星出 豊(長崎県オペラ協会芸術監督・指揮者) ・長崎からのメッセージ、オペラ「いのち」
1941年生まれ 東京声専音楽学校(現昭和音楽大学)オペラ研究科終了後ドイツに渡り、ニュルンベルク歌劇場副指揮者を経て、「魔弾の射手」でヨーロッパデビューしました。
日本では1971年に「ナブッコ」、82年に「オルレアンの少女」を日本初演しています。
20年以上にっ渡って長崎で被爆した方々を取材して構想をあたため、オペラ「いのち」の台本を書き、2013年に初演して大好評意を博しました。
戦後70年の今年、東京、長崎での再演の思いを伺います。
半年長崎で練習して、最後東京の劇場を借りて練習します。
原爆のことがずーっと頭をよぎっていて、終戦を山口県で過ごして、広島に原爆が落ちた後、トロッコで真黒い焼けたものを姉と一緒に見て、姉が「よく見て、覚えておいてちょうだい」と言われたきりだったが、長崎に30年通っているが、長崎で被爆された方たちに出会うことが多くなって、話を聞き心に響くものがあり、最終的にお婆さんに出会ったときに、昨年96歳で亡くなったが、好きで好きでたまらなかった人がいたが、結婚をあきらめたんです、好きな人にこんな肌を見せることができないでしょうという話を伺って、オペラにしたいと思った。
アメリカが悪い、原爆が悪いというオペラにしないでくださいと言われて、それも感動的だった。
戦争が悪いという事を焦点にするなら、協力しますと言われて、被爆された方を集めてくださって、順次話を聞く事が出来ました。
トロッコを見たのは4歳の時だったが、あの黒いものは人間の遺体だったのかと、後に姉から知らされた。
長崎はお寺の鐘と教会の鐘の音が朝、昼、夕方等に同時に鳴り、そういう町は世界にないと思って物凄く感動した。
オペラが最初に日本で演奏されたのも出島のオランダ館だった。
宗教弾圧もあって、日本人同士でもこんな殺し合いがあったという事で、命の大切さにも触れたかった。
序幕、最後にも祈りをいれているが、亡くなった方たちへの祈りと生きていく命の大切さをしっかり守ってほしいという祈りを掲げた。
その祈りの時の音楽も日本の音楽なのか、キリスト教の音楽なのか思わせる、予告のような感じ。
祈りのところで子供たちが元気よく遊んでいる姿があり、明るく一生懸命生きているのが子供だと思うので、平和を感じてもらえればいいと思った。
主役は看護師さん(夏子)、被爆をしている。
松尾先生は松尾先生の師匠である山田先生と葛藤しながら、医者の生きる道の本筋があるはずだという様な事をやりながら、松尾先生は夏子さんとの恋に陥り、結婚をしてほしいとの話はあるが、自分の肌を好きな人に見せることができなくて断り続ける。
人の愛は、結果は勝つという事で、取材したお婆さんは結婚したかったのにできなかったが、この子には替りに結婚させてあげようと、最後の愛の語りの中で、「私は愛に生きたい」という事で肌を見せることを決心する。
結婚するが、短い命と感じていた夏子は翌年亡くなってしまう。
(山田先生は被爆しているクリスチャン 松尾先生はたまたま被爆を逃れられた仏教を信じている)
先生は患者をおいて、妻を探しに行ってしまうという後悔をするが、先生は被爆して告知され1年もないという状況で先生が必死に寝ずに看病されているのを見ていて、、医者は医者として自分のやるべきことをやるのが医者なんだと、先生との二人の葛藤を1シーンで表してみた。
2015年新国立劇場で行う。(7月)
9月に定期演奏会を長崎で行う。
酷い酷いと言いながらどっかで心がいやされるような美しい旋律が無いと、オペラにはならないと思う。
心の葛藤の中に作曲家に依頼した部分もあるが、かならず救いの音楽を入れてもらう様にした。
作曲は錦かよ子さん。
お婆さんの言葉「自分が結婚できなかったから、海を愛し、自然を愛し、死ぬことも出来ず頑張って生きています。」という言葉が凄く印象的だったので、そのまま言葉を入れさせてもらいました。
息 自らの心 悲しい息をすると涙が出てくる、楽しい息をすると笑える、だから私と一緒に息を吸ってくれますか、といってそれは素晴らしいと言ってくれましたが、その表現がより豊かに表現できるのがオペラだと思っています。
新国立劇場のこけらおとしでも指揮しました。
オペラ「いのち」 被爆手帳をもっている方に是非歌ってもらいたかったので、夏子さんを看撮る医師の役で、やってもらいます。
長崎の後は、外国で出来たらいいと思っています。
2015年8月9日日曜日
2015年8月8日土曜日
岡田尊司(精神科医) ・境界性パーソナリティ障害を乗り越える
岡田尊司(精神科医) ・境界性パーソナリティ障害を乗り越える
境界性パーソナリティ障害は生育期における愛着形成のプロセス等から極端に低い自尊心、見棄てられることへの過敏さ、感情の激しい浮き沈み、薬物乱用などで生きてゆくために自分を傷つけてしまう事を特徴とする症状です。
近年特に若い人に増えているこの症状について、精神科医の岡田さんが障害を正しく理解し、それを乗り越えて本人も周りの人も、生きやすくなる方法についてお話します。
2年ほど前にクリニックを開いてそこで日々診療しています。
境界性パーソナリティ障害について理解を深めてゆくヒントになればいいと思います。
見棄てられることへの敏感な状態、情緒、対人関係の不安定さ、自傷行為、自殺企図に代表されるような自分を損なう行為を特徴とする状態。
自分は生きる価値のない存在なのではないか、というい深い自己否定と同時に自分を認めてほしいという様な愛情飢餓、承認されたいという様な気持がある。
①見棄てられることへの不安
メールで返事が来ないという事に、自分の事はどうでもいいと直ぐ思ってしまう。
助言してくれることに対して、自分は駄目なんだと、自分を否定する方向に受けとめてしまう。
烈しい怒りが生じてくる場合と、何とか認めてほしいという行動になって現れる場合がある。
②気分、対人関係が両極端に変動する。
最高の状態から一気に最低の状態になってしまう。
根底には二分法的認知、全か無か、100点か0点 そういう風な受けとめ方が関係している。
③自己破壊的な行動を繰り返す
自傷行為、自殺企図の様な明らかに自分を壊す行為から間接的に自分を損なう行為もあります。
薬物の乱用、大量飲酒、自分をわざわざ落しめる行為、不特定多数の異性と性行為、非行に走る様なケース。
不安から周囲を結果的にコントロールしてしまうという事も起き易い。
④空虚感や自分への違和感
生きるというあたりまえのこと、自分が何者かという事に確かな感じが持てない。
喜びや信よりも、虚しさ、空虚感、違和感がいつも取り付いている。
⑤乖離とか精神病症状も時折り出現する事がある。
境界性 精神病と神経症の境界 どっちとも言えない様な状態だという事から名付けられたネーミング。
精神病に間違われるような症状だったりする。(又逆の場合もある)
幻聴、被害妄想が多いので、統合失調症と間違われて診断されることもある。
乖離症状は意識や記憶が飛んだり、人格が不連続になる、知らない間に行動してしまう。
⑥強い親へのこだわりをもつ
養育要因が関わってるのではないかという事を示しているともいえる。
否定的な感情が強い、親の事を考えただけでむらむらと怒りがわいて来る場合。
逆に理想化している場合もある。 入れ替わったりする場合もある。
要因
双子の研究によって遺伝要因と環境要因がどのようにかかわっているか、調べることができる。
遺伝要因は0から70%とバラツキがあるが、平均すると40%、環境要因が60%といわれている。
環境要因の中でも養育要因がおおきい。
虐待、幼いころの離別、支配的否定的養育、親の不安定さも要因になりうる。
心的外傷体験 性暴力の被害、戦争体験、突然愛している人を残酷な形で失う、不本意な中絶
挫折体験 優等生だった人が境界性パーソナリティ障害になってしまうのは挫折体験が多い。
関係の根幹である愛着という部分が不安定だ、ということが関係しているのではないかという事が注目されてきている。
愛着というものが境界性パーソナリティ障害を理解する一番のカギだと思っている、と同時に改善、解決につながってゆく一番重要なアプローチになるのではないかと思っている。
愛着
心理学的な絆の様に思われがちだが、もっと深いおおきな、生物学的絆なんです。
オキシトシンというホルモンによって支えられているが、境界性パーソナリティ障害もオキシトシン系の働きが悪いという事が判ってきている。
親との不安定な愛着、そこが巧く行っていないと思われる。
優しさ オキシトシンリッチな状態だと人は優しくなる、寛容になる。
逆だと厳しくなる、過敏になる。
優しくされて育った子供さんはオキシトシン系の働きがいいので、周りの人とか愛する存在に優しくすることができる。
境界性パーソナリティ障害が増加したのは、アメリカでは1950年代、日本では1970年台でドンドン加速している。
働くお母さんが増えた時期からちょっとタイムラグを置いて起きている。
離婚の増加とも連動している。
社会が変わってきているがそれに対するサポートが弱すぎた。
お父さんも子育てにあまり関与しなくなった、父親不在も結構要因だと言われている。
境界性パーソナリティ障害という問題が増えている根底にはこの社会で愛着の崩壊が起きているのではないかと言われている。
愛着 二つに分かれる
①安定型
②不安定型(a抵抗両価型(とらわれ型) b回避型 c混乱型、無秩序型)
a抵抗両価型(とらわれ型)
原因は愛情不足、途中まで愛していたがその人がいなくなったり、その人の愛情が別の人に移ってしまったり、変動の激しい気まぐれな愛情のかけ方、等が要因になっていると思われる。
抵抗両価型(とらわれ型)は不安障害、依存症、過食症、境界性パーソナリティ障害のリスクが上がると言われている。
b回避型(愛着軽視型)
親密な関係を避けようとする、無関心、肝心な問題に向き合う事を避けるのが特徴。
原因は関わり不足、関わっているが本能が乏しい。
主体性を侵害された場合(本人が自分の主体性を発揮する場所が無い、うっとうしい存在)本当の親しみをもった愛情が育たなくなる。
c混乱型、無秩序型
両方(a、b)がいりまじって無秩序になっている様な状態。
虐待のケースが典型的、家庭環境が予測不能なので自分がこういう風な対応で乗り切ろうと、子供にはできない様な状況。
大きくなって統制型に変わってゆく、子供が親をコントロールするようになる。
統制型
イ、親の機嫌をとる、良い子を一生懸命して親を安定させようとする、家庭を平和にしようとする。
ロ、逆に親を暴力とかで困らせる事でコントロールする場合がある。
大人で無秩序型に相当するのが、未解決型、親子の間の未解決な心の傷を生々しく引きずっている、特徴は情緒が不安定で、心の中に強い怒りを抱えている、対人関係も不安定。
境界性パーソナリティ障害はどんなふうに発症するか?
