佐藤芳之(食品会社社長) ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)
アフリカに渡って50年以上が過ぎる。
日本とアフリカの文化の違いを表す言葉として、「言葉は風」と著作本にあるが、どういう意味か?
言葉は空気 昨日言った言葉はもういまどこにもない。
今話している言葉が本当なんだと言われた。 彼等は嘘が巧い。
武士に二言は無いというのと正反対。
書面契約がお互いの縛りになるので、言葉は縛られない。
ここはビジネスでは嘘を嘘ととらえないような姿勢が必要。
私としては自然に入れた。
私が雇った運転手には兄弟が50人近くいる。 母親は3人 一夫多妻制。
日本では考えられない様な兄弟が沢山いたりする。
会社でごみを掃除しないで、移動したりするだけとか、意表を突かれるような違いはあったが、こうやったほうがいいと言ったり、やったりしているうちに、すこしづつ変わってゆく。
共有体験、共有感覚を持ってものをやるんだという事、これは物凄く当たり前のこと、東北に暮らしたものとしては。
工場の中も綺麗になり、会社も順調に大きくなった。
失敗もいろんなことがあったが、失敗を失敗として見てしまうとマイナスになるが、教訓として思えば、いいと思う。
一番駄目だったのは、ブラジルで大きな農園があり、そこと共同で新会社を作ってやろうとしたが、ものの見事に現地の人に誤魔化された。
ギャング団が襲ってきて、やむなく引き揚げたが、後で判ったが襲ったリーダーが警察の署長がリーダーと成ってそこを取ってしまって、マカダミアナッツ産業を始めた。(1990年代)
不在地主的な、そこに住みこまないで利益を上げると言う様な事は、すごく甘い考えだと思った。
投資してそこで何かやろうとする時に、当事者が10年、20年住みこんでやらないとうまくいかないと思う。
お金だけの投資で、お金がお金を生む様な、人間がやる事業に投資した場合に、当事者がいなくて、外からどうだと言っているようでは、日々の空気が読めない、日々どんなことをやっているのか、判らないようでは投資をしてはいけないと、失敗から学んだ。
内部充実を図ると言うやり方にした。
生産部門に力を入れて、農場をつぎつぎに買っていった、500エーカー、1000エーカーの農場を9か所ぐらい買った。
品質の安定化につながってゆく。
必要なところ以外機械化はまだしていない。
働き手がいっぱいいるので、出来るだけ多くの人が生活の場にしている、雇用機会をつくりだすという社会的義務があると思う。
その国に合ったスタイルで会社を経営していく事が絶対必要だと思う。
4000人以上の社員、外からの農民5万人が契約している。
1家で10人養っているとすると50万人になる。
毎年2500人の子供達に教育費を出してました。 5年間やった。
2008年 68歳の時にほぼ全ての株券をケニヤのかたに手渡して会社を去る。
やることは全部やったし、他のこともやりたいと言う気持ちになった。
迷いとか何にもなかった。
送別会もやらなかったので、まだ帰ってくるのではないかと思っているかもしれない。
未練もなく消えてゆくのが良いと思った。
ちょっと惜しいなあと(30億円はあると思うが)思う事もあるが、かみさんは元気だからいいんじゃないと言ってくれる。
自分が必要ならいるが、必要でなかったら去る、惜しまれて去る、これいいんじゃないと思う。
入り方よりも去り方ですね。
今はルワンダで新たなビジネスをしている。
100日間で80万人が殺された。 部族対立
素晴らしく美しい国だったが、なんか悲しかった。
死んだ人の悔しい思いがある様な沈んだような感じ、でも再起して行こうとするエネルギーがあった。
ここで仕事をしてみようと思った時に、スラムに行った時に臭かったので、トイレを綺麗にすると言う浄化運動を2年間、市と一緒にやったのが始まりでチャンスが見えてきた。
微生物の働きでにおいを取ったり汚物を分解する。
穴を掘ってそこにしてゆくので、非衛生的なので、ハエが出たり、蚊が出たり、臭いがしたりして。
ナッツで有機栽培をしていたので、肥料を作る資材が環境にもいいという事で、トイレにも使って見たら臭いが無くなるし、水がきれいになるし、公共衛生という観点からの仕事を展開しています。
15,6年経てば採算の取れるいい仕事になると思います。
歩き続ければ大丈夫。
日本にアフリカから来てみると、完成度の高い国だと思うが、こちらから見るとアフリカはこれから行きたい未来だなという感じ。
日本の中に欠けている良さ、喜びがいっぱいあると思う。
一分、二分の単位ではなくて、一時間単位の様な時間 精密時計と日時計の様な時間。
リラックスした違った次元の自然の美があり、違った次元の時間の流れがあって、違った次元の喜び、楽しみがあるんだという事を、もう一つ心を開いて見えるのでは無いかと思う。
行ったり来たりの中から、狭い地球にいるので、地球のいろんなところのいろんな良さを体験、経験したいなあと思います。
面白いのは、ゼロから始める喜び、新しいところを開拓してゆくという感じ。
あと何時去るか、いい気持ちで去るかという事、そういうのを繰り返している。
マンデラ大統領が言った言葉
「自由への道は単なる政治的な民主化で終わることなく、万人が参画する人間中心の社会の建設を目指して継続する。
その過程での試行錯誤を通して社会全体のヒューマニティーを高めて行けばよい。
人は他人のために行動を起こした時こそ、本当の人間になれるのである。」
本当に尊敬しています。 こうなりたいと思っています。
2014年12月17日水曜日
2014年12月16日火曜日
佐藤芳之(食品会社社長) ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)
佐藤芳之(食品会社社長) ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)
宮城県出身 75歳 10代のころからアフリカに興味を持ち、大学卒業後ガーナに留学、ケニアで日系企業に勤務した後、1974年にマカダミアナッツの生産、加工会社を起こしました。
ビジネスで社会に貢献したいと、考え、僅か数人で始めた会社、30年かけて従業員4000人、年商およそ30億円、世界第五位の規模まで成長させました。
ところが6年前自分の役割は果たしたと、会社をただ同然で社員に譲ります。
自身はルワンダで新たな事業を始めました。
1963年にアフリカに渡る。
高校時代にアフリカに興味を持つ。
独立を導いたリーダーの伝記を読んで、びびっときた。
1957年にブラックアフリカとして始めて独立をしたガーナの初代大統領。(クワメ・エンクルマ)
我々の手で統治する日が必ず来ると、着実に実行をして、現実にそれをやったと言う熱意に打たれた。
当時は暗黒大陸と言われているような状況であった。
ここならば自分らしいことができるのではないかという予感があった。
子供のころから海の向こうに何があるのだろうと、外へのあこがれがあった。
東京外国語大学に入る。 インド、パキスタン語をやった。 アラビア語はまだ、ペルシャ語
言語でもすこしづつ、近づいていった。
60年安保闘争にも参加する。 運動部だったので、いつも前に出て、警官隊と衝突して、蹴飛ばされたり、殴られたりして、痛い思いをしたし、安保は通るし、何も変わらなかった。
就職する気はなかったので、アフリカに行って勉強しようと、それから方向を決めようと思った。
アフリカを見たくて、行きたくてしょうがなかった。
ガーナ (エンクルマ大統領) に行く事になる。 嬉しくてしょうがなかった。
エンクルマ大統領とも会う事が出来た。
今日は歴史的な入学式だと、遠い日本から一人の学生がやってきたと、私のことを言ってくれた。
眼がきらきらして、獲物を取って誇らしげなライオンの様な感じがした。
ガーナは英国の植民地だった。 ココアが一番取れる国 農業国。 金が取れた。
ガーナは社会主義を選んだ。
ゴールドコースト 奴隷の出港地 クリスチャンボルグという、海岸に面した城があり、奴隷が船積みされた、人間が商品として扱われた。
2年間留学後、ケニアに移って、ケニアで就職する。 ケニア東レに入る。 1966年 26歳の時。
工場の全般的な総務をやった。
人間個人として、バックグラウンドを捨てて、付き合うんだと、その方が何も構えないでいいんです。
異国という考え方がなかった。 歩いて行ったらそこがたまたまアフリカだったという感じです。
東レとの契約が5年だったので、本社へとの話もあったが、完全フリーとなり、ナッツと出会う。
友人がアフリカ、ケニアの農務省の試験場の場長をしていて、机の上にマカダミアナッツがあり、食べてみたらおいしかった。
これをやってみようかなと、言ったらやってみたら、という事になり偶然にやることになる。
会社を設立して、ナッツを集めたり、苗木を植えたり、加工したり、工場を作ったりしたり、総合的に始める。
最初は7,8人 現地の人と共に始めた。
調査して、いい品質の木を選択して、いい苗木を作っていって、農家に苗木を売って、畑で生産する体制を作った。
7,8年経てば、お金になると説明したが、それが一番大変だった。
順調に植えつけをしてもらえるようになった。
ビックプランテーションが主流だったが、お金もなかったので、このようなかたちになった。
植民地的な経済の中、それを壊そうとするなら、その反対軸、個々の農民を育てて、個々の農民が自分の畑、自分の木を育てて、得た収入を自分の口座にお金が入ってくるような経済システム
、これは植民地から解放された後のアフリカの経済が自立するための基本的な事であろうと言うのは、大学で勉強していた時から、そういう考えがあったので、それを実施した。
他には選択肢はなかったと思う。 支配、統治に対して凄く反発する思いはあった。
戦前は軍部、権力的な政治体制の中で、我々は田舎の方で統治する様な立場でなかったし、戦後はアメリカの統治があったし、いつも疑問があって、これはアフリカの人達と一緒ではないかという共通感覚があった。
従来のシステムに疑問が出てくる、疑問が出てくると疑問を解こうとする。
疑問を解こうとする為には新しいやり方で、ものを始める、それが当たり前のこととして、行動する事だと思っています。
無い無い尽くしで始めたので、皆でやろうと言う連帯感があった。
日々の些細な積み重ねで、3~5年ぐらいやっているうちに、やっていこうという連帯感が育っていった。
ビジョンだけでは付いてこない、給料をきちっと給料日には払う。
当時、まわりでは給料の遅滞、延滞が当たり前だった。
