2015年11月7日土曜日

佐竹節夫(コウノトリ湿地ネット代表)  ・コウノトリが豊岡を変えた!

佐竹節夫(コウノトリ湿地ネット代表)  ・コウノトリが豊岡を変えた!
66歳兵庫県豊岡市にある市民団体コウノトリ湿地ネット代表です。
豊岡市役所に務めていた1990年人事異動で総務課から豊岡市教育委員会文化係長になり、コウノトリの保護増殖事業を担当する事になりました。
平成11年にオープンした県立コウノトリの里公園の建設を県に働き掛け、平成17年日本初の放鳥にも貢献しました。
平成20年に退職して、コウノトリ湿地ネットを設立、豊岡市の委託を受けコウノトリのえさ場となっているハチゴロウの豊島湿地を管理し、コウノトリの住む環境を整え守る活動をしています。
今年は野生復帰から10年、野生のコウノトリは豊岡市を中心に全国で80羽あまりになりました。

汽水域 海まで意図的に繋げる水路を造ったので海水が混じった汽水域なのでいろんな魚が入り易くしました。
コウノトリが食べやすい様に水深も調整できるようにしました。
身長は1.15mあるので日本でも最大級の鳥で、羽根を広げると2mにもなります。
くちばしがまっすぐで長くて大きい。
繁殖期は春で、3月に卵を産んで、4月に雛がかえって2カ月で大きくして巣立ちが6月、親子で飛び方を教えたり教育します。
7月から8月に子育てが終わり、子供は親の縄張りから出ていかなければ行けなくて、秋には一服して、夫婦で絆を確かめあうような時期です。
豊岡では野生のコウノトリが今年新たに14羽生まれ、全部で全国では90羽越えたと思います。
豊岡では50~60羽います。

1990年人事異動で総務課から豊岡市教育委員会文化係長になり、コウノトリの保護増殖事業を担当する事になりました。
最初コウノトリには関心は無かったです。
文化財の保護等の一環としてコウノトリを保護増殖の仕事もあった。
どんどんコウノトリの魅力に染まっていってのめり込んでいってしまいました。
飼育所に泊りこんだり、夜も昼も休みなく一気に入ったと言う感じです。
かつては日本の各地青森から九州までいたらしいのですが、江戸末期が一番沢山いて、明治維新で近代国家になり、経済優先で生き物が排除され、20年ちょっとぐらいでほとんどいなくなってしまった。
乱獲時期に豊岡市では明治37年からコウノトリ保護をやっている。
大正14年には鶴山が日本の天然記念物になる。
昭和9年に20つがいいました。
戦争が始まる頃には少なくなって、戦後昭和25年には2つがいしかいなかったという報告がある。
昭和30年以降、剥製からDNAが検出され、最後の12羽の個体が残っているが、その剥製から検出された遺伝子は皆同じでした。

野生動物が絶滅に至る最後の段階は孤立した小集団に陥ると、近親婚を繰り返すしかなく、抵抗力が亡くなり、絶熱してしまった。
山から雨水が降りてくると小川に行って、田んぼに入って行って川に流れて行って、水で繋がってていて、産卵するころはたんぼにはいっていって、稚魚が育って川には言って行って豊かだったが、昭和30年代後半米の生産性を良くするために水のつながりがなくなり、田んぼが大きくなり孤立し、農薬を使って、機械を使って、生き物はほとんど住めなくなってしまった。
コウノトリは肉食で大飯ぐらいで、小さい亀でも、ナマズ、ミミズ、トンボ、ネズミ、カエルでも何でも食べる。
1日400~500g どじょうで70~80匹相当する量をたべる。
1971年昭和46年に豊岡市の最後の野生の一羽が死亡してしまう。
人工飼育で細々とやっていて9羽になり、旧ソ連から野生の鳥を6羽貰って、1組が平成元年に繁殖して25年ぶりに雛が初めて生まれた。
コウノトリを守る施設も必要だという事になり、推進するためにやろうという事で始める。

