れられて海に行って、貝殻が落ちているのを見て、夢中で拾い集めて、それから貝拾いに海にしょっちゅう通うようになりました。   貝を図鑑で調べると、もっと綺麗な貝が沖縄にはありました。   それで沖縄には憧れました。   小学校5年生の時に近所のお兄さんから理科の雑誌を貰って読んだら、西表島の特集があって1mぐらいの大きさの豆の種を探検家が持っている写真があり、こんなに大きな豆があるという事が記憶に残っています。

大学は琉球大学に行きたかったが親に猛反対されて、千葉大学理学部生物学科に行きました。    サークルでは西表島に行くという計画があり、一緒に行くことになりました。船で2泊かけて行きました。   凄いなという印象がありましたがよく覚えていないです。    マングローブの林の中にも入りました。  父が理科の教員をしていて、大変そうで先生にはなるまいと思っていました。   大学で生物学を学ぶようになって、研究者には向いていないと思って、先生への進路を検討し、自由の森学園を知って、受験したら合格しました。    不登校問題、学校崩壊とか学校がおかしいという社会問題になったころで、先生の方で見つめ直して学校を作ろうという動きのなかで出来た学校が自由の森学園でした。   

修学旅行では行く先を生徒と話し合う中で、西表島に探検に行くことになりました。    ホテルには宿泊せずに公民館を借りて雑魚寝をしました。   イリオモテヤマネコを保護している人に案内してもらったり、スケールの大きい自然に対して感じるところがあったと思います。  自分でも個人的に春や、夏休みに年に一回ぐらいは行っていました。   西表では散歩していてもジャングルに入れるというようなイメージです。   地元の人たちと自然とのかかわりも面白いと思いました。   民宿では親戚づきあいのような感じでもてなしてくれました。    酒を飲みながら歌、伝承などを聞いたりして面白そうだという思いがしました。

税金として明治維新前まではお米だったので、西表島周辺の小さな島は西表島迄渡って来て田んぼを耕して帰るという事をやっていました。  お米はほとんど食べられなくて、麦、サツマイモ、粟とかしか食べられなかった。   高校の先生は15年務めていました。  30代の後半にどこかでチャレンジしたいという思いがあり、那覇への移住を決めました。もう一つの理由は、先輩の先生が沖縄にフリースクールを作るという事でした。  その手伝いという思いもありました。   フリースクールでは7年間働きましたが、その後沖縄大学に採用されました。   准教授、教授、そして3年間学長を務めました。  

学長を辞めてもまだいろいろ仕事があり、調査、研究には手が届いていません。     沖縄は面積が狭いわりにいろんな種類があります。   ただ自然を壊してゆくようなこともあり、自然の楽園と言っていいかどうかわかりません。    沖縄には狭いわりに150万人の県民がいて、自然を残していかなければいけないと思います。   ヤンバルクイナがいますが、クイナは飛べない鳥になって行って、ハワイクイナは絶滅、グアムクイナは野生では絶滅、動物園にしかいない。   クイナは太平洋の島々には2000種類いたという人もいます。   沖縄ではこれほど人が住んでいても、飛べないクイナがいるという事は奇跡のような状態だと思います。   

たまたまイリオモテヤマネコのフンを拾う事が出来て、アルコール殺菌をして中をほぐしてみたら、ゴキブリとムカデだけでした。   普通の猫では食べられないようなものまで食べて生き延びてきました。   夕方になるとイリオモテヤマネコが活動するので自動車に轢かれないように気を付けないといけない。   

宮古島が一番人気なのは宮古ブルーと言われるきれいな海です。   川がないので川から土砂が降りてこない。   サンゴ礁から出来てきた島で、平らで川も山もない。 島の成り立ちのなかで島が一回沈んだのに、昔から陸上で住んでいたとしか考えられない生き物が住んでいることが不思議です。  沢ガニは一生を淡水で暮らすカニで、一回海に沈むと全滅してしまう。  宮古島に沢ガニがいるという事は、宮古島と地続きの島だったころに、歩いてやって来てという風に思われるが、一体いつどうやって渡ってこれたのか、宮古島が沈んだはずなのになぜ生き続けられたのか、まだはっきりわからない。  