私が儲けようとはしないで、必要で生活できればいいと思っていた。
仕事が終わった時に、皆が嬉しそうに帰る姿を見、その為にバスを買ってやったりして、バスに乗っているのはあの会社の人間かと、社会的信用が出来、つけでも買える様になった。
誇りの様なものを社員が持ち始めて、表通りを胸を張って歩く事ができ、物凄くうれしいと言われた時に、一番嬉しかった。
医療費、学費の援助、親が亡くなった時の棺桶作ったり、葬式の費用を一部負担したり、援助をした。
会社にクリニックを作って医療相談しているが、一番多いのがストレスですね。
生活上、生活が苦しくて抱えているストレスが本当に大きい。
なんで共感する、なんで共有するかというと、判ってあげると言う事。
判ってくれてるという感覚を持ってくれた時に、共有感覚が生まれるのではないか。
それで生産性、利益があがったら、言う事ないですね。
あくまでも現地での成果、結果が跳ね返ってくる、皆で話したいい方法で経営ができるのだと言う、そういう参加意識が会社では一番大事だと思うし、これからもそういう風にやってゆく、
宮城県出身 75歳 10代のころからアフリカに興味を持ち、大学卒業後ガーナに留学、ケニアで日系企業に勤務した後、1974年にマカダミアナッツの生産、加工会社を起こしました。
ビジネスで社会に貢献したいと、考え、僅か数人で始めた会社、30年かけて従業員4000人、年商およそ30億円、世界第五位の規模まで成長させました。
ところが6年前自分の役割は果たしたと、会社をただ同然で社員に譲ります。
自身はルワンダで新たな事業を始めました。
1963年にアフリカに渡る。
高校時代にアフリカに興味を持つ。
独立を導いたリーダーの伝記を読んで、びびっときた。
1957年にブラックアフリカとして始めて独立をしたガーナの初代大統領。(クワメ・エンクルマ)
我々の手で統治する日が必ず来ると、着実に実行をして、現実にそれをやったと言う熱意に打たれた。
当時は暗黒大陸と言われているような状況であった。
ここならば自分らしいことができるのではないかという予感があった。
子供のころから海の向こうに何があるのだろうと、外へのあこがれがあった。
東京外国語大学に入る。 インド、パキスタン語をやった。 アラビア語はまだ、ペルシャ語
言語でもすこしづつ、近づいていった。
60年安保闘争にも参加する。 運動部だったので、いつも前に出て、警官隊と衝突して、蹴飛ばされたり、殴られたりして、痛い思いをしたし、安保は通るし、何も変わらなかった。
就職する気はなかったので、アフリカに行って勉強しようと、それから方向を決めようと思った。
アフリカを見たくて、行きたくてしょうがなかった。
ガーナ (エンクルマ大統領) に行く事になる。 嬉しくてしょうがなかった。
エンクルマ大統領とも会う事が出来た。
今日は歴史的な入学式だと、遠い日本から一人の学生がやってきたと、私のことを言ってくれた。
眼がきらきらして、獲物を取って誇らしげなライオンの様な感じがした。
ガーナは英国の植民地だった。 ココアが一番取れる国 農業国。 金が取れた。
ガーナは社会主義を選んだ。
ゴールドコースト 奴隷の出港地 クリスチャンボルグという、海岸に面した城があり、奴隷が船積みされた、人間が商品として扱われた。
2年間留学後、ケニアに移って、ケニアで就職する。 ケニア東レに入る。 1966年 26歳の時。
工場の全般的な総務をやった。
人間個人として、バックグラウンドを捨てて、付き合うんだと、その方が何も構えないでいいんです。
異国という考え方がなかった。 歩いて行ったらそこがたまたまアフリカだったという感じです。
東レとの契約が5年だったので、本社へとの話もあったが、完全フリーとなり、ナッツと出会う。
友人がアフリカ、ケニアの農務省の試験場の場長をしていて、机の上にマカダミアナッツがあり、食べてみたらおいしかった。
これをやってみようかなと、言ったらやってみたら、という事になり偶然にやることになる。
会社を設立して、ナッツを集めたり、苗木を植えたり、加工したり、工場を作ったりしたり、総合的に始める。
最初は7,8人 現地の人と共に始めた。
調査して、いい品質の木を選択して、いい苗木を作っていって、農家に苗木を売って、畑で生産する体制を作った。
7,8年経てば、お金になると説明したが、それが一番大変だった。
順調に植えつけをしてもらえるようになった。
ビックプランテーションが主流だったが、お金もなかったので、このようなかたちになった。
植民地的な経済の中、それを壊そうとするなら、その反対軸、個々の農民を育てて、個々の農民が自分の畑、自分の木を育てて、得た収入を自分の口座にお金が入ってくるような経済システム
、これは植民地から解放された後のアフリカの経済が自立するための基本的な事であろうと言うのは、大学で勉強していた時から、そういう考えがあったので、それを実施した。
他には選択肢はなかったと思う。 支配、統治に対して凄く反発する思いはあった。
戦前は軍部、権力的な政治体制の中で、我々は田舎の方で統治する様な立場でなかったし、戦後はアメリカの統治があったし、いつも疑問があって、これはアフリカの人達と一緒ではないかという共通感覚があった。
従来のシステムに疑問が出てくる、疑問が出てくると疑問を解こうとする。
疑問を解こうとする為には新しいやり方で、ものを始める、それが当たり前のこととして、行動する事だと思っています。
無い無い尽くしで始めたので、皆でやろうと言う連帯感があった。
日々の些細な積み重ねで、3~5年ぐらいやっているうちに、やっていこうという連帯感が育っていった。
ビジョンだけでは付いてこない、給料をきちっと給料日には払う。
当時、まわりでは給料の遅滞、延滞が当たり前だった。
私が儲けようとはしないで、必要で生活できればいいと思っていた。
仕事が終わった時に、皆が嬉しそうに帰る姿を見、その為にバスを買ってやったりして、バスに乗っているのはあの会社の人間かと、社会的信用が出来、つけでも買える様になった。
誇りの様なものを社員が持ち始めて、表通りを胸を張って歩く事ができ、物凄くうれしいと言われた時に、一番嬉しかった。
医療費、学費の援助、親が亡くなった時の棺桶作ったり、葬式の費用を一部負担したり、援助をした。
会社にクリニックを作って医療相談しているが、一番多いのがストレスですね。
生活上、生活が苦しくて抱えているストレスが本当に大きい。
なんで共感する、なんで共有するかというと、判ってあげると言う事。
判ってくれてるという感覚を持ってくれた時に、共有感覚が生まれるのではないか。
それで生産性、利益があがったら、言う事ないですね。
あくまでも現地での成果、結果が跳ね返ってくる、皆で話したいい方法で経営ができるのだと言う、そういう参加意識が会社では一番大事だと思うし、これからもそういう風にやってゆく、
2014年12月8日月曜日
小澤俊夫(筑波大学名誉教授) ・ ”昔話”と我が人生
小澤俊夫(筑波大学名誉教授) ・”昔話”と我が人生
1930年昭和5年生まれ 84歳 昔話を正しく理解してもらおうと、精力的に活動されています。
大学でドイツ文学を専攻した小沢さんは大学2年生の時にグリム童話に出会い、東北大学大学院で研究を深めました。
以来昔話に魅せられ、日本全国の昔話の収集に取り組み、26卷に及ぶ日本昔話通巻を出版されました。
昔話の研究を進めてゆくうちに、小沢さんは昔話は国や民族の優れた共有財産であることを、確信しこの財産を次の世代に正しく伝えることを決意しました。
今から22年前ですが、筑波大学教授、在職中に昔話大学と言う講座を立ち上げ、全国を駆け巡って、昔話を語り伝える人や研究者を育てる事に力を注ぎました。
これまで2万人余りの方々がこの昔話大学を受講されました。
昔話は文法がある。 決まりがある。登場人物はいつも最初効率的に一人で登場する。
腕を切っても血は流れないとか、水の中に行くけどおぼれないとか、抽象的文学なんです。
子供に昔話を語るのに、いいテキストを選んでくれと言っている、耳で聞ける文章であること。
耳で聞いて分かりやすいことが大事で、文章が単純明解でなければいけない。
昔話大学では具体的な例で解説してゆく。
22年間に84か所でやってきている。 2万人余り。
桃太郎、花咲爺さん、白雪姫、シンデレラ
桃太郎は日本人にとってとても大事な話で、柳田國男先生などは、桃は川上から流れてくるが、川上は山の上で、そこには神様がいました。
桃太郎は神の子なんだと、仮説をたてて、神の子が鬼が島征伐という英雄的事業を成し遂げた。
日本昔話の一番根本だという風におっしゃった。
古い歴史にも関係するし、国際的な意味でもあります。
浦島太郎 海の底に行って竜宮であうが、日本だけでなくアジアの国でもある。
戻ってきたら3年だと思ったが300年経っていたというが、ヨーロッパにもある。
時間差の話。 あの世と人間の世の時間の流れに差があると言う不思議な物語。
昔話は国際性がある。
白鳥の湖と羽衣伝説は同じ (ドイツ、中国、日本)
人類の古い姿、宇宙観、自然観が込められている。
昔の人たちは自然の中で恵みも受けたし、恐れも受けた。
自然の中に不思議さを感じて、いろんなイメージを作って、物語を作って行った。
どこの国の昔話でもシンプルでクリアーな文体をもっている。
音楽と似ているところがある。
メロディーは必ず2度以上出てくる、3度目は似ているが長くなる。
それと同じことが昔話。
白雪姫は3回殺されている。(1回目は紐、2回目は毒の櫛、3回目は毒の林檎)
今は林檎だけになってしまったて、1回になってしまった。(リズムが無くなってしまった)
3段跳び 2段跳び、4段跳びはない 3は人間が一番乗りやすい、人間の基本的快感がある。
伝えてゆくのが人間の生の声と言うのが大事。
お爺さん、お婆さんから話を聞いて、孫はお爺さんお婆さんから愛されていることを感じる、これが大事。
生の声で語るのが子供の成長にとって大事だと言っています。
昔話は伝承文芸である。 母国語の一つであります。
昔話は日本人が持っている宇宙観、自然観、子供観とか、と言うのをいつの間にか聞いている。
あまりにも便利になって、スイッチを入れれば、全部聞けちゃうみたいな、そうではなくて、昔通りの生の声で身近な大人が声で聞かしてやる、それをやってくださいと言っている。
皆さんが共有すると、共同体の財産です。
それを失う事はとても危険だと思います。
日本人の独特の自然観、子供観が込められているわけですから、とても大事なことを言っている。
「三年寝太郎」 長者を騙して、長者の娘の婿に成る話。