ほとんどのケースは境界性パーソナリティ障害はある時期から発症する。
スイッチを入れているのが何らかのトラウマ体験。
恋人との別れ、家族との離別死別、性暴力、挫折体験などにより、トラウマ的なことが起きて、見棄てられる体験が再現してしまい、発症に至るケースが多い。
愛着を重視するようになったのは、愛着へのアプローチがとても有効だったから。
18歳の少女のケース
覚せい剤の使用で逮捕、自殺企図を繰り返す。
生後20日で母親が置き手紙を置いて行方不明になる。
祖父母が自分の子として育てるが、小学校2年の時に、友達が本当の親ではないだろうと言ってしまって、嘘だろうと言ったが本当だという言葉が返ってきた。
小学校5年の時に母親と再会するが、精神病院で覚せい剤の依存症で入院していた。
交流が生まれるようになるが、頭がよくて、スポーツも活躍していたが、挫折をしたという事で反抗的になり祖父母とも折が合わなくなり、祖父母は母親とそっくりだ、母親のところに行けと言ってしまって、母親との確執がそのまま持ち込まれてしまった。
家出をして母親のところに行ってしまったが、そこからこの子の転落が始まる。
母親には彼氏がいて、この子に手を出してしまうが、庇うのではなく怒りを娘に向けてしまって、追い出してしまって、ドンドン悪い方向に行き覚せい剤の買人の恋人とつかまってしまう。
母親に愛してもらいたかった。
何が正しいかは別にして、本人の気持ちを聞いてあげて下さい、辛さを受けとめてあげて下さいとアドバイスをして段々接し方が変わって行って、本人も落ちついていった。
症状を治すというよりも、愛着を修復するということが、治療のカギを握るんだなあと言う事です。
本人がまだ治療に積極的でなくても、親やパートナーに働きかけることによって改善を期する事が出来る。
愛着を安定化させてゆく鍵をにぎるのが、安全基地、即ちどんな時でも大丈夫と言ってくれる存在。
①安全感を脅かさない。 否定したり、攻撃、非難してはいけない。
②主体性を脅かさない。 本人が決めるべき事を周りが言わない、考える間もなく周りが口出ししない。
③応答性 求めれば答える、求めないことまでとやかく言わない。
④共感性 その人の気持ちを汲んで接する。
愛着が作られるのは生後6カ月から1歳半ぐらいの間です。
愛着を取り戻そうとしているわけですから、赤ん坊を育てなおしている様な覚悟をもって、3年ぐらいかかわるという事です。
大変なことなので、限界設定して、この時間は一生懸命関わるという事が大事だと思います。
最終的には本人自身が乗り越えようという気持ちになって、変わってゆく必要がある。
治ってもいい様にしてやる必要があり、そういう状態を作ってやると、不思議と本人は自分でこの状態を卒業しようと言う気持ちになる。
関連する本を読んだり、日記を付けたり自分を客観的に見る事も役に立ちます。
境界性パーソナリティ障害 二分法的認知ではなく 100点でなくてはだめというのではなく、10点でも少しずつ積み上げてゆく事に価値があるんだという事に受けとめ方を変えてゆく事が大事。
いいところを見つけてゆく。
境界性パーソナリティ障害の本質的な問題の一つに両価型愛着がある。
求めるがゆえに攻撃、拒否をしてしまう。
求めすぎる気持ちがあるのですべてを与えられない事に怒りを感じてしまう。
根底に幼いころに満たされなかったことへの怒りがあり、状況が変わっても怒りが出てしまう。
愛着の現象は総合的なもの、どっちにも恩恵がある、互恵的な関係がある。
人に何かしてあげるという中に、自分もそこで救われてゆくという事が役に立つのではないでしょうか。
身近な存在の助け、安全基地を手に入れた時、綱渡りのような生活を卒業できるんだと思います。
境界性パーソナリティ障害は生育期における愛着形成のプロセス等から極端に低い自尊心、見棄てられることへの過敏さ、感情の激しい浮き沈み、薬物乱用などで生きてゆくために自分を傷つけてしまう事を特徴とする症状です。
近年特に若い人に増えているこの症状について、精神科医の岡田さんが障害を正しく理解し、それを乗り越えて本人も周りの人も、生きやすくなる方法についてお話します。
2年ほど前にクリニックを開いてそこで日々診療しています。
境界性パーソナリティ障害について理解を深めてゆくヒントになればいいと思います。
見棄てられることへの敏感な状態、情緒、対人関係の不安定さ、自傷行為、自殺企図に代表されるような自分を損なう行為を特徴とする状態。
自分は生きる価値のない存在なのではないか、というい深い自己否定と同時に自分を認めてほしいという様な愛情飢餓、承認されたいという様な気持がある。
①見棄てられることへの不安
メールで返事が来ないという事に、自分の事はどうでもいいと直ぐ思ってしまう。
助言してくれることに対して、自分は駄目なんだと、自分を否定する方向に受けとめてしまう。
烈しい怒りが生じてくる場合と、何とか認めてほしいという行動になって現れる場合がある。
②気分、対人関係が両極端に変動する。
最高の状態から一気に最低の状態になってしまう。
根底には二分法的認知、全か無か、100点か0点 そういう風な受けとめ方が関係している。
③自己破壊的な行動を繰り返す
自傷行為、自殺企図の様な明らかに自分を壊す行為から間接的に自分を損なう行為もあります。
薬物の乱用、大量飲酒、自分をわざわざ落しめる行為、不特定多数の異性と性行為、非行に走る様なケース。
不安から周囲を結果的にコントロールしてしまうという事も起き易い。
④空虚感や自分への違和感
生きるというあたりまえのこと、自分が何者かという事に確かな感じが持てない。
喜びや信よりも、虚しさ、空虚感、違和感がいつも取り付いている。
⑤乖離とか精神病症状も時折り出現する事がある。
境界性 精神病と神経症の境界 どっちとも言えない様な状態だという事から名付けられたネーミング。
精神病に間違われるような症状だったりする。(又逆の場合もある)
幻聴、被害妄想が多いので、統合失調症と間違われて診断されることもある。
乖離症状は意識や記憶が飛んだり、人格が不連続になる、知らない間に行動してしまう。
⑥強い親へのこだわりをもつ
養育要因が関わってるのではないかという事を示しているともいえる。
否定的な感情が強い、親の事を考えただけでむらむらと怒りがわいて来る場合。
逆に理想化している場合もある。 入れ替わったりする場合もある。
要因
双子の研究によって遺伝要因と環境要因がどのようにかかわっているか、調べることができる。
遺伝要因は0から70%とバラツキがあるが、平均すると40%、環境要因が60%といわれている。
環境要因の中でも養育要因がおおきい。
虐待、幼いころの離別、支配的否定的養育、親の不安定さも要因になりうる。
心的外傷体験 性暴力の被害、戦争体験、突然愛している人を残酷な形で失う、不本意な中絶
挫折体験 優等生だった人が境界性パーソナリティ障害になってしまうのは挫折体験が多い。
関係の根幹である愛着という部分が不安定だ、ということが関係しているのではないかという事が注目されてきている。
愛着というものが境界性パーソナリティ障害を理解する一番のカギだと思っている、と同時に改善、解決につながってゆく一番重要なアプローチになるのではないかと思っている。
愛着
心理学的な絆の様に思われがちだが、もっと深いおおきな、生物学的絆なんです。
オキシトシンというホルモンによって支えられているが、境界性パーソナリティ障害もオキシトシン系の働きが悪いという事が判ってきている。
親との不安定な愛着、そこが巧く行っていないと思われる。
優しさ オキシトシンリッチな状態だと人は優しくなる、寛容になる。
逆だと厳しくなる、過敏になる。
優しくされて育った子供さんはオキシトシン系の働きがいいので、周りの人とか愛する存在に優しくすることができる。
境界性パーソナリティ障害が増加したのは、アメリカでは1950年代、日本では1970年台でドンドン加速している。
働くお母さんが増えた時期からちょっとタイムラグを置いて起きている。
離婚の増加とも連動している。
社会が変わってきているがそれに対するサポートが弱すぎた。
お父さんも子育てにあまり関与しなくなった、父親不在も結構要因だと言われている。
境界性パーソナリティ障害という問題が増えている根底にはこの社会で愛着の崩壊が起きているのではないかと言われている。
愛着 二つに分かれる
①安定型
②不安定型(a抵抗両価型(とらわれ型) b回避型 c混乱型、無秩序型)
a抵抗両価型(とらわれ型)
原因は愛情不足、途中まで愛していたがその人がいなくなったり、その人の愛情が別の人に移ってしまったり、変動の激しい気まぐれな愛情のかけ方、等が要因になっていると思われる。
抵抗両価型(とらわれ型)は不安障害、依存症、過食症、境界性パーソナリティ障害のリスクが上がると言われている。