カンムリワシ自体は東南アジアに広くいます。  日本から見ると、カンムリワシは八重山諸島にしかいない。  本にはイラストで描かれていますが、もともと絵が好きで、大学生のころから絵と生き物が合体して、生き物の絵を描くようになりました。  絵であるとプリントして子供達には伝えることが出来ました。    

ゴキブリが結構好きです。  子供達が面白がってくれるものにゴキブリがあります。  知り合いが宮古島で綺麗なゴキブリを見つけて、ある業界では話題になりました。   

琉球諸島は島の成り立ちが違っていたりして、平らな島と山がある島があります。     本土に近いか、台湾に近い島かで、大きく3つのグループに別れます。   ①屋久島のグループ  ②奄美、沖縄のグループ  ③八重山のグループ    宮古島の場合、いつどう繋がっていたのかよくわからない。  

誰かに何かを伝えたいという思いが小さいころからあり、生き物を本にすると一区切りついた様な気がしていて、探求してきたことを含めて本にして、いつの間にか100冊ぐらいになりました。    昔は島という限られたところで自給自足をしなければならず、肥料などを含めて自然のなかでどいう利用できるか目配りをしていた。   山のある島はいろいろ調達が可能だが、宮古島のようなところは限られてものをどう知恵を働かすか、という事が聞いてゆくと少しづつ判って来ました。   これからの自然とのかかわりを作ってゆくときに何か道筋が見えてこないかなあというのが今思っていることです。

2021年に奄美大島から西表島にかけて世界遺産になりました。   プラスになったことは今後守ってゆくという事と、努力をしていかなくてはいけない。   マイナスは観光客がたくさん来るにはいいんですが、ことによっては小さな島が荒れてしまうのではないかと心配はしています。  昔の人と自然とのつながりをそのまま引き継ぐことは難しいので、もう一回自然と繋がり直す事を捜すことが必要なのかなと思います。

















 


























  


























 

 


















2023年4月5日水曜日

鶴澤燕三(文楽三味線)         ・師匠の教えを守り続けて

 鶴澤燕三(文楽三味線)         ・師匠の教えを守り続けて

ハワイ生まれで、ほとんどアメリカ人になってしまいましたが、ウクレレとかに触れて楽器が好きでした。  帰国した時に囃子方を募集しているのを知って、行きたいと思いました。(中学生)  笛方に応募、五線譜のない楽譜でした。  意味がわからなかった。 冬に稽古を始めて夏がお祭りで、それがお囃子デビューでした。  全曲覚えてしまい太鼓も覚えてしまいました。  五線譜ではない楽譜によるアンサンブルに凄く惹かれました。  中学、高校はずーっとお囃子をやっていました。  

帰国したのは小学校6年生でした。(12歳)  姉が3人いて、ピアノを弾いていました。  ピアノをやりたいと思っていましたが、父が男は剣道だと言って剣道の道に入りましたが、楽器をやりたいとは思っていました。  高校3年のお正月にテレビを見ていたら、三味線の特集の番組をやっていて興味を惹きました。    友人にその話をしたら、友人の母親が三味線を習っているので見に行くことになりました。  葉山まで見学に行ったら、その先生は逗子に住んでいてやりたいなら来なさいと言われ、始まりました。 

両親は転勤で長年香港にいて、長女が親代わりでした。  大学受験の時期で、姉に三味線のことを話したら、「大学ばっかりが能じゃない、良いわよ。」と言われて、三味線を購入して、逗子の先生のところに通い始めました。   周りはおばさんばっかりでしたが、面白かったです。   九州の従兄弟がたまたま葉山に来ていて、彼女が大学の卒論で淡路の人形芝居をやっていました。   彼女が、国立劇場で研修生を募集していることを知っていて、直ぐに電話してしまいました。  研修風景も見学して、応募して第4期研修生になりました。   偶然人形の吉田蓑助師匠と昼食することになり、研修は2年でしたが、「5年やってみることだと、そうすれば向いているかどうかわかるから」と言われました。