コウノトリの生息地を作ってゆく必要があり、農薬を使わない農業を考えてゆくということだが、とっても無理なことだったが、その中のの一部の人が環境を考えようというぐるーぷがでてきて、あいがもに雑草を食べてもらう、無農薬農業を始めて、行政もサポートして、グループ化ができてきて、JAと行政、農家グループの三者の連携ができたことが一番大きかったと思います。
いろいろ議論して生まれたのがコウノトリ育む農法。
川から魚が移動できるように水田魚道という階段を作りました。
東北の人達が冬にも水を張れば雁がそこにも住めるというし、餌にもなるとう冬水田んぼに取り組んだのをこちらにも取りよせてそういう農業を始めました。
休耕田、放棄田を利用して水を張ってコウノトリのえさ場になる様なものにもしました。
コウノトリは害鳥だったので、大多数が反対だったが、一気に変わったわけではなく、或る老人日本を見せられて、こういう農業をするとホタルやどじょうが帰ってきて稲も元気になる、けのうになるとかいてあって、わしはそういう農業をしたいがそのように出来ないので、まず役所でやってくれないだろうかという事で、そういう本物の農業をやりたい人が何人かいるんだと判った。
その人を核にしてやればできるのではないかと思った。

2002年8月54日に野生のコウノトリが来た、それで「ハチゴロウ」と呼ぶ。
それを見た人達は凄い感動が生まれた。
コウノトリは有害だと言われたが、いろいろ教えてもらって調査の結果、有害とはいえないことがわかった。
平成17年春ごろからここの場所に降りてきて、土地改良が始まっていたが、市役所が間に入って湿地にしましょうと湿地ができました。 「ハチゴロウ湿地」
2005年に初めて5羽放鳥、ようやく野にかえせるという事と何千人と言う人が来て凄い関心があったのかという事に感動しました。
2007年野生のひなが生まれるが、こんなに早いとはおもわなかった。
2012年に流域一帯がラムサール条約の登録湿地になる。
無農薬農業が始まったと言ってもまだ微々たるものなので、無農薬で2%、育む農法で10数%、無農薬を半分にするというのはまだまだ大変なことです。
今は外にコウノトリは出て行っているので、今後どうネットワークするのかが急がれている問題です。

豊岡市の60羽は田んぼは半分になりもう飽和状態だと思います。
外に広がっているという事はとってもいいことだと思います。
福井県越前市、千葉県野田市でのコウノトリの放鳥があり、コウノトリを育む農法が広がってきていると思います。
韓国にもコウノトリの里公園のコウノトリがいっている。(韓国でも絶滅している)
コウノトリが住める環境は人間にとっても豊かないい環境なんだという事で、農業を本物のにしてゆく人たちがいる、広がって来ているという事で、コウノトリのお陰で豊岡は変わりつつあると言えると思います。



2015年11月6日金曜日

塚本こなみ(樹木医)       ・物言わぬ樹木が教えてくれたこと

塚本こなみ(樹木医 はままつフラワーパーク理事長) ・物言わぬ樹木が教えてくれたこと
1949年静岡県生まれ 結婚相手が造園業で、結婚を機会に植えた樹木を守り育てる緑化の仕事を始めました。
女性として初めて樹木の病気の診断や治療に当たる樹木医の資格を取りました。
1994年には栃木県のあしかがフラワーパークで移植は不可能とされた、幹の太さが1m以上ある藤の移植に成功、その後あしかがフラワーパークは藤のガーデンとして年間入場者数が100万人に達する迄になりました。
塚本さんは現在静岡県のはままつフラワーパークの経営を任されています。
世界一美しい桜とチューリップの庭園をキャッチフレーズに魅力ある庭園作りに取り組んでいます。
言葉を話さない木や花から生きる力を貰っているとおっしゃる塚本さんに伺います。