b回避型(愛着軽視型)
親密な関係を避けようとする、無関心、肝心な問題に向き合う事を避けるのが特徴。
原因は関わり不足、関わっているが本能が乏しい。
主体性を侵害された場合(本人が自分の主体性を発揮する場所が無い、うっとうしい存在)本当の親しみをもった愛情が育たなくなる。
c混乱型、無秩序型
両方(a、b)がいりまじって無秩序になっている様な状態。
虐待のケースが典型的、家庭環境が予測不能なので自分がこういう風な対応で乗り切ろうと、子供にはできない様な状況。
大きくなって統制型に変わってゆく、子供が親をコントロールするようになる。
統制型
イ、親の機嫌をとる、良い子を一生懸命して親を安定させようとする、家庭を平和にしようとする。
ロ、逆に親を暴力とかで困らせる事でコントロールする場合がある。
大人で無秩序型に相当するのが、未解決型、親子の間の未解決な心の傷を生々しく引きずっている、特徴は情緒が不安定で、心の中に強い怒りを抱えている、対人関係も不安定。
境界性パーソナリティ障害はどんなふうに発症するか?
ほとんどのケースは境界性パーソナリティ障害はある時期から発症する。
スイッチを入れているのが何らかのトラウマ体験。
恋人との別れ、家族との離別死別、性暴力、挫折体験などにより、トラウマ的なことが起きて、見棄てられる体験が再現してしまい、発症に至るケースが多い。
愛着を重視するようになったのは、愛着へのアプローチがとても有効だったから。
18歳の少女のケース
覚せい剤の使用で逮捕、自殺企図を繰り返す。
生後20日で母親が置き手紙を置いて行方不明になる。
祖父母が自分の子として育てるが、小学校2年の時に、友達が本当の親ではないだろうと言ってしまって、嘘だろうと言ったが本当だという言葉が返ってきた。
小学校5年の時に母親と再会するが、精神病院で覚せい剤の依存症で入院していた。
交流が生まれるようになるが、頭がよくて、スポーツも活躍していたが、挫折をしたという事で反抗的になり祖父母とも折が合わなくなり、祖父母は母親とそっくりだ、母親のところに行けと言ってしまって、母親との確執がそのまま持ち込まれてしまった。
家出をして母親のところに行ってしまったが、そこからこの子の転落が始まる。
母親には彼氏がいて、この子に手を出してしまうが、庇うのではなく怒りを娘に向けてしまって、追い出してしまって、ドンドン悪い方向に行き覚せい剤の買人の恋人とつかまってしまう。
母親に愛してもらいたかった。
何が正しいかは別にして、本人の気持ちを聞いてあげて下さい、辛さを受けとめてあげて下さいとアドバイスをして段々接し方が変わって行って、本人も落ちついていった。
症状を治すというよりも、愛着を修復するということが、治療のカギを握るんだなあと言う事です。
本人がまだ治療に積極的でなくても、親やパートナーに働きかけることによって改善を期する事が出来る。
愛着を安定化させてゆく鍵をにぎるのが、安全基地、即ちどんな時でも大丈夫と言ってくれる存在。
①安全感を脅かさない。 否定したり、攻撃、非難してはいけない。
②主体性を脅かさない。 本人が決めるべき事を周りが言わない、考える間もなく周りが口出ししない。
③応答性 求めれば答える、求めないことまでとやかく言わない。
④共感性 その人の気持ちを汲んで接する。
愛着が作られるのは生後6カ月から1歳半ぐらいの間です。
愛着を取り戻そうとしているわけですから、赤ん坊を育てなおしている様な覚悟をもって、3年ぐらいかかわるという事です。
大変なことなので、限界設定して、この時間は一生懸命関わるという事が大事だと思います。
最終的には本人自身が乗り越えようという気持ちになって、変わってゆく必要がある。
治ってもいい様にしてやる必要があり、そういう状態を作ってやると、不思議と本人は自分でこの状態を卒業しようと言う気持ちになる。
関連する本を読んだり、日記を付けたり自分を客観的に見る事も役に立ちます。
境界性パーソナリティ障害 二分法的認知ではなく 100点でなくてはだめというのではなく、10点でも少しずつ積み上げてゆく事に価値があるんだという事に受けとめ方を変えてゆく事が大事。
いいところを見つけてゆく。
境界性パーソナリティ障害の本質的な問題の一つに両価型愛着がある。
求めるがゆえに攻撃、拒否をしてしまう。
求めすぎる気持ちがあるのですべてを与えられない事に怒りを感じてしまう。
根底に幼いころに満たされなかったことへの怒りがあり、状況が変わっても怒りが出てしまう。
愛着の現象は総合的なもの、どっちにも恩恵がある、互恵的な関係がある。
人に何かしてあげるという中に、自分もそこで救われてゆくという事が役に立つのではないでしょうか。
身近な存在の助け、安全基地を手に入れた時、綱渡りのような生活を卒業できるんだと思います。
2015年8月7日金曜日
原田眞人(映画監督) ・映画に思いを込める
原田眞人(映画監督) ・映画に思いを込める
「日本のいちばん長い日」の監督
静岡県沼津市出身 66歳 子供のころから多くの映画に親しみ、映画評論家として映画の世界に入り、1979年に監督デビュー。
「金融腐蝕列島」(呪縛)、「突入せよ あさま山荘事件」、「クライマーズ・ハイ」、「我が母の記」など様々な話題の映画を作ってきました。
「ラスト・サムライ」では大村という重要な役で俳優としてハリウッドデビューをしています。
今年、「駆込み女と駆出し男」、「日本のいちばん長い日」の二つの大作を続けて発表しています。
高校では柔道をやっていた。
「日本のいちばん長い日」 8月8日から上映。
一番古い映画 5歳のころ見た。 「山がはるかなり」GI姿かっこいいと思った。
中学、高校の頃 日本映画も多く見るようになる。
日本の戦争映画は軍人の芝居が大げさで、ちゃんと映画化したいと思って、宮城事件、玉音盤の取り合いがあったんだと、そういう事実だけでもきっちり描く映画を見てみたいという想いが根本にあった。
戦後50年、60年でも「日本のいちばん長い日」のリメークはなかった。
2年前、東宝が「日本のいちばん長い日」のリメークをするのではないかと、知人に問い合わせたがそのような話はないとの事だった。
映画化権があいていて、2カ月後に松竹からOKが出て、2013年秋にプロデューサー達との話につながり、2013年暮れに脚本を書き始めた。
戦後70年というタイミングになった。
いつも最高傑作になるように丹念に作っているが、今回は本当に自分の中で一番、或る一つのレベルに到達したかなと思う。
「日本のいちばん長い日」 終戦までの4か月の話。
1967年の岡本喜八版は24時間プラスの作品です。
昭和天皇が聖断を下すことができたという背景にある鈴木貫太郎総理の力はすごく大きな物があったと思う。
陸軍大臣に阿南が起用された。
1945年4月に二人がそろう事になるが、これは昭和天皇の意志だと思っていて、昭和天皇が鈴木貫太郎さんにお前しかいないという口説くところから始まって、昭和天皇が玉音放送を聞いている姿で終わる、4か月の話という事になります。
鈴木貫太郎総理、陸軍大臣阿南、昭和天皇が揃わないと終戦はもっと遅れたという感じはした。
私の父は知覧にいて塹壕を掘っていたので、本土決戦になった場合は一番最初に父親は死んでいたと思う。
昭和天皇の戦争を終わらせた責任を描いている、昭和天皇の意志を汲んで鈴木さんと阿南さんは其れに従って行動した。
阿南さんは高潔な軍人で、、次男(小尉)を戦場で亡くしており、自身も戦場で死にたいとの意志が強かったらしい。
鈴木さんが7年間侍従長だった時の4年間は、阿南さんは侍従武官だったので3人は親しく言葉を交わしていて、お互いの気心も知れている。
最終的にはクーデターが起きてしまうが、判っていたことで、クーデターを起こした畑中少佐たちは自分が育てた息子の様な存在で、一緒になって戦いたいがその気持ちをどこでどう抑えつけて、昭和天皇の聖断に向かっての気持ち通りに和平の道に進むか、魂の相克です。
1967年の岡本喜八版では昭和天皇を前面に出すことは当時できなかったので、今回は人間を描く、人間のつながりを描くには4カ月の話でないといけないと感じました。
軍をなくして国を残したわけですから、そこから平和憲法につながっているわけで、平和憲法を時代が変わったからと言って、いじっていいものかという議論も生まれてくるでしょうし、若い世代が歴史に背を向けてしまった様な人達がもう一回この事を考え直すきっかけになってほしいので、映画を見て分析して今我々がどういう方向に行っていいものだろうかと、真剣に考えてもらいたい。
家は旅館をやっていたので、女中さんが大勢いて、その人たちの戦争体験を聞いている。
映画の世界ではハリウッドスター礼賛で、その二つが同時に入ってきた。