研修中はほとんど家には寝に帰るような状態でしたが、苦には感じませんでした。  爪で押さえてはじくんですが、皮が薄くなり破れたりして、そのうちタコが出来てきます。(3か月ぐらい)  バチ使いもいろいろあり、身に付けていきます。  心底辞めたいと思ったことはないです。  懸命にやっていて、大きな失敗をしたことが一度ありましたが、師匠が笑って、「失敗はするもんや」と言われて胸のつかえが吹っ飛び、辞めずに済みました。   

1年目の研修が終わって、卒業生の既成研修がありその時の担当師匠がうちの師匠でした。稽古をしてくれて、教わったのを必死で頑張って、翌日間違いなく弾いたら、師匠が涙をためていて、「よう覚えた」と言ってくれました。  それでこの師匠の弟子になりたいと思いました。   必死になると、師匠のバチ使いなどが映像として残ったりします。  師匠が弾いて、一緒に弾いて、自分で弾いての繰り返しです。  

1995年、師匠は公演中に倒れそのまま引退することになりました。  途中から演奏がおかしくなり、舞台モニターがあり、それを見たら意識がないまま弾いているのがわかり、飛び出していって「師匠大丈夫ですか」と言ったら、ジロッと私を見たが、又正面を向いて演奏にならない音を続けました。  救急車を呼んで、三味線を取ろうとしたがなかなか離さなかったが、凄い力で何とか離しました。  バチは握って離さないまま病院に行きました。  緊急手術をしましたが、噴水の様に出血していたという事で、そのまま死んでいてもおかしくない状態だったという事でした。   強烈な体験でした。

2006年4月に6代目鶴澤燕三襲名することになりました。  燕三という名前を汚してはいけないという事が一番のプレッシャーでした。  師匠が倒れた時と同じ曲での襲名披露でした。  2014年に脳梗塞で倒れて、病院に三味線を持ってきてもらったが、三味線を全然弾けなくなってしまいました。  どう弾いていいかわからない。  右手、左手がシンクロしない。    退院してリハビリをしているうちに、何となく弾けるようになってきて、6月に倒れましたが、9月の公演には復帰しました。  その時に復帰しなければ辞めていたかもしれません。  記憶力は無くなってはいなかった。  リハビリをしつこくやるのは効果があると信じています。   弟子を取ることになりましたが、師匠からは「弟子を取るという事は、人様の大事な息子を預かるという事、ワシも気を付ける、君も頑張れ」と言われました。  「人様の大事な息子」というのは常に頭に響きます。

































  

















 

2023年4月4日火曜日

尾藤イサオ(歌手・俳優)         ・声が出る限り歌う!

尾藤イサオ(歌手・俳優)         ・声が出る限り歌う! 

尾藤イサオさんは1943年東京都台東区生まれ。   1953年小学校4年生の時に、曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗って、太神楽の曲芸師として活躍、その後音楽に興味を持ち、曲芸師を辞め歌手を目指し、ジャズ喫茶で歌うようになります。     1963年に日劇ウエスタンカーニバルに初出演、1964年には悲しき願い』が大ヒットします。  1966年の「ザ・ビートルズ来日公演」では前座を務めました。  1970年人気漫画「あしたのジョー」のテレビアニメ版の主題歌を歌い大ヒット、代表曲の一つになります。    現在、歌手としてもコンサートの舞台に立ち、俳優としても映画、テレビ、舞台でも活躍しています。  