樹木全体の形、先端枯れが無いとか、幹にむろが無いかとか、虫が無いかとか、まず見えるものから目視をして、原因が判断できる場合はいいのですが、そうでない場合は土を試し掘りして、土の中の根の様子を見たり、土の中から病原菌、腐朽菌が出てきたりして、きのこ等が付いているのを見たり、環境とか(踏まれて土が硬くなる)、樹木が弱る原因はいろんな事があります。
1km先に道路ができた、河川改修、マンションができたという事で木が弱ることがあるが、地下水道が変わって、水が届かなくなってしまったりする。
診断は幅広く見る必要がある。
20代前半でこの世界に入って、環境が悪いのに土壌改良をしないで植えざるを得ない時もあり、枯れるのではないかという危惧を持ちながら植えてゆく場面とかあるが、先祖から譲り受けている樹木が元気が無いので見てほしいとか、移植してほしいとかあり、どうすれば元気になれるのか、どうしたらうまく移植ができるのかなどの場面がいろいろあり、木にかかわるようになった。
造園業はほぼ男性社会でした。(今は少しずつ変化)

栃木県あしかがフラワーパークの藤の移植
幹周り3.65m 棚面積 1本で600平方m それを20km運びたいとの要請だった。
大学や、造園業何十社に相談したがどこも引き受け手がなくて、移植してくれるところがなくて4年間放置されていて、電話があり依頼があった。(樹木医を始めて1年3カ月の時)
藤の木を見に行って、素晴らしい生命力を感じた。
これは動くと感じて、引き受けることにした。
文献を調べたら、或る本から藤の移植は容易である、長い根があるから長い根を切らずに掘り上げ、土は根には付けられないから土はふるって落として、わらとかこもでまいて2月の末にやれば移植は可能である、しかし藤の移植は直径60cmまでであると付け加えてあった。
明治時代の文献だったので、今は重機等があるので、直径1mなので何とかなるのではないかと思った。
棚面積600平方mのものを300平方mに切りつめ、トレーラーに合わせて16mの直径に根をきって引っ越し用の新しい根を作る作業をした。
切り詰めた枝から5~6.m腐りが入って、一夏過ぎてから枝が落ちてしまった。
藤は木ではなく草に近いものだと思った。
幹を傷つけてはいけないので、どうやって吊りあげるかが問題となる。
幹の養生をどうするか、吊りあげをどうするかが課題で悩んで悩みぬいた。
300平方mに切りつめ枝を、さらにトレーラーの12×6mの大きさに切り詰めねばならず、運ぶ1か月前に気が付いたのが、幹に石膏包帯を巻いてギブスを作る方法を考えた。
直径1mある幹に石膏包帯を巻いてギブスをして、その上にベルトをかけてベルトを鉄骨に固定して、鉄骨をクレーンでつり上げる方法で行った。
土壌改良をして根が直ぐに活着して、根から吸いあがった水で新しい蔓が伸びるようにしてやると、そこで腐りが止まるので、早く元気な蔓を出させることが腐りを止める方法です。

腐ったところは全ての薬でだめだったが、最後に炭の液を考え、木材を被膜して保護して腐りを遅くするのではないかと考え、実行したが駄目だった。
周りに相談したが、腐りは止まらないとの事だった。
体力を付けさせると、どんどん腐りが収まってくる。
腐りとの境目に防御層ができてくるが、人間ではかさぶたができてきてそれを取ると駄目なので、藤のその境が明確になったのが5年目だった。
藤が教えてくれたと大騒ぎした。
足利フラワーパークの再建
まずは市場調査(同業他社)を行った。
ピンポイントでチラシを群馬県藤岡市、埼玉県春日部市、東京亀戸天神周辺等、藤の名所3か所に「あしかがフラワーパーク 世界一の藤のガーデン」という内容で配布し、挑戦状の様な感じで、却ってその名所の方の車が増えて見学者が増えました。
藤が美しくなるまでには年月がかかり、72平方m→工事中200平方m→翌年300平方m→園長就任時には500平方mになっていた。(運営も戦略を立ててうまく行った)
あしかがフラワーパークからは色々な事を学ばせてもらった。