昔の人は道徳をあまり気していなかった、それよりも強く生きろ、このメッセージの方が強い。
(悪)知恵、生きる知恵。
若者は一生寝ているわけではない、若者は途中で起きる、起きたらちゃんとやる。
一旦起きてしまうと、寝ていたことを忘れてしまう。
昔話は皆が個人が、忘れてしまったことを、日本人全体の共有の記憶として覚えていてくれる、だから大事、共有の財産。 民族遺産です。
語るだけなので、貴重だが眼に見えない、それがどんなに大事か、世間では気がつかない。
生き方を教えてくれる。 人生は綺麗事ではない。
人類の先輩が一生懸命自然の中で生きてきたのが、いろんな形で現れているので、だから壊すなよと言っている。
だから昔のままで伝えてほしい、伝承の中途にいるのだから。
昔話に出会ったのは、大学二年、グリム童話。(ドイツ語の教科書として使った)
グリム童話はグリムが集めた昔話だった。
「太鼓叩き」 日本の羽衣に相当する内容。
「コルベスさま」 猿蟹合戦に相当する内容。
ドイツと日本で同じような話があることに、非常に興味を持った。
昔話はどっかに源があって、其れが世界中に広がっている。
ドイツの児童文学者、マックス・リュティさんと出会ったことが、大きかった。
大学院に入ったころに、偶然にマックス・リュティさんの本を見つけたが、それに衝撃を受けた。
昔話に文法がある、極端に語るのが好きである、写実的には語らない、同じ事が出てきたら同じ言葉で語る、3回の繰り返し(これはリズムである)
日本語に翻訳しなくてはと思い、全く知らなかったが、先生に手紙を出した。
2カ月後に返事が来て、出版、翻訳許可が出て、本当に嬉しかった。
私の一生の先生です。
日本版の序文を依頼して、「私がやったのはヨーロッパの事である。 日本のことについては日本がやる番だ」と書いてあり、それではいっちょやるかと思い、それ以来一生やっているわけです。
資料だけで28卷あるが、15年かけてやって、昔話を分析したら、日本の昔話はマックス・リュティの言ったことがあてはまると確信した。
世界の民話というシリーズを15年掛けてやったが、その時に世界中のメルヘンを翻訳、解説も書いたが、中国、シベリア、インドネシア、パプアニューギニアもそうだし、皆一緒です、不思議ですね。
人の話をお耳で聞ける子供は必ずいろんな進歩をする。
学力も付く。
聞いて理解すると言う事は生きてゆく上の基本の力、それをこどもたちに体験させる訳です。
学校でも、会社でもおなじ、人の話を聞けなかったら、駄目、集中力。
もう一歩進めば、自分の考えていることをきちんと相手に伝える。
聞いて場面を想像する。 言葉から絵に変換する事が必要で、其れが養われる、想像力。
大人は子供になるべくなまの声で話を聞かせると言う事をやってほしいし、物語、話でもなくてもいいから、ちゃんと子供と話をすることだと思う。
3,4年になり、子供が読んでくれたり、話してくれたら、あいづちをうってしっかり聞いてもらいたい。
道徳と言うよりは、冒険して恐いのを突破してゆく主人公の姿、そっちの方が大事だと思う。
各地のそれぞれその土地の言葉で昔話を話して発表する、そういったことをやってゆく。
弟さんは小澤征爾、兄・克己は亡くなってしまったが彫刻家、一番下の弟・幹雄は俳優、エッセーを書いたりしている。
1930年昭和5年生まれ 84歳 昔話を正しく理解してもらおうと、精力的に活動されています。
大学でドイツ文学を専攻した小沢さんは大学2年生の時にグリム童話に出会い、東北大学大学院で研究を深めました。
以来昔話に魅せられ、日本全国の昔話の収集に取り組み、26卷に及ぶ日本昔話通巻を出版されました。
昔話の研究を進めてゆくうちに、小沢さんは昔話は国や民族の優れた共有財産であることを、確信しこの財産を次の世代に正しく伝えることを決意しました。
今から22年前ですが、筑波大学教授、在職中に昔話大学と言う講座を立ち上げ、全国を駆け巡って、昔話を語り伝える人や研究者を育てる事に力を注ぎました。
これまで2万人余りの方々がこの昔話大学を受講されました。
昔話は文法がある。 決まりがある。登場人物はいつも最初効率的に一人で登場する。
腕を切っても血は流れないとか、水の中に行くけどおぼれないとか、抽象的文学なんです。
子供に昔話を語るのに、いいテキストを選んでくれと言っている、耳で聞ける文章であること。
耳で聞いて分かりやすいことが大事で、文章が単純明解でなければいけない。
昔話大学では具体的な例で解説してゆく。
22年間に84か所でやってきている。 2万人余り。
桃太郎、花咲爺さん、白雪姫、シンデレラ
桃太郎は日本人にとってとても大事な話で、柳田國男先生などは、桃は川上から流れてくるが、川上は山の上で、そこには神様がいました。
桃太郎は神の子なんだと、仮説をたてて、神の子が鬼が島征伐という英雄的事業を成し遂げた。
日本昔話の一番根本だという風におっしゃった。
古い歴史にも関係するし、国際的な意味でもあります。
浦島太郎 海の底に行って竜宮であうが、日本だけでなくアジアの国でもある。
戻ってきたら3年だと思ったが300年経っていたというが、ヨーロッパにもある。
時間差の話。 あの世と人間の世の時間の流れに差があると言う不思議な物語。
昔話は国際性がある。
白鳥の湖と羽衣伝説は同じ (ドイツ、中国、日本)
人類の古い姿、宇宙観、自然観が込められている。
昔の人たちは自然の中で恵みも受けたし、恐れも受けた。
自然の中に不思議さを感じて、いろんなイメージを作って、物語を作って行った。
どこの国の昔話でもシンプルでクリアーな文体をもっている。
音楽と似ているところがある。
メロディーは必ず2度以上出てくる、3度目は似ているが長くなる。
それと同じことが昔話。
白雪姫は3回殺されている。(1回目は紐、2回目は毒の櫛、3回目は毒の林檎)
今は林檎だけになってしまったて、1回になってしまった。(リズムが無くなってしまった)
3段跳び 2段跳び、4段跳びはない 3は人間が一番乗りやすい、人間の基本的快感がある。
伝えてゆくのが人間の生の声と言うのが大事。
お爺さん、お婆さんから話を聞いて、孫はお爺さんお婆さんから愛されていることを感じる、これが大事。
生の声で語るのが子供の成長にとって大事だと言っています。
昔話は伝承文芸である。 母国語の一つであります。
昔話は日本人が持っている宇宙観、自然観、子供観とか、と言うのをいつの間にか聞いている。
あまりにも便利になって、スイッチを入れれば、全部聞けちゃうみたいな、そうではなくて、昔通りの生の声で身近な大人が声で聞かしてやる、それをやってくださいと言っている。
皆さんが共有すると、共同体の財産です。
それを失う事はとても危険だと思います。
日本人の独特の自然観、子供観が込められているわけですから、とても大事なことを言っている。
「三年寝太郎」 長者を騙して、長者の娘の婿に成る話。
昔の人は道徳をあまり気していなかった、それよりも強く生きろ、このメッセージの方が強い。
(悪)知恵、生きる知恵。
若者は一生寝ているわけではない、若者は途中で起きる、起きたらちゃんとやる。
一旦起きてしまうと、寝ていたことを忘れてしまう。
昔話は皆が個人が、忘れてしまったことを、日本人全体の共有の記憶として覚えていてくれる、だから大事、共有の財産。 民族遺産です。
語るだけなので、貴重だが眼に見えない、それがどんなに大事か、世間では気がつかない。
生き方を教えてくれる。 人生は綺麗事ではない。
人類の先輩が一生懸命自然の中で生きてきたのが、いろんな形で現れているので、だから壊すなよと言っている。
だから昔のままで伝えてほしい、伝承の中途にいるのだから。
昔話に出会ったのは、大学二年、グリム童話。(ドイツ語の教科書として使った)
グリム童話はグリムが集めた昔話だった。
「太鼓叩き」 日本の羽衣に相当する内容。
「コルベスさま」 猿蟹合戦に相当する内容。
ドイツと日本で同じような話があることに、非常に興味を持った。
昔話はどっかに源があって、其れが世界中に広がっている。
ドイツの児童文学者、マックス・リュティさんと出会ったことが、大きかった。
大学院に入ったころに、偶然にマックス・リュティさんの本を見つけたが、それに衝撃を受けた。
昔話に文法がある、極端に語るのが好きである、写実的には語らない、同じ事が出てきたら同じ言葉で語る、3回の繰り返し(これはリズムである)
日本語に翻訳しなくてはと思い、全く知らなかったが、先生に手紙を出した。
2カ月後に返事が来て、出版、翻訳許可が出て、本当に嬉しかった。
私の一生の先生です。
日本版の序文を依頼して、「私がやったのはヨーロッパの事である。 日本のことについては日本がやる番だ」と書いてあり、それではいっちょやるかと思い、それ以来一生やっているわけです。
資料だけで28卷あるが、15年かけてやって、昔話を分析したら、日本の昔話はマックス・リュティの言ったことがあてはまると確信した。
世界の民話というシリーズを15年掛けてやったが、その時に世界中のメルヘンを翻訳、解説も書いたが、中国、シベリア、インドネシア、パプアニューギニアもそうだし、皆一緒です、不思議ですね。
人の話をお耳で聞ける子供は必ずいろんな進歩をする。
学力も付く。
聞いて理解すると言う事は生きてゆく上の基本の力、それをこどもたちに体験させる訳です。
学校でも、会社でもおなじ、人の話を聞けなかったら、駄目、集中力。
もう一歩進めば、自分の考えていることをきちんと相手に伝える。
聞いて場面を想像する。 言葉から絵に変換する事が必要で、其れが養われる、想像力。
大人は子供になるべくなまの声で話を聞かせると言う事をやってほしいし、物語、話でもなくてもいいから、ちゃんと子供と話をすることだと思う。
3,4年になり、子供が読んでくれたり、話してくれたら、あいづちをうってしっかり聞いてもらいたい。
道徳と言うよりは、冒険して恐いのを突破してゆく主人公の姿、そっちの方が大事だと思う。
各地のそれぞれその土地の言葉で昔話を話して発表する、そういったことをやってゆく。
弟さんは小澤征爾、兄・克己は亡くなってしまったが彫刻家、一番下の弟・幹雄は俳優、エッセーを書いたりしている。
2014年12月7日日曜日
保坂正康(作家) ・ 昭和史を味わう (第10回)日本とアメリカの戦争への道
保坂正康(作家) 昭和史を味わう (第10回)
日本とアメリカの戦争への道
昭和12年前後、日中戦争~太平洋戦争開戦
日本とアメリカの関係 日露戦争当時は米国は日本に対して分の良い様な講和を纏めてくれた。
日本がアジアに進出するようになって、フィリピンを支配していた米国は神経を使う様になる。