79歳です。 12年前、「みんなの歌」が50年を迎えた時に、で「赤鬼と青鬼のタンゴ」「サラマンドラ」「フラミンゴのワルツ」3曲を歌いました。   「サラマンドラ」は大好きです。   健康で生きてこられました。  3歳の時に父親が他界して父親の記憶がないです。  父親は寄席芸人の3代目松柳亭鶴枝で、百面相と言って、かバンの中に髭だとか、ハチマキだとかあり、一番最後は手ぬぐい一本で顔を真っ赤にしてタコが茹で上がってゆくのが得意だったようです。  母親は三味線を弾いて父親のBGMをやっていたという事です。    兄が曲芸師になるというようなことでしたが、やりたくないという事で、末っ子でしたがやりますと言って、曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となりました。  ナイフを使った曲芸とか傘の上で枡を回したり金輪などを回したり、火焔バチなどをしていました。  曲芸は10歳から16歳までやっていました。   芸事を覚えるのは早かったです。

1959年に年季があけて、これからはお金がちゃんと貰えるようになるからと言われましたが、師匠に曲芸は辞めますと言いました。  プレスリーみたいになりたいと言いました。  ラジオから流れるプレスリーの声にしびれてしまいました。(曲芸師の時)    アルバイトを半年ぐらいしていました。  ジャズ喫茶に行って、ブルーコメッツで歌っていた鹿内孝さんに習いました。  2,3か月後にジャズ喫茶に出る様になりました。   舞台慣れしていたので、当時流行っていたツイストをやったりして目立つようにしたりしました。     そのうちにテレビのレギュラーが決まって行きました。   

1963年の「新春日劇ウエスタンカーニバル」初出演することが出来ました。(デビューして1年足らず)   平尾昌晃さんたちはもう卒業して、先輩が水原弘さん、同期が内田裕也さん(年上だったが)などでした。 関西のプレスリーが内田裕也さん、東京のプレスリーが佐々木功さんでした。   

向こうの曲を日本語で歌うとノリが違ってきてしまいます。  マック・ザ・ナイフ」は数回しかステージではうたわなかったです。  

*「銀の十字架」 歌:尾藤イサオ

最初ビートルズはプレスリーに比べれ、ボンボンというような印象でした。  60年前には武道館でビートルズの前座をやりました。  

人前で何かやることが根っから好きなんでしょうね。  37,8のころに1mぐらいの距離にいる娘の顔が歪んで見えたりしました。  暗く見えたりもしました。  眼科に行って調べてもらったら黄斑変性と言って、目の中に黄色い部分があって、目が駄目になって仕事が出来なくなったらどうしようと思いました。  大学病院を紹介してもらい、中心性網膜症みたいなことをいわれましたが、現在もやりようがないという事でそのままです。  若干上の方を見ないと相手の顔が見えなくて、目線を合わせてしまうと顔がのっぺらぼうの様に見えないんです。 目線を合わせないと、誤解されてしまう事があります。  舞台に立っていて不自由することはないです。 テレビなどでは不自由することもあります。  



















 








2023年4月3日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕春日武彦

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕春日武彦 

ほむほむのふむふむ 5年目に入りました。  30年の付き合いにある精神科医の春日武彦さんがゲストです。  

春日さんは1951年京都府出身、大学卒業後産婦人科医として6年務めた後、思うところあって精神科医に転向しました。   大学病院や都立病院を経て、現在は東京都内の病院の名誉院長として患者さんの診察にもあたりながら、執筆活動も続けています。 

春日:二人の間を取り持つのが少女漫画家の吉野 朔実さんなんです。   僕が初めて本を出したのが1993年で、吉野さんがそれを見て、彼女の作品は心理とか精神的なものをテーマにしがちで、僕の本に興味を持ったみたいで、一緒に食事をする機会がありました。  彼女が亡くなるまで毎月会うようになりました。(270回)  穂村さんも1996年ごろに参加するようになりました。   あった時に自分と似てる人なんだなあと思いました。