はままつフラワーパークの運営責任者に成る。
担当者からこのパークにはこんなにいっぱい種類があるとの説明を受けたが、一杯種類があるのは何にもないと同じ事だと言って、これしかないというのを作りなさいと言ったら、桜1300本とチューリップで呼びたいという事で、チューリップ10万球だったものを1年目に30万球にして日本一美しい桜とチューリップの庭園を目指そうという事にした。(方針と目的を明確にする)
1年目で30万人呼ぶ目標を立てた。
通年800円だったが、3~6月に65~70%入場者数がおり、7、8、9月は2%なので無料にする。
10~2月も実質的に無料、3~6月は600~1000円の変動料金制にする。
はままつフラワーパークは公立の植物園なので、議会にかけて条例を変えてもらって、変動料金制を導入した。
あしかがフラワーパークは100万人になり、はままつフラワーパークは1年目30万人目標に対して40万人(黒字化する)、昨年は77万人入りました。
チューリップは50万球、桜は1300本と両方あるのはどこにもない、世界一を目指す。

「樹恩」という言葉をやっと今、自分の言葉としていろんな風に発信をするようになりました。
50年60年しか生きてこなかった私が大自然の樹木を治療してもいいのかという思いがあった。
大きな樹木を前にしていつも感じるのは自分の未熟さしか感じない。
樹木医に成って23年経ちましたが、ちょっと木の気持ちを少し理解出来、木をどうしたらいいのか等沢山の学びをさせて頂き、初めて「樹恩」と言う本当の意味と言葉の重みを感じながら使えるようになりました。
手紙等の最後に「樹恩」という言葉で結びを出来るようになりました。
人生は一本の線ではない、一日と言う点である、その点が365日打ってゆくと1年という線になり、10年20年となり、人生は一日という点をどれだけしっかりした点を打ってゆくか、一日という点を打ち続けることが人生だと思っています。
線だと思うと惰性で行ってしまうので、次の日は又新しく生まれて一日と言う人生を過ごす。

海外に藤を植えるプロジェクトが進んでいます、私は藤に会うためにこの世に生まれてきたのかと思うほど藤を愛しています。
園芸療法 
植物の成長過程を自分の喜びとしていって、自分の心が整う。
はままつフラワーパークで園芸療法を越えて園芸福祉までやっていきたい。
引きこもりの人たちが3人来てくれて、就職が決まったり、はままつフラワーパークで働きたいという人が来てくれた。
時間はかかるかもしれないが技術を身に付けながら、職人さんになってくれればいいと思っています。
園芸療法は自分が手を掛け心をかけたものが花を咲かせる、その喜びを感じて、お客様が見て人様が喜んでくれて、その喜んでくださることが自分の自信につながり、生きてゆく力になる。
はままつフラワーパークで園芸療法をやっていただいて、心が整ったところで社会に出て頂く、そういう場所にならなければいけないと思います、それが一番やりたいことかも知れません。











2015年11月5日木曜日

桜井邦朋(宇宙物理学者)      ・果てしない宇宙と太陽の魅力を語る

*明日から2日間、少旅行に出かけますので、2日間休みます。

桜井邦朋(宇宙物理学者 元神奈川大学学長) ・果てしない宇宙と太陽の魅力を語る
1933年昭和8年埼玉県の生まれ 農家の長男として生まれた桜井さんは、小学生のころから学校から帰ると家畜の世話をしたり農作業の手伝いをしたりして、将来は農家の後継ぎになることを考えていました。
宇宙物理学者となった第一歩は高校二年の時に担任の先生が父親に、桜井さんの大学進学を勧めたのがきっかけでした、。
その後京都大学大学院地球物理学博士課程終了後、工学部助手、助教授を経て、アメリカ航空宇宙局NASAの主任研究員として、太陽の高エネルギーの研究に携わります。
桜井さんは物質を作る最少粒子、素粒子の一種、ニュートリノの数と太陽の黒点の数が関連していることを発見し、「桜井の周期性」として宇宙物理学の世界に名を知られています。
82歳の今も早稲田大学理工学術院総合研究所で宇宙誕生と進化の謎を解き明かす研究を続けています。

天の川の端から端まで10万光年掛かる。
天の川銀河は1000億個有る銀河の一つに過ぎない。
太陽から地球までの光は8分14秒しかかからない。
海王星までは 1時間ぐらい
宇宙の端は現在判らない。
ハッブルが調べてみたら、銀河が遠ざかっている事を見つけて、同じ割合で宇宙はあらゆる方向に遠ざかっている事を発見した。(宇宙は膨張している)
宇宙は大爆発をして広がってゆくと考えたのがジョージ・ガモフ。
宇宙の膨張には始まりがあり、宇宙は拡大してゆくという宇宙膨張論。