小学校4年ぐらいから洋画、邦画を見始め、高校では大分はまって行った。
段々監督中心の映画を見るようになり、監督になりたいと思う様になる。
1972年にロンドンで半年間暮らし、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学、ニューヨーク大学の映画学科に行きたくて、英語の勉強と、映画(600本以上)を見ることに専念する。
「コンドル」を見て、映画の現場はこうでなければいけないと思う様になる。
ハワード・ホークスが私にとっての心のお師匠さんです。
自分にとっての師匠になる様な存在を求めて、苦労して旅をして会って話を聞いた、そういうプロセスが大事で、若いころそういう事をやっておくと10年、20年経って本当に役にたちます。
1978年 29歳の時に映画監督になる。 「さらば映画の友よ」
19歳の頃の自分を2つのキャラクターに分離させて、セリフは全部覚える映画狂と映画のデータは全部入っているがセリフは覚えない、2人の繋がり、友情と不良少女とのかかわりの話。
映画を作っている人間で英語が判る、ニュアンス判る人間はいないか言う事で、字幕の翻訳も行う。
今まで日本語の字幕には出てこない猥雑な言葉を使った、という事で話題になる。
2003年 「ラスト・サムライ」 大村の役 見てくれは温厚だが実は腹黒い人物がいないという事で私のことを思い起こしてくれて、テストを受けたが緊張して駄目だったが、2度目のオーディションを受けたら受かってしまった。
監督だったらこう撮るのになあと思ってしまったりして、演ずるのは苦手です。
ポツダムの中でのトルーマンとスターリンとの覇権争いで、スターリンを唯一見返せるトルーマンの道具は原爆になってゆくので、原爆を落とす事でアメリカの優位を保ちたいと固まってゆくので、そのプロセスを映画化したいなあと思っています。
終戦4部作をやりたいと思っている。
「日本のいちばん長い日」の監督
静岡県沼津市出身 66歳 子供のころから多くの映画に親しみ、映画評論家として映画の世界に入り、1979年に監督デビュー。
「金融腐蝕列島」(呪縛)、「突入せよ あさま山荘事件」、「クライマーズ・ハイ」、「我が母の記」など様々な話題の映画を作ってきました。
「ラスト・サムライ」では大村という重要な役で俳優としてハリウッドデビューをしています。
今年、「駆込み女と駆出し男」、「日本のいちばん長い日」の二つの大作を続けて発表しています。
高校では柔道をやっていた。
「日本のいちばん長い日」 8月8日から上映。
一番古い映画 5歳のころ見た。 「山がはるかなり」GI姿かっこいいと思った。
中学、高校の頃 日本映画も多く見るようになる。
日本の戦争映画は軍人の芝居が大げさで、ちゃんと映画化したいと思って、宮城事件、玉音盤の取り合いがあったんだと、そういう事実だけでもきっちり描く映画を見てみたいという想いが根本にあった。
戦後50年、60年でも「日本のいちばん長い日」のリメークはなかった。
2年前、東宝が「日本のいちばん長い日」のリメークをするのではないかと、知人に問い合わせたがそのような話はないとの事だった。
映画化権があいていて、2カ月後に松竹からOKが出て、2013年秋にプロデューサー達との話につながり、2013年暮れに脚本を書き始めた。
戦後70年というタイミングになった。
いつも最高傑作になるように丹念に作っているが、今回は本当に自分の中で一番、或る一つのレベルに到達したかなと思う。
「日本のいちばん長い日」 終戦までの4か月の話。
1967年の岡本喜八版は24時間プラスの作品です。
昭和天皇が聖断を下すことができたという背景にある鈴木貫太郎総理の力はすごく大きな物があったと思う。
陸軍大臣に阿南が起用された。
1945年4月に二人がそろう事になるが、これは昭和天皇の意志だと思っていて、昭和天皇が鈴木貫太郎さんにお前しかいないという口説くところから始まって、昭和天皇が玉音放送を聞いている姿で終わる、4か月の話という事になります。
鈴木貫太郎総理、陸軍大臣阿南、昭和天皇が揃わないと終戦はもっと遅れたという感じはした。
私の父は知覧にいて塹壕を掘っていたので、本土決戦になった場合は一番最初に父親は死んでいたと思う。
昭和天皇の戦争を終わらせた責任を描いている、昭和天皇の意志を汲んで鈴木さんと阿南さんは其れに従って行動した。
阿南さんは高潔な軍人で、、次男(小尉)を戦場で亡くしており、自身も戦場で死にたいとの意志が強かったらしい。
鈴木さんが7年間侍従長だった時の4年間は、阿南さんは侍従武官だったので3人は親しく言葉を交わしていて、お互いの気心も知れている。
最終的にはクーデターが起きてしまうが、判っていたことで、クーデターを起こした畑中少佐たちは自分が育てた息子の様な存在で、一緒になって戦いたいがその気持ちをどこでどう抑えつけて、昭和天皇の聖断に向かっての気持ち通りに和平の道に進むか、魂の相克です。
1967年の岡本喜八版では昭和天皇を前面に出すことは当時できなかったので、今回は人間を描く、人間のつながりを描くには4カ月の話でないといけないと感じました。
軍をなくして国を残したわけですから、そこから平和憲法につながっているわけで、平和憲法を時代が変わったからと言って、いじっていいものかという議論も生まれてくるでしょうし、若い世代が歴史に背を向けてしまった様な人達がもう一回この事を考え直すきっかけになってほしいので、映画を見て分析して今我々がどういう方向に行っていいものだろうかと、真剣に考えてもらいたい。
家は旅館をやっていたので、女中さんが大勢いて、その人たちの戦争体験を聞いている。
映画の世界ではハリウッドスター礼賛で、その二つが同時に入ってきた。
小学校4年ぐらいから洋画、邦画を見始め、高校では大分はまって行った。
段々監督中心の映画を見るようになり、監督になりたいと思う様になる。
1972年にロンドンで半年間暮らし、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学、ニューヨーク大学の映画学科に行きたくて、英語の勉強と、映画(600本以上)を見ることに専念する。
「コンドル」を見て、映画の現場はこうでなければいけないと思う様になる。
ハワード・ホークスが私にとっての心のお師匠さんです。
自分にとっての師匠になる様な存在を求めて、苦労して旅をして会って話を聞いた、そういうプロセスが大事で、若いころそういう事をやっておくと10年、20年経って本当に役にたちます。
1978年 29歳の時に映画監督になる。 「さらば映画の友よ」
19歳の頃の自分を2つのキャラクターに分離させて、セリフは全部覚える映画狂と映画のデータは全部入っているがセリフは覚えない、2人の繋がり、友情と不良少女とのかかわりの話。
映画を作っている人間で英語が判る、ニュアンス判る人間はいないか言う事で、字幕の翻訳も行う。
今まで日本語の字幕には出てこない猥雑な言葉を使った、という事で話題になる。
2003年 「ラスト・サムライ」 大村の役 見てくれは温厚だが実は腹黒い人物がいないという事で私のことを思い起こしてくれて、テストを受けたが緊張して駄目だったが、2度目のオーディションを受けたら受かってしまった。
監督だったらこう撮るのになあと思ってしまったりして、演ずるのは苦手です。
ポツダムの中でのトルーマンとスターリンとの覇権争いで、スターリンを唯一見返せるトルーマンの道具は原爆になってゆくので、原爆を落とす事でアメリカの優位を保ちたいと固まってゆくので、そのプロセスを映画化したいなあと思っています。
終戦4部作をやりたいと思っている。
2015年8月6日木曜日
津田久美子(被爆体験伝承者) ・被爆者に代わって語り継ぐ
津田久美子(被爆体験伝承者) ・被爆者に代わって語り継ぐ
被爆者の高齢化が進み、被爆体験を語る直接語る人が少なくなってきています。
広島市では、被爆者から体験や思いを引き継ぎ被爆者に代わって語り継ぐ、被爆体験伝承者の養成を3年前から進めてきました。
伝承者は被爆者から体験を聞いたうえで、話し方の実習をうけるなど3年間の研修を受けたうえで広島市から認定を受けます。
50人いる伝承者の一人、津田さんは58歳 、母が学徒動員で被爆した被爆二世の主婦です。
津田さんが被爆体験伝承者になるまで、被爆二世として被爆体験をどのように伝えようとしているのか伺いました。
寺前妙子さんの被爆体験について話します。(一部)
「現在85歳の寺前さんは、当時中学校の3年生、15歳でした。
学徒動員と言って、戦時中は中学校以上の生徒や学生が戦争に関する仕事に駆り出されていました。
寺前さんもその中の一人で電話の交換手として働いていました。
爆心地から540mの距離です。
6日の朝仕事の交代目で2階の廊下に整列していたときに原爆が落とされました。