穂村:精神科医は人間の心の専門家みたいで、憧れのようなものがありました。  人間の根源的なものを見てきた人なんだろうなというイメージがありました。 しかし、くだけた感じの人で話しやすかったです。  

春日:外科系の医者は徒弟制度で、産婦人科から精神科医は敷居が高いが、逆はそれほど難しくはないです。   産婦人科医も充実感はあったが、人の心のダークサイド見たいなところもみたいというのと、患者さんの気持ちを聞いてあげた時に凄く感謝されたことがありました。   元々精神科には興味もありました。 

春日さんが選んだ穂村さんの作品。

「気がつけばトーテムポールがぐちゃぐちゃに進化している夜の校庭」  穂村弘

春日:ぐちゃぐちゃに進化しているというのが、ここから世界が滅びて生きそうな怖さがあり、昔の少年漫画っぽい、そんなイメージがしました。  

穂村:学校にあるものは何故か決まっていて、二宮金次郎の銅像とかあるが、僕らのころは何故かトーテムポールが立っていました。  じっくりは見ていないが、気付いたら世界が変化する予兆のような感じがして、良い読みをしてもらって嬉しいです。

「警官におはぎを食べさせようとした母よつやつやのクワガタの夜」   穂村弘

春日:つやつやのクワガタは小学生だということが判る。  つやつやのクワガタと警官の拳銃の黒光りがイメージ的に近い。  警官とおはぎは限りなく遠い。  近いものと遠いいものが上手く混ぜ合わさって面白いと思いました。  

穂村:昭和の時代は警官におはぎを食べさせよう、みたいなことはよくあった。 警官の銃とクワガタはメカっぽい。  おはぎと銃とクワガタは微妙に違いながら繋がるみたいなところはある。  夜だし、全体的に黒い。  大きな黒の中にいろいろな黒があるイメージ。

「食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕」      穂村弘

春日:穂村さんにしては珍しい感じ。  俳句的だと思いました。  関節外し的なトーンが重なっているという気がします。  

穂村:これは割と素直なほうです。  ダーク感がほとんどなくて、ノスタルジー。   今はこういった食堂車はないんじゃないですかね。   両親もいないし、半世紀も経ってこれを書くというところに何か意味が生じるわけです。  

「夕映えの砂場に埋めた最愛の僕のロボットの両手はドリル」      穂村弘

春日:切ないですね。 心理学用語で「山嵐ジレンマ」というのがあります。  山嵐は棘があるわけで、互いに寄り添おうとすればするほど相手を傷付けてしまう。  そういうを連想しました。  ドリルという単語に向かって言葉を畳みかけてゆく上手さは流石に穂村さんだと思います。

穂村:ウルトラマンで両手が鋏の怪獣がいたが、戦う時はいいかもしれないが、日常生活は困るだろうなあと子供心に思いました。  人間の意識には共通して流れるイメージがあるのかなあと思います。

「アルバイトするのが怖い扇風機の羽を止めている両足の指」      穂村弘

春日:両足の指で止めているというぞんざいなな態度、みっともなさ、共感しかない。

穂村:僕は臨機応変という事が駄目なんです。  止まっちゃっている羽根は自分みたいな気がして、機械に対しは妙に強気に出る。

「交差点で写真を返す太陽の故障のような夕映えのなか」         穂村弘

春日:写真と光学装置としての太陽の組み合わせのうまさ、太陽の故障という破滅が近いみたいなものを連想しました。  交差点という言葉によって、破滅に向かってゆく我々の寂しさが際立ってくる。

穂村:あまりにも綺麗な夕映えも、逆に怖いみたいな、終わりみたいな感じがする。   ホラーやSFに結びつけてしまうというのがあるような気がする。

 いつかみたうなぎ屋の甕のたれなどを、永遠的なものの例として」       穂村弘

春日:日常にさり気なく潜む永遠、無限と共存して生きてゆくというところに、ある種のくらくらする酩酊感を覚えます。  世界一黒い塗料があり、イギリスのペンタブラックというもので可視光線吸収率99,956%。 日本では水性アクリル塗料で99,4%があり通販で売っている。   立体物に塗ると平面に見えてしまう。  緩い永遠からハードな永遠迄あちこちに潜んでいて、そこがワクワクするような恐ろしいような感じがしてとっても好きです。  