フレッド・ホイル、ヘルマン・ボンディ、トーマス・ゴールドの3人は宇宙は膨張するけれども、同じ状態を保っていて、広がった分に100年に1個陽子(水素原子)が誕生して埋め合わせて、宇宙は一定の密度を保ちながら膨張している、絶えざる創造という考え方で、定常宇宙論(1950年前後)を唱えたが、1946年にガモフは宇宙には始まりがあったのではないかと、その結果膨張が起きていると唱えた。
当時は多くの人はそんなことがあったとは思えないと考えていた。
ホイルはからかうつもりでビックバン宇宙論という名を付けた。
1912,3年ごろ、ハーバード大学のヘンリエッタ・スワン・リービット(女性)が遠いところの銀河までの距離を丹念に観察して或る規則が判って、宇宙の姿が判るようになったが、彼女はノーベル賞を貰えなかった。

ニュートリノを作るのが太陽の中心部で、水素原子核4個からヘリウムを作り出すが、その時に0.7%軽くなるが、軽くなったものは太陽を輝かすエネルギーになり、水素は毎秒6億4500万トン位使われている。(水素は減ってくる)
太陽は約50億年経つので中心部は半分ヘリウムになってしまっている。
まだ後50億年は安心していられる。
大量の水素を使っているので大量のニュートリノを生みだし、ほとんど光の速さで宇宙空間に飛びだす。
ニュートリノは身体の中を突き抜けて行っている。
1平方cmの面積を毎秒1000億個通過する。
ニュートリノは3種類あり、
①μニュートリノ ②電子ニュートリノ  ③τニュートリノ(電子ニュートリノの1万倍の重さがある)
レイモンド・デイビスが太陽の中心部でどんなことが起こっているか実験的に明らかにしようとした。
南ダコタ州の金鉱の地下1000mに太陽からやってくるニュートリノを捕まえようと装置を作ったが、ごく一部を捕まえることはできる。
装置は400トン位のパークロロエチレン(四塩化エチレン)という化合物を使って1日に数個位が反応する。

ニュートリノがどんな性質を持っているのか、どんな働きをしているか判れば宇宙の歴史の研究に役に立つ。
今も太陽からやってくるニュートリノの何千倍のエネルギーのニュートリノの観測をしようとアメリカで、南極の地下1000mぐらいに装置を作ってやっています。
あらゆる方向からやってくるので、宇宙の構造はどっちを見ても同じような構造をしている。
宇宙は1点から始まり(インフレーション)、138億年経っている。
太陽系は誕生から約50億年です。
イギリスのダラムにいたオルフェンデル?がセミナーをやるというので、会いたくて手紙を出して、三宅三郎所長と3人で雑談しました。
ニュートリノの地球にやってくる数が増えたり減ったりしているというので、その様に見えると私も思った。
エルニーニョ等も周期的にやってくることがあるので、太陽からやってくるニュートリノの増減も似ていると思ってそれからが研究の始まりだった。

デイビス先生の太陽の黒点数の10年のデータ、変動がかさなっていました。
太陽の周期が11年周期で、その周期に乗かって小さな揺らぎがありそれが26カ月で、デイビス先生のニュートリノの観測結果と合わせると、時間的にそういう変動があり、太陽の中心部で黒点の活動を動かしているのではないかと考えて、細かく調べたら同じように変動が起こっており、論文を書いてネーチャーに投稿したら、駄目だった。
再度作りなおして投稿したがやはりだめだった。
三度目もやったがやはり駄目だった。
癪に障るのでネーチャーの編集長に、レフリーがいる限り私の論文は日の目を見ないのでレフリーを変えてほしいと手紙を書いた。
編集長のジョン・マドックスから手紙が来て、私の判断で貴方の論文を受けるけることにした、1979年3月8日号に載せるつもりだという事で嬉しかった。
ホーボルト?(現在オーストリア国連本部のアウタースペースオフィスのチーフ)という人が「桜井の周期性」と呼びたいとの論文が出されて、「桜井の周期性」という名前が付けられることになった。