フラッシュをたいたようにパッと光り輝き、その後真っ暗闇と成ると同時にドーンと地を揺り動かすような大きな音がしてガラガラと建物が崩れる音があちこちから聞こえました。
寺前さんは建物の下敷きになりました。
最初は一生懸命身体を動かしても、自由にならず、必死で身体を動かしているうちに自由な身になる事が出来ました。」
平和記念公園の中に在る資料館で行っています。
最近は外国人の方もいらっしゃっています。
感想や質問が色々あります。
最初は体験したことが無いので語れるか不安だったが、始めて見ると皆さんが一生懸命聞いてくれますし、伝えなければと言う使命感が芽生えてきて一生懸命やっている状況です。
母は被爆していて、父は8月6日以降に広島市に入っていて被爆しています。(私は被爆二世)
私は大学では福祉関係の事を勉強しました。
仕事は広島県の歴史を編纂する県の機関で3年間働きました。
結婚して3人子供がいます。2人はすでに結婚、父は去年亡くなりました。
母からはほとんど被爆の事は話は聞いていません。
母は姉二人を原爆で亡くしており、嫌な思い出を我が子には話したくなかったのではないでしょうか。(被爆体験の話をするように進めたこともあるが、駄目でした)
最近は少しずつ話をするようになりました。
「母は学徒動員先の印刷工場の朝礼中に被爆しました。
建物の影で有った為か怪我はしませんでした。
先生の指示で郊外の山へゆき小屋へ避難しました。
落ちつかず友達と下に降りるのですが、爆心地から800mで建物疎開作業していた1年生が避難してくる光景に出会います。
皆真黒に焼けた身体で這うようにして歩いてきました。
その時の光景が忘れられないそうです。
翌日自宅に帰る時にほとんど裸で皮膚をたらして歩いている人を見たり、倒れている人から足を引っ張られて水を下さいと言われます。
自宅の建物は焼けおち家族の姿もなく、避難所に行きます。
8日から姉を探しますが、その遺体は焼かれた後で骨も拾うことができなかった。
1週間後父の実家がある山口に家族4人で行くが、もう一人の姉は頭痛倦怠感を訴え、8月末床につき歯ぐきの出血脱毛などの症状が加わり、苦しみ9月7日早朝、呼吸困難になり息を引き取りました。」
被爆体験された方から直接聞ける最後のチャンスなので、聞いていきたいと思います。
母の姉たちに背中を押されるようにして、被爆体験伝承者に応募しました。
1年目は被爆の実相、核の世界情勢、広島市の歴史的状況。
被爆体験された方23人の方の話を一人ひとりお聞きする。
2年目はどの方の被爆体験を証言するか決めて、講話文を考えました。
寺前さんは被爆者になって、負傷して運ばれた時に、学徒動員で建物疎開の方々が「お母さん」と言って亡くなってゆく声を聞いていて、その時の声を皆さんに伝えたいという事だったので、私もそれを引き継いでお話したいと思いました。
母と共通する部分が多かった。
寺前さんは左目を失ったが、自分でも判らないぐらいの状況で、痛みも感じることもなく、パニック状態だった。
3か月後にやっと自分で顔を見たいという事で、見て、左目が無くなり、鼻の上あたりが切り裂かれた状態でショックを受けて、死んだ方が良かったというほど思われたそうです。
3年目は講話の実習。
アナウンサーに来ていただいて、専門的なことを教えてもらい、体験証言者の方々の前で話をして反省、感想をいただきました。
広島市から伝承者としての認定を受ける。(50名)
30~70歳台までいますが、被爆二世は半分ぐらいです。
寺前さんは学徒動員を救済するために、県や国会に出向いて、処遇をよくするために頑張られました。
寺前さんは妹も亡くしており、若い方々が大勢戦争で亡くしているので、二度と戦争はいけない、原爆はいけないと、私たちに訴えています。
戦後70年被爆者も高齢化が進んで、語りたいけど語れない部分があるので、思いを引き継いでやって行きたいと思います。
今後の目標として、
①小さな子どもたちにも被爆体験を伝えていきたいと思います。
絵本を見せながら、戦争はいけない、平和は大切なことなんだと判ってもらえればいいなと思います。
②外国人が多く来ているので、英語で語れることができたらいいと思っています。
英語の文章にして語るという事は難しいが、一つの目標にして頑張りたいと思います。
③戦争の事、平和の事について改めて考えて頂きたいと思います。
④何かどんな小さなことでもいいから、行動をしてもらえたらいいと思います。
(平和について話をする、本を読む、映画を見る、そういう事からきっかけを掴んで、考えて貰えればいいと思います。)
「その後、寺前さんは重症患者として瀬戸内海に浮かぶ金輪島に船で運ばれます。
その時今まで聞いた事のない様な悲しくつらい声を耳にします。
「お母さん」「お母ちゃん」という動員学徒の叫びです。
今の声はどうした声ですかと尋ねると、「むごいことよのう、中学生も女学生も「お母さん」と云いながら死んでいきよるんだ」との事でした。
金輪島に着いてからもやはり「お母さん」「お母ちゃん」と叫びは続き、寺前さんの耳にはその時の悲痛な声が今も深く残っているという事です。
そして今日まで証言を続けてこられたのは、生き残った者のひとりとして、あの時の声を一人でも多くの人に伝えなければという想いがあるからなのです。」
被爆者の高齢化が進み、被爆体験を語る直接語る人が少なくなってきています。
広島市では、被爆者から体験や思いを引き継ぎ被爆者に代わって語り継ぐ、被爆体験伝承者の養成を3年前から進めてきました。
伝承者は被爆者から体験を聞いたうえで、話し方の実習をうけるなど3年間の研修を受けたうえで広島市から認定を受けます。
50人いる伝承者の一人、津田さんは58歳 、母が学徒動員で被爆した被爆二世の主婦です。
津田さんが被爆体験伝承者になるまで、被爆二世として被爆体験をどのように伝えようとしているのか伺いました。
寺前妙子さんの被爆体験について話します。(一部)
「現在85歳の寺前さんは、当時中学校の3年生、15歳でした。
学徒動員と言って、戦時中は中学校以上の生徒や学生が戦争に関する仕事に駆り出されていました。
寺前さんもその中の一人で電話の交換手として働いていました。
爆心地から540mの距離です。
6日の朝仕事の交代目で2階の廊下に整列していたときに原爆が落とされました。
フラッシュをたいたようにパッと光り輝き、その後真っ暗闇と成ると同時にドーンと地を揺り動かすような大きな音がしてガラガラと建物が崩れる音があちこちから聞こえました。
寺前さんは建物の下敷きになりました。
最初は一生懸命身体を動かしても、自由にならず、必死で身体を動かしているうちに自由な身になる事が出来ました。」
平和記念公園の中に在る資料館で行っています。
最近は外国人の方もいらっしゃっています。
感想や質問が色々あります。
最初は体験したことが無いので語れるか不安だったが、始めて見ると皆さんが一生懸命聞いてくれますし、伝えなければと言う使命感が芽生えてきて一生懸命やっている状況です。
母は被爆していて、父は8月6日以降に広島市に入っていて被爆しています。(私は被爆二世)
私は大学では福祉関係の事を勉強しました。
仕事は広島県の歴史を編纂する県の機関で3年間働きました。
結婚して3人子供がいます。2人はすでに結婚、父は去年亡くなりました。
母からはほとんど被爆の事は話は聞いていません。
母は姉二人を原爆で亡くしており、嫌な思い出を我が子には話したくなかったのではないでしょうか。(被爆体験の話をするように進めたこともあるが、駄目でした)
最近は少しずつ話をするようになりました。
「母は学徒動員先の印刷工場の朝礼中に被爆しました。
建物の影で有った為か怪我はしませんでした。
先生の指示で郊外の山へゆき小屋へ避難しました。
落ちつかず友達と下に降りるのですが、爆心地から800mで建物疎開作業していた1年生が避難してくる光景に出会います。
皆真黒に焼けた身体で這うようにして歩いてきました。
その時の光景が忘れられないそうです。
翌日自宅に帰る時にほとんど裸で皮膚をたらして歩いている人を見たり、倒れている人から足を引っ張られて水を下さいと言われます。
自宅の建物は焼けおち家族の姿もなく、避難所に行きます。
8日から姉を探しますが、その遺体は焼かれた後で骨も拾うことができなかった。
1週間後父の実家がある山口に家族4人で行くが、もう一人の姉は頭痛倦怠感を訴え、8月末床につき歯ぐきの出血脱毛などの症状が加わり、苦しみ9月7日早朝、呼吸困難になり息を引き取りました。」
被爆体験された方から直接聞ける最後のチャンスなので、聞いていきたいと思います。
母の姉たちに背中を押されるようにして、被爆体験伝承者に応募しました。
1年目は被爆の実相、核の世界情勢、広島市の歴史的状況。