穂村:前提として我々は有限だという事ですね。  

春日:高校時代、同級生が短歌を作って

*「ただ一人髪切りばさみを動かす日チャキチャキチャキとピエロいずる」             意外な人が短歌を作っていると知って新鮮な気がしました。  

穂村:心に孤独感がある。  

春日:現代の短歌は愛唱歌っぽくならないような気がします。 

*「ウサギの耳ポケットの耳パンの耳寂しきときは耳をおもえる」    高野公彦          これは好きですね。

*印:漢字、かななど間違っている可能性があります。







 





























 



















 















































2023年4月2日日曜日

坂東玉三郎(歌舞伎俳優)        ・当代随一の女形として

 坂東玉三郎(歌舞伎俳優)        ・当代随一の女形として

歌舞伎座が新しくなって丁度10年。 『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)に出演、10数回やっています。   初演が1974年なので50年近くになります。   歌舞伎としては非常に有名なものです。  お富は堀り下げにくい役です。  与三郎を立ててゆく女形の役です。  湯上がりの風情、お化粧してる感じ、潮干狩りで浜遊びをしている感じとか、そういう独特の雰囲気を醸し出すことがこの役は大事かもしれません。

コロナ禍でお客様がご来場くださるなら、その状況に合わせて出来ることを精一杯やるという事と、やって良いという機会が与えられるならば、なんでもやりたい。  はじめが四部構成、次が三部構成だったので、四部構成の時には1時間で完結できる、それが新鮮でした。 三部構成になると2時間で完結できるので、桜姫東文章』(さくらひめあずまぶんしょう)もできました。  今度は二部制になりますが、将来まだまだ変わる可能性があると思います。   桜姫東文章は36年ぶりに仁左衛門さんとやりました。  通しでやると5時間から5時間半になります。  今回三部制の中でやれたという事に幸せでした。

初舞台からおよそ65年余りになります。  20歳代やったものがもう50年になります。   歌舞伎を見たのが4,5歳ぐらいでしょうか。   7歳では歌舞伎の世界に入りました。  うちの近所に6代目尾上梅幸さんの弟子の尾上金枝?さんという方がいました。   私の実父と飲み友達で、そのご縁でご紹介いただきました。  正式には6歳から始めましたが、4,5歳ごろからやっていたと思います。   小児麻痺になったので、大役を頂いてから体力を消耗するのが大きかったので、どこにも行けないとか、開演前に十分準備しなければいけないとかあったので没頭しなければいけなかった。   ハンディーは今でもあり、年齢と共にその幅が大きくなってきました。    

1957年(東横ホール)菅原伝授手習鑑・寺子屋』の小太郎で坂東 喜の字を名のり初舞台。  25日間で、ずーとやれる思いがありました。  踊りの会では一日で完結していましたから。  1964年に玉三郎襲名。(14歳)  父から「これからが厳しくなるぞ」と言われました。 15歳ぐらいで国立劇場が出来て、大役をいろいろやらせていただきました。  17,8歳で役を沢山いただきました。  21歳からは歌舞伎座で先代の団十郎さんとコンビを組ませてもらって、一日4本とかでて、これが厳しいという事なのかと、父が居なくなってから理解しました。

当時としては女形では身長の大きい方でした。  ひざを折ったりして、お客様には自然に見えるように工夫はしました。   毎月紹介していただく役が精一杯でした。     22から24歳まで2年半、一日も休む日がなかったことがあり大変でした。   修業期間があるということは大事なことだと思います。   マッサージをやったり、気分転換で旅行したり、全く違うものに没頭したりするものを捜したりしてやって来ました。  ダイビングをしていますが、それも気分転換です。   親しい友達と忌憚なくしゃべるという事も大事でした。   相手役には舞台上のことがあり、悩み、苦しみとかを楽屋で話すことはなく、避けていました。  個人的なお付き合い、は相手役としてはしたことないです。 先代の団十郎さんとは3回程度、仁左衛門さんとは5回程度しか一緒に食事をしたことはありません。   それも誘い合わせてというようなことはほとんどありませんでした。