ワシントン会議で日本がイギリスと同盟を結んでいるのを切らせ、包括的な中で日本を取り込んでいこうとする。
アメリカに対して軍事膨張政策を歯止めするのではないかという警戒心が強まってくる。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行、「対日10年」グルー日本大使著 2冊を読むといろんな形が判る。
「日米闘うべきか」 日本の支配層にいる人達(14人)が書いた論文で、みんなアメリカと戦争をするのは得策ではないと言っている。
日米戦争は日本にとっては国家存亡の戦いであるが、米国にとっては商工業発展の遅速を決定する戦いにすぎない。
国のレベルの違いの正確な分析をしている。
グルーの奥さんはペリーの兄さんのひ孫にあたる。 日本との縁を意識した。
天皇の側近と可なり深く付き合う。 日本と言う国を理解する。
天皇周辺のリベラルな人達、もうひとつはなかなかいい分を変えない頑強な軍部であると、書いている。
天皇周辺は親米的で、軍人、右翼などはなかなか言う事を聞かない。
グルーは、行きつくところは、日本の国民自身が軍の言い分に魅かれてくると分析をする。
グルーは昭和7年~17年までの日本が変化してゆくのを、アメリカをどう見るか判っていた。
知識人はアメリカとは絶対戦争はしませんと、軍はわがままを言っているが、私たちは何とか抑えますと言ったりしているが、段々とその声が弱くなっている、と言う様な言い方をしている。
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本はこの辺から中国との戦争の深みにはまってゆく。
蒋介石政府を米国、英国は支援する。 戦争が長期化する。
反英米的な感情が沸き起こる、その分ドイツ、イタリアに近づく。(枢軸体制が出来上がる)
昭和14年9月1日には第二次世界大戦が勃発、ドイツがポーランドに侵攻する。
イギリス、フランスなどが参戦する。
米国も英国フランスに対する支援の姿勢を持っているのでドイツに対して戦う姿勢は持っている。
日本はドイツと三国同盟で一体化しているので、日本と米国との基本的立場は違ってしまった。
米国と敵対感情が生まれてくる。
米国はナチスドイツを英国なんかを支援して押さえようとするが、日本はかなり不満を持ち、関係が悪化してゆく。
昭和15年9月27日日独伊、三国同盟が結ばれる。
完全に日本、ドイツ、イタリアが同盟を結んで、米、英と敵対すると言う事を宣言した形になる。
枢軸国対連合国の図式がはっきりしてくる。
ルーズベルト大統領はどういう形で参戦するか、考えていた。
昭和16年 日米外交交渉 最初政府レベルで始めるのではなくて、宣教師2人が来て、大蔵省のOBで始まる。
日米交渉はお互いに計算している様な関係の交渉だった。
米国は三国同盟を離脱せよ、中国からの撤兵、満州国を承認しない。
基本的な立場が違う。
昭和16年6月22日 欧州戦線で独ソ戦が始まる。
日本の軍部はドイツと一緒にソ連を挟み撃ちにしようという北進論、南にでて植民地軍は弱いのでそこに入って行って資源を確保しようと、南部仏印に兵を送る。
米国は何も対抗処置を取らないだろうと、甘く考えていた。
ところが米国は直ぐに対抗措置を取った。
石油の全面禁輸、米国の国内の対日資産の凍結、すずなどの資源素材の日本への輸出禁止。
日本は目算違いだった。
日本は段々話がつかなくなる。
近衛内閣が米国との交渉が立ちゆかなくなり、軍は石油を止められて戦争以外に道は無いという形になってゆく。
昭和16年11月26日ハルノートをアメリカが提示してくる。
アメリカが突きつけた最後通牒だと言われているが、必ずしもそうではないと今になって見ると言える面も確かにある。
アメリカも、もう一度原則的に、太平洋にアメリカに分け隔てない政策をやろうと、日本を三国同盟から離脱せよと、南部仏印から撤退せよと、条件が今までと変わらない条件を示してくる。
日本の軍は何のための交渉だったんだと、交渉を打ち切ると言う事で、軍事が前面にでてくる。
日本の駐米大使野村吉三郎が国務長官ハルとは日常的に交渉している。
野村吉三郎は昭和16年2月11日 ワシントンに着任した。
日本の外務省と野村のやり取りの暗号電報は実は見事に解読されていた。
ハル長官が野村と会う時には、どんな指令を持ってくるか、どういうことを言ってくるかを知っていた。
回顧録にハルは知らないふりの演技をするに困ったと記している。
情報戦でも日本は全く太刀打ちできない状況であった。
朝河 貫一 歴史学者 早稲田大学を卒業後、ダートマス大学、イェール大学に留学する。
大学ではトップで出て、教授になる。
アメリカに住みながら、日本はこういう考えでいるんだと、できるだけ多くの人に説得する。
日本にいる友人たちに、日本の政策はどうしてこういう風に曲がってゆくんだと手紙などで送っている。(朝河 貫一書簡集)
日本の社会はアメリカの社会を知らな過ぎると、どれほどアメリカ人はヒットラーを嫌っているか、ナチスは民主主義にとっては敵対組織なんだと、アメリカは了解している、それなのにどうして日本は手を結ぶのかと、出来ればそれを切ってほしいと言う様な事を切々と訴えている。
イェール大学の友の一人の鳩山一郎にも手紙で訴えている。
昭和16年4月 食料事情も窮屈になってゆく。 6大都市で米穀配給通帳制、外食券制 実施。
5月は肉無し日実施。 10月ガスの使用制限 ガソリンの使用全面禁止。
戦費を捻出するために国民生活が犠牲になってゆく。
考えを改めるべきと議会で質問している。(反軍演説)斎藤隆夫
昭和16年11月17日 第77回帝国議会 東条首相の施政方針演説 戦争突入が決定的になる。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃が始まる。
東京からの海外向け放送。「西の風 晴」との繰り返しの暗号放送がある。
8日 午前4時に暗号放送が放送される。 午前7時臨時ニュースで戦争突入について放送。
東の風雨=アメリカ 北の風曇り=ソ連 西の風晴=イギリス
「西の風 晴」→イギリス関係、日米関係も戦争状態になるから、資料及び暗号機は燃やしなさいと言う命令をだした。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行の本の内容の冷静さが薄れていって、主観的願望だけで物を見てゆく、其れを客観的事実にすり替えてゆく、そういった軽率さがあったと思う。
日本とアメリカの戦争への道
昭和12年前後、日中戦争~太平洋戦争開戦
日本とアメリカの関係 日露戦争当時は米国は日本に対して分の良い様な講和を纏めてくれた。
日本がアジアに進出するようになって、フィリピンを支配していた米国は神経を使う様になる。
ワシントン会議で日本がイギリスと同盟を結んでいるのを切らせ、包括的な中で日本を取り込んでいこうとする。
アメリカに対して軍事膨張政策を歯止めするのではないかという警戒心が強まってくる。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行、「対日10年」グルー日本大使著 2冊を読むといろんな形が判る。
「日米闘うべきか」 日本の支配層にいる人達(14人)が書いた論文で、みんなアメリカと戦争をするのは得策ではないと言っている。
日米戦争は日本にとっては国家存亡の戦いであるが、米国にとっては商工業発展の遅速を決定する戦いにすぎない。
国のレベルの違いの正確な分析をしている。
グルーの奥さんはペリーの兄さんのひ孫にあたる。 日本との縁を意識した。
天皇の側近と可なり深く付き合う。 日本と言う国を理解する。
天皇周辺のリベラルな人達、もうひとつはなかなかいい分を変えない頑強な軍部であると、書いている。
天皇周辺は親米的で、軍人、右翼などはなかなか言う事を聞かない。
グルーは、行きつくところは、日本の国民自身が軍の言い分に魅かれてくると分析をする。
グルーは昭和7年~17年までの日本が変化してゆくのを、アメリカをどう見るか判っていた。
知識人はアメリカとは絶対戦争はしませんと、軍はわがままを言っているが、私たちは何とか抑えますと言ったりしているが、段々とその声が弱くなっている、と言う様な言い方をしている。
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本はこの辺から中国との戦争の深みにはまってゆく。
蒋介石政府を米国、英国は支援する。 戦争が長期化する。
反英米的な感情が沸き起こる、その分ドイツ、イタリアに近づく。(枢軸体制が出来上がる)
昭和14年9月1日には第二次世界大戦が勃発、ドイツがポーランドに侵攻する。
イギリス、フランスなどが参戦する。
米国も英国フランスに対する支援の姿勢を持っているのでドイツに対して戦う姿勢は持っている。
日本はドイツと三国同盟で一体化しているので、日本と米国との基本的立場は違ってしまった。
米国と敵対感情が生まれてくる。
米国はナチスドイツを英国なんかを支援して押さえようとするが、日本はかなり不満を持ち、関係が悪化してゆく。
昭和15年9月27日日独伊、三国同盟が結ばれる。
完全に日本、ドイツ、イタリアが同盟を結んで、米、英と敵対すると言う事を宣言した形になる。
枢軸国対連合国の図式がはっきりしてくる。
ルーズベルト大統領はどういう形で参戦するか、考えていた。
昭和16年 日米外交交渉 最初政府レベルで始めるのではなくて、宣教師2人が来て、大蔵省のOBで始まる。
日米交渉はお互いに計算している様な関係の交渉だった。
米国は三国同盟を離脱せよ、中国からの撤兵、満州国を承認しない。
基本的な立場が違う。
昭和16年6月22日 欧州戦線で独ソ戦が始まる。
日本の軍部はドイツと一緒にソ連を挟み撃ちにしようという北進論、南にでて植民地軍は弱いのでそこに入って行って資源を確保しようと、南部仏印に兵を送る。
米国は何も対抗処置を取らないだろうと、甘く考えていた。
ところが米国は直ぐに対抗措置を取った。
石油の全面禁輸、米国の国内の対日資産の凍結、すずなどの資源素材の日本への輸出禁止。
日本は目算違いだった。
日本は段々話がつかなくなる。
近衛内閣が米国との交渉が立ちゆかなくなり、軍は石油を止められて戦争以外に道は無いという形になってゆく。
昭和16年11月26日ハルノートをアメリカが提示してくる。
アメリカが突きつけた最後通牒だと言われているが、必ずしもそうではないと今になって見ると言える面も確かにある。