父は百姓をやっていて、長男が家の仕事を継ぐという事で思っていたが、牛ヒツジなどの世話をやって来ていたが、高校二年の時にPTAの総会に行った時に担任から大学を受けさせてみろと言われたとの事で、長男だから行ける訳ないだろうと逆に父に言った、或るときやはり行きたいと言ったら、一つだけでしくじったら駄目だと言われた。
大学に受かって、1年、2年は生物学をやっていたが、物理学をやりたいと思ったが地球物理学の研究室に入ることになったが、長谷川万吉先生は私は指導しないよ、研究したいことが見つかったら言ってきなさいと言われた。
今思い返しても有難かったなあと思います。
広野求和という当時の助手の方が、こんな論文を見てくれると言って、いろいろ論文を紹介してくれて、或る本を読んでみないかと言われて、シカゴ大学のカイパーという教授が編集した「THE SUN」という雑誌だった。
100~400km上空は大気がイオン化していて電離層という、電離層の電流のもとは太陽からやってくる紫外線とかX線なので、太陽の変動(フレア等の爆発現象)が地球でどんな現象が起こるか関係があって、太陽-地球関係の研究ができるので、勉強させようと広野求和先生は考えたのではと思います。

本を和訳してノートに細かく書き残した。(この事で理解が深まる)
太陽を研究する事にしたが、長谷川万吉先生からここは地球物理学室だぞと言われたが、お前が決めたのならばとことんやりなさいと言われてその後太陽一筋できました。
アメリカに太陽研究で行く事になる。
日本では1つの論文に何カ月もかかるのに、1年に6,7つもの論文を書きましたし、いろいろな人々と付き合う事が出来、人脈が出来ました。
オックスフォード大学のチャップマンが日本に来た時に、日本風の宿屋で寝起きしたいという事で先生の身の回りの世話をしろと言われて、食べものから箸の使い方、風呂で背中を流すことなどもやって、3週間一緒に過ごしました。
英語の論文を見てもらったら、真っ赤に直された。
チャップマン先生からは将来、或る分野の研究で有名になってエキスパートになったら恩返しをしないといけないと言われた。
「太陽宇宙線の物理学」という400ページの大著でした。
太陽の黒点の周期は11年周期で変化していますが、最近の10年ぐらいは太陽はとっても静かで、昔もあったが、一番有名なのが17世紀半ばから18世紀の約70年間は寒冷期だった。
なつでもテムズ川が凍ってしまった。
無黒点がこのまま続いたら地球も寒冷化してしまうのではないかと思います。
1975年 国際会議でエディーが黒点が無い時代が14世紀、16世紀、19世紀に変わる頃にもあったという話があったが、そんなバカな事があるのかと多くの人が言っていた。
太陽はとんでもない変化をするので謎はいっぱいあります。



















2015年11月4日水曜日

稲田 信(松江市史料編纂室長)  ・「松江城国宝」への長い道のり

稲田 信(松江市史料編纂室長)  ・「松江城国宝」への長い道のり
島根県松江市にある松江城が今年の夏に国宝に指定されました。
現在江戸時代の天守閣が残る城は12か所ありますが、国宝に指定されているのは、姫路城、彦根城、犬山城、松本城で、松江城は5例目の国宝です。
国宝の決め手になったのは城が完成した時に、城が長く栄えることを祈る儀式が行われたことを記す、祈祷札が発見されたことで、松江城は1611年に完成したことが実証されました。
現在松江歴史館でおよそ400年前に墨で書かれた祈祷札が展示されています。
この祈祷札を探し出したのが、松江市資料編纂室のスタッフと室長の稲田さんです。
稲田さんは島根大学で歴史を学んだ郷土史家でもあります。
国宝の指定を目指して資料を収集しているうちに、松江城は町民や市民の力によって守られてきた城である事も判明してきました。
それだけに国宝になった事の喜びも大きいのではないかと稲田さんはお話になります。