理想は或る程度高く置かないと毎日前に進んではいけないと思います。   自分の隠し包まない人が何人いるか、で人生観が変わってくると思います。    相手役とは芝居に中での悩みは良くしゃべりました。  廓文章 吉田屋」(男女の恋心が織りなす上方歌舞伎の代表作。)で夕霧が豪華な刺繍のうちかけで登場した時、大きな拍手がありました。  美しさ、色気は出せるものではないんです。  やっぱり踊りの基本、衣装が身体の一部になる、そして自然に動いて行って、お客様に見せつけるのではなくて、その役を自分が作り上げたら、その役でひたすら舞台にいるという事が大事です。  美しさ、色気はお客様が自然に感じるもので、こちらから提示するものではないんです。  ひたすら役でいるという事が大事です。   美しさ、色気を一点で見せることはできない。   流れの中、役に中に自然に出て行けばいいと思います。  

女性より女性らしいという事はないんです。  女形が演じると、女ではない女が出てくる。  見る人が女ではない、現実の女性ではない人がやってるところに、見る人が思い入れを入れるから、そういう風味に見えるわけです。  プレッシャーを感じるのは年齢からくる肉体的な衰えだと思います。   対処は、身体を柔らかくして行くこと、循環を良くしていかなくてはいけない事、舞台に立つ前は準備をすること、これは昔からやってきたことでもあります。  

後輩への伝承に関しては、なし崩しに、行き当たりばったり教えてゆくというのが僕の方針です。   縁のある人には教えてゆく、教えても伝わらないものもあるし、伝承というものはあまり硬く考えてはいないです。   個人の舞台といううものは一代のものですね。次の人が心を受け取って、違う方法で今のお客様に喜んでいただく方法を編み出してゆくのが伝承なんでしょうね。  同じ形ではない。  

歌舞伎以外で演出したり、映画監督したりしていますが、これからはそういった方面の活動をしていきたいと思っています。  今年ジャニーズの舞台では、演劇的でもありミュージカル的でもある、歌を歌い一つのショーですね。   舞台は辞めようかとの思いはあります。   作る方に回りたいと思っています。   




















































 



























2023年4月1日土曜日

朝井まかて(作家)           ・「好き」を貫く~私と牧野富太郎~

朝井まかて(作家)           ・「好き」を貫く~私と牧野富太郎~ 

NHKの朝の連続テレビ小説は明後日から「らんまん」が始まります。   主人公は植物学者の牧野富太郎ですが、朝井まかてさんは去年、この牧野富太郎の生涯を描いた小説「ボタニカ」を発表しました。  朝井さんは1959年大阪出身、大学を卒業後広告会社に勤めますが、2008年『実さえ花さえ』で作家としてデビュー、2013年には『恋歌』で直木賞を受賞します。  以降数々の時代小説を描き「ぬけまいる」「眩(くらら」などもNHKでドラマ化されました。  「ボタニカ」は日本の植物学のと呼ばれる牧野富太郎を描いています。    幕末の土佐に生まれた牧野富太郎は江戸時代に発展した中国由来の植物学「本草学」を学び、植物の魅力に取りつかれます。   小学校を中退すると、本格的な植物学を志して、22歳で上京、当時の帝国大学の植物学教室に出入りするようになり、標本の収集と分類、日本独自の植物図鑑の発行に情熱を燃やしていきます。  富太郎が生涯に収集した標本は40万点にも及び、命名した植物は1500種にのぼると言われています。 時代の変革期を駆けぬいた若者を描きたかったという朝井まかてさんに伺いました。 