被爆体験された方23人の方の話を一人ひとりお聞きする。
2年目はどの方の被爆体験を証言するか決めて、講話文を考えました。
寺前さんは被爆者になって、負傷して運ばれた時に、学徒動員で建物疎開の方々が「お母さん」と言って亡くなってゆく声を聞いていて、その時の声を皆さんに伝えたいという事だったので、私もそれを引き継いでお話したいと思いました。
母と共通する部分が多かった。
寺前さんは左目を失ったが、自分でも判らないぐらいの状況で、痛みも感じることもなく、パニック状態だった。
3か月後にやっと自分で顔を見たいという事で、見て、左目が無くなり、鼻の上あたりが切り裂かれた状態でショックを受けて、死んだ方が良かったというほど思われたそうです。
3年目は講話の実習。
アナウンサーに来ていただいて、専門的なことを教えてもらい、体験証言者の方々の前で話をして反省、感想をいただきました。
広島市から伝承者としての認定を受ける。(50名)
30~70歳台までいますが、被爆二世は半分ぐらいです。
寺前さんは学徒動員を救済するために、県や国会に出向いて、処遇をよくするために頑張られました。
寺前さんは妹も亡くしており、若い方々が大勢戦争で亡くしているので、二度と戦争はいけない、原爆はいけないと、私たちに訴えています。
戦後70年被爆者も高齢化が進んで、語りたいけど語れない部分があるので、思いを引き継いでやって行きたいと思います。
今後の目標として、
①小さな子どもたちにも被爆体験を伝えていきたいと思います。
絵本を見せながら、戦争はいけない、平和は大切なことなんだと判ってもらえればいいなと思います。
②外国人が多く来ているので、英語で語れることができたらいいと思っています。
英語の文章にして語るという事は難しいが、一つの目標にして頑張りたいと思います。
③戦争の事、平和の事について改めて考えて頂きたいと思います。
④何かどんな小さなことでもいいから、行動をしてもらえたらいいと思います。
(平和について話をする、本を読む、映画を見る、そういう事からきっかけを掴んで、考えて貰えればいいと思います。)
「その後、寺前さんは重症患者として瀬戸内海に浮かぶ金輪島に船で運ばれます。
その時今まで聞いた事のない様な悲しくつらい声を耳にします。
「お母さん」「お母ちゃん」という動員学徒の叫びです。
今の声はどうした声ですかと尋ねると、「むごいことよのう、中学生も女学生も「お母さん」と云いながら死んでいきよるんだ」との事でした。
金輪島に着いてからもやはり「お母さん」「お母ちゃん」と叫びは続き、寺前さんの耳にはその時の悲痛な声が今も深く残っているという事です。
そして今日まで証言を続けてこられたのは、生き残った者のひとりとして、あの時の声を一人でも多くの人に伝えなければという想いがあるからなのです。」
2015年8月5日水曜日
フィスク・ブレット(英会話教室経営) ・アメリカ人が見た日本空襲
フィスク・ブレット(英会話教室経営) ・アメリカ人が見た日本空襲
42歳 神奈川県小田原市で英会話塾を開いている。
23年前に日本に来た時に、アメリカでは広島、長崎ではかならず触れられるが、日本各地の大空襲はほとんど知られていないことを知って、外国人にもその悲惨さを知ってほしいと、ウェブサイトを立ち上げました。
独学で日本語を勉強し、日本語で本を2冊出しました。
どちらの本も主人公は日本人です。
最初の「潮汐の間」という本ではルソン島で起こった悲劇、「紅蓮の街」では東京大空襲の際、火焔地獄の中を逃げまどう、親子3人の行動を克明に描き、無差別爆撃の惨状を訴えています。
戦争は始まってしまうと理性を失う、だから絶対に起こしてはならない、というフィスク・ブレットさんに伺います。
19歳で日本に来て、2年間大阪で宣教師をやっていた。
アメリカに帰って、大学生になったり、行ったり来たりの時代になった。
95年ぐらいから日本にずーっと住むようになって、神奈川県小田原市で英会話塾を開いている。
「潮汐の間」 2011年に本を出す。
東京に住んでいる牧師一家が空襲にあったんだろうという、その人たちの物語を書くとしたら、自分としたら空襲に詳しくならなければいけないので、空襲に関する本を購入したり、資料館に行ったり、体験者に会ったりして、調査をした。
地上にいた人たちの話は日本語の資料になる。
その悲惨さを知ってほしいと、ウェブサイトを立ち上げました。(英語と日本語)
体験者のインタビューをしてその映像も公開して、英語の字幕をかならず付けるようにしている。
東京大空襲(3月10日)、横浜、名古屋、大坂とか 英語では空白になっていたが、埋めようと思った。
高校の歴史の教科書には広島は出ていたが、大空襲については知らなかった。
焼夷弾に依る空襲もこれだけの被害に及んだのは、驚きでもありショックだった。
体験者の話などを聞いて、夜眠れないような思いだった。
私の誕生日は12月7日 (1972年) 日本だと12月8日(真珠湾攻撃の日) 周りから意識させられた。
歴史好きだったので、色々疑問点などを自分なりに調べた。
日本語は朝5時から単語を覚えたり文法を勉強して、そとへ出て色々話をして、独学をした。
知らない単語はメモをして、翌朝に調べたりした。
「潮汐の間」 (干満の間) 習字は4段です。
漢文、漢詩も読めないといけないので、先生と一緒に漢文、漢詩、日本の古典も読めるように頑張った。(15年前ぐらい)
「紅蓮の街」 空襲に遭った街 紅蓮地獄
炎で隅田川に飛び込んで凍ってしまって亡くなった方がいるので、3月10日に当てはまる。
日本語で本を書く事になる。
疑問が出てくると、実際の歴史を調べるが実際とのギャップがあり、自分にとって歴史を誤魔化すことは最大の罪で、人をだましたり、人を利用してこき使う様な手段になるから、歴史を誤魔化すこと、必要以上に美化する事、隠すことは最大の罪だと思っています。
原爆投下が戦争を早く終わらせるための手段だったのか、避けられなかったのか、色々調べたくなる。(国がそういっているだけとの可能性もあるし)
焼夷弾の空襲も、原爆による被害と同等以上、そこまでの被害があったことは知らなかった。
アメリカ、日本の資料を調べなければいけないと思って、自分が感じさせられた事、歴史と向きあって、感じたことを小説に書いた。
攻撃した側は知らない、知るすべもなかった。
インターネットには全世界から15万人位アクセスがある。
本は私の考え方を書きこんであるが、日本空襲デジタルアーカイブには、ありのままの資料を提供するのが目的なので、それを読んで、ちゃんとした情報のうえで色々判断して考えてほしい。
資料は、サイトを知って、いろいろ調べて祖父の持っていた写真のコーナーを作ってほしいとか、日本人の体験者の生の声を聞いて、映像をそのまま載せているので、一番ありがたい協力です。
戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのかどうか、疑問があった。
いろんな人の話を聞いて、調べることがどんどん広がってしまって、戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのかどうかの原爆の話よりも、一般的な空襲の話が先に始まって、あれだけ大きな被害が出た普通の焼夷弾の空襲も、戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのか、という其れを納得いくまで調べなければいけないと思った。
戦略爆撃思想はいつから考えられ始めたのか、そういうのを考えないとこの結論は出ない。
ライト兄弟の時代から原爆を落とした飛行機の時代まで40年しかない、飛行機の技術の進化は恐ろしいものがある。
B29 作るのに原爆以上の費用がかかった。
施設を爆撃する事から、全国の一般の都市に広がる。
中島飛行場等を狙って行ったが、司令官がルメイに替って、下町などに空襲をするようになった。
もしかして戦争を早く終わらせるためでは無いかもしれないと思ったが、でもそうだったと思った。
アメリカは戦争が始まる前から、空軍の人たちはそうするために、いろいろ研究したり頑張ってきた。
だが戦争が始まってしまうと、ジェット気流とか、予想できない事が生じてしまい、理想だった物が現実とぶつかりあって出来なくなってしまう。
日本人への人種差別だという様な見方もあるが、原爆ができ上った時には、ドイツとの戦争が終わっていて、もっと早くでき上っていればドイツにも落としたと思います。
戦争が始まってしまえば、新しい兵器を落として見る、という程度だった。
アメリカにも、日本にも反省すべきことはたくさんあると思う。
しかし、一番大事なことは戦争を避けること、一度戦争になってしまうと、とんでもない結果がでる。