夢がかなったことは嬉しく感じます。
観光客もたくさん訪れています。
西先生も御尽力していただきました。
平成22年に松江城の国宝化を目指して、松江城調査研究委員会を作って委員長に西和夫先生に就任していただいて、建物の調査を進めて多くの新しい発見をしました。
松江城は心の中のシンボルだと思っています。
かつて国宝だったが、一旦取り消されて、それからもう一度国宝になるまでに65年掛かった。
昭和25年文化財保護法が出来て、、制度改正によって、それ以前の国宝が重要文化財に成り、
その中からさらに貴重なものが国宝になることになり、松江城は国宝には成らなかった。
12万人位の署名活動をして文化庁に行ったが、叶わなかった。
それ以後地道な新しい発見、国宝にふさわしい情報を研究、調査をする動きに変わっていった。
いつ作られたのか等の実証が必要だった。

3年前に松江城が竣工した時の祈祷札が見つかり、松江城が1611年に出来たことが判った。
城が完成して最後の儀式として行った祈祷札に年号が書いてあり、慶長16年正月吉正日が書いてあって(2枚見つかるが一枚のみ判読可)、完成した時期を特定した重要な資料になった訳です。
城の特徴等も調べ上げた。
柱が二階部分までの通し柱が特徴、又寄せ木柱ではなく木の周りに板を包んだ包み柱であることも特徴となっている。
堀尾吉晴と息子忠氏と共に出雲にやってきて、初代藩主が忠氏だが早く亡くなり、忠晴が幼くて吉晴が助けて、お城、城下町を作ったと言われる。
吉晴はお城を作る名人だったといわれる。
着手してから5年で作った。
松江城を中心にしたところは湿地帯だったといわれ、短期間で行ったことは凄いことだったと思います。

明治になると廃城令が有ったが、松江城は生き残ることができた。
明治8年頃、勝部本右衛門(豪農) 高城権八(旧松江藩士)が松江城が入札にかけられ無くなるところを、入札金額と同じ金額をおさめる事に依って残したといわれる。
当時のお金で180円(今では100万円ぐらい 不要なものと思われていた)と言われる。
いろんな危機があったが、そのたびに多くの人が支えて今日に至っていると思います。
明治25~27年頃に撮影された写真があるが、瓦は落ちているし、周りの板塀は朽ちかけている。
明治27年に松江城の大修理が行われている。
市民が松江城を修理するためにたちあがって、有力者と共に募金をして大改修をおこなった。

祈祷札があった場所の特定が必要だったが、上下に釘穴があり、何かに打ちつけられていたことは判っていたが、証拠を見つけようと松江城の中を調べようと松江城に入って行ったが、最初にあたりを付けた釘穴がぴったり合って、奇跡的だった。
地階にある柱だった。
昭和21年に後の名古屋工業大学学長になられる城戸久先生が松江城の調査をして、その時に2枚の祈祷札を見つけて、貴重なものだと認識されたが、昭和25年~30年にかけて大改修をして、何故か祈祷札の話は全くなくて、昭和40年代になってから論文の中に昭和12年に調査した祈祷札について記載され、写真も一緒に掲載されていた。
私たちは論文に祈祷札が記載されていたことに、初めて判った。
今から3年前に、松江市内の神社、お寺等の古文書を調査していて、松江神社の調査をしていたら祈祷札が見つかった。(本当に嬉しかったし驚きでもあった。)

「ふるさと文庫」 西先生が書かれた本(新しい知見も盛り込み)を文化庁でも読まれて、国宝化に動いて行ったのではないかと思う。
学生時代から古代史をやっていて、地域の歴史を明らかにしてゆくという仕事をずーっとやってきました。
松江は長い歴史の中に位置付けると権力の中枢にあった時期もあり、はるかに他のところと比べて多くのお城が作られていて、明らかにする作業が必要だと思っています。
古代出雲の中心地は松江地域の中にあったと考えたらいいと思います。
松江はまだまだ明らかにできる様な素材は沢山ある場所なので、明らかにしてゆく、多くの皆さんに行っていただく事は大切なことだと思っています。












2015年11月3日火曜日

2015年11月2日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・昭和史を味わう 太平洋戦争の日々(5)(H27/8/2放送)

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・昭和史を味わう 太平洋戦争の日々(5)(H27/8/2放送)
終戦8月15日と9月2日
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/blog-post_2.htmlをご覧ください。
。