或る編集者から牧野富太郎って知っていますかと聞かれて、有名な人なので「知っています」と憮然とはなりました。  小学生の時に偉人伝で出会っていました。  彼は高知県出身で「牧野富太郎を書いてみませんか」と言われました。  富太郎もそうですが、私も気が付いたら植物のことが好き本も好きでした。  連載するときに、調べながら書く、書きながら調べるという事をしてきました。  しかし、途中でこういう主人公を読者は受け入れてくれるのかどうか、不安な思いがしましたが、書きがいがありました。   

牧野富太郎は土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。   佐川小学校を2年で中退しているが、学問の歴史は凄いんです。  藩校の教育は深くて厚かったので幼いころからたっぷり蓄えていた。  小学校に入っても知ってることばっかりで、小学校を辞めた後は今度は教師できてくれと言われる。自然も好きだったが、人間も好きだった。   周囲からは自己中心主義に見えるが、そうでないと「好き」は貫けないし、本人は何とかなるだろと思っている。   両親を早くなくしているので親の味を知らない。  祖母に育てられる。  押さえつけられずに育った。  本屋さんからたくさんの本を富太郎のために買い込んだりしている。  知的好奇心は幼いころから自然のなかで過ごす事が多いと育つと発達心理学で言われている。植物に話しかけ、植物が答える、聞こえていたんだろうなあと思います。   近くの神社に梅花黄蓮の群落があったらしい。  そこで会話をしている。

幕末から明治初期にかけての若者はスケールの大きな人が各界に多いような気がします。 新しい国を作るという事については植物学者、文学者、政治家も志を持って生きた時代だなあと思います。   富太郎はいくつになってもにぎやかな自然児なんです。  研究には緻密で多面体の人ですね。  日本全国に富太郎のファンがいて、珍しものがあると送ってくるわけです。   無名な人たちの助力があって40万点もの標本があるわけです。   借金が溜まってきて標本を手放さなければいけないという危機的な場面があるが、助けてくれる人が現れる。  娘の嫁入り支度の資金を前借するが、それも本につぎ込んでしまう。 

最初の奥さんが「猶(なお)」、いとこ同士。  調べた限りの「猶(なお)」さんの像を描きました。 「猶(なお)」は幼いころからの知り合いで、祖母が結婚を薦め、祖母と共に支える人だった。      東京で可愛い少女と出会います。  自分が初めて守りたいと思った、それは恋です。  猶(なお)」さんへの支持が非常にあったのは嬉しかったです。  

2008年『実さえ花さえ』で作家としてデビュー。  江戸時代大変な園芸ブームがあり、いろんな花を品種改良して作る技術があって、それは世界一だったと思います。   小説を書きたいという思いと一致して書くことになりました。  染井吉野に興味を持ったことがあり、デビュー作に盛り込みました。  ふで、くさに関しても書いていてしゃべったりします。   作品は作者のものではないことは確かです。  読者がどう読んでくださるか。 同じ作品でも10代で読むのと50代で読むのとでは全然違います。  作品と読者は一対一なんです。   時代小説は資料を沢山当たることで大変さはありますが、でも楽しいです。  資料はたくさん買います。   

植物図鑑の功績は非常に大きいですが、学問の楽しさを一般の人に広めたことも大きな功績だと思います。  目先のことではなく、100年後役に立たないかもしれないけれど、一生懸命夢中になってやっていることが、私にとっては魅力的です。  日本では今、直ぐに成果を求められるから、優秀な人が海外に出て行ってしまう。    江戸時代から来た学問と西洋から来た学問がぶつかりあった時代に富太郎は両方をシャッフルしているし、学んでいる。   富太郎は94歳まで生きました。  デビューして15年ですが、こういうものが受けるだろうという事では書けないです。  書くことで、結果苦しむことがあっても書くことでしか乗り越える事は出来ない。  だから書き続けるしかない。