アメリカも、もう一度原則的に、太平洋にアメリカに分け隔てない政策をやろうと、日本を三国同盟から離脱せよと、南部仏印から撤退せよと、条件が今までと変わらない条件を示してくる。
日本の軍は何のための交渉だったんだと、交渉を打ち切ると言う事で、軍事が前面にでてくる。
日本の駐米大使野村吉三郎が国務長官ハルとは日常的に交渉している。
野村吉三郎は昭和16年2月11日 ワシントンに着任した。
日本の外務省と野村のやり取りの暗号電報は実は見事に解読されていた。
ハル長官が野村と会う時には、どんな指令を持ってくるか、どういうことを言ってくるかを知っていた。
回顧録にハルは知らないふりの演技をするに困ったと記している。
情報戦でも日本は全く太刀打ちできない状況であった。
朝河 貫一 歴史学者 早稲田大学を卒業後、ダートマス大学、イェール大学に留学する。
大学ではトップで出て、教授になる。
アメリカに住みながら、日本はこういう考えでいるんだと、できるだけ多くの人に説得する。
日本にいる友人たちに、日本の政策はどうしてこういう風に曲がってゆくんだと手紙などで送っている。(朝河 貫一書簡集)
日本の社会はアメリカの社会を知らな過ぎると、どれほどアメリカ人はヒットラーを嫌っているか、ナチスは民主主義にとっては敵対組織なんだと、アメリカは了解している、それなのにどうして日本は手を結ぶのかと、出来ればそれを切ってほしいと言う様な事を切々と訴えている。
イェール大学の友の一人の鳩山一郎にも手紙で訴えている。
昭和16年4月 食料事情も窮屈になってゆく。 6大都市で米穀配給通帳制、外食券制 実施。
5月は肉無し日実施。 10月ガスの使用制限 ガソリンの使用全面禁止。
戦費を捻出するために国民生活が犠牲になってゆく。
考えを改めるべきと議会で質問している。(反軍演説)斎藤隆夫
昭和16年11月17日 第77回帝国議会 東条首相の施政方針演説 戦争突入が決定的になる。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃が始まる。
東京からの海外向け放送。「西の風 晴」との繰り返しの暗号放送がある。
8日 午前4時に暗号放送が放送される。 午前7時臨時ニュースで戦争突入について放送。
東の風雨=アメリカ 北の風曇り=ソ連 西の風晴=イギリス
「西の風 晴」→イギリス関係、日米関係も戦争状態になるから、資料及び暗号機は燃やしなさいと言う命令をだした。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行の本の内容の冷静さが薄れていって、主観的願望だけで物を見てゆく、其れを客観的事実にすり替えてゆく、そういった軽率さがあったと思う。
2014年12月4日木曜日
北原香菜子(薩摩琵琶奏者) ・鎮魂の琵琶の音を現代に生かす
北原香菜子(薩摩琵琶奏者) 鎮魂の琵琶の音を現代に生かす
北原さんは1983年 九州の佐賀県佐賀市に生まれました。
大学に入って琵琶を聞き、その音色に魅せられて、演奏活動を始めました。
卒業後、演奏家として独立、いまでは全国各地を回って、お寺、神社、ホールなどで演奏会を開いています。
古典の曲にとどまらず、新しい曲も創作し、伝統芸能琵琶を過去と現代、未来をつなぐ鎮魂の音の世界として根付かせようとしています。
先月、今月にかけて北海道お寺ツアーを展開していました。
その後関西、ようやく佐賀の地に戻って、小学校などで琵琶の演奏をやっています。
1300年以上前、当時、仏教と共に日本の奈良時代に、ペルシャ、イランを起源としてシルクロードを辿って入ってきた。
いまでは宮内庁で聞ける様な楽琵琶という流れで入ってきた。
仏教を取り入れる以前の神、取り入れたのちの仏様に、眼に見えないものに奏でる、捧げる音楽としてお寺で最初演奏されていたようです。
言葉、セリフ、語りが伴わず、器楽、奏でるのみ、お琴だったり、今でいう和のオーケストラ、雅楽の中の楽琵琶が存在していて、其れから時代を経て語りを伴った人が現れて、其れが琵琶法師。
源平合戦の様子をほうぼうで、語ってその時から語りが伴ったと言われて、平家琵琶、平曲が楽琵琶を改良して生まれたもの。
平家琵琶は京都とか奈良、都を中心に広がったが、その後九州で平家琵琶はさらに改良されて生まれた、其れが三つ目の琵琶、盲僧琵琶が広がった。
九州の盲僧達に渡った時に、僧侶が手にしたことによって、琵琶の役目が変わった。
お経の伴走楽器として、五穀豊穣等の祈願する時に琵琶を奏でてきたという歴史があって、薩摩盲僧から薩摩琵琶になったり、筑前盲僧から筑前琵琶になったと言うのが、大まかな琵琶の歴史です。
薩摩琵琶は薩摩盲僧から薩摩の武士に渡った時に、豪快、大胆、勇壮な弾き方が出た。
戦の時に、士気を高めるために、琵琶を搔き鳴らして、精神を高揚させていた。
出会いは2001年4月に大学に入った時に、古典芸能の演奏会があって、能、狂言、三味線、琴、琵琶があって、他の楽器とは違う、空間が変わった様な感じを抱いた。
何故か、帰り際に琵琶が呼んでいる様な感覚を得て、最初に琵琶を抱いて奏でさせてもらった。
一人で琵琶を演奏された人と一緒に琵琶サークルをたちあげた。
東京では観賞する方が多かったが、舞踏などの中で、空間と人間、空間と音、そうした関係にすごく興味を持った。
そこで琵琶を真剣にお稽古すると言うよりも、この琵琶で何が出来るだろうと思って、実験的なものをやって行こうと思って、早稲田大学も琵琶サークルの演奏会を開いて、近代が生んだもの、照明を無くして、演奏会をやったりした。
田中之雄先生に基礎から教えてもらおうと、門戸を改めて叩いて、古典をきちっと学ぼうと考えた。
琵琶の基本はきちっとした姿勢であり、正面を見て打弦をするのに、1年以上かかったのではないかと思う。
卒業する直前、2005年にノーベル平和賞を受賞されたワンガリ・マータイさんのまえでの演奏だった。
木が奏でる演奏に大変感動されていました。
琵琶の道を一生やっていこうと圧倒されたのが、大学4年 地元の老人ホームで演奏しようと思って、演奏した時に、涙を流して聞いてくださった人の言葉に、一生この琵琶と付き合って行こうと、その時に決意しました。
就職も断って、2005年3月に佐賀の地に戻ってきました。
熊本全国邦楽コンクールに出場することになり、古典曲の中で西郷隆盛しかないと思い、自分は西郷隆盛に成りきって演奏したら、、自分ではない様な感覚があって、終わったときに、いい賞を頂いて、古典曲にゆかりのある土地で、琵琶の音色をその土地に返して行こうと、その土地にまつわる先人達を物語ることで、供養ができれば、鎮魂ができれば、全国鎮魂供養ツアーと言う言葉がワーと湧いてきた。
西郷隆盛を鹿児島県で演奏することを皮きりに、2007年、白虎隊を会津若松の白虎隊の墓前で演奏し、翌年、義経、平泉で、翌年善光寺で川中島 翌年壬生寺で新撰組、自分自身沢山の種をまいてきました。
かつての琵琶法師の役目として、亡くなった方を鎮魂する、供養する、地鎮祭で土地をおさめる、そうしたときに琵琶を演奏してきたと言う歴史があると言う事が、私のどこかに在ったんでしょうね。
それでその発想が生まれたのだと思います。
琵琶の音色を聞いて下さってる方の背中の後ろにいる、先人たちに向けて演奏します、だから皆さんその思いをくみ取っていただくのと、聞いた後心がすがすがしく、清らかな気持ちになる様願いながら演奏します、と言葉を掛けて演奏しますが、そういう気持ちになったよと、声を掛けてくださいます。
2011年3月11日 かつて災害時に琵琶法師たちは祈りを込めて琵琶を演奏してきた歴史があると言う事がふつふつと湧いてきて、風に向かって、大地に向かって、山に向かって、兎に角一音でもいいから琵琶を奏でなさいと、祖母から言われた。
稽古場から外に出て、3月12日 琵琶の音色を一音ずつつむぎ始めた。
どうかこの国が琵琶の音色で収まります様に弾きなさいと、祖母が言ったので演奏していたら私の口からついて出たものが、私が幼少の頃仏壇の前で祖父母が毎朝、毎晩唱えていた般若心経だったんです。
琵琶とお経を組み合わせて私は琵琶教を作った。(般若心経と共に演奏する)
まさにこれが供養、鎮魂ですねと、声を掛けてくださいました。
この琵琶教は自然に生まれた様な感覚があります。
私はいろんなお寺に行きますが、宗派を越えて行きます。
浄土宗との御縁があった時には、2011年に宗祖、法然 800年大遠忌の際に法然上人の7曲奉納演奏したり、道元さんの曲を書いてくださいとか、お釈迦様の曲を書いてくださいとの話も来ているので、これから創作をしてゆくところです。
声の稽古、東京にいるころは、思い通りに声をだせなかった。(住環境の問題)
佐賀では、自然が、田んぼの中で、風が、土が私の声を作ってくれたのかと思います。
琵琶の基本は語り。 声に出すと言う事で心は安定してくる。
「声はこれ念なり 念は即ちこれ声なり 声はこれ念なり 念はすなわちこれ声なり 声と言うものは今の心を表す」 法然上人の言葉
祖父母が大地の自然の神々に手を合わせて、仏壇の御先祖様に手を合わせる。
習慣として背中で語ってくれていた様に思う。
仏壇の前に座った時、「おはようございます」 「今日は有難うございます」声を出して云いなさいと、幼少のころから祖父母から言われていた。
祖父母が言っていたことと、法然上人が言っていたことが、重なると私の中では眼から鱗のことでした。
「念ずれば花開く」 念と言う字も今の心は声であるという事になるると、声を出して思いを届けた方が、より相手の内側に入り込めるかもしれない。
琵琶の音と書いて私は声と読むんですね、声として届けたいと言う想いはある。
私は国と国をつなぐ外交官を夢見ていたが、今は眼に見える世界と眼に見えない世界、この世とあの世、生きているものと亡くなったものなどをつなぐ役、外交をしていると言う様な気持でいる。
「川中島」を善光寺で演奏したときに、上杉謙信と武田信玄が本当に聞いてくれていると言う様な深い歴史があったと言う感動と、感激があった。
是非古典に触れ得ることによって、先人たちへの回路、通路を開いてくれるのが古典だと言いたい。
琵琶の音の振動を「さわり」と言うが、琵琶と三味線にしかない特徴。
西洋人は「さわり」を耳触りと言うが、そのさわり、自然の雑音迄も楽器に取り込む、全てをうけ入れると言うのが日本人、仏教もそうです。
いろんな宗派があってもいいが、受け入れてゆく。
ペルシャを起源として、東に渡ったのが琵琶、西に渡ったのが、ギター、マンドリン。
ギターとかには「さわり」はない。 綺麗な、しっかりした、はっきりした音を奏でる。
「さわり」を取り除いた。