イラク戦争、当時はブッシュ大統領を信じていたが、共和党の政治家、ブッシュ大統領の弟だって、
兄貴がイラク戦争を起こしたが、イラク戦争は間違いだったとTV等で認めて発言している。
間違いを認めて、頑張れば戦争を避けられると思う。
アメリカにとって必要悪だったとしても、悪は悪。
歴史をよく見て、善いところ、悪いところすべてを受け入れて、今後のために生かす、それが歴史の真の勉強法だと思う。
42歳 神奈川県小田原市で英会話塾を開いている。
23年前に日本に来た時に、アメリカでは広島、長崎ではかならず触れられるが、日本各地の大空襲はほとんど知られていないことを知って、外国人にもその悲惨さを知ってほしいと、ウェブサイトを立ち上げました。
独学で日本語を勉強し、日本語で本を2冊出しました。
どちらの本も主人公は日本人です。
最初の「潮汐の間」という本ではルソン島で起こった悲劇、「紅蓮の街」では東京大空襲の際、火焔地獄の中を逃げまどう、親子3人の行動を克明に描き、無差別爆撃の惨状を訴えています。
戦争は始まってしまうと理性を失う、だから絶対に起こしてはならない、というフィスク・ブレットさんに伺います。
19歳で日本に来て、2年間大阪で宣教師をやっていた。
アメリカに帰って、大学生になったり、行ったり来たりの時代になった。
95年ぐらいから日本にずーっと住むようになって、神奈川県小田原市で英会話塾を開いている。
「潮汐の間」 2011年に本を出す。
東京に住んでいる牧師一家が空襲にあったんだろうという、その人たちの物語を書くとしたら、自分としたら空襲に詳しくならなければいけないので、空襲に関する本を購入したり、資料館に行ったり、体験者に会ったりして、調査をした。
地上にいた人たちの話は日本語の資料になる。
その悲惨さを知ってほしいと、ウェブサイトを立ち上げました。(英語と日本語)
体験者のインタビューをしてその映像も公開して、英語の字幕をかならず付けるようにしている。
東京大空襲(3月10日)、横浜、名古屋、大坂とか 英語では空白になっていたが、埋めようと思った。
高校の歴史の教科書には広島は出ていたが、大空襲については知らなかった。
焼夷弾に依る空襲もこれだけの被害に及んだのは、驚きでもありショックだった。
体験者の話などを聞いて、夜眠れないような思いだった。
私の誕生日は12月7日 (1972年) 日本だと12月8日(真珠湾攻撃の日) 周りから意識させられた。
歴史好きだったので、色々疑問点などを自分なりに調べた。
日本語は朝5時から単語を覚えたり文法を勉強して、そとへ出て色々話をして、独学をした。
知らない単語はメモをして、翌朝に調べたりした。
「潮汐の間」 (干満の間) 習字は4段です。
漢文、漢詩も読めないといけないので、先生と一緒に漢文、漢詩、日本の古典も読めるように頑張った。(15年前ぐらい)
「紅蓮の街」 空襲に遭った街 紅蓮地獄
炎で隅田川に飛び込んで凍ってしまって亡くなった方がいるので、3月10日に当てはまる。
日本語で本を書く事になる。
疑問が出てくると、実際の歴史を調べるが実際とのギャップがあり、自分にとって歴史を誤魔化すことは最大の罪で、人をだましたり、人を利用してこき使う様な手段になるから、歴史を誤魔化すこと、必要以上に美化する事、隠すことは最大の罪だと思っています。
原爆投下が戦争を早く終わらせるための手段だったのか、避けられなかったのか、色々調べたくなる。(国がそういっているだけとの可能性もあるし)
焼夷弾の空襲も、原爆による被害と同等以上、そこまでの被害があったことは知らなかった。
アメリカ、日本の資料を調べなければいけないと思って、自分が感じさせられた事、歴史と向きあって、感じたことを小説に書いた。
攻撃した側は知らない、知るすべもなかった。
インターネットには全世界から15万人位アクセスがある。
本は私の考え方を書きこんであるが、日本空襲デジタルアーカイブには、ありのままの資料を提供するのが目的なので、それを読んで、ちゃんとした情報のうえで色々判断して考えてほしい。
資料は、サイトを知って、いろいろ調べて祖父の持っていた写真のコーナーを作ってほしいとか、日本人の体験者の生の声を聞いて、映像をそのまま載せているので、一番ありがたい協力です。
戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのかどうか、疑問があった。
いろんな人の話を聞いて、調べることがどんどん広がってしまって、戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのかどうかの原爆の話よりも、一般的な空襲の話が先に始まって、あれだけ大きな被害が出た普通の焼夷弾の空襲も、戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのか、という其れを納得いくまで調べなければいけないと思った。
戦略爆撃思想はいつから考えられ始めたのか、そういうのを考えないとこの結論は出ない。
ライト兄弟の時代から原爆を落とした飛行機の時代まで40年しかない、飛行機の技術の進化は恐ろしいものがある。
B29 作るのに原爆以上の費用がかかった。
施設を爆撃する事から、全国の一般の都市に広がる。
中島飛行場等を狙って行ったが、司令官がルメイに替って、下町などに空襲をするようになった。
もしかして戦争を早く終わらせるためでは無いかもしれないと思ったが、でもそうだったと思った。
アメリカは戦争が始まる前から、空軍の人たちはそうするために、いろいろ研究したり頑張ってきた。
だが戦争が始まってしまうと、ジェット気流とか、予想できない事が生じてしまい、理想だった物が現実とぶつかりあって出来なくなってしまう。
日本人への人種差別だという様な見方もあるが、原爆ができ上った時には、ドイツとの戦争が終わっていて、もっと早くでき上っていればドイツにも落としたと思います。
戦争が始まってしまえば、新しい兵器を落として見る、という程度だった。
アメリカにも、日本にも反省すべきことはたくさんあると思う。
しかし、一番大事なことは戦争を避けること、一度戦争になってしまうと、とんでもない結果がでる。
イラク戦争、当時はブッシュ大統領を信じていたが、共和党の政治家、ブッシュ大統領の弟だって、
兄貴がイラク戦争を起こしたが、イラク戦争は間違いだったとTV等で認めて発言している。
間違いを認めて、頑張れば戦争を避けられると思う。
アメリカにとって必要悪だったとしても、悪は悪。
歴史をよく見て、善いところ、悪いところすべてを受け入れて、今後のために生かす、それが歴史の真の勉強法だと思う。
2015年8月2日日曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第19回 太平洋戦争の日々(5)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第19回 太平洋戦争の日々(5)
「終戦8月15日と9月2日」
戦後70年になるが、 玉音放送原版が公表された。
宮内庁の金庫に保存されていた。
昭和天皇が食糧問題について国民に言葉を発した原版も出てきた。(昭和21年5月24日のもの)
9月2日は降伏文書に調印した日
8月14日は第二回御前会議で昭和天皇の聖断によって敗戦を受け入れることを決めた日。
東郷外務大臣が午後11時スイスに向けてポツダム宣言を受け入れることで電報を打った。
8月15日 国民に向けてポツダム宣言を受諾して、戦争を終えることを告げた日。(国内の問題)
国際法的には9月2日と言われている。(国際的には第二次世界大戦が終了した日となる)
半藤一利 著作 「日本のいちばん長い日」
「12月8日と8月15日」の本の中から8月15日の玉音放送の時の状況を事細かに記述している。
私は(保坂)5歳だったので、8月15日の事について記憶はなかった。(父が毎日学校に行く時にゲートルを巻いていたが、父がゲートルを巻かなくなったという事の記憶のみ)
国内でも抵抗運動やら暴動も起きる。
8月9日に満州でソ連が日本に戦線言布告した。
9月2日 東京湾のミズリー号の艦上で、日本政府と日本の軍の代表とが、連合国との間で降伏文書に調印した日。(ポツダム宣言を受け入れる 国際法的に日本の敗戦が正式に決定)
重光葵 日本政府の代表。 梅津美治郎参謀総長が軍の代表
ソ連は9月2日まで軍事行動を続ける。(千島列島の占守島、サハリンの日本統治下にあったところ、北海道にも入ろうとするがアメリカ国務省が阻止する)
8月15日は法的な意味はないという事で、ソ連は軍事行動を起こしていて、北方4島を考える上でいろんな問題として根っこに残っている。
8月15日鈴木貫太郎内閣が総辞職し、東久邇宮盛厚内閣が8月17から10月5日まで行う。