2015年11月1日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・第22回 日本国憲法の公布

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・昭和史を味わう 第22回 日本国憲法の公布
昭和22年5月3日 日本国憲法が施行された。 公布 昭和21年11月3日
公布から施行まで半年あるが、憲法は大きく変わったのでどういう風に大きく変わったのかの周知徹底する期間と言える。
大日本帝国憲法のもとで、軍事主導体制で戦争を選択して負けることになり、憲法を変えなければ
新しい時代に即応する国作りができないという事で日本、アメリカのGHQ、双方の動きがあり、幣原(しではら)内閣の国務大臣、松本烝治という人が松本委員会の名のもとに、どういう風に憲法を変えていこうかと考えますが、大日本帝国憲法に則った形を考えます。
マッカーサーと幣原首相の会談では日本に民主主義を要求している。
松本委員会の憲法草案があまりにも大日本帝国憲法を踏襲しているのではないかという事で昭和21年2月1日の毎日新聞がスクープをする。
これを読んだマッカーサー、GHQが激こうする。
模範を作ろうではないかという事で、GHQの将校に2月4日から13日まで作らせる。

東大教授高野岩三郎、鈴木安蔵氏らが作っている憲法研究会の作っている憲法草案はかなり民主的、同時に各政党 自由党、民主党、進歩党、社会党、共産党なども独自に憲法草案を考えるが、松本委員会の草案に対してGHQが反対する。
マッカーサーは3つの原則を憲法に盛らなければいけないという。
①天皇制を象徴にせよ
②戦争放棄
③イギリスの議会政治に似ている様な形の民主政治を確立する条文をいれる。
日本にも同様な考えのグループもあった。(東大教授高野岩三郎、鈴木安蔵氏ら)
GHQの草案とかぶったところもあり、GHQが全部作ったというわけでもなく、アメリカの知恵、日本の知恵が寄り集まって出来たと考えていいと思う。
GHQの民政局が主導権を取って作業を進める。
軍人より弁護士、学者が多かった。 2月4日から14日まで。
女性の参政権、労働者の団体の団結権等が新しく取り入れられた。
日本側にも考えていた人たちがいた。
GHQの案をもとに手直しして、政府案を作るが、マッカーサーも了解して、国会に提案される。
公布 昭和21年11月3日

大日本帝国憲法は明治23年から77,8年続いて、崩壊するが、軍事主導体制で富国強兵のもとでの軍事体制が中心だったが、今度の憲法は非軍事の方向に行く、憲法9条戦争放棄になるがこれが大きな特徴、又臣民を取りはらって市民としていろんな民主的な権利を持っているんだという様な形で民主的権利を認める方向に行った。
この二つが大きな違いです。
平和憲法だというが、非軍事憲法だと思っていて平和憲法にしてゆくためには、努力、時間、エネルギーが必要だと思っている。
平和憲法にしてゆくためには、自分たちの力で獲得していかなければいけないと思います。
昭和21年1月1日 昭和天皇が人間宣言をする。 (神格化はしない 新日本建設に関する詔書)
昭和天皇は新日本建設に関する詔書の最初のところで、五カ条の御誓文について言っていて、私は日本にも民主主義があった、それが五カ条の御誓文で五カ条の御誓文に代表される民主主義の考え方を私は国民に訴えたかったと言っている。

昭和22年5月3日 日本国憲法が施行された。
憲法施行式典での 芦田均 憲法普及会会長の言葉(放送あり)
新しい憲法は紙芝居を作ったり、学校教育では「新しい憲法明るい生活」という冊子を2000万部を作って学校に配布する。 
施行された時は三党連立政権、社会党片山哲首相(社会党右派、クリスチャンで温厚な人)
旧憲法は軍事主導体制で57年間続いて、いまの憲法はそれを教訓にして、68年続いているということは、今の憲法は国の柱といろんなものを教訓としながら出来ているんだなあという気がします。
これをどういう風にするかは次の世代の問題ですから、あれこれ言うのは控えますが、国の柱である以上、そこにかつての人たちのいろんな思いがこもっていたという事は、忘れることは出来ないなあと改めて思いました。