琵琶少年、少女を作りたい。
琵琶は田中先生、そのうえには鶴田錦史先生がいて その上には多くの師匠達がいるので、琵琶の奏法、語り方などは北原香菜子で止めてはいけないので、次世代に渡してゆくと言うのを夢として持っている。
琵琶とアニメーションを組み合わせて、ビワニメーションと言う事を考えて、発信してゆきたいと考えている。
ジャンルの越境をやって化学反応を楽しみたいと言う事はあります。
北原さんは1983年 九州の佐賀県佐賀市に生まれました。
大学に入って琵琶を聞き、その音色に魅せられて、演奏活動を始めました。
卒業後、演奏家として独立、いまでは全国各地を回って、お寺、神社、ホールなどで演奏会を開いています。
古典の曲にとどまらず、新しい曲も創作し、伝統芸能琵琶を過去と現代、未来をつなぐ鎮魂の音の世界として根付かせようとしています。
先月、今月にかけて北海道お寺ツアーを展開していました。
その後関西、ようやく佐賀の地に戻って、小学校などで琵琶の演奏をやっています。
1300年以上前、当時、仏教と共に日本の奈良時代に、ペルシャ、イランを起源としてシルクロードを辿って入ってきた。
いまでは宮内庁で聞ける様な楽琵琶という流れで入ってきた。
仏教を取り入れる以前の神、取り入れたのちの仏様に、眼に見えないものに奏でる、捧げる音楽としてお寺で最初演奏されていたようです。
言葉、セリフ、語りが伴わず、器楽、奏でるのみ、お琴だったり、今でいう和のオーケストラ、雅楽の中の楽琵琶が存在していて、其れから時代を経て語りを伴った人が現れて、其れが琵琶法師。
源平合戦の様子をほうぼうで、語ってその時から語りが伴ったと言われて、平家琵琶、平曲が楽琵琶を改良して生まれたもの。
平家琵琶は京都とか奈良、都を中心に広がったが、その後九州で平家琵琶はさらに改良されて生まれた、其れが三つ目の琵琶、盲僧琵琶が広がった。
九州の盲僧達に渡った時に、僧侶が手にしたことによって、琵琶の役目が変わった。
お経の伴走楽器として、五穀豊穣等の祈願する時に琵琶を奏でてきたという歴史があって、薩摩盲僧から薩摩琵琶になったり、筑前盲僧から筑前琵琶になったと言うのが、大まかな琵琶の歴史です。
薩摩琵琶は薩摩盲僧から薩摩の武士に渡った時に、豪快、大胆、勇壮な弾き方が出た。
戦の時に、士気を高めるために、琵琶を搔き鳴らして、精神を高揚させていた。
出会いは2001年4月に大学に入った時に、古典芸能の演奏会があって、能、狂言、三味線、琴、琵琶があって、他の楽器とは違う、空間が変わった様な感じを抱いた。
何故か、帰り際に琵琶が呼んでいる様な感覚を得て、最初に琵琶を抱いて奏でさせてもらった。
一人で琵琶を演奏された人と一緒に琵琶サークルをたちあげた。
東京では観賞する方が多かったが、舞踏などの中で、空間と人間、空間と音、そうした関係にすごく興味を持った。
そこで琵琶を真剣にお稽古すると言うよりも、この琵琶で何が出来るだろうと思って、実験的なものをやって行こうと思って、早稲田大学も琵琶サークルの演奏会を開いて、近代が生んだもの、照明を無くして、演奏会をやったりした。
田中之雄先生に基礎から教えてもらおうと、門戸を改めて叩いて、古典をきちっと学ぼうと考えた。
琵琶の基本はきちっとした姿勢であり、正面を見て打弦をするのに、1年以上かかったのではないかと思う。
卒業する直前、2005年にノーベル平和賞を受賞されたワンガリ・マータイさんのまえでの演奏だった。
木が奏でる演奏に大変感動されていました。
琵琶の道を一生やっていこうと圧倒されたのが、大学4年 地元の老人ホームで演奏しようと思って、演奏した時に、涙を流して聞いてくださった人の言葉に、一生この琵琶と付き合って行こうと、その時に決意しました。
就職も断って、2005年3月に佐賀の地に戻ってきました。
熊本全国邦楽コンクールに出場することになり、古典曲の中で西郷隆盛しかないと思い、自分は西郷隆盛に成りきって演奏したら、、自分ではない様な感覚があって、終わったときに、いい賞を頂いて、古典曲にゆかりのある土地で、琵琶の音色をその土地に返して行こうと、その土地にまつわる先人達を物語ることで、供養ができれば、鎮魂ができれば、全国鎮魂供養ツアーと言う言葉がワーと湧いてきた。
西郷隆盛を鹿児島県で演奏することを皮きりに、2007年、白虎隊を会津若松の白虎隊の墓前で演奏し、翌年、義経、平泉で、翌年善光寺で川中島 翌年壬生寺で新撰組、自分自身沢山の種をまいてきました。
かつての琵琶法師の役目として、亡くなった方を鎮魂する、供養する、地鎮祭で土地をおさめる、そうしたときに琵琶を演奏してきたと言う歴史があると言う事が、私のどこかに在ったんでしょうね。
それでその発想が生まれたのだと思います。
琵琶の音色を聞いて下さってる方の背中の後ろにいる、先人たちに向けて演奏します、だから皆さんその思いをくみ取っていただくのと、聞いた後心がすがすがしく、清らかな気持ちになる様願いながら演奏します、と言葉を掛けて演奏しますが、そういう気持ちになったよと、声を掛けてくださいます。
2011年3月11日 かつて災害時に琵琶法師たちは祈りを込めて琵琶を演奏してきた歴史があると言う事がふつふつと湧いてきて、風に向かって、大地に向かって、山に向かって、兎に角一音でもいいから琵琶を奏でなさいと、祖母から言われた。
稽古場から外に出て、3月12日 琵琶の音色を一音ずつつむぎ始めた。
どうかこの国が琵琶の音色で収まります様に弾きなさいと、祖母が言ったので演奏していたら私の口からついて出たものが、私が幼少の頃仏壇の前で祖父母が毎朝、毎晩唱えていた般若心経だったんです。
琵琶とお経を組み合わせて私は琵琶教を作った。(般若心経と共に演奏する)
まさにこれが供養、鎮魂ですねと、声を掛けてくださいました。
この琵琶教は自然に生まれた様な感覚があります。
私はいろんなお寺に行きますが、宗派を越えて行きます。
浄土宗との御縁があった時には、2011年に宗祖、法然 800年大遠忌の際に法然上人の7曲奉納演奏したり、道元さんの曲を書いてくださいとか、お釈迦様の曲を書いてくださいとの話も来ているので、これから創作をしてゆくところです。
声の稽古、東京にいるころは、思い通りに声をだせなかった。(住環境の問題)
佐賀では、自然が、田んぼの中で、風が、土が私の声を作ってくれたのかと思います。
琵琶の基本は語り。 声に出すと言う事で心は安定してくる。
「声はこれ念なり 念は即ちこれ声なり 声はこれ念なり 念はすなわちこれ声なり 声と言うものは今の心を表す」 法然上人の言葉
祖父母が大地の自然の神々に手を合わせて、仏壇の御先祖様に手を合わせる。
習慣として背中で語ってくれていた様に思う。
仏壇の前に座った時、「おはようございます」 「今日は有難うございます」声を出して云いなさいと、幼少のころから祖父母から言われていた。
祖父母が言っていたことと、法然上人が言っていたことが、重なると私の中では眼から鱗のことでした。
「念ずれば花開く」 念と言う字も今の心は声であるという事になるると、声を出して思いを届けた方が、より相手の内側に入り込めるかもしれない。
琵琶の音と書いて私は声と読むんですね、声として届けたいと言う想いはある。
私は国と国をつなぐ外交官を夢見ていたが、今は眼に見える世界と眼に見えない世界、この世とあの世、生きているものと亡くなったものなどをつなぐ役、外交をしていると言う様な気持でいる。
「川中島」を善光寺で演奏したときに、上杉謙信と武田信玄が本当に聞いてくれていると言う様な深い歴史があったと言う感動と、感激があった。
是非古典に触れ得ることによって、先人たちへの回路、通路を開いてくれるのが古典だと言いたい。
琵琶の音の振動を「さわり」と言うが、琵琶と三味線にしかない特徴。
西洋人は「さわり」を耳触りと言うが、そのさわり、自然の雑音迄も楽器に取り込む、全てをうけ入れると言うのが日本人、仏教もそうです。
いろんな宗派があってもいいが、受け入れてゆく。
ペルシャを起源として、東に渡ったのが琵琶、西に渡ったのが、ギター、マンドリン。
ギターとかには「さわり」はない。 綺麗な、しっかりした、はっきりした音を奏でる。
「さわり」を取り除いた。
琵琶少年、少女を作りたい。
琵琶は田中先生、そのうえには鶴田錦史先生がいて その上には多くの師匠達がいるので、琵琶の奏法、語り方などは北原香菜子で止めてはいけないので、次世代に渡してゆくと言うのを夢として持っている。
琵琶とアニメーションを組み合わせて、ビワニメーションと言う事を考えて、発信してゆきたいと考えている。
ジャンルの越境をやって化学反応を楽しみたいと言う事はあります。
2014年11月25日火曜日
竹村牧男(東洋大学学長) ・ 仏教は心の世界遺産
*まだ左手の親指先、人指し指先に常時痺れがあり、朝には掌にむくみがあり、揉んでいるうちにむくみが取れるような状況ですが、1~2週に一話程度選択して(無理しない程度で)ぼつぼつ再開しようと思います。
いつ完治するか判りませんが、例え完治しても以前の様に毎日とはいかないと思いますので、御了解下さい。
秋田
竹村牧男(東洋大学学長) 仏教は心の世界遺産
1948年生まれ 66歳 40年以上に渡って仏教の研究を続け、日本を代表する仏教学者のおひとりです。
高校時代から日本の文化の背景に在る仏教に意味を持った竹村さんは、東京大学文学部インド哲学科に進学、学生時代は座禅修行に打ち込みました。
その後文化庁の専門委員、筑波大学教授を経て、現在は東洋大学の学長を務めています。
子供時代は凄く貧しい家でした。
4つの時に父が亡くなり、母が働いて私たち4人の子供を育ててくれました。
仏教に興味を持ったのは、高校の国語の試験で唐木 順三の文章が出た時でした。
凄く美文調で非常に心に残る文章だった。
それから唐木 順三の本を読んで、道元、一遍とか、また様々な思想を学んだ。
岡潔の書物を読んで、すごく感激した。
心の問題とか、日本的な伝統の事、仏教の事を非常に熱く語っていて、心に響いた。
岡潔は道元とか、弁栄上人(浄土宗 光明主義を唱える)の念仏を実践された方です。
念仏を唱えて精神統一されて、そして数学の困難な問題を解かれたと言っても過言ではない。
仏教を勉強したいと思って、と言うことで東京大学の文学部に入って、インド哲学科入った。
駒場で坐禅のサークルに直ぐに入った。
毎月13日に中川 宋淵老師が来られて法話を聞いたり坐禅をしたりした。
秋月 龍珉先生が禅の私塾を開いていることを知って、神楽坂に通う様になった。
これが基盤に成っていると思う。
秋月 龍珉は日本の禅を世界に伝えた鈴木大拙に教えを受けられた方。