9月9日 東久邇宮盛厚内閣一億総懺悔の施政方針演説
敗戦の説 4つ目 昭和27年4月28日説
サンフランシスコ講和条約が発行して日本が独立を回復した日、一部の学者が主張する論(軍事が負けたのが8月15日 政治が負けたのが昭和27年4月28日)
あまり説得性のない説となっている。
「終戦8月15日と9月2日」
戦後70年になるが、 玉音放送原版が公表された。
宮内庁の金庫に保存されていた。
昭和天皇が食糧問題について国民に言葉を発した原版も出てきた。(昭和21年5月24日のもの)
9月2日は降伏文書に調印した日
8月14日は第二回御前会議で昭和天皇の聖断によって敗戦を受け入れることを決めた日。
東郷外務大臣が午後11時スイスに向けてポツダム宣言を受け入れることで電報を打った。
8月15日 国民に向けてポツダム宣言を受諾して、戦争を終えることを告げた日。(国内の問題)
国際法的には9月2日と言われている。(国際的には第二次世界大戦が終了した日となる)
半藤一利 著作 「日本のいちばん長い日」
「12月8日と8月15日」の本の中から8月15日の玉音放送の時の状況を事細かに記述している。
私は(保坂)5歳だったので、8月15日の事について記憶はなかった。(父が毎日学校に行く時にゲートルを巻いていたが、父がゲートルを巻かなくなったという事の記憶のみ)
国内でも抵抗運動やら暴動も起きる。
8月9日に満州でソ連が日本に戦線言布告した。
9月2日 東京湾のミズリー号の艦上で、日本政府と日本の軍の代表とが、連合国との間で降伏文書に調印した日。(ポツダム宣言を受け入れる 国際法的に日本の敗戦が正式に決定)
重光葵 日本政府の代表。 梅津美治郎参謀総長が軍の代表
ソ連は9月2日まで軍事行動を続ける。(千島列島の占守島、サハリンの日本統治下にあったところ、北海道にも入ろうとするがアメリカ国務省が阻止する)
8月15日は法的な意味はないという事で、ソ連は軍事行動を起こしていて、北方4島を考える上でいろんな問題として根っこに残っている。
8月15日鈴木貫太郎内閣が総辞職し、東久邇宮盛厚内閣が8月17から10月5日まで行う。
9月9日 東久邇宮盛厚内閣一億総懺悔の施政方針演説
敗戦の説 4つ目 昭和27年4月28日説
サンフランシスコ講和条約が発行して日本が独立を回復した日、一部の学者が主張する論(軍事が負けたのが8月15日 政治が負けたのが昭和27年4月28日)
あまり説得性のない説となっている。
2015年8月1日土曜日
白籏史朗(山岳写真家) ・南アルプス~我が永遠の山
白籏史朗(山岳写真家) ・南アルプス~我が永遠の山
昭和8年山梨県大月市生まれ 写真家となってからは、ヒマラヤなど世界の山々をめぐってきましたが、特に山梨の南アルプスの撮影は白籏さんのライフワークと言う事です。
82歳の今に至るまで、60年以上にわたって四季折々の南アルプスを撮影し続けてきました。
私にとって山は心の支えでした。
子供のころから大月の周辺の山で、うさぎ、雉を追いかけ山菜を採って、山を歩いていると楽しかった。
素晴らしい景観、小鳥や獣たちと戯れる事、咲く花、新緑紅葉、そういったものを自分の目で見て楽しめること、自然から離れられないのではないかと思った。
職業として写真を選んだ。
ただ綺麗に撮るだけでは、本当の自然ではないんじゃないかと思って、精神、特質があるのではないかと、それを本当に捉えなければ山の写真と言えないのではないかと考えました。
山の本を一生懸命本を読みました。
山からの心を自分に受け止めないと写真は撮れないのではないかと考えました。
美しくて、かつ山の魂を取りとめなければ、本当の写真ではないと、ようやく気付いた。
朝暗いうちから夜暗くなるまで、夢中になって山を歩きました。
山の写真を撮って食えるかというと自信が無かった。
何とか私が一人前になれたのは、周りに山が好きで叱咤激励してくれるような友達が沢山いたからです。
人が撮らない様な写真を撮りたいと思ったが、なかなか撮れなかった。
「山と渓谷社」という雑誌社があり、アルパインカレンダー 365日山の写真で飾ったものに初めて応募してみました。
1枚でも入ればいいと思ったが、5枚も入ってしまった。
芯のあるものが通っていなければいけないという事に、徐々に徐々に気が付いてきた。
「山と渓谷社」の社長から、ヨーロッパのアルプスを撮らしてみては、という事でただで連れて行ってもらって2カ月いて写真を撮ってきた。
社長はこれだ、これだと言って、それで私だけのカレンダーを作ってくれた。
私の弟子の一人がヨーロッパアルプスを主体に撮っていたが、ヒマラヤに行きたいといって、有名なフランスの登山家ボーガンと一緒に行って亡くなってしまいました。
こういう仕事一生懸命なればなるほど命がかかってくる、私も何回も死んでしまう様な場面に出っ食わしました。(クレバスの宙吊り、雪崩、深雪に埋まる等)
ヨーロッパアルプス、ヒマラヤはかっこいいが、花や新緑、紅葉、海もあり、日本には素晴らしい四季があって、こういうものが全部そろっているのは日本だけです。
時々、撮った写真を見て、こんな写真を撮ったのかと、腕が落ちたのかと思うが、或いは贔屓目に見て自分の見る目が少し変わってよくなったのかと思いもあり、両方だと思っている。
64年やってきて先は短いので、今後は質で補わなくてはいけない時が来たのだと考えます。
質の高いものを撮って行きたいと思います、素晴らしいものを撮って皆さんにお見せしたい。
一生は考えた通りに生きていきたいがそれには自分だけの力だけではできない、かならず周りの人の助力があって出来るんだと、感謝の気持ちを忘れないでいます。
昭和8年山梨県大月市生まれ 写真家となってからは、ヒマラヤなど世界の山々をめぐってきましたが、特に山梨の南アルプスの撮影は白籏さんのライフワークと言う事です。
82歳の今に至るまで、60年以上にわたって四季折々の南アルプスを撮影し続けてきました。
私にとって山は心の支えでした。
子供のころから大月の周辺の山で、うさぎ、雉を追いかけ山菜を採って、山を歩いていると楽しかった。
素晴らしい景観、小鳥や獣たちと戯れる事、咲く花、新緑紅葉、そういったものを自分の目で見て楽しめること、自然から離れられないのではないかと思った。
職業として写真を選んだ。
ただ綺麗に撮るだけでは、本当の自然ではないんじゃないかと思って、精神、特質があるのではないかと、それを本当に捉えなければ山の写真と言えないのではないかと考えました。
山の本を一生懸命本を読みました。
山からの心を自分に受け止めないと写真は撮れないのではないかと考えました。
美しくて、かつ山の魂を取りとめなければ、本当の写真ではないと、ようやく気付いた。
朝暗いうちから夜暗くなるまで、夢中になって山を歩きました。
山の写真を撮って食えるかというと自信が無かった。
何とか私が一人前になれたのは、周りに山が好きで叱咤激励してくれるような友達が沢山いたからです。
人が撮らない様な写真を撮りたいと思ったが、なかなか撮れなかった。
「山と渓谷社」という雑誌社があり、アルパインカレンダー 365日山の写真で飾ったものに初めて応募してみました。
1枚でも入ればいいと思ったが、5枚も入ってしまった。
芯のあるものが通っていなければいけないという事に、徐々に徐々に気が付いてきた。
「山と渓谷社」の社長から、ヨーロッパのアルプスを撮らしてみては、という事でただで連れて行ってもらって2カ月いて写真を撮ってきた。
社長はこれだ、これだと言って、それで私だけのカレンダーを作ってくれた。
私の弟子の一人がヨーロッパアルプスを主体に撮っていたが、ヒマラヤに行きたいといって、有名なフランスの登山家ボーガンと一緒に行って亡くなってしまいました。
こういう仕事一生懸命なればなるほど命がかかってくる、私も何回も死んでしまう様な場面に出っ食わしました。(クレバスの宙吊り、雪崩、深雪に埋まる等)
ヨーロッパアルプス、ヒマラヤはかっこいいが、花や新緑、紅葉、海もあり、日本には素晴らしい四季があって、こういうものが全部そろっているのは日本だけです。
時々、撮った写真を見て、こんな写真を撮ったのかと、腕が落ちたのかと思うが、或いは贔屓目に見て自分の見る目が少し変わってよくなったのかと思いもあり、両方だと思っている。
64年やってきて先は短いので、今後は質で補わなくてはいけない時が来たのだと考えます。
質の高いものを撮って行きたいと思います、素晴らしいものを撮って皆さんにお見せしたい。
一生は考えた通りに生きていきたいがそれには自分だけの力だけではできない、かならず周りの人の助力があって出来るんだと、感謝の気持ちを忘れないでいます。
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