坐禅 調身調息調心 身体を整え、呼吸を整え、心を整える。
心を整える時には、緩やかに整えた呼吸を心の眼で見つめる。
心を集中してゆく、統一してゆく、そして三昧に入る。(精神統一された状況)
数息観→静かに自分の息を勘定する修養の方法
大学を出て出版社に務めたが、或る先生から手紙が来て、戻ってこないかと言われて、大学に戻って研究する事になる。
博物館、美術館で仏像展をすると、凄く賑わう。
意識しなくても、仏教の世界観、宇宙観とか、そういうものを呼吸しているのではないかと思う。
文化の中にそういったものが浸透して行って、知らず知らずのうちにそういうものの見方、考え方になじんでる。
大きく 大乗仏教(密教も入る)、小乗仏教(東南アジア等に広がっている)に分けられる。
日本の仏教は大乗仏教ですが、修行方法でかなり多様に分かれている。
念仏、題目を唱える、坐禅など 行、ないしは信仰の信 内容によってかなり宗派的に別れている。
インドから段々に伝わってきて発展するが、発展した最後の形態が伝わっているので、非常に高度な仏教が日本には残されていると同時に、末法思想があるが、お釈迦様の時代から離れるほど人間の能力の衰え、社会も濁ってくる。
修行方法が用意されているが、修行もなかなか出来ない、その修行ができないものがいかに救われるのかというのが日本の仏教の課題になっている。
深いが簡単な形で救われる道がいくつも用意されている。
日本仏教の独特な特徴だと思います。
唯識 世界は心が表しだしただけだという、考え方の思想があるが、実はこれが大乗仏教の共通の世界観になっている。
唯識の思想は非常に精緻な論理的な体系で語られている。
如来像思想 皆本来仏であるが、無明、煩悩に覆われていてそれを自覚出来ない。
発展した高度な教理を受け継いでると言うところに、奥深いものがある。
唯識 世界は自分の心が表しだしただけだという、外界にそのものとしての本体、あるものがあるわけではないという考え方。
例えば机、見える姿形として無いわけではない。 机、本体はあるか、ばらせば机ではない、燃やせば無くなるわけで、机と言う本体がある訳ではない。
言葉を使う事で無意識のうちに言葉に見合う、なんかそういうものがあると、永遠不変なものがあると、つい思ってしまう。
日常的にはそう思い込み、執着し、苦しんでいると言う様な事がある。
自分と言う存在もそう、自分と言う本体があると思いこんでいるが、本当にあるのかという問題になる。
かけがえのない主体が発揮されているが、常住(永遠不変なこと)なる自我があるとは言えない。
般若心経で 「色即是空 空即是色」
本体は持たないけれども、現象としてあるという意味合い。
空であるがゆえに色として成りたっている。 色は物質的な現象の事を意味する。
「受想行識 亦腹如是」
唯識は、我々があると思っているものが実は映像にすぎない、心が表しだしたものにすぎない。
心を、我々が自覚していない心の世界がある。
五感の感覚、意識、判断、未来のことを思ったり、過去の事を思ったりする、意識のさらに奥に末那識があり、更に奥に阿頼耶識がある。
末那識は常に自我に執着している。 寝ている時のも末那識が働いている。
夢は第六識の世界。
阿頼耶識は過去一切の経験を貯蔵している世界だと言われる。(無意識の世界)
生じては滅し、生じては滅しながら相続されている。その上に生死輪廻が行われている。
六道輪廻 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上
生死輪廻は阿頼耶識の上に、それまでおこなった行為の情報が蓄えられて、その行為の善なる性質、悪なる性質によって、次の世にどこに生まれるかが決まってくるという。
阿頼耶識の中に世界に生きる個体、人間界なら人間界と言う世界と、人間としての個体が、阿頼耶識の中に又一定期間現れる。
寿命がくるとそれが消えるが、阿頼耶識は相続する。
また次の世の世界と生き物になる。
人間の存在は八識から成り立っている。(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)
八識の中に人間としての世界も人間としての身体もある。
瑜伽行(ゆがぎょう)派と言う学派に於いて形成された。
自我に執着してとらわれ、物に執着してとらわれ、苦しみが生じている。
それを如何に越えて、しかも本来の命を如何に発揮するか、其れを導くために世界はこうなっているんですよ、だから執着している、いわれのないことでしょう、意味のないことでしょう、そこから解放されてくださいと、そういう意味で造られている。
自分とは一体何なのか、昔の人もそれを一生懸命追求してきた。
今の人の方が外のものばかり眼が奪われて、外のものばかり追いかけて、自分を見失っているのではないか。
小乗仏教は自分の問題の解決しか求めない。
大乗仏教はそれを批判した。 他者が苦しんでいる現実がある。
他者の事を放っておいていいのか、そもそも自分の存在は他者とのかかわりの中に成立している。
大乗仏教は自分はともかく他者の苦しみを何とか救いたい、減らしたいと、他者も自分も同じように自分を越える仏の命からもたらされた命であり、他者が苦しんでいるのなら何とか他者の為に働いて行くと言う思い、行動がでてくる。
お釈迦様は紀元前383年に亡くなられた。 仏教文学
「本生譚」 如何に人のために身をささげたか、とかそういった話になっている。
その中の一つにずっと以前,お釈迦様はうさぎさんだった、と言う話がある。
かわうそとか仲間がいて、或る日 バラモンさんが来るので、供養しようとそのための食べものを探してきましょうと言う事で、友だちはうまく探せて用意できたが、うさぎは探すことができなかった。
バラモンさんが来た時に、うさぎさんは供養するものが見つけることができなかったので、焚火を用意して、その中に飛び込むので私の肉を食べてくださいと、飛び込んだという話がある。
実はうさぎはお釈迦様の過去生だった、バラモンは実は帝釈天という神様で、飛び込んだ瞬間に姿形を現わして、受け止めて、お前は大変良いことをした、お前の善行は長く世に伝えなくてはいけない、月にお前の姿を書いておこうと、いうんで月にうさぎがうつったという物語がある。
イエスは皆に代わって苦しみを受ける。 代受苦
浄土教 阿弥陀様は皆を救いたいと、その為に一生懸命に、計りしれない長い間、苦行に苦行を重ねて仏になられて皆を救っている。
皆は南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる。 一種の代受苦の思想。
法華経の話の中の仏様にも、イエスの代受苦と似たような話がある。
仏教の一番根本は、無我 常住成る自我は存在しない。
かけがえのない命の働きはあると思うが、我々がしがみついている様な変わらない本体としての自分と言うものは無いという、無我の思想。
無我と言うものを根本として、そこからあらゆるものを見てゆく、これは今後の時代を切り開く重要な原理になると、私などはそう思っている。
社会の仕組み成りたち、今非常に競争社会になっている。
なんか追い立てられている。
非常に行きすぎた個人主義に基づく競争原理がグローバルスタンダートとして世界を席巻しているのではないかと思うが、東日本大震災などで再び自覚されたように、人間の絆は大事じゃないかと、人と人とのつながりからものを見てゆく、考えてゆく、繋がりの中で成立し得ている自己、他者も含めてそういう視点は或る種、無我の思想につながっている。
鈴木大拙は真空妙有と言う言葉を言っている。
空の中から尽きない、無限の働きがでてくる。
見返りを求めたり、手柄を立てて名誉を求めたりとかにとらわれない、ただ無心に働く。
やってやったんだから報酬をくれとか、ついそういう事になりがちだが、本当に純粋の働きではない。
本当の自由の働きでもない、自由はまさに本来の自己の働きとして行うところに自由があるわけで
そういうところを重んじた。
他者のことをよく考えながら、自己のことも考えてゆく。
自分さえ成功すればいいと言うわけではない。
環境問題との関係から言えば、自然を大切にすると言うか、自然と共生する事も大事ですが、環境問題は世代間倫理という問題を引き起こしていると思う。
我々の世代だけで環境、資源を消費しつくしていいのだろうか、未来世代の人たちに豊かな環境を残さなくていいのか、我々は未来世代の人のためにどう行動すべきか、考えないといけない。
現にいる他者のために何をするかと言う事だけではなくて、いまいないのだけれども、未来世代の人のために何をすべきかを、真剣に考えなければいけない。
人間と人間の、空間的なだけでなく、時間的な繋がり、眼に見えない絆、其れが根本にあるんだと、その中でどう考えるのか、と言う様な事につながると思うんです。
宗教はいろんな捉え方があると思うが、己事究明 己を究明する。
仏教はそこに多くの材料を提供していると思う。
一番根本のレベルは、生死の問題
社会的にいじめを受けて皆から無視されたとか、自己が絶対的に否定されたとか、言う様な局面も無いわけではない。
悩みにどう対処すればいいのか、教えてくれていると思うが、悩みの根源、そもそも自己とは何か、の解答を下さるのが仏教ではないでしょうか。
哲学としての仏教という側面があるわけです。
宗教としての仏教 倫理としての仏教 この三部作を書きたいと思っている。
いつ完治するか判りませんが、例え完治しても以前の様に毎日とはいかないと思いますので、御了解下さい。
秋田
竹村牧男(東洋大学学長) 仏教は心の世界遺産
1948年生まれ 66歳 40年以上に渡って仏教の研究を続け、日本を代表する仏教学者のおひとりです。
高校時代から日本の文化の背景に在る仏教に意味を持った竹村さんは、東京大学文学部インド哲学科に進学、学生時代は座禅修行に打ち込みました。
その後文化庁の専門委員、筑波大学教授を経て、現在は東洋大学の学長を務めています。
子供時代は凄く貧しい家でした。
4つの時に父が亡くなり、母が働いて私たち4人の子供を育ててくれました。
仏教に興味を持ったのは、高校の国語の試験で唐木 順三の文章が出た時でした。
凄く美文調で非常に心に残る文章だった。
それから唐木 順三の本を読んで、道元、一遍とか、また様々な思想を学んだ。
岡潔の書物を読んで、すごく感激した。
心の問題とか、日本的な伝統の事、仏教の事を非常に熱く語っていて、心に響いた。
岡潔は道元とか、弁栄上人(浄土宗 光明主義を唱える)の念仏を実践された方です。
念仏を唱えて精神統一されて、そして数学の困難な問題を解かれたと言っても過言ではない。
仏教を勉強したいと思って、と言うことで東京大学の文学部に入って、インド哲学科入った。
駒場で坐禅のサークルに直ぐに入った。
毎月13日に中川 宋淵老師が来られて法話を聞いたり坐禅をしたりした。
秋月 龍珉先生が禅の私塾を開いていることを知って、神楽坂に通う様になった。
これが基盤に成っていると思う。
秋月 龍珉は日本の禅を世界に伝えた鈴木大拙に教えを受けられた方。
坐禅 調身調息調心 身体を整え、呼吸を整え、心を整える。
心を整える時には、緩やかに整えた呼吸を心の眼で見つめる。
心を集中してゆく、統一してゆく、そして三昧に入る。(精神統一された状況)
数息観→静かに自分の息を勘定する修養の方法
大学を出て出版社に務めたが、或る先生から手紙が来て、戻ってこないかと言われて、大学に戻って研究する事になる。
博物館、美術館で仏像展をすると、凄く賑わう。
意識しなくても、仏教の世界観、宇宙観とか、そういうものを呼吸しているのではないかと思う。
文化の中にそういったものが浸透して行って、知らず知らずのうちにそういうものの見方、考え方になじんでる。
大きく 大乗仏教(密教も入る)、小乗仏教(東南アジア等に広がっている)に分けられる。
日本の仏教は大乗仏教ですが、修行方法でかなり多様に分かれている。
念仏、題目を唱える、坐禅など 行、ないしは信仰の信 内容によってかなり宗派的に別れている。
インドから段々に伝わってきて発展するが、発展した最後の形態が伝わっているので、非常に高度な仏教が日本には残されていると同時に、末法思想があるが、お釈迦様の時代から離れるほど人間の能力の衰え、社会も濁ってくる。
修行方法が用意されているが、修行もなかなか出来ない、その修行ができないものがいかに救われるのかというのが日本の仏教の課題になっている。
深いが簡単な形で救われる道がいくつも用意されている。
日本仏教の独特な特徴だと思います。
唯識 世界は心が表しだしただけだという、考え方の思想があるが、実はこれが大乗仏教の共通の世界観になっている。
唯識の思想は非常に精緻な論理的な体系で語られている。
如来像思想 皆本来仏であるが、無明、煩悩に覆われていてそれを自覚出来ない。
発展した高度な教理を受け継いでると言うところに、奥深いものがある。
唯識 世界は自分の心が表しだしただけだという、外界にそのものとしての本体、あるものがあるわけではないという考え方。
例えば机、見える姿形として無いわけではない。 机、本体はあるか、ばらせば机ではない、燃やせば無くなるわけで、机と言う本体がある訳ではない。
言葉を使う事で無意識のうちに言葉に見合う、なんかそういうものがあると、永遠不変なものがあると、つい思ってしまう。
日常的にはそう思い込み、執着し、苦しんでいると言う様な事がある。
自分と言う存在もそう、自分と言う本体があると思いこんでいるが、本当にあるのかという問題になる。
かけがえのない主体が発揮されているが、常住(永遠不変なこと)なる自我があるとは言えない。
般若心経で 「色即是空 空即是色」
本体は持たないけれども、現象としてあるという意味合い。
空であるがゆえに色として成りたっている。 色は物質的な現象の事を意味する。
「受想行識 亦腹如是」
唯識は、我々があると思っているものが実は映像にすぎない、心が表しだしたものにすぎない。
心を、我々が自覚していない心の世界がある。
五感の感覚、意識、判断、未来のことを思ったり、過去の事を思ったりする、意識のさらに奥に末那識があり、更に奥に阿頼耶識がある。
末那識は常に自我に執着している。 寝ている時のも末那識が働いている。
夢は第六識の世界。
阿頼耶識は過去一切の経験を貯蔵している世界だと言われる。(無意識の世界)
生じては滅し、生じては滅しながら相続されている。その上に生死輪廻が行われている。
六道輪廻 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上
生死輪廻は阿頼耶識の上に、それまでおこなった行為の情報が蓄えられて、その行為の善なる性質、悪なる性質によって、次の世にどこに生まれるかが決まってくるという。
阿頼耶識の中に世界に生きる個体、人間界なら人間界と言う世界と、人間としての個体が、阿頼耶識の中に又一定期間現れる。
寿命がくるとそれが消えるが、阿頼耶識は相続する。
また次の世の世界と生き物になる。
人間の存在は八識から成り立っている。(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)
八識の中に人間としての世界も人間としての身体もある。
瑜伽行(ゆがぎょう)派と言う学派に於いて形成された。
自我に執着してとらわれ、物に執着してとらわれ、苦しみが生じている。
それを如何に越えて、しかも本来の命を如何に発揮するか、其れを導くために世界はこうなっているんですよ、だから執着している、いわれのないことでしょう、意味のないことでしょう、そこから解放されてくださいと、そういう意味で造られている。
自分とは一体何なのか、昔の人もそれを一生懸命追求してきた。
今の人の方が外のものばかり眼が奪われて、外のものばかり追いかけて、自分を見失っているのではないか。
小乗仏教は自分の問題の解決しか求めない。
大乗仏教はそれを批判した。 他者が苦しんでいる現実がある。
他者の事を放っておいていいのか、そもそも自分の存在は他者とのかかわりの中に成立している。
大乗仏教は自分はともかく他者の苦しみを何とか救いたい、減らしたいと、他者も自分も同じように自分を越える仏の命からもたらされた命であり、他者が苦しんでいるのなら何とか他者の為に働いて行くと言う思い、行動がでてくる。
お釈迦様は紀元前383年に亡くなられた。 仏教文学
「本生譚」 如何に人のために身をささげたか、とかそういった話になっている。
その中の一つにずっと以前,お釈迦様はうさぎさんだった、と言う話がある。
かわうそとか仲間がいて、或る日 バラモンさんが来るので、供養しようとそのための食べものを探してきましょうと言う事で、友だちはうまく探せて用意できたが、うさぎは探すことができなかった。
バラモンさんが来た時に、うさぎさんは供養するものが見つけることができなかったので、焚火を用意して、その中に飛び込むので私の肉を食べてくださいと、飛び込んだという話がある。
実はうさぎはお釈迦様の過去生だった、バラモンは実は帝釈天という神様で、飛び込んだ瞬間に姿形を現わして、受け止めて、お前は大変良いことをした、お前の善行は長く世に伝えなくてはいけない、月にお前の姿を書いておこうと、いうんで月にうさぎがうつったという物語がある。
イエスは皆に代わって苦しみを受ける。 代受苦
浄土教 阿弥陀様は皆を救いたいと、その為に一生懸命に、計りしれない長い間、苦行に苦行を重ねて仏になられて皆を救っている。
皆は南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる。 一種の代受苦の思想。
法華経の話の中の仏様にも、イエスの代受苦と似たような話がある。
仏教の一番根本は、無我 常住成る自我は存在しない。
かけがえのない命の働きはあると思うが、我々がしがみついている様な変わらない本体としての自分と言うものは無いという、無我の思想。
無我と言うものを根本として、そこからあらゆるものを見てゆく、これは今後の時代を切り開く重要な原理になると、私などはそう思っている。
社会の仕組み成りたち、今非常に競争社会になっている。
なんか追い立てられている。
非常に行きすぎた個人主義に基づく競争原理がグローバルスタンダートとして世界を席巻しているのではないかと思うが、東日本大震災などで再び自覚されたように、人間の絆は大事じゃないかと、人と人とのつながりからものを見てゆく、考えてゆく、繋がりの中で成立し得ている自己、他者も含めてそういう視点は或る種、無我の思想につながっている。
鈴木大拙は真空妙有と言う言葉を言っている。
空の中から尽きない、無限の働きがでてくる。
見返りを求めたり、手柄を立てて名誉を求めたりとかにとらわれない、ただ無心に働く。
やってやったんだから報酬をくれとか、ついそういう事になりがちだが、本当に純粋の働きではない。
本当の自由の働きでもない、自由はまさに本来の自己の働きとして行うところに自由があるわけで
そういうところを重んじた。
他者のことをよく考えながら、自己のことも考えてゆく。
自分さえ成功すればいいと言うわけではない。
環境問題との関係から言えば、自然を大切にすると言うか、自然と共生する事も大事ですが、環境問題は世代間倫理という問題を引き起こしていると思う。
我々の世代だけで環境、資源を消費しつくしていいのだろうか、未来世代の人たちに豊かな環境を残さなくていいのか、我々は未来世代の人のためにどう行動すべきか、考えないといけない。
現にいる他者のために何をするかと言う事だけではなくて、いまいないのだけれども、未来世代の人のために何をすべきかを、真剣に考えなければいけない。
人間と人間の、空間的なだけでなく、時間的な繋がり、眼に見えない絆、其れが根本にあるんだと、その中でどう考えるのか、と言う様な事につながると思うんです。
宗教はいろんな捉え方があると思うが、己事究明 己を究明する。
仏教はそこに多くの材料を提供していると思う。
一番根本のレベルは、生死の問題
社会的にいじめを受けて皆から無視されたとか、自己が絶対的に否定されたとか、言う様な局面も無いわけではない。
悩みにどう対処すればいいのか、教えてくれていると思うが、悩みの根源、そもそも自己とは何か、の解答を下さるのが仏教ではないでしょうか。
哲学としての仏教という側面があるわけです。
宗教としての仏教 倫理としての仏教 この三部作を書きたいと思っている。
2014年11月15日土曜日
その後の状況
皆さまへ
症状は当初私が思っていたよりも、重くて、主にパソコン作業の悪い姿勢が原因で、脊椎にダメージを与えていた様で、現時点ではいつ頃再開できるかどうか、不明です。
何とか再開出来るようにとは思っているのですが、じっくり養生するしかないようです。
秋田
症状は当初私が思っていたよりも、重くて、主にパソコン作業の悪い姿勢が原因で、脊椎にダメージを与えていた様で、現時点ではいつ頃再開できるかどうか、不明です。
何とか再開出来るようにとは思っているのですが、じっくり養生するしかないようです。
秋田
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